ださいたまだねえだぁ 新座は世が世なら…

埼玉県名発祥の地

読み人知らず様

珠玉歌ご投稿誠に有難う御座いました。

さて、昨日は、埼玉県新座市にある東京電力地下変電ケーブルから漏電して火災が発生し、都内の約53万戸が停電になるという事件がありました。

埼玉県新座市なんて、聞いたことがない都民の皆さんも多いと思います。しかし、ここが駄目になると、近隣の練馬区、豊島区どころか、中央官庁が密集する千代田区の霞が関までやられてしまうことが昨日証明されました。

田舎から出てきた俄か都民は、埼玉県を「ださいたま」なぞと馬鹿にしますが、都民の生活の生殺与奪権は、埼玉県が握っているのでした。

停電のおかげで、電車(特に西武線全線)が止まり、信号機も止まって、衝突事故も発生したらしいですね。

火災の原因は、未解明ですが、恐らくケーブルの老朽化ではないかと見られています。

ところで、火災があった埼玉県新座市野火止は、渓流斎が御幼少の砌、よく野原を駆け巡り、木に登り、雑木林の中に団地の廃品回収所から集めた部品で基地を造り、畑のサツマイモも1本拝借して、焚き火で食した思い出の土地だったのです。

また、消滅した幻のブログにも書きましたが、新座市には有名な平林寺があり、此処には、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1637年に島原の乱を平定)の墓所があります。この松平伊豆守は、先日訪れた埼玉県行田市の三万石忍城(おしじょう)の城主も務めていました。(後に六万石川越藩主、老中首座を歴任し、野火止用水などを開削)

もう一人、NHK大河ドラマ「真田丸」では不可解にも全く登場しませんでしたが、豊臣秀吉の五奉行の一人である増田長盛の墓もあります。

歴史のある街です。しかも、新座市はそれどころではない歴史があったのです。

先日訪れたさきたま古墳群の史料博物館に古代の地図が展示されていましたが、新座市は、奈良の律令時代に、埼玉郡や入間郡などとともに既に新座郡として存在していたのです!これには驚きましたね。明治に、埼玉や入間が立候補しなければ、今頃、新座県になった可能性がなきにしもあらずだったのです。

もともと、東京なんぞは入江の戸口、つまり江戸になる以前は、湿地帯で水浸しで、人間なんかとても住める所ではありませんでした。だから、古墳がないはずです。

古代は、東京なんかより埼玉の方が栄えていたわけです。

八色の姓とやはり世間から舐められている日本の私

 旧哈爾濱学院(現藍天幼稚園) Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

634年、天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)を制定しました。

1、真人(まひと)2、朝臣(あそん)3、宿禰(すくね)4、忌寸(いみき)5、道師(みちのし)6、臣(おみ)7、連(むらじ)8、稲置(いなぎ)ーの8段階です。

第1位の真人(まひと)は、道教の真人(しんじん)から採用したと言われますが、完全無欠、真理を悟って人格を完成した人。仙人のことです。仏教の羅漢(らかん)に当たります。第25代武烈天皇に継嗣がなかったため、ここで天皇族は断絶したという説もありますが、北陸の三国から即位した第26代の継体天皇以降、天皇の近親者に賜姓されました。しかし、どういうわけか、次第に使われなくなり、平安時代には第2位の朝臣が最高位となりました。かつて勤めていた会社の人で、田辺真人君がいましたが、彼は自分の名前の由来を果たして知っていたのでしょうか?

第2位の朝臣(あそみ)は、皇別氏族で、かつて臣(おみ)や連(むらじ)だった物部氏や中臣氏らが昇進して賜姓されたりもしました。同じように、第3位の宿禰(すくね)は有力豪族に賜姓されましたが、かつて連だった大伴氏らが賜与されたりしました。

宿禰は、かつて足尼(すくね)と書かれたことがあり、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した第21代雄略天皇(在位457~480年?)の時代のものと言われる鉄剣銘に「多加利足尼」とあり、この足尼は、少兄(すくなえ)のことで、高句麗の官名の小兄に由来するという説もあります。

第4位の忌寸(いみき)は、主に渡来人と国造(くにのみやつこ)に賜与されました。渓流斎ブログご愛読者ご案内の通り、渡来人とは、新羅の秦(はた)氏、百済の漢(あや)氏らのことでしたよね。秦氏は、聖徳太子の時代に広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)が有名ですが、松尾大社も伏見稲荷大社も秦氏がつくりました。伏見稲荷は、全国3万社あると言われる稲荷神社の総大社です。

歌川広重も取り上げた「江戸百景」の「王子稲荷」も、新羅の渡来人秦氏の流れを組んでいたとは!

秦氏は京都だけではなく、今の神奈川県秦野市などにも移住し、その名前を残しています。土佐の長宗我部氏、国学者を生んだ荷田氏、総理大臣も輩出した羽田氏なども秦氏の末裔と言われていたり、自称したりしております。

第5位の道師(みちのし)と第8位の稲置(いなぎ)は、結局、賜姓されませんでした。理由はよく分かりません。ご存知の方は、どうかコメント欄にご教授して頂ければ幸甚です。

 旧哈爾濱学院(現藍天幼稚園) Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

さて、最近、暗中模索の中、見出しやプロフィールを思い切って変えたりしましたが、あんまり反応がありませんでしたねえ。

でも、不平不満をブログに書きますと、「ええ加減にせんかい!」との反応がきます(笑)。

うーん。ま、原稿料も光熱費も通信費も自前で自営でやってますので、その辺りは大目に見て頂いて、本日も「世間に舐められている日本の私」の続きをやります(笑)。

一応、9月末で諸機関を卒業しましたが、いまだに市町村税を払わさせて頂いておりまする。別にこんなこと強調することではありませんが、納税者として、微力ながら、図書館で本を借りています。(洒落です)

で、いつもネットで本を予約しているのですが、この前は、まだ、図書館所蔵ではなかったので、生まれて初めて電話で新刊を予約しました。

そして、図書館のマイページの予約欄を見たところ、自分は予約の2番目だということが分かりました。新刊ですから、私より先に電話を掛けて、最初に予約した人がいたということでしょう。本の貸し出し期限は通常は2週間です。

2番目ということは、2週間後には借りられるということなので、ウキウキして待っておりました。

それが、なかなか、貸出のOKが出ないのです。

 哈爾賓西駅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

ネットの図書館マイページの予約を見ると、予約が完了したのは8月20日です。ということは、9月上旬には借りられていたはずなのに、1カ月半も経っているというのに、最初に借りた悪人がまだ返却していないということです。

1カ月半も公共の本を我が物にするなんて、ちょっと、酷過ぎる。一カ月も過ぎれば、督促状も来ているはずです。それなのに、返却しないとは!

やっぱり、私は世間から舐められている!

古代史は近現代史だ!

ミラノのレオナルド・ダヴィンチ像

  秋だというのに、汚れちまった悲しみで、大人になると好奇心も薄れ、子供の頃に楽しみだった運動会や遠足を誰もやってくれません。

 で、仕方がないので、今週末に秋の大遠足会を開催することにしました。

この渓流斎ブログをお読みの愛読者の皆々様は御存知だと思いますが、私は最近、ようやく近現代史から解放されて(笑)、古代史に足を踏み込み、「古事記」や「日本書紀」を読み始めたことを書きました。

 そして、密偵を派遣したところ、今は何十年かぶりの古代史ブームで、「古墳女子」なるミーチャン、ハーチャンとそれを追いかける腰抜け男子も存在することが分かってきました(笑)。

 そこで、上田正昭京大名誉教授の著作に刺激されて、まずは、位置確認サービス情報で、電車でも行ける「さきたま古墳群」に行ってみたい、といつぞや書いたこともありました。

 夏の猛暑も過ぎ、過ごしやすい秋になったので、今回、週末にその古墳群への遠足を企画したわけです。

 つい最近読了した長浜浩明著「国民のための建国史」にも、埼玉古墳群・稲荷山古墳の話が出てきます。1978年に出土した赤錆びた鉄剣に「意冨比◆土偏に危(おおひこ)」の銘が刻まれていたことが分かり、この鉄剣は、ワカタケル大王(第21代雄略天皇=在位457~480年)時代のもので、銘の大彦命とは、第9代開化天皇(同177~207年)の兄と考えられるというのです。

  さきたま古墳群は、古代の有力豪族の墓ですが、5世紀には大和朝廷の勢力がここまで及んでいたことが実証されたわけです。

 上記の年代は、長浜氏が記紀や中国の史書等を読み熟して自ら西暦に換算して推定したものです。前にも書きましたが、初代神武天皇が即位したのは皇紀660年ですが、西暦に換算すると紀元前70年で、紀元前33年に63歳で崩御されたと推定しています。となると、ローマのカエサルとほぼ同時代人なり、何か、俄然、近しみを感じます。

  戦後民主主義教育では、古事記も日本書紀も根も葉もない架空の神話で史実とは程遠いというのが通説になりましたが、長浜史観によれば、それらは占領軍のGHQによる教育戦略のせいだと断定しています。

 古代史といいながら、実は近現代史だったわけですね!

 私は、まだ始めたばかりなので、自説はありませんが、「天孫降臨」などは神話だとしても、もし仮に神武天皇が上記のような年代に実在したとすると、現実味を帯びて、古代史が面白くなってきます。

遠足は週末、鉄道省線行田駅勝手口で、自転車をレンタルして開始する予定です。マスコミの取材は、広報を通して下さい(笑)。

日本に賠償金を請求した戦後イタリア

カラバッジョ「メディウス」(フィレンツェ・ウィフィツィ美術館)

こうして、電車の中で、スマホでブログを書いてますと、「果たして一体、どなたが読んで下さっているのでしょうか」「昔の読者の方は復活されたのかなあ」なぞと、真っ暗闇の中で手探りしながら、歩みを進めている感じです。

とはいえ、何人かの奇特なメル友さんからは、「あら、イタリアに行ってたんですか」「ブログ再開おめでとうございます」といった感想を寄せて下さるので、励みになってます。

そんな中で、難関書を毎月50冊読破するあの栗林提督から、こんなメールを頂きました。

「イタリアといえば、ムッソリーニを追放したイタリアはちゃっかり連合国側に立って、あろうことか日本に戦争賠償を要求してきました。イタリアは都市国家の集合体で,日本のような『自然国家』ではないので、こうしたことも起こりえるのでしょうか。ひところ、北部が貧しい南部を切り離して独立すると騒いでいたのも、同根なのでしょうね」

えっ?本当? イタリアは、日独伊の三国同盟を締結した数少ない(笑)同盟国でしょ?何でそんなことが…。

ということで、調べてみましたら、これは紛れもない歴史的事実でした。今の中年以降の人でもこの事実を知っている日本人は、少ないでしょう。何故なら理由があるからです。

事実は、昭和48年の「外交青書」にこう書かれています。

◆イタリアの対日賠償請求問題の解決
1952年以来懸案となっていた第2次大戦(1937年7月7日からの支那事変を含む)中の損害に関するイタリアの対日賠償請求問題の解決について1972年6月5日から22日までローマにおいて日伊両国代表の間で話し合いが行なわれたところ,わが政府が総額120万合衆国ドルの見舞金を伊政府に一括支払うことにより最終的に解決することで合意が成立し,7月18日在イタリア高野大使とメディチ伊外務大臣との間に本件に関する公文が交換された。9月18日わが政府が前記支払を下したことにより,戦時損害に関するイタリア政府および同国民のわが国に対する賠償請求問題はすべて解決された。

恐らく、上記を読まない人がいるので(笑)、簡略しますと、日本は戦後27年も経った1972年(しかも、私の誕生日に=笑)、イタリアに120万ドルの損害賠償をした、というのです。

ただし、日本政府の立場は、あくまでも「賠償金」ではなく、「お見舞い金」と見栄を張っているわけです。これでは、学校では教えられないし、歴史の教科書にも書かれないはずです。ということは、日本人の多くはこの事実を知らないということです。

イタリアは、日本の明治維新と変わらない時期に出来たばかりの「人造国家」です。それまでは、ヴェネチアにしろ、ナポリにしろ、言葉が通じないほど別の都市国家でした。

戦後、何でイタリアがあろうことに日本に賠償請求したのか、理由は以下の通りです。

第2次大戦中の1943年、イタリアは、ムッソリーニを元首とする北部の「イタリア社会共和国」と南部の「イタリア王国」に分裂して内戦となります。

 ドイツの支援を受けて創設したイタリア社会共和国は、ドイツ敗北を受け、1945年4月25日に政権崩壊に追い込まれ、元首ムッソリーニも銃殺されます。

一方の南部イタリア王国のバドリオ政権は、終戦一カ月前の45年7月15日に、連合国側に立って日本に宣戦布告します。これで、「戦勝国」となったイタリアが、「敗戦国」日本に戦争賠償補償金を請求する根拠にしたのです。

なるほど枢軸国イタリアは、敗戦国ではなかったのですね。

ちなみに、日本政府は、被害を与えた中国や東南アジア諸国は勿論のこと、直接交戦がなかった「永世中立国」スイス、デンマーク、スウェーデン、アルゼンチン、ギリシャなどにまでも、真面目に賠償金を支払っています。(占領米軍の駐留経費、家族宿舎の建設などインフラ整備代等すべてが日本人の血税で賄われました)

払う方も払う方ですが、賠償金を請求したこれら非交戦国は、あたしに言わせりゃ、火事場泥棒ですよ。

まさに鬼畜欧州。

「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」訪問記(あたしじゃないけんど)

par M. Kyouraku sensei

関西ライフを満喫されておられる京洛先生から、充実行脚のリポートがありました。

…9月24日(土)に、奈良県明日香村の「キトラ古墳」そばにオープンした極彩色壁画を保存・公開した我が国初めての施設「キトラ古墳壁画体験館 四神(ししん)の館」に、3日目の26日に行ってきました。
 古墳の中から壁画が見つかり、既に33年経ちましたが、石室にあった崩落寸前の壁画を修理・保存して文化財の新たな保護のありようを求めた一例として注目を集めています。…

ほう、いつの間にか、考古学者に転向されましたね(笑)。

 …出来たばかりの「四神の館」はキトラ古墳の北側にあり、延べ床面積2500平方メートル、1階に実物の壁画を保管、地下1階は石室と同じ模型や壁画の映像が流れたモニターが設置され、ちょっとしたミュージアムになっていました。
 オープン記念は、24日から10月23日まで、キトラ古墳壁画のうち、白虎、朱雀と天文図の実物を無料で見られます。小生は、「事前申し込み」をしていたので、目の前で白虎、朱雀、天文図をじっくり鑑賞できました。…

あら、事前申し込みまでされていたのですか。ご熱心ですね。

 …石室内の副葬品の飾り金具、金銅製鐶座(かんざ)金具類も展示され、7世紀末から8世紀初めの時代空間を手繰れた気分でしたね。内部の写真は撮れませんでしたが、「四神の館」の玄関と周囲の写真を撮ってきました。…

いつも有難うございます。

 …ちなみに「平成28年度キトラ古墳壁画特別公開(第1回)」は、「文化庁」のホームページから事前申し込みが出来るようになっています。試しに同ホームページを検索してみてください。今後は、残る玄武、青龍も特別公開されることになっています。…

文化庁も小出しで出してくるんですね。やるな、文化庁!

 …来月は恒例の「正倉院展」もあり、奈良は大勢の人がキトラ古墳にもやってきそうです。…

関西は、古代遺跡が豊富なので、羨ましい限りです。

八丁堀 与力・同心組屋敷跡

ホイコーロー定食 680円

為五郎さんから、また、北海道からメールがありまして、「今、札幌鑑別所ですが、明日から網走に護送されることになりました」とのこと。お勤めご苦労様です。

その為五郎さんが嫌いなのが、渓流斎ブログのランチ写真です。娑婆にいた頃は、「何で、渓流斎のランチを見なければならないのか」と大きな疑問を呈しておられましたが、今は、もう暫く娑婆には出てこないので、居候、三杯目をそっと出すことにしました(笑)。

栄光の社員時代は毎日、ランチは銀座で洒落込んでいたのですが、やはり、全国平均の相場から比較しますと、銀座は高い!

ということで、今回は、銀座から築地~新富町、さらには八丁堀まで足を延ばした途中にあった中華料理店に入ることにしたのです。何と、「定食680円」と大看板を掲げているじゃあ、ありませんか。

普段、ランチに贅沢にも1000円也を平気で出費しておりましたから、何と320万円もお得。失礼。増添君と比べて小せえ、小せえ。こんな差配では出世するようなたまではありませんなあ(笑)

八丁堀 与力・同心組屋敷跡

で、何で、昼休みの貴重な時間を使って、銀座から徒歩で八丁堀まで行ったのかと言いますと、「与力・同心組屋敷跡」を再訪したかったからです。

今は、何とかスクウエアとかいう名前だけは立派ですが、数十年前に建てられた古い3階建ての雑居ビルになっていました。

内容は、上記掲載の写真通りです。

そこに書いてある通り、与力は、知行二百石で、三百~五百坪の屋敷住まいですから、かなり身分が高かったんですね。でも、当初の与力は、わずか10人ですから、10人では、百万都市東都江戸の治安を守れるわけがありません。

配下の同心が、蛇の道は蛇で、かつて罪科人だった岡っ引きやその子分の下っ引きをかなり多く雇っていたとはいえ、それにしても、少ない。

日本人は真面目で律儀で働き者だったのでしょうか。世界の大都市の中でも、かなり治安が良かったのかもしれません。

ウッドストックでは行われなかった!

Tokyoit

今、電車の中で、スマホで、うろ覚えで書いてますので、多くの記憶違いがあるかもしれませんが、その場合、後からドシドシ訂正、修正、改訂して直していくつもりです(笑)。

私の人生で最も輝かしい黄金時代の年を一つだけ挙げろ、と言われれば。そんなこと、後にも先にも誰にも聞かれませんが、私は躊躇なく、1969年を挙げます。

今、年表がないので詳しくは分かりませんが、この年は、東大安田講堂事件の年であり、米アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した年でもあります。(そんなことなかった、と為五郎さんは主張してましたが…)

また、私のフリークであるビートルズが最期のレコーディング・アルバム「アビイ・ロード」を発表した年です。(LPは擦切れるほど聴きました)

そして、何と言っても音楽史上に残るウッドストック・フェスティバルが開催された年でもあるからです。

このフェスティバルは映画化されて、私もその後、テレビか弐番館か、何処で見たか忘れましたが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらの動く姿を初めて見て感動したものです。

ということで、最近、このウッドストックの「ディレクターズ・カット 25周年エディッション」の4枚組のDVDを、とうとうネット通販で買ってしまい、毎日少しずつ見ているのです。

25周年エディッションというと、1994年で今から22年も昔になります。当時、この4枚組DVDは、1万5000円ぐらいしましたが、今ネット通販では、その4分の1以下で買えましたので、知らぬ間に欲望がクリックしていたのです。おかげで、ネット通販の「ダイヤモンド会員」になりましたよ(笑)。

さて、このウッドストック・フェスティバルですが、私は知っているつもりでしたが、このDVDを見て、何も知らなかったことが分かりました。最初の2枚は、ワーナーが製作公開した映画をDVD化したものです。私がテレビか弐番館で見たやつです。当時としては破格の4時間ぐらいの映画でした。ザ・フーの「サマータイム・ブルース」なんか、この映画に触発されて、シングル盤(400円)を買ったと思います。

3枚目は、映画で公開できなかったグループの演奏などが収録されていました。当時、私の大好きだったクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)がしっかり出演して「ボーン・オン・ザ・バイヨー」なんかやっていたんですね。映画ではカットされていて、出演していたこと自体知りませんでした。(このほか、ブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&T=なども出演したらしいですか、このDVDにさえ収録されていませんでした)

そして、最後の4枚目が「メイキング」映像で、スタッフや出演者の証言集です。これが見ものでした。

◇ウッドストックの名前が欲しかった?

まず最初に、明確にしなければならないことは、歴史的事実として、約40万人もの大観衆を集めたといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、ニューヨーク市郊外のウッドストックで行われていなかったということです。(二転三転して、最後は49歳の酪農家マックス・ヤスガーのベッセルにある牧場で開催されます。ヤスガーは、周囲の反対を押し切って主催者に土地を貸したため、フェスティバル後は、村八分に遭い、やむを得ずその土地を売却し、その僅か4年後の53歳でフロリダ州で急死します)

私には、ニューヨーカーどころか米国人の友達がいないので分かりませんが、ウッドストックといえば、ニューヨーカーにとっては特別な響を持つようです。お金持ちの別荘がある避暑地であり、各国から画家や詩人らが集まる芸術村として。

日本で言えば、軽井沢か、清里(GHQのポール・ラッシュが開発)か、那須辺りだと言えば分かりやすいかもしれません。

しかも、ウッドストックは、池袋モンパルナスのような芸術村です。ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスらの別荘があり、画家の国吉康雄らも住んでいたとか。

さらに言えば、ウッドストックは、既に19世紀から開発されていた由緒ある避暑地で、ニューヨーカーなら誰でも知っているのでしょう。だから、主催者は会場がベッセルに変更されても、最後までウッドストックの知名度にこだわったのです。

「無言館」の館長でもある窪島誠一郎さんの最新著作にも、このウッドストック芸術村が出てきます。戦前に活躍した日系二世の画家の話で、彼は、米国共産党に入党し、諜報活動もしたと言われます。

彼の経歴は、まるで米国共産党から日本に派遣されゾルゲ諜報団で活動した沖縄出身の日系人宮城与徳と同じではないですか!

このウッドストック芸術村には、1929年の恐慌によって、街中に失業者が溢れる不景気の30年代、平等社会を目指すと言われた理想的なユートピアの共産主義思想にかぶれた芸術家もたむろしていたわけです。(実際は、粛清の嵐だったのですが)

◇伝説になったウッドストック

そもそも、主催者代表で総合プロモーターのマイケル・ラングは当時25歳の青年で、フェスティバルの収益でウッドストックにレコーディング・スタジオをつくるつもりで、はじめたらしいのです。

1969年当時、第二次大戦直後のベビーブーマーが20歳前後の青春真っ盛りで、ベトナム反戦運動やヒッピー文化やフラワームーブメントが頂点に達していました。

結局、世の中は変わることはありませんでしたが、「ラブ&ピース」を主張する若者たちの異様な熱気が伝説として残り、その後の社会や文化に影響を与え続けました。まさに、60年代の総決算に相応しい年でした。

人間は見たいものしか見ず、責任を転嫁する動物

亜沙久佐

人間、見たいものしか見ず、聞きたいものしか聞かない。そんな思いがあるから、偶然にも、見たいものや聞きたいものに当たる。しかし、それは決して偶然の産物ではない。ただ単に自分が必然的に選択したのだから。ーヘルマン・ヤルシン

今、日本経済新聞の最終面の「私の履歴書」で、牛丼の吉野家グループの安部修仁会長さんが書いているか、担当記者が聞き書きで書いております。

会長さんは、一時期「高卒の社長」ということで大変有名になったことがありますが、その高校時代は、ラグビーに明け暮れ、先輩らの理不尽で不条理な拷問に近いシゴキや命令に耐え抜いてきたそうです。

例えば、何本もダッシュさせられてその場に倒れ込むと、先輩からヤカンの水をかけられ、立ち上がれ、と命令されます。立ち上がると歩け、と言われ、歩くと、「歩けるなら走れるだろ」と再びダッシュを命令されるというのです。

安部会長さんは「ああいった理不尽なことに耐え抜いてきたから、社会に出ても理不尽なことに耐え抜くことができた」と振り返っていました。

あれっ?どっかで、聞いたことがある話ですね?

◇国家社会主義者の過剰な自信

ここ数年、国家社会主義的な言動で、ベストセラー小説も飛ばしている作家の方が、今度は、「人間はそれほど弱い存在ではない。自分が限界だと思っている以上のことは耐えられるし、できる」といった精神論を展開した新書がまたまたよく売れているらしいです。

私は、作家や学者らが自分たちの信じる自分たちの言いたいことを書いて出版することを咎めたりしません。それが、広く読者から共感を得られれば、素直に「おめでとうございます」と祝福します。

しかし、それは、特別な才能を持った恵まれたその人に当て嵌まる話だけであって、万人に効能があって、上手くいくかどうかという話になると、それは別だと私は思っています。

例えば、今盛んに自分の限界に挑戦するような自己啓発本が出ていますが、私は、やめておいた方がいいと思っています。少なくとも、私は真似しませんね。

案外、作家さんが主張するほど、人間の心身は、想定以上に強くはないのです。か細く脆いものなのです。傷つきやすく、簡単に壊れてしまいます。

その国家社会主義的思想の持ち主の作家さんは、ネットなどで非難されると「さすがに、人間だから、落ち込むことがあるが、気にしないようにしてる。それより自分の信じる道に邁進することで忙しい」といったような趣旨の発言をされていましたが、彼には特別な忍耐力と精神力があるといいますか、普通の人とは比べものにならないほど、生まれつき堅牢強固な性格だと思われます。

まあ、普通の性格の人なら、見たこともない他人から非難されれば落ち込むどころか、2~3日は立ち上がれないのではないでしょうか。

◇自己責任の罠

それと、何があっても「自己責任」を問われる世の中になりました。これまで「学校が悪い」「先生が悪い」「社会が悪い」「政治が悪い」などと他人に責任を転嫁して逃げてきた人を「卑怯者」とみなす風潮が蔓延していました。

しかし、考えても見てごらんなさい。人間は、か弱く脆いものです。責任を転嫁しなければ生きていけない動物だと考えれば気が楽になるのではないでしょうか。(そもそも、他人を非難したところで何も始まりません)

先の大戦での戦争責任も有耶無耶になりました。人間はか弱い動物だからです。中には、切腹して責任を取った軍人や戦争責任を取って新聞社を辞めたジャーナリストもいましたが、全体から見れば僅かでした。

殆どの人間は、逃げました。

私も、弱い人間だという自覚を身をもって体験したので、当時に生まれていたら、逸早く責任転嫁して逃げたことでしょう。

その前に、とっくに心身は壊れてしまっていたかもしれません。

差別のない階級社会

なんじゃこりゃ?

 ◇岩波現代文庫「定本 丸山真男回顧
談」 

(昨日のつづき)

 それから、もう一つ。最近、色々な本を読んでいましたら、共産主義と国家主義とではどちらがより個人の自由を奪って人間の尊厳を蔑ろにして暴虐行為を働くのか、はっきし言いまして、どちらが究極の選択なのか、考え込んでしまいました。

 そしたら、岩波現代文庫版の「定本 丸山真男回顧談」で、元大阪朝日新聞記者丸山幹治(白虹事件で、長谷川如是閑らとともに同社を退社)の子息に当たる政治学者丸山真男は面白いことを言っていますね。

 丸山真男は、敗戦濃厚の1945年3月に帝国陸軍二等兵として懲罰のように徴兵された経験を持ちます。その彼が「軍隊時代に朝鮮人の差別はなかったですか?」との質問を受けて、「ないですね。朝鮮人の上官にもよくぶん殴られた。その点では軍隊というところはすごい。階級だけなんですよ」と、実に明解に答えています。

 「軍隊は階級だけ」「民族差別は一切なし」といった丸山真男の体験談は、本当に凄いの一言です。戦後民主主義残留孤児世代にとっては、まさに目から鱗が落ちるような話でした。

つまり、共産主義も国家主義も共通していることは、矛盾しているようですが、差別のない階級主義社会(だからこそ、グルジア=ジョージア=人のスターリンがロシア人を差し置いて党書記長兼国家防衛委員会議長という最高指導者の地位に君臨でき、政治闘争で3000万人もの人間を粛清・処刑したと言われています)。階級のみで、人間は判断され、命令されるピラミッド社会ですから、そこには、個人の自由も、人権も、人間の尊厳も入り込む隙がないということです。

いや、そういう社会では、反権力者は殺害される運命にあり、尊厳などというものは、入り込んではいけないという社会なのです。

高橋ユニオンズ

花やしき

で、前回の続きです。

◇高橋トンボユニオンズ

さて、田辺宗英は、ボクシングの殿堂後楽園ホールをつくり、初代日本ボクシングコミッショナーになるなど、ボクシング界に貢献した人として名を残しますが、一方で、後楽園には野球場「後楽園スタヂアム」をつくり、当時勃興したばかりの職業野球の殿堂にもなります。

後楽園スタヂアムは、1937年9月にできます。何とこの年は、支那事変の発端となる盧溝橋事件や南京事件が起きた年です。

と、ここまで書いて、よくよく調べて色んな説を参照しますと、後楽園スタヂアムをつくったのは、田辺宗英ではなく、日本野球草創期に、早稲田大学野球部選手などとして大活躍した河野安通志と押川清(仙台の東北学院大学の創設者押川方義の子息)の2人のようです。

河野と押川は、1920年に日本で最初のプロ野球球団「日本運動協会」もつくったそうです。私は、日本で最初の職業野球は、読売新聞社主の大正力による今の巨人の大日本東京野球倶楽部(1934年創立)かと思っておりました。そして、職業野球第1号選手も、この巨人の三原脩かと思っていましたが、どうやら間違いでした。とはいえ、嬉しい発見です。

で、後楽園スタヂアムの話でしたが、河野と押川の提案で会社が設立され、出資者として、読売の正力松太郎や阪急の小林一三、東急の五島慶太、松竹の大谷竹次郎らに協力を求めました。小林の異母弟の田辺は、専務取締役として名を連ね、後に第四代後楽園スタヂアム社長に就任するわけです。

当時はまだフランチャイズやホーム制度が確立されておらず、後楽園スタヂアムは、後の読売巨人軍や後楽園イーグルスというチームなど多球団が併用して使っていたようです。

この聞き慣れないイーグルス球団というのは、先の河野と押川がつくった念願のチームで、戦時下に敵性用語を使うとは何事か!と指弾されて、大和軍などと改名します。戦後は紆余曲折を経て、高橋ユニオンズというチーム名になります。

このチームも散々名前が変わり、途中でトンボ鉛筆の資本が入り、トンボ・ユニオンズと名乗っていた時期があります。かつて、私はこのチームの名前を知った時、「野球に何でトンボ?おかしな名前だなあ」と不思議に思っただけで、深く調べようともしませんでしたが、鉛筆会社が球団を持っていたとは!今さらながら感心しました。

トンボ鉛筆は、今でも健在で東京都北区の王子に本社があり、私は、外からチラッと見たことがあります。確かに、昔は、学生のほぼ全員が鉛筆を使っていた時代で、プロ野球の球団のオーナーになれるほど儲かっていたでしょう。

しかし、パソコン、スマホの時代となり、鉛筆の消費は大幅に減少しました。噂では、トンボ鉛筆の現在の収入の大半は、鉛筆より消しゴムらしいですが、裏は取っていません(笑)。

で、今回一番書きたかったことは、プロ野球のチーム名に「高橋」などと自分の名前を付けた人は、一体何者か?という素朴な疑問でした。

そしたら、驚き、桃の木、山椒の木じゃありませんか!

この「高橋」とは、戦前、大日本麦酒(今のアサヒとサッポロ)社長を務め「ビール王」と呼ばれた大実業家高橋龍太郎(1875~1967)のことで、戦後は日本商工会議所の会頭を務め、参院議員や通産相も歴任した政治家。プロ野球だけでなく、日本サッカー協会会長も務めた人だったのです。

さらに、彼は、ノーベル賞作家大江健三郎と同じ愛媛県内子村出身で、大江の大先輩として、旧制松山中学(松山東高校)も出ているのです。(その後、東京高商や三高に進学)

旧制松山中学は、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台でもあり、漱石の親友の正岡子規の出身校(他校に転校して卒業していないようですが)でもあります。

この話は、先日、友人と話したばかりでしたので、我ながら可笑しくなりました。