「私家版・ユダヤ文化論」2 

公開日時: 2007年11月4日


(続き)
著者の内田氏は、ユダヤ人について、こう定義します。

第一に、ユダヤ人というのは、国民名ではない。

第二に、ユダヤ人は人種ではない。

第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒ではない。

こうなると、ますます分からなくなってしまいます。第一、これでは、定義になっていません。

そこで、著書はこう続けるのです。

ユダヤ人がユダヤ人であるのを、彼は「ユダヤ人である」とみなす人がいるからであるという命題は、ユダヤ人とはどういうものであるかについて事実認知的な条件を列挙しているのではない。ユダヤ人はその存在を望む人によって遂行的に創造されるであろうと言っているのである。

うーん、難しいですが、これは何にでも当てはまる社会的歴史的根本的事象であることは確かですよね。

「私家版・ユダヤ文化論」

公開日時: 2007年11月3日

久しぶりに脳天がぐじゃぐじゃになるくらい刺激的な論考に出会いました。

内田樹「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)です。小林秀雄賞を受賞した話題作だったので、致し方なく買って、そのままにしていたのですが、フトと思い出したように手に取って、読み始めたら、もう止まらない、止まらない。面白くて、面白くて、ページを繰るのがもったいない気持ちになってしまいました。

すごい本です。人間の思考法を根底からひっくり返すような挑発的な言辞が羅列されています。

この本を「理解」することは、読者のそれまでの生活、信条、読書遍歴、嗜好、志向、思考がすべて問われている、と言っても過言ではないでしょう。

この本では、「ユダヤ人とは何か」というテーマで一貫して問われています。

この話は1回だけでは終わらないので、初回は、皆さんも意外と知られていない歴史上、そして現代でも活躍している「ユダヤ人」と呼ばれている人たちを本書から引用してみます。

【学者】

スピノザ、カール・マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、アインシュタイン、デリダ

【映画】

チャップリン、マルクス兄弟、ウディ・アレン、ポール・ニューマン、リチャード・ドレイファス、スティーブン・スピルバーグ、ロマン・ポランスキー、ビリー・ワイルダー、ジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン

【クラシック】

グスタフ・マーラー、ウラジーミル・アシュケナージ、バーンスタイン

【ポップス、ロック】

バート・バカラック、キャロル・キング、フィル・スペクター、ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクル、ビリー・ジョエル、イッギー・ポップ、ルー・リード、ジェーリー・リーバー&マイク・ストーラー、ジーン・シモンズ(kiss)、バリー・マニロウ、ベッド・ミドラー、ニール・ヤング、ブライアン・エプスタイン(ビートルズのマネジャー)

ユダヤ人は世界の人口のわずか0・2%しか占めないのに、1901年に創設されたノーベル賞で、2005年度までの統計によると、ユダヤ人が占める割合は医学生理学賞で26%、物理学賞で25%、化学賞で18%にも達するのです。彼らはどうして、これほどまでにも優秀で他から抜きん出ているのでしょうか?遺伝?熱心な教育熱?それとも、選ばれた民であるから?

そもそもユダヤ人とは誰を指すのでしょうか?

なぜ、これほどまで彼らは迫害されるのでしょうか?

すべての「答え」が本書に詰まっている、という言い方はできませんが、少なくとも、考えるヒントだけはぎっしりと詰まっています。

読者に考えさせるのが、この本の主要目的でもあるからなのです。

(続く)

「江戸を歩く」

公開日時: 2007年11月2日

 

田中優子著、石山貴美子・写真の「江戸を歩く」(集英社新書)を読了しました。久しぶりに、読書の悦楽を堪能しました。

 

なぜなら、この物語は、この本の中の世界にしかないからです。もう100年以上昔に消滅した江戸の痕跡を求めて、著者は逍遥します。まさに「失われた時を求めて」です。

そこにあるのは、郷愁でも懐古趣味でも何でもいいのです。現実に、もう失って、再現することも不可能です。しかし、この本の中にだけは、その時代の生活と文化が生き生きとしているのです。

少し、備忘録を兼ねて、引用したいと思います。(原文そのままではありません)

●日本は、伝統的に「御霊(ごりょう)信仰」だった。御霊は、「みたま」とも読む。死者の霊に対する畏れの感情とともに、そう呼んだ。橘逸成、藤原広嗣、吉備真備、菅原道真(天満宮)、平将門(神田明神)ら、時の権力者との抗争に敗れて、怨念を持って亡くなった場合、怨霊となって、この世に天災や疫病をもたらすと、昔から考えられてきた。そこで、彼らを鎮魂し、悪を制御するために、大掛かりな祀りを行ってきた。京都の祇園祭も、869年に八坂神社の御霊会(ごりょうえ)として始まっている。

(いわば、敵味方なく、むしろ、朝敵に対して、日本人は篤くまつりごとを行ってきたのだ。)

●しかし、明治維新政府は、この信仰を捨てることで「近代化」を成し遂げようとした。敵を無視し、味方の軍人だけを「英霊」と呼んで、靖国神社に祀るようになったのだ。

(要するに、靖国神社は、徳川幕府をクーデターで倒した薩長土肥のための宗教施設であることには変わりがないということでしょう。ここには、新撰組も会津藩士も祀られていない、維新政府に歯向かったということで、元勲西郷隆盛も祀られていない)

●浅草三社祭の「三社」とは、檜前浜成(ひのくま・はまなり)、竹成(たけなり)兄弟とその主人の土師臣真中知(はじのおみのまつち)のことで、この三人は八世紀頃、朝鮮半島から逃れてきた渡来人だった。渡来人は、馬の飼育、漁の技術、麻、絹、瓦、文字、画、皮革、そして、仏教をもたらした。土師は、埴輪、土器、墳墓の技術者だった。

 

●向島百科園は、骨董屋を営んでいた佐原鞠塢(さわら・きくう)が隠居後の1804(文化元)年に開いたサロンで、幕臣で狂歌連のリーダー大田南畝、姫路藩主の弟で画家・狂歌師の酒井抱一、画家の谷文晁、旅館経営者で作家で国学者の宿屋飯盛(やどやのめしもり=石川雅望、まさもち)らが集った。

●人形町は、浅草の猿若町に移転するまで、1632(寛永9)年から1842(天保13)年まで210年間の長きに渡って芝居町があった。

●「お茶の水」は、二代将軍秀忠が、鷹狩の帰りにここに立ち寄り、そこの湧き水で飲んだお茶が忘れず、この地名がついた。

●江戸は風水に基づいて計画的に作られた都市で、江戸城の場合、まず、城の正面の入り口に当たる大手門が東に作られた。その反対の西には富士山が見える。大手門の北には隅田川が流れ、南は、あえて、「虎の御門」と名付けられた。風水では、北(玄武=げんぶ)に山、南(朱雀)に水、西(白虎)に道、東(青龍)に川がなくてはならないので、大手門を南、その反対の富士山を北、虎ノ門を西、隅田川を東に見立てた。

また、江戸城を中心にして、鬼門である東北に寛永寺と浅草寺を配し、ちょうど反対側の南西の位置に増上寺を置く。増上寺が南にずれている方向を修正するかのように、外堀に沿って山王社が建てられ、江戸城をはさんでその反対側に、やはり外堀(神田川)近くに神田明神がひかえている。いずれも、江戸の総鎮守と言われ、天下祭が行われている。

 

●大田南畝(おおた・なんぽ)は、江戸中期文化のリーダーであり、スターである。牛込中御徒町、現在の新宿区中町で生まれ育った。1767(明和4)年、18歳で「寝惚先生文集」を刊行し、平賀源内に支持され、狂詩のジャンルを確立。20歳で、狂詩から狂歌に取り掛かる。江戸文化の行方は、平賀源内ー大田南畝ー山東京伝の順番の世代交替によってリードされた。

(野口武彦「蜀山残雨」が読みたくなりました)

 

●神楽坂の路地奥の和風旅館「和可菜」に泊まり、銭湯「熱海湯」に入り、江戸時代そのままのような居酒屋「伊勢藤」で、一杯ひっかける。「神楽坂では飲んだり食べたりするだけでなく、滞在することをおすすめする。私は仕事に行くのも家に帰るのもいやになった」と著者は書く。

 

ああ~私も江戸情緒を浸りに、また神楽坂に行きたくなりましたねえ。(上のコースでお会いするかも?)

ワニブックス、池辺三山、有馬記念とは

我ながら、こう飽きもせず、毎日書き続けるものだと思います。今日の新聞広告で、佐野眞一著「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)のコピーで「大正期、激動の宮中におそるべき”記録魔”がいた」とあります。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富勇三郎の日記らしいのですが、「超一級史料」ということで、読んでみたくなりました。

最近読んだ本や雑誌の中で意外だったことを備忘録としてメモ書きします。

●ワニブックス

青春出版社の岩瀬順三氏が、光文社の神吉晴夫氏が生み出して大成功したカッパブックスに対抗して創刊した。その理由が「河童を餌にするのはワニだから」

●池辺三山の朝日退社

陸羯南が創刊した「日本」(正岡子規も記者だった)の記者だった池辺三山は、東京朝日新聞社に入社し、主筆として活躍。東京帝大講師だった夏目漱石を1907年4月、朝日新聞に招聘。その三山は、漱石の弟子森田草平が平塚雷鳥との愛人関係を赤裸々に描いた「煤煙」を紙上に掲載するかどうかを巡って、その背徳性を批判する大阪通信部長の弓削田精一(秋江)と衝突し、1911年11月に退社。

●世が世なら

1954年に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義(ありま・よりちか)は、旧久留米藩主、伯爵有馬頼寧(ありま・よりやす)の三男。頼寧は、1930年に未遂に終わった「桜会」が起こそうとした軍事クーデター「三月事件」の黒幕というか主犯格だった。このクーデターは、参謀本部の橋本欣五郎中佐ら将校100人以上が、国家改造と満蒙問題解決のために密かに結成した「桜会」が、時の浜口雄幸内閣を打倒し、現職の陸軍大臣宇垣一成を首班とする軍部独裁政権を樹立しようとするクーデター計画。頼寧が、大日本正義団総裁の酒井栄蔵を唆して軍部を動かした。

頼寧は、近衛文麿首相のブレーンの「昭和研究会」のメンバーで、農林大臣などを歴任し、日本中央競馬会理事長時代に競馬の「有馬記念」を創設。

作家の有馬頼義は、西荻窪駅から数分のプール付きの豪華な邸によく若い作家を集めて「石の会」を主宰していた。1972年5月、川端康成がガス自殺したことに衝撃を受けて、自分も追うようにガス自殺を図ったが、一命を取り留める。自殺未遂の後、広大な邸宅に住むことなく、自宅近くの狭いアパートで、精神病院入院中に知り合った若い女性と同棲した。

「新聞 資本と経営の昭和史」

 公開日時: 2007年10月10日

昨晩は、調布先生と半蔵門で会食しました。またまた、色々と人生訓をご教授して戴きました。

先生は、古い方なので、急に変なことを言います。例えば、

「博労の気質がなければ駄目だよ」というわけです。

博労といっても、よく意味がわかりませんでしたが、辞書によれば、牛馬の仲買人で、牛馬を品評する目利き役のようですが、それが、転じて、「博労の気質」というのは、何かを成し遂げてやろうという山っ気のある人物のようです。そういうことは、広辞苑にも載っていないので、私が勝手に判断したのですが、そういう言葉がポンポン出てきます。

博労の気質というのは、明治の時代から政治家や、実業家などに必要とされ、新聞記者なども、真面目なサラリーマンでは、記事の中身も面白みに欠ける。「博労の気質がなければ、駄目だ」というわけです。奥さんも、同じで、、英傑と呼ばれた人たちの女房には花柳界出身の人が多く、かつての経済団体の四天王(経済団体連合会の稲山嘉寛会長、日本経営者団体連盟の大槻文平会長、日本商工会議所の五島昇会頭、経済同友会の某=失念)といわれた人のうち、大槻氏以外の奥さんは皆、博労の気質の人だった(つまりそういう意味です)という興味深い話もしてくれました。

新聞記者なんぞも、ジャーナリストなどとお高くとまっていても、所詮、博労の民で、官僚の重要書類を盗み見したり、脅したり、すかしたりして、機密情報を取ってくるのが仕事で、「そんな大それた仕事じゃないよ」と言うわけです。

調布先生は私に、今西光男著「新聞 資本と経営の昭和史」(朝日新聞社)を読むように薦めてくれました。同書は、朝日新聞の編集局長から政界に進出した緒方竹虎を中心にした昭和初期の言論界における朝日新聞社の恥部が暴かれているそうなのです。

調布先生は憤ります。「朝日が、左翼だとか、反体制派なんて言ったら大間違いだよ。まさに、体制べったりで、右も左もオールマイティーなんだから。産経や週刊新潮が、朝日は左なんて言うのは、分かっていないね。戦時中は、朝日は飛行機を百何十機も国家から認められてるんだよ。こんなの国家との癒着じゃないか。今の電波行政みたいなもんだよ。当時の飛行機なんて、国家から割り当てられたんだから…。これだけでも、朝日が、いかにも体制派だったかの証左だよ」

もともと、朝日新聞は、大阪が発祥地で、東京日日新聞のように時の政府に対して敢然と立ち向かって言論を張る「大新聞」とは違って、庶民にも分かりやすいようにカナがふられ、スキャンダラスな事件を売り物にした「小新聞」だったというのです。

それが、明治の末に、東京の朝日新聞に池辺三山が夏目漱石を迎え入れて、文芸欄を作って、高級紙にステップアップし、政界にも太いパイプを築いていくのです。

「やっぱり歴史を知らなきゃ駄目だよ。インターネットやブログなんかにうつつを抜かしていたら駄目なんだよ」と調布先生は言うのです。

だから、もちろん、調布先生は、こんなブログは読んだりしません。

「ウェブ人間論」

公開日時: 2007年10月7日 

某文芸誌の編集長からのお奨めで、梅田望夫・平野啓一郎の対談「ウェブ人間論」(新潮新書)を読了しました。

まさに、目から鱗が落ちる感じでした。これまでのインターネットの関する考え方が変わりました。特に、シリコンバレー在住のITコンサルタントである梅田氏のブログに対する真摯ともいえる態度には、感銘すらおぼえました。何しろ、梅田氏は、1995年を日本における「インターネット元年」ととらえ、その年に20歳だった1975年生まれに注目し「自分より年上の人(梅田氏は1960年生まれ)と過す時間をできるだけ減らし、自分より年下の人、それも1970年以降に生まれた若い人たちと過す時間を積極的に作ることで次代の萌芽を考えていきたい」と「9・11」以降に決断するのです。ちなみに、作家の平野氏は、1975年生まれです。

梅田氏は、1日、トータルで8時間から10時間もネットにつながり「ネットの世界に住む」と自称します。毎日、300近いブログを読み、自分のブログも頻繁に更新し、「自分の分身に会いにいく」というような表現をするのです。

梅田氏によると、ネットの魅力は、リアルな空間での自分の恵まれ度、つまり現実生活での幸福感と言ってもいいでしょうが、その度合いと反比例するというのです。要するに、リアルな世界で認められている人やいい会社に勤めている人は、リアルの世界で完全に充足しているので、別のネットの世界など必要がないし、興味もないというわけです。

いやあ、これは、私自身にも思い当たる節、大だということなので納得してしまいました。

誰でもリアルな世界で恵まれていたら、こんなに無料のブログにはまることはないですからね。

この本の中で、面白かったのは、新しい商品名を思いついた時、その言葉が、検索で「空いている」かどうかチェックするということです。例えば、この私のブログの「渓流斎日乗」は、そんなことを意識しなくて勝手につけたのですが、「渓流斎日乗」と、グーグルでも、ヤフーでもいいのですが、検索すると、私のブログが最初に出てきます。それは「空いて」いて、今まで、誰もこの名称を使っていなかったからです。仮に何万人も同じ名称を使っていたとして、私のブログが9999番くらいに初めて出てきたりしたら、誰も気づかれずに読まれることはないということなのです!

それからもう一つ。もし、リアルな世界でハッピーでなかったら、ネットの世界でハッピーな空間が作れると、梅田氏が力説していることです。ネットは時間を超えられませんが、空間は完璧に超えられます。今、身の回りに親身に相談に乗ってくれる人がいなくても、アメリカに住む友人が相談に乗ってくれることもできますし、今まで知り合えなかった人と、性別、国籍、年齢を超えて友人にもなれます。

この本には、終始、梅田氏の「楽観論」で満ち溢れていますが、本当に考えさせられ、興味深く読むことができました。皆さんにもお奨めです。

野坂昭如「文壇」

  ひかりごけ

公開日時: 2007年10月6日

野坂昭如著「文壇」(文藝春秋)を読了しました。「文壇」なりしものが、存在し、華やかりし頃の生態が生々しく描かれていました。私は、あまり、野坂ファンではなく、彼の著作をあまり読んでこなかったので、彼の独特の文体には、時折、戸惑い、時々、閉口し、時折、感心、時折、感服しましたが、まあ、最後まで読ませる力量はさすがでした。

物語は、野坂氏が、初めて文壇パーティーなるものに列席した日(昭和36年の中央公論新人賞=受賞者・色川武大)から始まり、昭和45年の三島由紀夫の割腹自殺で終わります。

本人が、昭和42年に「アメリカひじき」と「火垂るの墓」で直木賞を受賞した前後の頃の文壇の裏表を微に入り細に入り活写され、全く恐ろしいほどの記憶力です。

野坂ファンには至極旧知の当たり前のことなのでしょうが、彼と丸谷才一とのいわば師弟関係、彼のあこがれの作家であった吉行淳之介との関係、意外にも三島に作品を絶賛されて親交を結ぶようになったことなど、私の与り知らなかったことが、事細かく書かれていて、大変興味深かったです。

それにつけても、今の文学界、文壇はどこに消えていってしまったのでしょうか?

文豪・夏目漱石展

両国の江戸東京博物館に「文豪・夏目漱石」展を見に行きました。「閉店間際」だったため、随分、急かされて、駆け足での鑑賞でしたが、何しろ、漱石の本物の原稿(ほとんどが書き損じでしたが)や蔵書等を間近に見ることができて、感激しました。

漱石は、私の最も大好きな作家の一人です。もちろん、全集を持っています。大昔、全作品を一度、ざっと読んだきり、好きな作品は再読していますが、再々読はしていませんので、また、読みたくなりました。

今回、新たに発見、というか、忘れていたことを再発見したことは、漱石は、1歳で塩原家に養子に出されますが、夏目家に戻ったのは、何と、21歳の時だったのですね。49歳で亡くなっているので、生涯の半分近くは塩原金之助の名前だったことが分かりました。そして、北海道にも戸籍を異動している時期もあったようです。

蔵書の多さにも唖然としました。ロンドン留学で、買い込んだものが多かったようです。「ロビンソン・クルーソー」「ガリヴァー旅行記」「シェイクスピア全集」は当然のことながら、社会学や心理学や、ベルグソンンまで原書で読んでいたとは驚きました。当時の知識人の質量とも学識の幅の広さには感服致しました。

漱石は大変、几帳面な人で、弟子たちに貸したお金や蔵書について、すべてノートに記帳していました。返却してくれた人には棒線が引かれていまして、棒線が引かれていない人は「恐らく返却していないものと考えられる」と説明文にありました。苦笑してしまいました。

およそ、90年前に亡くなった漱石ですが、本人が着た着物などが展示されていると、どこか近しい感じを受けました。

人生で一番美しい日

 

慶応大学医学部教授の坪田一男氏の「老けるな!」(幻冬舎)には、脳と体を若返らせる68の方法が書かれています。大きな活字で、文字数も少なく、通勤電車の中で30分ほどで読了してしまいました。

内容は、目次で充分、分かります。抜粋すると…

●今日は、人生で一番美しい日と思え

●自分をほめろ

●いい言葉しか使うな(汚い言葉は使うな)

●心を許せる友を持て

●嫌いなヤツのグッドラックを祈れ(ポジティブ思考)

●危険を感じたら迷わず逃げろ

●ゴキゲンな人になれ

この中で、「おとといの夜ごはんを思い出せますか」というのがありましたが、オーマイガー!私は昨晩何を食べたのかさえ、思い出せませんでした。これは重症ですね。

最近の脳医学で、特に記憶力や集中力といった脳の働きは、4つの脳内物質(神経伝達物質)がコントロールしていることが分かっています。それは、以下のものです。まるかっこの中は、その物質が少なくなると陥りやすい病気です。

1、ドーパミン(パーキンソン病)

2、セロトニン(鬱病)

3、ギャバ(躁病)

4、アセチルコリン(アルツハイマー病)

これらの物質が欠けるのは、遺伝的な面やライフスタイルに関係しているようです。まだ、分かっていない要素が多いのですが、せめて、毎日、心身ともに健康的な生活を送れば、ある程度のリスクは避けられそうです。

汚い言葉を使わず、人には優しく、自分もたまには褒めてあげて、感謝の気持ちを忘れずに…

文学は死んだ?

ご縁があって、最近、純文学系と呼ばれる文芸誌に目を通しています。十年ぶりぐらいです。最近、本は読んでいますが、いわゆるノンフィクション系のものばかりで、ほとんど小説は読んでいません。映画監督の篠田正浩さんが、いつかどこかの雑誌で「小説は読まない。作家の妄想に付き合っている暇はないから」といったような趣旨の発言をしていたことが頭の底にこびりついてしまったせいかもしれません。

それが、ちょっと、ご縁があって、昨日も文芸誌に目を通したのですが、正直、とても読める代物ではありませんでした。まあ、作者の唯我独尊、大いなる誤解で小説は始まるのでしょうが、第三者にとっては、どうも鼻白む話ばかり。10年前までは、熱心に小説を読んでいたのですが、驚いたことに、どの文芸誌にも巻末に作者のプロフィールが掲載されていますが、半数近くが初めて名前を知る人で、7割以上が私より若いのです。

小説は若者の特権なのでしょうか。そういえば、樋口一葉と北村透谷は24歳。芥川龍之介は35歳。太宰治は38歳。夏目漱石にしても49歳で亡くなっていますからね。

ある文学新人賞の審査委員である文芸評論家の斎藤美奈子氏が、応募してくる作家志望の若者に対して「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」と、肥大化した自意識過剰を諌めておりました。うまいことを言うなあ、と思いました。

私のブログも通底にはそんな思想信条があふれています。何しろ、今、日本だけで800万ものブログが溢れているというではありませんか!調布先生などは「ブログなんて、そんなくだらないものは早く卒業、廃業した方がいいですよ」と忠告してくれていますが{調布先生は盗み見(笑)しているのでしょうか?}、所詮、「あなたのことなんか誰も興味を持っていないんですよ」。

天下国家を論じている大手マスコミの人は、自分のペンで無知蒙昧な国民を啓蒙して、世論を引っ張っていきたいという思いがあるのでしょうが…。