如是我聞①怖れ

私は斯くの如く聞きました。

怖れとは、幻です。

怖れとは、勝手に自分で作っているものなのです。
「こうなったら、こうなる」「こうすれば、こうなる」と自分がこれまで捉われていた過去の体験を反映しているのです。
つまり、過去に執着しているだけなのです。
怖れとは、過去、もしくは未来に捉われている時のものであって、人は皆、今、茲に、生きていさえすれば、愛され、許され、導かれているのです。

今しかない、と言われれば、人は必ず幸せになれるのです。
つまり、怖れとは、まだ手放していない過去の体験にすぎないのです。
過去の体験の中で悲しかったことを感じきっていないから、また、怖れとしてやってくる。怖れを引き寄せてしまうのです。その繰り返しです。
それは、中途半端に、怖れや悲しみを「感じない」ことによって、自分を守り、壁を作ってきたのです。
しかし、もう、その繰り返しは止めた方がいいのです。

いつまでたっても、怖れは消えません。

だから、怖れは幻であると認識して、そこから逃げようとはしないで、怖れを感じきって、突き抜けるのです。そしたら、怖れは、雲のような幻だと気づいて、消えていきます。

人は、今を生き切れば、怖れている暇もないはずです。

この胸いっぱいの痛みを

最近、朝、目が覚めた時に襲われる胸の苦しみが薄らいできました。

理由は分かりません。開き直ったのかもしれませんし、諦めたのかもしれません。ただ一つ、考えられることは、心の持ちようです。

簡単に言いますと、今の自分を、現在の状況に置かれている自分を肯定するようにしたことです。例えば、仕事がうまくいかなくても、「仕事がうまくいかなくて悩んでいる」自分を肯定するのです。私は、神経がピアノ線のように細いせいか、すぐストレスが胃腸にきてしまいますが、それも、「これでいいのだ」と肯定するように心がけたのです。

「自分を愛する」と言う言葉は、日本人にとって口に出すことは気恥ずかしいのですが、他人の迷惑を顧みない自己中心主義と一線を画した意味で「自分を愛する」ことは大切なことなのだと最近になって気づき始めました。

振り返ってみれば、私自身は、随分と「自己否定」して生きてきたものです。「自分は駄目なんだ」とか「自分は最低だ」とか…呪詛の言葉は色々です。思えば、それは多感な時代に影響を受けた作家の太宰治の影響かもしれません。彼は38歳で心中自殺をしています。35歳で自殺した芥川龍之介や無頼派と言われた檀一雄や45歳で割腹自殺した三島由紀夫や48歳で急死した坂口安吾、そして何と言っても49歳で病死した夏目漱石に多大なる影響を受けました。皆、早死です。いつの間にか、自分も彼らの生き方に憧れていました。若い頃は、自分が長生きするわけがない、と思っていました。

しかし、「自己否定」では、政治にしても、ビジネスにしても、芸術にしても何も生まれません。ある人の説によりますと、「自己否定」すると、周囲に自己否定する人間が集まってくるそうです。仕事がうまくいくわけがありません。「自己否定」の観念は多感な時代のその人の「ヒーロー観」から影響を受ける、と分析されてしまいました。

逆に「自己肯定」すると、プラス志向の人が周囲に集まるようになり、仕事も日々の生活もうまくいくようです。

胸の「痛み」は私に何かを気づかせようとした信号だったのかもしれません。

岩内仙峡

岩内仙峡に紅葉を見に行ってきました。
ちょっと、早かったのですが、自分でも、いいご身分だと思います。

岩内仙峡は、帯広市内にありますが、街中からは車で1時間くらいかかります。
帯広は広いのです。

いい写真がたくさん撮れたのですが、このブログは、写真が1MBまでしか、アップロードできないらしく、皆様にお見せできるのは、このたった2枚だけです。

私のカメラは、800万画素まで撮れるのですが、ブログに載せるために、わざわざ200万画素に落として撮影しているのに、たまに1MBを超えてしまいます。夜の写真は、1MBを超えることはありません。天気がいい写真となると、1MBを超えてしまうのです。

仕組みが分からないのでさっぱり、分かりません。

どなたか、いい方法をご存知な方は教えてください。

2千億×1千億個 

北海道陸別町は、真冬はマイナス25度にもなる日本でも有数の極寒の地で、毎年2月には「しばれフェスティバル」を開催して、冬の寒さを逆に楽しんでしまう逞しさがある所です。

この町には、知る人ぞ知る「銀河の森天文台」があります。空気が綺麗で、空は澄み切り、天体観測にもってこいの土地なのでしょう。その天文台が発行している「りくべつ 天文台だより」2005年秋号に面白いコラムが載っていました。

「星の数ほど」とはよく言いますが、実際、どれくらい星の数はあるのでしょうか、という話です。そのコラムによりますと、星(恒星)は、我々が住む銀河系の中だけで2千億個も存在するそうです。そして、宇宙全体では、この銀河系がさらにまた1千億個以上も存在すると言われています。ということは、星の数は、2千億個×1千億個という莫大な数になります。これに惑星や衛星の数を合わせると単位も分からない途方もない数になるというのです。

これだけの星があると、地球だけが唯一、生物が存在するということは信じられませんね。それ以上に、毎日のちっぽけな悩みがほんの些細なものに感じられます。これから北海道でしか見られない冬の満天の空を見るのが楽しみです。

美瑛再訪

俳優の榎木孝明は、画家としても知られていますが、このほど北海道美瑛町の廃校舎を利用して自分の美術館をオープンした記事を読みました。

彼が描いた何点か美瑛のスケッチも展示されているそうです。


ご覧の通り、美瑛は本当にいい所ですよ。
美的感覚に優れた人には共通する何かが彼を引き寄せたのでしょう。

実に素晴らしい夕暮れでした。

霧吹の滝

まさに決死の覚悟で行って来ました。

十勝は新得町トムラウシにある霧吹の滝。

写真で見ると、大したことはないと思うでしょうが、それは素人の赤坂の夜は更けて、という昔の都都逸になります。

帯広から車で2時間半。新得町のトムラウシという所に着きます。
途中からラリーのようなグラベル、つまり、未舗装道路でした。

「霧吹の滝」入り口から、歩いて更に1時間。
山越え、谷越え、漸く辿りつきます。

「霧吹の滝」というので、猥褻なことを想像してしまいました。
しかし、実際に、目の当たりにすると、

猥褻を超えて、実に神聖なものでした。

まさに、日本の秘境です。

恐らく日本人でも、ほんのわずかの人しか目にすることが出来ないでしょう。

そういう方はとくとご覧ください。

北海道はもう秋です。
トムラウシの森の精気をいっぱい浴びてきました。
ついでに、滝壺にはまって、全身、水浸しになってしまいました。
決死の覚悟は無駄ではありませんでした。

生きて帰ってきたのもお地蔵さんのおかげでした。

奇跡の人 

大病して奇跡的に一命を取り留めた友人と久しぶりに電話で話をしました。現在、リハビリを兼ねて、中部地方の片田舎で平日はほとんど一人で暮らしているので、30分ほど、彼一人がしゃべっていました。

困難を実体験し、自力で切り抜けた者でしか語れない話だったので、ここに再録したいと思います。

●これまで、「世の中が悪い」だの「誰それが悪い」だの、何かのせいばかりにして生きてきたような気がする。また、「こうしなければいけない」とか「安逸な生活はしてはいけない」といったような考え方で生きてきた気がする。しかし、「こうしなければならない」ということはないんだよね。本当にないんだね。

●同様に「人生はこうあるべきだ」というモデルも、もうどうでもいいことなんだよ。自分は自分だし、何も拘る必要はないんだよ。僕はもう何も拘らなくなったよ。例えば、今まで、料理や味付けに非常に拘っていたけど、今ではニンジンなんか、生で、何も付けないで齧って食べているぐらいだからね。

●確かにここは山奥だけど、何処に住んでも一緒だと思っている。ニューヨークでもサンパウロでも何処に行っても同じなんだよ。今ここで何かをやらない限り、どこに住んでも同じなんだよ。山奥だからといって、世の中の動きが分からないとか、時代に取り残されているという感覚は全くないんだ。週末にまとめて新聞に目を通すくらいで、テレビは見ないけど、ラジオで2、3分、ニュースを聞けば、それで十分、世の中のことは分かるよ。

●もう、考え方の問題じゃないんだ。人は「家族がいるから」とか「仕事があるから」とか、色々と理由を作って、やらないけど、皆、口実に過ぎないんだよ。「やる」か「やらない」かのどちらかなんだよ。すべて御破産になっても、ゼロからでも、何でも始められるんだよ。今の僕のように。誰でも何歳になってもできるんだよ。やらないのは、ただ、やりたくないから、口実を作っているだけなんだよ。

彼は、最近、小説を書いて、ある文学賞の最終選考会まで残ったそうです。彼の文壇デビューする日は近いかもしれません。その時、思いっきり、彼の本名を明かしてみたいと思います。

アメリカのCM

日本に居ながらにして、いとも容易くアメリカのテレビのCMが見られるとは思いませんでした。ニューヨーク在住のSさんのブログで教えられました。
インターネットで、アメリカのCMのランキングのサイトがあったのです。
Sさんは、自動車保険会社「ガイコ」に日本のアニメ「マッハゴーゴー」(米国ではスピード・レーサー)が使われていたので、思わずはまってしまったそうです。

Sさんは、「子供の頃、よく見ていた」と書いていましたが、「あれ?」と思いました。あのアニメは、私が子供の頃に流行ったもので、その当時住んでいた東京都下のK町で、「マッハゴーゴー」の原画制作の「竜の子プロダクション」があり、小学校の帰り道によく窓越しに覗いて、スタッフが失敗したあまったセル(アニメ用の色付けした下絵)をくれないかなあ、と口からよだれをたらして眺めていたことをよく覚えています。
ちなみに、Sさんは私より10歳近く若いので、「見た」としても再放送だったのでしょう。

あの頃、-1960年代半ばですが、子供たちの間でレーシングカーのブームでした。ちょうど、富士スピードウェーができた頃で、「トヨタ7」や「ニッサンR-301」などが憧れの的でした。今でいうゲームセンターでは、レーシングカーを走らせるコースがあって、友達同士で競走させたものです。

無邪気な時代でした。本当に懐かしいです。過ぎ去りし日々…

ちなみに、アメリカのCMのネットのサイトは以下の通りです。
http://www.advertisementave.com/tv/ad.asp?adid=609

森の哲人Ⅲ

結局、おじじと会談したのは1時間足らずでした。

最後に名刺を交換したら、おじじの本名が徳村彰さんということが分かりました。

「これ(名刺)も、私は作ったわけでなく、皆が作ってくれたのです。ここには、色んな人が来ます。1日だけの人もいるし、2ヶ月も泊まっている人もいます。自由です。文庫から学校に通っている人もいます。この間は、ドイツのミュンヘンから家族も来ていたなあ。そしてシカゴからも…」

「またお会いしましょう」と握手してお別れしました。

この後、「おばば」のいる文庫に顔を出しました。「森」から車で10分くらいの距離でした。本当に山奥なのに、文庫の近くには小学校と中学校がありました。

文庫に着くと、おばばが「よく来ました」と出迎えてくれました。「文庫」は合宿所みたいなところで、何人かの中学生くらいの子供たちが住んでいました。

彼らは、都会で不登校になって、ここに来たのか、よく分かりませんでした。

8畳くらいある「居間」では、今、まさに昼食の準備が始まっていました。

私は、何をするのではなく、ボーとそこに佇んでいました。
そこには、祭壇らしきものがあり、遺影のような写真と花とグレープフルーツが飾られていました。

おばばが「せっかく来てくれたのですから」と、一緒に昼食を奨められましたが、丁重に辞して、お別れを告げました。

文庫の近くに「ラ・ムータ」という喫茶店のようなペンション風の軽食屋さんがあり、そこに入ることにしました。

玄米のさんま定食800円を頼んで、部屋の中を見回すと、本棚があり、そこに『森に生きる』(雲母書房)という本がありました。本当は「森」という字は、「木」の下に左が「水」、右が「土」という、著者の造語で「もり」と読ませる「漢字」でした。

著者の名前を見て、驚いてしまいました。

徳村彰。

先程会ったばかりの「おじじ」の書いた本だったのです。何という偶然でしょう。

私は早速、この本と、もう1冊「森に学ぶ」(雲母書房)を手に取って買い求めることにしました。

やはり「森の哲人」という私の第一印象は間違っていませんでした。

徳村氏は、東京大学を中退した大変なインテリでした。

前回、「おじじは心に傷を負った人」と書きましたが、これらの本によると、1985年に子供たちと網走まで4日間の徒歩旅行に行く途中、交通事故に遭い、2人の子供が死亡、3人が大怪我をする大惨事に見舞われたそうです。先程、祭壇に飾られていた少年たちの写真が事故死した人だったのでしょう。その時は、何も分かりませんでしたが…・

彼の思想に学ぶべきことが沢山ありました。
いずれまた、紹介したいと思います。