遠藤幸子著「語源で楽しむ英単語」

 十勝岳(かもしれない)

 公開日時: 2007年6月30日

はっきり言って、英語は国際語として、誰でも学びやすい言語だとは思っていません。たまたま、大英帝国とアメリカ合衆国が国際政治紛争で覇権を握ったために、世界中に浸透したに過ぎない、と書けば、大いなるクレームがつくでしょうが、そう思っていることを隠し立てできません。

 

ところで、何で、英語がこんなに難しいのかー?やっと、分かった結論の1つが、英語のスペリングが、言文一致体ではないということにあると思います。何で、why と書いて、「ホワイ」と発音するのか、何で、Wednesday は「ウエドンズデイ」と発音しないのか?中学生の頃の疑問をそのまま放置していましたが、この度、読んだ遠藤幸子さんの書いた「語源で楽しむ英単語」は大いに勉強になりました。まさしく、目からウロコが落ちる感じです。

 

例えば、上の疑問。何で、why と書いて、「ホワイ」と発音するのか。もともと、 why は、古英語では、hwi とwとhを逆に書いていたのです。この法則は、whereも whatも whoも whichも一緒。  whale(鯨) もwheel(車輪)も wheat(小麦)も昔は、wとhが逆に書いていたのです。

なあんだ、そうか!って感じです。

Wednesdayは、 「Woden の日」という意味です。Wodenというのは、アングロ・サクソン神話に出てくる最高神で、北欧神話の Odin(オーディン) に当たります。Odin は、「万物の父」「戦いの父」「荒々しき猟師」などと呼ばれています。Odin は、人間の世界で戦いがあると、すぐに部下の「戦いの乙女」ワルキューレを送って戦死者を運んで来させます。

ところで、ラテン語では、水曜日は、dies Mercurii 。すなわち Mercury(マーキュリー) 、ローマ神話の「商業の神」の日です。ローマ神話の最高神ジュピターの子供です。一方、ギリシャ神話では、最高神ゼウスの子供は Hermes(ヘルメス) です。お互いに最高神の子供同士ということで、マーキュリーとヘルメスは同一視されてきました。

ヘルメスは、商売の神でありながら、また、盗賊の神とも言われます。ヘルメスは「魂を導くもの」として、死者を冥界に送ります。このように、 このようにギリシャ神話のヘルメスt と北欧神話のオーディンは、どちらも死者を移動させるという働きのおかげで、同一視されるようになったというのです。

つまり、ヘルメス=マーキュリー=オーディン というわけです。

ということで、水曜日は、Woden の日となり、 Wednesday となるのですが、d 音は15世紀頃までは発音されていたようですが、n 音に吸収されて、発音されなくなったということです。

「商業の神」ヘルメス、マーキュリーに関しては、ガルーダ研究家の山本さんが大変詳しかったことを思い出しました。

嬉しい驚き

 中札内村美術館

 

今度、京都に行くことは、以前、このブログに書きましたが、いよいよ再来週ということになりました。

 

調布先生の奥さんのお墓参りが主目的なのですが、驚いたことに、偶然にも、私がいつか行きたかったお寺さんだったということが分かったのです。以前は、京都五山の第一位の名刹としか書かなかったのですが、知る人ぞ知る、それは、建仁寺なのです。そこには、以前から拝見したかった小泉淳作さんの「双龍図」があるのです。二年前の私のブログでも紹介しています。

 

http://blog.goo.ne.jp/keiryusai/e/141c9cc9661eef6c36b5e075fc6bc3c2

 

何と言う偶然の一致なのでしょうか。本当に驚いてしまいました。

 

それにしても、ブログは、過去のデータベースになっていて、キーワードで検索できるので、便利ですね。自分の書いたことなど、すぐすっかり忘れてしまうので、大いに助かっています。

 

今のところ、昨日書いたことに対して、反論も、炎上もなく、大いに助かっています。(まだ、分かりませんが)

いやあな感じ

 中札内村

公開日時: 2007年6月29日 @ 08:35

昨日の毎日新聞「記者の目」によると、匿名による誹謗中傷問題を取り上げた同紙社会部の岩佐淳士記者が、ネット上で、中傷やうそを交えて同記者を非難する書き込みがあふれたことを書いています。取材先に渡した名刺を元に名前や電話番号が晒され、記者の写真が載ったホームページが探され、「電凸」(電話による突撃)を受け、そのやり取りがブログに書かれたそうです。中には「岩佐記者を退職に追い込もう」なんというサイトもあるようです。

 

いやあな感じです。私も他人事ではありませんから。

 

岩佐記者も「匿名の悪意」を黙って見過ごすわけにはいかない、とはっきり書いています。

 

ただでさえ、日本人は無責任なのに、匿名という安全地帯の免罪符を獲得すれば、誰でも好き勝手に発言できます。匿名は隠れ蓑なので、正体がバレルことはないからです。

 

でも卑劣ですね。ネット先進国の韓国では、匿名による悪意な書き込み「アクプル」が横行し、それによって傷ついた人が自殺する事件が相次いでいるそうです。そこで、韓国では、実名で登録しないとネットで情報発信できない「実名登録制」が7月から始まるといいます。自由なネット社会が政府国家に統制されるわけです。

 

悪意の書き込みをする連中は発信元もばれないように、不特定多数が利用するネットカフェから発信する「確信犯」なのでしょう。同記者らに送られたメールの中で「2chをブログに否定的に書くと攻撃される」「2ちゃんねんらー(2ch利用者)から袋だたきに遭うので内容は公開しないでほしい」という意見が目立ったそうです。悪意を持って誹謗中傷する人たちは、自分では気が付かないでしょうが、いつかは、自分も同じような目に晒されます。因果応報。天に唾を吐けば、自分に降りかかってくる真理を理解していないだけなのです。

 

それでも、私はそういった連中ばかりではないことを信じています。自分の任を弁えた良識を持った人の方が遥かに多いという性善説を取りたいと思います。

 

そうでなければ、こんなブログを続けてなんかいられません。

無財の七施

 

お金や財産がなくても、いつでも誰でもできる施し「無財の七施(しちせ)」

 

1、捨身施(しゃしんせ)…身体でできることを喜んでやる。(老人の手を引く。荷物を持つ)

 

2、心慮施(しんりょせ)…他人のために心を配る。ともに、喜び、悲しみ、幸せを願う。

 

3、和顔施(わげんせ)…いつも和やかな顔で、人に接する。

 

4、慈眼施(じがんせ)…悲しみの眼(まなこ)ですべてを見る。

 

5、愛語施(あいごせ)…人の心を知って、和やかな喜びを感ずるような言葉で話す。

 

6、房舎施(ぼうしゃせ)…風や雨をしのぐ所を譲る。

 

7、床座施(しょうざせ)…電車などで席を譲る。

 

以上、「情けは人のためならず」「明日は我が身」「いつか来た道、いつか行く道」

常識について

 上士幌町

 

1969年夏、甲子園球場での高校野球決勝戦。延長18回引き分けで、翌日も投げぬいた三沢高校(青森)のエース太田幸司さんは、当時は「マッサージも酸素カプセルもない。肩は冷やすな、水は飲むな。今は正反対」だったと告白しています。

 

当時は、漫画「巨人の星」が全盛期。私もよく覚えています。とにかく、スポーツしている間、決して水は飲むなという指導でした。肩も冷やしてはいけない。まさしく、今のスポーツ指導法とは正反対です。今のスポーツ選手は、野球でもサッカーでもマラソンでも、選手が途中でガブガブと水を飲むシーンが大写しにされます。投手も投げ終わると、分厚いアイシングの姿です。

 

「水は飲むな」にしても、当時は当時で、それが、常識として正しいやり方として、蔓延していたわけです。しかし、現在では、否定されて、百八十度、逆のやり方が「常識」として通用しているわけです。

 

「物の見方」というのも、そんなもんじゃないかと思います。誤解を恐れずに言えば、今の靖国問題も、従軍慰安婦問題も、さまざまな政治的な歴史問題も、今だから常識として言えるのであって、また、時代が変われば、百八十度違った常識が蔓延するのではないかという危惧を持っています。

 

物事の見方は多面的であって、ある時代は常識であっても、別の時代は非常識になることは大いにありえるわけです。

 

ですから、テレビのような大衆的なメディアに顔を出して、堂々と「自分」の意見を公言している人たちの勇気には大変恐れ多く感じてしまいます。「自信家なんだなあ」と思ってしまいます。

 

私なんか、いつも迷って、思考もコロコロ変わります。それに天邪鬼です。今日、アメリカの下院外交委員会で決議された従軍慰安婦問題も、「確かに悪徳非業で、当事者の中国や韓国に言われるのは分かるが、原爆を投下し、東京、大阪など全国の諸都市の無辜の市民を無差別空爆して殺戮した国の人間に言われたくないなあ」と、つい右翼的言動を振りかざしたくなります。

 

この決議案を提出したホンダ議員という人も名前から分かるとおり、日系の人ですが、華僑から多額の政治献金を得ているという話です。何か、裏があるような気がしてしょうがありません。

 

とはいえ、私はあくまでも、従軍慰安婦は当時の軍当局が直接関与していた申し開きのできない所業だったというスタンスです。捏造だったという説は否定します。

病院通いの毎日

 函館

 

いやあ、ここ数ヶ月は、眼科医に行ったり、歯科医に行ったり、内科医に行ったり、病院通いばかり。体にガタが来ているのか、本当に情けないやら、辛いやら。

 

健康になれれば、死んでも構わないという格言は、名言だと思います。

 

生きているうちに、遊んだり、喚いたり、泣いたり、怒ったり、笑ったりしているうちに、そして、いつか日が暮れることでしょう。

 

昨晩は作家のYさんと、新宿・中村屋の三階「レガル」で会食。Yさんの著作がこのほど、中国語に翻訳されたことや、Yさんの作品を映画化した熊井啓監督が急逝されたことなどの話を伺う。中村屋については、ボースやエロシェンコ、中村ツネのことなど、Yさんはかなり詳しいので、驚いてしまいました。「『中村屋のボース』が出る前に、私は中村屋のことを書いていますから」ということでした。

熊井啓監督 

 池田町

 

ある統計によりますと、2005年に映画館に足を運んだ人を各国の年平均で比較するとー。

1、アメリカ人  4・7回

2、オーストラリア人 4回

3、フランス人 3回

4、スペイン人 2.9回

5、イギリス人 2.7回

そして、我らが日本人は、わずか1.3回だというのです。

世界一の「映画王国」のインドの数字が入っていないので、正確な比較にはならないのですが、それにしても、日本の1.3回は唖然とするほど低い数字です。ほとんどの人は、態々映画館に足を運ばないのでしょう。自宅でテレビかビデオ等を見ているのでしょうが…。私は約24回という感じです。

 

昨日、調布先生から電話があり、銀座のシネパトスで「熊井啓監督特集をやっているから、行ったらいいよ」とご教授戴きました。特に、26日までやっている「日本列島」(1965年、宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明主演)は、何やら昭和の一大疑獄事件を追うサスペンスらしく、若き頃の大滝秀治も精悍な役で出演していて面白い、ということでした。シネパトスは、会社の近くですから、早速、タイムテーブルを確認に行ったのですが、すべて、ナイトショー(20時40分~)で、日程的に行くことができそうにありません。残念。家の近くにレンタルビデオ屋さんもない民度の低い所に住んでいるので、フラストレーションがたまりそうです。

 

でも、「追悼 映画監督 熊井啓」特集は、8月25日まで続いています。「社会派」の代表監督として名を馳せただけに、「謀殺・下山事件」「日本の黒い夏 冤罪」「海と毒薬」など、続々と公開されます。(残念ながらデビュー作の「帝銀事件 死刑囚」は終わってしまいました)もちろん、山崎朋子さん原作の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年、栗原小巻、田中絹代主演)も7月5日から8日まで上映されます。他に井上靖原作「天平の甍」、武田泰淳原作「ひかりごけ」なども…。ご興味のある方は、私の分も是非。

 

熊井啓監督は、今年5月23日にクモ膜下出血のため急逝されました(享年76歳)。5月18日早朝に自宅敷地内で倒れているところを発見されて、病院に搬送されたらしいのです。その倒れる一週間ぐらい前の頃、大学教授の井川さん(仮名)が、桜上水の自宅付近を歩いていると、向こうから品のいい感じの老人が近づいて来て「この辺りに、『木々』という名前の料亭がありますか?」と聞かれたそうです。もちろん、井川さんは知っていますが、道が複雑で分かりにくいので、結局、一緒に歩いて案内したそうです。

 

『木々』に着くと、その老人は、「私は映画監督の熊井啓と申します。わざわざご案内して戴き。有難うございました。もし、お時間がありましたら、ご一緒しませんか」と誘われたそうです。井川さんは、そこは高級懐石料理を出す店であることを知っていましたし、あまりにも突然の申し出だったので丁重にお断りしました。しかし、それから1週間ほどして監督の訃報に接し、「ああ、あの時、ご一緒して、色んな話を伺っておけばよかったなあ」と後悔したそうです。

 

この話を聞いて、私も大変参考になりました。「歳月人を待たず」です。

ドドンパを知っていますか?

 上士幌町

公開日時: 2007年6月24日

今朝は日曜日だというのに(仕事ですが)、4時過ぎに目が覚めてしまい、ラジオを付けたら「深夜便」をやっており、作家の五木寛之さんが「昭和の歌語り」とかいうタイトルで、出演していました。五木氏はよく知られているように、34歳で直木賞を取る前は、放送作家、CM作家、歌謡曲、童謡作詞家として活躍されていたので、音楽に関しては、非常に詳しく、一家言を持っている人なので、面白かったです。

 

何回か続いている番組らしく、今朝は、昭和37年のヒット曲がたくさん掛かり、本当に懐かしかったです。吉永小百合、和田弘とマヒナスターズの「寒い朝」、倍賞智恵子の「下町の太陽」、北原謙二(2005年1月26日死去、65歳)の「若いふたり」などがかかっていました。こんな曲を懐かしがるなんて、あなたも相等お年ですね。

 

この「若いふたり」は、いわゆるドンドンパ調で、五木さんは「日本で生まれた」と発言していましたので、早速調べてみたら、日本の都都逸とルンバが合成されてできたらしく、一説では、京都でフィリピンのバンドが演奏していた独特のマンボがドドンパの起源らしい。1961年の渡辺マリの「東京ドドンパ娘」が100万枚のヒットとなり、一般に認知されたといいます。

 

へーと思ってしまいました。

 

今のJ-POPは確かにリズム感に溢れ、踊れるかもしれませんが、唄えませんね。昔の歌はよかったなあ、今でも歌えると私は、はっきり書きます。

 

そういえば、私にとって、一番印象深いドドンパはやっぱり、和田弘とマヒナスターズ・松尾和子の「お座敷小唄」ですね。よく、学校の行き帰りに唄っていたので、随分ませたガキでした。

山本信太郎著「東京アンダーナイト」

 小樽

東京・赤坂の一等地にあった高級クラブ「ニューラテンクォーター」(1959-1989年)の社長だった山本信太郎さんの書いた「東京アンダーナイト」(廣済堂出版)は、昭和史を語る上で超一級の資料になること間違いなしです。登場する人物がこれまた桁違い。超大物芸能人、広域暴力団の組長、マフィア、政治家、財界人、右翼の立役者、スポーツ選手…。山本元社長の交際の無限の広大さを物語っています。

第一章で、いきなり、1963年12月8日(日)に起きた「力道山刺殺事件」の真相を暴露しています。事件は、まさしくこのクラブで起き、山本さんの目の前で起きたのですが、緘口令が引かれ、44年間、真相は藪の中でしたが、山本さんは、この本で初めて、真相を明らかにしたのです。この本の発売された今年二月、週刊誌でも取り上げられたので、大きな話題になりましたが、実際読んでみて、本当に詳しく分かりました。以下、備忘録としてメモ書きします。(敬称略)

 

●力道山(1924-63年)、本名金信洛(キムシンラク)、戸籍名百田光浩(ももだ・みつひろ)は、ニューラテンクォーター内のトイレ付近のホールで、住吉連合(現住吉会)小林会の組員、村田勝志(1939-)=現在、住吉会副会長補佐、住吉一家小林組特別相談役=とすれ違いざまに口論となり、刺された。当時、赤坂の縄張り争いから、力道山のバックにいた東声会(町井久之=本名鄭建永チョンゴンヨン=会長)と住吉連合との抗争で、東声会の最高顧問だった力道山が計画的に暗殺された、という報道がされたが、真相は、酒に酔った力道山が、村田が足を踏んだ、と言いがかりをつけて、突き飛ばした。殺されると思った村田が持っていたナイフで無我夢中で力道山を刺したという全く偶然の出来事だったという。確かにニューラテンクォーターでは、住吉連合小林会の小林楠扶会長(日本最大の右翼団体、日本青年社会長)が顧問を務めていたが、村田は殺意を否定。力道山は事件から1週間後の12月15日に、穿孔性化膿性腹膜炎で死亡した。享年39歳。

 

(補記)この力道山刺殺事件を同時代の事件として知っている人は、もう50歳を過ぎているでしょう。力道山はニューラテンクォーターに入店する前に大相撲協会の幹部と「ハワイ・ロス巡業」の相談を受け、自宅でウイスキーを飲み、その後、赤坂の料亭「千代新」でかなり飲んだという。午後9時近く、朝丘雪路のTBSラジオ番組にゲスト出演したが、泥酔状態で、録音は放送されなかった。その足で、「コパカバーナ」に行く予定を急遽変更してニューラテンクォーターに行った。このクラブに同席した人たちの中の一人にスポニチ記者の寺田さんがいた。もう27年前に私が寺田記者から直接聞いた話だと、刺された力道山は、お腹を押さえながら自分の席に戻ってきて、ステージに上がり「この店は殺し屋を雇っています」とマイクで発言したと言っていたが、本書でもその話が出てくる。寺田さんは、「力道山はちゃんと医師の言うことを聞いて安静にしていれば、命は助かったと思うが、力道山は、先生の言うことは聞かずに病院でも暴れまわっていた」と話していました。

 

●赤坂にニューラテンクォーターを開店できたのは、吉田彦太郎(別名裕彦、1913-71年)の力が大きい。山本信太郎の父平八郎(1906-90年、福岡のキャバレー王)の従兄に当たり、明大在学中に大日本学生前衛連盟を結成し、右翼活動を開始し、1936年の「2・26事件」による北一輝銃殺に反対して、投獄。41年に「児玉機関」副機関長に就任して、児玉誉士夫(1911-84年)の右腕として活躍した人物。公安・警察関係や政府筋に顔が利いた。この児玉機関の東京責任者が岡村吾一(1908-2000年)。児玉の懐刀として活躍し、戦後は東宝映画顧問として芸能界にも睨みをきかせ、任侠の世界では北星会会長として関東会結成に尽力した。

 

●ニューラテンクォーターの前に同じ敷地(2・26事件の反乱軍将校が立てこもった「幸楽」という料亭があったが、空襲で焼けた)に初代の「ラテンクォーター」(1953-56年)が存在していた。東京に駐留する米軍兵の慰安を目的とした社交場が名目だが、実質は賭博場と同じだった。この店のオープンに児玉誉士夫が「児玉機関」の部長だった岩宮尊を社長として送り込み、東声会を用心棒に派遣した。いまだ日本は、米軍の「占領下」にあったので、共同経営者はアルフォンゾ・シャタックとテッド・ルーイン。シャタックは、ジャック・キャノン少佐をリーダーとする「Z機関」(通称キャノン機関)の元諜報部員。ルーインは、アル・カポネとも親交があったといわれる元マフィアでマニラなどで手広くカジノを経営し、戦時中に児玉機関とつながりがあったという人物。

 

●シャタックは、「帝国ホテル・ダイヤモンド盗難事件」の主犯ジョン・マックファーランド(「ゴージャス・マック」のリング名でプロレスラーという触れ込みで来日したが、経歴は全くの偽りで、海兵隊を除隊したただの不良外人だった)から借金の形として、ダイヤモンドをマニラで売り渡した罪で、指名手配され、300万円の「政治献金」で保釈された。

 

●キャノン機関は、1951年に起こした「鹿地亘(かじ・わたる)事件」で、その存在が明らかになり、スパイにあるまじきドジを踏んだキャノンは日本から姿をくらまし、朝鮮戦争後の対北朝鮮諜報活動に従事したという。1981年にテキサスの自宅で自殺。鹿地亘事件とは、キャノン機関がプロレタリア作家の鹿地(本名瀬口貢)を藤沢市鵠沼の自宅付近から拉致監禁し、二重スパイになるように拷問に近い訊問をしたという事件。鹿地の世話をしていた日本人青年の密告で事件が公にされて、鹿地は解放された。この事件は松本清張の「日本の黒い霧」でも取り上げられ「鹿地事件ぐらい未だに真相の分からない事件はない」と書かれている。鹿地は、かつて中国共産党の情報をアメリカのOSS(戦略情報局)に流していたが、その後、ソ連側に寝返ったため、キャノン機関の怒りを買ったのではないかという噂も流れた。

私の正体 

 六本木

 

私のブログの愛読者(?)のほとんどの方とは、面識があるので、私のプロフィール等を隠すこともないのですが、それでも、一応、曖昧にしております。でも、曖昧にしていると、「こいつは何者だ」とという好奇心が異様に高まるらしく、何が何でも、正体を明かそうと、躍起になる方もいらっしゃるようです。私が書いたほんのちょっとした記述で、名前、性別、職業、住所、家族まで暴いてしまうのですから、ご苦労様と言うしかありません。

 

そこで、私の正体を暴くヒントになると自覚しつつ、書いてしまいますが、今日は、某鉄道で電線切断事件があって、大変な目に遭ってしまいました。約18万人に被害が及んだということですが、私もその一人でした。

 

幸運なことに、本日は代休で会社に行くことはなかったのですが、数年前に会社を退職した同期の三田孝治君(仮名)と東京駅前の新丸ビルで会う約束があったのです。結局、1時間遅れて、彼とは会うことができました。

 

彼は、とても変わった人です。早期退職で会社を辞めましたが、公募によって、公立の図書館の館長に90倍の難関を突破して採用されたものの、わずか、2年半で退職してしまうのです。その後、何をしたかというと、ロンドンに留学するのです。大英博物館でキューレーター(のようなもの)の資格を取って、今年4月に帰国したようでした。彼と会ったのは、4年ぶりでしたが、4歳くらい若返った感じでした。特に、大志や野心があるわけではなく、「会社を辞めても、何とかやっていけることが分かったよ」と非常に楽観的でした。まあ、楽観主義者だから、そういう冒険ができるのでしょうけどね。

 

前日に彼から急に「会いたい」と電話が掛かってきました。結局、用件らしい用件というのは、彼は新しく、ネットで始まった中国関連の写真ニュース配信会社の編集主幹に就任したので、おまえも手伝わないか、ということでした。社長は、中国南京市出身の中国人で、東京の大学の博士課程で学んでいる人だそうです。

 

そのホームページを覗いて見たのですが、なかなか大したものでした。もう少し詳しく書きたいのですが、もう少し、話が具体化したら改めて書いてみたいと思います。

こんな情報で私の正体が暴けたでしょうか?