「お気持ち」に接しまして

Skytree

8月8日(月)午後3時。

何故この日、この時間が設定されたのか分かりませんが、天皇陛下の「お気持ち」を表明されたビデオテープが流されました。

政治的色彩は極力排除されようとのお考えか、直裁的な表現は避けておられましたが、「生前退位」したいという「お気持ち」は、多くの国民なら斟酌できたのではないかと思っています。

ただ、「生前退位」に反対する一部の勢力もいるらしく、彼らが「玉音放送」の録音盤を奪取しなかったことは幸いです。「日本のいちばん長い日」の場面を思い起こしてしまいますから。

ビデオテープは、日本だけでなく、英国など皇室と所縁のある王国にも生中継されたらしいですね。リオデジャネイロ五輪が開催中で、世界中の眼がオリンピックに注がれていた半面、それだけ、天皇の言動について世界的にも関心を集めていたということでしょう。

私の世代は、まだギリギリ天皇制に関してはタブー視されていて、友人らとあからさまに議論したことはありません。

昭和天皇の戦争責任に言及しようものなら、右翼から殺害されるという危機感もありました。

しかし、今上陛下が即位されて30年近く経ち、戦後生まれが8割を占めるようになった現代では、天皇制に関しての議論は、それほど身の危険を脅かされるほどの禁忌事項ではなくなったことは、確かでしょう。

「國體護持」という複雑な問題も絡み、茲で自分の意見を開陳することなど烏滸がましいのですが、今や象徴天皇として多くの国民から認められ、尊崇されていることは事実であり、天皇制を否定する人は、左翼主義者の一部の人に留まるのではないでしょうか。

私自身、今上陛下が皇太子時代、小生がまだ高校生だった頃、何か体調が悪くて早退したところ、駅の周囲が異様な人集りで、何が起きたのかと思ったら、皇太子夫妻(当時)が、こんな田舎の養護施設に慰問に来られたという話を駅員さんに聞いて、本当に感激したことがありました。

私は、単なる生来の野次馬ですから、本当に目と鼻の先で、手を伸ばせば届く至近距離で、電車から降りて来られた皇太子夫妻を拝謁することができました。警備は殆どなかったかのように簡素でした。高校生ながら「大丈夫なのかなあ」と心配してしまいました。

そして、もう25年も昔になりますが、ウィーンに行ったことがあり、オーストリア政府の職員の方とお話する機会があったのですが、その方は「天皇がいる日本が羨ましい」と言うのです。

オーストリアは、御案内の通り、第一次世界大戦前までは、神聖ローマ帝国の流れを汲むハプスブルク家が未だ健在で、北はフランドル地方から南はイタリア国境まで、ヨーロッパ大陸の大部分を領土としていました。

それが、敗戦などで王家はドンドン衰退し、領土も欧州中央の小国に堕ちてしまいます。

ウィーンの歴史美術館に何で、フランドル地方の画家ブリューゲルの絵画があるのか、不思議でしたが、ブリューゲルの時代は、フランドル地方はハプスブルク帝国の一部であり、彼の絵画が首都ウィーンに保管されるのは極めて自然だったのですね。

件のオーストリア政府の女性職員は「我々は、ハプスブルク家というバックボーンを失い、小さな貧しい国になってしまいました。その点、日本にはバックボーンがあり、国民一体となって発展しているので、羨ましい」と言うのでした。

さて、今回の「生前退位」の話ですが、一部の反動主義者たちは、何かと、明治時代に革命政権が作った「皇室典範」を金科玉条のように引き合いに出して、反対しています。

天皇家の長い歴史を勉強すれば、推古、持統、斉明天皇ら多くの女帝が存在したわけですし、生前退位の例も数多ありました。

結局、天皇の権威を利用しようとする輩がいるので、話がややこしくなってしまうだけなのです。

皇太子が空位になるのなら、皇太弟の名称でもいいではないですか。元号も引き続き平成でも、改元してもどちらでもいいのではないでしょうか。

焦点は、御高齢になった天皇の健康問題です。激戦のあった旧戦場への海外慰霊の旅、被災地への慰問と、普通の後期高齢者ではとても体力的に持たないことでしょう。

陛下の御希望通り、一刻も早く生前退位されることが望ましいと私も考えております。

日本の将来は暗い?

ピカチュウ

この渓流斎ブログ。平日は、電車の中で、スマホで書いてます。

いつも、御丁寧に御親切に送って頂いている松岡総裁からの御写真は、パソコンに保存しているため、そのためゆえに、自宅でパソコンに向き合う週末にしか、写真掲載させて頂いていない、という事情が御座いましたのです。

その松岡総裁から久し振りにメールが御座いまして、「渓流斎ブログの中で、小生が『資本論』をドイツ語の原書で二回読破したような趣旨のことが、書かれておりましたが、正確には、日本語で『資本論』第1巻、第2巻、第3巻を一回、ドイツ語は、マルクス自身が書いた第1巻を読んだだけです。『経歴詐称』になりますから、御訂正下さい」とありました。

彼は、非常に超真面目な方です。

無鉄砲な私は「読者は、そんな真面目に読んでいるわけではありませんし、たとえ誇張した言い方でも気にしていません。まして、『経歴詐称』で訴える人はいないのではないてせうか」といったような生意気な返事をして、お茶を濁してしまったわけです。

私は、ぶっきら棒です(笑)。

で、「資本論」を取り上げるきっかけになった「希望の資本論」の中で、佐藤優さんがこんなことを言ってました。

早稲田大学政経学部3年生と、慶応大学総合政策大学院1年生に、「明治維新」や「日露戦争勃発」などの年号を入れろ、という問題を100題出したそうです。

そしたら、早稲田は平均5点、慶応は4.2点だったそうです。勿論、100点満点中です!40点、50点ではありません。

つまり、100問あって、そのうちわずか、4つか、5つしか答えられなかったというのです!

早稲田、慶応と言えば、高偏差値の「私学の雄」で、一応、超一流企業の就職に、その看板だけで有利に働き、一生安泰した生活ができ、希望の未来が保障されている、と言われております。

それが、この体たらくですからね。

はっきり書きましょう。

日本人は、馬鹿になった。

どうせ、私立文系だから、ろくに数学の勉強もしていないでしょう。それなら、重要な歴史の年号を覚える時間なんて有り余るほどあるはずです。単に学生の本分を忘れて、遊び惚けているに違いありません。

この程度なら、お隣りの中国韓国どころか、ミャンマーやカンボジアにも負けます。何処の国の若者も、必死に命を懸けて頑張っているというのに、この日本人の劣化はどうしたことでしょうか?

現に、日本の最高学府東京大学も、世界の大学ランキングで、シンガポール国立大学や香港大学より落ち、ここ2、3年前からアジア首位からも陥落しています。

日本の将来は暗い、のでしょうか?

広島原爆忌に

五大連池 魚はわが店で Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 まさに盛夏。

 昨日は8月6日の土曜日。広島原爆忌。

  不謹慎にも都内の演芸劇場にまで、生の落語を聴きに行こうかと思いまして、開演30分前に並んだのですが、係の人から「もう、ここから、立ち見です」と言われてしまいました。

 まさか、5時間も立って見ているわけにはいきませんから、諦めましたよ。天罰だったのかもしれません。

 係の人に聞いたら、切符を求めて、何と朝の9時から並んでいる人もいたとかで、今の現代人は、つくづく、現実生活が面白くないから、笑いを求めているんだなあ、と思い知らされました。

五大連池 野菜も豊富です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 このまま、すごすごと帰ってしまうのも、何ですから、何年かぶりに、観音様にお参りしまして、仲見世通りは、あんまりにも、外国人観光客でごった返しているもんですから、比較的空いている北側にある「長寿庵」で、天もりとレモンハイで真昼間から一杯(だけ)きゅーとやって、憂さを晴らして帰りましたよ。

 田舎から遠路はるばる蒸気機関車に乗ってわざわざ、都心に出てきたので、汽車賃を取り戻さなければいけませんからね(笑)。そこの演芸場は、前売りも予約受付もなく、「満員御礼」では、誰も責められず、運がなかったと諦めるしかありません。(もしかしたら、代理店と手を組んで団体客優先だったのかもしれません。定員の320人も並んでいませんでしたからね!)

 まあ、都心に出たおかげで、やっと、ピカチュウを捕まえることができましたので、無駄骨を折らなかったということにしますよ(笑)。

 序ながら、江戸の老舗蕎麦屋のランキングを見てみたら、嘘か誠か、(1)まつや(2)砂場系(3)藪系(4)更級系(5)能登治(6)松竹庵(7)長浦(8)蓮玉庵(9)あさだ(10)吉田屋…あたりで、長寿庵系は圏外でしたね。

でも、そこの長寿庵は、値段もそれなりでしたから、美味かったでしたよ。

五大連池 ロバは良き友 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 広島原爆忌ということで、夜、TBS系の「報道特集」を見ていたら、広島駅の旧国鉄職員の人たちが、被災者の援護、救護のために、鉄道復旧に全力を尽くされていたことを証言を交えて報道していました。

 何か、国鉄の社史にも載っていなかったらしい秘話で、元国鉄職員の方は「原爆の被災者の中には、衣服が燃えて、全身裸で、皮膚もすべて赤むけてしまい、両手を挙げて歩いていました。肘が脇腹や腰に当たると痛いからです」などと証言しておりました。

 そう言えば、私は、子供の頃から、これまで多くの原爆絵や写真を見てきていたというのに、被爆者が何故、両手を身体から離していたのか、疑問も想像も、及びもつかなかったことを反省してしまいました。

 広島県郊外から、被爆者を看護するために動員された女子高校生らが、周囲も自身も何の知識もなかったため、そのまま原爆投下地広島市を訪れ、二次感染で放射能を浴びてしまい、それから何年か経って、ガンに侵されて多くの友人を亡くしたという80歳代の女性も出演しておりました。自身も何度もガンの手術をして、死線を乗り越えてきた方でした。

全身、原爆で焼かれて衣服がなければ、身分証明書や本人が分かる何もかもが、焼失してしまったということでしょう。本人も口がきける状態ではないまま、亡くなった方も多かったらしく、となると、何処の誰方かも分からず亡くなり、「無縁仏」のまま、多くの方が亡くなった墓所として「慰霊塔」がありました。

思わず、涙が出てきて止まりませんでした。

こうして多くの非戦闘員である無辜の市民を虐殺した原爆です。「何百万人ものアメリカ人の若者の生命を救うため」と、原爆投下にサインした米国軍最高司令官のトルーマン大統領(民主党)の弁明は、この世に本当に神様がいらっしゃるのなら、正当化できるのでしょうか?

 戦後71年。体験者の高齢化で、今後ますます、直接の証言者の皆様が亡くなられてしまうと思いますが、こうして、語り続けられ、記録に残していかなければならないという強い思いに駆られました。

「希望の資本論」

Quoi ?

鈴木崇夫です。

友人から「必ず読め」と勧められて、池上彰・佐藤優対談「希望の資本論」(朝日新聞出版)をやっと読了しました。

毎日、通勤電車の中では、スマホでこの渓流斎ブログを執筆してますので、なかなか読書の時間が取れませんのですねん(笑)。

正直、この2人とも、あまり好きくありません(笑)。いや、どちらかというと、あまりにも聡過ぎて、許容範囲を越えてます。たかが、と言っては怒られますが、2人とも映画スターでもタレントでもない作家かジャーナリストなのですから、まさか、文豪椎名桜子じゃあるまいし、世間様に対して、見たくもない顔の露出し過ぎではないかしら。プライドの高い本人らが聞いたら、それゃあ怒りまくるでしょうが。

と、こうして、「見た目が9割」みたいな話ばかりしましたが、内容は、残念ながらピカイチでした。私のような不勉強な人間でも、マルクスの「資本論」を読んでみるか、とその気にさせてくれる功績は非常に大きいです。(松岡総裁は、最高学府経済学部時代、ドイツ語で二回も「資本論」を読まれたそうですが)

どうやら、お二人とも、「資本論」に関しては、共産主義暴力革命の理論的支柱として、崇めていないようです。それは私も賛同します。彼らはむしろ、反共主義者と言っていいでしょう。

現代のように、労働の形態が変わって、四年生大学を出ても、非正規労働者になってしまえば、一生低賃金のままで、結婚さえできない。少子高齢化に貢献する要因になっています。

日本人サラリーマンの平均年収が400万円なのに、外資系の投資銀行にでも入れば、二十代でも軽く5000万円も稼ぐというこの格差社会。もっとも、軽く、と書いたのは間違いで、相当心身ともに破壊される程消耗することは確かですが…。

世の中、小賢しい者勝ちで、うまく立ち回ったもん勝ちということになります。

この本は、対談集で、要約しますと、池上は「『資本論』を読めば、自分の社会での立ち位置がよく分かる」と断言します。

佐藤は「『資本論』を読むと、論理的思考が確立する」として、怖いものがなくなる、といった風情です。

確かに、佐藤には怖いものが全くなさそうですね(笑)。論理的思考で彼に勝つことができる人間は、世界中にそういない感じだからです。書物代に6000万円使った!と豪語しているインテリさんですからね。

何しろ、佐藤は、公立高校としては全国ナンバーワンとして知られる県立浦和高校の時代に、当時埼玉大学教授だった鎌倉孝夫氏から、個人教授で「資本論」を読破したというんですからね。

高校生が、ですよ!

彼の強さのバックボーンは、小菅生活か、同志社時代の神学論にあるかと思いましたら、高校時代の「資本論」だったとは!

感服致しました。

でも、あくまでも、池上・佐藤両氏の意見に100%賛成であるというわけではなく、彼らの理論が100%.世間で通用するわけではないとも思っております。

読書体験の豊富さは、誰にも負けないでしょうが、それが、正義や世間的認知や実効性と関係があるかのかと言えば、残念ながら、必ずしもそうでもないものなのです。

ま、気落ちしない下さい。これは、私のせいであるというわけでもありませんから。

監視社会熱烈到来網

明治年間創業

コメントのunknown様には見事に見透かされましたね(爆笑)。
でも、昨日は、口角泡を飛ばして叱咤激励したおかげで、少し元に戻ったようです(笑)。

◇8月4日(木)のアクセス数
閲覧数=190 PV
訪問者数=110 IP
順位=8063位

今という時代。

やはり、ネット抜きには語れなくなりました。私も普通の人より早く、1995年に初めてインターネットを始めましたが、思い起こせば、1984年のロサンゼルス五輪のときに、その先駆けに触れていました。

コンピューター室がありまして、そこでは、試合結果や選手のコメントまで(英語で)出てきました。勿論、プリントアウトもできました。

そして、何よりも、今のようなメールも使えたのです。今から32年も昔ですよ!ライバル社の人間が、私が彼のメールを覗き込んで見た、と顔を真っ赤にして怒りまくっていたことを思い出しました。

私は見ていませんでしたが、どうせ、そいつは、卑猥な口説きメールをおねえちゃんに書いていたのでしょう。そういう人間でしたから。

その後、パソコンが、ここまでパーソナルなツールになるとは思いもよりませんでした。1980年代末、欲しくて堪らなかった「アップルII」が、1台200万円もしたことを覚えています。買えるわけがありません。

しかし、その進化も頭打ちで、「究極のツール」のiPhoneの売り上げが、最近、世界的にも落ちているということで、もう、イノベーションも終わってしまったのか、危惧しています。

ただ、情報発信の仕方が随分変わりましたね。監督官庁も、多国籍企業も、そして、スポーツ選手や芸能人まで、自分から直接情報を発信することになりましたから、別に、記者クラブに所属しない人間でも、報道関係の人間でなくても、同じように同種類の情報にアクセスすることができるようになりました。逆に言うと、自分たちの都合の良い情報しか流されていないのですが。

ユビキタスで世界中の株式や為替のリアルタイムの数値も入手できますので、誰かさんのように、脱税ではなく節税のために、会社をシンガポールに設立して大儲けすることもできます。

情報に関しては、自分の好きな、自分が信じる正しいと思う記事だけに接触することができます。

ですから、サヨクはますますサヨクに、ウヨクはますますウヨクになることができます(笑)。

ディズニーやキティちゃんなど自分の好きなアイテムだけに囲まれた気持ちの良い空間を築き上げることと一緒です。

「それがネットの悪いところ」と批判する人もいますが、何も新聞でもテレビでも同じです。テレビは、自分の好きな番組だけ見て、嫌いな政治家や評論家やタレントが出てきたら消すか飛ばすし、新聞だって、同じように取捨選択していることでしょう。

SNSにしても、電話の音声コミュニケーションが、文字情報に変わっただけで、内実は変わりません。やってることは一緒。

ますます息苦しい監視社会にはなりましたが、戦前の治安維持法で特高から四六時中監視されていた時代と比べれば、現代は天国ですよ。

勿論、これから先、どうなるか分かりませんけど…。

老婆心にも程がある

Paris, Garia

◆8月03日のアクセス数
閲覧数=159PV
訪問者数=84IP
順位=10379位

何てこったぁ。
昨日は、あれほど長時間掛けて苦労して書いたのに…。しかも、電車の中で…。
老婆心にも程があるものですね。

折角、有識ある知性主義の皆々様を覚醒して差しあげようと思ったのに、この程度の反響では、休刊も考えざるを得ませんね…。疲れてきました。

渓流斎が、このブログに人生の何分の一もの時間を無駄に消費しているのか誰にも分からないと思われます。議員や都知事のように何の報償もありませんから、骨折り損の草臥儲けという古い格言を思い起こします(笑)。

◇勲章大国ニッポン

実らない愚痴不満はこの辺にして、日本人ほど勲章好きの民族は世界でもそう多くはないでしょう。

ソ連が最盛期だった頃の最高指導者たち、スターリンもフルシチョフもブレジネフも、ジャラジャラと胸に納まりきれないほどの勲章をぶら下げておりましたが、それでも、世界的によく知られて権威のある勲章と言えば、フランスのレジョンヌ・ドヌール章でしょう。

でも、この勲章を創設したのはナポレオンですから、まだ200年かそこらしか経っていません。

恐らく、世界で最も古い冠位や勲章は、大陸中国かもしれませんが、異民族が何度も交差支配する断続的な歴史を持つ国でしたから、「万世一系」で現代まで連綿と続いているのは、我が国日本ということになるでしょう。

1200年前の律令国家がつくった「正六位」だの「従五位」といった冠位を、いまだに、この21世紀という時代にですよ、地方の小学校の元校長先生や消防団団長さんらに米寿のお祝いに贈与したり、亡くなった後に授与したりしている事実を一体何人の国民の皆様がご存知でしょうか?

芸術の世界も然り。

一番偉い芸術家は、「人間国宝」(無形重要文化財保持者)と思いきや、上には上がありまして、人間国宝よりも、定員120人の終身会員制である「芸術院会員」の方が、格が上になります。

文学、美術工芸の世界だけでなく、能狂言、文楽、歌舞伎の世界も同じです。

さらに、芸術院会員よりも上がありまして、それが、「文化功労者」となります。功労賞ではありませんよ(笑)。功労者です。毎年、この中から「文化勲章」受章者が決まるわけです。

これらの格差は、年金に如実に現れます。

人間国宝=200万円
芸術院会員=250万円
文化功労者=350万円

文化勲章は、功労者としての年金があるだけで、授与されるのは勲章だけ。ですから、日本国では最高の栄誉となります。

ノーベル賞を受賞しますと、自動的に文化勲章が授与されますが、文学賞の大江健三郎さんが辞退したことは有名ですね。詳細は分かりませんが、思想的な側面があったようです。

文化勲章を辞退した芸術家の中に、私の大好きな陶芸家河井寛次郎を見つけました。

彼に関しては、大変な職人気質の人で、そんな栄誉や威光に自分には縁がない、といった理由で辞退されたようで、彼らしいなあ、と思いました。

権威を認めない反骨精神のような大上段にも構えていません。

ますます、河井寛次郎が好きになりました。作品は、自分では買えないので、見に行きたくなりました。確か、湯河原にありましたよね?

【補記】河井寛次郎さんの作品は、京都・東山五条の「記念館」か、東京・駒場の「民藝館」で拝謁できますね。

「日本のいちばん長い日」と講談社

Ginza. Tokio

ポケモンGOの郷しろみです。

渓流斎ブログには、「偶然の一致」という文字はありません。

またまた、「必然」が起こりました。

一昨日、映画「日本のいちばん長い日」のことを書きました。そして、昨日は、講談社のことを書きました。

実は、この両者は、必然的に繋がりがあったのです。

具体的に言いますと、「日本のいちばん長い日」の主人公で、最後の陸相を務め、終戦記念日に割腹自決を遂げた阿南惟幾(あなみ・これちか)中将と講談社とは、姻戚関係があるということです。

ご説明申し上げましょう。

講談社の創業者野間清治という人は、今の群馬県桐生市出身です。(1878年生まれ)1909年に大日本雄弁会を設立し、11年には講談社と改称して「講談倶楽部」「少年倶楽部」「キング」などを発行します。それら雑誌は大当たりして、彼は「雑誌王」と呼ばれ、一代にして、大出版社に育て上げますが、1938年、まだまだこれからというのに59歳の若さでで急逝します。

その後、長男恒(ひさし)が2代目社長に就任しますが、彼も既に病に冒されており、1カ月も経たないうちに、29歳で早逝してしまいます。

そこで、創業者清治の妻サヱが3代目社長に就いて株式会社化し、1941年(真珠湾攻撃の年)、サヱの姪っ子の夫で、講談社に勤めていた高木三吉(のち取締役)の弟省一を、長男恒の寡婦登喜子に婿入りさせます。

当時、高木省一は、東京帝大卒業後、満鉄に勤めていました。彼は、終戦直後の荒波を乗り越えて講談社を復興し、「講談社中興の祖」と呼ばれた4代目社長野間省一です。

ちなみに、妻登喜子の父は町尻子爵家、母は賀陽宮家の出です。また、2代目恒社長には、3人の弟がいたと言われていますが、何故後継者にならなかったのか不明です。(ただし、次男も早逝されたようです)

そして、ここからがハイライト。1965年、「中興の祖」省一の一粒種だった長女佐和子の婿に迎えたのが、 「日本のいちばん長い日」の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の五男惟道(これみち)というわけです。惟道は、 東大卒業後、三菱電機に勤務しておりました。

4代目野間省一が長い闘病生活の末、亡くなった後の1981年、この野間惟道が、5代目社長に就任します。しかし、この阿南陸相の血を引く5代目も87年に、 49歳の若さで急逝してしまいます。新雑誌創刊など、次々と新機軸を生み出しますが、ストレスと過労と深酒が祟ったようです。

6代目社長は、寡婦となった野間佐和子が就任し、2011年には、急逝した佐和子社長を継いで、息子の野間省伸(よしのぶ=47)が7代目の社長になっています。

こう見ていくと、講談社の経営方式も、特別に優秀な番頭を婿入りさせて、代々継いでいく江戸時代の商法とほとんど変わりませんね。

意外と知られていませんが、マスコミという出版社も新聞社も、実は創業者一族による経営がほとんどで、個人商店みたいなものなのです。

それを多くの人が勘違いして、「不偏不党」で「公明正大」やら「社会の木鐸」とやらと不作為の信頼を置いているから、間違いを起こすのです。

マスコミ報道は、GHQの「3S政策」と同じように、恣意的です。情報発信には必ず裏があります。よおく心得よ、かし。

「大陸新報」「戦線文庫」「陣中倶楽部」

iCloud

大島テラスです。

もうツィッターやめよかなあ、と思ってます。

私の通勤電車は、最近とみに頻発に遅れることが多く、その理由が、人身事故なのか、パンタグラフの故障なのか、急病人なのか、駅で緊急停止ボタンが押されたのか、ツィッターで路線検索すれば、何らかの情報が即座に入るので、便利に使っていたのです。

でも、他のページの中には不愉快な側面もありますね。特に、ネット業界特有の隠語を使った脅し、貶し、侮蔑、蔑視、威丈高、讒謗、誹謗中傷、見下しには不愉快を越えて、怒りすら覚えてきました。

「そっかあ!こんなもん、見なきゃいいんだ」。こんな簡単な、単純な動作すら忘れていました。

◇宣撫活動を率先した大手マスコミ

ここ数年、ネット上に現れる論調の中に、「朝日新聞は、サヨクで反体制的で怪しからん」というものが多数占めているようです。

そう言う方は、山本武利著「朝日新聞の中国侵略」を読んでいないのでしょうね。2011年に文藝春秋から刊行されました。

朝日新聞は、競合他紙に先駆けて、戦争中に、上海で邦字紙「大陸新報」を創刊。休まず発行し続けて、挙国一致の戦意高揚の宣撫活動を行ってきました。同書は、山本氏がその実態を余すところなく暴いた労作です。

これで、朝日新聞は決してサヨクでもリベラルでも何でもなく、まして反体制派でも何でもないことが分かります。大衆迎合、いや部数拡張のために尖兵となって、体制と武器商社と手を結ぶ単なる営利企業に過ぎないことが分かります。何しろ航空部門(後の全日空)を創設するほど大儲けしたわけですから。

山本武利氏の著作を公にした文藝春秋も、同じような、これまでひた隠しに隠してきた「脛の傷」と言いますか、「武勇伝」があります。

これまた、戦時中に海軍からの委託で発行された「戦線文庫」という雑誌がありました。版元の興亜日本社は、実質的に文藝春秋の子会社です。

この雑誌は、今で言う「週刊プレイボーイ」とまで言っては、言い過ぎかもしれませんが、当時のアイドルだった原節子、高峰秀子、田中絹代、山田五十鈴ら大スターのグラビア写真が満載の娯楽誌です。前線の兵隊さんらのために無料で配布されたそうです。

まあ、慰問誌みたいなものでしょう。

春陽堂、改造社、実業之日本社、新潮社などを押しのけて、昭和初期には日本一の版元に躍り出た大日本雄弁会講談社も黙っていません。

戦後、講談社に改称されるこの大出版社は、帝国陸軍からの委託を受けて、「陣中倶楽部」を発行します。海軍と同じような慰問誌です。

この二誌は、他誌が言論弾圧や紙の配給の停止に脅えながら発行しているのを尻目に、戦時中は一度も休刊されず、発行し続けられました。

武勇伝が逆巻く現在では、隠すも隠さないも、この「戦線文庫」も「陣中倶楽部」も復刻版が発売されています。

以上、押田信子著「兵士のアイドル」(旬報社)などを参照しました。

「日本のいちばん長い日」の映画化はもう無理

日本の夏、緊張の夏

渓流斎です。

昨年は、旅行で異国の地に行っておりましたので、好きな映画も見られませんでした。

そこで、昨年見られなかった映画で、どうしても見たかった作品の一つである原真人監督作品「日本のいちばん長い日」のDVDのレンタルを借りて見てみました。

がっかりでしたね。
配役を見てみませう。

阿南惟幾(陸軍大臣) – 役所広司
昭和天皇 – 本木雅弘
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 山崎努
迫水久常(内閣書記官長) – 堤真一
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 松坂桃李

家で寝そべって見ていたら、疲れていたので、途中で寝てしまったぐらいです。

ご案内の通り、この作品の映画化は今回が2度目です。原作は、今は歴史探偵として大活躍の半藤一利さんが1965年に発表したもので、発売時は、大宅壮一編の名前で発売されました。半藤さんが当時、文藝春秋の社員だったため、とか、販売戦略のためとか、色々理由があったようですが、真実は知りません。

それが、ベストセラーになり、1967年に映画化されるわけです。

実は、この渓流斎、この作品を父親に連れられて封切りで見ているんですよね。確か、後楽園にあった映画館です。当然今はありませんが、とにかく、記憶があやふやで水道橋にあった映画館だったことは覚えています。

白黒映画でしたが、長く記憶に残る鮮烈な映画でした。特に、畑中少佐役の黒沢年男が、常軌を逸して近衛師団第一師団長の森中将を殺害し、その後、手が硬直して、日本刀が手からなかなか離れない場面には、度肝を抜かれました。ハイライトシーンだっと思います。

昭和天皇の玉音放送の録音盤を出せ、と脅されて頭に拳銃を突きつけられたNHKの放送局員は、確か、若き加山雄三さんだったはずです。

今は便利で、チラッと「1967年版」の概要を見てみたら、腰を抜かすほど吃驚。監督は、名匠岡本喜八で、脚本は「七人の侍」の橋本忍さんではないですか。

配役は、

阿南惟幾(陸軍大臣) – 三船敏郎
昭和天皇 – 八代目松本幸四郎
鈴木貫太郎(内閣総理大臣) – 笠智衆
迫水久常(内閣書記官長) – 加藤武
畑中健二(陸軍少佐、軍務課員) – 黒沢年男

このほか、志村喬、山村聡、宮口精二、北村和夫、中村伸郎、加東大介ら当時の豪華オールキャスト総出演です。

これでは、「2015年版」は、勝てるわけありませんね。確かに製作費は67年版の数十倍かもしれません。CGを駆使して戦時中の「書割り」が本物そっくりに再現されたかもしれません。

しかし、悪いですけど、役者が大根でした。特に主役は、台詞の棒読みでした。67年版は、敗戦からまだ22年。当時の緊迫した状況は、身に染みて分かっていた世代が多く生き残り、俳優の中には最前線で戦った人もいました。

ですから、無理なんでしょうね。戦後70周年版は、異様に目ん玉だけがギラギラしたヤクザ風の若い俳優が軍人役で沢山登場しましたが、眼だけで演技してるだけで、身体性が伴っていない。まさに、顔のアップの多いテレビ用なんですよね。

期待する方が悪かったのでしょうか?

高村薫「空海」を読んで

お肉売ります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 推理小説の大家高村薫さんが、宗教には無縁だったのに、神戸淡路大震災を体験し、 「空海」(新潮社)に挑戦されたということで、読んでみました。これは、地方新聞に連載されていたものを2015年9月に書籍化したもので、もう少し推理小説家らしい大胆な分析と推理と空想があってもよかったような気がしましたが(偉そうですね)、大変教えられるところが多かったです。

 空海(774~835、享年60or61)の私生活はほとんど分かっていないそうですが、1200年もの大昔の話だからと言って人間の本質は変わることはないので、研究から逃げるわけにはいかないでしょう。

 私自身は、真言宗の信者ではないのですが、空海という偉大な高僧については大変興味があります。とはいっても、空海の難解な著作を読んだこともなく、司馬遼さんの「空海の風景」ぐらいしか読んでいませんが…。

 お肉売ります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 空海は、讃岐の国の善通寺に誕生したというのが通説です。父親は地元の豪族佐伯直田公(さえき あたい たぎみ)で、佐伯善通(さえき・よしみち)ではないかという伝承もあります。空海さんの本名が、佐伯善長(よしなが)だったりしたら、凡俗の私のような人間にとって、空海さんだけは神格化があまり相応しい人物に見えないのではないかと、勝手に思っているので親しみが湧きます。

空海が、歴史上にはっきりと現れるは、803年頃に留学僧になるために慌ただしく得度して官度僧になったときです。もう30歳を過ぎていました。それまで、大学に通って、修行していましたが、詳しいことは分かっていないそうです。804年の藤原葛野麻呂大使率いる遣唐使船に乗り込み、漂流の苦難の末、唐の都長安にまで辿りつきます。

 そこで、空海は、インド密教の継承者である青龍寺の恵果から、「胎蔵界」と「金剛界」の両部密教の灌頂を受けた上、「阿闍梨」位の灌頂まで受けます。つまり、数多の世界各国から来た留学僧と地元の優秀な唐の弟子僧の中から選ばれて、密教の唯一正統の継承者としての地位を獲得します。恵果にとって、空海は初対面の異国の僧にも関わらず、「あなたが来ることを知り、長い間待っていた。お会いできて大変うれしい」と語ったそうです。

 高村さんは、「運命」と書かれていますが、最新科学が発達した21世紀の現代でも証明できない奇跡なのでしょうね。

 とにかく、空海はあまりにも天才過ぎて、彼以外、真言密教の神髄を会得できず、弟子にまで継承できなかったことが、その後のこの宗教展開に影響受けていく様が、この本には分かりやすく書かれています。

 538年(という説が最有力ですが)、日本に仏教が取り入れられて、「鎮護国家」の思想の根っ子となりましたが、あくまでも律令制度の頂点に君臨する皇族、貴族、豪族のための宗教であって、一般衆生までには行き届きませんでした。

 仏教も、念仏口称さえすれば、阿弥陀様のいらっしゃる浄土世界に行ける、と庶民にも分かりやすく説いたのが法然房源空であり、このほか、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍らいわゆる鎌倉新仏教の開祖と呼ばれる高僧はすべて、空海真言宗の高野山ではなく、最澄天台宗の比叡山で修行して、自己の宗教を確立しています。

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 私は不勉強で知らなかったのですが、916年、高野山の座主無空が、空海が唐で書写した経文などを集めた「三十帖冊子」を京都の東寺(教王護国寺)長者の観賢(かんげん)から返還を再三再四、求められたにも関わらず、この冊子と宝物を持ち出して弟子たちと奔放してしまいます。つまり、高野山は、空海入滅後、わずか80年で無人になって荒廃してしまうのです。

 真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」なしには語れない、という説には大いに納得してしまいました。

 天台宗の開祖最澄と、真言宗の開祖空海はともに唐留学僧のライバルで、最澄は途中で、密教を修得することなく帰国したため、密教を空海に教えを請いますが、空海は拒んだようですね。

 最澄も空海も、朝廷に取り入れられるように奔走し、最澄は延暦寺を、空海は東寺(教王護国寺)を朝廷から下賜され、両者は「鎮護国家」のために、加持祈祷や邪気払いや病気平癒など超人的霊能力で神秘的な宗教行事を皇族、貴族らに、下賜を受けた見返りで授けたことでしょう。

 当時、数多いた無名の留学僧に過ぎなかった最澄も空海も、朝廷に対して手紙攻勢などで何とか取り入れられようと工作した、と書けば、陰謀臭いので、工夫をしたのではないか?-このように書けば、あまりにも無智な推論で冒涜だ、と宗教者からの反論があるかもしれませんね…。

 空海は、本当に謎に満ちた人で、1000年経とうが、2000年経とうが、1万年経とうが、理解することは難しいでしょう。空前絶後の大、大、天才で、誰にもできない霊的体験を言語化したことは確かです。

 大衆には「弘法大師」として親しみを持って愛され、日本中至る所に大師の足跡伝説がありますが、これらはあくまでも伝説で、空海本人が訪れた所は限られているというのが、著者の説ですが、私もそう思います。

 ただ、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いております。

 この大師号というのも不思議で、大師といえば、日本人なら誰でも知っているのがこの「弘法大師」ですが、空海はこの弘法大師、一つしかおくられていません。以前にも書きましたが法然房源空は、円光大師をはじめ、今上天皇による法爾大師に至るまで8回もおくられてるのです。

 その一方で、臨済宗開祖の栄西は、開祖者として唯一と言っていいぐらい、大師号をおくられていないようです。(国師はおくられております)道元、日蓮、一遍らは言わずもがなで、黄檗宗の隠元も1972年に華光大師の号がおくられています。