サンティアゴとは聖ヤコブのことだったとは!

来月、夏季休暇を取りまして、一人でスペインに行くことにしました。

欧州は、英国、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、ギリシャ…10カ国以上は行ってますが、スペインはまだでした。トラウマがあったからです。

学生時代に、生まれて初めて真剣に付き合った女性がスペイン語を専攻していて、彼女に振られてからは、どうもスペイン的なものを受け付けなくなってしまったのです(インカ帝国、アステカ帝国を滅ぼしたのもスペイン人でしたからね=苦笑)。

もう40年も昔の時効の切れた話ですから笑い話です。

それが、今春、ダン・ブラウンのベストセラー「オリジン」を読んでいるうちに、(それは、バルセロナのサグラダファミリア教会がメイン舞台になっていたのですが)、死ぬ前に一度、行って見てみたいと思ったのでした。

◇◇◇

彼女に振られてかなり落ち込んだ頃、クリスチャンでもないのに、聖書を読み込んで救いを求めました。そのもう一つの理由として、文学作品や宗教画や建築を鑑賞する際、どうしても聖書の知識がないとさっぱり分からなかったこともあります。

アンドレ・ジッドにせよ、ニーチェにせよ、アンチクリストにせよ、西洋史、西洋文化を理解するには、聖書の知識が欠かせません。

◇◇◇

ということで、自分自身は、ある程度は、聖書の知識はあると自負していたのですが、今回、スペインに行くに当たって色々と勉強していたら、キリストの十二使徒の一人、聖ヤコブがスペインではサンティアゴと呼ぶことを初めて知りました。クリスチャンの吟さんは知ってましたかねえ(笑)?

そういえば、スペインが植民地にしたチリの首都はサンティアゴだし、キューバにも、サンティアゴ・デ・クーパという都市があり、他にも沢山あります。

本家スペインでは、北西端のサンティアゴ・デ・コンポステーラが、エルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地の一つになっていました。9世紀初めにここで聖ヤコブの墓が発見され、世界各国から多くの巡礼者が訪れるようになったからです。(今回行かれないのが残念!)

そこで、十二使徒の聖ヤコブを調べているうちに色々と面白いことを発見、いや学ぶことができました。

図解入りで分かりやすいサイトがあったので、引用させて頂きたいと思います。イエス十二使徒 ←こちら

何と言っても、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が有名ですよね。

十二使徒には2人のヤコブがいるので、このサイトでは「大ヤコブ」と表記されています。ここでは、大ヤコブ=サンティアゴとは全く書かれていませんが、「スペインで伝道」とだけ書かれています。この人は、イエスの弟子の中では「トップスリー」に入るほど、イエスに愛され、信頼されていた人だったのです。ナンバーワンは、ローマの初代教皇になるペトロ(バチカンの聖ピエトロ大聖堂)、ナンバースリーは、大ヤコブの弟ヨハネです。この人は天寿を全うし、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」「ヨハネの黙示録」を書いた人と言われていますが、否定する学説も多くあります。

皮肉にも、イエスの弟子で一番有名なのが、彼を裏切ったユダで、日本人は私も含めて他にほとんど知らないでしょうから、ここで、改めてイエスの弟子を整理してみます。

(1)ペトロ(シモン、アンデレの兄、弟説も。漁師)ローマで殉教

(2)アンデレ(ペテロの弟、兄?漁師)ローマで殉教

(3)大ヤコブ(ゼベダイの子、ヨハネの兄、漁師)エルサレムで殉教、スペインで埋葬

(4)ヨハネ(ゼベダイの子、大ヤコブの弟、最年少の十代、漁師)弟子の中で唯一人殉教せず天寿を全うした

(5)フィリポ(ピリポとも。バルトロマイの友人、漁師)小アジアで?殉教

(6)バルトロマイ(フィリポに導かれ弟子に)アルメニアで殉教

(7)トマス(イエスの双子の兄弟?漁師、または大工)南インドで殉教

(8)マタイ(アルファイの子、徴税人)「マタイ福音書」の記者説も。トルコで殉教?

(9)小ヤコブ(アルファイの子、マタイと兄弟)エルサレムで殉教

(10)タダイ(ユダとも。小ヤコブの子、または小ヤコブの兄弟とも。マリアの妹クロパの子?)アルメニア?で殉教

(11)熱心党のシモン(反ローマ帝国の過激派)ペルシャで殉教

(12)イスカリオテのユダ(銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切る)自殺

私は、覚えていませんでしたが、サンティアゴこと大ヤコブとヨハネ兄弟の父はゼベダイですが、母はサロメで、彼女はイエスの母マリアの姉妹(ヨハネ福音書)なのだそうです。となると、このヤコブ・ヨハネ兄弟は、イエスの従兄弟となりますね。

上述しましたが、(7)トマスはイエスの双子の兄弟、(10)タダイはイエスの母マリアの妹クロパの子という説もあるらしく、となると、イエスの弟子には親戚兄弟が多くいたということになります。

何しろ、イエスにヨルダン川でバプテスマを授けた洗礼者ヨハネは、その母エリザベトとイエスの母マリアとは親戚だった(ルカによる福音書)と言われてますから、これまた狭い縁戚関係だったのです。ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネの4人は、もともとは洗礼者ヨハネの弟子だったという説もあります。

イエスが最初から教団をつくろうとしたのか、しなかったのか、色んな説がありますが、少なくとも初期の原始教団は、狭い姻戚関係から生まれたことは確かでしょう。

ちなみに、ヨハネは英語でジョンだし、ペトロはピーター、ヤコブはジェームズ、殉教者パウロはポールということで、キリスト教は欧米人の生活の深部に関わっているわけです。ヤコブはフランス語でジャック(Jacques)で、コキーユ・サン・ジャック(coquille Saint-Jacques)で「帆立貝」を意味します。これには、諸説がありまして、聖ヤコブの亡骸をエルサレムからスペインに運んだ際に、小舟に帆立貝がくっついていたから、とか、聖ヤコブが布教中に帆立貝を持ち歩き、これで水をすくって飲んでいたから、など沢山あるようです。

オランダ人家族に久しぶりの観光ガイドをしてきました

昨日は、実に数年ぶりに海外からの観光客向けガイドを、病気で中断しておりましたが復活し、仕事として行いました。一応、こんな私でも通訳案内士の国家資格を持っています。(でも、安倍政権は、資格がなくても誰でも、報酬を得てガイドできるよう法律を改悪しました)

クライアントさんは、オランダの画家レンブラントで有名なライデン近郊の小さな町からやってきた4人家族で、お父さんは、何と旅行会社の創業者兼社長さんでした。15歳の娘さんと13歳の男の子がおります。2カ月近く前にお母さんからオランダから直接、日本にいる私の携帯に「7月20日に東京でガイドをしてほしい。あなたに任せます」と依頼があったのです。(私の名前と携帯番号などは観光庁のネットにも登録しているもので)

「お任せ」っていうの、一番困るんですよね(苦笑)。相手が興味もない所に案内するわけにはいきませんから、ある程度の趣味や興味を聞かなければなりません。でも、子どもと大人の興味はまるで違いますし、時間は限られ、最大公約数を選ばなければなりません。

まあ、正直、下準備が大変でした。オランダ語も少し勉強し、事前に行く場所、ランチする店なども確かめに行きました。結局、それやこれやで事前の準備通りには行かず、観光ガイドの仕事って、そうワリに合う仕事じゃありませんね(笑)。

大変失礼ながら、オランダ人にはマイペースといいますか、少し気まぐれなところがありまして、こちらが質問のメールをしても、返事が遅く、あまり正確に答えてくれることが少ないのです。しかも、最近、ヨーロッパでは個人情報保護が急に厳しくなりましたから、どこまでプライバシーに触れていいのか分からなくなってしまったのです。例のGDPR(General Data Protection Regulation 一般データ保護規則)とか呼ばれるやつです。

銀座

で、結局、準備不足のまんま、本番に臨みました。

結果は「50点」ぐらいの自己採点ですかね。赤点です。何しろ、言葉が出てこないのです(苦笑)。何気ない会話なんですが、「花火」が出てこないので、浅草近くの隅田川花火の話題に進めることができず、富士山の「裾野」という言葉が出てこずに、うまく説明できませんでした。ダメですねえ、全く。

しかし、オランダ人家族はとても寛大でした。とても満足そうな表情で帰っていただいたので、私自身は救われましたね。

15歳の娘さんは、とても可愛らしく、恥ずかしがり屋さんでした。名前は、日本語で「月」という意味でした。思春期特有のヒネたりしてません。純粋で、とてもまっすぐな感じでした。オランダと日本との交流で、私は事前にiPodで資料をつくって彼らにお見せして、長崎の出島の写真を見せたら、「あっ!これ教科書で見たことある」と彼女は言ってくれたので、嬉しくなりました。オランダでも、蘭日交流史を少しは教えているんですね。

13歳の坊やは、自分のスマホのゲームばかりやってました。名前は、日本語で「熊さん」という意味でした。13歳は日本で言えば、中学1,2年生ですが、何か小学校5,6年生に見えました。自分もこんな幼かったのかなあ、と思ってしまいました。でも、愛嬌があり、可愛いので連れて行こうかと思ったぐらいです。冗談ですよ。

お父さんは、あのシーボルトのことまで知っていて、ライデンのシーボルト博物館に行った話をしてくれました。なかなかのインテリです。

秋葉原に行ったら、お母さんが急に「猫カフェに連れて行ってくれい」と言い出すのです。こちらも「そんなの聞いてない。もっと早く言ってくれい。事前に場所を調べたのに!」と心の中で思いつつ、スマホで一生懸命に検索して、手頃な店を見つけました。しかし、電話で場所を教えてもらったら、とても下手くそで、埒が明かず、少し時間を取らせてしまったことが失敗でした。

そこは、なかなか厳しい店で、「猫は触るだけで抱っこしちゃいけない」とか、「荷物はロッカーにいれろ」とか「入室する前に消毒しろ」とか規則規則のオンパレードでした。猫カフェは、生まれて初めて行きましたが、日本でブームになるのが分かりましたね。スコティッシュとかアメリカンショートヘアとか、あまり見たことがない高級猫を見ることができました。ちなみに、1時間近くいたら、一人1550円でした。

東京は、36度の猛暑で、マスコミで「熱中症に気をつけろ」と連呼するので、どこも日本人の姿が少なく、外国人観光客だらけでした。日本の着物姿も外国人でした。浅草の地下鉄の中を見回したら、ほとんど中国人と韓国人と台湾人とタイ人とインドネシア人ばかりで、日本人は私自身しか見当たらなかったので、お母さんに、その旨を伝えたら、「向こうに座っている女性2人は日本人じゃないかしら」と言うので、よく見たら日本人でした。

「どうして分かるんですか」と尋ねたら、お母さんは「やはり、服装や髪型が違うし、顔つきも少し違う」というのです。

私はオランダ人とドイツ人とフランス人の区別はつきませんけどねえ。恐れ入りました。

欧州個人情報保護法で、彼らの写真をここに掲載できないのが残念です。とても素晴らしい家族でした。

京都・祇園祭「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていた

こんにちは京洛先生です。西日本は豪雨被害で、大変ですね。大雨がひいた後、亡くなった人が次々増えて、豪雨の大きさが、よく分かります。

 今回の豪雨被害とは別に、東北、関東では、このところ、震度4、5前後の地震が頻繁に起こっています。何も起こらなければ良いのですが、心配になります。

 過日の大阪北部では大阪市北区、高槻、枚方などで、震度6弱の大きな揺れがあり、通勤客の足に大きな影響が出ました。大都市圏での直下型地震でこの程度の被害でよく済んだとも言えます。

 東日本大震災以降、日本全体が天変地異に、いつ襲われても可笑しくないような感じもしてきています。

 来年は「平成」から新元号に移りますが、時代の変わり目は、いつも、あれこれありますからね。

 貞観年間の9世紀から始まった「祇園御霊会」こと「祇園祭」は、疫病、大災害から、民衆、国家安泰を祈願することが起源ですが、今年は、平成の最後の「祇園祭」になります。

 昨日12日は「前祭(17日巡行)」の鉾建てが終わり、曳きぞめがありました。

 添付の写真は鉾建てが終わった、長刀鉾、函谷鉾、菊水鉾の様子です。ご承知のように、”動く美術館”と言われ、山鉾の豪華な「胴掛け」が注目されますが、昨日は、万一に備え、雨除けのビニールが被せられていましたが、10日から始まった、鉾建ては、無事終わったわけです。(いずれも菊水鉾)

 そんな折、12日付の「京都新聞」夕刊に記事が載りました。同紙のホームページにも出ていますので、ご確認されれば分かります。 「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていたという事です。

 この胴掛けは、円山応挙の作で「保昌山保存会」も気がつかなかった、という事で、さっそく、訂正するという事です。

 指摘した人は東京在住の「祇園祭」の熱心な研究家と言うかフアンですが、出版物、文書などをよく調べていて、京都市に問い合わせて分かったという事です。

 なんでもそうですが、注目を浴びたり、有名にになると、世間の目は厳しくなるものですね。

以上

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【追記】7月12日付「京都新聞」夕刊記事は以下の通りです。

祇園祭前祭(さきまつり)の保昌(ほうしょう)山(京都市下京区東洞院通松原上ル)が所有する胴掛2点の名称や説明が長年誤っていたことが12日までに分かった。画題となっている2人の伝説的な人物を取り違えていた。胴掛は江戸時代の絵師円山応挙が下絵を手がけた名品で、今夏の会所飾りでは約1世紀ぶりに説明を変更する。

 保昌山の胴掛は中国由来の人物「張騫(ちょうけん)」「巨霊人(きょれいじん)」と神秘的な動物「虎」「鳳凰(ほうおう)」を主題としている。裏地には、1773年を示す「安永二年六月」の年号と、応挙を意味する「円山主水」の墨書があることで知られる。

 これまで保昌山保存会では2点の胴掛の名称をそれぞれ「虎に張騫」と「鳳凰に巨霊人」としていた。だが、2010年、胴掛を指定文化財とする際の市の調査で、1875(明治8)年の京都府庁文書や、91(同24)年の国の文書には「鳳凰に張騫」「虎に巨霊人」などとする記述があることが判明。100年前後にわたって人物を取り違え、言い伝えが誤っていたことが分かった。

 しかし、このときは正しい理解が住民には広まらず、誤解は解けなかった。今年、東京の出版社が発行した祇園祭に関する本を住民が見た際、胴掛の説明が従来の内容と異なることに気づいた。この住民が市文化財保護課に問い合わせ、取り違えていたことが認識された。

 このため保昌山は、同課に正しい案内文の作成を依頼。13日午後の会所飾りから名称を「張騫鳳凰図」「巨霊人虎図」と説明を変更する。保存会の岩田脩理事(68)は「先人たちから聞いていたのと全く逆で当初は素直に受け止められなかった。今後正しい理解が浸透するのをゆっくりと待ちたい」と話す。

京都・南禅寺金地院の東照宮は意外と…

こんばんは、京洛先生です。

紫陽花が綺麗に咲いているでしょう。此処は京都、南禅寺にある徳川家康を祀る「東照宮」です。

 歴史通の渓流齋先生ですが、恐らく、「え!京都に東照宮ですか?」と瞬きされるでしょうが、京都の東照宮ですよ。

 徳川家康は元和2年(1616年6月1日)に駿府城で亡くなりますが、亡くなる間際に、自分の亡骸、遺体は「久能山」、法要は「増上寺」、そして、法要後は下野・日光山と京都・金地院の小さなお堂を建てるように、と側近、ブレーンの崇伝、天海、本多正純に伝えていた、と言われています。

 だから、京都にも「東照宮」があるのです。皇室からも「正一位」が贈られ、死後は「東照宮権現」の神様にまでなったわけですね。

 ですから、亡くなった後は、徳川家は勿論、その臣下の全国の大名は「東照宮」をつくって、家康を奉ったわけです。明治の廃仏毀釈で、全国の「東照宮」の数は百余に減った、と言われていますが、最盛期は五百以上の「東照宮」があったという事です。

 いわば「家康神社」です。そのうち、日光、久能山、そして南禅寺の東照宮が「三大東照宮」と称されていて、京都の「東照宮」には家康の遺髪、持念仏が伝わています。

 しかし、そんな徳川時代に権威があった京都「東照宮」も、今では、余程の「家康ファン」か、研究家でもない限り、ほとんどの人は「そうだったのか」で終わるでしょう。

 京都の東照宮は「金地院」(臨済宗南禅寺派)の境内にあります。金地院は南禅寺の塔頭の一つで、徳川幕府の”黒衣の宰相”と呼ばれたあの崇伝が住み、十万石を貰って権勢謳歌したわけです。

 「金地院」もここ南禅寺だけでなく、駿府城、江戸城にもあったという事で、崇伝は新幹線もない時代に京都、静岡、東京を行ったり来たり、往来していたわけで、大名の参勤交代よりも凄まじい活動をしていた、という事でしょう。

 安倍政権の”御用学者”、”安倍ブレーン”なんかと、比べようもない、スケール感がありますね(笑)。

 金地院にはまた、小堀遠州の作った庭もあります。遠州の作庭と言われるものはかなりありますが、正真正銘、「遠州が手がけた」と記録に残っている庭は、この金地院の庭だそうですよ。

 ジメジメした梅雨時に可憐な紫陽花をご覧になり目の保養にしてください。

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京都・建仁寺の湊葆州前管長の「13回忌法要」

こんにちは。皆さまご存知の京洛先生です。

昨日は、京都五山の「建仁寺」の湊葆州(素堂)前管長の「13回忌法要」に伺い、ご焼香をしてきました。

 「7回忌法要」の時も、《渓流斎日乗》に、その様子を御報、掲載されましたが、その後、他の貴重な日記、写真とともに、諸般の事情から、雲散霧消、電脳空間から潰え去りました。

 ですから、本日は、改めて、お坊さんというか、高僧の「法要」の様子を御報します。

 昨日は午前10時から、皆さまもご存知の建仁寺で、僧侶、在家、檀信徒らおよそ400人が参列して、法要が、粛々と営まれました。貴人も、かって、ご覧になった事もある、創建800年(平成14年)を記念して、小泉淳作画伯が天井に描いた「双龍図」がある「法堂」が法要のメイン会場です。

 湊老師の弟子であり、同寺の小堀泰巌現管長が導師になり、臨済宗の各派本山の管長さん、高僧ら百人余が読経されましたが、お坊さんが大勢でお経をあげられるのは写真とおりで実に壮観です

 在家の迂生は、法堂内で、椅子に座って、お経を聞きながら、手を合わせ、廻し香で、済みましたが、お坊さんたちはお経を唱えながら、一時間弱、堂内をグルグル回られるのですから、高齢の方は大変だと思います。日頃、修行をされているから、大丈夫でしょうが、俗世間の高齢者ではとても務まらない、と思いましたね。

 食事のお斎(おとき)も、在家は、部屋で座って、食べるのが、苦痛なお年寄りが多いようで、「椅子に座る方がよろしおすなあ」と注文をつける人もいました(笑)。これも洋風の暮らしに慣れた現代人の成れの果て、結末だと思いますが、若者をどうのこうの、言えませんね(笑)。

 迂生が、座った大広間も、正座が出来ない方が多く、胡坐をかくのすら、大儀、難儀なようです(笑)。「この間、正座して、時間をおいて、その場で立ったら、ボキッと骨が折れる感じがしたので、吃驚しましたわ」と冗談とも、いえないやりとりをしている人がいましたね。こういう席での、世間、話は、なんともいえない人生勉強です(笑)。

 法要で、「矢尾治」(検索するとどんな仕出し屋か分かります)の、精進料理が出ましたが、お箸の紙袋を写真添付しましたのでご覧ください。

 禅宗の御膳らしく「食事五観文(しょくじごかんもん)」が書いてあります。渓流斎さんは「食事五観文」はご存知ですか?

 大約すると①この食物が食膳に来るまでの、幾多の労力に感謝しよう②自らの行いについて、この食物を頂くに値するか、反省、供養して頂きましょう③誤った行いを避けるため、三毒(貪る、瞋り、痴か)の過ちはしません④食事は良き薬であり、身体を養い、健康を得る為に頂くのです⑤仏の道を進む為、この食物を頂きますーという事です。

 そして、もう一つ、大広間には、法要にあたって、湊老師の墨蹟がかかっていました。「生死事大(しょうしじだい)」、「光陰可惜(こういんおしむべし)」です。

 人間は「まだ、まだ」と思っている間に、時間は過ぎる。一刻、一刻を大事にしないといけない。この世は無常で、常に存在するものではない!、という警句ですね。

 「志」をたてたら余計なことは考えず、専心、日々、一瞬、一瞬を精進しろという事です。「もう、過去の人ですよ」なんて悠長なことを言っていてはダメですぞ(大笑い)。「喝!」です(大笑)。

 人間、長く生きたとか、短いとか、ではなく、人生、どう生きたのか、と言う事です。言うは易いのですが、実践は難しいものです。

 湊老師は、串本の「無量寺」の住職時代には蘆雪、円山応挙の美術館を境内に建てられました。

 また、埼玉県川口市芝の「長徳寺」の住職もされました。「和歌山 無量寺」、「川口市 長徳寺」で検索すると、どういうお寺か分かります。長徳寺は一度行かれると良いでしょう。色々、逸話のある古刹です。

 法要の「粗供養」で頂いた、建仁寺御用達の「松寿軒」の薯蕷饅頭、美味そうでしょう。

 うまずいめん喰い村の彦作村長がご覧になれば、「美味しそうでたまりません!」と、涎をたらたら流される、と思います。

以上

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志村城〜赤塚城巡り 東京都板橋区に城跡があるとは…

昨日4日は、「山城歩き同好会」の皆様と一緒に、「志村城・赤塚城ハイク」に参加し、実に万歩計で2万5000歩も歩き、いい運動になりました。

場所は、東京都内の板橋区なのです。こんな都会に、まだ手付かずの自然が残されている(というか、保護されている)とは思いませんでした。そして、こんな所に戦国時代の武将が城を構えていたとは全く知りませんでした。我々は、室町、戦国時代といえば、京都や奈良など関西での出来事ならよく知っておりますが、同時代の関東地方で起きたことはほとんど無知です。

この時代でよく知られている武将は、 せめて、太田道灌ぐらいでしょう。だから、恐らく、応仁の乱の前哨戦とも言える享徳の乱(1455〜1483年)を知る人は、余程の歴史通です。

享徳の乱は、室町幕府8代将軍義政の治世で、鎌倉公方(足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領(鎌倉公方の補佐として将軍が任命。上杉氏が世襲)の上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方で28年間も続いた内乱のことです。

このグチャグチャの大内乱の最中に、今回の赤塚城に入城したのが、千葉自胤(よりたね、1446〜94年)だと言われています。

残っている資料や史料が少ないので、諸説ありますが、千葉氏とは桓武平氏の流れを汲み、代々、下総周辺を支配していた守護で、今の千葉県の名前の由来になったようです。しかし、最終的に今の千葉県に住み着いて残ったのは、千葉自胤の子孫ではなく、千葉氏の正統性を主張した岩橋氏ですが、話が混乱するので省略します。

千葉自胤は、享徳の内乱では関東管領の上杉氏(つまりは、室町幕府)方でしたが、鎌倉から古河(茨城県)に本拠地を移した足利成氏(初代古河公方)に呼応した原胤房(たねふさ)らに千葉城を攻撃され、市河城に落ち延びますが、その間に、父、伯父、従兄弟らは自害。結局、上杉氏の支援によって、自胤とその兄実胤兄弟だけは、関東平野にまで逃げ延びます。

康正2年(1456年) のことで、兄実胤は、石浜城(東京都台東区)へ、自胤は、赤塚城(板橋区)に入城します。(単純計算すると、この時、自胤はまだ10歳ですから、長老が補佐する家臣団ということでしょう)

以上が前触れです。今回の探訪ハイクでは、この千葉自胤を中心に彼と所縁がある城や寺社仏閣、そして、彼ら一族(武蔵千葉氏)と自胤の菩提寺「松月院」にまで訪れることができたのです。

一行5人は、 都営地下鉄「志村坂上」駅で集合。駅前にある志村一里塚(国指定史跡、都内で残されている江戸時代の一里塚は、ここと北区西ヶ原の2カ所のみ)、その隣の斉藤商店(明治22年創業の竹細工屋さん)に寄った後、延命寺へ。

この寺は、千葉自胤死後30年も後の時代の話ですが、大永4年(1524年)、小田原の北条氏綱と扇谷上杉朝興とがこの地で戦闘となった時に、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛が自邸を寺にしたものだといいます。(近くに立派な池のある見次公園もあります)江戸時代は、8代将軍吉宗が鷹狩に来た際、休息所になったとか。

続いて向かったのが、志村城跡。千葉自胤が赤塚城に入城した際に、前衛拠点として千葉一族の信胤が築いたとも、この地の志村氏が築いたとも言われ、不明だそうです。本丸跡には、今は400世帯も入る大型マンションが建っていて、そのマンションは、まるで天守閣のようでした。ここには、今回参加したNさんの実姉家族が住んでいるということで、一同吃驚仰天でした。

熊野神社

この隣の熊野神社は二の丸跡のようで、しっかり、「志村城跡」の石碑が立っておりました。

途中省略して、南北朝時代(1334〜40年)は、七堂伽藍を備えた大寺院だった(1561年の戦乱で上杉謙信によって焼失した、とも)といわれる「松月院大堂」と、神仏習合により隣接した「八幡神社」をお参りして、この近くの「松月院」へ。今回の主人公の千葉自胤のお墓もありました。自胤は、最後まで下総=千葉に戻りたかったようですが、願い叶わず、失意のうち、この「異国」の武蔵の土地で亡くなったということかもしれません。(しかし、小田原の北条氏に滅ぼされるまで、武蔵千葉氏の基盤を作りました)

この後、着いたのが、「東京大仏」で知られる浄土宗乗蓮寺。応永年間(1394〜1427)、今の板橋区仲宿に創建されましたが、道路拡張のため、1973年にこの赤塚の地に移転してきたばかりらしいのです。

大仏さまは大変風格ありました。生まれて初めて訪れましたが、ミャンマー人の旅行者と会い、「日本人より情報通だ」と感心。わざわざ鎌倉にまで行かなくても大仏様の御尊顔を拝することができると思ってしまいました(笑)。

ここは、実は、千葉自胤が構えた赤塚城の二の丸があった所だったらしく、境内にはしっかりと「二の丸跡」の石碑が建てられ、感激してしまいました。

実際の赤塚城本丸跡は、ここから歩いて10分ほど離れた赤塚溜池公園の高台にあり、今から562年前に千葉自胤らが、今の千葉県市川市での戦乱を逃れてここまで来たのだと思うと、感無量になりました。

この近くには、自胤が、赤塚城の鬼門除けのために、信州諏訪大社の分霊を勧請した赤塚諏訪神社があり、勿論、ここもお参りしました。

このほか、立ち寄った所はまだまだありましたが、主に歴史散歩中心に記述しました。

【京都の旅】西陣 今宮神社の「今宮祭」

こんにちは、皆さん。
迂生は”西陣のお祭り”と言われる、今宮神社の「今宮祭」が、5日から行われるので、一足先に、昨日、同神社に参拝に行ってきました。
 ポスターにあるように「神幸祭(しんこうさい)」は、5日、6日が「湯立祭(ゆたてさい)」、13日は「還幸祭(かんこうさい)」です。
 神幸祭は三基の神輿を中心に大勢の人が氏子区域を行列して歩き廻ります。
「湯立祭」は、同神社の境内で大釜にお湯沸かし、神楽女が笹の束を熱湯にくぐらせ、勢いよく参拝客に笹からしたたるお湯を浴びせかけます。お湯を浴びると、「無病息災」に過ごさせるという習わしです。例年、大釜の周りには、大勢の参拝の人が集まるのですが、今年も大勢の人がお湯を浴びにやってくると思いますね。
 今宮神社は正暦5年(994年)創建ですが、”玉の輿神社”の異名もあります。なぜだか分かりますか? 江戸時代、西陣の八百屋の娘の「お玉さん」が徳川家光の側室になり、お玉さんは5代将軍綱吉を生みます。
  あの有名な「桂昌院」です。女性乍ら「従一位」まで、位を昇りつめたわけですね。庶民の出身でしかも女性がここまで出世したわけで、文字通り「玉の輿」です。桂昌院は京都のいろんな神社仏閣に寄進していますが、信心深い人だった、と言えるでしょう。
  もし、皆さんに愛嬢がおられ「玉の輿」にのられる可能性があれば、一度、今宮神社に”お宮参り”されたらどうでしょうか(笑)。
 同神社の参道には、千年は続くという、あぶり餅のお店が二軒あります。「いち和」と「かざりや」です。
白味噌を使い、炭火で香ばしく焼いた、あぶり餅の味は、何とも言えません。
 「いち和」は創業1000年、「かざりや」は400年です。「いち和」は、もともとは「一文字屋和舗」が正式名称だったのですが、いまでは略して「いち和」になっています。
 昨日は「かざりや」で食べましたが、両者で、味が微妙に違うようです。「かざりや」の方が、少しだけ辛いような気がします。いずれにしろ、1000年、400年も続くというのは大変なことです。

 商売は時代によっては、浮き沈みがあり、道楽息子がいたりして、おかしくなり廃業する、と思うのですが、それだけ「商い」を続けられる、というのは凄いことですね。

昨日も、「かざりや」は、お客さんで一杯でした。時代劇のロケにも頻繁に使われていますが、新緑に囲まれて、境内周辺は、紅葉の青葉が際立っていました。

  この近所の新大宮通には「さかい」という冷やし中華の美味い店があります。今度、上洛されたらご案内しましょう。
以上 うまいめん食い村の村民第1号こと京洛先生でした。
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「猫都の国宝展」と目黒雅叙園の裏話

ゴールデンウイークは人出が多いので、出掛けるのはあまり好きではありませんけど、不可抗力により、東京・目黒のホテル雅叙園内の「百段階段」で開催中の「猫都の国宝展」を観に行ってきました。

猫にまつわる置物やら絵画やらをあの東京都指定有形文化財の「百段階段」の座敷に222点も展示されていて、結構、見応えありました。

入場券は、当日1500円というので、ちょっと高い気がして、庶民らしく、事前に新橋辺りで前売り券を準備しておきました(笑)。

そんな話をしたところ、物知り博士の京洛先生は「雅叙園ですか。。。松尾国三さんですね」と、思わせぶりな発言をしてケムに巻くのでした。

明治維新後、大名屋敷、別邸を摂取されて空き地となった目黒一帯は、内務省衛生局の初代局長などを務めた医学者の長与専斎が広大の敷地を所有していたと言われます。専斎の長男称吉は医師(妻は後藤象二郎の娘)、二男程三は実業家(日本輸出絹連合会組長)、三男又郎は病理学者で東京帝大総長、四男岩永裕吉は同盟通信社(戦後、時事通信社などに)初代社長、五男長与善郎は、あの著名な白樺派の作家です。

この中の岩永家に養子に行った四男裕吉は、同盟通信社が国策で電報通信社(戦後、電通に)と合併させられて設立される前に、自ら聯合通信社を設立した際に、その設立資金を捻出するために、所有地を目黒雅叙園に売却したと言われます。その相手が細川力蔵で、雅叙園は、昭和6年に日本初の総合結婚式場として開業します。(中華料理の円形テーブルは、細川の考案と言われてます)

力蔵亡き後、細川一族による経営が行われてきましたが、 戦後の昭和23年にその経営権を握って雅叙園観光を設立したのが、京洛先生が仰っていた松尾国三でした。(その後、複雑な経緯で、今では米国のファンドが経営権を取得し、所蔵する重要文化財級の絵画、彫刻、天井画などは散逸したようですが、全略。)

松尾国三は、旅芸人一座の歌舞伎役者から、一念発起して、芸能プロモーターとなり、大阪の新歌舞伎座などの劇場経営、横浜ドリームランドなどのレジャー施設の経営者(日本ドリーム観光取締役社長)にまで出世した波乱万丈の人物です。晩年は、大元のオーナーだった大阪の千日デパートの火災で、責任を問われました。

私はこの人について、演劇人に与えられる「松尾芸能賞」の創設者としか知りませんでしたが、陰では「昭和の興行師」「芸能界の黒い太陽」と言われていたらしいですね。興行の世界ですから、裏社会との繋がりやら、そりゃ色々とあったことでしょう。

と書いたところ、これを読んだ京洛先生から「雅叙園は、住友銀行の磯田会長が、愛嬢可愛さで、”天下の詐欺師”伊藤寿永光と、あの許永中に巨額融資をした舞台になったところですよ。迂生は、松尾国三夫人の松尾ハズエさんが存命中に、雅叙園の一室で取材をしたことがありました」との補足説明がありました。

なるほど、そういうことでしたか。。。

※もし、この記事にご興味を持たれましたら、関連記事の「目黒と岩永裕吉」(2016年5月7日)も併せてお読みください。

京都・仁和寺では「御室桜」が今、満開です。

皆様ご存知の京洛先生です。いつもお世話になります。
今日は天気予報では、関東は気温が20度という事ですが、大気が不安定で、午後から寒冷前線が進み、冷えこむようですね。
風邪にご用心、ご自愛ください。
 恐らく、そちら帝都でも、満開の桜も散っているでしょうが、先月上旬まで、上野の東京国立博物館で開催され、貴人もご覧になってきた「仁和寺展」の、京都・仁和寺では「御室桜」が今、満開です。
 昨日、ぶらっと様子を見に写真を撮ってきました。
 「御室桜」は、2、3メートルの低木の遅咲きの桜です。仁和寺の境内でしか見られません。樹高が低いのは、同寺の土が粘土層で養分が少なく、根が広く張れないのが理由、原因だという事です。
 気温の関係で、桜の満開が全国的に早まっていますが、「御室桜」も、いつもは、4月15日前後が満開時季ですが、今年は既に、お寺の御門には「満開」の看板表示が立っていました。
 平日に関わらず、やはり、境内は、外国人を中心に観光客が大勢来ていました。拝観料500円を払って、本堂に向かう、中門の左手に「桜苑」がありますが、ここには、200本以上の「御室桜」が咲いています。
「桜苑」のトンネルをくぐって歩くのは気持ちの良いものですが、昨日は、桜苑に入るのに長蛇の列、100メートルくらい並ぶので驚きました。
それとともに、この時季、やはり、「中門」傍に、紫色の「ミツバツツジ」が咲きます。
迂生は、「御室桜」より、色鮮やかなミツバツツジにいつも目が行きます。
綺麗でしょう。
 また、此処から、右手(東側)に高さ約30メートルの五重塔が見えます。
  江戸・寛永年間に建てられましたが、この五重塔を背景に、「御室桜」を写すのが、カメラアングルとして最適のようです。
如何でしょうか?
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夜桜で有名な「平野神社」の昼間の屋台・茶店の光景と岡崎の平安神宮傍の疎水の桜、白川沿いの桜

おはようございます。京洛先生です。
本日も京都便りをお伝えします。
  その前に、金正恩さんが、大中国から無事帰国の途につかれたように、渓流斎さんも、無事、恙無く、中部地方から帰宅されたようですね。バスツアーは、安く手軽に行けますが、それだけに参加メンバーの顔ぶれなどで、当たり外れが大きいと思います。「人生は『宝くじ』だ」と思うしかありませんよ。
まあ、転落事故に遭わなかっただけで良かった、と感謝することです。好きなように、勝手気儘な旅行をするには、それなりの「おあし(御足)」が必要です。
 スーツも、注文誂えの仕立て、オーダーから、イージーオーダー、吊るしの既製服、それに生地の種類までいろいろあります。それと同じです。
 まあ、安い、バスツアーは、貴人もご承知のように、「北野天神市」で、1000円で買った古着のジャケットに、「生地が悪い!」「匂いがついている」と文句を言うのと同じです(笑)。
 文句を言うのは野暮です。世の中、どの分野も、階層社会です。最近、世の中がシビアになり、それが浮き彫りになっているだけの話です。
 帝都の桜は今は満開、花見は文字通り、大盛況だと思います。しかし、これも、桜の見方、花見の見方に、階層差、階層があると思いますね。
 豪華な仕出しの弁当を食べる人、コンビニの握り飯で桜を見る人…様々です。
 写真は夜桜で有名な「平野神社」の昼間の屋台、茶店の光景と、岡崎の平安神宮傍の疎水の桜、白川沿いの枝振りの良い桜です。
 以上 Copyright par Kyoraque-sensei