国際化

私が卒業した大学の会報に素晴らしい文章が載っていたので、少しだけ引用させて戴こうと思います。(もちろん丸写しはしません)
久しぶりに「知的興奮」を味わいました。

二人の講演録です。一人は、ロシア語通訳・翻訳家の米原万理氏。
日本語の「国際的」は英訳すると、international 。しかし、「国際化」は英語で、 internationalization とは言わないそうです。Internationalization とは正確に「国際共同統治を構築する」という意味だとか。

それでは、「国際化」に相当する英語は何と言うでしょうか?それは、globalization です。しかし、日本語の「国際化」とは意味が正反対なのです。日本語の「国際化」は、外国の風習や慣習に理解を示して「寄り添っていく」ようなニュアンスがありますが、globalization は、「自分たちの基準で世界と地球を覆う」という意味で使っているそうなんです。まるで、「植民地化」と同義語ではありませんか。そもそも英語には日本語の「国際化」という概念がないということです。例えば、「過労死」がないので、そのまま karoshi と、音訳で英語にしたように。
これで、グローバリズムの正体が分かった気がしました。自分たちの価値観を押し付けるということなんですね。19世紀の帝国主義が途切れずに続いているということでしょう。

もう一人の講演録は、国際基督教大学大学院教授の村上陽一郎氏です。
米原氏のglobalization を受けて、この言葉は、歴史の世界ではウイッグ史観というふうに言い、つまり、近代というものを絶対的なものだと考えて、様々な世界に向かって押し広げようとすることなんだそうです。例えば、パプアニューギニアは文明的に遅れている「発展途上国」だから、近代化しなければならない、といった理論です。パプアニューギニアの人にとっては、今の伝統的な生活が乱されるし、余計なお世話ではないでしょうか。そんなことは構うことはないのでしょうね。

それにしても、「善の押し売り」とも言えます。一点の曇りもない正義感、使命感に駆られているから始末に終えません。不滅です。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」★★★★

最近、観たい映画が沢山あるのですが、アカデミー賞主要4部門(作品・監督・主演女優・助演男優各賞)を獲得したということで、優先的に「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観に行きました。以下は、無料で観ながらコメントギャラをもらっているプロと称する評論家とは違った、あくまでも、お金を払って観た一人の観客の意見です(笑)。

観終わった感想は、一言。「アメリカニズムの終焉」という言葉が浮かんできました。ここでは、アメリカニズムというのは、政治的、経済的、そして文化的にアメリカが世界に及ぼす影響のことを指します。グローバリズムといってもいいかもしれません。

つまり、これまで観てきたどのハリウッド映画と違って、観終わった後の「読後感」が全く違うのです。それは、救いようのない結末にあるのかもしれません。そこには、何のカタルシスも浄化もありません。何か、重苦しい、喉元に小骨が挟まったような、「引っ掛かり」がありました。アメリカ映画ではなく、むしろそれはヨーロッパ映画に近い。特に、ルキノ・ヴィスコンティの映画を観終わった後の気分に近かったのです。ヴィスコンティの例えば「ルートヴィッヒ」。ワグナーの庇護者で知られる大王が、芸術に殉じて狂死するまでが描かれますが、その「不快同律」のような感動は30年経っても忘れません。

これまでのハリウッド映画は、要するにハッピーエンドが大半でした。熱烈な恋をして結ばれたり、正義の使者が悪者を懲らしめたり、一人取り残された子供が泥棒を退治したり、アメリカンドリームを実現して大金持ちになったり、誤解が解けて和解したり…まあ、そんなところです。

しかし、この映画の場合、ヒラリー・スワンク演じる女ボクサー、マギーは世界チャンピオンという栄光を掴む寸前に奈落の底に突き落とされてしまうのです。まだ、観ていない人にこれ以上ストーリーを書いてしまうのは、失礼なのでぼかしますが、クリント・イーストウッド演じるトレーナーのフランキーも、最後は行方不明になり、観客は「置いてきぼり」を食ってしまうのです。どう、折り合いをつけていいのかわからなくなってしまうのです。まあ、観客は好きに解釈していいのですが…。

私の場合はそこに「アメリカニズムの終焉」を見ました。これまでのハリウッド映画なら、「格好よかった」「スカッとした」「素晴らしかった」と爽快感を味わうか、「ちょっと、甘すぎる。物足りなかったかな」と揶揄するか、いずれにせよ、まあ、3ヶ月もすれば、すっかり俳優も内容も忘れてしまうものです。しかし、よく言えば、この映画だけは尾を引きそうですね。

言葉足らずで申し訳ないのですが、これまでのハリウッド映画は現実離れした「ウサ晴らし」のために存在意義があったのですから、忘れてもらって大いに結構なのです。また、新しい映画を、もっと刺激的な映画を、と人々が求めるからです。しかし「ミリオン…」はもう、ヨーロッパ映画に近いのです。守りに入った老大国の映画と言ってもいいかもしれません。政治的に言えば、アメリカのユナラテアリズム(一極主義)の終焉と言っていいでしょう。

この映画で主演、監督、音楽を務めたイーストウッドといえば、「ローハイド」を思い浮かべる世代が多いかもしれませんが、私の場合はやはり「ダーティー・ハリー」です。「マグナム44」か何かをぶっ放して暴れまわる正義のヒーローでした。「しばらく見ないうちに年を取ったなあ」というのが正直な感想ですが、ハリウッドを代表する典型的なスターが旧態依然の体質に引導を渡したという意味で、この作品はエポックメイキングになるのではないかと思います。

タンポポ

都会に住んでいた頃は全く見向きもすることがなかったタンポポが、北海道では本当に見事に満開に咲いていました。その花の数は10個や20個ではないのです。一度、1ヘクタールくらいの広さの野原すべてが、1万本あるか、2万本かあるか、わかりませんが、タンポポの花で満開で、その真黄色に染まった草原の壮大さに圧倒されたことがありました。

それは、わずか一週間ほど前のことだったのですが、さっき、道を歩いていると、あんな色鮮やかだったタンポポもすっかり、白髪の綿帽子姿になっていました。あっけないものです。

これまで「雑草に毛がはえたようなもの」と、馬鹿にしていたタンポポの花も、急に愛しく感じられてしまいました。彼らにとって、1年に1回の晴れの舞台だったのですね。

来年、また、立派な花を咲かせてください。

我々はどこへ行くのか?

画家ゴーギャン(1848-1903)に不朽の名作『我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』(1897)があります。
私も青年時代から、このゴーギャンと全く同じアポリア(難問)に苛まれ続けてきました。

ところがつい最近読んだ津留晃一さんという人が書いた『津留さんが、心から伝えたかったこと』(英光舎)の中にこんなことが書かれていました。

「将来の自分がどうなるか、将来を見続け、将来を予想すればするほど、それが『今の自分』であることが分かる。過去の自分がどんな人間だったのか、過去を振り返れば振り返るほど、過去の自分とは『今の自分』だったことに気が付く」

これは彼の正確な言葉ではなく、自分なりに体内に取り込んで咀嚼したものなので、もしかしたら私の誤読かもしれません。いずれにせよ、この言葉は、長年悩まされ続けてきたアポリアの糸口を見つけた感じがしました。

そう、過去も未来もないのです。あるのは今しかないのです。過去も未来も今の自分を反映した幻にすぎないのです。アインシュタインの相対性理論だったか、おぼろげな記憶なので、確かではないのですが、望遠鏡で宇宙の遼か彼方を眺めて、眺め尽くすと、望遠鏡を眺めている自分の頭の後ろが見えてくるそうです。津留さんの本を読んで、この逸話を思い出しました。

終わった過去を悔やんでもしょうがないのです。

また、将来を不安に思うこともないのです。

今にしか回答がないのです。

Podcastingが流行

今、Podcasting(ポッドキャスティング)という「インターネットラジオ」が欧米で爆発的に流行しているそうです。

Podcasingというのは、アップルコンピューターの携帯型デジタル音楽プレーヤーの「iPod」と放送の「Broadcasting」を合わせた造語。つまり、乱暴に言えば、ブログのように個人発信できるラジオのことだそうです。音楽再生機もCDで止まってしまっている私としては、実物を見たことも聞いたこともありませんが、何やらすごい時代になったという想像力は働きます。米国の調査会社の予測によると、2010年までに、全米で1230万世帯がこのPodcastingを利用するそうです。

「文章・画像」の次は「音」、そうなれば、同時進行で「映像・音声」もできることになります。要するに「インターネットテレビ」というか、個人発信テレビです。

そうなると、既存のメディアはどうなるのでしょうか。もちろん、胡坐をかいているわけにはいかないでしょうが、私の予想では、なくなることはないと思います。今、見たいテレビ番組はほとんどないのですが、個人発信テレビとなると、もっと見たくないでしょう。只管、「孫の成長」を記録していたり、「かわいいペット」の「芸」を見せられたりすることでしょうが、本人(個人)が真剣になればなるほど、それ以外の人は「引いてしまう」と思うのです。

皆さんのご意見は如何でしょうか。

ゾロアスターかく語りき

ゾロアスターは、こう語りました。

「自分を戒めてはいけません。

自分に責任があるとしたら、自分を幸せにすることです。それ以外他にないのです。
だから、したいことをすればよいのです。
今、自分がしたいことをさせてあげることが一番の幸せにつながります。
誰かが幸せにしてくれるわけではない。
自分自身が自分を幸せにするしかないのです。

自分が心地良いと思う方を選んでください。ワクワクする方を選んでください。
それが、地球貢献になります。その喜びで自分の波動をあげてください。

苦しむことを選ぶのは、その人がその苦しみを体験したいから選んでいるだけです。
すべて自分です。苦しみたいのも、悲しみたいのも、その人の心が決めています。
でも悲しみはもういいです。もう手放しなさい。
意識の改革で、自分を幸せにすることです。そういう風にすることで、エネルギーの奪い合いはなくなり、戦争もなくなり、世の中は平和になります。

自分を許すのです。そうしたら、人も許せます。殺し、殺されたという呪縛から逃れられます。
それが、宇宙とつながる新しい生き方なのです。
自分が自分の小宇宙の創造主になってもいいのです。そういう新しい時代がやってきたのです。

人は、体験するために生まれてきました。味わうために今があるのです。だから、今、生きていることを味わってください。
そして、必ず、味わい切ったら変化が現れます。つまり、カルマ、因果です。

親子喧嘩や夫婦喧嘩も上司との確執もライバルとの争いも、やりたいだけやりなさい。
どうぞ、やりきってください。あなたが望むなら。気が済むなら。
味わったら今度は違う体験をしたくなります。
例えば、散々、不安と恐怖を味わいつくせば、心の平安と安寧を得るのです。
だから、不安と恐怖を味わっている人は、そのまま味わっていていいのです。
それが必要だから味わっているのです。
良い悪いではないのです。
判断してはいけません。
何かが良いと思った瞬間、悪い物を生み出してしまうのです。
ただ、体験すればいいのです。
結果を求めてはいけません。

命は等しく、病気だろうが、寝たきりだろうが、タンポポだろうが、キングサーモンだろうが、等しいのです。生きているだけで奇跡。本当に生かされているのです。守られているのです。すべて、何かの役に立っているのです。あなたが喜ぶことで、周りも喜ぶ。他人は関係ないのです。

人は見たいものしか見ないのです。自分の心にあるものしか外側を見ないのです。「あの人、苦しそう」と見えるのはあなた自身の中に苦しみがあるからです。人の悲しみを見て、自分の悲しみをみるのです。自分の心を自分で見ているのです。すべて幻なのです。

宇宙の真理を語るのが本物です。

真実は外側にはない。すべて内側にあるのです。
誰も解放してくれない。自分自身でしか解放してくれないのです。
それがあなたの英知です。

山に行けば、山の自然に癒される。海に行けば海の自然に癒されるのです。
そこには取引がない。自然はただただ与えてくれるのです。
自然は喜びを与えてくれるのです。

まずは楽しむことです。
恐れや不安は幻です。
愛を受け入れ、愛を与えればいいのです。
過去が未来への不安を生みます。
今ここだけが愛を知るところです。今、ここにある一瞬しかないのです。

まず自分自身を愛しましょう。好きなことをして自分に愛を注ぎましょう。
コーヒーカップに8分目しか愛が満たされていないのに、人に愛を与えても無理です。「奪われた」とか「盗まれた」といった感覚に襲われます。
しかし、自分のコーヒーカップいっぱいに愛が満たされ、さらに自分自身で愛を満たしていれば、その愛は溢れ、周りから、その愛を嗅ぎつけて人が寄ってきます。
しかし、あなたは何の見返りも何の結果も求めません。溢れている愛を持っているだけだからです。

自分自身に愛を注ぐといっても、難しいことではありません。
いつもニコニコして、自分の好きなことをしていればそれでいいのです。
もう脱却しましょう。「何かをしなければならない」という妄想から離れましょう。あなたは散々、辛酸を嘗めてきました。もう十分ではありませんか。

自分自身の声に耳を澄ましてください。」

ゾロアスターは、そう語りました。

野人

今日は仕事をさぼって、鹿追町まで野人を見に行きました。

野人は目も留まらぬ速さで、タランボを採ったり、露天風呂に入ったりしました。

「野人」といっても、皆さん、誰も信じないでしょう。
ですから、写真を撮っておけばよかった、と後悔しました。

紫竹ガーデン

今日は北海道帯広市にある紫竹ガーデンに行ってきました。

チューリップが満開でした。

何と220種類のチューリップが160万株もあるそうです。壮大、絶景、唖然です。

帰り道、牛さんがいました。とても好奇心が強く、向こうから近寄ってきました。

ロバさんの方はとても臆病者で、逃げてばかりいました。
最近、本を読まなくなりました。本を捨てて田舎に出て、動物とお花と会話しています。

「ベルリン・フィルと子どもたち」★★★★

映画「ベルリン・フィルと子どもたち」を見ました。感動のドキュメンタリーといった至って陳腐な感想しか浮かびませんが、「見てよかった」と思いました。最近、見たい映画が目白押しに公開され、「インタープリター」にしようか「キングダム・オブ・ヘブン」にしようか「クローサー」にしようか、はたまたアカデミー賞の「ミリオン・ダラー・ベイビー」にしようか迷っていたのです。

結局、「易占い」でこの映画に決めました。
正解でした。

内容は、シンプルです。「プロジェクトX」風に言えば、中退者が多く、就職できても、町工場ぐらいしかない、将来の夢も希望もない「荒れ果てた」高校の子どもたちに、急にあのベルリン・フィルとダンスで競演するという話が持ち込まれ、最初は、ふざけて、やる気のなかった子どもたちが、徐々に、使命感に駆られて、最後は見事な舞台を披露するという話です。

いや、少し「脚色」しすぎました。ベルリンに住む8歳から20代初めの「子ども」たちが無作為で選ばれて、サイモン・ラトル率いるベルリン・フィルと競演するというのは事実です。

選ばれたのは、イゴール・ストラヴィンスキーの「春の祭典」。鳥肌が立つほど素晴らしい演奏でした。ダンスを踊った子どもたちは、これまでほとんどクラシックを聴いたことがないようでした。またまた「プロジェクトX」風に言えば、恵まれない下層階級出身の子どもたちです。中には内戦で両親らを殺害されて天涯孤独でドイツに渡ってきたナイジェリア出身の16歳の少年もいました。

ベルリンは、ベルリン・フィルハーモニーを持つだけに、クラシックの本場のように思っていたのですが、どうやら、ほとんどの若者は今流行りのラップに夢中のようでした。どこの国でも同じなのですね。

大団円はやはり、250人の子どもたちが、ベルリン・フィルの演奏に合わせて、踊るところです。何か涙がとまりませんでした。「あの荒くれのヘンリーの奴が…」と、どつきたくなりました。おっと、また脚色してしまいました。

最後にサイモン・ラトルの言葉を。「ベルリンの経済破綻は想像以上だった。しかし、芸術は贅沢品ではない。水や空気と同じように必需品なのだ」

介護施設、指定取り消し

公開日時: 2005年5月27日 @ 18:38

北海道池田町にある町立病院(80床)が医師の数を不正に水増し申請などしたとして、指定介護療養型医療施設(48床)の指定を6月1日付で取り消されることになりました。

同病院は2000年4月1日に介護施設の指定を受ける際に、標準医師8人、薬剤師3人と申告していましたが、その後の立ち入り調査で、医師4人、薬剤師1人は、名義を借りた不正の水増し申請だったことが分かったのです。

また、2002年4月1日に増床指定を受けた際、書面審査調書で医師数などを虚偽に報告していました。さらに、同病院は、2000年7月から01年3月にかけて、1691万8058円の介護給付費を不正に受給していたことも分かったのです。このお金は、介護保険法により、100分の40を掛けた額を保険者に払い戻さなければなりません。保険者の大口、つまり大多数は池田町です。

ここで、素朴な疑問が湧きました。介護給付費を不正受給したのは池田町立病院で、不正受給金を返還しなければならないのは、池田町です。それが、どちらも代表者は、池田町長なのです。蛸が自分の脚を食べているような話です。

ということは、誰がこの事件で一番被害を受けたのかというと、本来なら介護保険を受けられた入院している高齢者なのです。介護療養型医療施設の指定を取り消されると、再申請して指定されるまで、5年くらいかかるそうです。それまで、高齢の入院患者は待つことができるのでしょうか。他の地域なら当然受けられるはずの行政サービスだったのに、とんだ割を食ってしまったわけです。

また弱者が虐げられる姿を見てしまった感じです。