「ボクシングと大東亜」

世久阿留

名古屋にお住まいの海老普羅江先生から書簡が送られてきて、ある本を読みなさい、とのお勧めでした。

それは、乗松優著「ボクシングと大東亜 ~東洋選手権と戦後アジア外交」という本でした。

未読です。

著者の乗松優(のりまつ・すぐる)さんという方は、1977年生まれの若き、といいますか、新進気鋭の社会学者で、現在、関東学院大学兼任講師なんだそうです。

渓流斎の興味や関心事は、近現代史とその表舞台に出てこない裏社会の人やフィクサーにありますが、この本もその知られていない歴史に埋もれた真実を暴いた力作のようです。

私の世代の子どもの頃は、今以上にボクシングブームで、ファイティング原田や海老原ら多くの世界チャンピオンを輩出して、テレビの視聴率も異様に高く、よく言われていますように、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与えた、と言われています。

当時は、WBAやWBCの世界戦だけでなく、東洋太平洋級までもが大いに注目されました。

あの「あしたのジョー」も、確か、最初はこの東洋太平洋級チャンピオンになったと思います。

で、この乗松さんの本は、宣伝文句を換骨奪胎しますと、関係者の証言や資料をもとに、太平洋戦争で100万人以上が犠牲になったフィリピンとの国交回復をめぐる葛藤と交流の軌跡を描いた力作なんだそうです。

そこには、「鉄道王」小林一三の異母弟で、「ボクシングの聖地」後楽園を築いた田辺宗英、稀代のフィリピン人興行師と共に暗躍した元特攻隊ヤクザ、「メディア王」正力松太郎、そして「昭和の妖怪」で現首相の祖父岸信介らが登場します。

またまた、宣伝文句を引用しますと、「テレビ史上最高視聴率96%を記録した戦後復興期のプロボクシング興行の舞台裏で見果てぬアジアへの夢を託して集った男達の実像に迫る、『もうひとつの昭和史』」ともいえる作品なんだそうです。

ここまで、引っ張られれば、読みたくなりますよね?

で、ここまでは、表面的なご紹介で、海老普羅江先生は、「後楽園」をつくった田辺宗英と、読売新聞の社主にして東京読売巨人軍の創設者である正力松太郎との関係について触れます。

「二人は、いわゆる『刎頸の友』で、巨人と後楽園球場との契約も、ほとんど『口約束』だったと言われますよ」などと、超極秘情報を掴んでおられましたの。さすがです。

長くなるので、続きは次回。

71回目の終戦記念日

麻久佐

今日は8月15日。終戦記念日です。

戦後、71年ともなりますと、戦争を知らない戦後生まれが8割という圧倒的多数を占め、今年は、特に終戦記念日なんかよりも、リオデジャネイロ・オリンピックや、SMAP解散の芸能ニュースの方が一部の人にとっては重要ではないでしょうか?

それでも、敢えて、今日は、終戦記念日を取り上げます。

1945年8月15日は、正確に言いますと、ポツダム宣言を受諾したことを昭和天皇が、国民に向かって、「玉音放送」で伝えた日です。(ポツダム宣言受諾は、その前日14日の午後11時に、中立国のスイスとスウェーデンを通じて、連合国に伝えられました。この14日から15日にかけてのクーデター未遂事件などを描いたのが、半藤一利著「日本のいちばん長い日」です)

戦後民主主義教育を受けた私の世代は、よく「8月15日は、終戦記念日じゃない。日本が負けた日なんだから、本当は敗戦記念日なんだよ」と教えられたものです。

私も長らく、そう信じておりました。

しかし、歴史的事実を冷静に見つめていくと、やはり、8月15日は、「終戦記念日」だということが分かります。つまり、大日本帝國陸海軍及び政府は、ポツダム宣言というの名の降伏勧告文書を受け入れて、戦闘行為は止めると宣言したことに過ぎないからです。

「過ぎない」という言い方は、語弊があるかもしれません。ただ、歴史的事実は、大日本帝國は、受諾を宣言しただけで、海外を見れば、満洲でも樺太や北方列島でも戦闘状態、というより一方的な殺戮、略奪、強姦、暴行が、国際条約を破棄して侵攻した決して許してはならないソ連軍によって行われていたわけですから。

それに、8月15日が過ぎても、特攻突撃に出陣した将軍もいました。

「ポツダム伍長」だった私の父親のような帝國陸軍の一兵卒も然り。8月15日で、「解散」とすぐ郷里に帰してくれたわけではなく、8月末まで、上官の炊事当番として、毎日食事を作っていたと聞いたことがあります。

では、「敗戦記念日」がいつか、となると、やはり、9月2日ということになるでしょう。1945年同月同日、東京湾に停泊する米艦ミズーリ号で、梅津美治郎参謀総長(63)と重光葵外相(58)の全権代表が、降伏文書に署名した日ということになります。

重光外相は、駐華公使だった1932年の第一次上海事変後の天長節祝賀記念式典(上海)で、弁当爆弾を投げつけられて負傷し、右脚を切断しておりました。ミズーリ号の甲板上で、この重光の歩く義足と杖の音が響き渡りました。

梅津、重光は、ともに大分県出身で、極東国際軍事裁判(東京裁判)ではA類戦犯となり、梅津は終身刑で服役中に病死、享年67。重光は禁錮7年、戦後恩赦で公職に復帰し、衆院議員に3回当選して、改進党総裁、日本民主党副総裁などを歴任しました。湯河原の別荘で急死、享年69。

今から思うと、降伏文書に署名した2人ともまだ若かったんですね。

世界の何処の国を見ても、自国の「敗戦記念日」を徹底させる国は、皆無に近いのではないでしょうか。

先の大戦では、日本人だけでも310万人もの人々が亡くなりました。(ソ連は2000万人、ドイツは700万人、中国は1300万人、米国は29万人)
だから、せめて「終戦記念日」だけでも、末代に伝えて式典を行い続ける意義はあると思います。

ヤルタ会談が分かれ目

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつも、いつも、「獅子身中の虫」様からコメントを頂きますと、ドキッと心臓が一瞬止まり、身仕舞いを糺してしまいまする。

 そうですか。御意見賜り、誠に有難う御座いました。

 まさか、ロラン・バルトにまで言及されるとは思いも寄らず、さすが、氏の読書量と教養の深さの甚大なることが拝察されました。

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 やはり、昨日書いた「ヤルタ協定」が気になっています。

 1945年2月4日から11日にかけて8日間、忘れっぽい現代人が既に忘れているあのウクライナ半島の南端の黒海を臨むリゾート地ヤルタで行われました。

 まだ、枢軸国の雄、ドイツ帝国も、大日本帝国も降伏しておりません。(イタリアは1943年9月に無条件降伏)

 そんなまだ「時期尚早」の時期に、既に、第2次世界大戦後の世界の構築が米英ソの3人の首脳によって話し合われたのです。

 参加した米大統領ローズベルト(1882~1945)は63歳。英首相チャーチル(1874~1965)は70歳。そして、ソ連首相スターリン(1878~1953)は66歳です。

対岸のブラゴベシチェンスクが見える Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 スターリン君は「憎いのは日本だ。40年前の露日戦争で勝手に奪われた樺太の南半分を返してもらいたい。ついでに、千島列島もくれなきゃ、やだよ」と言ったに違いありません。事実そうなりました。

 「そのかわり」と、その2カ月後に死が迫っていることを知らないローズベルト君は「日ソ中立条約なんか、さっさと反故にして、対日参戦してもらわなきゃ困るよ」と言ったに違いありません。70歳の最高齢のチャーチル君も口を揃えたのかもしれません。

 1945年8月9日。事実そうなりました。

 驚くべきことに、この会談では、特にポーランドとドイツの戦後処理と連合国同盟(国際連合は誤訳!)の設立。その連合国の英米仏ソと中華民国(決して中華人民共和国ではない!!)の5カ国が、拒否権を有することまで決定したのです。

 これらは、「ヤルタ密約」として、日本はおろか、世界中誰にも知らされることなく、「戦勝国の利」として取り決められました。

 日本にとっては、敗戦の半年以上も前に趨勢が決定されていたのです。それなのに、何も知らない青年将校が、ポツダム宣言受諾の玉音放送の録音盤を奪取しようとクーデターを試みた歴史的事実は、彼らが当時の文武両道の超知的エリートだったはずなのに、後世の人間から見ても、どうも、時代錯誤的、自大野郎的、情報収集力の根本的欠如を痛感せざるを得ません。

何かお忘れではありませんか?

戦争時、いや間違い、浅草寺

8月9日は、長崎原爆忌。

目下、リオデジャネイロ五輪、甲子園の高校野球、そしてプロ野球…と生中継のコンテンツが 豊富ですが、辛うじて、長崎原爆忌のニュースだけは、フォローされておりました。

しかし、この世の不条理に異議申し立てをする方もいらっしゃいます。皆様ご存知の松岡総裁です。

…小生にとって、この8月9日は、それこそ、時間単位で出来事を想起させる日である。別に競い合う積もりはないが、新聞などに“長崎原爆投下”のことは出ていても、現今に至る東アジアの政治的・軍事的歴史を大きく塗り替えた、“8月9日、ソ連軍170万満洲一斉侵攻開始”などと言うことは、何処を探しても出てこない。これが、“日本人の歴史感覚” 、と言うものなのですね…

まさに、忿懣遣る方なし、といった感じです。

私も、8月9日付の各紙夕刊の東京最終版6紙を全部チェックしてみましたが、何処もソ連軍の侵攻や暴虐に触れていません。

これでは、日本人の歴史感覚も、レベルが低いまんま、低空飛行を続けていってしまうと考えざるを得ませんね。

私も松岡総裁に敢えて質問してみました。

◇ヤルタの密約は何処まで取り決められたのか?

…自分の不勉強を棚に上げて申し訳ないのですが、ヤルタ秘密協定で、8月9日、長崎原爆投下とソ連軍侵攻は、同時進行として取りきめられたのでしょうか?ソ連は長崎原爆は事前通告されていたのでしょうか?
それとも、米軍が、焦って、戦局を優位に進めるために暴走したのでしょうか?…

夕刊を読んでいたら、ある被爆者が「広島の原爆はウラン、長崎はプルトニウム。米軍はどちらの効き目が高いのか人体実験したに過ぎない」と証言されておりました。

確かに、アメリカは、憎っきドイツに対しては、同じ白色人種ということで、原爆を投下せず、イエローモンキーなら人体実験になると主張した科学者がいた、という話も漏れ聞いたことがありますが、裏を取ったわけでもなく、確実な証拠があるわけでもなく、都市伝説のように、誠しやかに言い伝えられていただけのかもしれませんが。

さて、私の質問に松岡総裁は何と答えるか?

◇日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連

…ご質問の件に関しては、関係歴史的事象を、時系列的に整理・推論していくことにより、自ずと解を得られることと思われます。勿論、後に起こったことが、前に起こったことを規定することはないのです。

小生の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)には、関係歴史的事象が、次のように精密にえがかれています。

(1)「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後二箇月または三箇月を経て、ソヴィエト連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した」(618ページ)

(2)なお各地に残存していたドイツ国防軍の首脳部は、五月七日、五月八日発効ということで、フランスのランスで連合国側の無条件降伏文書に署名し、また、ソ連側に対しては、五月九日、ベルリンにて、無条件降伏文書に署名した。(751ページ)
 この五月八日は、その三ヶ月後の八月八日に、ソ連が、ヤルタ秘密協定を援用し、まだ有効期間中であった日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を行い、八月九日午前零時を期して、満洲への一斉侵攻を開始するに至る、運命の日となった。

(3)マリアナ諸島のテニアン島を発進した第二十一爆撃航空団所属のB29エノラ・ゲイ号は、八月六日午前八時十五分、広島上空で人類最初の原子爆弾、リトルボーイを投下し、同爆弾は、六百メートル上空で核分裂爆発した。(761ページ)

 それから二日経ったモスクワ時間八月八日午後五時(日本時間午後十一時)、ソ連のモロトフ外務大臣は、クレムリンにモスクワ駐在佐藤尚武日本国大使を招き、ソ連の「対日宣戦布告状」を手交した。
 その一時間後、満洲での一大カタストロフィーの幕開け、昭和二十年八月九日午前零時がやってきて、アレキサンドル・ワシレフスキー元帥指揮下の百七十万の極東ソ連軍が、東、西、北の三方面から、怒濤の如き満洲一斉侵攻を開始した。

なお、上記(3)の佐藤尚武日本国大使が、大使館に戻った時は、すでに無線は破壊され、佐藤大使は、「対日宣戦布告状」を本国を含む外部に伝えることは出来なかった由である。

上記(1)~(3)の次第をよくよく整理して考えれば、ソ連を含む連合国間の権謀術数がよく分かると思われます。…

うーん、難し過ぎる。

8月9日の長崎原爆とソ連侵攻の同時進行は、ヤルタ協定で確約されていたのか、それとも偶然だったのか?

日本の歴史家もメディアも、この「同時多発」に関しては少なからず、再検証するべきではないでしょうか?

偶然だろうが、必然だろうが、悲劇は、8月9日に長崎だけでなく、満洲でも起きたことを日本人として、もっと再認識するべきでしょう。

少なくともこの満洲の悲劇(ソ連のスターリンがその引き金を引いた!)で、60万人もの人がシベリアに抑留され、葛根廟事件のように民間人が大量虐殺される悲惨な事件が多発し、世界史上稀に見る残留孤児問題が起きたわけですから、後世の人間としてはもっと認識を新たにしなけらばなりません。

いわんや、松岡氏のように、1945年8月9日に満洲の首都新京(現長春)に住んでいて、ソ連軍による虐殺暴行略奪横暴を目の当たりにした「歴史的証人」にとっては、メディアにさえも取り上げられない現状に怒りを覚えるのも当然かもしれません。

「お気持ち」に接しまして

Skytree

8月8日(月)午後3時。

何故この日、この時間が設定されたのか分かりませんが、天皇陛下の「お気持ち」を表明されたビデオテープが流されました。

政治的色彩は極力排除されようとのお考えか、直裁的な表現は避けておられましたが、「生前退位」したいという「お気持ち」は、多くの国民なら斟酌できたのではないかと思っています。

ただ、「生前退位」に反対する一部の勢力もいるらしく、彼らが「玉音放送」の録音盤を奪取しなかったことは幸いです。「日本のいちばん長い日」の場面を思い起こしてしまいますから。

ビデオテープは、日本だけでなく、英国など皇室と所縁のある王国にも生中継されたらしいですね。リオデジャネイロ五輪が開催中で、世界中の眼がオリンピックに注がれていた半面、それだけ、天皇の言動について世界的にも関心を集めていたということでしょう。

私の世代は、まだギリギリ天皇制に関してはタブー視されていて、友人らとあからさまに議論したことはありません。

昭和天皇の戦争責任に言及しようものなら、右翼から殺害されるという危機感もありました。

しかし、今上陛下が即位されて30年近く経ち、戦後生まれが8割を占めるようになった現代では、天皇制に関しての議論は、それほど身の危険を脅かされるほどの禁忌事項ではなくなったことは、確かでしょう。

「國體護持」という複雑な問題も絡み、茲で自分の意見を開陳することなど烏滸がましいのですが、今や象徴天皇として多くの国民から認められ、尊崇されていることは事実であり、天皇制を否定する人は、左翼主義者の一部の人に留まるのではないでしょうか。

私自身、今上陛下が皇太子時代、小生がまだ高校生だった頃、何か体調が悪くて早退したところ、駅の周囲が異様な人集りで、何が起きたのかと思ったら、皇太子夫妻(当時)が、こんな田舎の養護施設に慰問に来られたという話を駅員さんに聞いて、本当に感激したことがありました。

私は、単なる生来の野次馬ですから、本当に目と鼻の先で、手を伸ばせば届く至近距離で、電車から降りて来られた皇太子夫妻を拝謁することができました。警備は殆どなかったかのように簡素でした。高校生ながら「大丈夫なのかなあ」と心配してしまいました。

そして、もう25年も昔になりますが、ウィーンに行ったことがあり、オーストリア政府の職員の方とお話する機会があったのですが、その方は「天皇がいる日本が羨ましい」と言うのです。

オーストリアは、御案内の通り、第一次世界大戦前までは、神聖ローマ帝国の流れを汲むハプスブルク家が未だ健在で、北はフランドル地方から南はイタリア国境まで、ヨーロッパ大陸の大部分を領土としていました。

それが、敗戦などで王家はドンドン衰退し、領土も欧州中央の小国に堕ちてしまいます。

ウィーンの歴史美術館に何で、フランドル地方の画家ブリューゲルの絵画があるのか、不思議でしたが、ブリューゲルの時代は、フランドル地方はハプスブルク帝国の一部であり、彼の絵画が首都ウィーンに保管されるのは極めて自然だったのですね。

件のオーストリア政府の女性職員は「我々は、ハプスブルク家というバックボーンを失い、小さな貧しい国になってしまいました。その点、日本にはバックボーンがあり、国民一体となって発展しているので、羨ましい」と言うのでした。

さて、今回の「生前退位」の話ですが、一部の反動主義者たちは、何かと、明治時代に革命政権が作った「皇室典範」を金科玉条のように引き合いに出して、反対しています。

天皇家の長い歴史を勉強すれば、推古、持統、斉明天皇ら多くの女帝が存在したわけですし、生前退位の例も数多ありました。

結局、天皇の権威を利用しようとする輩がいるので、話がややこしくなってしまうだけなのです。

皇太子が空位になるのなら、皇太弟の名称でもいいではないですか。元号も引き続き平成でも、改元してもどちらでもいいのではないでしょうか。

焦点は、御高齢になった天皇の健康問題です。激戦のあった旧戦場への海外慰霊の旅、被災地への慰問と、普通の後期高齢者ではとても体力的に持たないことでしょう。

陛下の御希望通り、一刻も早く生前退位されることが望ましいと私も考えております。

日本の将来は暗い?

ピカチュウ

この渓流斎ブログ。平日は、電車の中で、スマホで書いてます。

いつも、御丁寧に御親切に送って頂いている松岡総裁からの御写真は、パソコンに保存しているため、そのためゆえに、自宅でパソコンに向き合う週末にしか、写真掲載させて頂いていない、という事情が御座いましたのです。

その松岡総裁から久し振りにメールが御座いまして、「渓流斎ブログの中で、小生が『資本論』をドイツ語の原書で二回読破したような趣旨のことが、書かれておりましたが、正確には、日本語で『資本論』第1巻、第2巻、第3巻を一回、ドイツ語は、マルクス自身が書いた第1巻を読んだだけです。『経歴詐称』になりますから、御訂正下さい」とありました。

彼は、非常に超真面目な方です。

無鉄砲な私は「読者は、そんな真面目に読んでいるわけではありませんし、たとえ誇張した言い方でも気にしていません。まして、『経歴詐称』で訴える人はいないのではないてせうか」といったような生意気な返事をして、お茶を濁してしまったわけです。

私は、ぶっきら棒です(笑)。

で、「資本論」を取り上げるきっかけになった「希望の資本論」の中で、佐藤優さんがこんなことを言ってました。

早稲田大学政経学部3年生と、慶応大学総合政策大学院1年生に、「明治維新」や「日露戦争勃発」などの年号を入れろ、という問題を100題出したそうです。

そしたら、早稲田は平均5点、慶応は4.2点だったそうです。勿論、100点満点中です!40点、50点ではありません。

つまり、100問あって、そのうちわずか、4つか、5つしか答えられなかったというのです!

早稲田、慶応と言えば、高偏差値の「私学の雄」で、一応、超一流企業の就職に、その看板だけで有利に働き、一生安泰した生活ができ、希望の未来が保障されている、と言われております。

それが、この体たらくですからね。

はっきり書きましょう。

日本人は、馬鹿になった。

どうせ、私立文系だから、ろくに数学の勉強もしていないでしょう。それなら、重要な歴史の年号を覚える時間なんて有り余るほどあるはずです。単に学生の本分を忘れて、遊び惚けているに違いありません。

この程度なら、お隣りの中国韓国どころか、ミャンマーやカンボジアにも負けます。何処の国の若者も、必死に命を懸けて頑張っているというのに、この日本人の劣化はどうしたことでしょうか?

現に、日本の最高学府東京大学も、世界の大学ランキングで、シンガポール国立大学や香港大学より落ち、ここ2、3年前からアジア首位からも陥落しています。

日本の将来は暗い、のでしょうか?

広島原爆忌に

五大連池 魚はわが店で Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 まさに盛夏。

 昨日は8月6日の土曜日。広島原爆忌。

  不謹慎にも都内の演芸劇場にまで、生の落語を聴きに行こうかと思いまして、開演30分前に並んだのですが、係の人から「もう、ここから、立ち見です」と言われてしまいました。

 まさか、5時間も立って見ているわけにはいきませんから、諦めましたよ。天罰だったのかもしれません。

 係の人に聞いたら、切符を求めて、何と朝の9時から並んでいる人もいたとかで、今の現代人は、つくづく、現実生活が面白くないから、笑いを求めているんだなあ、と思い知らされました。

五大連池 野菜も豊富です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 このまま、すごすごと帰ってしまうのも、何ですから、何年かぶりに、観音様にお参りしまして、仲見世通りは、あんまりにも、外国人観光客でごった返しているもんですから、比較的空いている北側にある「長寿庵」で、天もりとレモンハイで真昼間から一杯(だけ)きゅーとやって、憂さを晴らして帰りましたよ。

 田舎から遠路はるばる蒸気機関車に乗ってわざわざ、都心に出てきたので、汽車賃を取り戻さなければいけませんからね(笑)。そこの演芸場は、前売りも予約受付もなく、「満員御礼」では、誰も責められず、運がなかったと諦めるしかありません。(もしかしたら、代理店と手を組んで団体客優先だったのかもしれません。定員の320人も並んでいませんでしたからね!)

 まあ、都心に出たおかげで、やっと、ピカチュウを捕まえることができましたので、無駄骨を折らなかったということにしますよ(笑)。

 序ながら、江戸の老舗蕎麦屋のランキングを見てみたら、嘘か誠か、(1)まつや(2)砂場系(3)藪系(4)更級系(5)能登治(6)松竹庵(7)長浦(8)蓮玉庵(9)あさだ(10)吉田屋…あたりで、長寿庵系は圏外でしたね。

でも、そこの長寿庵は、値段もそれなりでしたから、美味かったでしたよ。

五大連池 ロバは良き友 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 広島原爆忌ということで、夜、TBS系の「報道特集」を見ていたら、広島駅の旧国鉄職員の人たちが、被災者の援護、救護のために、鉄道復旧に全力を尽くされていたことを証言を交えて報道していました。

 何か、国鉄の社史にも載っていなかったらしい秘話で、元国鉄職員の方は「原爆の被災者の中には、衣服が燃えて、全身裸で、皮膚もすべて赤むけてしまい、両手を挙げて歩いていました。肘が脇腹や腰に当たると痛いからです」などと証言しておりました。

 そう言えば、私は、子供の頃から、これまで多くの原爆絵や写真を見てきていたというのに、被爆者が何故、両手を身体から離していたのか、疑問も想像も、及びもつかなかったことを反省してしまいました。

 広島県郊外から、被爆者を看護するために動員された女子高校生らが、周囲も自身も何の知識もなかったため、そのまま原爆投下地広島市を訪れ、二次感染で放射能を浴びてしまい、それから何年か経って、ガンに侵されて多くの友人を亡くしたという80歳代の女性も出演しておりました。自身も何度もガンの手術をして、死線を乗り越えてきた方でした。

全身、原爆で焼かれて衣服がなければ、身分証明書や本人が分かる何もかもが、焼失してしまったということでしょう。本人も口がきける状態ではないまま、亡くなった方も多かったらしく、となると、何処の誰方かも分からず亡くなり、「無縁仏」のまま、多くの方が亡くなった墓所として「慰霊塔」がありました。

思わず、涙が出てきて止まりませんでした。

こうして多くの非戦闘員である無辜の市民を虐殺した原爆です。「何百万人ものアメリカ人の若者の生命を救うため」と、原爆投下にサインした米国軍最高司令官のトルーマン大統領(民主党)の弁明は、この世に本当に神様がいらっしゃるのなら、正当化できるのでしょうか?

 戦後71年。体験者の高齢化で、今後ますます、直接の証言者の皆様が亡くなられてしまうと思いますが、こうして、語り続けられ、記録に残していかなければならないという強い思いに駆られました。

「日本のいちばん長い日」と講談社

Ginza. Tokio

ポケモンGOの郷しろみです。

渓流斎ブログには、「偶然の一致」という文字はありません。

またまた、「必然」が起こりました。

一昨日、映画「日本のいちばん長い日」のことを書きました。そして、昨日は、講談社のことを書きました。

実は、この両者は、必然的に繋がりがあったのです。

具体的に言いますと、「日本のいちばん長い日」の主人公で、最後の陸相を務め、終戦記念日に割腹自決を遂げた阿南惟幾(あなみ・これちか)中将と講談社とは、姻戚関係があるということです。

ご説明申し上げましょう。

講談社の創業者野間清治という人は、今の群馬県桐生市出身です。(1878年生まれ)1909年に大日本雄弁会を設立し、11年には講談社と改称して「講談倶楽部」「少年倶楽部」「キング」などを発行します。それら雑誌は大当たりして、彼は「雑誌王」と呼ばれ、一代にして、大出版社に育て上げますが、1938年、まだまだこれからというのに59歳の若さでで急逝します。

その後、長男恒(ひさし)が2代目社長に就任しますが、彼も既に病に冒されており、1カ月も経たないうちに、29歳で早逝してしまいます。

そこで、創業者清治の妻サヱが3代目社長に就いて株式会社化し、1941年(真珠湾攻撃の年)、サヱの姪っ子の夫で、講談社に勤めていた高木三吉(のち取締役)の弟省一を、長男恒の寡婦登喜子に婿入りさせます。

当時、高木省一は、東京帝大卒業後、満鉄に勤めていました。彼は、終戦直後の荒波を乗り越えて講談社を復興し、「講談社中興の祖」と呼ばれた4代目社長野間省一です。

ちなみに、妻登喜子の父は町尻子爵家、母は賀陽宮家の出です。また、2代目恒社長には、3人の弟がいたと言われていますが、何故後継者にならなかったのか不明です。(ただし、次男も早逝されたようです)

そして、ここからがハイライト。1965年、「中興の祖」省一の一粒種だった長女佐和子の婿に迎えたのが、 「日本のいちばん長い日」の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の五男惟道(これみち)というわけです。惟道は、 東大卒業後、三菱電機に勤務しておりました。

4代目野間省一が長い闘病生活の末、亡くなった後の1981年、この野間惟道が、5代目社長に就任します。しかし、この阿南陸相の血を引く5代目も87年に、 49歳の若さで急逝してしまいます。新雑誌創刊など、次々と新機軸を生み出しますが、ストレスと過労と深酒が祟ったようです。

6代目社長は、寡婦となった野間佐和子が就任し、2011年には、急逝した佐和子社長を継いで、息子の野間省伸(よしのぶ=47)が7代目の社長になっています。

こう見ていくと、講談社の経営方式も、特別に優秀な番頭を婿入りさせて、代々継いでいく江戸時代の商法とほとんど変わりませんね。

意外と知られていませんが、マスコミという出版社も新聞社も、実は創業者一族による経営がほとんどで、個人商店みたいなものなのです。

それを多くの人が勘違いして、「不偏不党」で「公明正大」やら「社会の木鐸」とやらと不作為の信頼を置いているから、間違いを起こすのです。

マスコミ報道は、GHQの「3S政策」と同じように、恣意的です。情報発信には必ず裏があります。よおく心得よ、かし。

「大陸新報」「戦線文庫」「陣中倶楽部」

iCloud

大島テラスです。

もうツィッターやめよかなあ、と思ってます。

私の通勤電車は、最近とみに頻発に遅れることが多く、その理由が、人身事故なのか、パンタグラフの故障なのか、急病人なのか、駅で緊急停止ボタンが押されたのか、ツィッターで路線検索すれば、何らかの情報が即座に入るので、便利に使っていたのです。

でも、他のページの中には不愉快な側面もありますね。特に、ネット業界特有の隠語を使った脅し、貶し、侮蔑、蔑視、威丈高、讒謗、誹謗中傷、見下しには不愉快を越えて、怒りすら覚えてきました。

「そっかあ!こんなもん、見なきゃいいんだ」。こんな簡単な、単純な動作すら忘れていました。

◇宣撫活動を率先した大手マスコミ

ここ数年、ネット上に現れる論調の中に、「朝日新聞は、サヨクで反体制的で怪しからん」というものが多数占めているようです。

そう言う方は、山本武利著「朝日新聞の中国侵略」を読んでいないのでしょうね。2011年に文藝春秋から刊行されました。

朝日新聞は、競合他紙に先駆けて、戦争中に、上海で邦字紙「大陸新報」を創刊。休まず発行し続けて、挙国一致の戦意高揚の宣撫活動を行ってきました。同書は、山本氏がその実態を余すところなく暴いた労作です。

これで、朝日新聞は決してサヨクでもリベラルでも何でもなく、まして反体制派でも何でもないことが分かります。大衆迎合、いや部数拡張のために尖兵となって、体制と武器商社と手を結ぶ単なる営利企業に過ぎないことが分かります。何しろ航空部門(後の全日空)を創設するほど大儲けしたわけですから。

山本武利氏の著作を公にした文藝春秋も、同じような、これまでひた隠しに隠してきた「脛の傷」と言いますか、「武勇伝」があります。

これまた、戦時中に海軍からの委託で発行された「戦線文庫」という雑誌がありました。版元の興亜日本社は、実質的に文藝春秋の子会社です。

この雑誌は、今で言う「週刊プレイボーイ」とまで言っては、言い過ぎかもしれませんが、当時のアイドルだった原節子、高峰秀子、田中絹代、山田五十鈴ら大スターのグラビア写真が満載の娯楽誌です。前線の兵隊さんらのために無料で配布されたそうです。

まあ、慰問誌みたいなものでしょう。

春陽堂、改造社、実業之日本社、新潮社などを押しのけて、昭和初期には日本一の版元に躍り出た大日本雄弁会講談社も黙っていません。

戦後、講談社に改称されるこの大出版社は、帝国陸軍からの委託を受けて、「陣中倶楽部」を発行します。海軍と同じような慰問誌です。

この二誌は、他誌が言論弾圧や紙の配給の停止に脅えながら発行しているのを尻目に、戦時中は一度も休刊されず、発行し続けられました。

武勇伝が逆巻く現在では、隠すも隠さないも、この「戦線文庫」も「陣中倶楽部」も復刻版が発売されています。

以上、押田信子著「兵士のアイドル」(旬報社)などを参照しました。

相国寺と伊藤若冲

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  こんにちは 京洛先生です。
  姓は京洛、名は先生。お久しゅうございまする。

  関東、お江戸も、ようやく梅雨明けだそうですが、洛中は一足先に梅雨明け宣言しております。今日も昼間は、ムッとくる、盆地特有の蒸し暑さで閉口していました。

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 そんな中、ある重大な使命を帯びまして、地元の区役所まで出かけてきました。
 同区役所周辺は、その昔、足利尊氏が室町幕府(花の御所)を開いたその跡地周辺に当たります。今は、この一角に同志社大学のキャンパスが占めています。
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 また、三代将軍足利義満が開基のご存知、京都五山の一つ「相国寺」(萬年山相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)もすぐそばにあります。
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 そう言えば、皆衆は、以前、お江戸は南青山の相国寺東京別院で高名なる有馬頼底老師に参禅されましたね。

 そこで、今日は区役所の帰途、ぶらりと相国寺に立ち寄ってみることにしました。ちょうど、山門を入った放生池にはこのように綺麗な蓮の花が咲いていまして、後先も何も考えることなく、無謀ながら、浴衣の裾をたくし上げて、パチパチと写真を撮ってきて参りました。

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 また、相国寺に付属する「承天閣美術館」では、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの「伊藤若冲展」(12月4日まで開催)が開かれていて、これものぞいてきました。若冲の作品は相国寺にも多く所蔵されていますが、実は、境内には若冲のお墓もあります。

 展覧会は、残念ながら撮影禁止なのでご覧いただけませんが、「月夜芭蕉」を描いた鹿苑寺の旧大書院障壁画には圧倒されましたね。モノクロのはずが、月夜に色がついているように見えます。

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 えっ?何で、伊藤若冲のお墓が相国寺にあるのですかって?

 カッ、カッ、カッ(笑)、若冲さんみたいな有名人になりますと、いろんなところに墓地があるものなのですよ。

 「承天閣美術館」は冷房がよくきいていて絨毯も厚く、おまけに人が少なくて極楽でした。

 今度、皆衆が上洛の際は、ご案内進ぜましょう。