おびひろ氷まつり

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060127-04217181-jijp-soci.view-001

おびひろ氷まつりが27日、北海道帯広市の緑ヶ丘公園で開幕しました(29日まで)。

上記のホームページをクリックしてください。

私が撮った写真でございます。

ヤフーを通して、国際的に配信されております。

http://news.goo.ne.jp/news/picture/jiji/20060127/4217181.html?from=bsearch

もちろん、gooを通して世界中に配信されております。

人生の定理

ある大手企業に勤める前田隆(仮名)さんという人がいます。57歳。

彼は、入社以来、若い頃は、遅刻はするわ、仕事は手を抜くわで、周囲に迷惑を掛け通しで、あまり真面目な社員ではありませんでした。それでも、大企業ですから、いわゆる「ぶら下がり」として、給料はそれなりもらっていました。

それでも、幾星霜を経て、前田氏は、本社東京から離れたとはいえ、幸運も味方して地方の営業所長の地位を確保することができました。
しかし、好事魔多し。今度は、あれやこれや言い訳を繕って、真面目に働かない、ほとんど新規契約を取って来ない部下に当たってしまいました。

それでも営業成績は上げなければなりません。本来なら、営業所長として踏ん反り返って部下を指図していればいいのですが、背に腹はかえられません。自ら足を棒にして、お得意先を回って、契約をまとめる日々となりました。そして、自分は思った以上に口先がうまく、営業向きで、新規契約を60口もまとめた時は、さぼっていた若い時の借りを返したような気分になりました。

そう、これが世に言う「人生の定理」だったのです。波動の法則で、無能の部下を引き寄せたのは前田氏だったのです。まるで、仕事をしなかった若い時の自分を引き寄せたようなものです。若い時に楽をした前田氏は、その分を定年間近になった年になって返すことになったわけです。プラスマイナス・ゼロです。

そのことに前田所長は恐らく気づいていないでしょう。

前田所長の「部下が全く働かないから、俺が現場に出るしかないんだよ」という愚痴を聞きながら、私は思わず「それは自業自得でしたね」と言いそうになってしまいました。

まさしく「知らぬは本人なりけり」。前田氏が如何に、全く働かない「無能人間」だというレッテルを貼られていたということさえ、本人は知らなかったのです。

でも、世の中、うまくできたものです。
因果応報。努力すれば報われる。サボって楽をすれば、いずれしっぺ返しが来る。

これこそが人生の定理です。
人生の定理は、まずそのことを信じることからはじまります。

無料の功罪

ある友人(あえて名前は伏せますが)と話をしていて、驚かれてしまいました。「え?渓流斎は、ブログはタダで書いているの?今時の学生でさえ、自分のブログで紹介した本は、クリックすればその本を買うことができるようにしているんだよ。結局、その紹介文は単なる宣伝だったわけだ」と言うのです。今、全国でブログが何十万あるかわかりませんが、いい気になって読んでいたら、結局単なる宣伝、コマーシャルだったというわけです。

「すべての文章には、お金がからんでいる」と喝破したのは作家の山本夏彦氏ですが、確かに新聞の記事も記者は社員として月給をもらっているわけですし、いくら無料雑誌とはいえ、ライターはスポンサーから回りまわって原稿料をもらっています。同人誌や自費出版等は別格として、世間(といっても定義は曖昧ですが)に発表される公共の文には何らかの形で「経済原則」が働いているわけです。

インターネットだから、情報は無料だと思い込んでいる若い人が多いのですが、結局、回りまわって「読者」はお金を何らかの形でお金を払っているのです。ニュースそのものは、マスコミの会社の提供だとしたら、ポータルサイトの運営者はそのマスコミの会社にお金を払っているのです。そのお金は、どこから捻出されるかといえば、結局、中間は省きますが、スポンサーの商品を買う利用者が払っていることになるのです。

さて、とはいえ、それにしても、今のところ、今のところですが、私がこれまでブログでご紹介してきた本にしろ、CDにしろ、映画にしろ、雑誌にしろ、すべて自腹でお金を払って買ったり、見たりしたもので、出版社や興行元から一切、お金をもらったわけではありません。はっきり書きますが、いわゆる記者や評論家やライターと呼ばれて批評や紹介文を書く人は、タダで対象に接しています。要するに、タダで映画を見て、ボロクソを言い、タダで本を読んで、コケ降ろし、タダでコンサートを見て、自分ができもしないくせに馬鹿にしているのです。

タダだからできる芸当なのかもしれませんが。

「だから何なの?」と批判する人もいるかもしれませんね。それなら、「これから私はスポンサーからお金をもらって宣伝文を書きます」と宣言したら、今後も私のブログを読んでくれますか?

分かりました。今度、もし仮に、スポンサーからお金をもらったりして紹介めいた文章を書いた時、新聞のように【全面広告】とクレジットしましょうか?でも、それこそ、つまりお金をもらってこそ、真のプロのブロガーなのでしょうね。無料の方がレベルが上とは限りませんから。

結局、今日は何が言いたいのか自分でも分からなくなってしまいました。

四苦八苦

医療ジャーナリスト松井寿一さんの近著『がんを友に生きる』(元就出版)を面白く読んでいます。

仏教で「四苦八苦」といいます。

「四苦」とは、生老病死。「八苦」とは、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦のこと。この「苦」とは苦しみのことかと思っていたら、「思い通りにならないこと」を意味するらしいのです。

つまり、まれてきたのも、誰かに頼んで生まれてきたわけではない。いてをえてぬのも同じ。全く思い通りにならない。愛別離苦は、どんなに愛し合っていても必ず別れがくる。怨憎会苦とは、顔も見たくない嫌な人に会わなければならないこと。求不得苦とは、欲しいものが手に入らないこと。五蘊盛苦は、身体の機能が思うように働かず、思うようにならないこと。

まさに世の中は自分の思い通りにならないことを、お釈迦さまは喝破したのです。

松井さんは、無着成恭さんから聞いた話を書いています。この話をしたいがために、今日はこのテーマにしました。

「財布から一万円出そうとして落としました。すぐ拾いますよね。なぜですか。自分のものだからです。傘をぶらぶら振っていて落としました。これも拾います。自分のものだからです。では生命を落としたら拾えますか。拾えないでしょう。生命は自分のものではないからです」

今日、私はあまりいいことがありませんでした。要するに、全く思い通りにならないことばかりが起きました。しかし、この本を読んで、元気をもらい、自分の陳腐な思考回路が馬鹿らしくなりました。これからは、度々、引用させてもらおうかなあと思います。

ウォーキング・メディテイション

ウォーキング・メディテイションというものがあることを今日、初めて知りました。

 

「歩行瞑想」と訳せばいいのかもしれません。瞑想といえば、座禅を組んでじっとして、只管閉じこもって精神を集中するものかと思っていたのですが、歩きながら、戸外の景色を眺めながら、想念を巡らせていいようです。

 

今回、私自身、全く「歩行」の基本を知らなかったことがわかりました。つまり、着地する時、いつも、爪先ほどではないにせよ、足の裏の先端部分で着地していたのです。随分と前屈みとなり、言ってみれば、猫背になっていたのです。全くみっともないのですが、もう半世紀近くもこんな歩き方をしていました。本当にぞっとします。道理で、しょっちゅう、ほんの小さな石や段差で転んだり、バランスを崩していたものでした。

 

本来の歩き方というのは、踵から着地していたのですね。知らなかった!(皆さんは知っていましたか?私は歩き方を習わなかったので、本当に知りませんでした)

 

踵で着地すると、自然と背筋が伸び、5歳は若返った気分になります。

 

「歩き方には人生観が出てしまうのですよ!」とメンター(師)は言いました。「渓流斎さんの場合、性格がとてもせっかちで、いつも時間や締め切りに追われている、というのが露骨に現れています。いつも、いつも、先のことばかりを心配している歩き方です。『今』を素通りにしているのです。『今』しかないのに、起こりもしない将来のことばかり心配しているのです。もし、地に足が着いた生活を自信を持って送っているとしたら、そんな歩き方はしません。まさしく、地面に踵をしっかり着けて、大地を踏みしめています。もし、渓流斎さんが、そういう歩き方をすることができれば、そういう人生を送ることができるのですよ!」

 

私は、歩き方を変えました。一歩一歩、雪道を踵からゆっくり降ろして、踏みしめて歩きました。「ザクッ、ザクッ、ザクッ」。心地よい音が自然の大気にこだましました。『今』を感じながら、しっかりと大地を踏みしめました。

 

ああ、何と幸せな気分なのでしょう。これこそが、ウォーキング・メディテイションだったのですね!

森の哲人、帯広入り

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いつぞや、このブログでもご紹介した「森の哲人」オジジとオババこと徳村彰、杜紀子夫妻が、帯広に来て、帯広の隣町の幕別町札内で講話会を開きました。

講話会といっても、ごくごく少数の人(15人くらい)で、ゼロ歳から50歳代ぐらいの人まで様々でした。

約1時間半、オジジがどうして、北海道上川管内滝上町滝西にある森に移り住んだのか、といった話から、今、森に暮らして感じていることを淡々と話していました。

初めてオジジのことを聞いた人のために、ここで再び彼のことを紹介しますとー。
彼は金沢市出身で、現在78歳。詳しくは分かりませんが、東京大学を出て、物書きの仕事をしていたようです。中国やソ連にも行っていたというので、貿易関係の仕事もしていたようですが、本人は口を閉ざしているので謎です。

彼の生き方を変えたのは1971年のこと。仕事のしすぎで、肝硬変と肺気腫に罹り、当時、名医中の名医と言われていた医者に、「あなたの命は、もってあと2年」と宣告され、「どうせなら、残りの人生好きなことをやろう」と心に決めたそうです。

そこで、横浜の日吉で子供たちのための「文庫」(「図書館」と言えるほど大きくなかったのでそう名づけたらしい)を作ったところ、今で言う登校拒否の子供たちが沢山集まるようになり、もっと広い、環境のいい所を探します。そして、紆余曲折を経て、北海道にその地を見つけますが、「永住」覚悟したのは、1990年のことでした。

約6㌶の国有地を借りて掘っ立て小屋を建てますが、電気もガスも水道もありません。しかも真冬は、マイナス25度にもなる極寒地です。

それでも、「この15年間は本当に幸福だった」と振り返ります。「余命2年」と言われて、30年以上、生き延びています。しかも、「森の精」のおかげで、肝硬変が消える奇跡が起こり、左右裸眼で0・1しかなかった視力も1・2まで回復します。「森のおかげ」とオジジは言います。

6㌶の土地には、ミズナラ、ニワトコ、ホウノキ、ハルニレ、アモダマ、シラカバなど80種類の樹木もあるそうです。ヨーロッパ全体で65種類しかないので、その数字がいかにすごいかお分かりになるでしょう。

オジジはそんな森の自然に一切手を加えることなく共棲しているのです。

春から秋までは、都会の子供たちらを受け入れ、冬は、毎日8時間の雪かきです。北国育ちのオジジは子供の頃、雪かきが大嫌いだったそうですが、健康を害して、余命2年と宣告されたのに、雪かきのおかげで、すっかり体力を回復したそうです。

「幸福とは、日本になかった言葉です。明治になって、Happinessを翻訳したものです。それでは、古来の日本では、幸福のことを何と言っていたのかー。幸(さち)と呼んでいたのです。幸の『さ』境目、境界線のこと。『ち』は霊力のことです。つまり、自分の肉体や精神の内部と外部の境目で不思議な力を感じることなのです。私は、一日の雪かきの仕事が終わって、五右衛門風呂に入ると自分の肉体とお湯が溶けて境目がなくなって、何とも言えない恍惚感を感じるのです。こんな幸せなことはありません。これから私は100歳、いや140歳まで生きて、森の素晴らしさを伝えたい」

オジジの素敵な笑顔を皆さんにもみせたかったです。

なお、オジジについてもっと知りたい方は、彼の著作『森に生きる』『森に学ぶ』(雲母書房)をご参照ください。

壮年の生き方 

弟子「私はこれまで、道に迷った時、大変そうに見える苦難の道ばかり選んできました。決して安易な道を選びませんでした。私も若かったし、その方がやりがいがあったからです。それに、これまでの人生で読んできた書物の影響もあったかもしれません。何の本だったのか、たった一冊の本を挙げることはできませんが、アンドレ・ジイドの『狭き門』であり、夏目漱石や太宰治の一連の小説であったり、です。

しかし、私も老い、壮年を迎え、そろそろ自分に正直に生きようかと思っています。岐路に立たされたら、もう苦難の道を選ぶ気力も体力もありません。決して楽をしようというつもりはないのですが、楽しそうな道を選びたいと思っているのですが…」

メンター(師)「いいえ、もう、楽な道を選んでいいのですよ、マイ・サン。安易な道で何故悪いのですか。あなたは、もう十分苦しんできました。十分過ぎるほど苦しみぬいてきた。それは、あなたが欲した道だったからです。苦しめば何かご利益がある、と誤解していたからではありませんか?

それとも、苦難の道を選んで、何かご利益がありましたか?どちらを選んでも同じだったはずです。人は一瞬、一瞬、その場、その場で選択しています。仕事や職業など重大な判断を下さなければならない時もあれば、『今日の晩ご飯は何にしようか』まで様々です。でも、食事なら、まずいものを食べようと選択していましたか?

人生の選択も同じです。好きなことをやって、好きなことだけをして成功している人は世の中にいっぱいいます。その方が、遥かに輝いています。自分の好きな仕事ですから、楽しくてしょうがありません。嫌な人にも会うことはないのです。
『それはできない』『生計が立てられない』と思っているとしたら、前世によほど酷い目に遭って、不遇のうちで亡くなったからです。毎日、不平不満ばかり言って、過ごしていたら、その人の人生は、『不平不満の人生』で終わってしまうのですよ。もし、その仕事が自分に合っていなかったら、その会社が嫌だったら、何故、飛び出さないのですか?人生はそれほど長くはないのです。その人の人生は不平不満を抱えたまま、終わってしまうのですよ。

もったいない!せっかく、この世に役目を持って皆、生まれてきたはずなのに、無駄に過ごしてしまうのですか?もったいない!太宰治なんか読んでいる暇はないのです。人生など本当に一瞬で終わってしまうのです。ネガティブに考えれば、人生を否定的に考えたまま終わってしまうのですよ。人生を否定的に考えて終わってしまう人は、その人がそう望んだからです。だから、その人は結果的に否定的な人生で終わってしまうのです。

逆に肯定的に捉えれば、人生もスムーズに行きます。『楽しくしたい』と思えば、楽しい人生が自ずから開けてくるのです。人間関係も変わってきます。もう、嫌いな人に出会うことはないのです。次元も違うし、波動が違うからです。これまでの友人関係も変わってきます。

宇宙の愛に目覚めます。生きているというより、『生かされている』という感謝の気持ちになります。そうなれば、ちょっとソリが合わないとか、気に食わないとかいった人間関係の些細な次元が全く馬鹿らしくなるか、気にならなくなるのです。だから、もう嫌な人に遭うことはなくなるのです。

楽な道、安易な道、ワクワクするような楽しそうな道…。大いに結構じゃありませんか。もう、そういう時代になってきました。あなたが変われば、あなたの意識が変われば、周囲の人も変わります。そして、大いなる宇宙の愛は燎原の火の如く、たちどころに広がります。疑心暗鬼も猜疑心も消えます。不安や恐怖も消えます。心は信頼と愛で満たされます。

人は、猜疑心や恐怖心というものが、それが高級なものであると勘違いしているだけなのです。決してそうではありません。何も童心に帰れ、とは説きません。心の意識をほんの少し変えるだけで、自然と信頼と愛に満たされてくるのです。
ですから、これから、どうぞ楽な道を選んでください。安易な道を選んでください。ワクワクするような楽しそうな道を選んでください。

こんなことは、若い人には決して説きません。苦労は、体力と気力がある若い時にしか自ら買って出られないからです。

でも、あなたは、もう50歳です。これまで散々苦労を重ねてきました。皆も認めています。そういうあなたにだから言えます。これから、いい仕事をしてください。楽しんで仕事をしてください。世の中のためになることをしてください。あなたはリーダーシップを発揮する星の下に生まれました。必ずや道は開けます。周囲に影響も与えます。あなたが率先して行動すれば、周囲もついてきます。

世の中は、決して、映画の世界のように、善人と悪人だけが住む世界ではありません。マスコミが伝える世界だけでもありません。どうか、魂のレベルで世の中を浄化してください。それが、あなたのお役目です。」

白鳥がいっぱい

今日は御託を並べずに素晴らしい写真を沢山お見せします。

白鳥がいっぱいです。

こんな身近に見られます。

十勝川温泉の十勝川の畔に、毎冬、何百キロの彼方のシベリアから渡って来ます。

しかし、心無い釣り人のせいで、ある白鳥が口に釣り糸を絡ませていました。(残念ながらこの写真はありません)何とか食事はできるようですが、かわいそうでした。

それでも、こんなに沢山、身近に白鳥を見られるところ、全国でも、あまりないでしょう。

あ、忘れるところでした。鴨さんも沢山、います。

アンデルセンの童話を思い出します。「11人の王子と白鳥」
あ、アンデルセンではなかったのかもしれません。魔法によって王子が白鳥に姿を変えられてしまい、美しいお姫さまが、王子を救う話だった、かどうか…。

失礼しました。結構、御託を並べてしまいました。

あるものをみつめて

あるものをみつめてー。

或る物を見つめて、ではありません。

「在るものを見つめなさい」「自分に与えられている持っているものを見つめなさい」ということです。
私は、今日、教えられました。

人の不幸は、ないものを欲しがるところから始まります。

-お金がほしい。
-服がほしい。
-恋人がほしい。
-お家がほしい。

いずれも、そう簡単に手に入るものではありません。
ないものを欲しがるからです。

しかし、在るものを見つめたらどうでしょうか。

ー借家だけど、家がある。
-お金はないけど、健康に恵まれている。
-恋人はいないけど、友人がいる。
-何とか食べていける仕事がある。

何となく不平不満が消え、感謝の心が湧いてきます。
感謝の心が湧けば、自然と頭が垂れてきて、自分は生かされているという気持ちになります。

自分が生かされていると思えば、周囲と仲違いしている暇はなく、人のために何か役に立ちたいと思います。

人の役に立つと、相手から微笑みが返ってきます。

こうして、自然と幸福感に満たされます。

如是我聞⑨

不安と恐怖は幻です。

もし、不安と恐怖を感じたならば、逃げないで、そのまま、たっぷり不安と恐怖を感じなさい。

もし、真剣に不安と恐怖に立ち向かったのならば、トンネルを抜けるように、その感情は消えてなくなるでしょう。

不安と恐怖は幻だからです。

時間が経てば、最初から不安も恐怖もなかったということは分かるでしょう。