京都大旅行、のはずが関西大旅行

奈良・猿沢池

2泊3日の京都大旅行のはずが、関西大旅行と相成りました。

◇2018年8月25日(土)

いつもの如く、新幹線京都駅中央口改札で、京洛先生がお出迎え。

「渓流斎さん、旅の醍醐味をご存知ですか?ー 珍道中ですよ」

ということで、京都駅で下車することなく、そのまま新幹線口の真向かいにある近鉄線で、何と奈良駅へ。まさに、弥次喜多珍道中の始まりとなりました。

近鉄奈良駅から歩いて数分のお好み焼き屋さん(名前は失念)で「豚焼きそば」とビールで豪華ランチ。

この後、中臣鎌足が鹿島神宮から連れてきた神さまの使者といわれる鹿さんが3000匹も戯れる奈良公園を通って、奈良国立博物館 へ。「修理完成記念特別展 糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」展(26日で終了)を鑑賞しました。

繍仏とは、仏像などを刺繍した、いわゆるタピストリーのことです。当麻寺の曼陀羅は、中将姫が一夜にして縫い遂げたといわれる伝説の繍仏で、普段は未公開。何年か、何十年に一度しか「御開帳」されないので、今回、大変見る価値があるというのです。

もう1300年ぐらい時が経ているので、原型はほとんど消えて黒ずんでしまっていましたが、何か、居住まいを正したくなるような威厳がありました。伝説では一夜で縫い上げたことになっておりますが、実際は早くても7年は掛かるようです。刺繍ですから、立体的に浮き上がって見えたことでしょう。

奈良といえば、東大寺(の大仏)か、興福寺なんですが、玄人の京洛先生は、そんな修学旅行生が行くようなところは見向きもせず、一路目指したのが、元興寺(がんごうじ)でした。

元興寺は、飛鳥の飛鳥寺をこの奈良に移築したもので、1300年以上昔の飛鳥時代の屋根瓦が今でも現存する如何にも玄人好みの仏閣でした。国宝です。しばし、斑鳩の里に思いを馳せました。

◇◇◇

この後、京都に戻り、夜は、北野白梅町にある創業安政3年(1856年)の米屋、大米米穀店が経営する洋食屋「キッチンパパ」へ。キスフライ付ハンバーグ 1280円と ハイボール500円を飲食しました。日本人向きにアレンジしたデミグラスソースのハンバーグで、とても美味しゅうござんした。繁華街ではないので、歩いている人は少ないのに、この店だけは、学生風の若い人でいっぱいで、並んでいる人もいました。

◇8月26日(日)

さて、「今日こそ京都の寺社仏閣を存分に楽しめるぞ」と期待していたら、京洛先生「今日は神戸の南京中華街に行きます。よろしく」ですからね。

えっ? 神戸なの? 京都から遠いでしょ!しかし、実際は1時間ほどで行けてしまい、阪急電車の日曜日割引チケットを金券ショップで買うと、片道620円が420円となり、往復400円のお得になりました(笑)。

京洛先生、どうやら、神戸南京町の中華街にある「元祖ぎょうざ苑(1951年創業)」に行きたいというのです。ここは、神戸の味噌だれ餃子の発祥の地で、食通の京洛先生は、寅さん俳優の渥美清らがよく通った東京・渋谷の中華料理店「大穀」の味噌だれ餃子の味が忘れられず、どうしても神戸の評判の店で食したいというのでした。

阪急神戸三宮駅から歩いてJR元町駅へ。そこから、グーグルマップを手掛かりに10分ほどで着きました。評判の店なので、12時ちょっと過ぎて着いたら、先客がいて、ちょっと並びました。でも、出たときは、入ったときの倍以上の人が列をつくっておりました。

確かに評判通りの美味しさ。変な言い方ですが、皮や肉汁まで旨いのでした。猛暑でビールもうまい!

個人的に、横浜の中華街は何十回も行っておりますが、神戸の中華街は生まれて初めて行きました。南京町は、今年で開設150周年なんだそうです。明治維新と一緒ですか。

JR元町駅から神戸駅へ行き、この駅にほど近い湊川神社へ参拝。ここは、別名、楠公神社と言われるように、南北朝時代の忠臣楠木正成をまつった神社です。有名な湊川の戦いで敗れて自害した場所に、明治以降にこのような立派な神社が建てられたといいます。

この後、阪急御影駅で途中下車して、香雪美術館へ。朝日新聞を創刊した村山龍平(と二代目村山長挙=岸和田藩主の三男が婿入り)の集めた日本と東アジアの古美術を自宅の一角で公開展示したもので(香雪は、龍平の雅号)、御影という関西でも屈指の超高級住宅街の中でも、図抜けてだだっ広い敷地で、その広さには腰を抜かすほど驚いてしまいました。

村山邸を1周すれば軽く20~30分ぐらい掛かるのです。森林に囲まれ、どこかの植物園か動物園と言われてもおかしくない広大な敷地でした。

朝日新聞社は戦前、飛行機会社(実際は航空部。戦後、全日空に発展)まで作ったりしましたから、創業者一族には相当な収益があったということなんでしょう。桁違いの大きさに唖然としました。

帰り、御影駅近くの喫茶店「マハロ」でいちごかき氷600円で一息つきました。店名がハワイ語で、店内の掲示がフランス語、店内でかかっている曲はブラジルのボサノヴァ、そして、歯科技工士の相談会開催と、何か超変わった店でした(笑)。でも、気配りの行き届いた感じのいい店でした。

◇◇◇

京都に戻り、夕方「京極湯」で一風呂浴びたあと、この銭湯近くのお好み焼き屋「にしで」で、ミックス焼そば、お好み焼きなどを食しました。この店は、以前よく入った店で、今回は5年ぶりぐらいに入りましたが、女将さんが、小生の顔を覚えてくれていて吃驚。美人の女将さんもさすがに少し老けました。お互い様ですか(笑)。

そう言えば、銭湯では、番台の女将さんから、京洛先生より小生の方がかなり年上に見えたらしく、個人的に相当なショックを受けました。茲ではっきり申し上げておきますが、小生は京洛先生より一回り近く若いのですぞよ。

◇8月27日(月)

京都堀河三条「力」の元女将さんのところに久しぶりに立ち寄り、グーグル・スピーカーの威力を見せてもらいました。

「オッケー、グーグル、今、気温は何度なの?」と彼女が言うと、「32度です」と答えるし、「オッケー、グーグル、音楽かけて」と命令すると、しっかり、登録していた(?)好きな音楽をかけてくれるんですからね。何か、怖くなるくらい便利でした。

さて、この日は、ついに小生の希望が通り(笑)、念願の京都・伏見稲荷大社に行きました。全国3万社もある稲荷神社の総本社です。和銅四年(711年)御鎮座で、渡来人の秦氏が創建したという説が有力です。ちなみに、全国の神社数は約8万8000社(全国のコンビニは約5万6700軒)、このうち八幡宮は4万4000社、天満宮は1万2000社と言われております。

奈良もそうでしたが、外国人の多さには本当に吃驚しました。すれ違う人は殆ど外国人。比率は東京より多いんじゃないでしょうか。

「千本鳥居」など、何百メートルも続く鳥居の列が「インスタ映え」するということで、世界的に外国人観光客の間で伏見稲荷大社は、大人気スポットなんだそうです。

我々は「奥の院」の辺りまでしか行きませんでしたが、この奥に行くと勾配もきつく、実際、迷い人が出るほど迷宮化しているそうです。

小生、先週「名誉の負傷」をして、全治2週間ぐらいではないか、と思われるくらい膝が痛んで歩きにくいので、当然、ギブアップしました。(歩けますが、まだ走れません)

奥の院の茶店でビールを飲んでいた75歳ぐらいの日本人男性が「伏見稲荷大社は、拝観料も駐車場もただで、24時間オープン。だから、大型バスでぎょうさん乗り付けて、外人が9割ぐらいになったんや」と、こちらから聞くわけではないのに、答えてくれました。

確かに、浴衣や着物を着ている人のほとんどが、日本人ではなくて、外国人でしたからね。売り子も怪しい日本語でした。

この後、京阪電車「中書島駅」に向かい、その近くの寺田屋を見に行きました。私の希望でした。建物は意外にも小さいので少々驚き。当時は水運が盛んですから、この辺りは大坂から淀川を通って京都に入る中継地で、花街地として栄えたらしいですね。

中に入ろうと思ったら、「月曜休館」で閉まってました。仕方ないので「沿革」を引用しておきます。

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

ここから市バスで30分、京都駅南口辺りで降りて、京洛先生お勧めのうどん屋「殿田」で遅いランチ。たぬきうどん600円、稲荷寿司三個300円という安さでした。

たぬきうどんは、関東なら天かすなのですが、こちらは、油揚げなので、関東なら、きつねうどんです。刻んだ長ネギにショウガがたっぷり。あんかけ汁で、結構上品な味でした。店の人の感じもよく、京都に行ったらもう一度食べたい味でした。

果たして日本人は全体主義国家を望んでいるのか?

昨日は、メディア史研究家のA氏と会食する機会を得て、衝撃的な事実をそっと耳打ちされました。

このままでは、今のマスコミ、特に新聞業界は崩壊どころか、壊滅、死滅するという話でした。

極秘資料を内密にご教授頂いたので、茲ではあまり具体的な数字は挙げられませんが、数字なしでは雲をつかむような話になってしまうので、ほんの1部だけ御紹介致しましょう。日本を代表する朝日新聞です。

かつては、800万部とも850万部とも隆盛を誇っていた大新聞も、今や600万部を切ってしまったというのです。この数字は「公称」なので、いわゆる販売店への「押し紙」(広告費を換算するために、実際の配布部数より水増しした印刷部数)が3割とも5割もあると言われてますので、実売は420万部ということになります。もうクオリティーペーパーなどと胡坐をかいていた時代は終わったということです。

しかも、朝日はここ3年、毎年30万部も部数が激減しており、年間150億円の損失を出しているというのです。この3年で450億円の損失です。何故、倒産しないかというと、一等地にある不動産業で糊口をしのいでいるわけです。

天下の朝日がこの事態ですから、経営難の毎日、産経となると、もう風前の灯となるわけです。具体的な数字を聞けば、腰を抜かすことでしょうが、この実体は何処のマスコミも報じていません。

原因は色々あるでしょう。スマホの普及や若者の活字離れなどと言われてますが、新聞業界の「敗因」は、初期の段階で展望を誤って、ヤフーやグーグルなどネットメディアにただ同然でニュースをあげてしまったことにあります。

読者にとっては、ただ同然でニュースがネットで読めるわけですから、大歓迎です。新聞がつぶれようが、痛くもかゆくもないことでしょう。

しかし、ここに見落とされがちな陥穽、つまり落とし穴があります。

第一に、ネット企業は自分たちが取材してニュースを配信しているわけではないからです。それなら、ネットメディアがやればいいじゃないか、という話になりますが、話はそう簡単ではありません。「餅屋は餅屋」があるというわけです。「報道」は無駄が多く、人件費が嵩み、そう儲かる商売ではありませんし、報道機関として長年培ってきた「技術」は、そう簡単にできるものではありません。

◇◇◇

今朝、たまたまラジオを聴いていたら、経済評論家の内橋克人氏が、「経済財政白書」について、一家言申し立てを行っていました。

経済財政白書は、かつては「経済白書」といって、1947年から経済企画庁が発行していましたが、2001年から、小泉首相(当時)の規制改革、行政改革により経済企画庁が廃止され、代わって内閣府により「年次経済財政報告」(通称:経済財政白書)として発表されるようになりました。

内橋氏によると、かつての経済白書では、ある程度、時の政権から距離を置いて経済政策をやや批判的に解剖したり、展望したりする傾向がありましたが、内閣府になってからは、時の政権に沿った、追認するような白書を発行するようになったというのです(そういった趣旨の発言でした)。

例えば、「平成29年度 年次経済財政報告」の「はじめに」は、こんなことで筆が起こされています。

 我が国経済は、アベノミクスの取組の下、2012年末から緩やかな回復基調を続けている。
 2016年後半からは、海外経済の緩やかな回復を背景に、輸出や生産が持ち直すなど企業部門を起点にした好循環が進展しており、雇用情勢が一段と改善する中で人手不足感はバブル期並みに高まっている。少子高齢化・人口減少が進む中で、人手不足を克服し持続的な経済成長につなげるためには、働き方改革と新技術の導入を同時に進め、生産性の向上と多様な人材の労働参加を図ることが大きな課題である。こうした取組により、生産性が上昇し、内需の活性化につながれば、デフレ脱却への動きも確かなものとなることが期待される。

うーん、どうも「アベノミクス大成功、万々歳」といった官僚記者の「忖度」がもろに表れておりますねえ。

私も内橋氏の話を聴かなかったら、経済財政白書など読んでみようという気がしませんでしたが、国民のほとんどは関心がないことでしょう。

◇◇◇

つまり、話は戻って、何を言いたいかといいますと、一部の若者が「マスゴミ」と軽蔑している新聞などの既成メディアが倒産すれば、ほとんど「右へならへ」の政府広報か、時の政権に対する忖度情報しか、国民は目に触れることができなくなる恐れがあるということです。

これでは、国家がマスコミを支配した全体主義のソ連や中共(ふるっ)と変わらないということです。独裁国家北朝鮮並みです。

「自民党広報紙」「御用新聞」と言われる読売新聞だけ残ればいいんじゃないか、という意見もあることでしょう。しかし、メディアは、多ければ多いほど多彩な埋もれがちな意見が反映されるというのが私の持論です。チェック機能が無くなれば、喜ぶのは汚職政治家や役人や脱税企業ぐらいでしょう。

このままでいいはずはありませんが、中高年でさえ、新聞を読まなくなった現実ですから、打開策はないと言い切っていいでしょう。

堕ちるところまで堕ちて気がついた時は、手遅れだったということになるはずです。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。

国民はなめられている

 東京の調布先生です。
 ワールドカップ・サッカーの観戦で、皆さん、また寝不足のことでしょう。チャップリンが生きていたら、「サッカー狂時代」とかいうタイトルで、面白い風刺映画をつくっことでしょう。
 「渓流斎日乗」の読者の皆さんのようなインテリさんまで、「サッカー汚染」されるのですから、時の為政者安倍首相は「世の中は、チョロい。チョロいもんだよ」と一昨日は、二代目猿翁の稽古場跡の居酒屋「赤坂 うまや」で「忖度部下」と一緒にニンマリと酒を飲んでいるのです。
 そして、昨晩は、東京・赤坂のイタリア料理店「キッチャーノ」で、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員)、石川一郎(BSジャパン社長)、島田敏男(NHK名古屋放送局長)、粕谷賢之(日本テレビ取締役報道解説委員長)、政治ジャーナリスト田崎史郎(元時事通信)と優雅にも食事しているのです。
 まさか、官房機密費から食事代が出ていないでしょうね。納税者として、曽我、山田、小田、石川、島田、粕谷、田崎の名前は覚えておくことです。特に、国営放送の島田局長は、わざわざ、名古屋から飛んできたんですか。。。国民から視聴料を簒奪している公共放送の幹部が、現場をほっぽり出したりしていいんですかねえ?誰も批判しないので、迂生が指摘しておきます。
 もう一回、まさか、と言いますが、「国民はバカだから新聞を読まない。これで、自民党も安泰、万々歳だ」「ごもっとも、ごもっとも」と茶坊主のような会話を交歓しなかったでしょうね?
 マスコミがスクランブルを組んで、時の最高権力者にこびへつらったのか、為政者が下々の生活を知りたくて昵懇のメディア関係者を呼びつけたのか、どちらか分かりませんが、さぞかし、藤原道長も催したことがないほど和気藹々とした懇親会だったことでしょう。いずれにせよ、国民はなめられているということですよ。
 そういえば、赤坂の居酒屋「うまや」には、昔、貴人と御一緒しませんでしたか? 亡くなった藤間紫さんと市川猿之助(猿翁)の稽古場を改造したお店で、迂生は何度も行きました。

でも、総理大臣が行くには、聊か不釣り合いですよ。若いミーちゃん、ハーちゃんが行って喜ぶような雰囲気です。

 

それから、「昭和シェル」との合併問題で「出光一族」が、賛否で内部対立しているようですね。数年前あった「大塚家具」の親と娘の家族対立みたいな構図です。創業者の出光佐三も、泉下で泣いていると思いますよ。それに、「村上ファンド」やインチキ弁護士、コンサルタント屋、周旋屋なども入り込み、内実は漫画みたいな展開になっていると思います。取材するには面白いと思います。

追河探訪記者がワクワクする素材です(笑)。

ギブソン破綻と大陸新報と記者の劣化

私は、少年の頃、ギター小僧でしたから、フェンダーやマーチン、ギブソンと聞くと、襟を正したくなります。

当時でも20万円、30万円は軽くしましたから、とても手に届くはずがなく、憧れの的でした。

ですから、昨日(米時間5月1日)、「ギブソンが破綻した」というニュースを聞いた時は本当に驚き、悲しくなりました。「ギブソンが危ない」という憶測記事が数週間前に流れていたので、覚悟はしておりましたが、やはり、寂しい。米裁判所に連邦破産法11条(日本の民事再生法)の適用を申請したらしく、負債は最大5億ドル(550億円)だとか。

5月2日付朝日新聞夕刊の記事によると、ギブソン破綻の原因は、ギターをあまり使わない「ヒップホップ」が人気を集める一方、ロック音楽が低迷し、エレキギター市場も縮小傾向が続いていたからなんだそうです。そのせいで、ギブソンは、日本のティアックなど音響メーカーを買収して多角経営を図ったのですが、それも裏目に出たようです。(再建後は、ギター製造に専念するらしい)

ギブソンは1894年創業といいますから、ロックなんてありません。もともとは、カントリーやジャズ、ブルースギターを中心に始めたのでしょうが、記事を書いたのは若い記者のせいか、一言も触れていません。ギブソンを愛用したギタリストとして、「ルシール」と名前を付けて愛用したB・Bキングは当然出て来なければならないし、何と言っても、レスポールギターの生みの親である名ギタリストのレス・ポールは最重要人物です。恐らく、若い記者は知らなかったのではないでしょうか。

批判ついでに、同じ朝日新聞夕刊の社会面に「戦時下の上海  幻の雑誌」「井伏・壷井ら有名作家ずらり」といった見出しで、太平洋戦争末期に上海で発行され、これまで「幻の雑誌」とされてきた日本語の雑誌が北京などで見つかり、その内容が明らかになった、と報じてます。

北京の図書館で見つかった雑誌は、月刊「大陸」で、これまで日本の公共図書館では所在が確認できなかったといいます。そこには井伏鱒二や壷井栄ら有名作家らも寄稿していたといいます。それはそれでいいのですが、この雑誌「大陸」について、「日本軍などの支援で創設された新聞社『大陸新報社』が1944年に上海で創刊した」としか書いておりません。

大陸新報社=朝日新聞ですよ!ブラックジョークかと思いました。山本武利さんの「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)を読んでいないんでしょうかね?大陸新報は、朝日新聞が昭和14年に、帝国陸軍とグルになって、大陸利権を漁る方便として創刊した新聞なのです。侵略の急先鋒みたいなもんです。その事実をひた隠しにしているとしたら、随分と悪意がありますね。

もし、その事実を知らないで若い記者が書いたとしたら、不勉強というか、記者の質が劣化したと言わざるを得ません。

大陸新報と朝日新聞との関係を知っていて、わざと書かなかったとしたら、これはまた酷い話です。原稿を見たデスク、整理部か編成部か知りませんが、校正と見出しを付ける部署も含めて、「証拠隠滅」と言われてもしょうがないでしょう。

「新聞社崩壊」(新潮新書)を書いた畑尾一知さんが心配した通り、このままでは、記者とデスクの劣化で本当に新聞社は崩壊してしまうかもしれませんよ。

根津で忘年会 小三治の話、伊藤律の話…

東京・根津「車屋」

最近の華麗じゃなかった、加齢と動体視力の低下によりまして、電車内でスマホで毎日更新することが、正直、身体的にとてもしんどくなりました(苦笑)。

◇根津の「車屋」で痛飲

先週の土曜日といいますと、12月2日に東京・根津で開かれた忘年会に参加しましたが、マスコミ業界紙の敏腕記者から「書かないと刑事告訴しますよ♪」と脅されていたにも関わらず、体力的にすぐに書けませんでした(笑)。

ま、今日は簡単に触れます。ちょうど去年の今頃、東京・目白の「五城目」という秋田料理の小料理屋さんで忘年会をやったと思ったら、あれからもう1年も経ってしまったんですからね。早いもんです。今年は、紳士淑女合わせて9人も集まりました。

根津は落ち着ける安くてうまい居酒屋がたくさんあるので、私も好きな街です。串揚げの「はん亭」とか小料理屋の「うさぎ」なんかは昔、よく通ったものです。

今回の会場「車屋」という所は、赤羽彦作村長行きつけの店で、私は初めて行く居酒屋さんでしたが、雰囲気があるなかなかの店でした。お店の人は忙しいのでなかなか注文を聞いてくれませんでしたが、かの有名な吉田類先生の大きな色紙が飾ってありました。

東銀座「凱旋門」生姜焼き加齢じゃなくて、カレーランチ800円

大した話をしたわけではありませんが、有名出版社に勤める成田さんが、熱心に落語の話をされてました。

今は人間国宝の柳家小三治の大ファンというか、追っかけをやっていて、先日は、遠路、埼玉県志木市文化会館で開催された独演会にも行かれたそうです。

そして、熱烈な小三治ファンだけに、彼の愛車のナンバーが「★532」だということまで掴んでおりました。532で小三治と読めますね。(笑)

成田さんが最も敬愛していた落語家は古今亭志ん朝らしいですが、彼も若くして亡くなってしまいました。

自慢話になりますが、私は、20年以上昔になりますが、小三治さんにも、生前の志ん朝さんにもお会いしてじっくりお話を伺っているんですよね。  成田さんには鼻高々です(笑)。

◇伊藤律と甘粕大尉の架空インタビュー

ところで、いつも私を脅迫して喜んでいる敏腕記者は「《渓流斎日乗》はウソばっかし書く。フェイクニュースだ」と、どこかの国の大統領のように絡んでくるので、私も反論しました。

「かの大新聞、朝日新聞が、当時、北京に幽閉されて、外部の人間に会えるわけがない伊藤律にインタビューした、という記事を掲載し、『架空インタビュー』ということで、世間では大騒ぎになりました。フェイクニュースは今に始まったわけじゃありません。そして、もう一人…」と言った途端、名前が出て来ず、「あ、忘れてしもうた」と大失態を演じ、大笑いされてしまいました。トホホ…

悔しいので、ここに書きます。大正12年、関東大震災のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄らを惨殺したとされ、軍法会議の前に雲隠れしていた甘粕大尉のことでした。

当時、何処の新聞社も先を争って血眼で甘粕大尉の行方を探しますが見つかりません。そこで、某新聞社が会ってもいないのに甘粕大尉のインタビューを掲載して、後で「架空インタビュー」だと発覚するのです。

私も、この場で、汚名返上、名誉挽回が少しできてスッキリしました。

ワセダクロニクルが天下の電通と共同に果たし状!

久し振りの

今、早稲田大学ジャーナリズム研究所が運営するワセダクロニクル(Waseda Chronicle)というネット上の調査報道メディアが注目されています。

編集長は昨年、朝日新聞の調査報道の「限界」を見極めて同社を退社した人です。

本来、ジャーナリズムというものは苦労と手間ばかり多く、あまり儲からないものです。

昔は「ブン屋」と蔑まれ、まずは表玄関では会ってくれず、「裏口に回れ!」と叫ばれた賤業でした。相手の男の職業がブン屋だと分かると、父親は「娘は嫁にはやらん!」と断ったものです。

これは、嘘でも冗談でもなく、ブン屋は職業として「犬殺し」と同等の扱いでした。

何故これ程まで、ブン屋が嫌われたのかと言いますと、「報道」にかこつけた恫喝、恐喝まがいなことをする事案が多く、報道と宣伝との境界が曖昧だったからなのです。

業界の専門用語に「記事稿」と呼ばれるものがありますが、これは、一般の報道記事に見せかけた広告のことを指します。今でも、証拠隠滅逃れのために紙面の片隅に虫眼鏡で見ないと分からないほど細かい字で「広告」と書かれています。

この記事稿を発明した人は誰なのか分かりませんが、日本でその手法を高めたのは恐らく、1901年に電報通信社を創業した光永星郎だと思います。

電報通信社は昭和11年、聯合通信社に吸収合併される形で同盟通信社となり、戦後は電通として復活します。同盟が解散してできたのが、この電通と共同通信社と時事通信社です。

で、最初に取り挙げたワセダクロニクルですが、調査報道として、この電通と共同通信社を俎板に乗せております。両社が製薬会社と結託して、記事に見せかけた広告を共同が全国の地方新聞社に配信し、その記事を一方的に信じた読者が、その高価な脳梗塞の予防薬や糖尿病治療薬などを購入したというシリーズ「買われた記事」を報道しております。

まあ、詳しくは「ワセダクロニクル」http://www.wasedachronicle.org/ を検索して読んでみて下さい。

ワセダクロニクルは、広告「記事」を執筆した共同通信社の編集委員にまで突撃インタビューしており、まさに調査報道の最たるもんです。

恐らく、世間一般の人の中で、新聞の記事やラジオ・テレビのニュースが共同通信社が配信したものだと知っている人はほんの僅かでしょう。

全国には一県一紙以上は必ず地元紙があり、そこのニュースは大抵、共同通信社から配信されております。「朝日だ、読売だ」と騒いでいるのは、東京や大阪の大都会に住む人だけで、北海道の人なら道新、名古屋なら中日新聞しか読まないのです。

ですから、共同通信社の読者の累計は1000万部を超え、その影響力は、朝日や読売は足元にも及ばないわけです。少し言い過ぎですが(笑)。

その天下の共同が「成功報酬」を得て、記事に見せかけた広告を配信する暴挙は、何処のメディアも取り上げることはないので、ワセダクロニクルというネットメディアが今、注目されているわけです。

加計ありきの獣医学部新設

ハバロフスク Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

産経新聞を読んでいますと、いつも「朝日新聞がどうした」「朝日新聞がこうした」という文言ばかり登場して、まるで朝日新聞がなければ産経の存在価値がないみたいです。

下衆な言い方をすれば、朝日新聞をネタにして飯を喰っている感じです。

動物の名前のような有名なスター記者も恥ずかしくないんでしょか?「モノを言う」新聞なら、他紙の見解などあまり引用せず、我が道を歩んだらどうでしょうか。

産経の読者なら、朝日なんか読みたくないでしょ。
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いわゆる右翼系と呼ばれる雑誌も同じです。「朝日新聞に鉄槌を下す」といった論調に終始してます。

これじゃ、まるで世の中は朝日新聞を中心に回っているみたいじゃないですか。朝日は、世間の人が思っているほど反体制派新聞でも何でもないですし、内閣府や財務省官僚のイタコになって庶民を欺く論説委員さんも沢山いるのですからね。

週刊文春もかつては同じような調子でした。朝日を飯のタネにしてました。しかし、ここ数年は様変わりして、何処の新聞社もできないようなスクープを連発しています。

もう朝日新聞はライバルでも何でもないつまらない弱小媒体に成り下がっていますから、気にすることはなくなったのでしょう。

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本日発売の週刊文春のスクープ記事「加計学園 安倍氏選挙応援で公選法違反の疑い」は、もしこれが事実だとしたら、とんでもない話です。

【以下引用】
週刊文春が入手した、2009年7月28日付の組合の「要求書」には次のように記述されている。

〈岡山理科大学、倉敷芸術科学大学および千葉科学大学に所属する事務職員が2009年8月末投票予定の衆院議員選挙において、実質強制的に特定政党の選挙運動に動員されていると聞き及んでいる。職場の上下関係において上位にある者が行えば、強要の意図がなくとも下位の者は非常に断りにくい状況に追い込まれることは火を見るより明らかであり、これは思想信条の自由に対する重大な侵害である〉

これではまるで便宜供与ですね。

安倍首相は国会で「李下に冠を正さず」と身の潔白を主張しておりましたが、これでは選挙応援の見返りに獣医学部新設を「岩盤を崩して」認めたようなもんです。

今日3日は、安倍首相は内閣改造を断行して目先を変えて逃げようとしているようにも見えます。

とはいえ、もう「終わった人」の動向には誰も興味を持たないかもしれませんね。

「新聞 資本と経営の昭和史」

 公開日時: 2007年10月10日

昨晩は、調布先生と半蔵門で会食しました。またまた、色々と人生訓をご教授して戴きました。

先生は、古い方なので、急に変なことを言います。例えば、

「博労の気質がなければ駄目だよ」というわけです。

博労といっても、よく意味がわかりませんでしたが、辞書によれば、牛馬の仲買人で、牛馬を品評する目利き役のようですが、それが、転じて、「博労の気質」というのは、何かを成し遂げてやろうという山っ気のある人物のようです。そういうことは、広辞苑にも載っていないので、私が勝手に判断したのですが、そういう言葉がポンポン出てきます。

博労の気質というのは、明治の時代から政治家や、実業家などに必要とされ、新聞記者なども、真面目なサラリーマンでは、記事の中身も面白みに欠ける。「博労の気質がなければ、駄目だ」というわけです。奥さんも、同じで、、英傑と呼ばれた人たちの女房には花柳界出身の人が多く、かつての経済団体の四天王(経済団体連合会の稲山嘉寛会長、日本経営者団体連盟の大槻文平会長、日本商工会議所の五島昇会頭、経済同友会の某=失念)といわれた人のうち、大槻氏以外の奥さんは皆、博労の気質の人だった(つまりそういう意味です)という興味深い話もしてくれました。

新聞記者なんぞも、ジャーナリストなどとお高くとまっていても、所詮、博労の民で、官僚の重要書類を盗み見したり、脅したり、すかしたりして、機密情報を取ってくるのが仕事で、「そんな大それた仕事じゃないよ」と言うわけです。

調布先生は私に、今西光男著「新聞 資本と経営の昭和史」(朝日新聞社)を読むように薦めてくれました。同書は、朝日新聞の編集局長から政界に進出した緒方竹虎を中心にした昭和初期の言論界における朝日新聞社の恥部が暴かれているそうなのです。

調布先生は憤ります。「朝日が、左翼だとか、反体制派なんて言ったら大間違いだよ。まさに、体制べったりで、右も左もオールマイティーなんだから。産経や週刊新潮が、朝日は左なんて言うのは、分かっていないね。戦時中は、朝日は飛行機を百何十機も国家から認められてるんだよ。こんなの国家との癒着じゃないか。今の電波行政みたいなもんだよ。当時の飛行機なんて、国家から割り当てられたんだから…。これだけでも、朝日が、いかにも体制派だったかの証左だよ」

もともと、朝日新聞は、大阪が発祥地で、東京日日新聞のように時の政府に対して敢然と立ち向かって言論を張る「大新聞」とは違って、庶民にも分かりやすいようにカナがふられ、スキャンダラスな事件を売り物にした「小新聞」だったというのです。

それが、明治の末に、東京の朝日新聞に池辺三山が夏目漱石を迎え入れて、文芸欄を作って、高級紙にステップアップし、政界にも太いパイプを築いていくのです。

「やっぱり歴史を知らなきゃ駄目だよ。インターネットやブログなんかにうつつを抜かしていたら駄目なんだよ」と調布先生は言うのです。

だから、もちろん、調布先生は、こんなブログは読んだりしません。

朝日新聞 虚報事件

昨日書いた米国のハリケーン「カトリーナ」の被害は最終的には、死者数百人に登るそうです。256人が死亡した1969年の「カミル」も上回るのではないかとも言われ、過去半世紀で最悪と言っていいかもしれません。
ニューオリンズは、一度は訪れて、ジャズやブルースのスポットをはしごしたいと思っていた所だったので、街の8割が浸水したというニュースを聞いてショックでした。

ところで、朝日新聞の虚報事件には驚きましたね。28歳の長野総局の記者が、取材もしていないのに田中康夫長野県知事の談話を捏造したというのです。思わず、伊藤律の架空インタビュー事件を思い出してしまいました。

「天下の朝日」がどうしっちゃったのでしょうね。他の五万とあるメディアの中で、あらゆる面で飛び抜けて優遇されているはずなのに、何で、明らかに、後になれば100%ばれてしまう嘘をついてしまったのでしょうか?問題の記者は「功名心が先走ってしまった」と弁解したそうですが、取材できなければ「取材拒否されました」と言えば、上司からも許されたと思うのですが…。

思い出すのは10年ほど前、漫画家の園山俊二さんが亡くなった時、訃報の記事を書かなければならなくなったことです。園山さんの自宅に電話すると、親戚関係の方らしい人が「窓口は朝日新聞になっているので、詳しいことはそちらで聞いてください」と言うのです。当時、園山さんは、朝日の夕刊で「ぺえすけ」という漫画を連載していました。

言われたとおり、朝日新聞に電話すると、担当者が出てきて「夕刊に出るのでそれを見てくれ」というのです。こちらは、夕刊の時間に間に合わせるために、記事を書こうとしているので、何度も押し問答が続きました。

当時の朝日新聞は「ウチが書かなければ、ニュースではない」という今から思えば、漫画チックなほど倣岸不遜な態度でした。

時代が変わり、インターネットの時代になり、さすがに、このようなことを言う朝日新聞の人は今では絶滅したことでしょう。

しかし、こうして「弱い」朝日を見ていると、妙に、あの10年前の「倣岸な」朝日が懐かしくしてしょうがなくなるのです。

頑張れ、朝日新聞!