裏切りで生き延びた人類の子孫

 昨日のブログ「もうウンザリじゃあ」の続きめいた話になりますが、人間は何で約束したことを反故にしたり、嘘をついたり、裏切ったり、寝返ったりするのか考えていたら、昨晩はよく眠れなくなってしまいました。

 そんな中で閃いたことは、そもそも、人類学的に言えば、人類は生き延びるためにいかなることでもしてきたわけで、それが手練手管であったり、面従腹背だったり、約束反故だったり、嘘つきだったり、裏切りだったり、寝返りだったりしたわけです。つまり、今生き延びている人間というものは、そういった生き延びた連中の子孫なので、裏切りやら約束反故はDNAに組み込まれているということなのです。

 嘘つきや約束反故なんて、平気の平ちゃらなわけですよ。何~とも思っていない。自分が嘘をついたことも約束を反故したことも全く自覚がないから、今日も涼しい顔をしています。

浮間舟渡

 その逆に、四角四面通り約束したことはキチンと守り抜き、劣勢不利と分かっていても裏切らず、主君に仕えていた家来なんぞは生き延びることが出来ず、滅亡していったわけです。今、その大抵の子孫も生き残っていないわけです。

 よく言えば、自己保身です。あれっ? これも、あまりいい意味では使われませんね(笑)。そんな自己保身のDNAが脳に組み込まれているからこそ、彼らは生き延びて、約束反故も裏切りも日常生活の一部になっているわけです。

王子「ニューヨークスタイルピザ」日替わりピザとサラダセット1000円

 そう考えて、やっと冷静さを取り戻すことが出来たとも言えず、怒りはまだ収まっていません。

 こういう時に限って、車に轢かれそうになるんですよね(苦笑)。先ほども、ランチの帰りに昭和通りの横断歩道を青信号になったので、渡ったら、赤信号を無視した「コカ・コーラ」の赤いトラックが突っ込んできて、あやうく轢かれそうになりました。

 実は同じ場所で昨日も青信号になった横断歩道を渡ろうとしたら轢かれそうになったのです。昨日は世田谷ナンバーのBMWでしたけどね。

 道路交通法違反の犯罪者と車の写真を撮って、このブログに掲載しようかと思いましたが、大人げないのでやめましたよ。

 でも、二日も続けて同じことが同じ場所で起きるなんて、何かあるんですかねえ? 呪われいるんですか?

 神さま、仏さま、どうか教えてください。

もうウンザリじゃあ

 会社の同僚の太田君が、11月1日付で急に地方支局に異例の転勤をすることになりました。彼の送別会どうしようか? 誰も言い出さないので、私が老骨に鞭を打って個別に聴いてみたら、呆れるほど多くの奴らが我が儘で嫌になってしまいました。

 まず、阪本君、「皆忙しいから、夜はやめてランチにしたら?」というのです。続いて、谷川君、「僕は鈴木君が出るなら出ませんよ」。さらに岩下君は「僕は最初から出ません。コロナは収束したかもしれませんが、インフルエンザが流行っているし…」と出たくない理由を5個ぐらい並べます。本心は太田君とはウマが合わないので最初から送別会に出たくないことがミエミエです。

 うーん、困った、困った。出来るだけ、多くの人が参加する送別会にしたいので、最大公約数狙いしかありません。となると、鈴木君を除く人に声を掛けて、夜ではなくランチにするしかありません。

浮間舟渡公園

 それで、やっと、主賓の太田君と小生以外では、谷川君と森本君と加納君が参加してくれることになりました。「ランチにしたら」と言った阪本君は、急に「谷川君から出るのなら、僕は出ない」と言い出したのです。何か、怪しい。阪本君は主賓の太田君とはかなり親しそうだったので、万難を排してでも参加すると思ったからです。結局、全部で5人になりました。

 私は、いつのまにか幹事になってしまったので、本日、会食会場となる築地のレストランに下見に行って来ました。昼間からビールも飲めますし、送別会にはピッタリでした。

 よし! パソコンで、簡単に送別会の日時、場所などを書いた「招待状」をつくって、参加者に配りました。そしたら、何と、谷川君がドタキャンするというのです。理由は、奥さんがコロナワクチンを打つことになり、飼っている犬の面倒をみなくてはならないので、その日は有給を取ることにしたというのです。それでは、日程を変更するよ、と提案すると、それでも「出ない」というのです。なあんだ、最初から出る気がなかったのかあ。おい、裏切者! 話が違うじゃないか! 君が言うから、鈴木君には声を掛けなかったし。酷い人間だなあ、彼に対する不信感が募りました…。

 そこで、「谷川君が出るなら出ない」と言っていた阪本君に「谷川君が不参加になったから、参加しませんか?」と声を掛けたら、「やっぱり出ない」との返事だったのです。えっ? おい、阪本君、君が、夜ではなくランチにしろと提案したんじゃなかったっけ? それなのに、万難を排してでも太田君の送別会に参加しないとはドウユコト? 仲が良さそうに見えたけどウワベだけだったのか? 本性は冷酷人間だったんですね。

 一番可哀想なのは主賓の太田君です。「もういいですよ。やめましょうか?」とまで言うのです。親睦会なので強制するわけにいきませんし、第一、そんな意志がない人に無理に参加してもらっても困ります。もしかして、誰も送別会のことを言い出さなかったのは、最初から参加する意志がなかったということだったのか?…

浮間舟渡公園

 今の若いサラリーマンは、先輩からの誘いでも飲み会は拒否するという話をよく聞きますけど、そういう時代なのでしょうか。でも、若くはない爺さんになっても、チームワークが乱れようが関係ない。「我が道を行く」という風潮になったということなのでしょう。これは、コロナ前、3年前だったら、とても考えられないことでしたけどね。送別会なら15人ぐらい集まりました。

 まあ、世知辛い世の中になったということなんでしょう。「健康のために酒を断っている」とか、そういう人が多くなりました。短い命ですから、せいぜい頑張って、どうかお幸せになってくださいな。

 

使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 9月30日(土)、尾崎=ゾルゲ研究会(加藤哲郎代表、鈴木規夫事務局長)の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって——21世紀尾崎=ゾルゲ研究の光景——」に参加して来ました。

 今年5月に出版された「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みずず書房、翻訳者は加藤哲郎、鈴木規夫両氏)の著者でロンドン在住のオーウェン・マシューズ氏をZOOM会議のリモートでお招きして、5人の代表する日本人の研究者からの質問を交えて討論が展開される画期的なセミナーでしたが、回線の不具合でハウリングしたりして、前半はほとんど聞き取ることが出来ず、内容が理解できなかったのが残念でした。

尾崎=ゾルゲ研究会第3回研究会 モニター画面は、「ゾルゲ伝」著者オーウェン・マシューズ氏、右端は同研究会の加藤哲郎代表、その隣は鈴木規夫事務局長

 しかも、セミナーには大抵、簡単なレジュメなどが配布されるものですが、この研究会ではそれがなく、また発言者の早口のスピーチだけではメモがとても追い付けなかったため、梗概についての引用は、不正確になるかもしれないものはやめておきました。

 その前に、研究会が行われた会場には驚きました。東京国際教育会館という所でしたが、最初の案内では、地下鉄茗荷谷駅に近い拓殖大学文京キャンパスと書かれていたので、そこに行ったら、守衛さんが「ここではなく、ここを出て左を直進した所にあります」というのです。途中で分からなくなり、歩いていた小学生の女の子3人がいたので、「3人だったら、変なおじさんに間違われなくて済むかぁ」ということで道を聞いたら、彼女たちも分からず、何となく右方向に直進したところ、目の前にありました(笑)。

 どう見ても、大正か昭和初期に建てられた立派な歴史的建造物です。この東京国際教育会館とは、この会場を提供して頂いた拓殖大学教授で、「ゾルゲ・ファイル(1941-1945)」(みすず書房)の翻訳者でもある名越健郎氏の話などによると、もともと東方文化学院東京研究所(東大東洋文化研究所)で、何と清朝末期の1900年に起こった義和団事件の賠償金で、1933年に建てられたものだというのです(後で、東大安田講堂などを設計した内田祥三の設計だと分かりました)。(他にも賠償金で京大人文科学研究所も銀閣寺近くに建設されたといいます)。義和団事件のことに触れると長くなるので、もし御存知なければ、独自で調べてください(笑)。東方文化学院は戦前、中国からの留学生も受け入れていたようです。

拓殖大学文京キャンパス 国際教育会館

 戦後、外務省と東大の共同管理となり、外務省の研修所としても使われていましたが、その後、近くにキャンパスがある拓殖大学が今から20年ほど前に購入したそうです(金額を聞きましたけど秘密にしておきます)。

 先の義和団事件で賠償金を得たのは日本だけでなく、例えば、米国もそうで、米国は、自国に賠償金を使うのではなく、そのお金で中国に精華大学を創立したというのです。精華大学と言えば、中国国家主席の習近平氏の出身校です。先日、英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが「世界の大学ランキング 2024」を発表しました。この精華大学は名門北京大学の14位を抑えて、世界12位(アジア首位)にランクされました。ちなみに、日本の東大は29位でした。習近平さんは米国がつくった大学を出たわけですから、もう少し、米国と仲良くしても良さそうです。

 あれっ? 尾崎=ゾルゲ研究会の話は何処に行ってしまったのでしょうか?ーブログ記者の力量が問われますが、今回は諸般の事情で詳細に書けませんので、堪忍してください。それより、オーウェン・マシューズ氏が「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」An Impeccable Spy: Richard Sorge, Stalin’s Master Agent を2019年に本国英国で出版したお蔭で、英国で多くの人にスパイ・ゾルゲの存在が知れ渡ったことを今回初めて知りました。ゾルゲはドイツ人の父親とロシア人の母親との間に生まれ、ソ連のスパイとして中国・上海と日本・東京で活動した人でした。ということは、情報公開が進まない中国は別格にして、当然、日本語とドイツ語とロシア語、または米ウィロビー報告などの文献が多いので、英国では研究者か、通好みの人以外はゾルゲは知られていなかったのでしょう。

 「ゾルゲ伝」の著者のマシューズ氏は、訳者解説などによると、1971年、英国人の父とロシア人の母との間にロンドンで生まれ、ロシア語にも堪能。名門オクスフォード大学卒業後、ジャーナリストになった人です。祖父や大叔父がスターリンの粛清期を体験したことから、殊更、ロシア近代史関係には興味があり、ニューズウィーク誌のモスクワ特派員を務めたこともあります。ゾルゲ研究の取材で何度も来日したことがあるようです。

 マシューズ氏は、この本を書くきっかけなどについて、「とにかくゾルゲは面白く興味深い人物だ。ドイツ人だが、(母親が)ロシア人でもあり、日本のことを大好きで、世界中の色んな人やモノとつながっている。彼は、大日本帝国など古い世界が崩壊する寸前の世界に生きていたが、1932年に来日した時は、将来日本と米国が戦争することなど予想もつかなかったのではないか。1930年代初めのソ連のインテリジェンスの状況は最も悲惨で、世界中に発信能力があった優秀なゾルゲを使い捨てにしたのではないか」などと話していました。(私の意訳も入ってます!)

身体を動かせば人生が好転する!?=アンデシュ・ハンセン著「運動脳」

 アンデシュ・ハンセン著、御舩由美子訳「運動脳」(サンマーク出版)を読了しました。渓流斎ブログは、まるで読書感想文みたいですが、堪忍してください。出典を明らかにしたいだけなのです。読書感想文と言っても、何百ページの中から、抽出できるエキスはほんのわずかです。全て、私が「これだ!」と思ったことを作為的に選んで、その感想を述べております。ですから、読書感想文とはいっても、百人いれば百通りの感想文が出来なければおかしい、と思っております。この本についても、私自身が「これだ!」と思った、書きたいことを書いていきます。

 はい。この本は実に興味深い、大変ためになることばかり書かれていました。著者は書くのに2年もかかった、と前書きに書いていますが、あらゆる文献を逍遥した著者の苦労も表れています。著者はスウェーデン人の精神科医ですが、ジョギング好きで知られる日本人ベストセラー作家村上春樹さんまで取り上げて、ランニングによる効能を説いておりました。

浮間舟渡公園

 この本を簡潔に要約すると、運動さえすれば、集中力が増し、気持ちが晴れやかになり、不安やストレスが減り、記憶力が向上し、創造性が増し、知能が高まるーといった良いことずくめばかりです。科学的試験から実証されたことばかりなので説得力があります。

 私は最近、人類学、進化論、宇宙論、相対性理論、量子論など理系の学問に一段と興味を持ってしまったので、その辺りからアプローチした記述には特に注目しました。例えばー。

 ・人間の脳の大きさは25歳ごろがピークで、その後、年齢とともに徐々に小さくなっていく。脳細胞は(特に運動によって)一生涯作られ続けていくものの、1日に約10万個の細胞が失われている。脳には1000億個の細胞があるが、時間とともに失われる数は厖大で、脳そのものは毎年0.5~1.0%ずつ縮んでいく。

 ・この地球上に脳細胞が初めて出現したのは約6億年前で、その脳細胞の最も大切な仕事は、その生物を移動させることだった。

 ・つまり、脳は「移動」するためにあり、最も動く祖先が生き残った。

 ・微小な線虫には約300個の脳細胞があり、800ほどの細胞同士のつながりがある。これに対して、人間の脳細胞は1000億個もあり、細胞同士のつながりの数は100兆にも及ぶ。

 ・ヒトの遺伝子の数は約2万3000個。細胞同士のつながりの数は100兆。たった2万3000個の遺伝子だけでは、100兆ものつながりは支配できない。我々は遺伝子によって形作られるか、それとも育った環境によるのか、といった論争が続いてきたが、そのどちらかではなく、遺伝子と環境の要因が密接に絡み合って、影響を及ぼすことが分かってきた。

浮間舟渡

 ⇒ということは、ヒトは、遺伝によって性格や体形まで決まってしまいますが、本人の努力(環境を改善していく)次第で、改良できる、ということになりますね。

 つまり、著者が力説するように、遺伝だからといって諦めないで、環境を改善して、運動さえすれば、集中力が増し、気持ちが晴れやかになり、不安やストレスが減り、記憶力が向上し、創造性が増し、知能が高まる、という結論になるわけです。

東京最古の居酒屋と言われる「神田みますや」に侵入しました

 本日は珍しく二日酔いです。

 東京で最古の居酒屋と言われる「神田みますや」に、死ぬ前にどうしても行きたくて、旧い友人と1カ月も前に一緒に行ってもらうことを約束して、昨晩やっと実現したのでした。

 神田みますや。明治38年(1905年)創業です。明治38年と言えば、「三八式歩兵銃」ですから、日露戦争が終結した年です。当時の神田司町は、どんな街だったのかよく知りませんけど、江戸中期以降、武家屋敷ではなく町家だったので、明治以降も商人と職人の街だったことでしょう。100年前の関東大震災では「みますや」の建物は焼失しましたが、昭和3年(1928年)に再建され、先の大戦での戦災は、「バケツリレー」で逃れることが出来たようです。だから今ある建物は風格があるんですね。

神田みますや

 昨晩は予約なしで行ったら、「満員」で断られてしまい、仕方ないので、その場で予約したら、「お二人さんが揃ってからご案内します」と言われてしまいました。旧友は30分ほど遅れるという話だったで、あっちゃまあ、としょげていたら、何てことはない、すぐ「隠れ座敷」の端っこに入れてくれました。

 まずはタコ酢、里芋、焼き鳥、魚フライ、コハダ、牛煮込みなど色々と肴を注文して一人でビールを飲みながら、人間観察していました。殆どのお客さんは予約客でしたが、中には勝手に座敷に座り込む輩もいて、店の人に「そこは予約席ですから」と注意されたりしてました。こちらは、座れただけでもラッキーだと身に染みました。

 やがて、旧友がやって来て、こっちが苦労して席を確保したというのに、「へーそー。俺は昔来た時、予約なしで簡単に入れたけどなあ」と馬耳東風でした。でも、彼は「日本酒博士」ですから、「貴」(山口)、「南部美人」(岩手)、「出羽桜」(山形)など、今まで知らなかった美味しい地酒を色々と注文してくれて、話も弾み、お蔭で、翌日の二日酔いと相成ったわけでした。

 ヒトは何故、酒を呑むのかー? 今読んでいる「運動脳」(サンマーク出版)の中で、著者のアンデシュ・ハンセン氏は「アルコールには、ストレス反応を即座に抑えつける強力な作用がある。実のところ、ストレスや不安を緩和するという点で、アルコールに匹敵する物質はないと言っていい。」とまで断言していたので、大いに納得してしまい、痛飲してしまいました(笑)。ただし、ハンセン氏は、アルコールには依存性があるので過度の飲酒には注意することは書き添えておりましたが。それに、痛飲には翌日にきつい二日酔いが待っていますからね。

神田

 いずれにせよ、死ぬまでに行きたかった東京・最古の居酒屋「神田みますや」で呑むことが出来、本望で御座いました。また次、行く機会があれば、今度はちゃんと予約して行くつもりです。

 みますやは、地下鉄の小川町駅か淡路町駅が一番近いのですが、私はJR神田駅から迷いつつ歩いて行きました。淡路町と言えば、昔、この辺りに「YMCA会館」があり、もう半世紀近い大昔ですが、今の会社の入社試験がここで行われたことを覚えております。今はもうこのYMCA会館は取り壊されてなくなってしまいましたが、この辺りの土地や風土に何か縁を感じていました。私がみますやに行きたかったのも、みますやが私を呼んでくれたような気がします。

 そんな個人的な理由なのに、わざわざ付き合ってくれた旧友には感謝です。彼は、IT通でもあるので、iPhoneのiCloudや容量ストレージなどについて、色々と教えてもらいました。そろそろ、5年ぶりにiPhoneを新機種に換えようと思っているので、参考になりました。

 

ストレスや不安障害を緩和したければ、運動しなさい=アンデシュ・ハンセン著「運動脳」

  自分でブログを書いておきながら、他人様のブログは読みません。が、たまあに、検索していたら、他人様のブログに当たることがあります。大変よく書けているのですが、驚きべきことに、写真ですが、本物のルノワールの絵画や歴史的著名人の肖像をそのまま張り付けられていたりします。もしくは、フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第9番の貴重なフィルム動画を堂々と掲載してたりします。こうなると、書いているブログの内容も如何にも「本物」らしく見えますが、参考文献すら書かれていません。そういうブログに限って、書いている御本人は無名の市井の民だったりしますから、恐らく、ネット上にあった写真を無断で拝借されたんでしょう。著作権は大丈夫なのかなあ、と心配になります。

 私は経験上、ピカソやマチスともなると、新聞掲載に際して、会社が高額な著作権料を支払ったことがありますので、たとえ個人的ブログとはいえ、ネットから無断拝借することなんて怖くて出来ません。後で莫大な著作権料を請求されかねませんからね。

イタリアン食堂「築地のら」

 だから、私のブログの写真は、他愛のないランチの写真が多いのですが、変な景色とか風景も多いのです。なるべく、人間の写真は、載せません。後で、「肖像権」を主張されたりしたら困るので、御案内通り、ハッキリ写った人間写真は、掲載しないことにしております。

 だから、このブログは本物らしく見えないのかあ!

 本日は前書きが長くなりましたが、相変わらず、乱読しております。図書館に予約していた本が1年ぐらいしてやっと届いたからです。アンデシュ・ハンセン著、御舩由美子訳「運動脳」(サンマーク出版)です。実は、私はベストセラー本に関して、買わずに図書館で借りる主義なのです。余程面白かったら、後で購入します。ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(河出書房新社)なんかその例です。あまりにも面白かったので、ハラリ著「ホモ・デウス」、「21世紀の人類のための21の思考」まで次々と購入してしまいました。

 おっと、「運動脳」の話でした。世界的ベストセラーになるはずです。寝食を忘れて読みたくなるほど実に面白い本です。図書館から借りて、1日(数時間)でもう半分以上読んでしまいました。

 この本に書かれている精神科医の著者が主張することは、たった一言で言い表すことができます。

 ストレスや不安障害を緩和したければ、運動しなさい。

 運動とは、筋力トレーニングでも散歩でも何でも良いのですが、一番効果的な運動は、ウォーキングよりもランニングや水泳などちょっと負荷の掛かる有酸素運動です。その理由については、この本を読めば分かります。はい、お仕舞い。

 えっ?少しぐらい教えてほしいですか? 駄目ですねえ、ズルしちゃあ(笑)。でも、ちょっとだけ、引用しませう。

銀座

 古代、人類がサバンナに進出し以来、人類は絶えずライオンなどの捕食者から襲われないか、警戒しなければ生き延びることができなくなりました。その遺伝子が現代人にも受け継がれてストレスや不安を敏感に感じやすい体質になっているというのです。そんなストレスによる過剰反応を抑制する働きをするのが脳の海馬や前頭葉や扁桃体といった部位なのですが、それらの部位は強度のストレスによって萎縮してしまうことがあります。でも、前頭葉や扁桃体は運動によって鍛えることが出来、運動すればするほど、ストレスに強くなれる、というのです。

 著者はこの点について、身体を動かすことによって、心拍数や血圧が上がっても、それは不安やパニックの前触れではなく、良い気分をもたらしてくれるものだと運動が脳に教え込むことだ、と説明しています。

 このほか、長時間座りぱなしだと集中力が損なわれるだけでなく、不安やうつになりやすくなる。さらに認知機能も損なわれて頭の回転が遅くなる、と著者は主張しております。いずれも、「人体実験」や科学的根拠も含めて説明されていますから、日ごろからストレスや不安障害に悩まされている私なんか感服してしまうのです。そっかあ、運動すれば良いのかあ!と。

 御舩氏の翻訳も大変読みやすいです。

青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」を読んで興奮しています

 個人的なお話ながら、私の大学の卒論のテーマが「印象派」だったため、どうしても19世紀から20世紀にかけてのフランス文化からの桎梏から抜けきれません。

 卒論は「二人のクロード」というタイトルで、美術界の印象派を代表するクロード・モネと音楽界を代表するクロード・ドビュッシーの二人にスポットライトを当てて、何故、印象派なるものが当時席捲したのか、その時代的背景や思想等も含めて分析したつもりなのですが、今から読み返せば、まるで小学生以下の作文です。

 今、青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」(岩波新書、2023年7月20日初版)を読んでいますが、この本を読むと、改めてその思いを強くしました。著者は、ドビュッシー演奏では第一人者の世界的なピアニストですが、講談社エッセイ賞を受賞するなど文にも秀でたいわゆる両刀使いの才人です。実に本当によく文献を調べ尽くしておられます。

 時代は、ナポレオン三世の第二帝政から普仏戦争での敗北~パリ・コミューンを経て、第三共和政に移行した激動期です。この時代なら、フランス語を少しは齧ったことがある人なら誰でも、画家のモネと音楽家のドビュッシー以外なら、ヴェルレーヌやランボー、ボードレール、マラルメといった詩人を挙げることでしょう。もしくは、フロベールやゾラといった小説家か。そんな時代でもいわゆるブルジョワ階級の貴族が健在で、特に暇を持て余した?公爵夫人、伯爵夫人たちが自宅を開放して、芸術家(の卵も)を招いて夜な夜な怪しげなパーティーを開き、そんなサロンから巣立って世界的にも有名になった詩人、音楽家、画家、小説家は数多に及ぶといった史実は、さすがに私でも知っておりましたが、誰が具体的にどんなサロンに参加して、参加した人たち同士はどんなつながりがあったのか?ーつまり複雑な人物相関図までは知りませんでした、と告白しておきます。

 著者は、数多いるサロンの主宰者の中で、まずニナ・ド・ヴィヤール夫人(1843~84年)を取り上げております。勿論、恥ずかしながら、私自身すっかり忘れておりましたが、この方、「フィガロ」紙の記者エクトール・ド・カイヤス伯爵と結婚し、夫の金利と父親の資産で何不自由のない生活を送っていましたが、ほどなく別居してサロンを開きました。彼女を慕って集まったのが、反体制ジャーナリストや詩人、画家、音楽家らの芸術家です。彼女自身も詩人で、バッハ、ベートーヴェンらを得意とするピアニストでもありました。

 彼女の男性遍歴は「公然の秘密」で、ステファヌ・マラルメが夢中になり、ヴィリエ・ド・リラダンは生涯の友、アナトール・フランスは愛人でした。この3人は、特に有名ですが、他に親しい関係があった人物に医師で画家で科学者のシャルル・クロ、シャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリー、画家のフラン・ラミ、ジャーナリストで作家のエドモン・バジールらがいます。この他、サロンに参加した人の名前が多く出て来ますが、私が知っているのは、詩人のポール・ヴェルレーヌとヴェルレーヌとランボーの共通の友人だった知る人ぞ知る詩人のジェルマン・ヌーヴォーと、小説家のギイ・ド・モーパッサンぐらいでした。また、エドワール・マネが彼女をモデルに「団扇と婦人」という絵を描いています。(ヴィヤール夫人は1884年、41歳の若さで精神科病院で死去します。)

 さて、この中で、長年、名前は知っていても「人物相関図」がなかなか分からなった人物がこの本を手掛かりにやっと分かりました。鍵を握っていたのが、サロンに頻繁に通って、ヴィヤール夫人とも昵懇だったシャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーでした。このシヴリーとサロンで知り合ったのか、その前からの友人だったのか分かりませんが、有名な詩人ポール・ヴェルレーヌがいます。ヴェルレーヌは、このシヴリーの妹マチルドと結婚します。そして、新婚早々の二人の家庭生活をめちゃくちゃにして破壊したのが、シャルルヴィルの田舎からパリに出て来たばかりの17歳の少年アルチュール・ランボーだというのは、皆さん、御案内の通りです。

Asoukayama

 ここまではよく知られていることですが、何とドビュッシーが登場します。9歳のドビュッシーにピアノを教えてパリ音楽院に合格するほどまで手ほどきをしたのがモーテ夫人で、彼女は一説にはショパンの門下生と言われていますが、シャルル・ド・シヴリーの母親だったのです。経緯はこうなります。

 普仏戦争の末期、ドビュッシーの父親は志願して国民軍に入隊しますが、国民軍は敗北して、サトリ―の監獄に収監されます。同時にシャルル・ド・シヴリーもパリ・コミューンに巻き込まれて同じサトリー監獄に送り込まれます。ここで二人は知り合い、ドビュッシーの父親は音感の良い自分の息子の音楽の教育について、シヴリーに相談します。それなら自分の母親はピアノ教師だから、どうか、と提案したようです。こうして、9歳のドビュッシーが、モーテ夫人の下を訪れたのは1871年秋のことでした。詩人ランボーがパリに上京し、ヴェルレーヌ宅、つまりは、モーテ夫人宅に居候したのが1871年9月中旬で、乱暴狼藉を働いたかどで追い出されたのが1カ月後の10月中旬か下旬だったといいます。となると、ドビュッシーがランボーに会ったか見た可能性は微妙ですが、ゼロではない気がします。ランボーは1891年に37歳の若さで亡くなり、ドビュッシーは20世紀初頭に活躍した印象があったので、2人が同時代人で、パリ市内の何処かですれ違っていたかもしれない、と思うとちょっと興奮しますね。

Asoukayama

 もう一人だけ、取り上げたいのは、サロン主宰者のヴィヤール夫人の愛人だったシャルル・クロです。この忘れられた天才、もしくは歴史から抹殺された天才の偉業は、この本では「第2章 シャルル・クロ」と章立てされて詳細されています。サロンには医者であるアンリとともに、パリ大学の医学部学生時代から参加し、詩人であり、画家であり、科学者でもあった人です。ヴェルレーヌとは親友で、ランボーが上京した際、最初に面倒を見たのがシャルル・クロだったというのに、ヴェルレーヌは「呪われた詩人」のラインアップの中にクロの名前を無視して入れませんでした。いわゆるヴェルレーヌ=ランボー事件でのわだかまりが、ヴェルレーヌにはあったようでした。

 他に、科学者としてのクロの不幸はまだあります。1867年末、フランスの科学アカデミーに「色彩、形体、運動の記録と再生の修法」という論文を送り、カラー写真に関する「三色写真法」に発展しましたが、わずが2日の差で他人に先を越されてしまいます。

 また、1877年4月、現在のレコードとほぼ変わらないディスク式の「パレオフォン」と名付けた蓄音機の原理の論文を科学アカデミーに送付し、この時点で米国のエジソンに半年先んじていましたが、特許を取るのはエジソンの「フォノグラム」の方が先でした。

 実についていない人、と言わざるを得ませんね。

「状態の共存」と「量子のもつれ」を利用した量子コンピューター=Newton別冊「知識ゼロから理解できる 量子論の世界」

  ついに、と言いますか、やっとNewton別冊「知識ゼロから理解できる 量子論の世界」(ニュートンプレス)を読了しました。熟読玩味といった感じで味わいました(笑)。

 以前にもこのブログに書きましたが、私にとって、量子論というものは全く「未知の世界」でした。学生時代にほとんど習ったことがなく、現代の理論物理学では、この量子論が相対性理論と並ぶ最も重要な学問分野にまで「発展」していることも全く知りませんでした。

 量子論の発達のお蔭で、メンデレーエフが発見した化学の周期表の原理と意味が見事に解明されて「量子化学」(パウリの排他律など)となり、生命科学を証明する「量子生物学」(渡り鳥の地磁気探知や光合成)に発展し、量子論の主要セオリーである「量子力学」が量子コンピューターを生み出したと言えます。この量子コンピューターについては、この記事の最後にまた書きます。

 前回ブログに書いたことですが、量子とは、粒子と波の性質を併せ持ったミクロな物質のことで、物質をつくっている原子や、その原子を形作っている電子と原子核(陽子と中性子で構成)が代表的なものです。光を粒子として見たときの光子やニュートリノやクォーク、ヒッグス粒子などの素粒子も量子に含まれます。

 原子の大きさは1000万分の1ミリ、原子核の大きさは1億分の1ミリだと言われ、手に取って見られるわけではないことから、量子論とは理論的に導き出された超ミクロの世界の法則と言えます。

 そのため、マクロの世界に生きている我々には想像も出来ないことが起きます。それは、前回のブログでも書きましたが、量子論を理解するカギとなる「波と粒子の二面性」と並ぶもう一つの重要項目である「状態の共存」です。状態の共存に関して、私は専門家ではないので、うまく解釈できなかったのですが、「一つの物体が同じ時刻に複数の場所に存在できる」という理論です。仮想的な箱の中に、ミクロの電子が観測後に左側にあることが結果的に分かったとしても、「もともと電子が左側にあった」わけではなく、「左右両方に共存する状態」が観測によって「左側に存在する状態」に変化したと捉えるのです。この理論から「シュレーディンガーのネコ」という思考実験が派生し、「量子のもつれ」という現象も実証されるようになりました。

 この「量子のもつれ」は、アインシュタインが晩年に量子論の不完全さを指摘し、不気味な遠隔作用とみなしていた不可思議な連動現象が1980年代に実験で証明されたことから脚光を浴びるようになりました。それは、瞬時に影響が遠方に伝わっているのではなく、二つの電子の状態がセットで決まっており、つまり、量子がもつれて個別に決められていないことが分かったというのです。ま、この文章で即理解することは難しいのですが、私はそのまま受け入れることに致しました。

 さらに、この「量子のもつれ」の解明によって、量子コンピューターや量子情報理論の発展につながります。光を用いた量子のもつれ実験で量子力学の実験を行い、「量子情報科学」という分野を切り開いた仏、米、墺の3人の研究者に2022年度のノーベル物理学賞が授与されましたから、まさに「最先端の科学」として認知されたわけです。

 この本の後半では「量子コンピューター」についてページが大半費やされています。2019年、米グーグル社の量子コンピューターが、既存のスパコンが解くのに1万年かかった問題を200秒で解き、「量子コンピューターがスパコンを超えた」と大きな話題になりました。でも、よく読んでいくと、この問題というのは「ランダム量子回路サンプリング」と呼ばれるもので、我々の生活に有用で実用的な問題ではなく、スパコンもその後、この問題の研究が進んで5分で解くことが可能になったといいます。つまるところ、量子コンピューターはまだ一般的に実用段階ではないものの、今後10年で既存コンピューターが実行できないタスクを実行できるようになる、と専門家は予想しています。

 そもそも、既存のコンピューターと量子コンピューターとでは基本のOSが全く違います。既存コンピューターは「0」と「1」の世界ですが、量子コンピューターのデータの最小単位は「量子ビット」と呼ばれ、量子の持つ「状態の共存」の性質と「量子のもつれ」から「0でも1でもある」不思議な状態だというのです。これにより、量子コンピューターは既存コンピューターより桁違いの情報量を処理することが出来るというのです。スパコンでも10億年以上かかると見積もられている617桁の素因数分解も、量子コンピューターなら、まだ時間がかかりますが、10年以内には瞬く間にやってのけると予想されています。この617桁の素因数は目下、「暗号方式」に採用されていますから、量子コンピューター時代になると、困ったことにまたイタチごっごが始まるということなのでしょうね。

 いやはや、量子論のお蔭で、またまた大変な時代がやって来ることをこの本で知りました。

好きな上野で「京都・南山城の仏像」展

 本日は木曜日でしたが、会社を休んで上野に行って来ました。上野は東京で2番目に好きな所です。1番目は? それは勿論、神田神保町です。古書店の街ですが、三省堂、東京堂など新刊書店も多くあり、何よりも安くて美味しい隠れたグルメの街でもあります。

 3番目に好きな東京は、神宮外苑の銀杏並木道ですが、どうやら、この「外苑の森」が伐採されるという話が進んでいるようですね。亡くなった坂本龍一教授も、再開発に大反対で、小池都知事に中止するよう手紙まで送付したらしいというのに。大都会東京のど真ん中で、あそこほど心休まる所は他にありません。銀杏並木だけは残す計画もあるようですが、もしこのまま強行されれば、小池百合子さんは「神宮外苑の森の伐採を認可した都知事」として歴史に名を残すことでしょう。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 さて、上野に行ったのは、目下、東京国立博物館で開催中の「京都・南山城の仏像」展を拝観するためでした。自他ともに「仏像好き」を自称する私ですが、さすがに南山城(なんざんじょう、ではなく、みなみやましろ)の寺院にまで足を延ばしたことはありませんでしたからね。南山城とは京都府の南端で奈良県に近い地域で、住所で言えば、木津川市とか宇治田原町などがあります。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 会場は、本館の「特別5室」が当てがわれ、いずれも京都・浄瑠璃寺(木津川市)蔵の「阿弥陀如来坐像」「多聞天立像」「広目天立像」の3点の国宝を含む18体の仏像(うち12体もが重要文化財)が展示されていました。

 しかし、「えっ?これだけ??」というのが正直な感想でした。「国宝3体、重文12体もあれば十分でしょ!」と主催者の日経新聞社には言われてしまいそうですが、もし、これが仏像ではなく、そして、有難みもなく、ただの彫刻として眺めただけでしたら、長くても5分で「見学」を終えてしまいます(笑)。こ、こ、これで、入場料は1500円もするんですからねえ。高いでしょう? 奥さま~、そう思いませんこと? 

 あっという間に「出口」になってしまったので、私なんか、慌てて5秒間で入り口方面に戻って、再度、拝観したほどでした。それほど狭い「特別5室」でした。

上野・東京国立博物館

 今回、「十一面観音菩薩像」が3体展示(京都・禅定寺など)されておりましたが、いずれも後頭部の真後ろにあしらわれた「面」が「大笑い」の観音菩薩であることが、パネルでも解説されていました。十一面もありますから、大衆を教化するため忿怒の表情の観音菩薩もありますが、この「大笑い」の面だけ突出していて、改めて仏像の魅力に染まってしまいました。

 会場を何気なく見回すと、平日だからかもしれませんが、どうも日本人が少ない気がしました。7割近くは、どう見ても外国人観光客でした。コーカサス系だけでなく、東南アジアやインド系、勿論、中国、韓国系の人もです。そう言えば、私も海外に行けば、必ず、博物館や美術館に足を運びますからね。ガイドブック等で上野の博物館・美術館が紹介されているということなのでしょう。まさに、「世界に誇れる上野」です。

 でも、私は歴史好きなので、「この博物館はねえ、江戸時代は、東叡山寛永寺の本堂があった所だったんですよ。今の上野公園と言われている敷地は全て、寛永寺の敷地で、幕末には彰義隊が最後まで新政府軍に抵抗してここで戦ったんですよ」と外国人観光客に蘊蓄を垂れたくなりました(笑)。

上野・東博・常設展

 私はせっかちな性格で、「京都・南山城の仏像」展はわずか20分程で鑑賞し終えてしまいましたので、同じ本館の常設展も駆け足で見て回りました。

 やはり、ここでも、絵画ではなく、彫刻、特に仏像彫刻ばかり注目して観てしまいました。

 やはり、(ともう一度書きますが)仏像を拝観すると心が落ち着き、心が洗われる思いがします。仕事や人間関係で疲れた皆様にもお薦めですよ。出来れば、その前に、仏像の基礎知識を頭に入れて行かれれば鑑賞の醍醐味も倍増します。例えば、四天王の北の一角「多聞天」は、独尊としてまつられると「毘沙門天」と呼ばれます。この毘沙門天とは、インドの財宝神クベーラの前身で、「ヴァイシュラヴァナ」という別名を持っていました。この「ヴァイシュラヴァナ」はサンスクリット語で「よく聞く」と意味することから、中国語で「多聞天」と訳されたといいます。 

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 また、五大明王の中心となる不動明王立像(京都・神童寺蔵)が展示されていましたが、この不動明王とは、密教の大日如来の化身と言われています。煩悩多き救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をし、光背は怒りの炎がメラメラと燃え上がっているわけです。

 えっ?それぐらい御存知でしたか? 失敬、失敬。

「ジャニーズ問題」について、ワシも考へた

 私は某マスコミで、もう20年以上昔の話ですが、10年近く芸能担当記者をしたことがありますので、今年一番のスキャンダルになっている「ジャニーズ問題」について、何か、一家言を持たないと言えばウソになります。ただ、あまりにも正直なことを書いて、このブログが炎上したくはないし、端(はな)からガーシー元議員のように目立ちたくもありません。あくまでも、低姿勢 keep low profile で、このブログも長く続けられたら、と思っているからです。

 最初にお断りしなければならないことは、事件の核心部分である故ジャニ―喜多川氏による10代の少年に対する性虐待の現場を見たわけではないのですが、当時、記者の間でも噂として広まっていたという事実があります。しかも、誰も糾弾しようと、取材しようとした芸能記者は皆無で、「芸能界とはそういうもの」という暗黙の了解が蔓延っていました。

 「芸能界とはそういうもの」とは、端的に言いますと、芸能プロダクションの「社長」さんの中には小指がなかったり、裏社会とのつながりを暗示するような「空気」もありました。日本の芸能史は、白拍子や角兵衛獅子や瞽女など差別された人たちによる伝統芸能から始まり、歌や踊りや芝居興行は、既に江戸時代には「地回りの顔役」がいて全国興行のシステムも確立していたという説もあります。これ以上書くと何かと差し障りがありますので、やめておきます(苦笑)。

 兎に角、芸能界は、その華やかさで目を奪われるため、その裏か内部で関わったか、取材したことがある人でないとなかなか実体が分からないと思います。ジャニーズ問題が大きくなって、「見て見ぬふりをしてきた」テレビ局のプロデューサーらがつるしあげになっている風潮に今はなっていますが、彼らは特別なことをしたわけではなく、同じ地位に就いた人なら誰でも、恐らく100人中100人、見て見ぬふりをしてジャニーズ事務所のタレントを使っていたはずです。経済団体のお偉方さんたちは、自分たちが火の粉を浴びたくないものだから、眼をむいて、「児童虐待」をアピールしながら、スポンサーからの撤退を次々と表明していますが、私から言わせれば同じ穴のムジナです。財界人のお偉方の人なら、ジャニー喜多川氏の噂を知らなかった、と言える人はいないんじゃないでしょうか。それぐらい噂は広まっていましたから。

 何しろ、私がジャニ―喜多川氏の「噂」を知ったのは、1970年代で、まだ私が中学生か高校生の頃でした。当時、人気絶頂だったフォーリーブスの北公次さんが週刊誌などで盛んに「暴露」していたのです。経団連の十倉雅和会長(73)も経済同友会の新浪剛史代表理事(64)も私と同世代ですから、知らなかったはずはないと思っています。

 そこで、一家言を持ちたいのですが、確かにジャニ―喜多川氏の蛮行は、事務所の新社長に就いた東山紀之氏が言うように「鬼畜の所業」であることは間違いありません。そういう意味で被害に遭われた方には一刻も早く救済の手を差し伸べてあげてもらいたいものです。ジャニ―喜多川氏は、人間の功罪で言えば、「罪」の方が遥かに大きかった人でした。

 しかし、「功」がゼロかと言えばそうではありません。彼しか持ちえない独特の美意識と観念が、「売れる」タレントを発掘する才能として開花したことは間違いないからです。彼がスターに育て上げたタレントは、5人や10人ではなく、何十人、何百人です。これと比例するかのように、性被害に遭った少年たちの数も5人や10人ではなく、何百人にも及びました。確かにおぞましい事件ではありますが、独特の美意識を持った彼だからこそ犯した罪であり、タレント発掘の能力とは表裏一体です。

 別に、ジャニ―喜多川氏の肩を持って肯定するわけではありませんが、彼だからこそ発掘できたタレント集団でした。彼のお蔭で世に出て、たっぷり恩恵を受けた人もいました。彼亡き後は、これまでのスターと比べると格が落ちるのではないかと思っています。

 何と言っても、日本の芸能界は「事務所」が力を持ちます。やれ、人気が出たということで「独立」したりすると、テレビ出演をほされたり、邪魔されたりすることは多くの人の耳に入っていると思います。だから、大スターになっても多くのスターは事務所を辞めないのです。「平成の小早川秀秋」と言われた木村拓哉さんもジャニーズ事務所を辞めなかったし、日本で一番売れていると言われる明石家さんまも吉本興業を辞めることなど一度も考えたことはないんじゃないでしょうか。

 逆に言うと、「何でこんなつまらないタレントが売れてるのか?」と思って、調べてみたら、必ずと言っていいぐらいそのタレントは、芸能界を牛耳っている大手事務所に所属しているのです。テレビ局というものは、長屋の大家さんみたいなもんで、空いた時間帯を番組制作会社や大手の芸能事務所に丸投げして売っているようなものなのです。だから、まさに媒体であり、権限も、思われているほどないのです。

 でも、芸能界について、あまり知り過ぎると、つまらなくなりますよ。むしろ、何も知らないで、キャーキャー言って騒いでいた方が幸せですよ。