漢字の不思議

皇居

私は、全く中国語が出来ないのですが、漢字には「一文字一発音」の原則があるらしいですね。

例えば、「高」なら「がお」といった調子です。

(以下も含めて、間違っていたら、コメントで修正お願いします。)

それなのに、日本では、色んな読み方があります。

例えば、「明」なら、「みょう」「めい」「みん」といった感じです。

これは、実は、日本に漢字が輸入された際の発音そのまま、という説があります。

古い順に、「呉音」(飛鳥時代)、「漢音」(平安時代)、「宋(唐)音」(鎌倉時代)と呼ばれ、「明」を例に取れば、「みょう」が呉音、「めい」が漢音、「みん」が宋音となるわけです。

記紀によると、日本に漢字を伝えたのは、渡来人の王仁で、6世紀のことと言われています。

この頃、同時に仏教も入ってきましたので、文字という書き言葉は、お経が原点だったのでしょう。

そのせいか、「利益」は呉音で「りやく」と読み、漢音で初めて「りえき」と読むようになります。

宋音は、鎌倉時代の禅宗の留学僧が持ち帰ったと言われ、「行脚」(あんぎゃ)とか、「普請」(ふしん)などといった読み方をするようになります。

「行」は、呉音で「ぎょう」、漢音で「こう」でしたから、「あん」などと読むこの飛躍に当時の日本人の頭の良さには感心します。「行灯」(あんどん)もそうだったのでしょうね。

「和尚」は、呉音で「わじょう」、漢音で「かしょう」、宋音になって、やっと「おしょう」となります。

乾門

そこで、中国では「一文字一発音」ではなかったのではないかという疑問が生じます。

しかし、それは、地方によって、同じ漢字でも全く読み方が違っていた、ということで説明がつくことでしょう。

それに、中国には56もの民族が住んでいますから、中国4000年の歴史を見ても、漢民族以外に、モンゴル族や女真族など、漢民族から見ての異民族が支配した時代も長かったわけですから、それはそれは、色んな発音が飛び交ったことでしょう。

あれだけ広大な大陸ですから、地方同士では同じ中国語でも、言葉が通じなかったと言われます。実際、現代の中国人に聞きますと、北京語と広東語は、フランス語とドイツ語以上に言葉が違うといいますからね。

まあ、我国でも江戸時代は、薩摩藩と津軽藩の人は、全く言葉が通じなかったものと思われます。文字なら通じたでしょうが、現代人の私も、聞いただけでは分かりません。

漢字と言えば、日本人は優等生です。

中国に千年間も植民地支配されたベトナムは、独立後、漢字を捨てました。韓国朝鮮も漢字表記することは稀です。

それに対して、日本人は明治になって、「哲学」「科学」「経済」など考案し、中国が逆輸入するほどでした。

皮肉にも、「民主主義」も、「領土」も「領海」も日本人が欧米の書物から苦心してつくった言葉なんですね。ヒトは、概念から言葉をつくりますから、中国人にはない発想だったのかもしれません。

ポイント囲い込み運動

伊太利亜ヴェニス

山崎元著「お金に強くなる!」本では、競馬は娯楽としてやってもいいが、クレジットカードは使うな、と戒めておりました。

何でかあまり詳しい理由は書いてませんでしたが、一つは「いらない余計な買い物をしてしまうから」らしいのです。

けど、クレジットカードやプリペイドカードは、リボルビングなどという詐欺商法に引っかからなければ、現金だけ使うより、ポイントが貯まって還元されるので、その点だけは、いいのではないでしょうか?山崎先生?

伊太利亜ヴェニス

先日、もう何十年も会社の給料の振込み取引銀行にしていた田舎銀行のATMで、通帳がなくて、カードだけでお金を降ろしたら、紙切れにこの銀行には何とかクラブとかあって、私にもポイントが貯まっていることが初めて分かりました。

今まで、通常ならATMでも通帳を使って降ろしていたので、そんなポイントがあるなんて知らなかったのです。

早速、紙切れに書いてあった何とかクラブに電話して、ポイント還元の仕方を教えてもらい、iPadで事務手続きをしたところ、約1カ月後、今利用している通販のポイントに振り込まれていることが今朝、分かったのです。

長年のポイントが貯まっていて、約8000ポイント=8000円ですから、馬鹿にできませんよ、奥様(笑)。

さて、これで何を買おうかしら? iPadのキーボードにしようか、iPadの携帯用カバーにしようか? あっ!いずれも買ってしまったところでした。(笑)

本でも買おうかしら。

勿論、ポイントを発行する敵さんの真の狙いは、馬鹿な消費者を囲い込み、お金を使わせることだということは充分に分かってます。

ええ、騙されたと思って、8000ポイントを有効に使わせてもらいますよ、大統領。

越中富山の…

皇居

昨日は、銀行不信家さま、コメント有難うございました。

◇◇◇◇◇

これでも、私は、仕事と旅行で、北は利尻島、北海道から南は沖縄まで日本全国47都道府県に足を踏み入れたことがあります。これは、私の唯一の自慢です(笑)。

それでも、日帰りが殆どですから、滞在したことがある都道府県となりますと、もっと少なくなります。滞在したことがない県の中に富山県があります。普段あまり接点がないので、思いも寄りませんでしたが、この県はなかなか話題が豊富であることが、最近の渓流斎日乗の独自極秘調査で明らかになりました(大袈裟な!)。

この県は、古代中世から越中と呼ばれていましたね。隣県の新潟は越後、福井は越前ですから、この越とは何処を起点として指すのでしょうか?

ベトナムは、越南と言われ、漢字でもそう書かれますが、これは、中国から見た国境の南という意味です。ベトナムは、千年間も中国の植民地でしたからね。

それで、越中の越がどこから見て越なのか、気になってしまったわけです。

それはさておき、富山県の県庁所在地がある富山市は、富山平野で米作にも適していますが、その平野のほぼ真ん中に呉羽(くれは)丘陵があります。

呉羽は地名ですが、クレラップなどで知られる生活用品、化学製品会社クレハは、以前は呉羽化学工業という社名で、この地名が原点になりました。今はない富山県の呉羽紡績の流れを汲むということです。

この呉羽地方は、古代は呉服部(くれはとりべ)と言われ、中国の呉からの渡来人が多く住み着き、機織の技術などを伝えたと言われます。

呉服の語源ですね。

さて、富山県では、この呉羽丘陵を挟んで、東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と言い、実は歴史的にも文化的にも違います。

呉東は、新潟、長野県に接し、立山連峰が連なり、黒部市や魚津市などか中心です。

黒部市出身の偉人に、世界的なファスナー企業YKK(旧・吉田工業株式会社)を創業した吉田忠雄がおります。

吉田さんはもともと、魚津の人でしたが、不条理な理由で黒部に移住し、東京に出てきて一旗揚げたと言われております。(昭和9年に日本橋にYKKの前身のサンエス商会設立)

呉西は、石川県に接し、中心都市は高岡です。

勿論、高岡市と富山市は仲が悪い、と言ってはいけませんね(笑)。お互いライバルとして競い合っています。

面白いことに、富山県の県紙と言われる有力紙は、北日本新聞なのですが、高岡市だけは歯が立ちません。警察官僚から読売新聞の社主になった正力松太郎がこの街の出身で、全国紙では唯一と言っていいくらい高岡市には読売の購読者が多くおり、隣りの石川県の県紙北國新聞の傀儡と言われている富山新聞と覇を競っているからです。

これで、高岡市は富山文化圏ではなく、石川県=加賀前田文化圏だというわけです。つまり、戦国時代か江戸時代の飛び地と、そう時代は変わっていないということが分かります。

富山県が産んだ最大の偉人は、安田財閥を独力でつくった安田善次郎だということは、大方の富山県人の見立てです。

帝国陸軍参謀でシベリア抑留を体験し、戦後、伊藤忠商事の重役になり、フィクサーとして恐れられた瀬島龍三は砺波出身ですが、県民の評判は意外にも芳しくないようです。

安田善次郎は、確かに偉人で、莫大な財産を匿名で寄付するなど「陰徳」を積んだ人でした。しかし、この陰徳が最期に仇となります。

大正年間に、右翼の狂信者によって暗殺されてしまうのです。その理由が、人民の困窮を省みず、一人だけ奢侈を貪っているというのですから、何とも的外れです。

安田善次郎は、東京帝国大学の講堂(安田の死後、安田講堂と命名)や日比谷公会堂などの建設に当たり、名前を伏せて多額の寄付をしていたのです。

まさに、陰徳です。

歌舞伎役者の間では「五十、六十は鼻垂れ小僧。八十、九十になってやっと一人前」という言葉が言われてますが、もともとは、この安田善次郎の言った言葉らしいですね。

そうそう、故ジョン・レノンの妻小野洋子さんも安田善次郎の外戚です。華麗なる一族であることは、よく知られています。

※電車の中でスマホで記憶で書いたので、間違いは後で訂正します。

人生初の新年一般参賀~千鳥ヶ淵戦没者墓苑~靖国神社~神保町~お茶の水

新年一般参賀

昨日の1月2日、これまで、まあ長いこと生きてきましたが、生まれて初めて、新年一般参賀に皆様を代表して行って参りました。

天皇皇后両陛下を始め、皇族方が宮殿バルコニーで1日5回、新年のご挨拶をしてくださります。

私は右翼ではないので、つい、2、3年前でしたら、新年参賀に行ってみようなどという気は起きなかったのですが、自分にとっては想像もつかなかったある苛酷な体験を一昨年したため、昨年、神社で厄祓いをしてもらったりすると、神社そのものに深い関心を持つようになったわけです。

遡って、「古事記」「日本書紀」なども読むようになり、自然に、人類史的にも、世界史的にも稀な皇族についても興味を持つようになりました。

特に、昨今では今上陛下が、退位の意向を示されたこともあり、今年は是非とも、参加してみたかったのです。

新年一般参賀

大変な人出が予想されていましたから、一人で行って長い時間を持て余すのは何なんですから、大手メディア粉砕を信条とし、戦後レジームからの脱却を目指すK氏なら必ず参加することだろうと考えてお誘いして、「同行二人」で参加しました。K氏は右翼かと思ったら、元ナロードニキだったそうなので、こちらも吃驚してしまいましたが…。

皇族方は、1日5回もバルコニーにお立ちになりますが、私たちは、最終の14時20分の回を目指しました。

「入場するのに1時間は掛かる」という事前情報を仕入れていたので、東京駅に午後1時に待ち合わせをし、その足で、二重橋方面に行くと、既に、雲霞の如き群衆が皇居方面に向かって長蛇の列をつくっていました。

4回目の13時30分の回の直前に皇居バルコニー手前に到着しましたが、そこで、列が止まって並ばされて、最終回に臨んだので、比較的、特等席とも言える前から15番目くらいのいい位置を確保することができました。

昨日は、宮内庁の発表では、平成に入って2番目に多い9万6700人が足を運んだらしいので、1回につき、1万9000人ぐらい参加したと思われます。

外国人もかなり多く、皆んな何の目的で参加したのか分かりませんが、整然と礼儀正しい人もいましたが、列を乱して割り込んだり、人にぶつかっても平然として押しのけて前に進もうとする連中もおりました。まあ、世の中そんなもんでしょう。

私は単純な人間ですから、陛下の新年の挨拶を聴いて、感動してしまいました。

左横にいた、並んでいる最中にいつまでも止まらずに大声で喚いていた髭を伸ばした無神経そうな50ぐらいのおじさんは、想定した通り、陛下らが14時20分ちょうどにバルコニーに登場されると、「天皇陛下万歳!スメラミコトイヤサカ」と何度も何度も叫んでおりました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

この後、K氏の希望もあり、乾門を抜けて、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお参りしました。ここは、戦場で倒れた無名兵士らのお骨が納められたまさしく本当の墓地なのですが、知っている日本国民はほんの僅かで、残念なことにいつも閑散としております。

私たちは献花して、不本意にも亡くなった多くの兵士の冥福を祈りました。K氏は事前に、私の分も含めて2個の大福を買ってきて、一瞬だけお供えしました。

K氏は、今まで、ワンカップ酒を持ってきてお参りしていたのですが、ある本で、戦場で亡くなる兵士のほとんどが、死ぬ前に「酒を飲みたい」といった兵士は少なく、むしろ、「大福を食べたい」と言って亡くなった兵士が多かったという話を読み、それ以降、お参りする際には、大福を持ってくるようにしたというのです。

2・26事件で戒厳司令部となった軍人会館(現九段会館)

この後、また、K氏の希望で、靖国神社に行きました。そしたら、驚くべきことに、ここでも、またまた長蛇の列。本殿にお参りするのにまた1時間は軽く掛かると思われたので、参拝は諦めて、無料休憩室でお茶を頂いて、少し休息しました。

その足で、神保町まで歩き、三が日でも空いている安いイタリア料理のファミレス「サイゼリヤ」でしこたま安いワインを飲み、この後、お茶の水の山の上ホテルのカウンターバー「ノンノン」でドライマティーニまで呑んだところ、前後不覚となり、どうやって家に帰り着いたのか、分からず、気がついたら自宅で寝ておりました(笑)。

名は体を表わす

コムソリスク par Duc Matsuoka-Sodai

大晦日だというのに、いまだに年賀状書きに追われています。

もし、元日に到着しなかった場合、お許しください。

迂生は、今年から竹の子生活が始まりましたので、極力お仕事関係の皆様からは隠遁しまして、「来る者は拒まず、去る者は追わず」方式で、交際関係も低空飛行の縮小態勢に入って参る所存で御座います。

宜しくお願い申し上げます。

勿論、几帳面な性格ですから、必ず、御返事は差し上げる次第で御座います。

コムソリスク par Duc Matsuoka-Sodai

さて、今年も間もなく終わりますが、1年間、皆様にはこの渓流斎ブログのご愛読、誠に有難う御座いました。

一応、ほぼ毎日更新することができまして、完全復活した感があります。

もう、黄泉の国に行ったりせず、分相応で、身を弁えて、精進していくつもりです。

引き続き、来年もご愛読宜しくお願い申し上げます。

コムソリスク par Duc Matsuoka-Sodai

さて、ついでながら、ラジオを聴いていたら、道路の交通情報をやっていまして、「渋滞学」なる学問を世界でも初めて立ち上げたとかいう学者さんが出てきて、自然渋滞の謎を解明しておりました。

彼の学説によりますと、登りの坂道になると、空いた高速道路でも、自然と減速してしまう。すると、後ろを走る車が、前がつかえているんだろうなあ、ということで、ブレーキを踏む。それが、後続車に伝わり、いつのまにか停止する後続車も現れ、渋滞するという説です。

ローカルな話ですが、その学者さんは、関越道路の坂戸~東松山インター間を例に挙げておりました。ここは、いつも渋滞が発生するらしいのですが、この坂戸から、誰も気がつきませんが、緩やかな坂道の傾斜が始まるというのです。そこで、前述の学説が当てはまるわけです。

私は、この話を聴いて、「嗚呼、名は体を表わすなあ」と直感したわけです。

坂戸という地名は、恐らく、「坂の戸口」から命名されたのではないでしょうか。
江戸は、皆さんご存知の通り、「入江の戸口」から来てますからね。

古い地名と言えば、目黒や目白は、不動尊が建てられたから付けられたわけです。(実は、かつては目赤不動尊も目黄不動尊もありました。渓流斎ブログでは、赤坂不動尊が有名です=笑)

渋谷は、浮世絵を見ると、その名の通り、深い谷間でした。私も、どうも渋谷は、混雑しているだけではなく、何となく空気が淀んでいる感じで、あまり好きになれなかった所でした(笑)。

赤坂の溜池は、そのものズバリ、江戸時代に溜池があった所です。

昔の人は偉かった!

来年は覇権主義の激突か?

伊太利亜ヴェニス

中国の空母「遼寧」など艦船6隻が昨日、沖縄本島と宮古島間の海域を越えて(領海侵犯なし)、物知り博士によると、歴史上初めて、中国が太平洋に進出したそうですね。

毛沢東さえなし得なかったことを、習近平さんが成し遂げたことになります。

これによって、ユナラテラリズムの米国を始め、その同盟国を自称する日本などの周辺国が、軍事力を増強する良い口実となり、来年のトランプ新大統領の出方次第では、緊張が高まり、太平洋海域も、きな臭くなるのではないかという懸念さえ生じてきました。

今、世界中で大ベストセラーになっている「サピエンス全史」によると、16世紀までヨーロッパ諸国は世界的に見ても、非常に貧乏な遅れた後進国でした。

当時、世界の覇者として圧倒的な権力を持っていたのが、トルコのオスマン帝国であり、中国の明や清帝国だったわけです。

それが何故、ひっくり返ったのか?「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、「それは自分たちの領土以外に関心を持ったか、持たなかったかの違い」と、ズバリ指摘します。

15世紀からの大航海時代で、ヨーロッパ諸国は狭い自国領土では飽き足らず、次々と海外に出て侵略し、植民地にします。最初は、スペイン、ポルトガルの南蛮人がアジアや南米を侵略し、英国、オランダ、ドイツ、フランス、イタリアなどが続きます。(長くなるので何処の国なのか、いちいち国名は書きません)

その一方で、トルコや中国は、歴史的に見ても、海外で一度も侵略行為をしていないというのです。勿論、色んな見方がありますから、例えば、中国なら大陸が広大過ぎて、海外にまで領土を広げて統治する余裕がなかったという見方もできます。

それに中国などは、56もの民族がある異民族の集まりで、現在のチベットやウイグルや内モンゴル問題を見ても、領土が海外でなかっただけで、異民族を支配しているという構造は変わらないかもしれません。

トルコだって、ウィーンまで攻め上りました。

いずれにせよ、「サピエンス全史」の著者ハラリによると、このように海外に侵略して植民地化して富を築いたのは、ヨーロッパ人だけだった。その唯一の例外がアジア人の日本だったというのです。

それは、先の戦争(応仁の乱ではなくて、太平洋戦争)で、大日本帝国が占領したアリューシャン列島の米国領キスカ島とアッツ島(後に玉砕)のことを列挙しておりました。

そう言えば、大日本帝国が行った戦争の大義の一つが「白色人種からのアジア解放」がありましたね。その精神的支柱となったのが、大川周明ですが、侵略植民地国は、自分たちの罪状が暴かれるのを怖れて、彼をA級戦犯に指名したという穿った見方もあります。

今のベトナムは仏に、今のミャンマーは英に、今のインドネシアは蘭に、今のフィリピンは米に植民地化されていたわけですから。

また、そう言えば、ですが、東京裁判で、判事となった戦勝11カ国の内訳は、英、米、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドと5カ国もアングロサクソンとそのいわば植民地国じゃありませんが、これに蘭と仏とソ連を加えると欧州系は8カ国。アジアは、中国、フィリピン、インドの3カ国に過ぎません。

こうして、戦勝国であるアングロサクソン系は、国際連合(実は、戦勝国連合)をつくり、ブレトンウッズ体制で、IMFと世界銀行をつくり、覇権主義を確立していったわけです。

そして、21世紀。世界史的、人類史的に見ても、これまで一度も海外侵略しなかった(私は単に、中国は朝貢貿易が好きだったからだと思いますが=笑)あの中国が、太平洋に進出して、覇権主義を誇示する時代となったわけです。

そういう意味で、今回の「事件」は、エポックメイキングとなることでしょう。

※以上、記憶で、電車の中で書いてます。。。

天長節に当たりて

新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 本日は、天皇陛下の83歳のお誕生日ということで、朝から斎戒沐浴のために、近くの温泉に行ってきました。

 温泉?

 いや、単なる銭湯なんですけど、数年前に、全国の有名温泉で、「お湯枯れ」とか何とかがあって、代わりにお湯を沸かして、バスクリンかなんかを入れて誤魔化していた事件がありましたけど、似たようなものです。

 あの有名温泉は、あれからどうなってんでしょうかねえ?日本人はすぐ忘れてしまいますから、恐らく、また高いお金を払って、バスクリンの湯に入るお客さんが復活したことでしょう。

 私も、プラシボ効果で、銭湯でも温泉だと自己暗示をかけてみましたが、確かに、温泉になるもんですね(笑)。

 がっぱりしました。(これは方言なので、訳せません)

 でも、久しぶりに行ってみてがっかりしたことがありました。

 それは、ここの銭湯は、土日祝日は、700円も取るのですが、サウナはもちろん、ジャグジー風呂、寝そべり湯、釜湯、露天風呂などがあります。

 その残念なことというのは、今日、露天風呂に行ってみたら、わざわざ、岩盤の壁にテレビが設置されていたことでした。

 せっかく、浮世を離れて、時計もスマホも置いて来て、鄙びた温泉気分を味わおうと思ったのに、何で、また仕事をしなければならないかと興醒めしてしまったわけです。

 新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、今日は、天皇陛下のお誕生日談話で、どのように発言されるか、注目されましたが、昨日の糸魚川の大火災など災害に遭った人々の苦しみを汲んだものに終始しました。

 もちろん、「退位問題」について、改めて触れられるかどうか注目されていたのですが、あえて、「色んな意見がありました」という総論で、いわば当たり障りのない言い方でした。

 しかし、本意は違っていたのではないかと私なんか推測します。

 生前退位の有識者会議の専門家の中には退位について反対する人がいて、お心を痛めていたのではないかと拝察します。

 天皇とはいえ人間です。まして、今上陛下は、ご高齢に加え、心臓の手術を受けられるなど、体調も万全ではありません。

 本人が希望しているのに、他人がそこまで、無理強いできるもんですかね?

 新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 退位反対者の人たちは、天皇が国事行為として、法律案や予算案について裁可するだけでなく、小学校の校長先生や消防団の団長ら普通の人の叙勲にまで、閣議決定後、時には、夜の9時まで、名簿に目を通されて、裁可しておられることまで知らないことでしょうね。

 「ただ祈るだけでいい」という問題ではないのです。

 国内の被災地だけではなく、戦禍の諸外国にまで几帳面に慰問や慰霊に訪れているのですからね。

 とにかく、激務ですよ。今、世の中で、こんな朝早くから夜遅くまで働き詰めの80歳を過ぎた高齢者がいますか?

 だから、はっきりと、事情を分かっていない連中を誅すればいいのです。

 成敗された本人は恐れおののき、良識を持っているのなら自らを恥じて、もう世間に出てきて持論を展開することはないはずです。

 これでもう、あの不愉快な連中の顔を見ることはなく、御託を聞くこともなく、多くの国民は、心の底から清々すると思います。

NHKドラマ 東京裁判は見応え十分

新京・偽満洲博物館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 先週、4夜連続で放送されたNHKスペシャルの「ドラマ 東京裁判」は、大変見応えがあり、悔しいかな(笑)、こんな番組は、某お笑いと音楽事務所によって占拠されて、下宿の大家さんのように番組時間枠を丸投げして貸しているような民放ではつくれない骨太の作品でした。

 何しろ、カナダとオランダのTVプロダクションとの国際共同で、世界各国の公文書館から資料を再発掘して、8年の歳月をかけて制作したらしく、そりゃあ、私のような近現代史研究家(笑)が観ても、大いに心を動かされました。

 新京・偽満洲博物館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 私は、東京裁判については、1983年に製作公開された小林正樹監督の長編ドキュメンタリー映画の高価なDVDを買ったぐらい、書籍も集めてかなり熱心に勉強したつもりでしたが、このドラマのように、世界から集まった戦勝11カ国の判事の内面にまで逼った話は知りませんでした。

 戦勝国の判事とはいっても、人間ですから感情があります。

 多数派工作したり、出し抜いたり、正義を貫いたり、妥協したり、人間的な、あまりにも人間的な場面が多く頻出します。

 新京・偽満洲博物館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 小林正樹監督のドキュメンタリーは、もちろん、当時のフィルムを使った白黒でしたが、今回のテレビ用番組では、その実際の白黒フィルムを当時の資料を基にして、色づけカラー化しているため、70年前の裁判ではなく、ほんのつい昨日の裁判のように生き生きとしています。

 ドラマでは、A級戦犯全てを名前入りで詳しく紹介されていませんでしたが、あ、荒木貞夫だ、武藤章もいる、といったように、カラーになって甦った彼らを発見する愉しみもありました。

 2年半も掛かった東京裁判で、被告となったA級戦犯は、軍人のほか、首相、外務大臣経験者らで28人。このうち、7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑、2人が禁錮刑、1人が精神鑑定処分、2人が病死しました。詳しい方は、それは誰だったのか、すぐ名前と顔が浮かぶことでしょう。

 このドラマといいますか、東京裁判の最大のポイントは、「平和に対する罪」で、国家の指導者に個人的に戦争責任を問えるかどうかといった点でした。日本側としては、自衛のためにやむを得ず戦争を遂行せざるを得なかっただけで、そもそも、国際法では戦争行為の犯罪はそれまでは規定されておらず(1945年8月8日、侵略戦争を犯罪と規定)、この東京裁判で初めて犯罪として認定することは、後から法をつくって裁く「事後法」ではないか、と問われたわけです。

 これは、清瀬一郎弁護人を始めとして日本の弁護側からの主張だけではなく、インドから選出されたパル判事の国際法学者としての立場でもあり、彼は、「被告人全員無罪」を主張したことで、今でも語り草の伝説になるほど有名です。

 ただ、パル判事は、日本が犯した侵略や残虐行為まで容認したわけではなく、あくまでも、法律にそぐわないと主張したということは付け加えておきます。

 指導者の戦争行為が個人的な犯罪になるのなら、なぜ、広島・長崎に原爆を落としたトルーマン米大統領の戦争犯罪は問えないのか、といった根本的な疑問も生まれ、矛盾するわけです。

 ドラマの主役の一人は、11人の判事の中でもオランダのレーリンク判事のような気がしました。39歳で最も若い判事だったようで、彼は、パル判事のように無罪だと考えたり、やはり、有罪だと考えたり、心が揺れ動きます。彼は、鎌倉に住む「ビルマの竪琴」の作家でドイツ文学者の竹山道雄とも交際したりします。史実でしょうが、ドラマとして脚色も入っている気がしますが、1941年に文化使節として来日し、ナチス嫌いでそのまま日本に滞在していたドイツの有名なピアニストのエタ・ハーリヒ・シュナイダーとも交流したりします。

 このシュナイダーは、ドラマの後の解説で、あのスパイ・ゾルゲと愛人関係にあったのではないか、と示唆する場面もありました。

 とにかく、世界各国でも放送するか、されたでしょうけど、その国によって、個人の思想信条によって、色んな見方があることでしょう。

 私は日本人ですから、やはり、戦勝国が一方的に裁く裁判には疑義を持ちましたが、判事らの心の揺れ動きや駆け引き等は新発見でした。

 オーストラリアのウエッブ裁判長が解任されたり、復帰して再任されたりしたゴタゴタも忘れていました。

 裁かれた日本側も毅然としていました。東条英機は軍人とはいえ、最前線で戦う兵士ではありませんから、あまり現場を知らない、自分の手は汚さない駒を動かすだけの超エリート官僚のように見えましたが、一部で言われていた風評とは違い、やはり、かなり頭の切れる明晰な人物に見えました。ただ、自分だけは大本営か作戦室か安全地帯にいて、あれだけの部下を戦死させ、近隣諸国に被害を齎したわけですから、裁かれるのは当然でした。

ニュンルンベルク裁判に隠れて、世界では極東国際軍事裁判(東京裁判)はあまり知られていないようですから、多くの人が関心を持つことはいいことだと思っています。最近、研究も進んでいるようです。

 再放送もあるので、見逃した方は是非ご覧になっては?

沖縄の乱

伊太利亜ヴェニス

野里洋著「沖縄の乱 燃える癒しの島」(河出書房新社)は、沖縄にお住まいの上里様からもう1カ月近く前から送って頂いたのに、なかなかスラスラ読めず、やっと読了しました。

野里さんは、琉球新報の記者(後に専務取締役)出身ですから、文章は読みやすいのですが、その内容がどうも深刻過ぎまして、色々と読みながら、あっちにぶつかり、こっちにぶつかったりして、加害者意識になったり、被害者意識になったりして、考えさせられてしまったからです。

野里さんの著作を読むのは、これで3冊目ですが、この本は、元米海兵隊員による女性強姦死体遺棄事件やオスプレイ配備、辺野古移設問題など、ここ数年間に沖縄で起きた事件を章立てて纏めたものです。

沖縄は、日本全国ではわずか0.6%しか占めない土地に、在日米軍基地の74%を占めていると言われます。

これについては、右翼勢力からは「左翼運動家によるマジック数字」と異議申し立てがあるようです。

私は、軍事評論家でも何でもないので明言できませんが、ただこの数字は、防衛省が正式に発表しながら、自衛隊と米軍との共用施設などの面積が含まれていないようで、共用施設の面積を含めると、沖縄に占める米軍施設は23%だという説があります。

確かに、数字はマジックですが、74%も23%も、沖縄県民の負担に変わりがないことで、若い女性が味わう危険は、全国一だという印象があります。(印象で書くなってか?)

 この本で教えられることは多々ありました。よくニュースで「キャンプ・シュワブ」と聞きますが、それがどういう意味か知らなかったのですが、これは、沖縄戦で戦死し、名誉勲章を受章したアルバート・シュワッブ一等兵から付けられたんですね。

 このほか、キャンプ・ハンセンは、デ―ル・ハンセン二等兵から、キャンプ・コートニーはヘンリー・コートニー少佐から…といった感じです。

 沖縄の地名とは全く縁もゆかりも関係もなかったんですね。大日本帝国が勝利して米国内に「佐藤基地」とか「鈴木基地」とか付けるようなものでしょう。

 そう言えば、東京・日比谷の東京宝塚劇場は、GHQによって占領された時代は「アニー・パイル劇場」と呼ばれていました。

 アニー・パイルとは従軍記者で、沖縄戦で戦死した人でした。

 日比谷一帯には、GHQが本部にした第一生命本社ビルがあります。米軍は戦後統治を逸早く計画し、銀座は空爆しても、わざと日比谷への爆撃や建物破壊は避けたのです。

 慰安のために、娯楽劇場もしっかりと残したわけです。

真珠湾攻撃と択捉島

伊太利亜ヴェニス

今年は、太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃からちょうど75年。その年に、日本の安倍首相が今月下旬、慰霊のため、ハワイの真珠湾を突如訪問することになりました。

今夏、オバマ米大統領が、アメリカの現職大統領としては初めて原爆被災地広島を訪れたということで、その答礼の意味を込めてらしいです。

安倍首相は「二度と戦争はしない」ことを誓うために行くそうで、菅官房長官も「謝罪のためではない」とわざわざ強調する声明を出すほどでした。

安倍首相は、ハワイでオバマ米大統領と会談する前に、地元選挙区山口県でロシアのプーチン大統領とも北方領土問題について会談するそうで、本当に忙しそうです。

歴史の教科書なんかでは、殆ど教えられていませんが、1941年12月8日(ハワイ時間7日)の真珠湾攻撃の前に、帝国海軍の軍艦が極秘裏に集結した場所は、北方領土の択捉島でした。

択捉島単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が11月26日にハワイへ向け出港したのでした。

もちろん、当時は超機密事項でしたから、誰も知りませんでしたが、何か歴史の皮肉を感じますね。(当時のルーズベルト米大統領は、事前に急襲を察知しながら、戦意昂揚策として、態と見て見ぬ振りをしたという説もありますが、真偽のほどは如何?)

沖縄は、戦勝国の米軍によって占領され、択捉島は、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連=ロシアによって未だに占領されております。

私は、つい最近まで知らなかったのですが、択捉島は、沖縄より広いんですね。択捉島の面積は約3167平方キロメール、沖縄は約2281平方キロメールなのです。

恐らく、プーチン大統領は北方領土を返還しないでしょう。第二次大戦で2000万人以上の戦死者を出したソ連ですから、その代償だということなのです。(cf 日本は310万人、米国41万人、ドイツ900万人)日本の柔道や秋田犬好きで知られる独裁者プーチンさんといえども、国賊になるのは真っ平御免でしょう。

老婆心ながら、このブログで宣言しますが、世界は善意で成り立っているわけではないのです。強欲と策略と不条理で成り立っていることは、歴史が証明しています。

こんな簡単なことが分からないから、「裏切られた」などと被害者顔して後悔する人が後を絶たないのです。

あっ、私のことでしたね(笑)。