一日健康法があるそうです。
ご伝授します。
一日一回
手を合わせてご先祖さまに感謝すること。(今、なに不自由なく生きていることを感謝してください)
一日十回
笑うこと。(これは分かる)
一日百回
深呼吸すること。(私は寝ている時、無呼吸状態になっていることがあるようです)
一日千個
文字を書くこと。(パソコンでは駄目なのでしょうか…)
一日一万歩
歩くこと。(最近、そんなに歩いていないので、気をつけまあす!)
ブログでメディアを主宰する操觚者(ジャーナリスト)高田謹之祐の公式サイトです。皆様の御投稿は歓迎ですが、編集権は主宰者側にあります。記事中の見解や価格は、書いた当時のものであって、現在は異にする場合もあります。禁無断転載。
一日健康法があるそうです。
ご伝授します。
一日一回
手を合わせてご先祖さまに感謝すること。(今、なに不自由なく生きていることを感謝してください)
一日十回
笑うこと。(これは分かる)
一日百回
深呼吸すること。(私は寝ている時、無呼吸状態になっていることがあるようです)
一日千個
文字を書くこと。(パソコンでは駄目なのでしょうか…)
一日一万歩
歩くこと。(最近、そんなに歩いていないので、気をつけまあす!)
高野山大学が「スピリチュアル学科」なるものを創設する話を聞きました。
スピリチュアルとは「霊性」とか「霊的」という意味です。果たして学問になるものかどうか…。
ネットで調べてみると、来年4月から「スピリチュアルケア学科」と「密教学科」を創設すると書いてありました。ご興味のある方は、高野山大学のホームページを参照してください。
今日、拝聴したM先生の講演で、M先生は「スピリチュアルというのは、私は魂に近いと思う。人は死んだら、肉体は滅びるが、魂は宇宙に帰っていく。ロボット工学の糸川英夫先生の真空理論によると、真空とは宇宙全体のプラスマイナスゼロの状態で、肉体を持った生きた魂はプラスだが、死んだら、マイナスの魂に帰っていき、プラスマイナスゼロになる」といったようなことを急に話したので、驚いてしまいました。
「人の2、3歳の頃の記憶とは、前世に覚えていることだ」とM氏は続けました。
スピリチュアルを研究している人、もしくは興味を持っている人はどうして皆、こうも同じような発言をするのか不思議です。これだけ、同じ説が行き渡っているとしたら、せめて、学問として、理論として確立していたらなあ、と思いました。
そういう意味で、高野山大学にとても興味を持ちました。この歳では無理かなあ?
医事評論家のMさんは、御歳70歳は超えると思われますが、いたってお元気で、今日も3人ものガールフレンドを連れて、夜の街に消えていきました。
美女軍団は、Mさんよりも10歳は若い、と思われます。健全交際です。みんなウキウキして、まるでアイドルのロックスターに群がるグルーピーのようでした。
なんで、Mさんはそこまでもてるのでしょうか?
彼のライフワークは「笑う門には福来る」です。終始、ニコニコして笑顔を絶やしません。駄洒落の連発ですが、話術が巧みで、人を飽きさせません。
例えは悪いですが、美女軍団は、誘蛾灯におびき寄せられる蛾のようです。
しかし、これは全く根拠のない例え話ではありません。
人は、パワーを持った人に惹かれるものだからです。明るい人に惹かれるものだからです。笑いも感度が高い。別の言い方をすれば、波長が高いので、一緒にいるだけで、パワーをもらえるのです。少女がアイドルに群がるのも、陶酔して元気をもらえるからです。
政治の世界でも経済界でも、パワーを持った人間に、人は引き寄せられてしまうのです。それが、権力という魔力です。
おっと、これは私の意見ではなく、Hさんの説でした。
如是我聞。私はそう聞きました。
でも、そう言われてみれば、納得してしまいました。
せっかく、TBを張って戴く、私の知らない方には申し訳ないのですが、こちらも気にして、TBを張って戴いた方のブログを見てみますが、正直、実に、まとも過ぎてつまらないのです。
データもそろって、詳しく、その道で食べていってもおかしくないくらいまともなのですが、悲しいかな、新聞や、雑誌や、ネットから知りえた1次情報を引用したものが多く、「あ、その情報や、その数字はどこかで読んだよ」というものが多くて、白けてしまうのです。
恐らく、殆どの方は、自ら「1次情報」を集めた経験はないことと思われます。
そのせいか、「1次情報」を盲目的に信じて引用しています。
それが、果たして100%正しいのでしょうか?
出生率1.29、国と地方をあわせた長期債務残高が1000兆円、我が国の食料自給率が40%…。
確かにそうかもしれません。以前、触れた宝くじの当たる確率にしても、確かに100万分の1かもしれません。
しかし、これらは数字のマジックであって、実際に、当たるか、当たらないかの確率は、その本人にとっては、当たるか、当たらないかの50%が正しいのではないでしょうか?
ブログを書かれて、トラックバックを張るような方は「どうだ。俺の方がよく物事を知っているだろう?」「俺の方が頭いいだろう?」といった方が多いようです。
私も認めます。
しかし、小賢しいブログを書くような方は、どうか、私のブログは無視してください。リンクを張るのも止めてください。
私の場合は、所詮、世迷言なのですから。
ですから、金になると言われる「アフィリエイト」なるものも張らないと思います。
その前に、TBを張られるようなタイムリーな時事ネタを避けた方がいいのかもしれませんね。
私自身は、現象的なものではなく、もっと、もっと根元的なものに興味があります。
皆さんに問いかけます。
あなたは、何で生きているのですか?
私は斯くの如く聞きました。
怖れとは、幻です。
怖れとは、勝手に自分で作っているものなのです。
「こうなったら、こうなる」「こうすれば、こうなる」と自分がこれまで捉われていた過去の体験を反映しているのです。
つまり、過去に執着しているだけなのです。
怖れとは、過去、もしくは未来に捉われている時のものであって、人は皆、今、茲に、生きていさえすれば、愛され、許され、導かれているのです。
今しかない、と言われれば、人は必ず幸せになれるのです。
つまり、怖れとは、まだ手放していない過去の体験にすぎないのです。
過去の体験の中で悲しかったことを感じきっていないから、また、怖れとしてやってくる。怖れを引き寄せてしまうのです。その繰り返しです。
それは、中途半端に、怖れや悲しみを「感じない」ことによって、自分を守り、壁を作ってきたのです。
しかし、もう、その繰り返しは止めた方がいいのです。
いつまでたっても、怖れは消えません。
だから、怖れは幻であると認識して、そこから逃げようとはしないで、怖れを感じきって、突き抜けるのです。そしたら、怖れは、雲のような幻だと気づいて、消えていきます。
人は、今を生き切れば、怖れている暇もないはずです。
最近、朝、目が覚めた時に襲われる胸の苦しみが薄らいできました。
理由は分かりません。開き直ったのかもしれませんし、諦めたのかもしれません。ただ一つ、考えられることは、心の持ちようです。
簡単に言いますと、今の自分を、現在の状況に置かれている自分を肯定するようにしたことです。例えば、仕事がうまくいかなくても、「仕事がうまくいかなくて悩んでいる」自分を肯定するのです。私は、神経がピアノ線のように細いせいか、すぐストレスが胃腸にきてしまいますが、それも、「これでいいのだ」と肯定するように心がけたのです。
「自分を愛する」と言う言葉は、日本人にとって口に出すことは気恥ずかしいのですが、他人の迷惑を顧みない自己中心主義と一線を画した意味で「自分を愛する」ことは大切なことなのだと最近になって気づき始めました。
振り返ってみれば、私自身は、随分と「自己否定」して生きてきたものです。「自分は駄目なんだ」とか「自分は最低だ」とか…呪詛の言葉は色々です。思えば、それは多感な時代に影響を受けた作家の太宰治の影響かもしれません。彼は38歳で心中自殺をしています。35歳で自殺した芥川龍之介や無頼派と言われた檀一雄や45歳で割腹自殺した三島由紀夫や48歳で急死した坂口安吾、そして何と言っても49歳で病死した夏目漱石に多大なる影響を受けました。皆、早死です。いつの間にか、自分も彼らの生き方に憧れていました。若い頃は、自分が長生きするわけがない、と思っていました。
しかし、「自己否定」では、政治にしても、ビジネスにしても、芸術にしても何も生まれません。ある人の説によりますと、「自己否定」すると、周囲に自己否定する人間が集まってくるそうです。仕事がうまくいくわけがありません。「自己否定」の観念は多感な時代のその人の「ヒーロー観」から影響を受ける、と分析されてしまいました。
逆に「自己肯定」すると、プラス志向の人が周囲に集まるようになり、仕事も日々の生活もうまくいくようです。
胸の「痛み」は私に何かを気づかせようとした信号だったのかもしれません。
大病して奇跡的に一命を取り留めた友人と久しぶりに電話で話をしました。現在、リハビリを兼ねて、中部地方の片田舎で平日はほとんど一人で暮らしているので、30分ほど、彼一人がしゃべっていました。
困難を実体験し、自力で切り抜けた者でしか語れない話だったので、ここに再録したいと思います。
●これまで、「世の中が悪い」だの「誰それが悪い」だの、何かのせいばかりにして生きてきたような気がする。また、「こうしなければいけない」とか「安逸な生活はしてはいけない」といったような考え方で生きてきた気がする。しかし、「こうしなければならない」ということはないんだよね。本当にないんだね。
●同様に「人生はこうあるべきだ」というモデルも、もうどうでもいいことなんだよ。自分は自分だし、何も拘る必要はないんだよ。僕はもう何も拘らなくなったよ。例えば、今まで、料理や味付けに非常に拘っていたけど、今ではニンジンなんか、生で、何も付けないで齧って食べているぐらいだからね。
●確かにここは山奥だけど、何処に住んでも一緒だと思っている。ニューヨークでもサンパウロでも何処に行っても同じなんだよ。今ここで何かをやらない限り、どこに住んでも同じなんだよ。山奥だからといって、世の中の動きが分からないとか、時代に取り残されているという感覚は全くないんだ。週末にまとめて新聞に目を通すくらいで、テレビは見ないけど、ラジオで2、3分、ニュースを聞けば、それで十分、世の中のことは分かるよ。
●もう、考え方の問題じゃないんだ。人は「家族がいるから」とか「仕事があるから」とか、色々と理由を作って、やらないけど、皆、口実に過ぎないんだよ。「やる」か「やらない」かのどちらかなんだよ。すべて御破産になっても、ゼロからでも、何でも始められるんだよ。今の僕のように。誰でも何歳になってもできるんだよ。やらないのは、ただ、やりたくないから、口実を作っているだけなんだよ。
彼は、最近、小説を書いて、ある文学賞の最終選考会まで残ったそうです。彼の文壇デビューする日は近いかもしれません。その時、思いっきり、彼の本名を明かしてみたいと思います。
結局、おじじと会談したのは1時間足らずでした。
最後に名刺を交換したら、おじじの本名が徳村彰さんということが分かりました。
「これ(名刺)も、私は作ったわけでなく、皆が作ってくれたのです。ここには、色んな人が来ます。1日だけの人もいるし、2ヶ月も泊まっている人もいます。自由です。文庫から学校に通っている人もいます。この間は、ドイツのミュンヘンから家族も来ていたなあ。そしてシカゴからも…」
「またお会いしましょう」と握手してお別れしました。
この後、「おばば」のいる文庫に顔を出しました。「森」から車で10分くらいの距離でした。本当に山奥なのに、文庫の近くには小学校と中学校がありました。
文庫に着くと、おばばが「よく来ました」と出迎えてくれました。「文庫」は合宿所みたいなところで、何人かの中学生くらいの子供たちが住んでいました。
彼らは、都会で不登校になって、ここに来たのか、よく分かりませんでした。
8畳くらいある「居間」では、今、まさに昼食の準備が始まっていました。
私は、何をするのではなく、ボーとそこに佇んでいました。
そこには、祭壇らしきものがあり、遺影のような写真と花とグレープフルーツが飾られていました。
おばばが「せっかく来てくれたのですから」と、一緒に昼食を奨められましたが、丁重に辞して、お別れを告げました。
文庫の近くに「ラ・ムータ」という喫茶店のようなペンション風の軽食屋さんがあり、そこに入ることにしました。
玄米のさんま定食800円を頼んで、部屋の中を見回すと、本棚があり、そこに『森に生きる』(雲母書房)という本がありました。本当は「森」という字は、「木」の下に左が「水」、右が「土」という、著者の造語で「もり」と読ませる「漢字」でした。
著者の名前を見て、驚いてしまいました。
徳村彰。
先程会ったばかりの「おじじ」の書いた本だったのです。何という偶然でしょう。
私は早速、この本と、もう1冊「森に学ぶ」(雲母書房)を手に取って買い求めることにしました。
やはり「森の哲人」という私の第一印象は間違っていませんでした。
徳村氏は、東京大学を中退した大変なインテリでした。
前回、「おじじは心に傷を負った人」と書きましたが、これらの本によると、1985年に子供たちと網走まで4日間の徒歩旅行に行く途中、交通事故に遭い、2人の子供が死亡、3人が大怪我をする大惨事に見舞われたそうです。先程、祭壇に飾られていた少年たちの写真が事故死した人だったのでしょう。その時は、何も分かりませんでしたが…・
彼の思想に学ぶべきことが沢山ありました。
いずれまた、紹介したいと思います。
おじじは、心に深い傷を負った人でした。
もっとも、それは、後から分かったことで、会っている時は、その片鱗さえ見せることがなく、要するに謎の人物でした。
私「いつ、この森に来たのですか?」
おじじ「1983年に初めて来て、1991年に本格的に移住しました。それまで、横浜に住んでいました。私は、おばばの父親で、美学者の中井正一の思想に影響を受けました。彼は広島の尾道に図書館を作って、文化運動を繰り広げました。私も同じようなことがしたいと思い、1971年に横浜の日吉にひまわり文庫というものを作り、たくさんの子供たちを受け入れていました。当時は、石井桃子氏の『子供の図書館』が岩波新書から出版され、全国的に子供文庫が盛んに生まれていたのです。そのうち、私は子供を本の世界だけにとどめたくないと思うようになり、『本はなくても子は育つ』『子供が主人公』などと提唱しました。周りから猛反発を受けましたけど…。最初60人ほどで始まったひまわり文庫も数年後には3000人もの子供たちでふくれあがり、もっと広い自然にあふれたところを探し求めたのです」
私「それで、この北海道に来たのですか?」
おじじ「最初は、山梨県のある町に子供文庫を作ることが決まっていたのです。町長さんの了解も得て、95%くらいそこへ移住することが決まっていたのです。しかし、土壇場で地元民から『余所者はいれたくない』という反対運動に遭って、挫折してしまいました。そしたら、知り合いの知り合いのまたその知り合いにここの土地を紹介されたのです。冬はマイナス30度にもなるので、最初は正気の沙汰ではない、と反対されましたが、住めば都です。おかげで私の病気も治ってしまいました」
私「医者から見離されたと聞きましたが」
おじじ「そうなんです。名医から『あなたの命はあと2年』と宣告されたのです。最初は肝硬変で、腎臓も肺もいろんな内臓がやられていました。若い頃、ロシアや中国に行って無理していましたからね」
私「どんなお仕事をなさっていたのですか?」
おじじ「…それはいいじゃないですか。それより、この森に来て、森の精気に当たったおかげかしれませんが、病気が治ってしまったのです。視力も右が0・1、左が0・09ぐらいでしたが、この通り、眼鏡なしで見えるようになったのです。不思議ですよね。例えば、ここは雪が深いですが、皆、雪かきを嫌がりますよね。それが、楽しくて楽しくてしょうがないのです。私は自然に生かされていることを実感するのです。だから、私は木の枝一本折るのも心がためらいます。雑草だって、人間が勝手にそう呼んでいるだけで、草だって一生懸命生きているのです。どんなものにも精気が宿っているのです」
おじじは、話をしながら、一瞬たりとも手を休めることなく、薪を燃やしていました。(つづく)
今回の小旅行の目的の1つが、森の哲人に会うことでした。
私の予備知識は、
・その人は皆から「おじじ」と呼ばれ、奥さんの「おばば」と家族一緒に森の中で暮らしている。
・子供たちにその森を開放して「自主性」を重んじて、子供たちの創意工夫と責任で、遊ぶなり、勉強するなり、やってもらう。
・子供だけでなく、都会の生活に疲れた大人たちもやってくる。
・そこは電気もガスも水道もない所で、燃料は薪。いわば自給自足に近い生活を強いられる。
・「おじじ」は昔、大病して、「あと、2年の生命」と宣告されたが、森で生活しているうちに、病気がすっかり治ってしまった。
・今年77歳になるというのに頗る元気。
ざっと、そんなところでした。
そこは、上川支庁の紋別郡滝上(たきのうえ)町という所で、旭川から車で2時間半くらいかかりました。国道273号線を北上し、滝西という所を左折すると、砂利道で、もう人など住んでいるはずがないと思われるほど閑散としたところを、奥へ奥へと突き進むと「おじじ」の「森の子供の村」がありました。
木造の掘っ立て小屋が数件建ち、1つは住居、1つは五右衛門風呂、1つはトイレといった感じでした。白い雑種犬のエンジェルが出迎えてくれました。
「おじじ」はこれから、東北地方のブナ林を見に、約1ヶ月間の旅行に出る準備をしていました。
突然の訪問にもかかわらず、「おじじ」は温かく迎えてくれました。
体感温度3度か4度です。「おじじ」は貴重な薪を焚いて暖をとってくれました。
「おじじ」は、ボツボツと話し始めました。
「言葉で、『自他一体』ということがあるけど、こうして、森の中でじーと暮らしていると、自分と森と木との境界線がなくなり、自然に溶けこむ感覚になるんです。この時、自分は自然に生かされているんだなあと強く感じます。これは、一言でいえば、愛なのでしょう。本当にそう感じました。区別とか、分別とかいう物差しがある限り、この感覚は分からないと思います。病気が治ったのは、森の気に触れたせいなのかもしれないけど、よく分からない。自然は何1つ、他のものを犠牲にして生きていない。命の尊さをしみじみと感じます」
大変失礼ながら、「おじじ」は77歳とは到底思えないほど、声が若く、頭脳明晰でした。
私は、思わず「この人は一体何者なのだろう」と、彼の目の奥を覗き込んでしまいました。(つづく)