日本語クイズ 「十三里」とは何のこと?

食欲の秋です。さて問題です。

「十三里」とは何の食べ物のことでしょうか?

(私は知らなかったです)

 

ヒントは、昔から「栗よりうまい十三里」と言われています。

この言い伝え、なかなか奥が深いのですよ。さあ、答えてください!

答え

 

サツマイモ、または焼き芋のことです。

「栗よりうまい十三里」は、栗よりおいしい、ということですが、栗(九里)より(四里)で十三里と掛けています。

しかも、十三里とは、約50㌔のことで、サツマイモの産地、埼玉県川越市が、江戸から十三里あったためです。

この言い伝えは、江戸時代から言われていたのでしょう。なかなか奥が深いのです。

とりとめのない感想

洞爺湖

安倍晋三「論功型仲良し」内閣がスタートしましたね。

本来のマスコミの役割は、権力が腐敗しないように絶えず監視の目を光らせるべきなのに、特に、週刊誌ジャーナリズム、特に、安倍新総裁から直々に「手記」を寄せてもらった「週刊新潮」や、新書で「美しい国へ」を発売して売れ行きを気にしている文藝春秋は、どこか腰がひけていると感じるのは私だけではないのではないでしょうか。

新聞の投書で、茨城県に住む77歳の男性が「政治感応度」なる新語を提唱していました。本来は、経済用語で「価格感応度」という言葉があり、この言葉を政治の世界に応用したというのです。

価格感応度というのは、どのように使われるかというと、例えば、新聞に折り込まれているチラシを見比べて、どこが安い店か探す消費者を価格感応度が高い消費者だというそうです。低いのはその逆で行き当たりバッタリで店に入って、高価格のものをつかまされる消費者です。

この用語を政治の世界に応用すると、常に新聞や雑誌やラジオやテレビなどから情報を収集して政策を判断する人が、政治感応度が高い人。低い人とは、テレビだけからそのイメージだけで反応してしまう人たちということになります。小泉「ワンフレーズ」「キャッチフレーズ」前首相は、確かにテレビを意識したパフォーマンス政治家であったことは確かで、彼は多くの一般大衆の支持を獲得しました。

でも、恐らく殆どの人は複数の新聞や雑誌を読み比べたりしないでしょうね。他に楽しみたいことが一杯ありますし、人間ですから雑事に追われます。まあ、はっきり言って、物心付いた時から全く思考停止状態で楽な気持ちで、受身でテレビに接している日本人の方が多いということです。

最近、詩人の荒川洋治さんが「文学は実学である」と盛んに訴えています。

バブル経済華やかりし頃の日本で、大学の文学部の志願者が大幅に減りました。文学など、毒にも薬にもならず、もっとはっきり言えば、お金にならなかったからです。少しは聡い若者は官僚になるための法学部か経営者を目指して経済学部、商学部を狙いました。

「最近の若い人は本を読まなくなった」と嘆く声は昔からよく聞かれますが、荒川さんは、最近それが特にひどいというのです。宮崎勤事件から宅間事件に至るまで昨今の、信じられないような凶悪な犯罪は、被害者の痛みに対する想像力の欠如にある、と荒川さんは睨んでいます。想像力を育むには、文学に接して養うしかない。よって、文学は結局、実学であるーといったような趣旨の発言をしているのです。

ある意味で、政治も文学です。我々有権者は、政治家の政策なり、ビジョンなりを「言葉」を通して信じるしかないからです。その政治家が言っている事が正しいかどうか、判断するのも、「政治感応度」であることは改めて言うまでもありません。

今日はちょっと硬かったかな?

偶然

昭和新山

昨夕、銀座の松屋デパート付近でばったり、偶然、十勝毎日新聞社の林光繁社長と会いました。何しろ、1200万人もいる大都会のことですから、1分1秒、時間ずれていたら、全く分からず、すれ違っていたでしょう。

林社長がわざわざ帯広から出てこられたのも、10月10日に銀座コリドー街にオープンするレストラン「十勝屋」の準備のためでした。

パンフレットも戴きましたが、ターゲットとして「自分のライフスタイルにこだわりをもつ、比較的可処分所得の多い人」とありました。残念ながら、私は、そういう人に当てはまらないのですが、いつか、行ってみようかと思っています。

場所は、東京都中央区銀座6-2 コリドー街 です。

 

英語クイズ

英語でニューヨーク市民は、 New Yorker  パリ市民は、Parisian   これは簡単ですね。

それでは問題。東京都民は何と言うのでしょうか?ついでにロサンゼルス市民、シカゴ市民はどうでしょうか?

 

答え

東京都民は、Tokyoite と言います。難しいですね。同じようにダラス市民も ite  が付いて  Dallasite となります。

ロサンゼルス市民はもっと難しい。 Angelino です。

シカゴ市民は、 Chicagoan  です。同じようにボストン市民、ワシントン市民はそれぞれ   Bostonian  Washingtonian と後ろに an  が付きます。テキサス州の人も an   が付いて Texan になります。

ちなみに、ビートルズのポール・マッカートニーが「イエスタデイ」を作曲、演奏しているのが、エピフォンの Texan  というフォークギターです。

バンド遊び

小樽

公開日時: 2006年9月24日

昨日は久しぶりに、高校時代のバンド仲間と赤羽のスタジオで音楽遊びをして日頃の憂さを晴らしてきました。とはいえ、ドラマーの黒川は法事で欠席、ベースの神林はドタキャン。結局ギターの幸信と二人きりになってしまいました。

そこで、幸信の学生時代の友人で赤羽に住む小巻君を急に呼び出して合流してもらいました。彼はベーシストなのでですが、イーグルス専門で、我々のようにビートルズがほとんどできなくて、ほとんどバンドになりませんでしたが…。

私は買ったばかりのマーチンD28を持って行き、幸信は、ジョン・レノンが愛用していたギブソンのJ160Eを持ってきました。結局、アンプラグドになりました。

終わった後、幸信と二人で「魚魯魚魯」で痛飲、その足でドタキャンした神林の家に押しかけて、また芋焼酎「一刻者」を痛飲しました。話すことは、年を取ったせいか、病気の話ばかりです。笑ってしまいます。

幸信はキーボードの腕前が驚くほど上がっていましたが、恐ろしいほどのギターのコレクターだということが分かりました。エピフォンのカジノが2台、J160Eが2台…結局12台もギターを持っているのです。それも安くても中古品で15万円ですから、総額は…すごい値段ですね。私もマーチンとギブソンのE335TDとオベーションのクラシックギターの3台持っていますが、とても毎日弾きこなせません。すごいなあ、と感心してしまいました。

ギターに興味のない方には、つまらなかったと思うので、アメリカに住む今村君がメールで送ってくれた「格言」を無断で引用します。

水は酒をダメにする。

車は道をダメにする。

女は男をダメにする。

(分かるような気がします。次の箴言は、掲載しようか、悩みましたが、非常に良く分かりすぎるので載せちゃいます)

25歳までの女は自分を殺す。

35歳までの女は自分と相手を殺す。

35歳以後の女は相手だけを殺す。

一生に一度の展覧会

国宝「風神雷神図屏風」(俵屋宗達)

 

日比谷の出光美術館で開かれている「国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術継承と創造」展に行ってきました。

 

俵屋宗達(国宝=京都・建仁寺蔵)、尾形光琳(重要文化財=東京国立博物館蔵)、酒井抱一(出光美術館蔵)の三者による同じテーマの「風神雷神図屏風」がそろって展示されるのは、昭和15年(1940年)以来、実に66年ぶりということですから、この機会を逃しては、もう一生無理でしょう。前回、幸運にも見ることが出来た方も、若くても、もう80歳近いでしょうし、また、この三者が66年後にしか一堂に会することがないとしたら、まさしく一生に一度の展覧会ということになります。「これは万難を排して、無理をしてでも行くしかない」ということで、皆さんを代表して行って参りました。

 

混むのが嫌だったので、平日の昼間を狙ったのですが、すごい混雑でした。特に宗達の国宝の前は、三重の人だかりです。幸運にも私は普通の人より頭一つ背が高いので、後ろからでも良く見えたのですが、やっぱり、人にぶつかっても謝りもしないし、日本人はエチケット知らずで嫌ですね。

 

宗達の作品は想像していたより、意外と小さかったです。(154.5×169.8cm)宗達は生没年不詳なので、いつごろ描かれたのか分かりませんが、恐らく江戸の初期(落款もないのです)。光琳(1658-1716年)は、およそその百年後、抱一(1761-1828年)は、またその百年後に模写したとされています。百年ごとに現れた天才絵師が琳派の伝統を継承してきたわけです。

 

今回の驚くべき発見は、「宗達狂い」の光琳が、原本の上に薄紙を載せてなぞった、ということが判明しています。まさしく模写というより複写そのものです。もちろん、その上に、光琳自身のオリジナリティーを加えています。姫路藩主の弟であった抱一は、宗達の存在を知らなかったらしく、光琳が宗達に思い入れした以上に光琳にのめり込んで、模写しています。面白いことに、雷神の指が5本ではなくて、わざと4本に描いているのです。

 

この展覧会では、この三者三様の違いを、「顔」「目」「手」「足」「角」などのアップの写真で並べて比較しているので、大変面白いです。私は一度見てから戻って、もう一度見てきました。1000円の入場料は、200円の割引券があったので安かったです。

 

もちろん図版(1500円)と絵葉書(1枚100円)も買ってきました。展示と同じ解説が載っていました。また、宗達の上に光琳の、光琳の作品の上に抱一の作品のセロファンが重なっているので違いが分かります。21世紀だからこそ、こんな図版が製作できたのでしょう。宝物になりそうです。

 

皇居前の出光美術館の休憩所の窓から皇居外苑が見え、急に、二重橋が見たくなって、その帰りに行ってきました。私と同じようなお上りさんと外人観光客が大勢いました。

 

今日も充実した一日を過すことができました。もう一日生き延びてみようと思います。

 

有難うございました。

久しぶりの歌舞伎鑑賞、「秀山会」中村吉右衛門

小樽

後藤先生のお導きで久しぶりに歌舞伎座へ歌舞伎を見に行ってきました。帯広時代は一回も行っていないので、4,5年ぶりかもしれません。久しぶりに堪能しましたが、役者の皆さんは随分、お年を召されたなあ、というのが第一印象でした。

九月の歌舞伎座は、秀山こと初代中村吉右衛門生誕120年祭です。昼の部を見たのですが、松緑の梅王丸、染五郎の松王丸で「車引」、吉右衛門南与兵衛、後の南方十次兵衛、富十郎の濡髪長五郎の「引窓」、雀右衛門の小野小町、梅玉の在原業平、染五郎の文屋康秀で「六歌仙容彩(すがたのいろどり)」、幸四郎の松王丸、吉右衛門の武部源蔵、魁春の戸浪、芝翫の千代で「寺子屋」といった演目。

前から5列目の特等席だったので、役者の息遣いが手に取るように伝わり、しばし、江戸の芝居小屋の雰囲気の中にタイムスリップした感じでした。

不仲が伝えられていた幸四郎、吉右衛門兄弟が「寺子屋」で共演したことには随分と感動させられました。二人とも還暦を過ぎたので、芸にいぶし銀のような艶が出てきました。私自身、播磨屋吉右衛門が現代歌舞伎界のナンバーワンだと思っているのですが、松王丸を十八番にしている幸四郎もなかなかよかった。幸四郎は現代劇もやっているせいか、台詞回しが現代風に陥りがちだったのですが、松王丸ははまり役で、自分の息子を身替わりに提供した親の悲痛を見事なまでに表現しきっていました。

吉右衛門は台詞がなくても立ち姿が格好いい。「引窓」では、殺人犯の義兄弟を捕縛しようかどうか悩む町人あがりの武士を品良く演じているし、「寺子屋」の源蔵は、初代の当たり役だったらしく、苦悩する源蔵が2代目として演技の継承者として悩む吉右衛門本人と重なって、うならされてしました。

かつて、歌舞伎は年に30本くらい見ていた時期もありました。ちょうど「三之助」が売り出していた頃です。あれから10年近く経ち、役者さんたちも随分年取ったなあ、というのが最初に書いたのと同じ印象でした。

新首相には

蓋を開ける前からすでに結果が分かっているという勝負では、歴史上のどんな優秀な胴元でも賭場さえ開くことができなかったでしょう。第一、客が集まらないわけですから。

しかし、智に長け、利に聡い輩たちが、早くもミツバチが蜜を追い求めるように利権ポストに群がり、献金活動に邁進している姿は浅ましさを通り越して見苦しい限りです。

そもそも、国民の皆様はこの異常事態をどこまで理解しているのでしょうか?人気だけは最期まで落ちなかったキャッチフレーズ宰相の禅譲という鶴の一声で決まった人に日本のすべての将来の舵を託して果たしていいものでしょうか。議員歴13年で、党の重要ポストと閣僚は通過したものの、まだ大臣経験さえもない若い三世です。

A級戦犯容疑者の孫で、苦節三十年の末に志半ばで倒れた父親の雪辱を胸に登場した彼の野心は、憲法を改正して教育基本法を改正して「美しい日本」をつくることです。つまり、集団的自衛権を認めさせて、国内海外での自衛の下での武力行使を可能たらしめて、お国のために見事散ってみせる子供たちを養育する勅諭を教え込ませるつもりなのでしょう。

すべての国民がそれが分かっていて、過半数が賛同すれば大義名分は果たせます。しかし、フリーターやニートに陥っている若者たちが将来戦場に行くかもしれないのに、自民党を支持する理由がさっぱり分かりません。現状に不満がないのでしょうか。

「安倍政権は短命で、来夏の参院選の惨敗の責任を取って下野する」という評論家もいます。党員ではなくて総裁選の選挙権のなかった国民が真意を表明する機会を逃してはいけません。

A day in the life

小樽運河

最近の新聞報道で目立つのは、やはり、相変わらずの酒気帯び運転による人身事故、そして、台風13号による爪あと…。ははーん、世の中には「神の見えざる手」はないのだなあ。「人災」か「天災」のどちらかだなあ、という思いを強くしました。

前世もあの世も天国も神も人間が考え出したもので、運命さえも、己が身の怠惰を言い訳したいがために人間が生み出した素晴らしい発見ではないかと疑っています。

昨日、道路が濡れた雨上がりの中、道を急いで、駅前のマツモトキヨシの前を通りかかると、いきなり、入り口付近に山積みになっていたテッシュペーパーの箱の山が私の目の前で崩れて、水溜りに落ちました。店員に詰問されたら「私じゃないですからね」と言い訳することばかり考えていました。自然にティッシュペーパーの箱は倒れたのです。

自然に?

そうなのです。自然とはまさに自然の力、ここでは風の力でした。我々が何気なく「神の見えざる手」の用法で使っている「自然に」という言葉は、自然による作用だったということが分かりました。

もう自己に対する言い訳はやめよう。世の中には、自然による力か、自分自身の努力しかないのだ。占いや運命やギャンブルに頼るのはもうよそう。なぜなら、それらが当たる確率は極めて低いもので、現実に起こる可能性も低いのだ…などと、殊勝に考えてしまったわけです。

まあ、そいうことを考えながら、毎日生きています。

 

偉業の影に努力あり イチローのこと

 小樽

米大リーグで、シアトル・マリナーズのイチロー選手が6年連続200本安打の偉業を達成しました。

この人、普段、記者とは言葉も交わさず、お高く止まってクールな印象があって、あまり好きになれませんでしたが、今年のワールド・ベースボール・クラシックで、子供のように無邪気にはしゃいで、感情をむき出している姿を見て、意外に思ったものでした。

しかし、感情を素直に出す人間的な面が本来のイチロー選手だったんですね。

偉業を達した後に「感情を抑えることで、弱い自分を支えてきた」というコメントをしています。

チームメートが試合前にカードゲームなどに興じている時も、黙々と室内練習場でバッティングの練習をしているということですから、彼は「天才」「超人」と呼ばれていても、やっぱり、努力の人だということが分かります。

そして、自分の弱さを強さに変えることができる真の意志の強い人だということが分かります。彼のような人は、どんな分野でも成功するでしょう。