「フリーペーパーの衝撃」

公開日;2008年2月24日

 朝日新聞の稲垣太郎氏の書いた「フリーペーパーの衝撃」(集英社新書)には、本当に驚かされました。腰を抜かされたと言っていいのかもしれません。大変な時代になってきているんですね。

 

 フリーペーパーとは、ただで配られるか、首都圏では駅の構内に設置されたラックに無造作に置かれている新聞や雑誌のことです。「ただほど高いものはない」と昔から言われてきましたが、フリーペーパーと言っても今では馬鹿にできなくなりました。有料誌より高価な紙に印刷されたり、有名な俳優やタレントもどしどし出てくるし(恐らく高額のインタビュー料をもらっているのかもしれません)、一流の作家も執筆したりしているのですから。

 

 今や、全国で千二百紙誌も発行され、年間で約三億部も出ているというのです。

 

フリーペーパーの収入は広告のみに依存しているため、広告主の「御意見」に左右され、言論機関としての公平性や客観性がないとも言われています。テレビの民放と同じです。車がスポンサーのドラマに、絶対に交通事故のシーンは出てきません。もし、あったら脚本の段階で書き直しを命じられます。

 

それと同じです。

 

フリーペーパーがジャーナリズムかどうかについては、意見の分かれる所でしょう。

しかし、有料紙誌が絶対的にスポンサーに左右されない純粋なジャーナリズムかといえば、そうでもないのです!

 

 海外では多くの先進国で「新聞は無料で読むもの」という常識が定着しているらしく、日刊無料紙が五十二カ国、総発行部数四千二百万部もあるというのです。

 その代表的名な無料紙に1995年にストックホルムで創刊された「メトロ」があります。その「メトロ」を創案したスウェーデン人ジャーナリストのアンデション氏は「有料紙も無料紙も同じものを売っています。記者は読者が読むための記事を提供し、その引き換えに読者から読むために費やす時間をもらう。その読者から得た時間を広告主に売っているに過ぎないのです」という自論を展開しています。

 今や若者は、ネットでただでニュースを読んでいます。記者が靴の底を減らして足で稼いでせっせと記事にしているのに、居ながらにして、高みの見物をするのが当たり前の時代になってきたのです。

 ネットでできるのですから、当然、紙媒体でもできるはずです。それが、フリーペーパーなのです。

 そのうち、有料紙誌というものは、どんどん衰退していくことでしょう。

 「え?昔の人は、お金を出して新聞を読んでいたの?」と驚かれる時代がくるのかもしれません。

「Jポップを創ったアルバム1966-1995」

公開日時: 2008年2月6日

私の敬愛する音楽評論家の北中正和さんが、新著「Jポップを創ったアルバム 1966~1995」(平凡社)を出されました。

 

北中さんといえば、ワールド・ミュージックの紹介者として90年代の日本に一大ブームを作った人なのですが、洋楽通で、ジョン・レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」のライナーノーツも書かれているし、ジョンの訳書も出されているので、私としては、もう憧れに近い人なのです。

 

ですから、この本を読んで、北中さんが、これほど「Jポップ」を聴かれていたとは驚きでした。もっとも、北中さんには「「にほんのうた・戦後歌謡曲史」という名著があり、洋楽だけではなく、かなり日本の曲も聴いていらっしゃることは知っていました。

 

しかし、音楽評論家とはいえ、その人の趣味がかなり入り込み「俺は、ジャズしか聴かねえ、歌謡曲なんか滅相もない」「俺はラップしか音楽じゃないと思っている」「メタルだね。それ以外はロックじゃない」と皆さん偏った人ばかり。音楽全般トータルに語れない音楽評論家が大半なのです。

 

その点、北中さんは、すごいですね。洋楽、歌謡曲、ワールドミュージック、Jポップと、世界のポピュラーミュージックを語れる数少ない人なのです。

 

この本には69枚のアルバムが紹介されていますが、この中で私が買ったアルバムは、竹内まりやの「ヴァラエティ」のわずか一枚だけでした。人から借りたりして聴いたものでも5枚ぐらいでした。知らないミュージシャンがほとんどでした。

同時代なのに、いかに偏って聴いてきたか分かりました。

私の場合、ビートルズ、ストーズ、ツェッペリン、ディープ・パープルといったブリティッシュ・ロック系か、ビル・エヴァンス、ウエス・モンゴメリーといったジャズ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスらのクラシック、その辺りを好んで聴いてきました。

 

でも、こうして、幅広い音楽知識に裏付けられた北中さんの本を読んでみると、聴きたくなってしまいますね。

食べ物でも、「夏目漱石も通った洋食屋」なんていう情報があると、是が非でも行ってみたくなるように、結局、音楽だって、そういう前知識というか情報があると、より納得できるので、脳で聴いていることになるんですよね。

 

ただ音を聴いているだけじゃなくて、ミュージシャンの経歴と生き様を思い浮かべながら、付加価値も聴いているのです。

決断は5分以内で!

 

 

 

私の悩みの大半は、あれか、これか、どちらかの道を選ぶことで迷うことにあります。

結局、どちらも優劣付けがたく、あれもこれも両方やってしまい、大変な労力と時間を要することがしばしばなのです。

もしくは、「石橋を叩いても渡らない」慎重な性格なため、そのまま、何もしないことも多いかもしれません。

とにかく、優柔不断でグズグズ悩んでしまいます。

そんな時、英語仲間のSさんが、ビジネス誌「プレジデント」今月号で、素晴らしいことを発言されていました。

同誌によると、Sさんは、学生時代から、毎年「25ヵ年計画」を立てて、1分1秒の狂いもなく、有言実行で計画を進めておられるのです。こうして、アメリカの大学でMBAを修得され、日本の国立大学で博士号まで取得され、今回、通訳案内士の資格まで獲得されました。将来、医学関係で同時通訳することが夢なのだそうです。

現在、ご自分で製薬会社を起業され、その会社の社長さんで、時間に追われる仕事に従事されていますが、パソコンを2台使って、同時進行で、仕事を進められているスーパーマンです。

そのSさんは、「決断には時間を掛けない」というのです。どんな課題でも5分以内で決断されるそうです。

「5分以内の決断で80点なら、それ以上の時間を掛けて100点取るより正しい決断だと思う」と、自信満々に語っておられます。

うーむ、すごい参考になりました。

 

私の場合、ランチを何にしようかという低レベルなことが多い(笑)のですが、是非とも、5分以内に決着付けることに致します。

豊かさの探求

  昨日は、「信長の棺」でベストセラー作家になった加藤廣さんのお話を聴きに行きました。講演会ではなく、小さな勉強会で、参加者は20人もいなかったでしたが、本当にもったいなかったです。今の加藤さんなら2000人くらいの中ホールでも簡単に満員にさせることができるからです。

 

「豊かさの探求」がテーマでした。これは、加藤さんが、サラリーマン時代の20年前に書いた本に加筆したものです。加藤さんは時代小説で世に出る前に十五冊ほど、経営コンサルタントとして本を書いてきましたが、この本が一番愛着があったそうです。

 

この本は昨年、新潮文庫から出ていますので、ご興味のある方は是非読んでください。

 

昨日の話で一番印象深かったのは、現在、「格差社会」が問題になっていますが、昔はそれどころではなかった。今の日本は、世界一格差が少ないというのです。

つまり、現在、新卒社員の初任給が20万円。社長は160万円。8倍の格差です。

しかし、昭和5年の新卒社員の年俸は1500円で、社長は16万円。つまり100倍以上の格差があったのです。

明治新政府の俸給に17階級あり、最高が三条実美の1500円、最低の巡査が12円と千倍以上の格差があったということです。12円の巡査が貧民だったかというとそうではなく、ちゃんと1軒家を持ち、女中を使い、才覚があれば二号さんも持てたというのです。

なぜ、戦後、こんなに格差が少なくなったかというと、GHQの政策の影響だったそうです。累進課税を強化し、富裕税をかけ、日本の金持ち階級を一掃してしまったというのです。

豊かさの探求ですが、人生の豊かさで大切なことは「MIT」なんだそうです。マサチューセッツ工科大学のことではありません。Mはmoney (お金)、Iは intelligence(知性)、 Tは time(時間)で、それらの掛け算で豊かさは決まるというのです。お金や知性だけあっても駄目です。時間がなく、つまり、ほとんどの時間を仕事に取られ、日本人のサラリーマンの多くは家庭崩壊の危機にさらされています。

「仕事に人生を入れるな。人生に仕事をいれなさい」というのが、加藤さんはアドバイスでした。

もっと、知りたい方は、本をお読みくださいね。

【追記】皆さん、コメント有難うございます。お一人お一人に御礼を述べることができないので、茲で感謝申し上げます。

「できる人の勉強法」

 

 

公開日;2008年1月8日

TOEIC990点満点、英検1級、通訳案内士、国連英検特A級等を取得している予備校講師・安河内哲也氏の「できる人の勉強法」(中経出版)によると、結局、勉強(特に語学学習)とは、「反復」と「繰り返し」に尽きるそうです。

彼の言う「反復」とは、スパイラル方式で、寝る前に一度覚えたことを翌朝に復習したり、忘れた頃に何度も「メインテナンス」を行ったりすることです。こうすることによって、記憶が定着します。

 

ドイツの心理学者エビングハウスが1885年に発表した「忘却曲線」というものがあります。

一度覚えても、ヒトは、30分後にその40%を忘れ、

一日経つと、66%忘れ、

3日後は75%、

30日後は80%も忘れてしまうというのです。

つまり、1ヶ月経つと、わずか20%しか脳に残っていないのです。

 

それでも、試験に合格するためにはとにかく暗記しなればなりません。

年を取るとなかなか覚えづらくなってきますが、彼によれば、ほんの4、5回で覚えられなくても諦めてはいけないというのです。10回どころか、50回、100回と何度も同じことを「繰り返し」て暗記するしかないというのです。

それには「音読」が一番だそうです。

机に向かって覚えていてはすぐ飽きてしまうので、まず、立って音読、次に座って音読、今度はCDなど耳から覚え、もう一度音読して、今度は身振り手振りを使って音読していく。

こうしてやっと「身に着く」といいます。

私自身、誰もが認めない神童でしたが、一度ざっと見ただけで、教科書も洋楽の歌詞もすぐ覚えられたものです。しかし、今ではさすがに、5回でも覚えられません。いや50回でも無理でしょう。100回やってやっと覚えられるという感じでしょうか。彼の理論は正しいです。

スポーツの能力もそれが身に着くまで、平均17・3年掛かるそうです。誰の説か、ラジオで聴いただけなので、聞き漏らしました。

イチローも5歳くらいから、毎日のようにバッティングセンターに通いつめて、同じようなことを「繰り返し」「反復」練習し、やっと、20歳を過ぎた頃に華が咲きました。

彼が、同じ味のカレーを毎日7年間も食べ続けることについて、私は以前「変質狂的」と書きましたが、決して悪い意味で書いていません。一種の才能なのです。単調な同じことを反復できるというのは才能なのです。同じカレーを7年間食べられる才能があるから、一流の野球選手になれるのです。普通の人なら野球の練習にしろ途中で飽きて投げ出して大成しません。それは芸術の世界でも、職人の世界でも同じでしょう。

「反復」と「繰り返し」を飽きずにやり遂げた人だけが成功するのです。

 

「部落史がかわる」

公開日;2008年1月19日

ここ数ヶ月読んだ本の中で、最も感動したものに、上杉聰著「部落史がかわる」(三一書房)があります。1997年初版の新刊本ですが、神保町でたまたま偶然に見つけ、思わず買ってしまったのです。そこには、私が全く知らなかった、誤解していたことを含めて是正する事柄がふんだんに書かれていました。

本当に興味深く、教えられることが大きかったでした。この名著を茲に翻案する力は私にはないのですが、差別される人々の根幹に関わる歴史的背景や起源が史料を元に説明され、目を見開かせられます。(同書は、同和問題を教える教職員向けに易しく書かれたようです)

例えば、こんなことが書かれています。

ちょうど「延喜式」が編纂された時代に漢学者・三善清行(のちの参議)は、醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」(914年)で次のように述べています。

…諸国の百姓・課役をのがれ、祖調をのがるる者、私に自ら髪を落とし、みだりに法服を着る。…

要するに、僧侶の格好をすることで、課役や税金を納めない輩が出没している世の風潮を著者が批判しているのです。それでは、この「延喜式」の時代はどういう時代だったのでしょうか?

それは、古代の律令制が崩壊し、班田収受を通して、祖・傭・調の税を徴収することや、兵役・労役を課すことが困難になった時代なのです。奴婢と呼ばれる奴隷(そう、日本の古代には奴隷制度があったのです!)が解放される時代でもあったのです。為政者は、この体制秩序崩壊の不安を「穢れ」などの宗教的観念を肥大させることによって乗り切ろうとしたのです。

つまり、差別の起源は江戸時代ではなく、中世にあったのです。

(奴隷制度は、古代の公奴婢にあったのでした。日本に奴隷制度があったという認識は私にはあまりなかったので勉強になりました)

為政者は、河原に住む人々に「清目」として、清掃作業を課します。

芸能もそうです。猿回しや獅子舞、神楽舞をはじめ、日本の伝統芸能の核ともいうべき能樂を大成した観阿弥、世阿弥親子も差別された出自だったのです。

作庭もそうです。いくら、天龍寺の庭園が夢窓疎石国師によって作られたと歴史的事実が伝えられたとしても、夢窓国師が実際、自らの手で大石を運んだり、池を掘ったわけではありません。差別された河原者たちが、駆り集められて実際の作業にあたったのです。

さらに、医療や産婆の職に携わる人もある地域では「藤内=とうない」と呼ばれ、差別の対象となったのです。(現代ではステータスと収入が高い医者が差別の対象だったとは知りませんでした)

占術師、陰陽師、イタコといった人たちも「巫=みこ、かんなぎ」と呼ばれ、差別されました。

こうして、為政者は、人間の死体を処理(葬儀、葬送、墓堀)する人たち(非人)(隠亡=おんぼう)や動物の死体を処理したり皮革を加工したりする人たち(穢多)を隔離します。刑を執行する人たちもそうでした。

このように差別された人々は「穢れ」職業から離れる人(例えば、茶道の茶筅を独占的に作る職を与えられた人たちもいたそうです)もいましたが、住居と職業を差別することによって、近世ー近代に入っても差別され続けるのです。

要するに、このように差別は為政者の都合で発生したのです。こうして、差別の起源は京都にあり、全国に広がっていったことも著者は暴いていくのです。

いやあ、感服しました。非常にタッチイな話なのですが、為政者の都合で長年差別され続けた人たちの労苦を思うと、非常に感慨深いものがあります。

忠臣蔵は面白い!

12月14日の討ち入りは過ぎてしまいましたが、「サライ」12月20号の「忠臣蔵を旅する」特集は本当に面白かったです。討ち入りは元禄15年(1702年)12月14日。300年以上も昔なのに、文楽で取り上げられ、歌舞伎で取り上げられ、映画で取り上げられ、小説で取り上げられ、テレビで取り上げられ…。こんなに日本人が忠臣蔵が好きなのは何故なのか、興味深いところです。以前は、忠臣蔵はあまりにも取り上げられるので、食傷気味だったのですが、この雑誌を読んで、今まで知っているようで知らないことだらけだということを悟りました。

忠臣蔵には、史実とはかけ離れた芝居や脚色の世界では、陰謀あり、妬みあり、恋愛あり、何と言っても大願成就ありで、人物関係も複雑に入り組んでおり、語っても語っても語りつくせないところに魅力があるのでしょう。

何しろ、真実は分からないことだらけなのです。なぜ、浅野内匠頭長矩が松の廊下で刃傷事件を起こしたのか、真相は何もわかっていないのです。吉良上野介義央は、本当に悪者だったのか?以前、彼の領地だった愛知県播豆(はず)郡吉良町に行ったことがあるのですが、そこでは、吉良の殿様は、水害防止の堰堤を築いたりして、「名君」として知られていました。

こう書いてきて、漢字は読めましたか?浅野内匠頭長矩は、かろうじて「あさの・たくみのかみ・ながのり」は読めましたが、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の義央は一般的には「よしなか」と読みますが、地元吉良町では「よしひさ」と読むんだそうです。日本語は難しい。

大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)良雄にしても「よしかつ」とうろ覚えしていたのですが、「よしたか」とルビが振ってありました。

大石内蔵助が集めた討ち入りのメンバーは最初は120人ほどいたのですが、次々と脱落して、最後に参加したのは47人。このうち、吉田忠左衛門の足軽だった寺坂吉右衛門が引き揚げる途中で行方不明になっているんですね。「途中で逃亡したという説と広島に差し置かれた浅野大学(内匠頭の弟)への使者だったという弁護説があるが、真相は闇の中」(山本博文・東大史料編纂所教授)なんだそうです。

たまたま並行して読んでいる海野弘「秘密結社の日本史」(平凡社新書)にも秘密結社としての赤穂浪士のことが出てきます。

吉田忠左衛門は、大石内蔵助の参謀格で、軍学者近藤源八に兵法を学び、内蔵助の指令で江戸に出て、急進派の堀部安兵衛を説得し、新麹町に兵学者田口一真として道場を開き、同志の誓詞、神文の前書きなども作成したそうです。重要人物でした。

浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた原因については、朝廷の勅使の接待役になった内匠頭に礼儀作法を教えなかった吉良に対する恨みがあったという説が有力ですが、なぜ、吉良がいやがらせしたかについては、海野さんの著書によると、赤穂藩が賄賂を出さなかったという説から男色事件までさまざまあるようです。(男色事件とは内匠頭は男色趣味でも知られ、比々谷右近という小姓をかわいがっていたが、吉良がこの少年に惚れて譲ってほしいと頼んだが断られたという)

製塩をめぐる争い説は、製塩で莫大な裏金を作っていた赤穂の技術を吉良が聞き出そうとしたが、内匠頭は秘密だから断ったという話。(この説は、「サライ」では、吉良町内には塩田があったが、それは他領で吉良家の収入とは関係なかったので、否定されています)

さらに、すごい陰謀説は、南北朝の対立があるというものです。北朝派の将軍綱吉と南朝派の水戸黄門が対立しており、吉良は北朝派、浅野は南朝派だったというのです。「仮名手本忠臣蔵」では、南北朝時代の太平記に時代設定しているのは、南北朝の葛藤があったからという穿った意見もあるそうです。

奥が深いでしょう?

「信長の棺」の作家加藤廣さんもこの忠臣蔵に取り組んでおり、来年から週刊誌で連載が始まるようです。

楽しみですね。

「高学歴ワーキングプア」

公開日時: 2007年12月7日 @ 10:20

最近、やたらと大学院の肩書きの人が増えたなあ、と思ったら、世の中とんでもないことが起きていたんですね。

水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』によると、1985年に約7万人だった大学院生が、たった20年余りで3倍以上の約26万人にまで増えたそうです。20年前でさえ、「オーバードクター」と陰口を叩かれ、なかなか就職口が見つからなかったのに、今の時代が、そんなに甘いわけありません。

畏れていた通り、博士号を取得しても、大学の非常勤講師だけではとても食べていけず、コンビニのアルバイトなどで月15万円の生活費を稼ぐのが精一杯。居酒屋や塾講師のバイトを掛け持ちをしたり、パチスロのプロになった博士もいるそうです。

そもそも、「大学教授」の肩書きを得るために、昔から「超狭き門」であることには今でも変わらず、嫌な教授の靴までなめなければならないと言われるほどですから、今の若者にそこまでできるかどうか。

ただ、恐ろしいことは、このような事態に陥ったのは、文科省と東大法学部が結託して、将来の少子化を見込んで、少なくなる「パイ」をめぐって、その「既得権」を失うまいと執念を燃やす彼らの秘策がこの「大学院生大量生産」の理由だった、という水月氏の指摘は妙に納得してしまいます。

水月氏は、昔、オーバードクターと言っていた彼ら彼女らのことを「野良博士」と命名しています。「おだてられながら学費を払わされ続けてきた院生は、期限が来ると、ペットの犬が捨てられるように放り出される。野良になるしかない」というのです。

確かに企業側も「頭でっかち」の人間を採るより、上司の言うことを「ハイハイ」と言って、言うことをきく人間の方が使いやすいし、そういう人間を積極的に採用することでしょう。

野良博士は、おだてられて二階に昇ったら梯子を外されていたという感覚なんでしょうね。全く、やる気もなく、学業も職業訓練も放棄したNEETと野良博士が結局は、同じ境遇だとしたら何と世の中皮肉なんでしょう。

「大本襲撃」

公開日時: 2007年11月16日

今、大宅賞作家の早瀬圭一著「大本襲撃」(毎日新聞社)を読んでいます。本の目利きになったせいか、私が選んだ本は何でも面白いです。まあ、そう自負しています。今回もそうでした。大当たりです。

 

当時一世を風靡した新興宗教の大本教(おおもと・きょう)の大弾圧という歴史的事件には、以前から興味はありましたが、適当な本が見当たりませんでした。この本は、入門書としては難しいかもしれませんが、歴史的事実をほぼ網羅されており、(巻末には裁判資料まであります)昭和史研究家、宗教研究家、メディア研究家、読書人には必読書であると確信しています。

大本教は、大正と昭和の二度に渡って、徹底的に壊滅され尽くされますが、第二次大本事件は昭和十一年十二月八日のことですから、わずか、七十一年前の出来事です。戦前の話ですが、先鋭の軍隊があり、日中戦線は拡大しつつあり、治安維持法があり、「国体護持」という大義名分があり、特高と呼ばれる警察組織もありました。今の時代では全く想像できない凄惨な事件だということがこの本を読んで分かりました。

大本教は、江戸天保年間生まれの出口なおが、貧窮のどん底の中、明治25年、55歳の時、突然、何の前触れもなく神に取り付かれます。(「帰神」と呼ばれます)ろくに学校に行けず、読み書きもできなかったなおが、やがて、神のお告げを半紙に文字で書き連ねる(「筆先」と呼ばれます)ようになり、噂を聞きつけた上田喜三郎(後の出口王仁三郎=でぐち・おにさぶろう)が理論付けをして、宗教運動が始まります。

時の権力者は、大本教は、天皇制を否定し、国家転覆を図る邪教として、不敬罪、治安維持法違反、新聞紙法違反などの容疑で徹底的に弾圧します。特に特高による大本教信者に対する拷問は凄まじく、正岡子規の高弟で子規十哲の一人、岩田久太郎は獄死、王仁三郎の女婿の出口日出麿(ひでまる)は、精神に異常を来たし廃人になってしまいます。

当時の拷問がどれくらい凄まじかったのか、著者の早瀬氏は、作家の江口渙氏らの回想録などを引用し、昭和の8年の作家小林多喜二の例を挙げています。(引用は換骨奪胎)

東京の築地警察署の道場のような広い部屋に引き立てられた小林多喜二。刑事らは「おまえは共産党員だろう」と畳み掛けると、小林は「そうではない」と毅然と答えた。その態度に激高した水谷特高主任ら5人はそれから約4時間に渡って桜のステッキや野球のバットで小林を殴りつけ、金具が付いた靴で滅茶苦茶に踏みつけた。それでも、小林が黙秘していると、さらに首と両手を細引で締め上げた。やがて、小林は気絶し、留置場へ放り込まれた。間もなく寒気で意識を取り戻した小林は「便所へ行きたい」と訴えた。便所では肛門と尿道から血が吹き出して、辺り一面は真っ赤に染まり、しばらくして息絶えた。

多喜二、29歳。杉並区の自宅に帰った遺体から包帯をほどくと、目をそむけたくなるような無残な状態である。首にはぐるりと一巻き深く細引の跡が食い込んでいた。余程の力で締めたらしく、くっきりと細い溝がでい、皮下出血が赤黒い無残な線を引いていた。左右の手首にも同様丸く縄の跡が食い込み、血が生々しく滲んでいた。このほか、多喜二の睾丸もつぶされていた。

(続く)

「私家版・ユダヤ文化論」3

公開日時: 2007年11月9日

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」では、まだまだ書き足りないと思っていたところ、変な小沢劇場があったので、伸び伸びになっていましたが、再開します。

内田氏は、この本の中で、以下のように述べます。恐らく、引用というより、盗用に近い長すぎる引用なのですが、この引用文を全部読んで頂かなければ、私の考えを展開できないので、致し方なく引用します。(ただし、原文のままではありません)

●「ユダヤ人とは何か」という問題ついて、フランスの哲学者サルトルはこう言う。

「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して、『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである」

●陰謀の「張本人」のことを英語でauthor と言う。オーサーは、通常「著者」という意味で使われ、作家がその作品の「オーサー」であるという時、それは作家が作品の「創造主」であり、「統御者」であり、そのテクストの意味をすみずみまで熟知している「全知者」であるということを含蓄している。従って「単一の出力に対しては単一の入力が対応している」という信憑を抱いている人は、どれほど善意であっても、どれほど博識であっても、こういう陰謀史観から免れない。

●ユダヤ人問題について語るということはほぼ100パーセントの確率で現実のユダヤ人に不愉快な思いをさせることである。だから、ノーマン・コーンは言う。「ユダヤ人は彼らのためだけに取っておかれた特別の憎しみによって借りたてられたのだ」と。

●反ユダヤ主義者たちは、きっぱりとユダヤ人には「特別の憎しみ」を向けなければならないと主張してきた。なぜなら、ユダヤ人が社会を損なう仕方はその他のどのような社会集団が社会を損なう仕方とも違っているからである。

●「ユダヤ人たちは多くの領域でイノベーションを担ってきた」。この言明に異議を差し挟むことのできる人はいないだろう。「イノベーション」というのは普通、集団内の少数派が受け持つ仕事である。「イノベーター」というのは、少数者、ないし異端者というのとほとんど同義である。

●「ユダヤ人はどうしてこれほど知性的なのか?」

ユダヤ人の「例外的知性」なるものは、民族に固有の状況がユダヤ人に強いた思考習慣、つまり、歴史的に構築された特性である。
ユダヤ人に何らかの知的耐熱性があるとすれば、それはこの「普通ではないこと」を己の聖史的宿命として主体的に引き受けた事実に求めるべきであろう。

●反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか?それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりにも激しく欲望していたから」というものである。反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。

●ユダヤ教、ユダヤ人について語ることは、端的にその人が「他者」とどのようにかかわるかを語ることである。

よくぞ、ここまで読んでくださいました。

要するに私がいいたいことは、
●ユダヤ人というのは、人間の差別意識と嫉妬心から生まれたものである。

●何かが起きて、例えば、「サブプライムローンの破綻」でも、「第2次世界大戦」でも何でもいいのですが、人間は、すぐ、ユダヤ人の「陰謀」などとこじつけたがる。しかし、そもそも「陰謀」などというものはこの世に存在しないのだ。

●陰謀説を信じる人たちは、「そうしないと気が済まない」人たちなのだ。

●たまたまユダヤ人だと、その首謀者として血祭りに上げやすい。

●しかし、差別心と陰謀説を信じることは全くコインの裏表で、根は同じなのだ。

●人間は、いつ、どんな時代でも、自己証明と、優越感と安心感に浸りたいがために、常に差別する対象を求めるものだ。

●差別とは、自己と他者との関係性の中で不可避的に生まれるものである。

…そんなことを考えました。