座ったら死ぬ?

 「銀座の高級腕時計店巡り」企画はあまり受けていなかったみたいですね(苦笑)。昨日のアクセス数は「301」。それでも、300人以上の方が御覧になってくださったのですから、本当に有難いことです。

銀座5丁目「アワーグラス」 パテック・フィリップのキャリバー240が1046万1000円とありまする

 このブログは、主宰者だけが細かいアクセス解析できるのですが、これまでの最高アクセスが2020年12月15日で、何と1日、6318アクセスもありました「この異様な数字は何じゃいな?」と思って、前日の12月14日の記事を検索したら「コメディアン小松政夫さん逝く=またお手頃の銀座ランチ発見」でした。「えっ?」失礼ながら、こんな記事にどうしてこんなアクセスがあったのか、不思議です。世の中、分からないものです。

 ゴホン、主宰者としましては、もっと真面目な堅い記事の方を読んでもらえると嬉しいです(笑)。

銀座6丁目「パネライ」1860年、伊フィレンツェで創業

 本日は、最近読んだ記事で最も衝撃的だったものを取り上げます。

 「座りすぎ 運動で帳尻合わず」と題した10月11日付朝日新聞東京本社夕刊の記事です。一言でいうと「座っている時間が長いと死亡リスクが高まる」というのです。京都府立医科大学の小山晃英講師が約6万人の調査から導き出した結果です。

銀座6丁目「チューダー」1926年、スイス・ジュネーブで創業(ロレックスの姉妹会社)

 具体的には、座っている時間が1日5時間未満だったグループを基準にして比較すると、1日7~9時間グループは約1.2倍、1日9時間以上だと約1.5倍も死亡率が高かったというのです。また、1日に座っている時間が2時間長くなるごとに、死亡リスクは15%も上がるというのです。(詳細を知りたい方は、販売店か、図書館にでも行って探して読んでみてください)

銀座6丁目「タグ・ホイヤー」1860年、スイス・サン・ティミエで創業

 えーーー、ですよ。私は少なくとも6~7時間は毎日、毎日、会社でパソコンの前で座っています。往復約3時間の通勤の電車内でも遠方なので結構座っています。

 でも、これでは、「座ったら死ぬで~」と言われているようなものです。

銀座6丁目「ゼニス」1865年、スイス・ロクルで創業

 対策としては、定期的にパソコンから離れて、少し歩いてみたりすれば良いようですが、それもなかなか…。

 お金にもならないのに、ブログなんて書いているのは、一番駄目ですよねえ?(笑)。

銀座6丁目「オメガ」 あれま、木曜日定休でした。1848年、スイス・ラ・ショー・ドゥ・フォンで創業

 そう言えば、世の中、座職(英語でsedentary work)が溢れています。日本人の大半を占めるオフィスワーカーがそうですし、陶芸家など職人さんも大抵、座って仕事します。タクシーや長距離のトラック運転手などは、1日5時間では済まないでしょう。

 立ち仕事(stand-up work)は、ハウスマヌカン(もう死語?)とか、お店や居酒屋などの店員さん。料理人さん。美容師、理容師さん。駐車場や工事現場などでの交通指導係などが思い浮かびます。

銀座6丁目 左は「ジャガー・ルクルト」というより「イエガー・ルクルトゥル」1833年、スイス・ル・サンティエで創業、右は「A.ランゲ&ゾーネ」1845年、ドイツ・グラスヒュッテで創業

 机に向かって執筆する作家さんも座職でしょうが、あのヘミングウェイは、晩年は立ってタイプライターで執筆していました。

 健康に気を遣っていたのでしょうけど、悲しいことに結局、61歳で自殺してしまいました。長い白髭を生やして、随分お爺さんに見えましたが、そんなに若かったんですね…。

銀座6丁目「ロレックス」(ここは明治から大正にかけて朝日新聞社があった所です) 日本人が一番好きなブランドでは?1905年、ドイツ人ハンス・ウィルスドルフがロンドンで創業、本拠地はスイス・ジュネーブ

 何と言っても、先ほどの記事によると、余暇に運動してもそれほど死亡率が下がらない。座る時間を減らすしかない、といった結果が出たというのです。

 やっぱり、「座ったら死ぬ」んかいなあ~!?

昨日写真が撮れなかった銀座4丁目「ベル&ロス」。1992年、カルロス・A・ロシロとブルーノ・ベラミッシュによりパリで設立。ご興味のある方は、HPでこの高級腕時計を御覧ください(笑)。

 先ほどから、ベタベタと銀座の「高級腕時計店」の写真が貼られていますが、約一名、「銀座の時計の企画、興味深く読みました」と褒めてくれた人がいたからです。

 せっかく撮った写真を死蔵するのも勿体ないですからね(笑)。

ルソーの一族は時計職人だった=銀座・高級腕時計店巡り

 このブログでは、これまで、「銀座ランチ」とか、「銀座・明治新聞街」とか、「銀座・地方物産店巡り」など色々と「銀座企画」をやって来ましたが、少し、飽きてきたので(笑)、他のものをやろうと考えてみました。

 代替案はすぐ見つかりました。「銀座・高級腕時計店巡り」です。銀座を歩いていると、やたらと高級腕時計の販売店が目立つのです。もしかして、飲食店に次ぐぐらい多いかもしれません。

 何と言っても、銀座のシンボルは、4丁目の服部時計店=セイコーですからね。世界各国から、特にスイスの高級腕時計店が銀座に集まって来るのも頷けます。何しろ、高級腕時計は安くても数十万円、パテック・フィリップともなると数千万円もする代物ですから、「信用」が肝心です。消費者は、銀座に出店しているから安心して買うのです。その点、銀座に画廊が集中しているのと同じ論理です。やはり、偽物はつかませられたらたまりませんからね。

銀座SIX「シチズン」

 最初に取り上げるのは、日本に敬意を表してシチズンです。銀座SIXにあります。

 1918年創業。関東大震災の翌24年にシチズンの前身・尚工舎時計研究所によって懐中時計が販売され、30年にシチズン時計株式会社が創立されたとのこと。シチズンの命名者は、当時、東京市長だった後藤新平です。この人、色んなところで登場しますね。本社が、今でも、私も土地勘がある西東京市田無町にあるというのがいいですねえ。

銀座SIX「アーノルド&サン」1764年創業

 このシチズンの隣りにあるのが「アーノルド&サン 1764」です。恐らく、シチズンと販売契約を提携していると思われます。英国の時計職人ジョン・アーノルド(1736~99年)に敬意を表して、その名前を冠していますが、スイスの時計店です。1764年とは、アーノルドが国王ジョージ三世に小さな2度打ち時計を塔載した指輪を献上した年なんだそうです。

銀座6丁目「IWCシャフハウゼン」1868年

 私の得意な「みゆき通り」を歩いても、何軒か、高級腕時計店を見かけます。

 上の写真の 「IWCシャフハウゼン」 は、確か、以前はここに風月堂の喫茶店があったと思います。風月堂ビルのままですし、よく、取材でも使ったので間違いありません。

 今や、スイスの高級腕時計店にリースしているということなのでしょう。IWCとは「インターナショナル・ウォッチ・カンパニー」とのこと。スイスでもドイツ語圏のシャフハウゼンが本拠地に1868年創業。パイロット・ウオッチが世界的にも有名で売れ筋のようです。安くても50万円ちょっとなので、あたしには関係ないですが。

銀座5丁目 ブランド時計販売店「エバンス」1987年創業

 みゆき通り、銀座5丁目でよく見かける「エバンス」はブランド名かと思ったら、販売店の名前のようでした。ロレックスやウブロなど高級腕時計を扱っているので、勿論、お店の中には入りずらいのです(笑)。

銀座5丁目 総代理店「シェルマン」フィリップ・デュフォー、ハブリング・ツー、クドケなど個性豊かなと時計を販売

 この 「シェルマン」 も時計のブランド名かと思っていたら、高級腕時計の総代理店名でした。(水曜日は休みのようでした)

 この店の前は、通勤でしょっちゅう通るので、馴染みになっていますが、店に入ったことはありません(笑)。日本ではあまり知られていない 「フィリップ・デュフォー」「ハブリング・ツー」「クドケ」など個性豊かなスイスの高級腕時計を販売しているようです。

銀座5丁目「センチュリー」1966年創業

 本日最後は「センチュリー」です。 1966年に創業されたサファイアを使った高級時計ブランドですが、恐らく、日本人でも知る人ぞ知るブランドだと思います。(この店も水曜日は休みでした。契約が水で流れると禁忌している日本の不動産屋さんが、水曜日を定休日にするみたいですね)

 このビルが建つ前の、取り壊された古いビルから知っていましたが、銀座にこんな立派なビルを建ててしまうことができる高級腕時計会社というものは、「儲け率」が高いのではないかと下衆の勘繰りをしてしまいました。

 「だから、何なのだ」と言われそうですが、スイスの時計というのは、草創期の17~18世紀では、今で言う超ハイテク機器だったことでしょう。世界中の王侯貴族が買い求めたと言われ、それは今でもあまり変わりありませんね。

 あの自由思想主義者のジャン・ジャック・ルソーはスイスの仏語圏のジュネーブ生まれで、ルソーの父イザークを始め、ルソー家は代々、時計職人だったことは有名です。ルソー家は、いわばエリートだったのです。

「銀座で最も評価が高い」とネットで評判のとんかつ屋さん(あえて名前は秘す)。目立たない地下にあり、やっと探し当てて、少し並んで、ロースかつランチ定食(1200円)を食しましたが、ちょっと脂身が多くて、小生の口にはちょっと…。大いに期待していたので、ネットの評判も当てにならないなあ(笑)

 このルソーの話もまた、「それがどうした」と言われそうですね。

 「いいじゃないか。だって、ブログだもん」と言い返すしかありません(笑)。

(本当は、「ベル&ロス」という1992年、パリで、カルロス・A・ロシロとブルーノ・ベラミッシュにより共同創業された異様に格好良い高級腕時計(銀座4丁目に今年5月に旗艦店がオープン)を御紹介しようと思って、今日行ってみたら、お店は改装中でした。残念)

小三治師匠、逝く…

 人間国宝の柳家小三治さんが亡くなってしまいましたね。行年81歳。先日、新聞で、今月下旬に開催される「小三治一門の会」の広告を見たばかりでしたし、今月2日も東京都府中市で高座に上がっていたので、「まだまだ大丈夫」と思っていたので、少し驚いてしまいました。

 「最もチケットが手に入らない」落語家と言われていましたから、入手困難だったでしょうが、残念です。テレビにチャラチャラ出てくるようなタレントとは一線を画した「現代落語界界の最高峰」の最後の雄姿を見ておきたかったでした。

 もう30年も昔ですが、小三治師匠とは一度、取材でお会いしたことがあります。当時、芥川賞を受賞したばかりで、落語好きで知られる荻野アンナさんとの対談企画で登場してもらったのですが、高座と全く同じで飄々とした雰囲気で飾らない人柄でした。でも、ほんの一瞬の隙に見せる人を射すくめるような表情が怖かったことを覚えています。

 考えてみれば、記者になったお蔭で、昭和平成を代表する三人の天才、古今亭志ん朝にも立川談志にも私はお会いしているんですよね。我ながら幸運でした。

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 ところで、「『知の巨人』立花隆のすべて」(文春ムック)を読んでいたら、哲学者の梅原猛氏(1925~2019年)がこんなことを書いていました。

 私は若き日、ニーチェの本を読んで、その論争の仕方に深い共鳴を覚えた。…私はこういうニーチェの論争の教訓に従って、小林秀雄を、丸山真男を、三島由紀夫をこてんぱんに叩いた。私から見れば、彼らは何ら普遍的価値を持たず、いたずらに時流に乗って驕り高ぶっている人間のように思われたからである。この論争の相手はいずれも私に対して直接答えなかったが、後から色々な所で陰湿な嫌がらせを受けていたことを最近ある編集者から聞いた。

 いやあ、梅原さんって随分、反骨精神旺盛で、気骨がある人だったんですね。小林秀雄も丸山真男も三島由紀夫も、斯界では神さまのように崇め奉られている信奉者の多いオーソリティーではありませんか。それをドン・キホーテのように立ち向かい、「裸の王様」に声を掛ける少年のように振舞う梅原氏には、私も「非・権威主義者」なので拍手喝采したくなりました。同時に愉快になりました。

 相手が総理大臣だろうが、教祖だろうが、財界の大物だろうが、芸能界の大御所だろうが、そして立花隆であっても、「ナンボのもんじゃい」と思ってかかからないと取材なんかできませんからね。ただし、例外はジョン・レノンです。会えたとしたら卒倒してしまいます(笑)。

お世話になりました「『知の巨人』立花隆のすべて」

 昨日10月7日夜10時41分に、東京都足立区と埼玉県南部で震度5強の地震がありましたが、吾人は熟睡中で、揺りかごかメリーゴーランドに乗っている感じで、夢見心地でした。でも、幸いにも、本棚から本が落ちてくることもなく、被害はなし。ただし、本日は電車が間引き運転となり、朝は、駅のホームで何十分も待たされた上、猛烈な通勤・通学ラッシュで長時間の「押しくら饅頭」状態で閉口しました。

 電車内では、捕まり棒に捕まっていましたが、後ろから押されても、筋力が低下していて、腕がブルブルと震えてヘナヘナと倒れてしまいそうでした。我ながら、立派な「老力」がついたものです…。

 大変有難いことに、今朝は、心配してメールをしてくださる方がいらっしゃいました。この場を借りて御礼申し上げます。「この場」といっても、個人的なブログなのですから、「あに、言ってるんだか」ですけどね(笑)。

※※※※※

 さて、最近読んでいるのは文春ムック「『知の巨人』立花隆のすべて」(文藝春秋、2021年8月16日発行、1650円)です。今年4月に80歳で亡くなった「知の巨人」の追悼本ですが、電車内で読んでいるのが、何となく恥ずかしい気がして隠れて読んでいます。何と言っても「知の巨人」というキャッチコピーが、本人は恥ずかしくなかったのか、訝しく思っていたら、この本の中で、読書猿という人が「『知の巨人』という言葉には違和感がある。個人的には、ほとんど蔑称ではないかとさえ感じられる」と書いておりました。私も同感です。

 何と言いいますか、知識を商業化するようで、違和感というより、嫌悪感を味わいます。確かに、彼は「知の巨人」かもしれませんけど、本人や信奉者やその取り巻き連中が「ニッヒッヒ」と密かに味わっているだけで十分で、日本的繊細さに欠けますね。

 その追悼本ですが、橘隆志(本名)という大秀才が、如何にして立花隆という評論家になったのかといった「人となり」を分析した、その集大成のような本です。本人も対談の中で語っていますが、やはり、5歳の時の「戦争体験」がその後の人生に最も大きな影響を与えたようです。橘家は、どうも「放浪癖」がある人が多かったらしく、立花隆の父橘経雄は、早稲田大学の国文科を出た人で、長崎のミッション系の女学院の教師になったかと思ったら、「勝手に」北京の師範学校の副校長として大陸に渡ります。立花隆は1940年生まれですから、1945年の日本敗戦時は5歳。この大陸からの引き揚げでは混沌状態の中、相当苦労したようで、まかり間違えば、自分も残留孤児になっていたかもしれない、と振り返るほどです。

 父橘経雄の従兄弟が、血盟団事件、五・一五事件で理論的支柱となった右翼思想家の橘孝三郎というのは有名な話ですが、父親の長兄が「山谷のおじさん」と呼ばれた放浪者だったいう話は興味深い。一方、母親の龍子は、自由学園と雑誌「婦人之友」をつくった羽仁もと子(日本人女性初のジャーナリスト)が、戦時色が強くなった1938年に日本に居たたまれなくなって、北京に自由学園北京生活学校をつくって以来、彼女の「信者」となり、最後まで「友の会」の会員として活動したといいます。父親の経雄は戦後、日本に引き揚げてから、その後、「週刊読書人」の専務を務めるなどした人ですから、まあ、家庭内でも蔵書に恵まれたインテリ一家育ちということになります。

銀座・台湾料理「金魚」ルーロー飯と台菜麺 1120円

 この本では、色んなことが書かれていますが、102頁の「東大生たちに語った特別講義」が個人的には面白かったでした。知識の塊の「天下無敵」で、自信満々にしか見えない立花氏ですが、若い頃は何度も自殺しようと思った、と告白しているところに親近感を覚えました。しかも、その原因は「深刻な失恋」だと言うではありませんか。私自身にも「覚え」がありますから、雲の上の人に見えた巨人も、一気に身近に感じてしまいました(笑)。

 もう一つ、一冊の本を書くには100冊以上読まなければ、読むに値するロクなものは書けないという彼の信念には感服してしまいました。できれば、1000冊読むのが望ましい、という彼の格言には卒倒しましたが(笑)。私自身は、普通の人よりほんの少し本は読んでいると思っているのですが、それでも、1カ月に多くても10冊か15冊程度です。文芸担当記者をやっていた若い頃は、月に30~40冊読んでいましたが、2年未満で限界でした。1日1冊以上読むというのは、就寝と風呂に入っている時間以外、歩いていても、トイレの中でも、食事をしていても、全ての時間、読書に費やすことになりましたからね。もう、そんな体力も精神力もありません。もし、今から1000冊読むとなると、10年ぐらい掛かるでしょうね。

 いずれにせよ、立花隆先生にはお会いしたことはありませんでしたが、著作で大変、お世話になりました。途中で「臨死体験」や「脳死」に関する著作に傾いた時、ついていけなくなって離れた時期もありましたが、恐らく、彼の膨大な全著作の5割は読んでいると思います。

 印象に残っている著作は、アトランダムで「『知』のソフトウェア」「日本共産党研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」「精神と物質」「インターネットはグローバル・ブレイン」「東大生はバカになったか」「武満徹 音楽創造への旅」…などですが、やはり、たった1冊、ナンバーワンに挙げたいのは、「田中角栄研究」ではなく、「天皇と東大」ですねこの本で初めて日本の右翼思想の源流と支流と河口を一気に知ることができ、眩暈がするような知的興奮を味わうことができました。

偶然の一致に驚く毎日=非科学的不可知論的考察

 本日のタイトルは厳めしいのですが、単なるエッセイです(笑)。

 我々は現在、科学の世界で生きています。法曹界でも、マスコミ業界でも、何でもエビデンスなるものが求められます。今のようなコロナ禍では当然の話で、何度も何度も科学的治験を経て、やっとワクチンが開発されます。

 その一方で、私自身は、非科学的なものに惹かれることがあります。それは、私だけでないでしょう。特に、本日は秋分の日、お彼岸の中日です。この時期は、御先祖さまの魂と通じやすいということで我々はお墓参りするわけですが、科学的に証明されているわけではありません。

 やはり、堅くなってきたので、話を変えましょう(笑)。

中秋の名月イヴ(9月20日)

 私は、いまだに科学的に証明されていない霊魂や透視や背後霊なるものの存在を信じてしまいます。

 今から30年近い昔の1995年のことですが、「ヒーリング・ハイ オーラ体験と精神世界」(早川書房)を書かれた作家の山川健一氏にお会いしてインタビューしたことがあります。山川氏は、人の背後霊のようなオーラの色が見える、というのです。同じ人でも、体調によって色が変わるというのです。この時、最も印象に残ったのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーの話でした。山川氏が見たミックは、ステージの上では彼のオーラは紫色に燦然と輝いていたのに、ステージを降りて、群衆に紛れ込んだりすると、白っぽくなって輝きがなくなってしまったというのです。「つまり、街の中では、普通の人になって、自分の存在を消そうとしてるんじゃないでしょうか」と山川氏が話したことは今でも忘れません。

 確かに、非科学的話ではありますが、こういう話は嫌いじゃありませんね(笑)。透視や背後霊の話については、他にも沢山あるのですが、別の機会に譲ることにして(笑)、本日は自分のことを書きます。私には「予知能力」があるのではないかと思うことがあるのです。

 失礼! 予知能力は大袈裟でした。いつ地震が起きるのか、とか、いつ火山が爆発するのかといった予知能力は私には全くありません。ただ、何となく、といった感じの「予感」がよく当たったりするのです。それも、本人の自覚なしで。

 この《渓流斎日乗》ブログを長年、ご愛読されてくださる皆様なら御存知だと思いますが、私のブログにはちょくちょく、「シンクロニシティ」が登場します。シンクロニシティとは、自分の考えていたことが実際に起こったりして、その「偶然の一致」に驚くといった程度の話です。もしくは、以前、どこかで何となく見たことがあるといったデジャヴュ(既視感)の話です。英語で言えば、ユングの心理学用語であるシンクロニシティというより、コインシデンスcoincidence(偶然の一致)の方かもしれません。

東京・銀座

 私は毎日、このブログを中心に生活しておりますが(笑)、先日、夜中にふと目覚め、このブログの記事の中で一番アクセスとコメントが多い「駅前食堂」(2008年5月28日)のことを思い浮かべました。これは、小学校の教科書に載っていた随筆で、とても印象に残りながら、作者もタイトルも分からない、どなたか、御存知の方いらっしゃいますか?と投げかけたところ、10件以上もコメントを頂いたのです。今、読み返したところ、デジャヴ(既視感)からこの作品のことを思い出した、と書いています。

 一昨日の夜中に、ふと、「沢山コメントをもらった『駅前食堂』の記事があったなあ」と、軽く思ったところ、何と、昨日の9月22日に羽藤さんという方から、この記事に対してコメントをお寄せくださったのです。もうすっかり忘れ去られているはずなのに、「えっ!」ですよ。これでは、「予感が当たったぞ!」と、私自身の予知能力を皆様に自慢したくなったわけです(笑)。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)DVD 1980円

 実は、これだけではありません。9月19日付のブログに「価格破壊と技術革新でDVDが安く買えるように」という記事を書き、ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のDVDをCDよりも安い1980円で購入したことを書きました。

 そしたら吃驚です。

 昨日、有楽町の三省堂書店でNHKラジオの「まいにちフランス語」10月号のテキストを購入したところ、10月(正確には9月30日)から来年3月までの半年間、このドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の台本全体を48回に分けて読み通す講座が始まることが分かったのです(講師は、川竹英克・明大名誉教授)。

  魂消ましたねえ。まさに、またまた偶然の一致、コインシデンスです。

東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり(2)

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。

足の踏み場もないほど新聞社だらけ=明治の銀座「新聞街」めぐり(1)

 先日、東京・両国の江戸東京博物館に行った話を書きましたが、実は、私が最も熱心に食い入るようにして観察したのは、江戸から明治になって文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座が「新聞街」になっていたことを示すパネルでした。

 まさに、明治の銀座は、16世紀から印刷業、18世紀から新聞社が集積するようになった英国ロンドンのフリート街のようだったのです。御存知でしたか?

明治銀座の新聞街

 以前、この《渓流斎日乗》ブログでも、明治の銀座にあった新聞社の足跡を辿った記事を書いたことがありますが、江戸東京博のパネルを見て、「えっ?まだこんなに沢山あったの!?」と吃驚です。正直言いますと、ほとんど聞いたことも見たこともない新聞ばかりでした。

 そこで、私にとって、銀座は庭みたいなもんですから(笑)、昼休みを利用して、明治の新聞社を探訪することにしました。

①東京日日新聞社(1872年2月~現毎日新聞社) 現銀座5丁目・イグジットメルサ

 私の銀座の核心的散歩道は、みゆき通りなので、まずはその近辺を彷徨ってみました。

 上の写真の①東京日日新聞社跡は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。明治の東京日日新聞ですから、岸田吟香や福地桜痴らがここにあった社屋に通っていたことでしょう。現在のイグジットメルサ・ビルには、中国系に買収された家電販売の「ラオックス」が入居しているので、コロナ禍の前は、中国人観光客がたむろして、通りを歩けないほど混雑しておりました。今では隔世の感です。

㉝やまと新聞社(1886年10月~1900年10月)現銀座6丁目・NTTドコモショップなど

 そのイグジットメルサ・ビルの南の真向かいにある NTTドコモショップには、明治には㉝「やまと新聞社」があったとは、知りませんでした。この新聞は、「東京日日新聞」の創刊者の一人である条野採菊らが「警察新報」を改題して創刊した大衆新聞でしたから、社屋が東京日日新聞社の真向かいにあることは自然の成り行きだったのかもしれません。

⑥東京絵入新聞社(1876年3月~1889年2月)、㉖官令日報社(1882年10月~不明) 現銀座6丁目・銀座かねまつ

 このまま、銀座通りを新橋方面に歩いて、銀座6丁目交差点付近の今の銀座SEIビル辺りにあったのが、⑥ 「東京絵入新聞社」と㉖「 官令日報社」 でした。 「官令日報」は、どんな新聞だったのか、よく分かりませんが、 「東京絵入新聞」は、1875年4月に高畠藍泉と落合芳幾が創刊した小新聞で、初めは「平仮名絵入新聞」と称していたようです。小新聞とは、政論を主体にした知識層向けの大新聞とは異なり、庶民向けの娯楽新聞で、版型が小さかったので、そう呼ばれたということです。

㉑時事新報社(1882年3月~1936年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 銀座6丁目の交差点の交詢社通りを右折すると、すぐ交詢社ビルがあります。ここは、慶応義塾を創立した福沢諭吉がつくった財界人の社交クラブで、このビル内に、同じく福沢が創刊した㉑時事新報社がありました。

 時事新報は、このブログで何度も取り上げましたので、改めて御説明するまでもありませんね。慶応卒の記者が多かったようですが、明治25年にロイター通信社と独占契約を結んで経済記事を重視し、今の日本経済新聞の前身である中外商業新報(もともとは、益田孝が創刊した三井物産の社内報が原点)よりも信頼され、重要視され、企業決算を報告する義務があったので、企業はこぞって時事新報を選んだといいます。

 ついでながら、大相撲の国技館に飾られているどデカイ優勝力士のパネル写真は、もともと、時事新報社が考案したもので、同紙廃刊後は、毎日新聞社が継承しています。

⑯鈴木田新聞(1880年12月~81年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 この交詢社ビルは明治の頃、どれくらいの大きさだったのか分かりませんが、現在とさほど変わらないとしたら、交詢社ビル内には時事新報のほかに、⑯「鈴木田新聞社」があったようです。私は全く知りませんでしたが、これは、読売新聞の初代編集長も務めた鈴木田正雄(1845~1905年)が自ら創刊した新聞で1年しか続かなかったようです。この人、その後、「東北自由新聞」、「奥羽日日新聞」、⑥「東京絵入新聞」などを転々とし、いずれも長くは続かなかったようです。調べてみると面白そうな人物ですが、今ではすっかり忘れられてしまいました。

⑰東洋自由新聞社(1881年3月~4月) 現銀座6丁目・銀座SIX

 交詢社通りをまた広い銀座通りに戻ると、通りの向こうでは、今では大きな銀座SIXビルが聳え立っています。以前は、松坂屋百貨店で、店内に入ってもガラガラで寂れていましたが、2017年にこのビルに建て替えられ、世界的な高級ブランドが入居すると活気を取り戻した感じです。

 ここに明治時代は、あの⑰「東洋自由新聞社」があったんですね。全然知りませんでした。

 何と言っても、東洋自由新聞は、1881年にフランス帰りの西園寺公望が、中江兆民を主筆にそえて創刊した日刊紙で、フランス的な自由平等精神を鼓舞する画期的な新聞でしたが、わずか34号で休刊となりました。西園寺公望が、古代藤原氏から続く清華家筆頭の公卿であることから、西園寺が新聞を主宰することで社会的影響を恐れた岩倉具視らが、西園寺に経営から手を引かせたのです。そのため、激怒した社員が内実を暴露した檄文を配布したことで罪に問われ、廃刊に追い込まれたのです。

 明治の文明開化。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座は、まさに言論界の坩堝だったんですね。これからも、もう少し歩いてみます。(つづく)

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。

 

加害者意識もなくしてはいけない=立花隆著「最後に語り伝えたいこと」

 今年4月に亡くなった「知の巨人」立花隆の遺作「最後に語り伝えたいこと」(中央公論新社、2021年8月10日初版)を読みました。

 遺作というより、過去に雑誌等に発表した論文や講演録や対談の中で、書籍未収録だったものをを即席にまとめたものです。

 第一部の「戦争の記憶」では、2015年に長崎大学で行った講演「被爆者なき時代に向けて」などを収録。第二部「世界はどこへ行くのか」では、ソ連が崩壊した1991年に、21世紀の未来を見通そうと大江健三郎氏と行った対談を収録。ーと、ここまでは目次の丸写しです(笑)。

 立花隆氏の本名は、橘隆志。戦前の血盟団事件、5.15事件の黒幕で、「右翼の巨魁」とも呼ばれた農本主義者の橘孝三郎は、立花隆の父橘経雄(日本書籍出版協会理事など歴任)の従兄に当たる人です。ちなみに、立花隆の兄弘道は、元朝日新聞記者、実妹菊入直代氏は立花隆の秘書を務めていた人でした。

 立花隆は、父経雄が長崎市内のミッションスクールの教師として在職していた1940年に長崎で生まれたことから、広島・長崎原爆について、人一倍以上、関心があったようです。そして、1942年には、父が文部省職員として中国・北京の師範学校副校長となったため、一家で北京に滞在。日本の敗戦で、5歳で引き揚げ者となった経験についても、「日本人の侵略と引揚げ体験 赤い屍体と黒い屍体」に書いています。

 私は結構、立花隆氏の著作は読んでいましたが、自分自身を語ったエッセイなどはほとんど読んで来なかったので、実兄が朝日新聞の記者(後に監査役)だったことなどは知りませんでした。

 しかし、縁戚に橘孝三郎がいたことは知っていました。立花隆が「日本共産党の研究」を発表した時に、「親戚に右翼の巨頭がいるから、立花は共産党批判の本を出版したのだ」と一部の人が批判したりしましたが、実は、橘孝三郎は、「右翼の巨魁」だのと一括りにされるような浅薄な人間ではないことを、実際に何十回も面談して取材した昭和史研究家の保阪正康氏がこの本の「解説」に書いております。

 保阪氏によると、橘孝三郎という人は、人類史に何らかの貢献をさせることで選ばれた「歴史の神」の一人だというのです。保阪氏は昭和史関係で4000人以上の人にインタビューしましたが、その中でも、橘孝三郎は特別な存在で、それだけ、近代日本における知性と感性の優れた人物だったというのです。つまりは、右翼とか左翼といった、そんな浅薄な概念には収まり切れないとてつもない知性と教養と感性の持ち主だったというわけです。

 どうも、橘家という知的家系を見ると、古代の聖武天皇時代の学者肌だった「宰相」橘諸兄の血筋を引いているんじゃないかと思わせるほどです(笑)。

銀座「デル・ソーレ」本日のランチ・パスタ(ドリンク付)1100円

  立花氏は、自分の引き揚げ体験などを書いた「赤い屍体と黒い屍体」の中で、アフリカのコンゴが1960年に独立した際に、多くの白人女性が暴行されたり、輪姦されたりした悲惨な宗主国だった「ベルギー人の悲劇」を書きながら、凄いことを書いていたので吃驚しました。少し引用します。

 …コンゴにおけるベルギー人の苦難は、確かに悲劇に違いないし、むごたらしいものではあると思うけれども、心の片隅では、ザマアミロとい気持ちがあるのを隠すわけにはいかないのである。それは、事態がここまでに至るまでの、コンゴにおけるベルギー人の植民地支配の苛酷な現実を、私が知っているからだ。

 アフリカを支配した列強の中では、比較的温和な政策を取っていたといわれるベルギーではあるが、それが52年の統治の間、毎年、2億ドルもの収奪を続けていたのである。…原住民は二世代にわたって人間の扱いを受けずに、もし、コンゴ人の有能なレポーターがいれば、ベルギー人引き揚げ哀史を顔色なからしめるような分厚い悲劇の歴史を書くことができたはずである。…

 うーん、強烈ですね。

 広島・長崎の原爆、日本大空襲、シベリア抑留、生死を彷徨うほど苛烈な引き揚げ、残留孤児…等々、日本人は被害者ではあったとはいえ、先の大戦では、明らかに日本はアジアの民衆に対しては加害者であったことを決して忘れるべきではない、という立花隆のメッセージだと受けとめました。

◇文芸春秋の皆様へ

 立花隆の1000冊に及ぶ著書を全て読んだわけではありませんが、私が最も知的興奮を覚えて感銘したのは「天皇と東大」です。どうも増刷されていないようで、某ネット通販では、上巻1冊(中古)だけで6000円近い値段が付けられています。是非とも、増刷か復刊してもらいたいものです。宜しくお願い申し上げます。

100万円が貰える?=いえいえ、地道に働いた方が気分が良いです。

 昨晩、フェイスブックに、ZOZOTOWNのマエザワさんという方から「おめでとう! !! !!🎉💸あなたは今日の勝者に選ばれました!私の投稿をチェックしてください!」とのメッセージがいきなり来ました。

 物は試しで、チェックしてみたところ、「おめでとうございます、前澤から100万円もらえます!! このギフトは無料です!フォームに正しく記入し、記入が完了するまで登録してください」とありました。写真も本人でしたので、「おー、今度こそ本物だあ~」と喜び勇んで、登録しようとしたら、パソコンに入れているウイルスワクチンが「このサイトは安全に接続されません」との警告が出てきました。

 「なあんだ、やっぱり偽物かあ」。それにしても、噂では聞きますが、全く面識のない人からいきなり100万円貰えるわけないし、たとえ貰ったとしても気分良くないなあ、と冷静になることができました。本当によく出来たサイトでしたし、本物かもしれませんでした。でも、欲の皮が突っ張っていると、人間、ロクなことをしませんね。

 やはり、人間、真面目に働くのが肝心です。

 そうなんです。私は、今の会社には40年以上も勤続しております。真面目に働いてきたお蔭で先日、会社から「餞別金」が出ました。〇〇万円もです。これなら、堂々と受け取ることができる正当な報酬です(笑)。

銀座「ジョルジオ・アルマーニ」

 この餞別金は貯金などして死蔵せずに、経済活性化のために使おうと決心し、高級ブランド、ジョルジオ・アルマーニの財布を買うことにしました。勇気を奮って、銀座のアルマーニ専門店に入りました。ギョ、ギョ、ギョ、たかが財布なのに(笑)、〇万円もしました。まあ、コロナ禍で、これで世界経済に貢献できるのでしたら、「ま、い、か」といった感じで買ってしまいました。多少、嫌らしい成金趣味に見えないことはないのですが、「モード界の帝王」アルマーニ(1934~)のファッション哲学に惹かれたから、と言っておきましょう。

 「世界経済に貢献する」といった陰徳を積んだお蔭で、家に帰ったら、またまた月刊「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントが当選しておりました。これで二度目です。どうしちゃったんでしょうか? 当選品は、今、東京・両国の江戸東京博物館で開催している「大江戸の華」展のチケット2枚です。実売ですと、1600円×2=3200円です。

 人生、苦節40年で、やっと運が巡って来ましたよ(笑)。以前、私が書いていたこのブログの古い記事を読み返してみると、随分、暗くて、陰気で、絶望的なことばかり書いておりました。これからは、アルマーニの人生哲学でもある「陽気」で「前向き」に生きることは欠かせませんね。