滝山城~高月城 散策ツアー

滝山城跡

昨日の日曜日。春だというのに、菜種雨が降り続きました。そんな雨も、ものかは。

東京郊外の八王子にある中世の戦国武将大石氏が築城した滝山城と高月城の城址巡りツアーに、実兄のお導きで参加して参りました。参加者はWWさんら4人。

ちょうど桜がチョー満開の時期で、前日には桜祭りも開催され、本来なら見物客で立錐の余地もないほどごった返すはずの都立滝山公園も、生憎の雨で人影も疎らで、逆に本来の10分の1か、100分の1ぐらいの空いた人出で、傘を差しながらではありましたが、ゆったりと散策できました。

あるメデイアの調査によると、ここ滝山城跡は、都内の城址巡り人気ツアーでは、何と、江戸城に次ぐ第2位なんだそうですね。

知りませんでしたね、私は。…ということは、1521年(元亀2年)に滝山城を築城した大石定重(さだしげ)の名前など知る由もありません(苦笑)。

滝山城近くにある大石氏の菩提寺と想像される少林寺

大石定重は、関東管領上杉氏の宿老(重臣)で、守護代職を務めた戦国武将です。

大石氏は、定重の子定久が、小田原の北条氏照を娘婿に迎えて、北条氏の軍門に下って、消滅してしまいますので、よほどの歴史通でなければ、知る人も少ないでしょう。

しかし、その滝山城跡を実際の脚で歩いて、その規模を肌身で実感してみると、その広大さに圧倒され、大石氏の権力の甚大さも手に取るように分かりました。

この滝山城は、あの上杉謙信や武田信玄からの猛攻に見事耐え抜いたといいますから、その凄さが分かることでしょう。

謙信は越後から、信玄は甲斐の国から軍団を引き連れて峠を越えて此処までやってきたことを想像すると感無量になりませんか?

滝山城址

ちなみに、都立滝山城公園は、京王八王子、JR八王子からバスで30分ぐらいで「滝山二丁目」で下車して、徒歩20分ぐらいです。

途中、八王子駅からバスで5分ぐらいの商店街に「荒井呉服店」が見えました。恐らく、ここがあのユーミンの実家ではないかと思われます。

高月城跡

滝山城から歩いて30分のところに、高月城がありました。

ここは、話が前後しますが、滝山城を築城した大石12代将軍定重の父親の11代顕重(あきしげ)が1458年(長禄2年)に築城しました。

高月城近くにある大石氏の菩提寺と想像される円通寺

話を整理しますと、大石氏は、もともと、今の長野県は信濃国大石郷の出身で、どういう経緯か分かりませんが、関東管領上杉氏の家臣となり、今のあきる野市にある二宮に城を構え、その後、この高月城に移り、定重が滝山城に移り、その子の代で滅亡して小田原の北条氏に組み込まれるわけです。

時は、室町時代末期で、足利将軍の権力は、もう既に関東にまで及びもつきません。

室町幕府を開いた足利尊氏の四男基氏は、初代鎌倉公方として赴任し、関東の守護職の統治と監視に努めましたが、次第に執事に過ぎなかった関東管領の上杉氏の方が勢力を付け、その後、鎌倉公方は幕府と対立して今の茨城県古河市まで逃れ、古河公方として、漸く、対抗するのか精一杯でした。

まさに戦国時代ですがら、何が起きるか分からない。いっときも、気が休まらない日々と生活だったことでしょう。

湯楽の里

高月城跡は、今では私有地となってしまい、本来なら立ち入り禁止区域なのですが、微かに通る農道だけを歩かせてもらいました。ぬかるんでいたので、途中滑って転んでしまいました。

この後、拝島まで行き、結局、東京多摩地区の八王子市とあきる野市、昭島市、福生市と歩きまたぎ、帰ってスマホの万歩計を見たら、2万歩を軽く超えてました。

拝島駅から玉川上水沿いにある桜並木

拝島では、駅から歩いて20分ぐらいのところに「湯楽の里」という大型銭湯があり、疲れを癒し、ついでに喉まで潤しましたが(笑)、温泉でもなく単なる銭湯なのに、入場料は910円は暴利だなあ、と痛感。おつまみもひどく不味かった。

考えてみたら、城址を散策中、ほとんど、コンビニすら商店は見当たらず、娯楽も殆どない寂しい所でした。銭湯は高額なのに、非常に混んでいましたから、この辺りは、銭湯ぐらいしか、楽しみがないのかしら?

中世の時代、大石氏の城下町として繁栄したことでしょうが、その面影さえありませんでした。

嗚呼…

ジョン・レノンと木村東介と宮島詠士

桜、サクラ、さくら

ベストセラー作家と称する輩が、雑誌で「憎っくき中国の漢文の授業を廃止せよ」と息巻いて、相変わらずの低脳ぶりを発揮しておられます。

実にアナクロニズムも甚だしい。戦時中に、鬼畜米英の「敵性英語」の授業を廃止し、野球の「セーフ」も「アウト」も禁止した冗談のような暗黒時代に導こうとしているのかしら。中国が嫌いなら、真逆に、中国の歴史や文化や言語を学ぶべきでしょう。批判するなら、それからです。

あの戦時中でさえ、極端に狭量に陥った偏狭ナショナリズムに異議を唱えた人がおりました。アジア主義者の宮島詠士(1867~1943)です。

山形県米沢出身の宮島詠士は、11歳で家族とともに上京し、勝海舟の門で学びます。その後、東京外国語大学で中国語を学び、大陸に渡り、書家として大成します。帰国後、東京で善隣書院という私塾を開校し、教育に生涯を捧げます。

この宮島詠士をやり込めてやろうと、面会した若き国粋主義者に木村東介(1901~92)がおります。血気盛んな若き東介は、国事行為に走った際に揉め事から、左腕を切り落とされていたといいます。

詠士との初対面で、東介が自分の「雲井塾塾長」の名刺と中野正剛(1886~1943)から預かっていた彼の名刺を渡すと、詠士から、その名刺を一緒にもみくちゃに握りつぶされてしまいます。

この話を東介から聞いた中野正剛は、詠士のことを「気狂い親父め」と、吐き捨てたと言われますが、東介は逆に、詠士から感化されて、偏狭な国粋主義を返上して、一介の古美術商に転向するわけです。

ここからが、本題です(笑)。

◇ジョン・レノン登場

木村東介は東京・湯島天神近くに古美術「羽黒洞」を開業します。それから40年近く経った1971年1月、丸い縁なし眼鏡を掛けた異人が東洋人の女性に伴われて、この羽黒洞を訪れます。

主人の木村東介が差し出す白隠や蕭白らの書画を見て、言い値で「オッケー」「オッケー」と頷きながらどんどん買っていきます。

この若者は一体何者なのか?

そして、この異人は、松尾芭蕉の有名な「古池や…」を見つけ、「これが欲しい。幾ら?」と隣の女性の通訳を介して尋ねてくるのです。

東介は「200万円」と即座に答えました。当時としては、眼の玉が飛び出るほど高額です。当然、諦めると思ったからです。

すると、その異人は、すかさず購入する意志を表明した上で、「どうか、日本人の宝物をロンドンに持って行ってしまうことを悲しまないでほしい。ロンドンに帰ったら、日本庭園も日本間もつくり、日本のお茶を飲みながら、これらの書画を鑑賞することを約束します」とまで言うではありませんか。

この客の2人は誰であろう。ジョン・レノンと小野洋子夫妻だったのです。そのことを東介は娘に聞かされましたが、「びいとるず」の名前を聞いたことがある程度で、ジョン・レノンの名前まで知らなかったわけです。

すっかり感動した主人の東介は、せっかく日本に来たのだから、華やかな歌舞伎でも見せてあげようと2人を歌舞伎座に招きます。

三階の一幕席でしたが、生憎、その時かかっていたのが、能に題材を取った非常に暗い悲しい話の「隅田川」でした。演じていたのが、六世歌右衛門(狂女)と十七世勘三郎(舟人)。清元は志寿太夫。

そこで、東介はさぞかしつまらないだろうと思って、「出ましょうか」と声をかけようとすると、言葉が分かるわけがないジョン・レノンが隅田川を見てポロポロと止めどもなく涙を流していたというのです。側にいた洋子さんが一生懸命にその涙を甲斐甲斐しく拭いていたそうです。

このときのジョン・レノンを見て、東介は「この人は、言葉が分からなくても魂で感じているんだな。とてつもない人だ」と悟ったそうです。

この後、東介は、ジョン・レノンにせがまれて、仲の良かった歌右衛門の楽屋に連れていき、紹介してあげたそうです。

これが縁で、翌年の歌右衛門らによるロンドン、ミュンヘンでの歌舞伎公演が実現したそうです。(松竹の永山武臣会長回想)

 これらの話は、実は、皆さんご存知の京洛先生が若き頃の1981年、かの木村東介を東京の羽黒洞でインタビューしたことがあったことから、秘話として、こっそりと小生にご教授頂いたものだったのです。

ジョン・レノン・フリークを自称する渓流斎も全く知らなかったエピソードでした(苦笑)。

【追記】早速、京洛先生から追加情報がありました(笑)。

 木村東介さんには「切り通し界隈」(博文館新社)や「不忍界隈」(大西書店)などの著作があります。

 愚生は木村東介さん本人から「切り通し界隈」を恵与賜りましたが、色々、人生の滋味が溢れています。「不忍界隈」にはジョン・レノンとの話が出ています。

  田中角栄内閣時代、歯にきぬ着せぬ言い方で、「木村元帥」「放言居士」の異名を持った木村武雄建設相(山形・米沢)は東介さんの実弟です。この人も、戦前、戦時中は「東方会」の中野正剛に師事し、戦争中は「大政翼賛会」に加わらず、「非推薦」で衆院議院に当選しました。「反東条」ですが、皆さん、今と違って、骨があります。

 意外と知られていないでしょうが、三木武夫元首相(徳島)、二階堂進元官房長官(鹿児島)らも、皆、非推薦です。

 

パティ・ボイド写真展とリコーの市村清

銀座リコービル

昨日は、私のお庭である(笑)東京・銀座リコービル(三愛ドリームセンター)の8階ギャラリーで開催中の「パティ・ボイド写真展」に行ってきました。

渓流斎こと、銀座をブラついて半世紀に及びますが、この銀座のど真ん中のリコービルの上階に入ったのは生まれて初めてでした。一階のドトール・コーヒー店には入ったことがありますが。

写真展がなければ、行かなかったことでしょう。

パティ・ボイドとは誰なのか?ご存知でない方がいらはるかもしれませんが、ビートルズのジョージ・ハリスンの奥さんでした。もともと、モデルで長身、容姿もスタイルも抜群。ビートルズの最初の映画「ア・ハードデイズ・ナイト」に出演して、2人は知り合ったようです。

ジョージは「サムシング」などの名曲を産みます。

しかし、ジョージの親友のエリック・クラプトンと親密になってしまい、結局、パティはジョージと離婚して、クラプトンのもとに走ってしまいます。

クラプトンは、横恋慕の頃、「レイラ」という名曲を産みます。

ロック界では魔性の女として名を馳せてしまったパティですが、その後、クラプトンとも離婚して(クラプトンのDVが原因だったとか)、プロの写真家になったようです。

ジョージとクラプトンという音楽史に名を残す2人の男の元妻ということで、プライベートな寛いだ写真があるのか期待して、入場料510円払って見てきました。

しかし、展覧会というより販売促進会といった趣でした。写真なのに、「20/25」といった感じで版画のように番号と値札が付いているのです。

驚くべきことに、安くても9万5000円、高いと30万5000円もするんですからねえ。

一体誰が買うんじゃい、と思ったら、しっかり「売却済」の赤丸シールが貼ってあるものもありました。

御本人は来日して講演なんかやってたらしいですが、商魂逞しいなあ、というのが小生の印象。1944年3月生まれなので、73歳になり昔の面影も無くなってしまい、見るに忍びない思いでした。

それよりも、この銀座のど真ん中にリコービルを建てた三愛の創業者市村清のこと、今では誰も知らないでしょう。偉人です。

家庭の事情で、今の名門佐賀西校の中退を余儀なくされて、野菜の行商などをして辛酸を舐めた苦労人です。

戦後、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事を設立して、石油会社やリコー製のカメラを売り出すなど経営の神様と一時もてはやされました。

まあ、波瀾万丈の方なのですが、今ではすっかり忘れられてしまった彼のことを再評価するのもオツではないでしょうか?

共謀罪法、万々歳

somewhere

その時

共謀罪が閣議決定されたその時

国家の最高権力者の安倍首相はその場にいませんでした。何やら「複雑怪奇なり」(平沼騏一郎)の欧州へ出張中だったとか。

閣議の雛壇にいたのが、戦時中に外国人捕虜を強制労働させたと言われる麻生鉱業財閥の末裔である副首相、一人置いて、豊洲問題で百条委員会に喚問された石原元都知事の賢息子の顔も見えます。

歴史に残る晴れ姿と彼らの顔と名前をしっかりと脳裏に刻み付けることです。

共謀罪閣議決定、万歳です。

このおかげで、悪い共産主義者や無政府主義者、労働組合幹部らを拷問できる治安維持法の役割を果たしてくれます。何しろ、奴らは、ソ連と手を組んで国家転覆を図ろうとしてますからね。

このおかげで、悪い中共や朝鮮に機密情報を流しかねない左翼や進歩的文化人を処罰してくれる軍規保護法の役割を果たしてくれます。中共は、尖閣列島や東シナ海を我が物顔で軍艦に乗って睥睨してますし、朝鮮は竹島を占領し、物騒なミサイルを我が帝国の排他的経済水域までぶっ放してきますからね。

このおかげで、生命を賭して我が国を守って下さっている自衛軍の皆様の安心と安全を守る国防保安法の役割を果たしてくれます。

真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)が始まる直前の10月、これら治安維持法、軍規保護法、国防保安法のおかげで、売国奴のスパイ、リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実を中心にした国際諜報団を次々と逮捕し、監獄死させ、首魁を処刑することができました。

法治国家として、事前に法の支配で効力を発揮できたおかげで、我が国は、真珠湾攻撃に成功し、昭南島や海南島の制覇と生命線の満洲帝国を確保できたのです。

めでたし、めでたし。

大阪毎日新聞も、讀賣報知新聞も、時事新報も、同盟通信も、朝日新聞が本領を発揮した上海の大陸新報も、満洲日日新聞も、皆んな大本営の応援をしてくれました。

決して市民の皆様にはご迷惑をおかけしません!

共謀罪法、万々歳です。

昭和17年3月22日

追伸

思想信条に踏み込みます。

対象外は、あくまでも大政翼賛会と日本会議と森友学園友の会の会員と善良な市民のみです。

貴方は? どうでしょうかねえ。

桶狭間の戦いは情報戦だった!

皇居

【存在が意識を規定する】

日本人横綱稀勢の里。昨日が初日だった大阪場所では危なげない横綱相撲。やはり、存在が意識を規定する?

皇居

BS11の「尾上松也の古地図で謎解き!ニッポン探求」。
先週放送された「第72回 桶狭間の戦い なぜ敗れた?今川義元の実像」は実に面白かったですね。

今川義元と言えば、戦国武将とは名ばかりで、公家趣味が高じて、白粉まで顔に塗って軟弱な、そして愚鈍なイメージがありました。

何しろ、圧倒的有利と言われた桶狭間の戦いで、織田信長に敗れて、信長の引き立て役となり、愚かな弱者というイメージが定着してしまいました。

しかし、それに異議を唱えたのが、この番組のゲストの小和田哲男静岡大学名誉教授でした。

今川義元は、実は「海道一の弓取り」と言われ、最強の呼び声も高い戦国大名だったというのです。

しかも、今川家の五男として生まれながら、その4人の兄を乗り越え、抑えて今川家の家督を継ぐくらいですから、相当な強者(つわもの)だったのです。

義元はもともと、家督争いを避けるために、幼少期に仏門に入ります。そこで、「戦国一の軍師」と言われた大原雪斎に非凡な才能を見出され、武道だけでなく、兵法などの学問も叩き込まれるのです。

そんな義元がなぜ桶狭間の戦いで敗れたのか? 2万5000人の今川軍に対し、織田軍はわずか3000人。そこにはやはり、義元の慢心と油断があったからなのです。

まともに戦えば、信長が勝てるわけがありません。それでもなぜ信長が勝利を収めたのかと言えば、それは、小和田氏によると、信長の巧みな情報戦略による勝利だったというのです。

信長は、他の武将には目もくれず、義元の首級を取ることだけに集中します。そのために、間者を放ち、ありとあらゆる諜報活動を展開します。

そして、今川義元は、わずか5000人で桶狭間(現名古屋市)の山頂に本陣を張っているという情報をつかみます。残りの2万騎は、1万人ずつ別個に行動して、他の出城を攻撃していました。

5000人対3000人なら、万が一でも勝てないことはありません。信長は、桶狭間から見える所にわざと本陣を張り、幟旗をはためかせて全陣がいるように見せかけ、そこには1000人だけ残し、残りの2000人で雨の中を奇襲攻撃をかけ、大将の義元だけを目指して、結局、勝利を収めるのです。

皇居

この番組の進行役の歌舞伎俳優尾上松也は現在、大河ドラマ「おんな城主 直虎」で今川義元の嫡男氏真(うじざね)役を演じてます。

桶狭間の戦いで敗れた今川家は、そのまま滅亡したものと思っていたら、今川氏真は江戸時代まで生き延びるんですね。

小和田名誉教授は、その理由ついて、今川義元の人質だった松平元康(後の徳川家康)が、氏真とは幼馴染だったため、情状酌量で助命したのではないかというのです。

これで、今川義元観も、徳川家康観もすっかり変わってしまいましたね。

いやあ、久し振りに面白い番組を見たものです。

気になる絵島・生島事件

森田座跡

最近、どうも正徳4年(1714年)に起きた絵島・生島事件(えじま・いくしま・じけん)が気になってしょうがありません。

ここ数年、この事件は映画やテレビドラマの「大奥」もので、必ずと言っていいくらい取り上げられますから、今では知らない人はいないかもしれません。

絵島(江島が正式の説も。1681~1741)とは、大奥女中の総頭の大年寄で、老中に匹敵する格が高い地位だったそうです。

生島とは、当時大変人気のあった歌舞伎役者生島新五郎のこと。今で言えば、片岡愛之助か尾上松也あたりか?

この2人の禁断の恋愛沙汰が発覚したことで、大事件となり、死罪や遠流となった者数知れず。しかし、実は、6代将軍家宣の正室天英院ら譜代大名・旗本ら守旧派が、7代将軍徳川家継の生母月光院(6代将軍家宣の側室左京局)派を追い落とすために図った冤罪、もしくは城内クーデターだったという説が今では有力です。

守旧派は、新参者なのに権勢をほしいままにしていた家継の側用人(そばようにん)間部詮房(まなべ・あきふさ)や儒学者新井白石らに反感を持っていたという説もあります。

私がこの事件を最初に興味を持ったのは、当時「江戸四座」の一つで、江戸最初の劇場と言われた山村座が、この事件のとばっちりを受けてお取り潰しになってしまったことでした。残る江戸三座(中村座、森田座、市村座)もこの事件がきっかけで、浅草の猿楽町に移転を余儀なくされます。

それまで、芝居小屋が何処にあったのかと探したところ、木挽町、今の東京・東銀座にあったんですね。

上の写真は、森田座(後の守田座)の跡として、昭和通り沿いにある看板を見つけました。

で、お取り潰しにあった山村座はこの森田座の目と鼻の先にあったはずですが、今では影も形もなく、看板すらありません。

ここら辺だったという今は、コートヤード・マリオット銀座東武ホテルが建っている所だったらしいので、下の写真を撮ってきました。

コートヤード・マリオット銀座東武ホテル

拷問に近い厳しい取り調べの末、評定所の判決は、絵島は死一等を減じ遠流とされ、月光院の願いによって高遠藩主内藤清枚(きよかず)・頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移されます。
 相手の生島は三宅島に流罪。そして、不可解にも絵島の兄の白井勝昌(かつまさ)は、「監督不行き届き」ということで、死罪に処せられます。しかも、武士らしい切腹ではなく、斬首だったとか。

ほかにも旗本、奥医師や絵島を芝居小屋に案内したと言われる呉服屋、山村座の座元と役者らも連座し、その刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門蟄居などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられたそうです。

高遠藩と言えば、江戸内藤新宿(今の新宿御苑辺り)に上屋敷がありましたね。

絵島は高遠の囲い屋敷に幽閉され、そこで27年もの歳月を過ごし、寛保1年(1741年)に61歳の生涯を閉じたそうです。

生島は翌年、江戸帰還を許されたとも、そのまま三宅島で亡くなったという説があります。

今では、週刊誌が飛び付きそうな芸能スキャンダルですが、その裏には激しい権力闘争やら派閥争いがあったようで、今でも謎は解明されていません。

そのせいか、単なる過去の出来事ではなく、現代人にも身につまされる事件として、興味が持たれているのかもしれません。はい。

日本民族という奥床しきサガ

バチカン市国

皆さま、いつも渓流斎日乗の御愛読有難う御座います。

最近、あまり、いや、ほとんど全く反応が御座いませんが、宇宙の何処かの片隅に住む生物様がお読み頂いているのではないか、と柔らかな感触を得て毎日執筆活動に勤しんでいるわけで御座いす。

皆さま、毎日、嘸かし、お読みになることは大変なことでしょう。

でも、毎日、ボランティアで書き続けている私の方がもっと大変かもしれませんよ(笑)。
バチカン市国

ブログで、毎日起こる同時進行の事案を取り上げたりすると、すぐ風向きが変わってとんでもないことになったり、書いていた当時とは想像もつかないことが起きたりします。が、これも愛嬌ということで、当時はそう考え、予想したということですから、ま、そのままにしておきましょう。

最近の世相でいいますと、何処もかしこも、「アメリカ・ファースト」だの「都民ファースト」だの「ファースト」「ファースト」と喧しいですね。

「2番じゃダメなんですか?」と誰かさんの声が聞こえてきそうです。

バチカン市国

とにかく、「俺様最優先」なんてのは、ガキ大将が使う言葉でした。

往年のプロ野球選手の中にもそう言う人がいましたが、組織人とはいっても、自営業の人ならでは、そんなことができる宣言でしょうね。(トランプさんも自営業?)会社員や公務員や団体職員がこんなこと言ってたら、潰されますからね(笑)。

何とかファースト以外の似たようなことで、最近、ネットやメディアで目立つのは、「日本人は素晴らしい」「勤勉な日本人」「世界的にも優秀な民族日本人」といった日本人賛歌のオンパレードです。

こんなことを書くと、「それでもお前は日本人か!」「出ていけー」などと極右から糾弾されそうですが、あたしの場合は、国粋主義など遥かに上に行っていて、そんなこと殊更取り上げなくても当たり前でしょ?声高に叫ぶこと自体が恥ずかしいでしょ?といった考えなのです(笑)。

博多の丼卓先生曰く、やたらと日本人、日本人と強調したがる奴に限って、日本人じゃないからそんなことを言い立てるんじゃないですか?本来の日本人ならそんなこと言いません。もっと奥床しいものですよ。

ハハハ、私も同感です。

坂本龍馬は築地をシマにしていたとは

伊太利亜サンジミニャーノ

都心に住む友人の近衛君が「財産放棄の通知が来ましたよ」と言うではありませんか。

よく聞くと、山陰の田舎に住んでいた母方の祖母の住んでいた土地の遺産相続を譲渡してくれということらしいのです。

近衛君のご両親は既に亡くなって、その祖母も半世紀近く昔に亡くなっていて、「今頃、相続税放棄とは」と友人も驚いているわけです。

恐らく、税務署が調べに調べあげたのでしょう。相続人全てをリストアップして、書類には、全ての相続人には子や孫や曾孫ら81人と書いてあったらしいのですが、田舎の土地ですし、そう高価なものではなく、80人で分割しても大した金額にならず、相続税もあるでしょうから、譲渡の名を借りた放棄せよとの勧告に他ならない、と近衛君はにらんだわけです。

その土地は、国か県か市町村に持って行かれるそうです。

伊太利亜サンジミニャーノ

こんな話、日本全国、何処にでもあることでしょうね。

相続したとしても、相当な相続税を支払わなければならず、先祖代々の土地を泣く泣く手離すしかない人も多いかもしれません。

私が今住むアパートもまさしくそうです。

もともとは、星野さんという大地主の土地でしたが、相続税のお陰で切り売りせざるを得なくなり、最近、「最後の砦」だった私のアパートの目の前の竹林まで売却してしまいました。

かつては、駅まで2キロぐらいまで全て自分の土地だったらしいのですが、今は殆ど売り払い、見る影もありません。

伊太利亜サンジミニャーノ

考えてみれば、かつての大名屋敷だって、明治になって没収されて、練兵場になったり、官舎になったり、六本木ヒルズになったりして、昔の痕跡も面影すら残っていません。

特に、世界を見渡しても、東京ほど様変わりする都市は、世界広しと言えどないことでしょう。

土佐藩築地邸跡

そうそう、先日、築地界隈を散歩していたら、中央区役所の目の前に看板があり、そこには「土佐藩築地邸跡」と書いてあり、ビックリしました。

土佐藩邸と言えば、上屋敷は今の有楽町の国際フォーラム、かつての東京都庁にありました。

坂本龍馬は、この有楽町の辺りをウロウロしていたのかと思ってましたら、この看板によると、坂本龍馬は、有楽町ではなくて、こちらの土佐藩築地邸(中屋敷、もしくは下屋敷)に寄宿していて、ここから剣術修行のため、桶町(今の八重洲、京橋)にあった千葉定吉の道場に通っていたらしいですね。

坂本龍馬は、築地~八重洲辺りをウロウロしていたとは感慨深いものがあります。

坂本龍馬、京都で暗殺されて今年でちょうど150年です。

ほとんどの人間は他人

伊太利亜フィレンツェ

【コメント】

「ガヤ」の意味が分かる人様

コメント有難う御座いました。誰方様か分かりませんが、何か、素人ではなく、その筋の通(笑)の方と思われます。ケチな野郎ですが、以後お見知りおきのほど、偏に宜しゅうお願い申し上げまする。

さて、今年は、ビートルズの名アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がリリースされて半世紀です。

本国イギリスでは、1967年6月1日に発売されておりますから、ちょうど50年も経ちます。

となると、このアルバムを同時代人として知っている方は、もう還暦を過ぎていることでしょう。

どういうわけか、私は知ってます。やったね、です(笑)。このアルバムは、ポピュラー音楽史の中で、ベスト10、いやベスト3に入る名盤で、これまでの音楽とは一線を画し、後世の音楽に多大な影響を与えました。

とは言っても、今日は音楽の話ではなくて、ピーター・ブレイクがデザインした超有名なこのアルバム・ジャケットのことです。

中央に、架空のサージェント…バンドのメンバーに扮したビートルズの4人が立ち、その周囲に色んな有名人が並んでいます。ボブ・ディラン、マリリン・モンロー、マーロン・ブランドのほか、マルクスやユングらもおります。ほかに、ジョン・レノンが来日の際にお土産として買った福助の人形やソニーの9型ポータブルテレビ…。

伊太利亜フィレンツェ

さて、これらの人たちが、どういった基準で選ばれたのか分かりませんが、4人の、特にジョン・レノンの意見が最も反映されているように思われます。

中に、バーナード・ショーやディラン・トーマス、オスカー・ワイルドといった彼に多大な影響を与えた作家や詩人が選ばれているからです。

それにしても、サージェントが世界に発表された時、ジョン・レノンはまだ26歳ですからね。ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはともに24歳、リンゴ・スターは26歳です。この若さで歴史に残る大きな仕事を成し遂げたのですから、彼らは天才としか言いようがありません。

伊太利亜フィレンツェ

で、この中で、今日はオスカー・ワイルドを取り上げます。私自身は、このアルバム・ジャケットで初めてオスカー・ワイルドの顔を覚えたぐらいですから(笑)。

最近、どういうわけか、彼の作品は再評価されているようですね。

オスカー・ワイルド(1854~1900)は、ダブリン生まれのアイルランド人です。(当時は英国領。ジョンもポールもアイルランド系なので、惹かれたのかもしれません)オックスフォード大学を首席で卒業するほどの秀才でしたが、鼻につく芸術家気取りで相当変わり者だったようですね。

男色家で、最期はパリで、梅毒による脳髄膜炎で亡くなります。享年46。ペール・ラシェーズ墓地に葬られます。

代表作に「サロメ」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」などがありますが、何と言っても、彼のアフォリズムが秀逸です。例えばー。

??「男の顔はその人の自伝であり、女の顔はその人の創作である」

??「男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の女になる事を願う」

なんてのがあります。

日本の古い格言(笑)にある「女の顔は請求書、男の顔は領収書」てところでしょうか?(爆笑)

こんなのもあります。
??「外見で人を判断しない者は愚か者である」

これは名言です。

でも、私の好きな言葉は

??「自分らしくあれ。他の人の席はすでに埋まっているのだから」

です。アイルランド人らしい皮肉で凝り固まっています。この辺りが、ジョン・レノンの好むところだったのでしょう。

最後は、駄目押し。私から言わせれば最高傑作です。

??「ほとんどの人間は他人である。思考は誰かの借り物の意見であり、人生は人の物真似。そして情熱は引用である」

はい、引用させてもらいました!

安藤昇という人とその時代

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点(1949年3月頃、安藤昇が封切洋画「哀愁」を見に出掛けた際〔恐らく銀座「並木座」だったのではないか?〕、台湾人の蔡とすれ違い口論となり、蔡によって、ジャックナイフで左?を切られ、新橋・十仁病院で30針を縫う大怪我を負った現場の現在)

名古屋にお住まいの海老普羅江先生からのお勧めで、大下英治著「激闘! 闇の帝王安藤昇」(さくら舎)を読了しました。講釈師、見てきたような…で、どこまでフィクションで、どこまでがノンフィクションか分かりませんでしたが、戦後闇市から昭和30年代にかけて、生命を賭けて、東京・渋谷のシマを守りきった当時愚連隊と呼ばれた若者たちの生態が解剖学のようにピンセットで分け入ったような描写で、生き生きと活写されておりました。

銀座・天国
この本のハイライトは、1958年の横井英樹銃撃事件でしょう。(現場は、東京・銀座8丁目の天麩羅「天国」裏手の第2千成ビル「東洋郵船」、実行犯は、千葉一弘後の住吉会相談役)この事件のお陰で、安藤昇は前橋刑務所に収監され、その間に、「東興業」、いわゆる安藤組の社長代行を務めていた花形敬が東声会により刺殺されます。花形敬は、力道山より強かったと言われるほど伝説の武闘派で、ジャーナリストの本田靖春が「疵」というタイトルで評伝を書いた人物です。

銀座8丁目10番ビル

その後、安藤組は、渋谷の縄張り争いで、錦政会(後の稲川会)三本杉一家と対立し、安藤組大幹部の西原健吾が東京・外苑前のレストラン外苑で、三本杉一家の中原隆によって、銃殺されます。この二つの事件がきっかけで、安藤昇は組の解散を決意し、昭和39年(1964年)12月9日、渋谷区千駄ヶ谷の区民会館で解散式を行うのです。

安藤昇はこの時、まだ38歳。この翌年、映画俳優に華麗なる転身を遂げるわけです。

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点

私は、映画俳優の安藤昇しか知りませんでしたので、この本では色々と教えられました。以下、引用しますとー。

●安藤家は、小田原の北条早雲の侍大将安藤式部の末裔と言われ、安藤昇は大正15年5月24日、東京新宿の東大久保天神下生まれ。父親の栄次郎は早稲田大学商学部を出て、古河財閥のゴム会社に入社以来、実直な勤め人だった。

●安藤昇が、横井英樹襲撃事件の後、逃走している間、匿っていた人の一人が、当時、東映ニューフェイスとして売り出し中の女優山口洋子。後に銀座のクラブ「姫」のママとして名を馳せ、同時に、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、中条きよしの「うそ」などの作詞を手掛け、昭和60年に「老梅」「演歌の虫」で直木賞を受賞した。2014年、77歳で死去。

⚫︎女性にもてた安藤昇は、8回結婚し、7回離婚した。

●安藤組の大幹部志賀日出也(解散後、住吉会幹部)の父親は、戦後最大の高利貸しと謳われた森脇将光(石川達三「金環蝕」の中でもモデルとして登場。映画化の際、宇野重吉が演じた。これは必見!)の番頭をしていた。志賀の妻細木弘恵は、渋谷円山町のバー「娘茶屋」のママ細木ミツの長女。四女が六星占術で有名な細木数子氏。彼女は、新宿をシマにする小金井一家堀尾昌志総長の姐御として知られた。

●安藤昇は2015年12月16日に肺炎のため死去、享年89。16年2月28日に青山葬儀所で「お別れの会」が営まれ、発起人は、佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田真三、梶間俊一の各氏。

以上、歴史上の人物などについては、本文に沿って敬称略としました。

安藤昇は、海軍予科練に入り、特攻隊の一人に選ばれましたが、終戦で事無きを得ます。終戦後の米軍占領下の大混乱の時期に、国家も警察も機能せず、暴力装置に頼らなければ、生き抜けなかった時代背景がありました。

安藤組は、薬物売買や刺青を禁止したりして、他の暴力団とは一線を画す方針を取りました。

それでも安藤組解散後、多くの組員は既成組織に入り、幹部の一人三本菅啓二氏は、稲川会系の「大行社」の2代目会長となります。大行社は、住吉会系の「日本青年社」と並ぶ日本の右翼団体です。15年に山口組の分裂の余波で、三本菅会長が交代したらしいですが、この本にはそこまで触れられておりませんでした。