民教協スペシャル「祖父の日記」は

中国 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

第31回民教協スペシャル「祖父の日記」を見ましたが、こういう重厚で真面目なテレビ・ドキュメンタリーは派手な宣伝もされませんし、祝日とはいえ、午前10時からというゴールデンアワーからほど遠い閑散期に放送されますので、誰も知られず、誰にも見られないことだろうなあと思いつつ観ていました。

 第一、民教協なんて、誰も知らない。民族協和かと思いましたら(笑)、民間放送教育協会の略称で、設立が1967年といいますから、今年でちょうど50年。半世紀も経ってこれほど認知度の低いマスコミ団体も少ないんじゃないでしょうか。

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 とにかく、全国の民間放送の制作した番組の中で、毎年、賞を選んでいるようですが、この作品も最優秀賞か何かを獲得したかもしれませんが、詳細は分かりません(苦笑)。

「祖父の日記」 ←こちらのHPにも書いていないようです。 

 この番組は、いわゆる支那事変後、中国戦線に上等兵として召集された熊本放送の井上佳子ディレクターの祖父井上富廣さんの足跡を辿ったドキュメンタリーでした。

 祖父の富廣さんが残した日記や手紙や戦友からの手紙などから、富廣さんは昭和13年(1938年)6月に上海に衛生兵として上陸して、わずか47日後に戦死していたことが分かるのです。享年27。小作農として働いていた故郷熊本には若い妻と3歳の一人息子が残されます。

中国・哈爾濱 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 番組では、井上ディレクターが、祖父の足跡を辿って中国に渡り、当時中国兵だった人らにインタビューしたりします。最初は、自分の祖父が日本兵だったことをなかなか口に出して言えなかった井上さんも、最後に、当時、母親を日本兵に殺されたという人に告白します。

 当時3歳ぐらいだったその方は、貧しかったので母親の遺体は粗末な棺桶に入れられて山の中に埋葬されたものの、あまりにも幼くて母親の死を受け入れられず、その場に居座ったり、何度も埋葬された山に行ったりしたことなどを語り、日本兵の残虐さを訴えていました。

 それが、インタビューワーの井上さんの祖父が、日本兵で、現地で戦死したということを聞かされると、怒るどころか、あなたのお爺さんも大変だったんですね、とお互い戦争の犠牲者だったという風に労りの声を掛けるのです。

 これには胸が熱くなりましたね。久しぶりに民放で良い番組を見ました。

 でも、こういう良質な番組に限って、視聴率が取れず、従ってスポンサーも付かず、ほとんどお蔵入り状態になってしまうものなんですよね。特に民放となりますと、視聴率最優先で、どこのチャンネルも、似たようなお笑いタレントばかり。

 そもそも、民放自体が番組を制作していないことが現状です。大手放送キー局は特に、いわゆる番組制作会社に丸投げして、ただ時間帯を貸す大家さんのような賃貸業者に堕落してますからね。

 番組制作には相当な予算が必要なので仕方ないのかもしれませんが。

 今日も明日も、吉本興業かジャニーズか、バーニングか、サンミュージックか、ホリプロか研音か、アップフロントか、新栄プロか、芸映か廣済堂か田辺エージェンシーかアミューズか、まあその辺りのプロダクションが頑張っていらっしゃるようです。

最近では、民放どころか、受信料を徴収する公共放送NHKまでがそうなんですから(しかも、ラジオまで??)、免許事業者として如何なものかと存じる次第で御座います。

八丁堀与力・同心組屋敷跡

与力・同心組屋敷跡

風来坊、渓流散人ですから、自分勝手にお庭と称している八丁堀を漫遊してきました。

与力・同心組屋敷跡を見たかったからです。

写真の看板にある通り、江戸町奉行配下の与力は知行200石、300~500坪もの広大な屋敷を与えられたと書いてありますね。小説やドラマで描かれている以上に、相当身分も高く、奉行が警察庁長官なら、与力は、まあ県警本部長クラスだったのでしょう。

同心は、知行30俵2人扶持、100坪の土地を与えられたといいますから、狭い長屋暮らしの庶民から見れば、相当の待遇です。

でも、暮らしはそれ程楽ではなく、土地の一部を貸して生活していたなぞと書いてありますね(笑)。

こういう情報は、ネットに出さず、足で稼ぐようにしなければなりませんね。

もちろん、江戸時代の風情も面影も一切合切、なあんにも残ってはいませんが、その土地に立って、一生懸命に想像力を働かせると、見えなかったものが見えてきそうです。

うな丼500円!

地下鉄八丁堀駅近くに行くと、何と「うな丼500円!」のお店があるんじゃありませんか。

今、うな丼といえども、安くても2000円ぐらいはします。そのため、渓流散人もここ何年も食していません。

500円なんて、その驚異的値段に、一体何処の鰻なんだろうと猜疑心ばかり先走ってしまい、遂に入店せず、写真だけ撮って来てまいりました(笑)。

八丁堀

江戸時代の八丁堀は、長屋が連なっていたのでしょうか?

日比谷でさえ、江戸時代に埋め立てられた土地ですから、八丁堀も埋め立て地だったんでしょうね。昔は、物資は道路よりも水路で運搬することが多かったので、もっと河川ばかり街中にあったことでしょう。

神社仏閣や火除け地などもあったでしょうが、歩いた範囲内にはその痕跡すら見つかりませんでした。

事前によく調べて来なかったせいです。自分が、うっかり八兵衛になったような気分でした。

【追記】

天下の築地「竹葉亭」にリサーチに行ってまいりました!鰻丼Aが2400円、鰻丼Bが2900円でした。

で、それが何か?

「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」

哈爾賓 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

京都にお住まいの京洛先生が、ニヤニヤと涎を垂らしながら、「渓流斎さんに、ピッタリの本がありますよ」と、ある本を推薦してくれました。

斎藤充功著「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」(学研)でした。

この方は、陸士26期。戦時中に、あの秘密諜報防諜機関、陸軍中野学校の創設者の一人(この他は、兵務局付岩畔豪雄中佐と兵務局兵務課福本亀治憲兵中佐)で、初代校長を務め、最後は満洲ハルビン特務機関長(実際は関東軍情報部長)となり、ソ連軍侵攻により逮捕され、ウラジーミル監獄で獄死した人でした。

先の大戦の特務機関といえば、軍人なら、影佐禎昭(陸士26期=谷垣禎一元自民党幹事長の祖父)、岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)、田中隆吉、土肥原賢二、それに民間人なら里見甫、児玉誉士夫、許斐氏利辺りが皆様もすぐ頭に思い浮かぶことでしょうが、もし、この秋草俊を御存知の方は余程の通か物知りです。

 旧哈爾賓学院 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

何しろ、諜報専門の特務機関に携わるぐらいですから、超極秘の機密情報です。世間に存在を知られること自体が憚られます。

ですから、本来なら誰にも知られることなく、謎のままに終わっているはずでした。

この本では、秋草俊の亡くなった年齢が満54歳なのに、55歳と明記したり、1926年4月を昭和元年と書いたり(実際は大正15年)、ポーランドをホーランドと誤記したりして、基本的な誤記や平仄が合わない事実関係などが目立ち、本書全体の信頼性を欠くことになりかねないのですが、よくぞここまで調べ尽くしたものだと感心します。

平仄が合わないのは、編集者と校正担当のせいでもあるので、最近の出版社の編集者の能力が劣化しているせいかもしれませんが。

 哈爾濱・松花江 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

いやはや、それにしても内容は実に面白いですよ。

秋草俊の親戚や縁戚には、日本電電公社総裁や富士通社長、日興証券社長までいる華麗なる一族でした。

昭和20年8月9日に、ヤルタ会談の密約からソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲に攻め込みます。

この時、本来なら丸裸の満蒙開拓団の残された老人や婦女子の防波堤となって、最期まで守り抜くことが関東軍のお役目だったはずなのに、機密情報を逸早く聞きつけた関東軍は、自らと軍人軍属の家族を、高級将校は飛行機で、それ以外は列車で南下して逃亡させる様も描かれています。

ハルビンといえば、市郊外に悪名高き731石井細菌部隊があった所でした。

同書の中で、この石井四郎中将が、ソ連軍侵攻が間近に迫り、秋草俊特務機関長のもとを訪れて、一緒に帰国しましょうと説得する場面が出てきます。

それが、秋草俊は、自分には責任があるから居残りますと言って、断るんですね。

結果的にこれで、ソ連軍によって逮捕され、「スパイ王」として、夜も眠らせない厳しい取り調べを受け、病気のため、ウラジーミル監獄で獄中死することに繋がります。

秋草俊は、陸軍士官学校を出ただけで、陸軍大学校にまで進学していないのに、将官まで昇進しました。余程、優秀だったのでしょう。対ソ連の諜報防諜が専門で、東京外語大(当時は東京外国語学校)露語学科と、あのハルビン学院(当時はハルビン日露協会学校)でもロシア語を学んでいたので、相当、ロシア語には精通していたことでしょう。

近現代史にご興味のある方にはお勧めです。

【追記】

●2014年7月に、ハルビンに旅行に行った際、初めてだったのでウロウロしていたところ、「僕は2回目だから、ご一緒しましょう」と声を掛けてくれたのが、同じツアーのK氏でした。彼は、かつて日本人が経営していた百貨店「松浦洋行」に連れて行ってくれました。この本によると、この松浦洋行の近くに秋草俊がつくった対ソ謀略工作組織「白系露人事務局」があったというので、驚いてしまいました。

●秋草俊は、第4国境守備隊隊長(大佐)時代、首相を務めた近衛文麿の長男文隆の挙式に参加しています。1944年10月12日、哈爾濱神社でのこと。新婦は、浄土真宗本願寺派の執行長大谷光明の二女正子。
近衛文隆は、関東軍大尉で捕虜となり、ルビアンカ、レフォルドヴォ、ウラジーミル監獄など10年余りもたらい回しにされ、1956年10月29日、チェルンツィ村の収容所で、病死。享年41。

●宮川船夫ハルビン総領事(1890~1950)1911年、東京外国語学校露語科卒後、外務省入省。駐モスクワ大使館一等書記官などを経て、44年5月、ハルビン総領事。45年9月24日、NKVD(内務人民委員部)防諜機関スメルシュに逮捕され、ウオロシーロフ将官収容所に収容。50年3月29日、モスクワ市内のレフォルドヴォ監獄で心臓麻痺で死去、享年59。対ソ諜報活動に従事していた。

今更ながらのバルザック「ゴリオ爺さん」の読みどころ

伊太利亜フィレンツェ

バルザックの名作「ゴリオ爺さん」は、もう1週間以上前に読了しておりますが、渓流斎ブログでまとめていなかったので、敢えて収録します。

ラッキーだったのは、バルザックが「人間喜劇」として同名人物が他の作品にも登場するやり方で連作を書いたのが、この「ゴリオ爺さん」が最初でした。バルザックの小説の中で、「ゴリオ爺さん」を初めて読んだ人は大正解だったわけです。

若きウージェンヌ・ド・ラスティニャックは、この後、「従妹ベット」「アルシの代議士」に登場し、大臣を歴任し、勅撰貴族院議員伯爵まで登りつめます。

あの悪党ヴォートランことジャック・コランは、再び脱獄して、「浮かれ女盛衰記」「幻滅」に再登場。ボーセアン夫人は「捨てられた女」、ランジェ夫人は「ランジェ公爵夫人」、遺産を相続する若い娘ヴィクトリーヌ・タイユフェールは「赤い屋根」にそれぞれ再び読者にお目にかかることになっています。と、19世紀の読者の皆様向けに書いてみました(笑)。

バルザックの凄いところは、フランス・パリの貴族社交界を舞台に、徹底的に人間心理を分析したところです。人、モノ、カネを細密画のように描きました。侘び寂びを好む日本人はとてもついていけません。

本当に、グジャグジャ、ドロドロとした人間関係で、恬淡な日本人ならすぐに嫌になってしまいます。逆に、バルザックという男は、本当に人間が好きだったんだなあ、と思ってしまいます。人間だけに捉われず、花や風景や、せめて犬や猫に気を紛らわせていれば、もっと長生きできただろうに、と思ってしまいます。

もう一つ、あの社交界とやら、どうしてあれほど露骨に男女の不倫や縺れ合いや恋愛感情ばかりあるのだろうかと不思議に思ってしまいました。しかし、ゴリオ爺さんの2人の娘を見ただけでも、愛情があって結婚したわけでなく、お互いに財産やら爵位やら目当ての政略結婚が多かったことが分かります。

だから、結婚して初めて自由恋愛に目覚めるのかもしれません。人間は気まぐれで、絶えず人を裏切るので、それこそドタバタ喜劇(笑)が展開されるわけです。読んでいても、途中で嫌になります。

伊太利亜フィレンツェ

以下は引用です。

ーパリでは評判がすべてで、権力を手に入れる鍵ですの。女たちが、あなたが才気のある人だと言えば、男たちも、あなたが逆のことをしない限り、それを鵜呑みにするものなのよ。…あなたは、世間というものがどういうものか、つまりお人好しとぺてん師の集まりだということが分かるでしょう。p139(ボーセアン子爵夫人)

ー天才の力には誰でも屈服する。…だから、買収というものがやたらと凡人たちの武器になる。…パリでは、正直者とは黙り込んで、仲間入りを断る人間のことさ。…世間ってものは、道学者連が何と言ったて、変わりっこない。人間は不完全なんだよ。人間は多かれ少なかれ、偽善者になることがあるが、そうすると頓馬な連中は、やれ真面目だ、不真面目だなどとぬかす。…君も、もし優秀な人間だと思ったら、頭をあげてまっすぐに進みたまえ。しかし、羨望とか中傷とか愚鈍とかと戦わなければなるまいな。186~189頁。(ヴォートランの長広舌)

ー「大事な用件があるだの、寝ているだのと言って、娘たちは来ないだろうとも。わしには分かっていたのじゃ。死ぬときになってみて、子どもとはどういうものか分かる。嗚呼、ウージェンヌさん、結婚しなさんなよ、子どもなんて持ちなさんな!」470~471頁。(臨終間際のゴリオ爺さん)

伊太利亜フィレンツェ

キーパースンであるデルフィーヌ・Nucingen男爵夫人(ゴリオ爺さんの次女で、銀行家の男爵と結婚。次第にラスティニャックに惹かれていく)は、平岡篤頼氏訳では、「ニュシンゲン」となっていますが、「ニュサンジャン」じゃないかなあ、と思ってしまいました。それとも、ドイツ系なのかしら?

本来の発音を、フランス語のネイティブの方に聞きたいぐらいですが、今はフランス人の知り合いが一人もいないので残念です。

??ちなみに、「ゴリオ爺さん」は、サマセット・モームが選ぶ「世界10大小説」の一つ(他に、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、トルストイ「戦争と平和」など)

??51歳で亡くなったバルザックは、フランス中部トゥール出身。トゥールといえば、トゥール=ポアティエの戦いを思い起こします。732年のことですから、日本は奈良時代!フランク王国(メロヴィング朝)の宮宰カール・マルテルが、イスラム軍を撃退し、封建制度(騎士に封土し、忠誠を誓わせる)を確立する基盤をつくった世界史に残る戦いです。
カール・マルテルの子ピピン3世は751年、メロヴィング家の王を廃して、カロリング朝を開きます。

「満洲新京~長春今昔」のフィルム鑑賞会

 旅順 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 昨日は、いつも渓流斎ブログで使う写真でお世話になっております松岡將氏(「松岡二十世とその時代」などの著者)の御邸宅にお呼ばれしまして、「満洲新京~長春今昔」のフィルム鑑賞会に参加してきました。

 そもそも、この会は、松岡氏が長年、お金と時間をかけて、御子息の世界的スーパーコンピューターの権威である博士からの手助けを得ることなく(というか、実は、足手まといとなることから、助言さえもらうこと能はず?)、独力で全337枚ものjpgを駆使して、他人様にも鑑賞に耐え得る資料を地道の努力で作成することができたというので、それでは、宝の持ち腐れになるのも何なんですから、何人かの有志を集めて鑑賞会でも開きましょうか、と私が言い出したことがきっかけでした。

 ですから、私のように満洲といえば、「餃子の満洲」に行ったぐらいで、満洲生まれでも育ちでも何でもない人間ながら(実際は3年前に一度だけ満洲の地に足を踏み入れ、新幹線「和諧号」にも乗ってきました!)、呼びかけ人の特権から鑑賞会の参加切符を手にしたわけです。

 昨日は、私も入れて5人も参加されましたが、私を除く全員が、満洲生まれか、満洲の小学校や中学校に通った方々ばかりでした。皆さん、子供時代に返ったように感激されておりました。(参加された方々のお名前は控えることにしますが、いずれもご尊父が満州国で重職を務めた方々です)

 旅順港 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 時間に遅れてはいけないと思い、少し早めに家を出たので、約束の待ち合わせ場所を確かめてから、初めて来た高級住宅街を散策してみました。ニューヨークのトランプタワーのような豪華なマンションもあり、凄い所だなあ、と思って約束場所に戻って、皆で連れ立って、松岡氏邸を目指したところ、何と、そのトランプタワーがご自宅だったので、吃驚してしまいました。

 もっとも、松岡氏の弁によりますと、このマンションの所有主は、トランプ政権に入閣できるような大変優秀な御令嬢のものらしいですが、ホテルのような豪華さには圧倒されてしまいました。

 居間が映写室に早変わりし、「スライドショー」は、満洲の首都だった新京と戦後の長春の昔と今を比較して、ああだった、こうだったという弁士松岡氏の弁舌が冴えて、大変見応えがあるものでした。

 氏の努力の賜物で、グーグルアースとやらも引っ張ってきて、昔、松岡氏が通った新京の桜木小学校は、今でも小学校か中学校らしいのですが、2、3年前から校庭を拡張して、Jリーグの公式試合でも開催できそうな緑の芝を満々と蓄えた広大なサッカー場ができている様を衛星写真で映し出していました。

 黒河 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 満洲は、関東軍による傀儡政権と言われ、新京駅前から南北を縦断するメインストリート付近には関東軍総司令部など壮大で、天守閣のような異様な公共建物が陸続と建設されました。

 勿論、批判や汚点はありますが、田舎の農村だった長春を首都機能設備を持つ都市として、インフラの道路、水道、電力、電話電信、行政、司法施設、警察署から、住宅、病院、学校、監獄!まで計画的に建設したのは、かの大日本帝国だったことは間違いありません。

 モノの本によりますと、戦前の日本本土では普及していなかったスチームによる床暖房設備を備えた住宅が満州には既にあったらしいですね。

 新生中国になって、彼らは勿論、「偽満洲」と断罪して、戦前の日本の「侵略」を非難する教育を展開しましたが、全面否定しているのにも関わらず、かつての関東軍総司令部が、今では吉林省人民委員会の省庁になっていたり、かつての満洲銀行をそのまま人民銀行として使ったりしているのです。

 まあ、「有効活用」という言い方もできるかもしれませんが、それこそ、満洲で生まれ育って引き揚げた日本人としては、今でも「満洲とは何だったのか」と思うようです。映像を見て、私もその気持ちが分かるような気がしました。

 鑑賞会の後、近くの有名な焼き鳥「ニューれば屋」で懇親会を開催しました。戦後ながら、旧満洲生まれの「レコードチャイナ」の八牧社長さんも参加されて、皆さんとは初対面とはいえ「満洲仲間」ということで、すぐ打ち解けて、話が弾みました。
 八牧氏は、「週刊金曜日」などのメディアからも取材を受け、最近大変ご活躍されているようですが、今後も満洲仲間との交流を一層深められたら、私のような一介の仲介者としてはこの上のない喜びです。 

バルザックはノンフィクション作家だった

伊太利亜フィレンツェ

月末になると、データ通信量が不足して、たちまち、「ギガ漂流人」と成り果てます。

ギガ漂流人とは、契約しているデータ通信量が不足しているため、外部のWiFiを求めて彷徨い歩く誠にブザマな、人様には見せられない状態のことです(笑)。

貧乏なので、家では、使い放題の光通信と契約していないからです。

まず、パソコン用では、モバイルワンのWiFiのルーターを契約していまして、今月は3GBで1188円。これは、動画の映画1本観ただけで、2週間ほどで使い果たして、その後、パソコンでブログに写真さえアップできなくなりました。酷すぎる…。

iPHONEとiPAD用は、auで1カ月3GBを契約したところ、これまた3週間も持たず、使い切ってしまい、新たに1GBを1000円で追加購入したほどです。

伊太利亜フィレンツェ

そこで、最近は大抵のレストランやコーヒーショップでは専用WiFi回線を引いていくれているので、昼休みなんかにそこに行って、使わせてもらい、昨日なんかは、築地のタリーズで、コーヒー代320円で30分も粘って、アプリのアップデートをさせてもらいました(笑)。

そう言えば、2013年にベトナムのホーチミンに旅行した際、日系の上島珈琲が経営しているコーヒーショップを見つけ、そこで、WiFiのパスワードを教えてもらって、使わせてもらったことを思い出しましたね。

伊太利亜フィレンツェ

遅ればせながら、今、バルザックの「ゴリオ爺さん」を小説としてではなく、経済書として読んでいると以前書きましたが、本当に面白いですね。夢中になってしまいます。こんな感銘を受けた小説は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んで以来だと思います。(カラマーゾフの「大審問官」のようなヴォートランの長広舌が出てきます)

1819年。19世紀のパリの場末の下宿と華やかな社交界が舞台になっていますが、当時流行しているファッションから文学、音楽、特にオペラの話題が、当時の人気歌手も実名でふんだんに出てきます。

パリのイタリア座で上演されているロッシーニの「セルビアの理髪師」も出てきますが、何気なく、書斎にあった吉崎道夫著「立体 クラッシック音楽」(朝日出版社)を手に取ってみたら、40作品ほどの歌劇を作曲したイタリア人の天才ロッシーニは、1824年から36年ごろまで、パリのイタリア劇場の音楽監督を務めていたことが分かりました。つまり、バルザックが「ゴリオ爺さん」を執筆していた1834~35年は、ロッシーニはパリに滞在していた時期であり、「セルビアの理髪師」は1816年、ローマのアルジェンティナ劇場で初演されていますから、時代的に矛盾がなく符号しているわけです。(ちなみに、ピアノの詩人ショパン1810~49も画家ドラクロワ1798~63もバルザックとは同時代人です)

社交界でゴシップとして話題になった1812年に実際に起きたモラン夫人のラグロー氏殺人未遂事件なども出てきます。

なるほど、バルザックの書く小説は、フィクションというより、ノンフィクションに近かかったんですね。

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雨宮敬次郎か、岩谷松平か?

伊太利亜フィレンツェ

宝塚をつくった小林一三、東武鉄道をつくった根津嘉一郎らは、今の山梨県出身。いわゆる「甲州財閥」の一角を占めていることは皆さんもよくご存知のことと思います。

しかし、雨宮敬次郎となると、京都の京洛先生のようによほどの通ではなければ、今では知る人も少ないことでしょう。

この方、「投機界の魔王」と呼ばれた人です。何と言っても、魔王ですからね。コワ~。江戸時代の弘化3年(1846)生まれ。明治維新後の新国家を建設する中、鉄道や電力などのインフラ事業に投資して、巨万の富を得た甲州財閥を代表する人です。

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あるネット情報によりますと、この雨宮敬次郎の別邸が、かつてホテルニュージャパンがあった東京・永田町にあり、敷地内には動物園もあった、という記述を見て驚いてしまいました。

まあ、ネット情報ですから、「偽ニュース」かもしれませんけどね(笑)。

横井英樹が買収したホテルニュージャパンが火災の大惨事に遭ったのが、1982年なのでもう35年も経つので、このいわく付きのホテルについては、若い人は知らないかもしれません。今では、この敷地は外資系プルデンシャル保険の手に渡り、森ビルの開発でプルデンシャルタワーが建っています。

ホテルニュージャパンの別地下には、ニューラテンクォーターという昭和30年代から50年代にかけてかなり有名なナイトクラブがありました。ここで、あの力道山が暴力団員に刺されたことでも知られています。ロバート・ホワイティング著「東京アンダーワールド」にも出てきますね。

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で、このホテルニュージャパンの前に何があったかと言いますと、昭和11年の2・26事件でも有名になった日本料亭「幸楽」があったことは、近現代史に興味のある方の間では常識です。

今でも写真だけが残っていますが、目黒・雅叙園のような大広間のある超高級料亭でした。

その幸楽の前に何があったかと思ったら、投機界の魔王こと雨宮敬次郎の別邸があったというわけです。

しかし、他のネット情報によると、ここには、雨宮敬次郎ではなく、岩谷松平(いわや・まつへい)の別邸があった、と記しているものを発見しました。

岩谷松平と言っても、今では忘れられてしまった人物ですが、「煙草王」と呼ばれた明治の大富豪です。

政府が専売制度にする前に、奇抜な宣伝で「天狗煙草」というタバコを売り出して、それこそ巨万の富を手にした大富豪です。今の東京・銀座の松屋デパートの敷地に天狗煙草の本社があったといいますから、どれほど繁盛していたか想像つくことでしょう。

この岩谷松平の別邸が、幸楽ができる前の敷地にあったとしても何ら不思議ではありません。

 雨宮敬次郎か、岩谷松平か?

真実は一つなんですが、米国でトランプ大統領が登場して以来、世の中には、真実は二つもあるらしいので、両方なのか?

識者の方には是非ともご教授願いたいものです。

と、書いても、どなたも投稿してくんないんですからに~

米墨戦争がターニングポイント

伊太利亜フィレンツェ

昨晩、バルザック関係で久し振りに世界史の年表を見ていたところ、面白いことを発見しました。

まさに、バルザックが生きていた時代。1848年はフランスで、第二共和制につながる「二月革命」が起きた年として、歴史に刻まれております。

ちょうど、その同じ年、海の向こうの新大陸では、米墨戦争が終結した年だったんですね。

テキサスが、アメリカ合衆国の28番目の州として併合されたメキシコが、1846年に米国に宣戦布告し、米墨戦争は始まります。戦争は、終始米国優位に進み、1848年、米国は勝利を収めます。

この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、米国はカリフォルニア州、アリゾナ州など南西部をメキシコから奪取するのです。

伊太利亜フィレンツェ

ついでながら、ルイ14世からその名を付けられたルイジアナ州は、もともとフランス領でしたが、1803年にナポレオンによって米国に売却されます。

同様にフロリダ州も、もともとスペイン領土でした。

あ、「もともと」というのは、間違いでした。史実を正確に記せば、もともとは、ネイティヴ・アメリカンの土地を欧州人が、略奪、剥奪、占領、植民地化したものでした。

昨日、トランプ米大統領が、冗談かと思っていたメキシコ国境に「万里の長城」を建設するという大統領令に署名しました。

世界史年表を見ていると、1846~48年の米墨戦争が、エポックメイキングだということが分かります。

まさに、20世紀的史観から見ると、これは19世紀帝国主義・植民地主義が復活したような悪夢を見ているような感じです。

ゴリオ爺さん、嗚呼、偉大なるバルザック

伊太利亜フィレンツェ

世界的なベストセラーとなったトマ・ピケティの「21世紀の資本」の中で、オノレ・ド・バルザックの小説「ゴリオ爺さん」が、盛んに引用されていました。

単なる小説と馬鹿にする勿れ。

舞台は、バルザック本人がちょうど20歳の誕生日を迎えた1819年のパリです。 マダム・ヴォケーが営む賄い付き下宿で当時の最先端の様々な風俗が活写されます。1834年9月から翌35年1月にかけて執筆されました。時にバルザック35歳。

ちなみに、1819年はフランスでは、皇帝ナポレオンの失脚を経た王政復古(ルイ18世)の時代で、七月革命(1830年)も、二月革命(1848年)もまだ先の話。日本は文政2年。

何とも、古典の名作と言われるだけに、そんじょそこらの小説とは桁が違い違い過ぎます。フィクションとはいえ、恐ろしいほどの取材力で、当時実際にあった流行りのレストランや洋品店、下宿代、パン一斤の値段、銀食器の値段…など微に入り細に入り書き留められ、登場人物の心理描写といったら、あまりにもリアル。

伊太利亜フィレンツェ

なるほど、200年後の経済学者が惚れ込んで引用するはずです。

実は、私も、この小説をフィクションとしてではなく、経済書として読み始めております。

実は、と再び書きますが、無謀にも、いきなり、身の程知らずにも、最初は、原書から挑戦してみました。

しかしながら、とてもとても恥ずかしいことに、サッパリ理解できない。まるで外国語のようです。あ、そうでした、外国語でした(笑)。

1ページ読むのに1週間もかかり、それでも、薄ぼんやりとしか、意味がこのウスノロの頭の中に入ってきません。

遂に、諦めて、アンチョコを買うことにしました。アンチョコなんて、懐かしい言葉ですね。今でも使うのかしら?

伊太利亜フィレンツェ

それは、平岡篤頼早大教授訳の文庫版です。奥付を見ると、1972年4月30日、初版発行です。そして、2015年1月30日で41刷も売れておりますから、日本人も捨てたもんじゃないですね。

初版は、もう今から45年も昔なので、翻訳が少し古い感じがしますが、あの難解なフランス語をよくぞここまで日本語に置き換えたものぞと、感服しました。

正直言いますと、日本語で読んでも分かりにくい難解な部分もありますから、これを端から原書で読むなんて無謀だったんですね。

いずれにせよ、1日50杯もコーヒーを飲みながら、量産に次ぐ量産のライティング・マシーンと化しながらも、最期は力尽きて、借金まみれで僅か51年で生涯を終えてしまうこの大作家の作品を遅ればせながら、まるで同時代人になったつもりで、経済書として読んでいる今日この頃です。

本を読みながら、パリのラスパイユ通りに佇むバルザック像を思い出します。200年間近く、世界中の読者から未だに愛読される理由が、今更ながら分かったような気がします。

バルザックは、ヤバイ!

メリケン国に花札大統領が就任

伊太利亜ヴェニス

睦月二十日、海の向こうのメリケン国では、とうとう、花札大統領が第45代君主として就任しました。

 浦賀で居座る黒船のペルリ提督の通詞から齎された密書によりますと、花札大統領は、選挙期間中と相も変らぬ暴言で敵対者をねじ伏せて黙らせてから、「今後、予の世から、メリケンを鎖国とする」「人民保険もやめる」「万里の長城をつくる」「貧乏人は麦を喰え」と、高らかに宣言しました。(確か、もともと、メリケン国は、麦でつくったぶれっどとかいうものを食していたはずだが…)

 花札大統領が就任する前は、佐久間象山ら世の識者たちは、「一体どんな世界になるのか想像もつかない」と戦々恐々としておりましたが、なーんてこたあない。昨年のゲチスバーグでの選挙演説と一字一句も変わらない政策を実行しようとしているだけで、今後も簡単に予測がつくことが、この就任演説で証明されました。

 それより、瓦版の連中は、為政者の話よりも、飲み食いや着る物の話が大好きで、早速、大統領夫人のお召しになっている着物は、メリケン国の仕立て屋がつくった上から下まで鮮やかな海の藍色で統一され、さすがに花札大統領が「メリケン鎖国」を宣伝したものですから、夫人も大好きなミラノやパリの仕立て屋服が着られなくてなって残念である、と着色絵入りで大々的に報じておりました。

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 花札大統領は、商売人(あきんど)出身で、政治経験は全くないそうです。

 商売人ですから、何事も損得勘定で物事を判断し、憲法より優先します。

 花札大統領は、「取引」と言う言葉が大好きですが、鎖国ですから、自分の国だけを保護するために、異国との通商は禁止し、すべて朝貢貿易とすることにしました。

 朝貢貿易といえば、昔、我々がお隣の随の国と取引させられたときと全く同じです。我々幕府も、これから、メリケン国のモノが欲しいときは、色目といいますか、賂(まいない)といいますか、本来の価格よりも3割か4割も上乗せして買わないと、売ってもらえないということになるようです。その逆もまた然り。

 本来の価格は、毎日、大坂の堂島で取引されるコメの相場で決まります。

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 昨年は、エゲレス王国が、エウロパ連合からの離脱を宣言しまして、世界をあ、と言わせしめ、先ごろ、五月首相も「わが王国も鎖国するぜよ」と、どういうわけか土佐弁で宣言されておりました。何でだろう…?

 テロ組織を鎮圧中の見廻組佐々木只三郎からの書状では、今、京の巷(ちまた)では、お上(かみ)が大政を奉還するのではないかという噂でもちきりなんだそうです。

 銭形の親分、今年は面白くなりまっせ。