忘れたことを忘れてしまった話

 昨日9月8日付日経夕刊の一面コラム「あすへの話題」で、精神科医のきたやまおさむさんが、大変興味深いお話を書かれていました。「忘れ物の大問題」と題して、自分は小さい頃から如何に忘れ物が多いか、その失敗談を赤裸々に告白しているです。

 きたやまおさむさんは、フォークルセダースの一員などとして一世風靡しましたが、れっきとした医学博士です。さぞかし、芸術的センスに加え、大変、頭脳明晰な方だとお見受けしていたのですが、そんな「欠点」があったとは…。若い時から、財布、カギ、メガネ、切符…と次々となくし、親や家人の方から呆られながらも、財布にはヒモを付けるなどして少しずつ対処していったことを告白しています。

 切符は、新幹線の切符をなくすことが多く、車掌さんから「見つからなかったら、全額払ってもらいますよ」と脅されながらも、9割方は、在来線から新幹線に乗り換える改札機から取り忘れていたそうです。案外、そそっかしい人だったんですね。

銀座・スペインバル「バルデエスパーニャ ビルゴ」イベリコ豚のグリル・ランチ1000円

 こういう失敗談は大好きですが(笑)、私も他人様のことは言えません。電車の中に傘や携帯を忘れたことがありますが、一番痛恨だったことは、もう30年近く昔の話です。痛恨と言っておきながら、ほとんど忘れてしまいましたが、場所は、オランダ・アムステルダムのスキポール国際空港だったことだけは覚えています。確か、旅行ではなく、仕事だったと思いますが、それすら覚えていません。駄目ですねえ(笑)。

 とにかく、ここはトランジットで、何時間か、だだっ広い空港内で待たされていたのです。そしたら、切符がない! 胸ポケットに入れていて、走ったりして、何処かで落としたのかもしれません。カバンの中、背広のあらゆるポケットを隈なく探しても飛行機チケットは出てきません。喉がカラカラになり、脂汗が流れてきました。

 それでどうなったのか?ーこうして日本にいて、本人は、呑気にブログを書いているのですから、無事帰国できたことは確かですね。どうやって?

銀座「ローマイヤー」ポークソテーランチ1100円

 航空会社のカウンターに行って、パスポートを見せて、チケットを再発行してもらったのかもしれません。そんなこと出来たのでしょうか?牧歌的時代だったのかもしれません。それとも、チケットが何処からか出てきたのか?ーそれさえ忘れているということはかなり重症です。忘れ物さえ忘れたことを忘れる。

 もうこうなっては、「老人力」が付いたと明るく前向きに解釈しますか。

《渓流斎日乗》で知り合った人、立ち去った人

 本日は、個人的な身辺雑記です。

 学生時代からの親友のA君が、急にフェイスブックを「お終いにする」と言い出して、ある一部で大変な騒ぎになりました。

 あれっ?どうしたことか?

 私自身も真相が分からず、ついに本人に直接、取材することにしました。

 実は、A君はつい2,3日前に、私のフェイスブックのコメント欄にキテレツな書き込みをして、その「暴走老人」のような行為に私も魂げてしまい、日曜日に彼に電話して、事情聴取したばかりでした(笑)。結局、酔っ払った勢いで、するべきではない、する予定もなかったコメントを知らずに投稿してしまったようで、本人は、自分が投稿したことすら覚えていませんでした。後で見て、自分でも、ゾッとしたそうです。この後、かなり反省したコメントが送られてきました。

 この暴走行為が引き金にはなりましたが、A君は以前から、フェイスブックにしろ、インスタグラムにしろ、不特定多数向けのSNSはもう止めようと思っていたようです。ということが関係者の取材で明らかになったーと最近のメディアがよく使うフレーズ、どうにかなりませんかねえ?(笑)

銀座「ジョルジオ・アルマーニ」

 彼はSNSをやめる理由について、正直に話してくれましたが、彼がフェイスブックなどに発信する「投稿」で揉めていたというのです。揉めていた、というのは言い過ぎかもしれませんが、一部の人から「(書いていることが)上から目線だ」とか「やはり、貴方には『先生』癖が抜けませんね」といった思ってもみない中傷に近い反応にウンザリしてしまったというのです。

 そんなこと言われれば、私なんか、こんなブログを書いていることで、彼より遥かに辛辣で重い誹謗中傷を受けてきましたよ。ある大手新聞社のOBからは「お前の書くものは怪文書だ」とまで言われましたし、何十年も親しくしていた友人も、何も言わずに、メールをしても返事もせず、私から離れていきました。その理由も、このブログに書いたことが気に障らなかったんだろう、という推測しか他に考えられません。

 ブログを書くと友達をなくしますよ。

 これは、私の格言です。

 そうしたことをA君に話すと「君は、ずっと書き続けて、めげないね。本当にめげない。僕には出来ないよ」とまで言うのです。

銀座SIX

 いえいえ、本当にめげました。今でもめげてますよ。長年このブログを愛読してくださっている皆様でしたら、お分かりになると思いますが、昨年の6月までこのブログに頻繁に登場していたある人が、それ以降、急に登場しなくなりましたよね? 理由は分かりませんが、単に飽きたのか、私がブログに書いた何かが逆鱗に触れたのか、どちらかだと想像するしかありません。ですから、今でもかなりめげて、落ち込んでいますよ。

 ただ、誹謗中傷する人や離反する人がいる一方で、このブログを通してかけがえのない素晴らしい皆様と出会うことができました。それが何物にも代えがたいことが大きかったと思います。

 ですから、これからも、もう少し書き続けていくつもりです。

【追記】

 A君によると、特に深い意味はありませんでした。毎日、フェイスブックで更新して来る⇒「いいね!」と、毎日返事するのが面倒になって来た⇒でも、返事をしないと義理に欠けてしまう⇒どうしたらいいか分からなくなった⇒ええい、面倒だ。自分のフェイスブックをやめたらいいんだ!⇒これですっきりしたーといった構図でした。

 これまで離れていった友人たちも同じようなものでしょう。私のことを蛇蝎の如く嫌っていたわけではなく、単に面倒臭くなった⇒返信しないうちに、こちらからアプローチするのも気が引けるようになった⇒ま、どうでも良いことだから、このまま没交渉でいいやーといった構図だと思われます。

Life is too short for the indulgence of animosity.

福井のソウルフード「ソースカツ丼」と「越前おろし蕎麦」

 「何で、そう毎日、ブログを書き続けるのですか?」

 「そこに山があるからです」

 何か、あと余命幾ばくも無い菅義偉首相の記者会見みたいになってしまいましたが、今日もネタがないので、郷土料理企画と致しましょう。銀座の郷土ランチです。

 本日は、今でもフランスで博士論文執筆で一生懸命に頑張っているAさんのことを思い、彼女の故郷、福井県にしました。銀座には1丁目に「食の國 福井館」があります。大雨の中、速足で行って来ました。

 福井県といえば越前であり、越前だと蟹ですか。あ、それで話は終わってしまいますね。福井の最大の名所旧跡は道元の開いた永平寺かもしれませんが、やはり、私は戦国武将の朝倉義景を思い浮かべます。織田信長に滅ぼされた悲劇の武将ですが、天下統一の野心がなく、優柔不断なところが自らの身を滅ぼした感じです。朝倉氏の一乗谷城跡は、日本の100名城にも選ばれているので、いつか、一度は行ってみたいと思っています。

 ついでに、私は城好きですから、高校時代に大変お世話になった英語の大庭先生の故郷である越前大野城と、現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城にも行きたいです。長生きしなきゃいけませんね。

銀座「食の国 福井館」まん福セット1220円

 さて、「福井館」です。店の奥に「イートイン」コーナーがありました。今、コロナ禍なので、5席ぐらいです。何をしようかなあ、と考えましたが、結局、朝倉義景も食べたかもしれない「越前おろし蕎麦」と「福井のソウルフード」と、ここで自称している「ソースカツ丼」の2種類が入った「まん福セット」を注文しました。(郷土館の食事は、最初にレジで食券を買うことは、先日の「しまね館」で学習しました。)

「越前おろし蕎麦」 というのは大根おろしに鰹節をまぶした冷やし蕎麦と簡単に言えるかもしれませんが、古風な味でした。いつ頃から名産になったのか知りませんけど、やはり、古風な味なので、勝手ながら、朝倉義景も食べていたことにしましょう(笑)。

  「ソースカツ丼」 は、極薄いとんかつがソース漬けで揚げられているので、調味料をかけることなく、そのまま食すようです。Aさんとは、福井県の食べ物について、蟹以外は、あまり詳しく話をしたことはありませんでしたが、名産なんでしょうか。私はむしろ、若狭から京都に鯖街道がつながっている通り、越前は「鯖寿司」が名産かと思っていました。でも、ここのイートインでは残念ながらメニューにありませんでした。(お弁当はあるようでしたが)

 その代わり、「チカッペカレー」という地元の人しか分からないネーミングのカレーがありましたが、ちょっと勇気が出なくて、今回は注文しませんでした。

 「福井館」の人たちは皆、感じが良かったので、食事が終わって、郷土名産品を少し覗いてみました。実は、気に入ったものがあれば、越前焼でも買おうかなあ、と思ったのですが、これも残念ながら、置いていませんでした。銀座より遥かに広い南青山にある「福井館」の方にはあるようでした。(確か、南青山にはAさんと一度、一緒に行ったことがあります。越前焼のことを知らず買いませんでしたけど)

 何しろ、越前焼は歴史があり、平安末期に始まったらしく、一時衰退したものの、戦後に復活し、「日本六古窯」の一つに選ばれているぐらいですからね。

 私は以前、福井県の地酒である「梵」の滑らかな味わいが気に入って愛飲したことがあったので、越前焼は、その「梵」に合った御猪口がいいかなと思ったのです。うーむ、そう書いているうちに、「梵」も越前焼の御猪口も急に欲しくなってきました(笑)。

 

 

アフガニスタンに取り残された残留邦人のことを思う

 ここ1カ月近く、タリバン政権が復活し、自爆テロなど「大混乱」という報道が相次いでいたアフガニスタンから、米軍が8月末に完全撤収しました。

 1975年4月のベトナム戦争終結の際、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)の米大使館から慌てふためいてヘリコプターで「逃走」する大使館員らの映像が思い起こされます。(今や、1975年生まれの大学教授の皆様が第一線で活躍されている時代ですから、このシーンを脳裏に刻んでいる方は少ないと思いますが…。)

 このベトナムとアフガニスタンに共通することは、あの世界の超大国である米国が負けたという事実です。日本のメディアで、はっきりと「敗北」と、かっこ付きながら見出しに掲げて書いたのは、日本経済新聞だけでした。他の新聞を読んでも、「撤収した」だの「撤退した」だの「幕引き」だのと書かれているだけで、さっぱり意味が分かりません。

 経済紙である日経は、ベトナム戦争とアフガン戦争を比較して表にしてくれています。ベトナム(1965~75年)では、10年間で約100兆円の戦費を投じ、米兵だけで約5万8000人の戦死者。この他、軍民合わせて約335万人の犠牲者。アフガン(2001~21年)は、20年間で250兆円の戦費で、米兵の死者数は2500人。この他、約16万5000人と多大な犠牲者を生みました。

長期間、オリパラのボランティアを務めた実兄が、抽選でこのスイス製の腕時計が当選したとか。10年後に「何でも鑑定団」に出したら、幾らになるかなあ~(笑)。

 私は知らなかったのですが、アフガニスタンは「帝国の墓場」と呼ばれているそうですね。まず、大英帝国が19世紀から20世紀初めにかけて、3次にわたるアフガン戦争を仕掛けて、逆に敗北(と書く歴史家は少ないようですが)。名探偵シャーロック・ホームズが初対面のワトソン医師に対して、アフガン戦争の帰還者だね、と見抜く場面がありましたが、原作者のコナン・ドイル(1859~1930年)が、敏感にジャーナリスティックな題材を取り入れていたわけです。

 1979年にはソ連によるアフガニスタン侵攻(~1989年)がありました。お蔭で、翌80年のモスクワ五輪は、日本を含む西側諸国によるボイコットがありました。結局、泥沼化して、ソ連の戦死者は1万5000人を出して撤退しました。(撤退ではなく、敗北?)

 そして、今回の米国というわけで、欧米列強の3連敗ということになりますか。

銀座「魚金」マグロ寿司ランチ1000円

 それにしても、アフガニスタンからの退避を希望している日本人や協力者のアフガン人を救出するために、日本政府は8月26日になってやっと、自衛隊の輸送機を派遣しましたが、27日に救出できたのが、わずか日本人1人(共同通信の通信員)だけだったというのは、どうも解せませんね。

 首都カブールが大混乱し、帰国したくても、空港にまでたどり着けない人が多かったようです。特に、アフガン人はタリバン政権によって足止めされましたが、日本人の場合、8月15日に早々とカブールの在アフガニスタン日本大使館が閉鎖されたことが致命傷になりました。外務省はHPで「トルコのイスタンブールに臨時事務所を設置して当座の業務を継続しています」と誇らしげに宣言していますが、現地でビザを獲得できなかった多くの残留邦人も多かったことでしょう。(空港で日本の大使館員が待機していたという未確認情報もありますが)英国やフランスの大使が自国民の最後の一人のビザを発給するまで、カブールに居残っていたのとはえらい違いです。

 日本の伝統なのか悪弊なのか、どうも、先の大戦での満洲や朝鮮半島などでの「棄民」を思い起こさせます。

「銀座ランチ」企画を始めた理由(わけ)

 このブログで「銀座ランチ」の企画を始めたのには理由があります。

 一つは、もしかして、来月9月いっぱいで、会社では「お疲れさま」と肩を叩かれ、長かったサラリーマン生活に終止符が打たれ、もう、そうしょっちゅう銀座にまで出て来れなくなると思ったからでした。「仕事で銀座に通っている間、これまで行けなかった高級店でも何処でも行ってやれぃ」と思ったのです。それで、「資生堂パーラー」だの「ポール・ボキューズ」だの、ちょっと背伸びして行ったみたわけでした。(まだ、「ロオジエ」と「銀座レカン」と「南蛮 銀圓亭」が残ってるぞ!)

 もう一つは、会社の同僚たちを見ていると、近くのコンビニの菓子パンでお昼を済ませたり、節約のためか、家でお弁当を作って持って来る人が何人もいたからでした。「そんなにケチケチお金を貯めても、あの世に持っていけないのになあ…」と、ムラムラと反発精神が巻き起ってきたのでした(笑)。

 結局、多くの人にとってはどうでも良い話ではありますが、私の「9月いっぱいでサヨナラ」は、直前になって撤回され、首の皮一枚で繋がり、もう少しだけ、会社にいられることになりました。これもこれも、「高年齢者雇用安定法」の改正(令和3年4月1日から施行)のお蔭でした。有難い話です。

 ということで、私も、もうしばらく、銀座回遊を続けられそうです(笑)。

銀座バール・デルソーレ「本日のランチ」(ペペロンチーノ)セット1100円

 本日行った銀座ランチは2丁目にあるイタリアンの「 バール・デルソーレ 」です。実は、先週、1丁目の「銀座の金沢」で石川県の郷土料理を食べようとしたら、緊急事態宣言でお休みで、代わりの店を探していたらなかなか見つからず、結局、以前よく通っていたのこの店に入ったのでした。安くて味が良い店です。

 そしたら、会計を済ませたら、何と、この店でも使える「500円割引」のランチ券をもらってしまったのです。(「1500円割引」のディナー券も)しかし、利用期限が「2021年8月31日」まで。今日か明日に行かなければ行けないので、本日、出掛けたわけです。

銀座バール・デルソーレ「本日のランチ」(ペペロンチーノ)セット1100円

 でも、今日は、仕事でちょっと遅くなり、店に着いたのが13時半頃でした。それでも、意外にも満席で、ギリギリ、最後の1席を確保することができました。「本日のランチ・パスタ」を注文したら、ペペロンチーノでした。日本語で、アサリ入りピリ辛細うどん?と言うんでしょうか。…うーむ、これは旨い。

 銀座にはかなり多くのイタリアンがありますが、中には板(いた)さんが喧嘩して?辞めた店があり、味が変わることがあります。私はすぐ分かっちゃうんですよね(笑)。この店は、以前と変わらない味なので、恐らく、以前からのシェフは変わっていないことでしょう。

銀座バール・デルソーレ「本日のランチ」(ペペロンチーノ)セットのデザートとアイスコーヒー 1100円

 本来なら、ランチセット1100円のところ、割引券があったので、わずか600円で食すことができました。

「大丈夫かなあ?」…

 本当は、コロナ禍の影響で、お店の売り上げも大幅ダウンしているはずなので、申し訳ない気持ちになりました。

 また、行きますから、許してつかあさい。

友が皆、我より偉く見ゆる日よ…

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ(石川啄木)

 これは、「一握の砂」(1910年)に所収された有名な短歌です。この「友」とは、一体、誰のことなのかー? 岩手県立盛岡中学(現盛岡第一高校)時代の友人だった金田一京助や、後に海軍大将になる同校先輩の及川古志郎、「銭形平次捕物控」で名を成す野村胡堂(長一)ら色んな説がありますが、特定の友ではない、という説もあります。(ちなみに、啄木の盛岡中学の11年後輩に宮沢賢治がおり、加藤哲郎一橋大学名誉教授も盛岡一高出身です。)

 私は短詩型はあまり得意ではありませんが、若い頃に覚えた句や短歌は、何かあると、ふと口をついてきたりします。

 友が皆、我より偉く見ゆる日よ…

 本日、文部科学省から発表された文化審議会委員の人事名簿を見て、すぐにこの短歌が出てきました。

 委員の中に、お二人、しのぎを削ってスクープ記者合戦に勤しんだ「戦友」のような方のお名前を発見したからです。ライバルの大手新聞社(出身)のOさんとKさんです。Oさんはノーベル賞作家に食い込んで、文庫の解説まで書かれ、文化部長から有名大学教授に華麗なる転身を遂げた方です。Kさんは、歌舞伎界で知らない人はいない、何冊も本を出されている専門編集委員さんです。いやあ、お偉くなりました。

 文科省の文化審議会には四つの分科会がありますが、その中に「文化功労者選考分科会」があります。主な所掌事務として「文化功労者年金法により審議会の権限に属させられた事項を処理すること」とあります。詳しくは分かりませんが、恐らく、年金350万円といわれる文化功労者になる方を選んだり、推薦したり、答申したりするお役目ではないかと想像されます。作家さんも、役者さんも、画家さんも誰でもこの文化功労者だけにはなりたいと思っていますからね。

 文科省のお役人さんはお忙しいですから、沢山の本を読んだり、演劇、映画、音楽、美術鑑賞したりできないわけですから、専門家の意見や助言を仰ぐしかないですからね。ですから、委員の方々の責任は重大です。そして、何と言っても、審議会委員の皆様は本当に偉いのです。

 もっとも、OさんやKさんと取材現場で御一緒したのはもう30年も前の大昔のこと。無位無官の「無用の人」である私のことなどもう覚えていないことでしょう。「あんた誰?」と言われる前に、早めに退散することに致します。

本当は凄かった田沼意次

 以前にも書きましたが、皇居から銀座を通って、築地に向かう道路を「みゆき通り」と言います。明治帝が、当時築地にあった海軍兵学校を視察するため、お通りになったので「御幸通り」と付けられました。

 銀座から築地に向かう際、途中で大きな道路に突き当たります。昭和通りです。関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都東京を復興する一環として当時の後藤新平東京市長の鶴の一声で整備されました。一説では、道路の下には大震災の瓦礫や〇〇などが埋められたと言われています。

 いやはや、本日はそんな話ではありませんでした。

 本日は、銀座から築地に向かって昭和通りを渡ったところに、目下建設されている高層ビルの話をしたいのです。

 もう2年以上工事を続けていますが、やっと外装が出来て、現在は内部工事をやっているところです。かなりのノッポビルですが、ホテルのようです。上の写真でお分かりのように、「頂上」に「GRAND BACH」と書かれています。日本語にすると「グランド・バッハ」ホテルということになるのでしょうか。

 実は、私自身、毎日のように、出勤で、この「グランド・バッハ」ホテル前を通るのですが、ここを通るたびに、苦笑せざるを得ません。今や、バッハと言えば、あの大作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハのことではなく、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長のことを誰でも思い浮かべるからです。そして、バッハ会長と言えば、今や、「ぼったくり男爵」の異名の方が、有名になってしまっております。

ホテル・グランド・バッハ

◇「賄賂」と「ぼったくり」のハーモニー

 私が苦笑せざるを得ないのは、このグランド・バッハの敷地は、江戸時代、あの賄賂政治で名高い老中田沼意次の屋敷跡だったからです。「賄賂」と「ぼったくり」という妙な符合の一致に、苦笑せざるを得ないじゃありませんか。

 田沼意次と言えば、悪徳政治家の代名詞みたいなもので、もう悪玉の大親分のように歴史の教科書で習いますが、最近では、随分、見直されているようです。そもそも、田沼意次が悪の権化に仕立てられたのは、彼の失脚後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層による儒教的批判に基づいた評価だといいます。つまり、田沼に限らず、慣例として、大方が賄賂によって政治が動いていたということです。まあ、その度合いが、田沼意次は飛び抜けていたということなのでしょう。幕末の井伊直弼大老は有名ですが、井伊家は田沼意次への賄賂で大老職を買ったと言われています。田沼の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽から旗本に取り立てられた人物で、小姓だった田沼意次自身も出世のために、大奥や奥女中らにもかなり賄賂を贈っていたようです。

 今、再評価されている田沼意次の政策の特長は、幕府の財政危機を再建するために、緊縮財政策を見直して、重商主義を採用したところにあります。教科書の復習になりますが、問屋、株仲間の育成を強化したり,さらに貨幣の増鋳、長崎での貿易奨励、下総印旛沼の開拓などです。

 それまで、幕府は農民ばかりに年貢を納めさせて「税」を収奪していましたが、田沼意次が株仲間を育成させることによって、初めて、商工業者からも「税」を取ることを生み出したといいます。これまで、商人は税を払っていなかったんですね。これは幕府にとって大変な功績であり、日本史上、画期的なことでした。封建主義から資本主義への萌芽が見られたと言ってもいいかもしれません。

ホテル・グランド・バッハ 前にある東京都中央区教育委員会の碑

 で、この辺りは、田沼意次の時代は「木挽町」(こびきちょう=江戸城普請の際、大工らを住まわせた)という地名でした。田沼が老中として改革の先頭に立っていた時の田沼邸は、神田の上屋敷にありましたが、この木挽町の田沼屋敷は、下屋敷で、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に住んだ、というか、蟄居したところでした。

 悪評高い田沼時代ですが、実は、文化の華が開いた時期でもありました。前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりしました。田沼自身も、絵師を手厚く保護し、この木挽町の屋敷の一角に狩野派の屋敷を建て、画塾を開かせたのです。江戸奥絵師狩野派は四家ありますが、最も栄えたのはこの「木挽町狩野家」で、明治になっても、近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しています。(東京都中央区教育委員会)

大田区役所物語=桃源社の佐佐木吉之助さん

 「日乗」と銘打っておきながら、毎日書けない日もあります。モノを書くことは職業病なので、苦は通り越しているのですが、「何を書いても無駄」といった虚無感に苛まれたりして、筆が進まない日があるのです。昨日もそうでした。ごめんちゃい、としか言うしかありません。

 本日も題材があまり浮かばないので、単なる雑感ですー。

 先日、東京・大田区の蒲田に行った話をこのブログで書きました。JR蒲田駅東口に隣接する超一等地に「大田区役所」があったので、昨日、出勤した際、蒲田生まれの蒲田育ちの会社の同僚O氏に「凄い所に区役所あるね」と話したところ、「ああ、あそこはもともと、トウゲン社が建てた高級マンションだったんですよ」と言うではありませんか。

 えっ?何?トーゲン社?漢字はどう書くの?という話から始まって、よくよく取材したところ、トーゲン社とは、あの「バブル紳士」と悪名を轟かせた佐佐木吉之助(1932~2011年)が創立した不動産会社「桃源社」のことでした。ああ、聞いたことがある!

 バブルがはじけた1990年代後半に住専問題が国会でも取り上げられ、この佐々木吉之助さんも国会で証人喚問されて、メディアを賑わしたものです。が、今やすっかり忘れ去られ、若い人はほとんど知らないことでしょう。この人、今は簡単に調べられますが、もともと慶応大学医学部を出た医師だったんですね。1971年に不動産会社を設立して、いわゆる地上げで巨万の富を築いて「バブル紳士」の一人として目されましたが、バブル崩壊の上、偽証罪で逮捕されたりして、晩年は最悪だったようです。

 O氏によると、この蒲田駅前超一等地の桃源社の物件処理問題は、紆余曲折の末、区役所になったというのです。内部は改装されて、かつて、高級マンションのプールがあったところは、何と「埋め立てられ」て、今や、区議会場になっているというのです。だから、議員の座席も横長になっていて、変な議事場になっているといいます。へー、ですね。知らなかった。

 大田区役所は、以前は、大森駅から歩いて15分以上の不便な所にあったらしいので、「バブルの置き土産」とはいえ、今や大田区民は恵まれていますね。ちなみに、大田区とは、戦前の大森区と蒲田区が合併して、「大田」区となったのでした。蒲田の駅近は、新宿の歌舞伎町のような怪しげなごちゃごちゃした繁華街でしたが、私の生誕地なので(笑)、また、いつか行ってみたいと思います。

有楽町「ロイヤルホスト」黒和牛ハンバーグ定食・ドリンクバー付1694円 緊急事態宣言下なのに店内満員。期待していなかったのに、実に美味かった。

  話は変わって、先日、テレビで、かつての名画である「麗しのサブリナ」(1954年、ビリー・ワイルダー監督)を初めて観ました。何てことはない、映画でしかあり得ないシンデレラストーリーでしたけど、オードリー・ヘプバーン主演の「ローマの休日」(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)に続く大ヒット作でした。まだ、白黒でしたが、映画黄金時代の作品です。相手役は、あの「カサブランカ」のハンフリー・ボガード(ボギー)です。

 ヘプバーンもボギーも、今でも名優として名を残していますが、調べてみたら、意外にも若くして亡くなっていたので驚いてしまいました。 オードリー・ヘプバーン (1929~93年)は63歳、 ハンフリー・ボガード (1899~1957年)は何と57歳で亡くなっているのです。「えーー!!」です。「人生100年時代」と言われる現代からみれば、まだまだ、本当にお若い。そう言えば、私の大好きなビートルズのジョン・レノンは40歳、ジョージ・ハリスンも58歳で亡くなっていましたね。

 「長生きは三文の徳」「無事是名馬」…色んな駄作が思い浮かびますが、何も功績も業績もなくたって、長生きできるだけで、それでいいじゃないか。有名にならなくても、人に馬鹿にされても、路傍に咲く月見草でも、ただ、生きているだけで、それでいいじゃないか。

 まあ、そんなことを考えてしまいました。

中野信子著「ペルソナ」は本人の話ではない???

 テレビによく出演されている脳科学者の中野信子氏の代表作なのに、まだ未読だった「ペルソナ 脳に潜む闇」(講談社現代新書、2020年10月20日初版、968円)をやっと読んでみました。彼女の書かれた「サイコパス」(文春新書、2016年11月初版)「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)などを大変面白く拝読させて頂いたので、「是非とも読まなければ」と思っていました。

 そしたら、「はじめに」の最初から、

 どの本を読んでも、「中野信子」が見えてこない、と言われることがある。

 という文章で始まるので、これは一体、何の本なのか? と、のけぞりそうになりました。「ペルソナ」って何だろう?ー調べてみたら、心理学では、「外向きの人格」、マーケティング用語では「架空の人物モデル、ユーザー像」という意味でした。

 結論から先に言いますと、この本はどうやら、彼女の半自叙伝のようでした。しかも、三島由紀夫の「仮面の告白」にかなり影響を受けたような、そして、太宰治の主人公のような超自意識過剰で、自己顕示欲満々といった感じです。

 それでいて、ペルソナですから、中野信子氏という本人ではなく、かりそめの人物モデルの告白のようで、本人は読者からスルリと身をかわして逃げてしまう。何と言っても、この本の最後は以下のように締めくくられているのですから。

 これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語である。

 おいおい、ここまで238ページも活字を追って読んで来た読者を、ここに置いてきぼりにするつもりなのかい?いやはや、やはり、著者の方が、一枚も二枚も上手であることを認めざるを得なくなるわけです。

 半自叙伝ですが、書き手の社会や世間に対する恨み、つらみ、怨念、ルサンチマンが、これでもか、これでもか、と溢れかえっています。著者は1975年生まれという「団塊ジュニア」世代で、社会に出ようとした時、超氷河期の就職難で、「自己責任」という新自由主義の嵐が吹き荒れ、ほとんどが、アルバイトやパートや嘱託や派遣など非正規雇用に甘んじなければならなかった、高度経済成長を知らない世代でした。著者は、日本の最高学府である東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了という立派な肩書がありながら、(本人は決してそう書いてはいませんが)、碌な就職口がなく、その前後には、彼女が美人だったせいか、数々のセクハラやパワハラやアカハラ(アカデミーハラスメント)などに見舞われたことが書かれています。

 あまりにも、暗い話が続くので途中でもう読むのはやめようと思ったぐらいでした。

 著者は、子どもの時から、自分は他人とはうまくコミュニケーションが取れない変わった人間だと思い詰めたり、自分で見抜いたりして、結局は脳科学研究という天職を見つけていきます。テレビに出始めたりすると、「学者がそんな軽薄なものに出るものじゃない」と陰口を叩かれたり、足を引っ張られたり、妬まれたり、まあ、人間の業ですから、そこまで書かれなくても最初から想像はできましたが…。

 でも、我慢して読み続け、真ん中を過ぎた辺りにこんな文章に出くわします(142ページ)。

 ウイスキーを一人で飲みに行くようになったのがこの頃のことだ。

 これを読んで、「今度ご一緒しましょう」などとお声を掛けてくださる方がいるかもしれないが、絶対にやめていただきたい。私は、酒は静かなオーセンティックバーで、一人で飲みたいのだ。どうか誘わないでほしい。断る心の負担もタダではない。

 はい、ウブな私は思わず赤面してしまいました。最高学府で博士号を取得された優秀な方でもこういう文章を(本という有料メディアで)世間にさらすんだ…。この本では、両親とも短大出で、それほど豊かではない家庭で、「毒親」に育てられたことを赤裸々に告白し、今の御主人とのなれそめも、「人からよく聞かれるから」ということで、あっけらかんと書かれています。

 あ、やっぱり、自叙伝だ!と思った瞬間、著者は最後に「 これは私の物語のようであって、そうではない。 」と書いて消え去ってしまうのです。

 まさに、恐るべし、というほかありません。

サントロペ…嗚呼、マリー・ラフォレさん、貴女でしたかぁ…

 学生時代は1日、16時間ぐらい音楽を聴いてましたが、最近はほとんど聴かなくなりました。一番の大きな理由は、単に流行についていけなくなってしまったからです(苦笑)。

 先日、小林克也さんの「ベストヒットUSA」というテレビ番組で、ジョーズ・ハリスンを特集しているというので、本当に久しぶりに見てみたら、目下、全米ベスト20入りしている曲もミュージシャンも一人も、一曲も知らない。それ以上に、ほとんどの曲が今、大流行のラップなので、少しも心に響かない、というか、逆に、聴いていて腹が立ってきました(失礼!)

 やはり、人間、若い頃に聴いた音楽がその後の人生を支配してしまうんですね。

 今、かろうじて聴いている音楽番組は、土曜日午前9時からNHKーFMラジオで毎週放送されている「世界の快適音楽セレクション」というゴンチチが司会する番組です。藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨という当代一の音楽評論家が選曲する番組で、ポップスだけでなく、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、シャンソン、カンツォーネ、映画音楽、戦前のディック・ミネ、戦後の植木等…とジャンルに拘らず、幅広く音楽を聴かせてくれるところが素晴らしい。私なんか、学生時代みたいに、(当時はカセット、今はMDに)録音して聴いています。

 録音するのは、大変失礼ながら、自分の好みではない音楽や、実にくだらないゴンチチの長い会話(の一部)を消去するため(ごめんちゃい)と、勿論、気に入った曲を何度も聴くためです。年を取ると好き嫌いがはっきりしてくるものです。若い頃のように「何でも聴いてやろう」という気概がなくなります(笑)。私が特に嫌いな音楽は、金属的な電子テクノ系の曲とか、何度も何度も同じフレーズを繰り返す軽薄な曲などです。逆に、好きな曲は、落ち着いたムードのあるジャズ、最近ではエラ・フィツジェラルドとかフランク・シナトラとかヴォーカルにはまっています。あとは、1960年~70年代のロック(番組では、ルー・リードやフランク・ザッパなどマニアックな曲をかけてくれます)やボサノヴァなどです。

 クラシックも、私自身は「全て聴いてしまえ!」と30歳の頃に一大決心して、モーツァルトを中心に、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスからショパン、チャイコフスキー、マーラー、スメタナ、ドビュッシー、ラベル、ラフマニノフ、ストランビンスキー、ショスタコーヴィチ、それに現代音楽のグバイドゥーリアやアルヴォ・ペルトに至るまで、何千枚もCDを買い、幅広く聴いてきたつもりだったのですが、この番組の音楽選者の評論家の皆さんはさらに、その上を行っていて、ラジオではまずかけないスカルラッティとか、バッハ、ヘンデルならまだしも、私自身は名前と写真だけは音楽室だけでしか知らなかったグルックまでかけてくれるのです。実に勉強になりますよ(笑)。

 さて、昨日かかった曲は本当に、本当に懐かしい曲でした。「サントロペ…サントロペ…」と繰り返すフレンチポップスです。私が子どもの頃、よくラジオでかかっていたので1960年代初めの頃の曲です。サントロペとは、カンヌやニースと並ぶ南仏のリゾート地です。子どもながら、この曲を聴いて、「いつか行きたいなあ」と憧れたものです。

 日本に入って来る海外ポップスは、戦後はアメリカと英国にほとんど駆逐されてしまい、まず、北欧や東欧やアフリカの曲はないし、ドイツの曲さえほとんど聴かれませんでした。辛うじて、1960年代は、異色にもフレンチポップスだけは頑張っていた気がします。例えば、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(作詞作曲は、天才シャルル・ゲンズブール)とか、シルビー・ヴァルタンの「アイドルを探せ」(作詞はシャルル・アズナブール)などです。その一連の流れで「サントロペ」もラジオでよくかかっていたと思います。

 そして、この「世界の快適音楽セレクション」という番組のお蔭で、この「サントロペ」という曲の正体が、あれから60年も経って私は初めて分かったのです。唄っていたのは、何と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で共演した女優のマリー・ラフォレだったのです。しかも、この曲は、彼女が主演した映画「赤と青のブルース」の中で歌われた曲だったんですね。1961年公開の映画ですから、私は勿論、劇場で観ていないし、テレビでもやってくれなかったと思います。少なくとも見ていません。

 「何を今さら」と仰る方は多いかと存じます。「そんなことも知らなかったの?」と。

 …はい、知りませんでした。昔は、音楽を知る手段は、レコードを買うか、ラジオぐらいしかなかったでしたからね。子どもの頃は、まず、レコードなんて買えるわけないし、コンサートなんかに行けるわけありません。テープレコーダーやカセットも当時は安易に買えたわけではないので、ラジオで流れる曲を一生懸命聴いて、それでお終い。(だから、当時は、リクエスト番組が多かったんでしょうね。)

パリ・シャンソンキャバレー「オウ・ラパン・アジル」

 その点、今の人たちは本当に恵まれていますね。今、書いてきた「赤と青のブルース」も「夢見るシャンソン人形」も検索すれば、簡単に聴けるわけですから。しかも、動画が見つかれば、彼らが、演奏したり唄ったりしている姿さえ見られます。その点、昔は、歌手と曲の名前とジャケット写真だけでしたからね(笑)。後は、想像するしかありません。

 だからこそ、子どもだった私も、「サントロペ」を聴いて、声だけで想像をたくましくしたものでした。それ以上の「情報」が得られるなんて夢のまた夢。それ以上のことを知ることができるなんて、考えもつきませんでした。

 さて、そのマリー・ラフォレは、惜しくも一昨年の2019年に80歳で亡くなりました。その当時に、この「サントロペ」のことを既に知っていたなら、悲しみはもっともっと深まっていたと思います。