元朝日新聞論説委員の隈元信一さん逝く、行年69歳

 元朝日新聞論説委員の畏友隈元信一さんが、10月17日午前6時7分、都内の病院で亡くなられました。行年69歳。10月23日が誕生日だということで、あと少しで70歳の誕生日を迎えるはずでした。2年前の2021年夏に発病し、余命3カ月から半年と医者から宣告されたようですが、激痛を乗り越えて、よくぞ闘病生活を耐え抜いたと思います。覚悟はしておりましたが、やはり、哀しいし、寂しい思いです。

 隈元さんは2017年に朝日新聞を退社後、放送評論が専門のフリージャーナリストとして活躍されていました。何冊か本を出版していますので、この渓流斎ブログでも何回か「本名」で登場させてもらっています。

 ・2017年12月18日付「【書評】「永六輔」を読んで」

 ・2022年2月16日付「激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著『探訪 ローカル番組の作り手たち』を読みながら」

 などです。それらの記事に私と彼との出会いや個人的な交流などを書いていますので、御面倒ながらそちらをご参照ください。

 また、会員でしか読めませんが、ネットの「論座」で13回に渡って闘病記を連載されていました。今、検索したら、ウイキペディアになるほどの「有名人」でした。

 大学の講師なども務めましたが、異様に行動力のあるジャーナリストで、日本全国だけでなく、アジア、特に韓国とインドネシアの演劇や音楽などの文化にも幅広く精通し、何年間か滞在していたこともありました。ですから、交際範囲が異様に広く、フェイスブックの「お友達」も1000人以上といいましたから、凄いの一言です。これは、以前のブログに書きましたが、彼が闘病入院中、有志の方が隈元さんの本(「探訪」)の出版基金募集を呼び掛けたところ、その年の2021年末の時点で361人の応募があったといいますから、彼の実質を伴った「人徳」が証明されたようなものでした。

私もよく行っていた王子のmam-and-pap bookstoreも閉店してしまい本当に本当に残念です

 隈元さんとは30年以上のお付き合いでしたが、大変お忙しい人だったので、それほど頻繁にお会いしていたわけではありません。でも、何年振りかに会っても、そのギャップやスパンを感じさせず、いつも気さくで親しみ深く接してくれました。小生を弟のように可愛がってくれた、と言っても良いでしょう。

 彼の取材での得意技は、あの奇人さんとも言うべき永六輔さんに非常に食い込んだように、一旦、この人だと思った取材相手は最後まで離さない粘り強さにあったと思います。まだ本や文章には書かれていない、多くの人から直接得たいわゆるヒューミント情報を多く持っていましたから、かなり説得力がありました。それでいて、彼の性格なのか、茲では書けない、かなりシビアというかシニカルな批判も多々ありました。ただ、持って生まれた洞察力は人より抜きんでいて、彼の想像や推測した通りに、物事や人事が進んでいく有り様を見て、舌を巻いたことが何度もありました。

 クマモッチャン、もうあの「隈元節」が聞けないと思うと、本当に残念で、心の底から悲しみが込み上げて来ます。御冥福をお祈り申し上げます。

【追記】

 このブログを読んだ満洲研究家の松岡將氏から早速メールを頂きました。5年前に隈元さんとは一度拙宅でお会いしたことがあったというのです。「まだお若いのに本当に残念です。ご冥福を祈るのみです」といった趣旨の内容でした。

 そうでした、そうでした。すっかり忘れておりました。隈元さんの東大の卒論のテーマが「満洲問題」だということを聞き、「それなら松岡さんを知らないと潜りだよ!」と言って、松岡氏のご自宅に押し掛けたのでした。この時、満洲国の総務庁次長だった古海忠之氏の御子息も参加しました。調べたら、渓流斎ブログ2018年4月9日付 「久しぶりの満洲懇話会」にその模様を詳しく書いておりました(笑)。

 この時、松岡氏から高価な「獺祭」を振る舞われました。いつもながら、本当に御迷惑をお掛けしました。

船着場は古代、「戸」と呼ばれていた=吉見俊哉著「敗者としての東京」

 待ちに待った吉見俊哉著「敗者としての東京」(筑摩選書、2023年2月15日初版)を読んでいます。「待ちに待った」というのはどういう意味なのかお分かりですよね?(笑)2週間以内に返却しないといけないので、目下半分ほど読み進んでいたオーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)は休止しております。そんなこと、いちいちお断りする必要はないかもしれませんが(笑)。

 I read promiscuously.

 「敗者としての東京」は実に面白い、と太鼓判を押しておきます。これでも、東京~江戸に関する地層(武蔵野台地など)に関して、ある程度知っているつもりでしたが、本書で初めて知る事も沢山ありました。もっとも、この本は、かなり先行研究からの引用が多く、また、私が以前読んだ文献とは異にする見解を取り入れたりしていますが、大変読み応えがあります。

 以下は私が知らなかったことを列挙していきます。

東銀座「宝珠稲荷神社」

 ・古代、朝鮮半島からの渡来人たちは東京湾内にも入って来た。船を停めるのに適した場所は船着場から湊となり、それらは一般に「戸」と呼ばれた。実際東京湾岸から利根川にかけて、松戸青砥(かつては青戸)、花川戸(浅草)などがあるが、渡来人が湊として利用していたと考えられる。また、今の杉並区の高井戸や清瀬市の清戸なども川の船着場だったと考えられる。

 ・最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは、浅草の浅草寺で、浅草観音は628年創建と伝わる。このほか、多摩川流域の狛江の狛は「高麗」と推測され、埼玉県新座市は「新羅」から由来すると言われる。

 ・埼玉県高麗郡(日高市、飯能市、鶴ヶ島市の全域と、狭山市、川越市、入間市、毛呂山町の一部)は高麗神社高麗川などがある。戦乱を逃れて渡来した高句麗人が716年に武蔵国に集められて出来た。(この項は、この本には書かれていません)

 ・荒川の「荒」は、古代朝鮮半島の東南部にあった「安羅(あら)国」の安羅に由来するという説もある。

銀座「マトリキッチン」

 ・鎌倉時代、江戸前島(今の東京日本橋から銀座辺りの島)に開かれた港は江戸湊と言われ、浅草とともに交易の中継地として栄えていた。西国から様々な商品が運び込まれ、利根川上流で採掘された鉱物資源や飼育された馬が江戸湊から西国に売られていった。この要衝を秩父平氏の中心をなした江戸氏が支配していた。しかし、源頼朝は江戸氏の勢力を削ぐために、現在の兵庫県尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて、江戸前島から浅草にかけての一帯を支配させた。この矢野氏は摂津国池田の多田荘を根拠地にした清和源氏の流れを汲む多田源氏。多田荘には多田銀銅山があり、そこで採掘された鉱物を鍛冶屋が武器や貴金属にしていた。川筋では牛馬が飼育され、皮革の加工も盛んで、造船も行っていたという。

 ・この矢野氏は矢野弾左衛門と呼ばれる家系となり、浅草に巨大な屋敷を構えて、代々、皮革業者や芸能民ら被差別民の総元締めになった。(弾左衛門は幕末まで13代続いた=この項目は、この本には書かれていません。詳細は、部落解放同盟東京都連合会のホームページをご参照ください)

 長くなるので、本日はこの辺りで止めておきます。著者の吉見氏は「序章」の中で、「富と人口が集中し、世界最大規模を誇る都市東京は、少なくとも3度占領されてきた。1590年の家康、1868年の薩長連合軍、1945年の米軍によってである」と書いております。「1868年の新政府軍」と書かずに「薩長連合軍」と書き、「1945年の進駐軍」とは書かずに「米軍」と書くところは私も共鳴します(笑)。江戸の街は、徳川家康がつくった、と言われているのに、わざわざ、占領者として「1590年の家康」と著者が挙げたのは、江戸は、家康の前に後北条氏が治め、それなりの交易や神社仏閣などの文化もあり、古代には秩父平氏の江戸氏が治めていた時代もあり、何も、徳川家康が初めて江戸を文明化したわけではないことを意味しているんじゃないかと私は捉えました。

 【追記】

 途中、後半の第7章辺りから、著者吉見俊哉東大教授の個人的なファミリーヒストリーとなり、あれれ?と拍子抜けしてしまいました。私もこの渓流斎ブログで取り上げたことがありますが、あの有名な闇の帝王・安藤昇さんは、著者の吉見氏の親戚だということで、「ヤクザ安藤昇とその周辺」に関して、かなりのページ数を費やしておりました。親戚というのは、安藤昇さんは、吉見教授の祖母の妹山田知恵の長男だということです。

21歳の6割が読書しないという現実と将来は?

  10月16日付東京新聞夕刊に掲載された「読書せず 21歳6割 動画サイト普及一因?」という記事には驚かされました。何しろ、21歳の若者の6割は全く本を読まないというのですから、ビックリしました。

 文科省が13日に公表した2022年の「21世紀出生児縦断調査」で、2001年生まれの約2万2000人からの回答を分析した結果だそうで、「この1カ月に読んで紙の書籍(本)の数は?」との質問に「0冊」と答えたのは62.3%に上ったといいます。2011年(当時10歳)調査では、「1カ月0冊」は10.3%しかいなかったのに、この有様です。

 調査官は「SNSや動画投稿サイトの普及が一因」と指摘していますが、本を読まない人類が出現したということなのでしょう。だって、電車内を見渡してみても、車内で新聞や週刊誌、本を読んでいる人間はほとんど皆無です。たまーに見かけたとしても、その方は中年、いや初老以上の方で、私を含めていわゆる旧人類ばかりです。新人類はほぼ全員、スマホの画面に釘付けになっております。

銀座「築地のさかな屋」アジフライ定食1100円

 別に他人が何しようが構いませんけど、嫌でも眼に入ってきてしまう他人のスマホの画面は、ゲームやドラマや映画の動画か、旧ツイッターやLINEなどのSNS、通販サイトなどです。確かに本なんか読んでいる暇はありませんね。彼らはスマホで明け暮れて一日が終わり、スマホの動画で一生が終わる人生を送ることでしょう。ご苦労様です。

 私は旧人類ですから、やはり、紙の新聞や本や雑誌でなければ駄目ですねえ。特に私は、bookworm ですから、手近に本がなければ、禁断中毒症状を起こすほどです。大袈裟な!(笑)。

 だから、この渓流斎ブログも自分が読んで面白かった本の「読書感想文」めいた話で埋め尽くされていることは、皆様、御案内の通りです。

 でも、冷静に考えれば、若者たちが紙の本を読まなくなったとはいっても、スマホやパソコン等で電子の活字は読んでいることでしょう。頭脳が言語を介して理解するようになっている構図なら、活字はなくならず、読まざるを得ないからです。

 スマホやパソコンで長文の電子活字を読むのはキツくありませんか? 目が悪くなるし。。。そっか、だから「短文」が流行るでしょうね(笑)。

 これは暴論にはならないと思いますが、私は旧世代としてこの世に生まれてきて本当に良かったなあと思っています。今の世の中はあまりにも忙しないです。それに、電子活字なんか大嫌いです。何よりも紙媒体を好みます。私が子どもの頃は、テレビゲームなんかありませんから、野山を駆け回って遊んでいました。幸運な平和で牧歌的な時代に生まれ育って、こればっかしは、恩恵といいますか、運命ですから、感謝するしかありません。

明智光秀の私怨だったのか?=日本史最大のミステリー「本能寺の変」

 日本史最大のミステリーの一つは「本能寺の変」ではないでしょうか。天正10年(1582年)6月、明智光秀が織田信長を急襲した下剋上事件です。

 光秀は重臣として「後入り」なのに、家臣団の中では最初の城持ち(坂本城)になった出世頭なのに、何故、信長を裏切ったのか? 関白太政大臣も務めた近衛前久黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、長宗我部元親黒幕説…等々色んな黒幕説や、安土城での徳川家康の接待で粗相があったとして、信長から家臣たちの面前で叱責されて恥をかかされた恨み説などがありますが、真相は不明です。また、信長の遺体が京都・本能寺の現場から見つからなかったということがミステリーに一層の拍車をかけています。

 そんな中、10月11日付の毎日新聞朝刊の紙面で、感染症が専門の早川智日大医学部教授が、「悲劇的な最期を遂げた織田信長」というタイトルで寄稿されており、その中で「信長も降伏を申し入れて来た丹波の波多野兄弟を安土城に招いて斬殺するなど、やっていることはあまり変わりない。このとき、波多野家の城内で降伏交渉の人質になっていた明智光秀の母親が報復として殺害されており、本能寺の変の原因の一つという説もある。」と書かれていたので吃驚です。

 勿論、こちらの不勉強ではありますが、そんな話聞いたこともありませんでした。となると、色んな説がありましたが、光秀が打倒信長を決意したのは、信長の狂気のサディズムにより、結果的に母親が殺されてしまったという怨恨で、その報復に他ならないではありませんか。黒幕なんかいません。私怨です。これで決まり。でも、これまで歴史学者は何をやっていたんでしょうか?今の歴史学者だけでなく、江戸時代、明治から昭和にかけて歴史学者なら知らないはずありません。何故、この「私怨説」が定着しなかったのでしょうか?

 感染症専門の医学部の教授が知っているのに現代の歴史学者が知らないとしたらおかしな話です。

1956年創業の銀座「デリー」ターリー1200円 量多かったす。本文と全く関係ないやんけ!

 そんなわだかまりを持って、ここ数日間、過ごしていたら、たまたま、ネット上で、歴史と文化の研究所代表の渡辺大門さん(文学博士)という方が「【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘」と題する記事を発見しました。投稿されたのは、2年も前の2021年10月17日付です。それによると、明智光秀は波多野氏に自分の母親を人質として送り込む必要はないし、そんな事実は一次史料では確認できない、と結論づけているのです。

 渡辺氏によると、光秀の母親が殺害されたという逸話が載っている文献は、本能寺の変から100年も経った遠山信春著「総見記」(1685年頃)で、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の「信長記」を元に増補・考証し、脚色や創作が随所に加えられているといいます。

 あれれれ? 光秀の母親人質殺害事件はなかったということですか? だから「なかった」ことは史実として定着し、一般人には知れ渡ることはなかったということなのでしょうか?

 何だか割り切れませんが、少なくとも、早川智日大医学部教授も毎日新聞の編集記者もデスクも、渡辺大門氏の2年前の記事を読んでいなかったことはほぼ確実です。もし、読んでいても敢えて書いたとしたら、まだ、歴史学会では、「光秀の母親、人質殺害」は一つの説として残っているということなのでしょうか?

 何だか分からない。これだから歴史は曖昧で、よく分からないですねえ。

 

念願の「銀座ライオン」で歓談=ゾルゲやマッカーサーまで利用した

 10月13日(金)、やっと念願の「銀座ライオン」に行くことが出来ました。当初は9月に行く予定でしたが、台風接近を理由に延期になっておりました。参加したのは小生のほか、会社の同僚のY君とM君でした。一人でビアホールに行ってもしょうがないですからね(笑)。

 当初は、この銀座ライオンが、戦前の昭和9年(1934年)、大日本麦酒(現サッポロビール)本社ビルとして菅原栄蔵の設計で創建され、戦災を逃れて、歴史的建造物(現存する日本最古のビアホール)として現在も残っている姿を見たかったことと、内部に装飾された大塚喜蔵製作のステンドグラスを是非とも観たいというのが目的でした。

1934年創業、菅原栄蔵設計「銀座ライオン」 大塚喜蔵製作のステンドグラス「豊穣と収穫」

 そしたら、その後、色々と調べていったら、あのスパイ・ゾルゲもこの銀座ライオンを利用していたことが分かり、急に身近に感じてしまいました。ゾルゲは、こじんまりとしたバーの方を好んで、広いビアホールはあまり自分の趣味ではなかったようでしたが、ゾルゲが来日したのは1933年9月13日のことです(その後、8年間、東京で諜報活動)。銀座ライオンはその翌年の34年4月8日に開業しますから、ゾルゲは出来立てホヤホヤのビアホールを楽しんだことになります。

 また、GHQのマッカーサー元帥も好んで、銀座ライオンに通っていたようです。これまた、よく調べてみると、米軍は、もともと、戦後占領政策を見込んで空爆をしていたらしく、銀座7丁目のライオンは戦後、米兵の慰安施設として使うためにわざと爆撃を避けたという説があり、「なあんだ」と思ってしまいました。

 爆撃を避けたのは、他に、銀座では三越や松屋百貨店、和光などですが、これらは軍隊内の食料や日用品を購入する「PX」として使うためでした。また、銀座の隣りの明石町の聖路加病院は、占領期にに米軍の病院として使うために残しました。さらには、GHQの本部として使うために、日比谷の第一生命本社ビルも爆撃せずに残したことは、皆さんも御存知の通りです。

 大日本帝国の帝都に関する情報は、米軍によって丸裸にされていて、「日本の家屋は紙と木で出来ているので焼夷弾もあれば焼き尽くせる」とのカーティス・ルメイ将軍の指揮の下、赤子の手をひねるように、10万人もの無辜の民が火の海で殺戮されたことを学校の教科書で習うことはない日本人はほとんど知りません。

 また、このルメイに対して、日本政府(佐藤栄作内閣)が1964年に、勲一等旭日大綬章を授与しています。航空自衛隊の育成に功があったという理由らしいですが、本来なら、被害者が加害者の戦争犯罪人に勲章を授与することなどあり得ないはずです。「永久敗戦国」の哀しみがあります。

新富町「松し満」エビフライ定食1000円 本文と関係ないやんけ

 ということで、ビアホールでの3人の話題は、米軍占領政策から鎌倉時代の御家人の話、芸能界や差別の話、米軍による暗号解読で山本五十六長官が撃墜された話など多岐に及び、久しぶりに大いに歓談することが出来ました。

【追記】2023年10月16日

 聖路加病院は、1938年5月14日、ゾルゲが東京・米大使館近くで過度の飲酒によるバイク事故を起こして重傷を負った時に、運び込まれた病院でもありました。「スパイ・ゾルゲ 東京」で本が書けそうですねえ(笑)。

ゾルゲが愛した銀座のバー、レストラン=情報提供求めます

 相変わらず、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)を読んでおります。

 昭和8年(1933年)9月13日、ソ連赤軍第4部の諜報工作員、リヒアルト・ゾルゲは、前任地の上海での任務を終え、モスクワからベルリン、米国、カナダを経由して横浜港に上陸します。この時、「2年間の任務」の約束だったはずの諜報活動が、逮捕されるまで8年もの長期に渡ること(プラス3年間の巣鴨刑務所拘置)をゾルゲは知りません。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 独新聞社特派員を隠れ蓑にした東京でのおどろおどろしいスパイ活動は、既に何百冊もの本に書かれていますので、何か、変わった趣向はないかなあ、と思いながらこの本を読んでいました。そしたら、尾崎秀実を含めたゾルゲ諜報団は、バーやレストランに関して、かなり高級店を利用していることが分かりました。特に、ゾルゲに関しては、「酒」と「女」で情報収集に励んでいたことがモスクワ当局にでさえ知れ渡っていました。まさに、007ジェームズ・ボンドです。

 私は以前、この渓流斎ブログで「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)を書いたことがあり、大変好評で、コメントまで頂いたことがありました。

銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 こんな感じで、マシューズ著「ゾルゲ伝」に出てくる東京・銀座の飲食店を探索しようかと思いましたら、残念ながら、90年もの歳月が経てば、もう跡形も痕跡すら残っていません。著者によると、1934年当時、銀座界隈には2000軒以上のバーがあったといいますが、ゾルゲの行きつけの飲食店等として、例えば、こんな店が出てきます。

 1、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」、ヘルムート・カイテル(ケテル?)が経営するドイツビアホール兼バー「ラインゴールド」

 2、銀座のバー「こうもり」

 3、1934年創業の「銀座ライオン」(今も当時の建物のままあります!ゾルゲはもっとこじんまりとした本格的なバーの方を好んだとか)

 4、有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」

 5、ゾルゲとヴーケリッチが定期的に会うことになった銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」

 6、最新のタンゴが演奏された「フロリダ・ダンスホール」「シルバー・スリッパー」

 7、無線技師マックス・クラウゼンと待ち合わせをした数寄屋橋のバー「ブルーリボン」

 最初の1番の「ローマイヤ」と「ケテル」については、先述した「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)で取り上げていますので、御面倒でもこちらをご参照ください。「ラインゴールド」は、ゾルゲの最愛の日本人伴侶、石井(三宅)花子が、「アグネス」の名前でバイエルン風の衣装を着てホステスとして働いていたドイツビアホールで、マシューズ著「ゾルゲ伝」によると、経営者はドイツ人のヘルムート・「パパ」・カイテル(中国のドイツ植民地青島出身で、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、日本人女性と結婚し、1924年に「ラインゴールド」を開業)です。カイテルとは恐らく、ケテルと同一人物で、彼はドイツ料理店「ケテル」とドイツバー「ラインゴールド」の2軒を経営していたと思われます。「ラインゴールド」の場所は西銀座5丁目となっているので、銀座5丁目5の「ケテル」とは少しだけ離れています。「ケテル」は、駐日ドイツ大使オットーと食事、「ローマイヤ」は、独大使館海軍アタッシェ、ヴェネッカーらと食事に、「ラインゴールド」は石井花子らを目当てに個人的に通ったと思われます。

 2番目のバー「こうもり」に関しては、そこでウエイトレスとして働いていたケイコがゾルゲに恋をし、それを知らないゾルゲは美しい欧州人女性を店に連れて来たことから、ケイコは絶望して自殺を決意をするも、ドイツ人の経営者に止められた逸話も残っています。

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もっと詳しい情報がないものか、とネットで検索していたら、世の中にはマニアの方がいるもので、「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」というタイトルで、洋酒評論家の石倉一雄さんという方が2011年11月から翌月にかけて、8回に渡って連載されている記事を発見しました。ゾルゲがどんな酒を呑んでいたのか「推測」する話が中心ですが、当然ながら通ったバーについての記述もあります。

 「こうもり」については、ドイツ語で「フレーデルマウス」と呼ばれ、隠れ家的バーで、無線技士クラウゼンと毎週落ち合う店を、7番の「ブルーリボン」からこの「フレーデルマウス」に変更したといいます。石倉一雄氏はとてつもない人で、この「フレーデルマウス」(ふくろう)に関しては、織田一麿のリトグラフ作品に「画集銀座第一輯/酒場フレーデルマウス」(1928年)という作品があり、東京国立近代美術館で見られると紹介しています。あのホステスのケイコさんの命を救った経営者はドイツ人のボルクと書いています。凄い人ですね。

 7番の数寄屋橋の「ブルーリボン」については、石倉氏は、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の落合芳明編集次長の「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言から「当時の一流バーの一軒だったと推すことができる」と書いております。

 また、6番の「シルバー・スリッパー」は、「外国特派員が頻繁に訪れていた」と書いていましたが、何処にあったかについては書かれていませんでした。

銀座8丁目に現在もある舶来品専門店「オサダ」。この辺りにゾルゲが利用した「フロリダ・キッチン」があったと思われます。銀座の同盟通信社の目と鼻の先です

 話は前後しますが、ゾルゲとヴーケリッチが会っていた5番のレストラン「フロリダ・キッチン」は、これまたネット検索すると、銀座8丁目5の輸入洋品店「オサダ」(今もあります!)の隣りにあったようです。

 調査研究に長けた石倉氏は、モスクワからゾルゲに送られて来た諜報活動費は、今のお金に換算すると月額300万円だったことを明らかにしています。まあ、それだけあれば、銀座の高級バーを豪遊できるわけですね。

 いずれにせよ、1~7番に挙げたゾルゲが愛した銀座の飲食店の場所は、一部を除き、はっきり確定できません。もし御存知の方がいらっしゃれば情報提供して頂くと大変有難いです。小生が早速、現地(跡地)に足を運んで写真を撮って来ます。

銀座8丁目にある輸入品専門店「オサダ」

このように(笑)。

獨協大初のプロ、ヤクルト並木選手と荒木大輔さんの話=新富町「煉瓦亭」御主人との初会話

 これだけ銀座、築地、新富町とランチで色んな店を徘徊しているというのに、店の御主人と顔馴染みになって話をするようなお店はそれほど多くはありません。5~6軒、いや3~4軒ぐらいではないでしょうか。

 昔の歌謡曲に「東京砂漠」といった曲があったように、大都会では、なるべくソッとしておいて、他人のプライバシーに立ち入らず、良い意味で見て見ぬふりをしてあげる、というのが習わしになっているからだと思います。

 1895年創業で、カツレツなどの発祥地として知られる銀座の洋食屋「煉瓦亭」から暖簾分けした新富町の「煉瓦亭」(創業1963年)には月に2回ぐらいは通う馴染みの店ですが、カウンター席の目の前で配膳する御主人と話を交わすことはほとんどありませんでした(注文しますからねえ。それぐらい言葉は交わします=笑)。

 それがひょんな拍子で本日はおしゃべりすることになったのです。カウンター席から目の上にある壁には日ハム時代の大谷翔平ら沢山の野球選手やラグビー選手のパネル写真が飾られています。それらを食事が来る前に見るとはなしに見ていたら、御主人の篠原さんが、「その右端の写真のヤクルトの並木って選手、獨協大学の後輩なんですよ。独協から初めてプロになったんですよ」と、嬉しそうに私に話しかけてきたのです。

銀座「シシリア」(京都新聞東京支社地下)

 最近のプロ野球には私は疎くなってしまいましたが、確かに、並木秀尊選手(24)は、2020年のドラフト会議でヤクルトから5巡目で指名された外野手でした。背番号は「0」。俊足でならし、大学3年秋に参加した日本代表候補合宿の50メートル走計測で、「サニブラウンに勝った男」と呼ばれた中央大学の五十幡亮汰の5秒42を上回る5秒32を記録したことから、「『サニブラウンに勝った男』に勝った男」の綽名が付き、並木選手は、写真の色紙にも「『サニブラウンに勝った男』に勝った男」とサインしていました(笑)。

 3年目の今年は、82試合に出場し、打率2割7分4厘、本塁打1を記録しています。とにかく、「煉瓦亭」の御主人としては「獨協大からの初めてのプロ野球選手」ということで嬉しくてたまらないのです。本人は「我々の時は、草野球程度でしたよ」と大いに謙遜してましたが、実際は、首都大学リーグの獨協大学野球部のショートの巧打者として頑張っていたようなので、後輩の活躍に目を細めるばかりでした。

銀座「シシリア」ハンバーグ定食980円 安くて美味しい老舗店です

 獨協大学と言えば、2年前に亡くなった私の親友の神林康君の出身大学で、一度、埼玉県草加市にある獨協大の文化祭に行ったことがありました。当時、(今も)人気女優のかたせ梨乃も同大学出身で、もしかして大学祭に来るかもしれないということで行ったのですが、結局会えず仕舞いでした(苦笑)。「煉瓦亭」の御主人は「昔は、獨協大の駅は東武伊勢崎線の『松原団地駅』でしたが、団地が老朽化して取り壊されたりしたので、今は『獨協大学前駅』に変わったんですよ」と教えてくれました。私が獨協大の文化祭に行ったのも半世紀近い昔ですから変わるはずです。

 そうそう、御主人は成城高校時代も野球部で、甲子園大会予選の東東京大会の準決勝か準々決勝で、当時、大人気スターの荒木大輔擁する早稲田実業高校に惜敗したそうです。そのパネル写真も飾っていました。

 新富町「煉瓦亭」の御主人は、テレビ東京の「アド街ック天国」にも出演していたので、「テレビに出てましたねえ」と冷やかすと、「もう60歳なのに、いやはや」と照れたような表情を浮かべていました。いやいや、私より年長に見えていたので、意外な若さに吃驚です。後で、荒木大輔(ヤクルトなど~野球解説者)さんの年齢を調べてみたら、1964年5月生まれの59歳。確かに、甲子園大会東京予選で、御主人が激突した同世代でした。

 あの荒木大輔が来年、還暦になるとは、私も年を取るはずです。

情報デトックスの薦め

 ネット時代になって、情報量が一体どれくらい増えたと思っているんだ?ーなぞと誰かに問いかけているわけでもなく、自分自身に聞いているわけですが、最近、加齢により情報処理能力が幾何学級数的に減退しているので、なお一層、自分に問いかけています。

 昔は、聖徳太子のように、ラジオを聴きながら勉強するとか、平気で出来たのに、今や、複数の音声を同時に理解することは不可能になりました。

 何しろ、今やフェイクニュースを始め、玉石混交の訳が分からないような情報が雨あられの如く、襲い掛かって来ます。これだけの情報に囲まれる時代は人類史上初めてではないでしょうか?

 脳処理能力の限界を感じませんか?

築地「海鮮 はしば」

 私が小さい頃は我が家にまだテレビがありませんでした。世間の情報収集はラジオと新聞と隣近所からの噂話だけでした。牧歌的時代だったと言えるかもしれません。今や、そのラジオも新聞も時代遅れになり、BS、CSのマルチチャンネルをものにしたテレビの時代かと思ったら、あっと言う間に、テレビもネットの後塵に拝してしまいました。

 速報性も情報量の多さも、最先端ではなく、既に流行遅れの音楽やファッションや昭和の映画までも、そして何よりもドル箱の広告も、テレビはもうネットには敵いません。ネットは時代や流行を超越し、資本主義の最大の「富の源泉」である広告を独占してしまいました!

 昔は、大スターやアイドルといえば、三船敏郎、アラン・ドロン、天地真理…と十数人程度(年齢がバレる!)、しっかり顔と名前が一致して覚えられたのに、今や、数百人、数千人、いや数万人いるかもしれません。とても覚えきれません。

 昔の人気スポーツは、プロ野球か相撲ぐらいしかなかったのに、今や、サッカーやラグビーどころか、よく分からない山登りのような競技やスケボーの競技まで五輪種目になって若者に大人気です。セパタクロー

 ニュースも既存の新聞社・通信社、出版社だけでなく、聞いたことがない専門ニュース・アプリが立ち上げられては消え、消えてはまた立ち上げられたりしています。

◇◇◇◇◇

 それで、何が言いたいのかと言いますと、「脳疲労」を感じた人は、テレビで宣伝しているような薬に頼ることなく、いわゆる「情報デトックス」をしたらどうか?というそのお薦めです。意図的にパソコンやスマホの電源を切ったり、アプリを削除したりして、情報を遮断することです。もう7~8年前から言われています。

築地「海鮮 はしば」 鮮魚丼1500円 量が多い!!

 「まず、《渓流斎日乗》は読まずに、お気に入りから削除すことだな」

 えっ? 貴方は誰ですか? 意地が悪いですねえ。まあ、的を射ておりますが。。。勘弁してくれい!

築地「シュマッツ」ジンジャーボーク定食1100円

 なるべく、更新していきますから、これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます🙇

「山本五十六長官機撃墜の真相」と「通訳者と戦争犯罪」=第52回諜報研究会

 最近、加齢のせいか、自宅の居間から書斎に行った際、「あれっ?何を取りにに来たのだろう?」と、綾小路きみまろさんの漫談みたいなおめでたい世界に私自身も段々入って来ましたが、10月7日(土)、早稲田大学で開催された第52回諜報研究会に参加して来ました。

 「インテリジェンス効果のミクロ、マクロの諸側面」をテーマにお二人の著名専門家が登壇されましたが、参加者が思っていたよりそれほど多くありませんでした。(オンラインで30人ほど参加されていたようでしたが)「こんな面白い講義を聴かないなんて勿体ないなあ」と個人的には思いました(苦笑)。

講義で熱演される原勝洋氏

 お一人目は、戦史研究家の原勝洋氏(81)で、演題は「山本五十六聯合艦隊司令長官機撃墜の真相/乱数表の使いまわし」でした。このタイトルで大体の内容が分かると思いますが、太平洋戦争最中の1943年4月、前線視察に向かった山本長官の搭乗機が撃墜されたのは、米軍が日本海軍の暗号電を解読し、しかもその真相は日本海軍が暗号の乱数表を使い回していたことを米軍が見破った結果によるものだったということを、原氏自身が米ワシントンの公文書館で機密資料を発掘して明らかにしたのでした。

 この件に関しては、時事通信社の宮坂一平記者が、原氏に直接、何度もインタビューし、記事が今年8月に全国に配信されましたので、お読みになった方もいらっしゃると思います。(上の北海道新聞の記事もそうです)

 私は、編集局長賞ものの大スクープだと思いましたが、会社は夏の恒例の戦争企画か、「暇ダネ」扱いしかしてくれなかったそうです。酷い会社ですねえ(苦笑)。

 ま、それはともかく、原氏の話は、「ウルトラ」と呼ばれる超機密文書を米公文書館で発掘した苦労話が主でしたので、会場に参加した私は、珍しく質問しました。最大の疑問は、「何で日本海軍は暗号の乱数表を使い回しにしたのか」ということだったからです。

 それに対して、原氏は「日本海軍はこんな複雑な乱数表は破られるわけがないと確信していたのでしょう。でも、米国にはIBM(コンピューター)がありますから、乱数表を変えたり、順番を変えたりすれば解読できるわけですよ。それなのに、日本の海軍軍令部は米国人は解読できるわけがないと思い込んでいた」と仰るのです。なるほど、真珠湾攻撃で勝利した海軍は傲慢になっていたことが分かります。山本長官が撃墜される1年前に、ミッドウェー海戦での大敗があり、これが後世の歴史家から見れば「勝負の分かれ目」になりました。このミッドウェー敗戦も、暗号が米軍に解読されていたためだったことに日本海軍は気が付かなかったのでしょうか? 失敗から教訓を学んで改善しない限り、必然的に負けるはずです。

 お二人目は、立教大学異文化コミュニケーション学部・大学院研究科特別専任教授の武田 珂代子氏で、演題は「英軍戦犯裁判での通訳被告人による諜報活動」でした。個人的ながら、私自身も通訳の仕事をしたりしているので、「もし、自分が戦時中に通訳をやっていたら、戦後、裁判にかけられて処刑されていただろうなあ」と、他人事ではなく、身近に感じながら興味深く拝聴しました。

 お話は、武田氏が今年6月に出版されたばかりの「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房)を中心に話されました。その前に、武田氏の経歴がちょっと変わっておりまして、米西海岸のサンフランシスコとロサンゼルスのほぼ中間にあるモントレー国際大学(現ミドルベリー国際大学モントレー校)御出身ということでした。この大学院は、私自身も含めて日本人にはほとんど知られていませんが、米国では「CIA養成学校」と噂されるほど、出身者の多くがCIAに就職しているそうです。

 さて、武田氏によると、ナチス戦犯裁判では20人の戦時通訳者しか被告人にならなかったのに、対日BC級戦犯裁判では、100人以上の被告人が出たというのです。特に一番多かったのが、シンガポールや香港などで捕虜が虐待されたという英軍裁判で、起訴された通訳者は39人(うち台湾人18人)だったといいいます。内訳は、軍人3人で、軍属・民間人が36人。英語は勿論、福建語やマレー語、広東語できる台湾出身者が重宝されたようです。裁判で有罪になった通訳者は38人(台湾人17人)で、死刑になった人は10人(台湾人6人)だったといいます。

 なぜ、単なる通訳者なのに、死刑に処せられるほど罪が重くなるのかという理由について、武田氏は、捕虜の拷問に際しての通訳や虐待への参加などで、被害者から「可視化」されて覚えられてしまうことと、戦犯の共同責任を問われることなどを挙げておられました。

 このほか、通訳だと語学が出来るので同時にスパイだと疑われる場合がありますが、実際に通者兼諜報員だった人の例も武田氏は何人か例を挙げていました。その一人が日系二世のリチャード・サカキダという通訳者で、この人は、あの山下奉文大将が最後の司令官を務めたフィリピンの第14方面軍司令部で、通訳をしながら、フィリピン・ゲリラに情報を流していたスパイだったといいます。

 日本人では、通訳者を装ったスパイとして、日露戦争開戦時に諜報活動をし、最後はロシア軍に捕獲されて処刑された横川省三や沖禎介らを紹介していました。

 さて、個人的には武田氏の「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房、4950円)はちょっと難しそうなので、その前に、2018年に出版された同氏の「太平洋戦争 日本語諜報戦」 (ちくま新書、880円)を先に読んでみようかな、と思っています。

 この日登壇された原勝洋氏も武田珂代子氏も非常に精力的な研究者で熱弁に圧倒されましたが、お二人とも非常に根が明るく楽しそうな方だったので、難しい内容の講義も楽しく拝聴できました。

ゾルゲは「陸軍中野学校」出身みたいだった?=「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)

 長年のこの渓流斎ブログの御愛読者の皆さまならよく御存知かと思いますが、私は、長年、「20世紀最大の国際スパイ事件」と呼ばれる「ゾルゲ事件」にはまってしまい、このブログでも散々書いて来ました。(そのほとんどの記事は、小生の不手際で消滅してしまいましたが)

 関連書籍もかなり読み込んできたので、偉そうですが、何でも知っているつもりになってしまいました。そのため、しばらくゾルゲ事件関係から離れていました。そしたら、解散した日露歴史研究センターを引き継ぐ格好で、加藤哲郎一橋大学名誉教授らが昨年、「尾崎=ゾルゲ研究会」を立ち上げ、ほぼ同時に、みすず書房から「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ全4巻の刊行が昨年10月から刊行開始されたこともあり、その潮流に巻き込まれる形で、またまた小生のゾルゲ事件に関する興味も再燃してしまったのでした。

浮間舟渡公園

 ちょっと余談ながら、私が最近、《渓流斎日乗》でゾルゲ事件に関してどんなことを書いていたかピックアップさせて頂きます。

①2018年4月22日 「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

②2019年11月12日 「新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事『太田耐造関連文書』公開で」

③2020年7月27日 「『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』はお薦めです」

④2021年3月19日 「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」

⑤2022年3月20日 「『日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開』=第41回諜報研究会を傍聴して」

⑥2022年11月8日 「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」

⑦2023年1月12日 「動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳『新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書』」

⑧2023年1月18日 「ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編『ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書』」

⑨2023年10月1日 「使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 皆さまにおかれましては、わざわざ再読して頂き、誠に有難う御座います。

浮間舟渡

 我ながら、結構書いていたんですね。そして今、「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み始めています。この本、今年の5月10日に初版が出ておりますが、初版、じゃなかった諸般の事情で出版されてから5カ月遅れで読み始めております。

 いやあ、実に面白いですね。著者はジャーナリストですが、まるで推理作家のように文章がうまいのです(翻訳のせい?)。(例えば、100ページに出てくる「少なくとも1ダースほどの別名で知られていた、このピク(本名エフゲニー・コジェフニコフ)は不謹慎な冒険者が多いこの街で、詭計を働く一人滑稽歌劇(オペラ・ブッファ)で既に名を馳せていた。」といったような凝った書き方)

浮間舟渡

 先程、私はゾルゲ事件に関しては何でも知っているつもり、などと偉そうに書きましたが、加齢とともに記憶力も急降下し、失語症か何かのように固有名詞が出て来なくなりました。脳細胞は一日、10万個消滅するらしいですから、忘れてしまったことが多いのです。そのため、この本は随分新鮮な気持ちで読むことができます。また、この本を読んで、自分が間違って覚えていたことも分かりました。

 決定的な間違いは、私は、ゾルゲが所属していた「赤軍第4部」という諜報機関は、かの悪名高いKGBにつながる、と思い込んでいたのでした。スパイと言えば、世界中の誰もが知っているKGBですからね。(勿論、プーチン露大統領の出身)著者のマシューズ氏は、ソ連の諜報機関について、かなり念入りに調べ上げているので大変な勉強になりました。

 簡略すると、まず、冷戦時代に活躍したKGBは、戦時中(1934~46年)はNKVD(内務人民委員会)と呼ばれ、その前は秘密警察GPU(国家政治保安部)という組織でした。NKVDやGPUは、ゾルゲ事件関係の本には必ず出てきます。これらはもともと、レーニンがロシア革命を成し遂げた直後に、全ロシア臨時委員会(チェカ)として発足されました。

 次に、コミンテルン(共産主義インターナショナル、1919~43年)の中に諜報機関OMS(国際連絡部)が設立されます。ゾルゲはドイツ人ですから、当初はこのOMSに所属していました。

 最終的にゾルゲが所属して上海、東京で活動したのはGRU(赤軍参謀本部情報総局)傘下の労働者・農民赤軍参謀本部第4部(赤軍第4部)でした。ゾルゲは、この組織を設立したヤン・カルロヴィッチ・ベルジン(1889~1938年、48歳で粛清処刑)からスカウトされたわけです。

 私は、このソ連の三つの諜報機関の「親玉」は誰なのか、と考えてみたら、まずKGBは「警察」、OMSは「共産党」、赤軍第4部は「軍部」だということにハタと気が付きました。つまり、大日本帝国の組織に当てはめれば、KGBは「特高」、赤軍第4部は「陸軍中野学校」に当たるのではないかと思ったのです。OMSは、朝日新聞を下野した緒方竹虎も総裁を務めた内閣の「情報局」に当たるかもしれません。当たらずと雖も遠からずでしょう。

 ゾルゲは「陸軍中野学校」出身かと思うと、急に身近に感じでしまいますよね(笑)。もっとも、同じく死刑になった盟友尾崎秀実は、ゾルゲはコミンテルンのスパイだと最後まで信じ込んでいたようですから、尾崎は、ゾルゲが「情報局」の人間だと思い込んだことになります。この違いは大きいですね。尾崎は軍人嫌いでしたから、もし、ゾルゲが「陸軍中野学校」だと知ったら、あれほどまで情熱的にゾルゲに情報を提供しなかったかもしれない、と私なんか思ってしまいました。