無知につけ込む商売

横浜・ニュースパーク

先週土曜日にお会いした赤羽村長から聞いた話です。

村長さんは、ある大手のオンライン通販を利用しているのですが、ある日、細かく請求書をチェックしたところ、何と、申し込んだ覚えがない「プレミアム会員」とか何とかになっていて、年間6500円もの会費が取られる、というのです。

村長さんは慌てて、問い合わせをして、「そんな会員になった覚えがない」と言ったところ、先方は何の悪びれた様子もなく、かつ丼をペロリと平らげて、「解約」の手続きをしてくれたそうです。

デジャビュです。

私もその大手通販には経験したことがあります。「翌日届け」とかさまざまな特典を謳い文句にしている特別会員に、私もいつの間にか組み込まれ、会費を払わされそうになったのです。

先方は、あっさり取り消してくれました。

今回、村長さんから同じような話を聞いて、「ハハーン、敵は、見つからなければ、会費と称して余計なお金を踏んだくるつもりだったんだな」と確信しました。

奴らのするよくある手口です。つまり、無知な消費者につけ込む阿漕な商売ということです。

ITに詳しい石田君も「ああ、そういう無知商売は、最初から売上高に組み込まれているんだよ」と、ソッと教えてくれました。

例えば、何でもいいんですが、「使い放題」の光回線だとします。毎月定額で、4000円とか5000円とかすることでしょう。

しかし、毎日、2時間の動画(映画)を見るような人は特別ですが、平日、外に働きに出ているサラリーパースンなら、月に5GBもあれば十分です。いや、平日はメールのチェックぐらいで、週末に動画を見るぐらいでしたら、3GBでも余るくらいなのです。

あたしなんか、週日は真面目に働き、平日は家では殆ど全くパソコンは使わないので、それよりもっと少ない1日100MBで契約して、月わずか970円なんですよ!年間で1万円ちょっと。使い放題の5000円なんかだと6万円ですからね。

これが石田君の言う「無知商売」です。

まあ、日本人は騙されるのが大好きですから、こうして外資系に好き放題にされるのです。

あ、何処の会社かは言ってませんよ(笑)。

18歳にして心朽ちたり

山の幸もいっぱい Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨日は、霞ヶ関方面で、おめでたくも次官に昇任された近江屋さんの祝賀会に参加してきました。どういうわけか横浜の日本大通りにある日本新聞博物館「ニュースパーク」で視察した後、その足で横浜中華街にある「一楽」で晩餐会という一風変わった儀式でした。

参加したのは、焼津の半次と眼帯のお仙…といきたいところですが、現代なもんで、いわゆる一つの通称名として、清澄庭園のお龍、汐留のお志野、業界の為五郎、うまずいめんくい村の赤羽村長、それに、主賓の近江屋と幹事の館長さん、渓流斎という7人の面々でした。結局、通称名は焼津の半次とあまり変わりませんでしたね(笑)。

 熊さん Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

まずはあり得ませんが、館長さんの顔パスと直々の御案内で、ニュースパークを閲覧させて頂きました。

前から行きたい、行きたいとは思っておりましたが、今回が生まれて初めてでした。こういう機会がないと、遠いので、なかなか重い腰をあげられません。

「ニュースパーク」は、手短に言いますと、全国で発行されている一般紙、地方紙、スポーツ紙、業界紙が加盟している日本新聞協会のつくった博物館です。7月20日にリニューアル・オープンして全く新しく生まれ変わりました。

小中学生の「社会科見学」のコースとしてちょうどいい感じでした。勿論、大人が見ても、古い新聞や号外が展示されているので、懐かしさを感じることでしょう。

場所は、私は生まれて初めて乗りましたが、東急東横線と繋がっている「みなとみらい線」の「日本大通り駅」につながった歩いてゼロ分のところにあります。

県庁や裁判所、市役所、それに横浜スタジアムにも近い横浜の中心街の「関内」地区にありますが、最近は、横浜の中心街は「みなとみらい」に移ってしまったそうです。関内には商業施設が少ないため人通りも少なく、せっかく、「ニュースパーク」をリニューアルしたのに、入場者がそれほど伸びないのが館長さんの悩みだそうです。(しかも、市役所も近いうちに移転するとか。昔の横浜の繁華街は、伊勢佐木町が中心でしたから、繁華街というものは時代の推移で動くものなんですね。帝都の繁華街も、戦前の銀座、浅草から戦後は新宿、渋谷に移り、21世紀は、清澄公園が注目されてきるとか)

ですから、このブログを読まれた方は、横浜の中華街に行ったついででもいいですから、ちょっと、ニュースパークにも立ち寄ってみてください。業務連絡、館長からのお願いです。

個人的には、大正末か昭和初期と思われる福沢諭吉創刊の「時事新報」の看板や、徳富蘇峰創刊の「国民新聞」の法被なんかを興味深く拝見させて頂きました。
 熊さん Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

見学会が終わって、近くの中華街にある「一楽」で祝賀懇談会が開催されました。近江屋さんの次官就任をお祝いして一献傾けられますと、あとはバラバラで皆さん、言いたい放題(笑)。

一部では、ナンシーとかいう金髪さん(とは言っても日本人!)との合コンの話で大いに盛り上がっておりましたが、羨ましい限りです。

紙数が尽きましたので(笑)、為五郎さんか、館長さんかどちらだったか忘れてしまいましたが、大声で「今日のハイライトだ!」と叫んでいた話題を一つ取り上げませうか。

それは、汐留のお志野さんの旦那さんの話でした。いやお父さんの話でもあります。普段からお志野さんの御尊父は、「男はしっかり口を結んでいなければ駄目だ。ポカンと口を開けているような男にろくな奴はいない。目が泳いでいるような怪しい男も駄目だ」という家訓のような言葉を小さい頃から散々説き伏せられていたため、将来結婚する相手は、しっかりと口が締まって肝が座った人ではなければならない、と堅く信じて、お付き合いする前も、男性の口元や眼ばかり見ていたそうです。

晴れて、その理想にかなった人が見つかり、父親にお目通りしてもらい、合格と言うことで結婚されたそうです。

そのお志野さんの旦那さん。お会いしたことはないのですが、質実剛健で寡黙で、物に動じない武士のようなタイプのような人のようです。

旦那さんは、小学生の頃から高校まで、バリバリの野球部のレギュラーで鍛えられ、監督コーチからの命令や、先輩らからの理不尽なしごきやパシリなどの連続だったそうで、早くも18歳にして人類のあらゆる不条理を体験してしまったそうです。そのおかげで、「社会に出たら、こんな楽な世界があるのかと驚いた」と言ってのけた(失礼)そうですよ。

私とまるっきり逆ですね。学生の頃は、理不尽な運動部なんぞは敬遠しておりましたから、社会に出てから、苦労と理不尽と不条理の連続でした。

若い時に先に苦労した方がいい、という諺みたいな話ですかね?

18歳にして、理不尽で辛酸を舐めつくし、人生を悟ってしまえば、鬼に金棒だ、というのが昨晩の懇親会でのハイライトでした、というわけです。

富裕層の税逃れ

スカイツリー

昨日、ラジオを聴いていて、「へー」と思ったことです。

ながら族で、メモも何も取っておりませんし、うろ覚えの記憶違いもあるでせう。

まあ、飛ばし読みでもしてください(笑)。

読売巨人軍の球団代表時代にトラブルで会社を追われた清武英利さんの話でした。あのカイチさんと同期入社で、今はジャーナリストとして活躍されてます。最近出した「プライベートバンカー」とかいう本が話題になっているということで、インタビューされていました。

要は、超富裕層と呼ばれる日本人がシンガポール(SG)に移住して、税金逃がれをしているという話でした。

超富裕層というのは、数千万円とか1億とかのはした金(笑)ではありません。10億とか20億とか、いや100億円とかの資産を持っている人のことのようです。不動産を除く現金です。しかも、個人です!

それが、日本にいては、相続税も掛かるし、株のキャピタルゲインを得ようものなら、20%の税金がかかる。それなら、SGに移住してしまえ、ということなのです。

SGなら、日本の住民税も相続税もキャピタルゲイン税も掛からない。資産も増えるばかりです。でも、何故、SGなのか?ーそれは、スイス銀行のように顧客の秘密を護持してくれる銀行がたくさんあり、タックスヘイブンの国にペーパーカンパニーをつくってくれたりしてくれるからのようです。

SGは、スイスのように遠くなく、日本から僅か6時間。しかも、日本語のできるスタッフが沢山揃っているということが一番の要因のようです。日本語スタッフと言っても、元野村証券や山一やメガバンク出身の日本人です。彼らは、日本の富裕層をスカウト(笑)して、SGまで移住手続きまでします。

富裕層は、何も法的に違反行為はしていないようですが、何と言ってもおかしいのは、一年の半分は彼は日本に帰国して、日本のインフラの恩恵を浴しているという事実です。インフラとは、道路や上下水道、ゴミ処理とかいったものです。図書館で本を借りてるかも知れません(笑)。

これらの財源は、住民税です。あろうことか、富裕層は、結果的に、その住民税を払わないでただ乗りしているわけです。

こんなことが許されるものか?、と単純に考えてしまいますが、日本の法律では、住民登録がSGにあり、一年の半分を1日でも超えてSGに住んでいるのなら、犯罪者として逮捕できないということなんでせう。あたしは、その辺りの法律に詳しくないのでよく分かりませんが。

この話と相前後して、日本の年金機構が投資に失敗して、昨年5兆円、今年1~6月にもまた5兆円もの損失を被ったそうですね。これが日銀黒田総裁と安倍首相によるアベノミクスの正体です。

そのうち、庶民の年金支払いが滞るSFみたいな日が来るのかも知れません。

それなら、最初から年金などアテにせず、早く富裕層になってSGに移住して、3台ぐらいポルシェやフェラーリを乗り回して、税金を払わず優雅に暮らしたいという日本の若者が増えてもおかしくない世の中になったということなんでしょうね。

イエジー・スコリモフスキ監督「11 minutes」は★★★★★

たかちやん

ここ最近、仕事が終われば、真っ直ぐに家に帰り、まさに会社と自宅の往復の連続でした。

途中で道草を食わず、呑みにも行かず、賭博場にも行かず、夜の蝶にも会いに行かず、質実剛健、品行方正。

髭も剃らず、息も潜め、目立たぬように、生かさぬよう殺さぬように生きてきました。

そしたら、やはり、時々、フト、偶には、羽目を外したくなります。でも、ま、あたしのばやい、かわいいもんですよ。(笑)

昨晩は、仕事が終わって、ついに、イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」を都内のアジトで見てきました。

終わって、

「うーん、なるほどね」
「そっか、この手があったか」

と、やはり、脱帽しました。

ジグゾーパズルみたいな映画です。

色んな曰く有り気な老若男女が何の脈絡もなく登場して、何事もないような、あるような日常風景が都会のワルシャワで展開されます。

その時、教会の鐘が午後5時を知らせます。

中心になる所は、国際ホテルです。よく目立つところに、各国の旗がひらめき、日の丸が一番目立っていました。

あらすじは、昨日少し書いたので、深く立ち入るのはやめましょう。

一応、スリラー、サスペンス映画ということらしいですから、ネタをバラしたら、炎上はともかく、まあ、ルール違反ですからね。

見てのお楽しみ、てところでしょうか。

あっと驚く為五郎です(古い!)

ネットサーフィンをしていたら、この映画の感想が載っていました。匿名で性別年齢国籍不詳。流暢な英語で書かれているので、ネイティヴの英語圏の中年男性と想像されました。

そこには、はっきりと「駄作。時間とお金の無駄。何事も起きない。ポーランド人は面白いかもしれないが、他の国では全く受けないだろう」とコテンパンに貶していました。

そっかなあ?

私は、大変面白く拝見しましたけどね。何か、ハリウッド映画の批判というか、茶化しが入っていました。

何事か起きます。空に浮かぶ黒いシミ。都心のど真ん中を低空飛行で離着陸する大型ジェット、ハアハア言いながら歩く犬の目線…最後は、私の予想に反してどんでん返しが起こります。

この映画の予告編やオフィシャルサイトの写真も事前に見ていて、嗚呼、なるほど、こうやって断片が繋がるのか、と謎が解けた感じでした。

久しぶりの不良行為で、流石に大変疲れはしましたが、決して、時間とお金の無駄にはならなかったと思いますよ、匿名さん。

本日26日の読売新聞夕刊に、スコリモフスキ監督のインタビュー記事が掲載されていました。

この映画「11minutes」をつくった動機は、数年前に次男が病気で亡くなり、その次男の母親である前妻が後追い自殺をしてから、かなり落ち込み、何も手につかず、悪夢を見るようになった体験を表現したかったからだそうです。

そっかあ。スコリモフスキ監督は78歳。この歳て全く枯れていない。それに、こんな話を聞けば、見直してしまいました。訂正して満点にすることにしました。

イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」

知らざあ、言って聞かせやしょう

今どうしても見たい映画がありますが、最近忙しくて、なかなか見に行けません。

イエジー・スコリモフスキ監督作品「11minutes」です。単館上映で、帝都でも二カ所でしかやってません。

ポーランドとアイルランドの合作映画で、日本で知られている俳優は1人もいませんが、全員胡散臭そう(な役柄)で、このあくまでも胡散臭い忙しない現代を見事に活写してます。

午後5時から、わずか11分間に、恐らくポーランドのワルシャワ辺りで同時多発的に無関係に起こる出来事が、最後は、あっと驚く様態で集約されていく…という映画らしいです。

「溝口健二がどうした」「衣笠貞之助がどうした」なぞと監督を呼び捨てにして通ぶった元大学教授がいますけど、ああいう輩は底が浅いですね(笑)。

どうせ、奴らは、ただで見て、しかも、逆にお金を貰って、「さすがスコリモフスキらしい不条理な描写が散りばめられ、最後のどんでん返しには暫く椅子から立ち上がれなかった」なぞと、評論することでしょう。

ずっと、椅子に座っていろ!(笑)

私が、この映画に興味を持ったのは、脚本家でもあるスコリモフスキ監督による以下のコメントを読んだからです。

何と言う硬質な文体で、ネイティヴではないので断言できませんが、かなりの名文だと思います。まず、久しぶりに辞書を片手に原文を読み、どうしても分からなければ、小生の超訳をご参照あれ(笑)。

COMMENTS FROM JERZY SKOLIMOWSKI

NOTHING IS CERTAIN

We tread on thin ice. We walk the edge of the abyss. Around every corner lurks the unforeseen, the unimaginable. The future is only in our imagination. Nothing is certain – the next day, the next hour, even the next minute. Everything could end abruptly, in the least expected way.

【イエジー・スコリモフスキ監督からのコメント】

◎確かなものなど何もない

我々は、生きるために仕方なく危ない川の橋を渡ることがある。崖っ淵を歩かざるを得ないときすらある。至る所に見えない、想像もつかない魔物が潜んでいるというのにだ。
とはいえ、未来など幻、単なる想像の産物だ。
確かなものなど何もない。明日、1時間後、いや数分後でさえ何が起きるか分からない。
全ては前触れもなく突然終わる。しかも、全く思いも寄らない形で。

高橋ユニオンズ

花やしき

で、前回の続きです。

◇高橋トンボユニオンズ

さて、田辺宗英は、ボクシングの殿堂後楽園ホールをつくり、初代日本ボクシングコミッショナーになるなど、ボクシング界に貢献した人として名を残しますが、一方で、後楽園には野球場「後楽園スタヂアム」をつくり、当時勃興したばかりの職業野球の殿堂にもなります。

後楽園スタヂアムは、1937年9月にできます。何とこの年は、支那事変の発端となる盧溝橋事件や南京事件が起きた年です。

と、ここまで書いて、よくよく調べて色んな説を参照しますと、後楽園スタヂアムをつくったのは、田辺宗英ではなく、日本野球草創期に、早稲田大学野球部選手などとして大活躍した河野安通志と押川清(仙台の東北学院大学の創設者押川方義の子息)の2人のようです。

河野と押川は、1920年に日本で最初のプロ野球球団「日本運動協会」もつくったそうです。私は、日本で最初の職業野球は、読売新聞社主の大正力による今の巨人の大日本東京野球倶楽部(1934年創立)かと思っておりました。そして、職業野球第1号選手も、この巨人の三原脩かと思っていましたが、どうやら間違いでした。とはいえ、嬉しい発見です。

で、後楽園スタヂアムの話でしたが、河野と押川の提案で会社が設立され、出資者として、読売の正力松太郎や阪急の小林一三、東急の五島慶太、松竹の大谷竹次郎らに協力を求めました。小林の異母弟の田辺は、専務取締役として名を連ね、後に第四代後楽園スタヂアム社長に就任するわけです。

当時はまだフランチャイズやホーム制度が確立されておらず、後楽園スタヂアムは、後の読売巨人軍や後楽園イーグルスというチームなど多球団が併用して使っていたようです。

この聞き慣れないイーグルス球団というのは、先の河野と押川がつくった念願のチームで、戦時下に敵性用語を使うとは何事か!と指弾されて、大和軍などと改名します。戦後は紆余曲折を経て、高橋ユニオンズというチーム名になります。

このチームも散々名前が変わり、途中でトンボ鉛筆の資本が入り、トンボ・ユニオンズと名乗っていた時期があります。かつて、私はこのチームの名前を知った時、「野球に何でトンボ?おかしな名前だなあ」と不思議に思っただけで、深く調べようともしませんでしたが、鉛筆会社が球団を持っていたとは!今さらながら感心しました。

トンボ鉛筆は、今でも健在で東京都北区の王子に本社があり、私は、外からチラッと見たことがあります。確かに、昔は、学生のほぼ全員が鉛筆を使っていた時代で、プロ野球の球団のオーナーになれるほど儲かっていたでしょう。

しかし、パソコン、スマホの時代となり、鉛筆の消費は大幅に減少しました。噂では、トンボ鉛筆の現在の収入の大半は、鉛筆より消しゴムらしいですが、裏は取っていません(笑)。

で、今回一番書きたかったことは、プロ野球のチーム名に「高橋」などと自分の名前を付けた人は、一体何者か?という素朴な疑問でした。

そしたら、驚き、桃の木、山椒の木じゃありませんか!

この「高橋」とは、戦前、大日本麦酒(今のアサヒとサッポロ)社長を務め「ビール王」と呼ばれた大実業家高橋龍太郎(1875~1967)のことで、戦後は日本商工会議所の会頭を務め、参院議員や通産相も歴任した政治家。プロ野球だけでなく、日本サッカー協会会長も務めた人だったのです。

さらに、彼は、ノーベル賞作家大江健三郎と同じ愛媛県内子村出身で、大江の大先輩として、旧制松山中学(松山東高校)も出ているのです。(その後、東京高商や三高に進学)

旧制松山中学は、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台でもあり、漱石の親友の正岡子規の出身校(他校に転校して卒業していないようですが)でもあります。

この話は、先日、友人と話したばかりでしたので、我ながら可笑しくなりました。

「ボクシングと大東亜」

世久阿留

名古屋にお住まいの海老普羅江先生から書簡が送られてきて、ある本を読みなさい、とのお勧めでした。

それは、乗松優著「ボクシングと大東亜 ~東洋選手権と戦後アジア外交」という本でした。

未読です。

著者の乗松優(のりまつ・すぐる)さんという方は、1977年生まれの若き、といいますか、新進気鋭の社会学者で、現在、関東学院大学兼任講師なんだそうです。

渓流斎の興味や関心事は、近現代史とその表舞台に出てこない裏社会の人やフィクサーにありますが、この本もその知られていない歴史に埋もれた真実を暴いた力作のようです。

私の世代の子どもの頃は、今以上にボクシングブームで、ファイティング原田や海老原ら多くの世界チャンピオンを輩出して、テレビの視聴率も異様に高く、よく言われていますように、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与えた、と言われています。

当時は、WBAやWBCの世界戦だけでなく、東洋太平洋級までもが大いに注目されました。

あの「あしたのジョー」も、確か、最初はこの東洋太平洋級チャンピオンになったと思います。

で、この乗松さんの本は、宣伝文句を換骨奪胎しますと、関係者の証言や資料をもとに、太平洋戦争で100万人以上が犠牲になったフィリピンとの国交回復をめぐる葛藤と交流の軌跡を描いた力作なんだそうです。

そこには、「鉄道王」小林一三の異母弟で、「ボクシングの聖地」後楽園を築いた田辺宗英、稀代のフィリピン人興行師と共に暗躍した元特攻隊ヤクザ、「メディア王」正力松太郎、そして「昭和の妖怪」で現首相の祖父岸信介らが登場します。

またまた、宣伝文句を引用しますと、「テレビ史上最高視聴率96%を記録した戦後復興期のプロボクシング興行の舞台裏で見果てぬアジアへの夢を託して集った男達の実像に迫る、『もうひとつの昭和史』」ともいえる作品なんだそうです。

ここまで、引っ張られれば、読みたくなりますよね?

で、ここまでは、表面的なご紹介で、海老普羅江先生は、「後楽園」をつくった田辺宗英と、読売新聞の社主にして東京読売巨人軍の創設者である正力松太郎との関係について触れます。

「二人は、いわゆる『刎頸の友』で、巨人と後楽園球場との契約も、ほとんど『口約束』だったと言われますよ」などと、超極秘情報を掴んでおられましたの。さすがです。

長くなるので、続きは次回。

坂東竹三郎を巡る梨園の実相についての論考

麻久沙

京都は堀川三条西入る「三条商店会」の洋食レストラン「力」の女将さん、お元気どすか?(宣伝になりましたか?=笑)

ということで、久し振りに京都にお住まいの京洛先生の飛脚便をご紹介致しませう。

…今、「渓流齋ブログ」を見たら、連日「満洲」の事ばかりですね、もう少し工夫をしないとダメですよ(笑)。つまり、話題を広げないと、アホな大学の先生と同程度のブログになりますよ(大笑)。
 自然薯掘り(じねんじょほり)と、同じで、そればかりするのも、「人間学」の上達の道かもしれませんが、映画、音楽、演劇、スポーツと何でも興味を持って書かないとダメですよ。…

はあ、そんなもんでせうか。

…今、帝都は東銀座の歌舞伎座の第2部の「東海道中膝栗毛」で、坂東竹三郎が出演しております。えっ?竹三郎を知らない?世の中を騒がす海老蔵なんかを歯牙にかけないところが、通の歌舞伎の見方ですよ。…

はあ…

…竹三郎が師事したのは四代目尾上菊次郎です。四代目菊次郎は六代目菊五郎の相手役を務めるほど将来を嘱望されていましたが、いろいろ事情があり、関西歌舞伎に転出して、晩年は関西歌舞伎に貢献しました。
 四代目菊次郎は、四代目中村富十郎(この間亡くなった五代目富十郎の父親)の兄です。坂東竹三郎は菊次郎の芸養子になりましたが、「藝談」によりますと、前名の「坂東薪車」から、尾上菊次郎が名乗っていた「坂東竹三郎」に名前を代えるときは、大変だったという事です。…

ほう…

  …「坂東竹三郎」の名跡は、かって「坂東彦三郎」の前名だったりして、音羽屋・橘屋一門にとっては貴重なもので、尾上菊次郎が、わざわざ、菊五郎劇団の大御所、うるさ型の橘屋(十七代目市村羽左衛門)の楽屋に深々と頭を下げに行ったそうです。「ひょっとすると、ダメだよ!」と言われかねないからですね。
 昔、十七代目羽左衛門は、市村竹之丞(五代目中村富十郎の前名)の襲名の歌舞伎座の舞台で、「本来、この襲名はあり得ないことだ!」と前代未聞の口上をして週刊誌に取り上げられた逸話もあります。それくらい、音羽屋全体に睨みがきいていました。あの梅幸さんも頭が上がらず、威厳があったのです。…

なるほど、凄さが分かりました。

 …薪車(竹三郎)は、OKが出るかどうか心配して、楽屋で菊次郎を待っていたところ、師匠が戻り、「上手くいったよ。安心しな。橘屋(十七代目市村羽左衛門)に話をしたら、じろっと、こちらを見て、『誰が(坂東)竹三郎を継ぎたいのかね』と聞かれたので、『ウチの薪車に竹三郎を継がせたい、と思っています』と言ったら、表情が変わって、『薪車か!あれなら良いよ。あれは良い』とお墨付きを貰ったよ」と、心配する薪車を安堵させたそうです。
 という事で、坂東竹三郎は、関西歌舞伎に居ながらにして、名跡「音羽屋」の屋号を名乗ることができる希少な役者なのです。…

うーん、そうだったのですか…

十七代目の市村羽左衛門はやはり梨園の実力者で、六代目亡き後「菊五郎劇団」をまとめていたのです。
 仏系米国人が父親で美男で有名だった十五代目市村羽左衛門は、艶聞が多く、芸者との間に産ませたのが舞踊家の吾妻徳穂(人間国宝、芸術院会員)です。
 そして吾妻徳穂と四代目中村富十郎の間に生まれたのが、この間亡くなった五代目中村富十郎です。
 だから、十七代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎の甥)は、十五代目絡みの人間関係には神経をとがらせていたのだと思います。そんな中で、風雲児の武智鉄二が、その姻戚関係を利用して、市村竹之丞の襲名を画策したため、羽左衛門がこれを苦々しく思い、先程触れましたように、舞台の口上で、嫌味を言ったわけです。演劇評論家の萩原雪夫さんも武智鉄二については「いやあ、ね」と言ってましたね(大笑)。…

へー、そういうことがあったのですか。小生は、生まれる前のことで、知りませんでしたね。あ、生まれていたかもしれません(笑)。

 …戦後、上方歌舞伎は、今の坂田藤十郎(当時は中村扇雀)と、坂東鶴之助(のちの五代目中村富十郎)が「扇鶴時代」と呼ばれ、大変な注目を浴びました。その仕掛け人が武智鉄二で、東京の梨園の主流派、本派は、武智鉄二の動き方は苦々しく思っていたわけですね。…

五代目中村富十郎は、昭和39年に坂東鶴之助から、武智鉄二の計略で市村竹之丞に改名したわけですね。当時は、東京オリンピックに夢中になっていましたから、梨園のことはさっぱり知りませんでした。

 …今の坂東彦三郎は、十七代目羽左衛門の嫡男なのですが、病気がちもあって、おとなしく温厚な性格です。本来ならば、彦三郎の息子で十七代目羽左衛門の孫に当たる坂東亀三郎、坂東亀寿がもっと良い役を貰ってもおかしくないのです。尾上菊之助よりも、彼らの方が本派・本流なんですからね。…

確か、幕府公認の「江戸三座」とは、中村座と守田座と市村座でしたからね。確かに、市村家は、本派・本流です。

 …やはり、梨園の世界も政治力ですね。ちなみに、今の四代目中村鴈治郎の嫁さんは、吾妻徳穂の孫です。両者の間に生まれたのが中村壱太郎ですから、梨園の人間関係は貴人もお分かりのように濃密、複雑ですね(大笑)。以上…

以上、と言われましてもねえ。ところで、話は変わりますが、歌舞伎用語でもある「役不足」という言葉は、現代では誤用されているようです。皆様もよく調べてお使い下さい。

伊藤淳著「父・伊藤律 ある家族の『戦後』」

繁華街に人また人 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 何か、パソコンで苦戦しまして、2時間以上も時間を無駄にしてしまいました。せっかく、歌舞伎座にでも行こうかと思いましたが、時間がなくなりました。ったく。

 私自身、そうパソコン技術に詳しくないのが難点です。マウスの調子が悪くて、ポインターが少しも動きません。電池を入れ替えたりして、いろいろやっても動かなく、しばらく、ほおっておいたら直りました。どうなっているのやら?

 あと、昔、登録していた外資系航空会社からのメールがうるさいので、登録抹消しようかと思いましたら、PIN番号とやらを最初から設定し直さなくてはならず、その後も「登録情報」を変更するとなると、「ワンタイムパスワード」の入力が必要とかで、その有効期限がありまして、やっと向こうから送られてきた「ワンタイムパスワード」が使える時間が、あと10秒しかない!というこの客を大馬鹿にしたような離れ業を強いられたのです。

 普通はできるわけありませんが、3回目でやっと登録完了しました。これで、客を馬鹿にするうるさいメールはもう来ないでしょう。

 機械が相手なので、誰にも文句言えません。何が人工知能だ!?これから、ますます酷い世の中になっていくのではないでしょうか?

 食い物屋も沢山 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 7日16日に参加した出版シンポジウム(お茶の水・明治大学)で購入した伊藤淳著「父・伊藤律 ある家族の『戦後』」(講談社)をやっと読了しました。

 著者の伊藤淳氏には何度かお会いしたといいますか、お目にかかったことはありますが、とても口数が少ない方で、何となく、人見知りをされているような感じで、恐らく、再び、小生がお声を掛けても「あんた誰?」と言われてしまうのが関の山なので、シンポではご挨拶しませんでした。
 が、この本を読んで、彼の長年の70年の半生で「伊藤律の息子」として経験した重みやら、つらさやら、違和感やら、うんざり感やら、誇りやら、運命やらを正直に過不足なく表現されていたので、彼がどんな思いをしてきたのか、初めて分かったような気がしました。

 果物やもあります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう既に歴史上の人物となった伊藤律について、知っているか、興味がある方は、もうかなり少数ではないかと思います。
 
 しかし、彼が亡くなる25年ぐらい前まではかなりの有名人でした。

 伊藤律とは何者か?

 最初は、著者が「はじめに」にも書いている通り、「ゾルゲと尾崎秀実らゾルゲ事件の関係者逮捕の端緒をつくった裏切者」(特高警察)、「生きているユダ」(尾崎秀樹)、「革命を売る男」(松本清張)、そして、「権力のスパイ」(日本共産党)というレッテルを貼られていました。

 それが、27年もの長い間、北京に幽閉され、文革時代は生命の危険にさらされた伊藤律が1981年に帰国すると、これらの偽りのレッテルが次々と剥がされて、彼の身の潔白は、徐々に証明されていきます。これは全て、公安当局や川合貞吉や、GHQや、そして何よりも、野坂参三らの陰謀と裏切りとその尻馬に乗った文豪松本清張や日本ペンクラブ会長まで務めた尾崎秀樹らの過誤だったことが明らかになっていきます。

 問題が複雑だったのは、伊藤淳氏とその母親で、伊藤律の妻だったキミ氏が党員だったせいかもしれません。本来の思想は、弱者に優しく、格差をなくし、皆で協力し合って平等な社会を築き上げていくということだったはずなのに、組織となるとどうしても格差ができ、平等ではなくなるというのが宿命なのかもしれません。

 私がこの本を読んで、「ハイライト」だと思ったのは、「伊藤律、北京生存」のニュースが家族のもとに伝わり、彼の帰国について、伊藤律の妻キミが「どうしたものか」考えあぐねた末に、最初に中国大使館に行って、手続きを進めたことでした。これが、決定的に伊藤家のその後の運命を左右します。著者とその母親は、中国大使館を訪れた後に、東京・代々木の日本共産党本部に行きます。そこで、野坂参三議長(当時、以下略)との面会を望んだところ、「会議中」を理由に断られます。

 そこで、用件を伝えて帰宅すると、その夜に、何と、野坂議長本人と戎谷春松(えびすだに・はるまつ)副委員長と秘書が、黒塗りの高級車に乗って、伊藤淳氏のアパートにすっ飛んできて、伊藤律の妻キミに「キミ同志はなぜ律と離婚しなかったのか」「なぜ党に事前の相談もなく、中国大使館と連絡を取ったのか。これは党に対する裏切り行為であり許されない」と詰問するのです。

 これは、後に、実は、裏切者は、伊藤律ではなく、野坂参三本人だったことが歴史的に証明されているので、漫画のようなシニカルな笑いが漏れる場面です。
野坂は、北京に売ったはずの伊藤律が27年間も幽閉されて、まさか、生きているとは思わなかったので、慌てて、証拠の握り潰しを図ったというわけなのです。野坂の驚愕が目に浮かぶようです。「死人に口なし」というわけにはいかなかったのです。

 野坂は、ソ連にいた同志の山本懸蔵らも密告して、スターリンの大粛清の犠牲にするなど、野坂こそが仲間を売る裏切者だったという公文書が次々と発見され、100歳の時に共産党名誉議長を解任、党も除名されます。

 まあ、こういう話はあまり、聞いていて気分がいいものではありませんよね。こんなことがあるから、日本国民の信用もイデオロギーに対する信頼も消滅してしまうのです。

 いくら主義主張や思想信条が高邁でも、組織こそが階級を産み、同時に組織内の階級闘争を産むため、出世や権力保持のために、平気で仲間を裏切ったり、売ったりする権力志向の人間が必ず現れるという証明でしょう。右翼も左翼も関係ありません。政治の世界だけでなく、会社組織でも同じです。

別に綺麗事を並べているわけではありません。これは、人間の性(さが)であり、組織や集団というものが持つ根本的な体質で、未来永劫なくならないということです。

これは、自分の人生体験で得た信念です。

私も、食うために仕方なく団体や会社組織に所属しましたが、そりゃあ多くの人間のイ汚い面を見てきたものですよ。

松岡將著「王道楽土・満洲国の『罪と罰』 帝国の凋落と崩壊のさなかに」

延吉はハングルだらけ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 最近、買い替えた「日本史小辞典」(山川出版)にも載っていませんでした。

 私も、いつ頃知って、いつ頃興味を持ったのか忘れてしまいましたが(笑)、戦前の官憲による「でっち挙げ事件」として、「小林多喜二惨殺事件」「横浜事件」などと並ぶ歴史に残る事件としてインプットされておりました。

 満鉄調査部(=シンクタンク)事件と合作社(=満洲の農協)事件のことです。

 正確に言いますと、「興農合作社事件」と「南満洲鉄道調査部事件」のことです。

 この全容をまとめた松岡將著「王道楽土・満洲国の『罪と罰』 帝国の凋落と崩壊のさなかに」(同時代社)を先ごろ、やっと、何とか読了しましたので、少し触れることに致します。

 その前に、満鉄調査部事件をネットで検索してみたら、この渓流斎ブログが引っかかってしまうんですね。内容は、この「王道楽土ー」の目次を紹介した記事でした。

 こちらは真剣になって調べたいのに、こういうのって、何か、白けるといいますか、背中が凍る気分ですねえ(笑)。

 いかに、「合作社・満鉄調査部事件」に関する情報が、ネット世界では極めて少ない、という証明みたいなもんですね。

 延吉はハングルだらけ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 正直に言いまして、著者の松岡氏に怒られてしまいますが、この本は、読んでいてあまり楽しい気分になれません。もちろん、エンターテインメント本ではないし、権力者が手段を選ばず、気に入らない人間を陥れていく過程は不快ですし、愛する日本が、真っ逆さまに凋落して、そして310万人も亡くなる太平洋戦争という哀しい不愉快な歴史的事実が列挙されていますから、楽しいわけありませんよね?

 それでも、曲りなりにも「法治国家」が建前ですから、何とかして、法に照らし合わせて、時の権力者は、気に入らない人間を法の網で捕まえて、起訴して裁判にかけて罰する手続きを踏もうとします。
 当時、満洲では、共産主義者ら「不逞の輩」を逮捕処罰するのには、「暫行懲治叛徒法」しかなかったため、慌てて、泥縄式に1941年12月27日に満洲国治安維持法を公布・施行します。この事件で適用されたのは、主に同治安維持法の「國體を変革する目的をもってその目的たる事項を宣伝した」という「宣伝罪」でした。(死刑または無期もしくは10年以上の徒刑)

 すべては「國體護持」のためです。國體を変革し、國憲を紊乱し、国家の存立を急殆、衰退させるような、気に食わない反体制派は消してしまえ、という東條英機の「鶴の一声」と手口で、まさに罪もない人間を陥れた「罪つくりな話」でした。

 繁華街は人、人、人 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 勧善懲悪ものの分かりやすいお話に仕立てて、登場人物を整理しますと―。

 権力者たち=「二キ三スケ」の一人、東條英機=満洲関東憲兵隊(東京の憲兵司令官=陸軍大臣の直轄)司令官、関東軍参謀長、陸相、首相等を歴任。そして、東條の股肱の臣、加藤泊治郎=東京憲兵隊長、朝鮮憲兵隊司令官、東京憲兵司令部本部長等歴任=と鈴木貞一=企画院総裁等。戦後A級戦犯=、四方諒二=東京憲兵隊長等=は、「東條の三奸」と呼ばれたそうな。

 興農合作社事件 (当局は、1941年10月28日に、新京憲兵隊から司令官に事件の全貌が報告されたことを記念して「1・28工作事件」と呼ぶ。「10・28工作事件」とは呼ばない。間違えたわけでなく、そう呼ぶ理由は、一つしかないだろう。「1・28事件」では、「10月28日事件」ではなく、「1月28日事件」になってしまうという、小学生でも思い付く考えが及ばなかった。それが、当時の日本の最高のベスト&ブライテストの知的レベルだったことになる) 1940年7月28日、満洲の首都新京(現長春)協和会中央本部実践部実践科主任平賀貞夫が検挙されたことが発端。主な検挙者は、平賀の友人で「秘密結社中核體」(実態は、なーんもなし)を結成した容疑の情野義秀、「満洲評論」の編集責任も務めた佐藤大四郎(一高中退)満洲濱江省綏化県農事合作社聯合会主事=獄死=(彼の甥は、フジサンケイ・グループ第3代議長の鹿内宏明氏=旧姓佐藤宏明)ら。1941年11月4日に50人以上が一斉検挙。前述した「宣伝罪」により、既決囚6人のうち3人が獄死。

 満鉄調査部事件 1941年12月30日、興農合作社事件の被疑者として、熱海で検挙された満洲国協和会調査部参事鈴木小兵衛(東京帝大新人会出身、尾崎秀実=満鉄高級嘱託等、ゾルゲ事件で処刑=、菅原達郎=協和会総務部長等=、松岡二十世=著者松岡將氏の実父、協和会中央本部調査部、満洲映画参事等=らと東京帝大時代の同期)による同志に対する裏切りで、関東憲兵隊が創作した事件(満鉄調査部は、在満共産主義運動の温床体、母体であると関東憲兵隊は断定)。42年9月21日、第一次検挙者28人。43年7月17日の第二次検挙者は、石堂清倫=戦後評論家=ら9人。その前後に渡って、興農合作社事件関係を含む計44人が検挙(19人が釈放、5人が未決死亡、20人が有罪判決)。5人の死亡者は、満鉄新京支社調査室の守随一(東京帝大新人会出身、発疹チフス)、満鉄調査部総務課の發智善次郎(発疹チフス)、満鉄調査部の大上末廣(石堂の親友で、京大助教授、発疹チフス)、満鉄北支経済調査所の佐藤晴生(栄養障害)、満鉄上海事務所調査室の西雅雄(栄養障害)。1945年5月1日の最終公判後、大日本帝國の敗戦による満洲国と國體の崩壊で有耶無耶に。