独裁者カストロ死す=ワシントン・ポスト紙が報じる

寺院 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が25日に亡くなりました。享年90。

もう10年前から議長職を実弟ラウル氏に譲り、政界からも引退していたので、超メガトン級の影響はもうないでしょうが、それでも、一つの時代が終わったという感じがします。

カストロは、少なくとも1980年代末からの一連のベルリンの壁崩壊、ソ連邦崩壊という大事件が起きるまでは、世界の希望の星でありえた時期がありました。

それは、ほぼ鎖国状態で、キューバ国内の実態が海外にあまり伝わってこなかったから、という背景もあったでしょう。

 軍事博物館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

私も、2000年に生まれて初めてキューバを旅行で訪れて驚きました。その当時、世界的に「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」(ヴィム・ベンダース監督、ライ・クーダ主演)というキューバの老ミュージシャンの復活をテーマに取り上げた音楽ドキュメンタリーが大流行して、私も大変な感銘を受けて、どうしてもキューバに行きたくなってしまったからです。

しかも、キューバは、私も好きで主要作品の殆どを読破した作家ヘミングウェイが活躍したところです。かつての邸宅兼書斎も公開されているということで、是非この目で見てみたかったからです。

そして、実際に行ってみて驚いたことは、社会主義革命を実現したキューバは、さぞかし、自由はともかくも、平等で、福祉がしっかり行き届いていて、街には生活に困った人が溢れていることはまずないだろう、と事前に確信していたのに、それが見事に裏切られたことでした。

世界中、格差拡大社会で、何処に行ってもホームレスや、物乞いがおりますが、キューバでは、それが子供たちだったことに衝撃を受けたのです。

いわゆる、ストリートチルドレンです。

また、白人と黒人との間で、公然と差別があり、黒人は、スポーツや医学など、よっぽど他人から秀でた才能がない限り、一般人は、「鑑識」みたいなものの常時着用が義務付けられ、驚くべきことに、許可のない地域外の移動は禁じられていたのです。

私が現地で知り合った黒人青年は、ハバナから1キロぐらいしか離れていない旧市街にでさえ移動できず、私と一緒に乗ったタクシーから降りることができませんでした。

キューバは、人類の理想のパラダイスだとばかり思っていたのに、実体は、行ってみなければ分からないと確信しました。

わずか、1週間の滞在でも、高額なビザ申請料金を在日大使館で請求されたことについて不思議に思ったことも事実でした。

 寺院 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

26日付のワシントン・ポスト(電子版)の見出しは、「Cuban dictator, a spiritual beacon to the world’s political far left, dies at 90」でした。

意訳しますと、「キューバの独裁者、世界の極左政治家の精神的支柱、90歳で死す」となりますね。

それにしても、あまりにもあからさまな凄い見出しですが、今や、すっかり極右化した日本では、「カストロ?誰それ?」「えっー?あのゲバラとも関係あったの?」てな感じかもしれませんね(笑)。

満洲今昔物語アルバム vol.2

【コメント】
 どなた様か分かりませんが、またまたコメント有難う御座いました。

 小生は、どうも一昨日辺りから鼻風邪を引いてしまったようでして、今日は学校をズル休みしました。

 あ、祝日でしたね(笑)。

 ということで、動作の遅いイカレタ古いパソコンと孤軍奮闘しながら、松岡総裁のライフワークである「満洲今昔物語アルバム」を転載させて頂くことに致しました。

 11月13日付の前回(キャプションが変わってまっせ)同様、著作権は全て、松岡氏に帰属致します。

 ご説明するまでもなく、場所は、満洲(現中国東北部)の首都新京(現長春)です。

大同広場(現人民広場)の現況(西側半分は、昔日と変わらず)

昭和9~10年頃の大同広場の西側(南端の首都警察庁のみ完成し、満洲電電や満洲中央銀行はまだ未着工)

満洲電電や満洲中央銀行が姿を現し、大同広場も体裁が整ってきた。

満洲中央銀行の「昔」

満洲中央銀行の「今」

満洲中央銀行の「今」

満洲電電の「昔」

満洲電電の「昔」

満洲電電の「今」

満洲電電の「今」

首都警察庁の「昔」(首長)

首都警察庁の「昔」(首長)

首都警察庁の「今」(短首)

首都警察庁の「今」(短首)
大同大街の現況

春木座の近くで同窓会

街並み Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨日は都内で開催された大学の同窓会に2年ぶりに参加しました。

御茶ノ水駅から歩いたら、見事に迷子になりまして、フラフラしていましたら、私の大好きな史跡看板を見つけ、その近くに往年の「春木座」という歌舞伎劇場があったことが解説されておりました。

春木座は明治6年に本郷の地主奥田氏が奥田座として開業したそうです。3年後の明治9年に町名から春木座と改名して(春木は、伊勢神宮の御師=おし=春木氏の住まいがあったことから付けられた)、同35年には本郷座と名を改めたそうです。

九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が大活躍したのは、この春木座でしたが、本郷にあったとは知りませんでした。

本郷座では、新派のオッペケペー節の川上音二郎一派も出演していたそうです。歴史を感じました。

春日通りを迷いながら、本郷三丁目付近に出てくると、有名な「かねやす」の看板が目に入り、安心しました。

「本郷もかねやすまでは江戸の内」と、江戸時代に川柳で歌われたあの「かねやす」です。

「かねやす」については、有名なネットの歴史サイト「東京紅団」から、そのまま引用します。

…江戸時代は火事が多く、江戸城からここまで町家でも瓦葺きの防火建築が許されていました。つまり本郷三丁目の角の「かねやす」の土蔵までが江戸だったわけです。…とは普通の解釈ですが、町奉行支配地は駒込の先から巣鴨まであり、実際の江戸の境界とは違います。では何故かと考えると、塗屋土蔵造り瓦葺きの建物が江戸の町の特色になっていた訳で、それが丁度本郷の「かねやす」で途切れていたためといわれています。

<かねやす>
兼康祐悦という口中医師(歯医者)が乳香散という歯磨粉を売り出し大変評判になり、それで有名になったそうです。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた時、町奉行は本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行って、それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになったそうです。…

なるほど、迷子になるのも悪くないですね(笑)。

 街並み Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

何の話でしたっけ?

あ、そうそう、大学の同窓会の話でした。

私を除いて、皆さん、大変優秀な俊才、英才の方ばかりで、一流銀行や大手商社や証券会社やらで海外で御活躍された方が多い中、ゲストスピーカーは、40歳にして超難関の公認会計士の国家試験に合格されて、今は全国組織の理事としても活躍されている先輩女性が、ご自分のフランス留学体験など、波乱万丈の半生を振り返って講演され、大変興味深く拝聴しました。

先輩は、フランス語講師などを経た転職組ですが、彼女と一緒に通っていた公認会計士の専門学校には、パイロット志願生やドラマ「7人の刑事」のシナリオライターや元フグの漁師さんとか、色んな職業を経験した人が多かったそうです。

会計士になって就職した監査法人ではニューヨークにも派遣され、あの「9・11」にも遭遇されましたが、少し距離が離れていたので、何事もなかったことも話しておりました。
 軍事博物館 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

この大学の同窓会に参加する愉しみは、ちょうど解禁されたボージョレーヌボーが飲めることです。

二次会では、しこたま飲まさせて頂きました、はい(笑)。

1パック5000円もする高級チーズも食させてもらいました、ええ(笑)。

今年のボージョレーヌボーは、夏の日照時間が長くて、例年に比べて飛び切り質がいいそうで、味も抜群という評判があります。

日本人は熱しやすく冷めやすく、マスコミでは最近は全く、ボージョレーヌボー解禁の話題は取り上げられませんから、本当の「通」こそ、今年は、独り、このブログを読まれた皆様だけの特権として、優越感に浸って、隠れて味わうことをお勧めします(笑)。

とはいえ、小生は、もう独りで、ワイン1本を一気に空ける元気もなく、大貧民に転落してしまいましたから、1本2500円で頒価してくれるボージョレーヌボーは、ちょっと高くて買えませんでした(苦笑)。

満洲今昔物語アルバム

 「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)、「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」(同時代社)の著者松岡將氏が「自慢作」と自画自賛される「満洲今昔物語」写真集です。(著作権は、松岡氏にあり)

 今も昔もほとんど変わらない。帝国主義の遺物だろうが、モノ動じせず再利用して憚らない中国人(女真族ではなく漢族)の強かさを感じます。

そこが、近代建築の粋を集めた朝鮮総督府を破壊、いや撤去した朝鮮民族との大きな違いを感じます。

 とくとご覧あれ。
 長春(新京)駅前の新京ヤマトホテル(甘粕正彦、平田勲らが逗留していた)
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 現在もホテルとして健在

 長春(新京)駅前の満鉄新京支社(満鉄調査部事件で多くの検挙者を出した)
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 現在も長春鉄道関係中枢事務所

 関東軍総司令官公邸
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 現在は重要人物の接遇などに使用

 関東軍総司令部
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 現在中国共産党吉林省委員会

 関東局・関東憲兵隊司令部(ここで興農合作社・満鉄調査部事件の検挙者の尋問・調書作成などが行われた)
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 現在吉林省人民政府

 満洲中央銀行(いわゆる“満銀券”を発行していた)
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 中国人民銀行長春支店として健在

 満洲帝国協和会中央本部
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 十年ほど前までは、レストランやオフィスなどに分割使用されていたが現在は空き家状態

 満洲国政府国務院(張景恵国務総理もここで執務(居眠り?)していた)
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 現在は、吉林大学(旧白求恩医科大学)

 総合法衙(満洲国高等・最高検察庁、同高等・最高法院)
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 現在は第461人民解放軍病院

 満洲映画協会
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 現在は、映画製作に関しての博物館

 おまけです。

 甘粕正彦満映理事長(右端=理事長室で)

21世紀にも位階あり

伊太利亜ヴェローナ

【コメント】何方様か分かりませんが、実に内容の濃いコメント有難う御座いました。笏の講義は、全くありそうもなかったので、「こりゃ駄目だ」と直感して、授業中にスマホで検索したぐらいですから(笑)。
律令制時代にイチイの木はあっても、象牙なんか、相当高価だったことでしょう。

何しろ、本物の生きた象を見ることができた日本人は明治以降で、江戸の絵師伊藤若冲の象の絵も想像で描いたと言われてますからね。

象牙は、遣唐使が持ち帰ったのでしょうか?
象牙の笏を持つことが許されたのは、五位以上というのは大変興味深い話です。

多くの人はご存知ないかもしれませんが、21世紀の現代でも、宮廷、もとい、宮内庁文科省などは、国民に位階を贈呈しております。

小・中・高校の元校長先生にも、米寿のお祝いの生前贈与と死後贈与があり、小・中学校の元校長先生は、最高でも正六位ぐらいですが、高校の元校長先生の中には、正五位を贈られる方もいらはります。

東京帝国名誉教授様となりますと、間違いなく正四位とか従三位、またはそれ以上が贈られまする。(渓流斎)

昔は大名屋敷だった

「銭形平次」の作者野村胡堂が名付け親、東京・銀座の「銭形」のランチ

桜井遥斗です。

昔は「アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪をひく」と言われてましたが、超大国が没落しつつある今はどうなのでしょうか?

最近の渓流斎ブログは、濁流に巻き込まれて、暗い沈んだ話題が多くて滅入りますね(苦笑)。

でも、ま、強いて無理して明るく努めることもないでしょう。

ということで、最近は、ある程度、諸行無常を感じています。

実家の近くに中学生時代の同級生が住んでおりましたが、今はその家は更地になって売り出されておりました。

数年前に彼女の両親ともに亡くされ、本人も結婚して何年も昔に家を出ておりました。お兄さんがいたはずですが、どうされたのか。兎に角、売りに出すということは、もうそこに住まないし、この後、見ず知らずの関係のない人が住むということなのでしょう。

今住んでいる私のアパートの近くにも、同じように更地になって売り出されている所があります。

諸行無常ですね。

しかし、考えてみれば、念願のマイホームとは言っても、その後どうなるか分かったもんじゃありませんね。

明治維新になった頃も、江戸の大名の上屋敷も中屋敷も下屋敷も、二束三文で人手に渡ったと言われてます。一番有名なのが、帝国大学(東京は付きません)の敷地で、加賀前田藩の上屋敷でした。

赤坂のホテルニューオータニ、四谷の上智大学の辺りは、紀尾井町ですから、まさしく、紀伊と尾張と井伊の親藩の屋敷があった所です。(井伊藩の上屋敷は、確か、桜田門の近くだったはず。万延元年、井伊直弼は、上屋敷を出た目と鼻の先で暗殺されました)

小石川後楽園は水戸藩、新宿御苑は信濃高遠藩、原宿の明治神宮は彦根藩下屋敷、築地市場は尾張藩蔵屋敷、日比谷公園は長州藩、盛岡南部藩、佐賀鍋島藩、汐留は仙台伊達藩、水天宮は久留米有馬藩、有楽町の国際フォーラム(元東京都庁)は土佐藩邸、乃木坂の国立新美術館(第一師団歩兵第三連隊跡)は伊予宇和島藩邸、六本木の東京ミッドタウン(第一師団歩兵第一連隊跡)は長州藩邸…なども有名ですね。

(あ、先日の祝賀会でもお話しした通り、今、電車の中で、スマホでこのブログを書いてますので、記臆違いが多々あると思います。御指摘頂ければ、直ぐ訂正します)

東京の大名屋敷跡を散策するいいサイトを見つけました。
http://edoshiseki.com/daimyo.html

田中都吉は今も生きている

アムール川 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 先週の土曜日に東京・高田馬場の早稲田大学で行われた20世紀メディア研究会のお話の続きです。

 これは、電車の中でスマホでは書きづらい話で、本日は祝日のため、こうしてパソコンで書けるわけです(笑)。

 昭和11年に、聯合通信社と電報通信社が、内外情勢を背景に国策として半ば強制的に合併させられてつくられた国際的な報道機関が同盟通信社であることは皆様もよくご存知のことでしょう。

 その同盟は戦後、自主的に解散して、今の共同通信(社団法人、地方新聞、ゼネラルニューズ)と時事通信(それ以外の経済、国際、官公庁、水産、芸能、出版)と、今脚光を浴びている電通(広告)の3社に分裂しますが、当時は世界を代表する国際通信社としてブイブイいわせたものでした。

 この同盟通信の代表的人物として、電報通信社の光永星郎、聯合通信の岩永祐吉と古野伊之助の3人はよく知られていますが、田中都吉(たなか・ときち、1877~1961)は知る人ぞ知る人物で、メディアの仕事をしている人でさえも、不勉強な人が多いので、意外と知られておりません。

 田中都吉は、同盟通信の社長代行理事を務めた人ですが、国策通信社ですから、いわばお上(かみ)から送り込まれた官憲で、新聞の言論統制を一手に引き受けたゲッペルスのような人物と言う人もいるぐらい評判が悪いのです。

 そんな人物を博士号のテーマとして研究している人がいまして、その人の研究発表を土曜日のメディア研究会で聴講したわけです。この方は30代後半か40代初めに見受けられましたが、本職は何と、戦前からある業界紙の現役記者さんでした。 

 アムール河 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 田中都吉は、外交官出身です。初代の駐ソ大使も務めました(1925~30)。初代文部大臣森有礼が設立した東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した明治31年に外務省に入省します。当時の外交官・領事館試験の合格者は、明治27年から31年にかけての5年間で53人、明治32年から41年にかけての10年間が74人という超狭き門で、東京帝大出身が8割、東京高商出身が2割を占めていたといわれます。

 田中都吉は、外務次官まで登りつめた翌年の大正12年、46歳で退官します。

 途中ですが、田中は個人の著作を発表しておらず、新聞や雑誌等にインタビュー記事や論文を発表していた程度でしたので、謎に包まれた面が多いそうです。

 ですから、なぜ、田中が46歳で外務省を退官したのか、まだよく分かっていないようです。

 しかし、大正14年にはジャパンタイムスの社長に就任し、ジャーナリズムの世界に入ります。ジャーナリズムといっても、記者経験はありませんから、経営者としてです。

 その後、駐ソ大使を経て、昭和8年(1933年)には今の日本経済新聞社の前身であり、三井物産の益田孝つくった社内報「中外物価新報」の流れを汲む「中外商業新報社」の社長に就任します。

 そして、前述したように、昭和11年に同盟通信社の社長代行理事を兼任し、昭和16年には、全国の新聞連盟の評議会議長、理事長も兼任。翌年は、中外社長と同盟役員を辞任して、日本新聞会の会長に就任します。

 アムール河 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 田中都吉が新聞社の経営者や全国の新聞社の協会の会長を務めた時期はちょうど戦時体制の真っ只中で、大政翼賛会、国家総動員法、国民徴用令などが発令された時期と重なります。

 その中で、田中都吉が一貫して果たした役割は、メディアの言論統制でした。

 記者を登録制度にして、中央官庁の記者クラブへの加盟条件にしたり、記者教育と称して錬成活動を推進したりしました。

 田中は、日本新聞会会長として、昭和18年4月25日の編集最高幹部錬成会開会式で、「国家あっての新聞。言論の超国家的自由などということは有り得ない」とまで発言しております。今のNHK会長の発言と見まごうばかりの発言です。

 私もまだまだ知らないことが多いのですが、田中は昭和18年から21年にかけて、貴族院議員も務めておりますから、情報局と連携して、新聞事業令などの励行にも関わっていたのかもしれません。

 今は、多くの人が気づいていませんが、言論統制の時代で、政府が隠したがる真実が庶民の耳に入らず、一部の特権階級にしか入らないシステムになっていることは、渓流斎ブログの愛読者の皆さまでしたら、ご案内の通りです。

 もはや、田中都吉が過去の時代の遺物と誰が断定できましょうか?

満洲国通信社の広告を担った金井勝三郎

東京・早稲田 大隈庭園

先週の土曜日は、2年振りぐらいで20世紀メデイア研究会に顔を出してみました。

興味深いテーマがあったからです。いつも不思議に思うのは、会場の早稲田大学は、私のような全く卒業生でも何でもない一般人にも幅広く開放して、しかも、資料のコピー代や講師の皆さんへの謝礼もあってお金がかかるはずなのに、無料で、そして、出欠の連絡なしに参加できることです。何一つボディチェックのないオープンキャンパスなので、私のような怪しい疑い深い人間にとっては、変な人が入ってきたら大丈夫なんだろうか、テロが起きないのだろうか(何で?)と心配になってくるほどです(苦笑)。

2年前は、失礼ながら、オンボロ校舎でしたが、今では改築されて見違える程、外見も内装もトイレも、まるでホテルのように立派になりました。会場は3号館でしたが、3号館といえば、何学部なのか事情通の方はすぐ分かることでしょう。

当日発表されたテーマは三つありましたが、私は二つだけ聴講して帰りました。今回は、そのうちの一つの「満洲国通信社の広告部門」についてです。

発表者は、元新聞記者ながら今は市井の研究者さんのようで、わざわざ大阪から来られまして、久し振りに高度な関西弁を聴きました。

配布された資料には明記されなかったのですが、文字として書かれていないお話だけの中に多くのキーワードがあったので、後から調べ直そうかと思いましたら、あまりにも専門的過ぎるのか、ネットには殆ど登場しない人ばかりでした。

それでも、私は個人的に大変興味があるので、同氏の資料等も参考にさせて頂き、勝手に許可なくこのブログに備忘録として残したいと思います。

世に知られているように、戦前の国策通信社として同盟通信社があります。これは、1936(昭和11年)に、陸軍の情報に強い電報通信社と、外務省情報に強い聯合通信社が、半ば強制的に、特に、対外情報発信の一本化を目的に、政治の大政翼賛会のように設立されたものです。

その同盟通信社が設立される4年も前に、大陸満洲では諸々の通信社を一本化する満洲国通信社が設立されます。日本政府の肝いりと言っていいでしょう。初代社長にはあの「阿片王」の異名を持ち、東京裁判では司法取引で「釈放」された里見甫が就任します。

しかし、研究発表会では、全くといっていいぐらい里見の話は出てきませんでした。

主に取り上げられたのは、金井勝三郎という人物です。この方は、非常に変わった人で、里見甫と同じ上海の名門東亜同文書院で中国語をマスターして、通訳をしたり、樺太日日新聞の記者となり、犬ぞり探検をして本を出版したり、青島(チンタオ)新聞の記者になったりします。

それがどういうわけか、縁も所縁もない大阪に来て、樺太日日新聞と青島新聞の日本支社と広告代理店「日華社」の看板を掲げて、事務所を開いたというのです。

この事務所で、満洲国通信社の広告を扱ったそうです。何故、東京ではなく大阪だったのか?ーそれは、昭和の初期は東京より大阪の財界の方が規模が大きく、新聞やラジオに出稿する大手企業の広告主は大阪に多かったからだそうです。

例えば、寿屋(現サントリー)、中山太陽堂、福助といった会社です。

実は、これらの企業広告を一手に手掛けていたのは、当時「大阪広告界のドン」と言われていた満洲の新聞社「盛京時報」にかつて勤務していた瀬戸保太郎という人物で、満洲国通信社の広告を引き受けた金井勝三郎の事務所は、この瀬戸保太郎の事務所に間借りしていたというのです。

結局、満洲国通信社の広告部門は、この日華社に乗っ取られる形で、何もできないまま、撤退したらしいですが、今日はここまで。

(間違いがあれば、後から何度でも修復訂正致します)

「復帰後世代に伝えたい『アメリカ世』に沖縄が経験したこと」と哀川翔のファミリーヒストリー

街頭にて Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつもお世話になっている沖縄にお住まいの上里さんが、また本を贈ってくださいました。 

 琉球新報の元記者の池間一武さんの書かれた「復帰後世代に伝えたい『アメリカ世』に沖縄が経験したこと」(琉球プロジェクト)というムックです。貴重な歴史的な写真が満載されています。

 米軍による占領期間は、日本本土が1945年8月15日~1952年4月28日の約7年でしたが、沖縄返還・本土復帰は、1972年5月15日でしたから、約27年間続いていたわけです。

 この間、勿論、「外国」ですから、本土との行き来にはパスポートが必要とされ、新聞社の場合、沖縄駐在記者は「特派員」でした。

 この本では、戦後直後、米軍が「B円」なる法定通貨を発行していたことや、米軍公認の飲食店・風俗店に「Aサイン」なる営業許可証を発行していたことを知りました。記述が学術的なのですが、私のような俗物は、例えば、このAサインなるものは、一種の「みかじめ料」みたいなものだったのかどうか、もう少し踏み込んで書かれていてもよかったかなあと思いました。

 路傍の餌 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう一つ、沖縄占領期の27年間では、「朝鮮戦争」と「ベトナム戦争」があり、沖縄の基地から相当多くの爆撃機が飛び立ったはずですが、そのことに触れていないのは、何故だったのか、ちょっと疑問を感じました。

 思い返しますと、上里さんは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫 長谷川濬が見た夢」(藤原書店)をはじめ、中島岳志著「血盟団事件」や、沖縄出身のゾルゲ事件で連座した宮城与徳の画集、詩人の山之口獏の全集などまで贈ってくださり、私の蒙を啓(ひら)かせるきっかけをつくってくださった恩人でもあります。

 長谷川濬のことや血盟団事件に関しましては、えらく感動して、渓流斎ブログにも書かさせて頂きましたが、そのブログは消滅してしまい、今では幻となってしまいました。でも、しっかり、私の身体の中で流れる血や肉になっております。

 土地はいくらでも Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 長谷川濬と聞いただけで、本当に懐かしく、満洲のことや、甘粕正彦満映理事長のことなどが思い起こされます。

 これまた、ブログの写真などでお世話になっている松岡氏は子供の頃に満洲の首都新京(現長春)で育っていたりして、どうも、私は、満洲のことについては御縁があるようで、残りの人生も関心を持ち続けていきたいと思っています。(満洲に関係があるとしたら、私の徴兵された伯父が満州で戦い、シベリアに抑留されたことぐらいです)

  NHKの「ファミリーヒストリー」は意外な人物が驚くほど凄い御先祖様を持っていたりして、大変面白い番組です。先日は、俳優の哀川翔さんが登場していて、あまり興味がある人ではありませんでしたが(失礼!)、彼の祖父が満洲に関係があるということを番組欄で知り、その時間帯は見られなかったので、昨晩、録音したものを見てみました。

 いやあ、壮絶でしたね。
 
 哀川翔さん(55)の本名は、福地家宏といい、福地家は佐賀鍋島家の家臣(重職で300坪の屋敷を拝領していた。向かいは、あの大隈重信の大隈家だったとか)で、1637年の島原の乱(あの平林寺に葬られている松平伊豆守信綱が総大将になりましたね)に参戦し、大いに戦功を立てたらしいのです。
 
 そして、話は飛びますが、哀川翔さんの祖父福地家久氏は大秀才で、大正15年に東京帝大法学部に入学します。昭和4年に卒業しますが、当時は昭和恐慌の真っ只中で、就職難に見舞われます。そこで、家久氏は活路を見出すために、大陸満洲に出かけます。警察官僚となり、最後はソ満国境の興安省の警察トップ(県警本部長に当たる)に就任しておりましたが、ソ連の日ソ中立条約を破る参戦によって、戦死してしまいます。享年40。

 家久氏は、ソ連参戦による混乱の中、妻子を先に新京にまで避難させます。こうして、妊娠中の妻益家(ますえ)さん(哀川翔の祖母)と幼子3人の逃避行が始まり、途中、ソ連軍に捕まったりしますが、最期は1歳の娘則子さん、生まれたばかりの娘ふさ子さんと益家さんの3人は、避難していた坦途という所で亡くなります。残された嶺子さん(12)と三郎さん(4)さんは、後から駆けつけてきた家久氏の警察の部下によって救助され帰国します。

 いやはや、言葉が出ないほど壮絶なのに、哀川翔さんは、冷静にVTRを見ているので、随分肝が据わった人だなあ、と思いました。その肝の据わった性格は、後で分かります。

 哀川さんの父親の福地家興さんは、肋膜炎を患っていたため、長男ということもあり、家興さんの父家久氏の考えで、満洲には連れて行かず、佐賀の祖父母の家に預けられます。

 家興さんは、父親との手紙のやりとりで、「お国のためになる立派な大人になりなさい」という言葉を胸に秘めて、早稲田大学入学のために上京します。猛勉強した卒業後は周囲の反対を押し切って、今の海上自衛隊に入隊して念願のパイロットになります。しかし、これまた壮絶な人生で、1966年に訓練帰還中、37歳の若さで事故死してしまいます。哀川翔さんはこの時、まだ5歳ながら、身持ちだった母親に代わって、叔父とともに父親の遺体と面会したりしています。度胸の根源はここにあったのですね。

 この番組は何と、ユーチューブで観られるので、ご興味のある方はご覧ください。

 哀川翔のファミリーヒストリー ←こちらどす

泣く子も黙る日建設計

伊ヴェローナ

「国民のための建国史」を書かれた長浜浩明氏の本職は、一級建築士で日建設計という会社勤務という略歴があり、あの本を読んでから、この会社について何となく気になっていました。

全く聞いたことがない知らない会社だったからです。しかし、長浜氏は東工大大学院で修士号を取得したエリートです。業界では嘸かし有名なのだろうと臆測しておりました。

先日、昼休みに銀座を徘徊していたら、銀座日航ホテルが建て替え工事中で、建築内容の看板を見たら、「日建設計」の名前があったので、「やっぱりな」と自分の臆測が当たったことが嬉しくなりました。

木曜日、週刊新潮が「豊洲疑惑 『最後の黒幕』として急浮上! ゼネコンもひれ伏す『日建設計』の金儲けと人脈」という派手なタイトルで取り上げていたので、この記事だけを読みたいがために、購入しました。

そこで、週刊誌は自費で購入したので(笑)、皆様にも日建設計の情報をお伝えしましょう。

同社は、非上場の会社だったのです。道理で世間で認知されないわけです。しかし、実態が凄い!鹿島、大成など大手ゼネコンも恐れる業界のドンだったのです。

創業は1900年。住友財閥の「臨時建築部」としてスタートします。戦後、住友商事の建築部門を母体に再開し、1950年に独立します。

その後、東京タワーを始め、銀座の三愛ビル、東京ドーム、そして東京スカイツリーと有名建築を次々と手掛けていくわけです。

しかし、今回問題になった豊洲市場の基本設計を担当し、2020年の東京オリンピック会場の利権までも独り占めにしているようです。週刊新潮は、見出しだけは、その儲けの手口と人脈に深く踏み込んでいるかのように思わせながら、記事を読むと何かあっさりしていて、中身が薄い感じでした。

ただ、日建設計がウンと言わなければ、大手ゼネコンでさえひれ伏すということだけは、よーく分かりました。