演技と苦悩離脱について

若い頃、一度だけ、映画俳優になろうと思った時期がありました。背は高いし、ハンサムだし、格好いいし…と自分勝手に思い込んでいたからです。まあ、若者に有りがちな醜い誤解ですな。

しかし、たった一度だけ、アルバイトで映画にエキストラで出演したおかげで、きっぱりと止めてしまいました。「実につまらない」と思ったからです。勿論、映画のエの字も知らない頃で、カット割さえ、理解していませんでした。それが、実際、ロケ現場に立ち会ってみると、本当に、俳優たちは、ほとんど演技することなく、まるで、写真を撮るように、細切れで映されていたのです。例えば、学食で食べるシーンがあり、まずスプーンを口に持っていく所で「カット」。続いて、アップで、今止まった所から始めて、食べ物を口の中に入れて「カット」…。それを延々と繰り返し、俳優は一言、言っては、3秒くらいで、終わり。時系列も出鱈目で、最初のシーンと大団円のシーンを続けて撮ったりするから、側にいてもさっぱり分かりませんでした。ただ、俳優は急に泣いたり、怒ったりする演技を監督に求められていました。

私は、恥ずかしいくらい当たり前のことを書いているのですが、後でこの映画(三浦友和・檀ふみ主演の『青年の樹』)を見たとき、「あの時、撮ったシーンはこうなっていたのか」、やっとパズルが解けた安堵感を味わうことができました。

しかし、おかげで、映画がさっぱり楽しめなくなりました。恋人同士が向き合って、アップシーンになったりすると、「ああ、あそこで『カット』されて、多分、10分くらい休憩が入ったのだろうなあ」などと考えてしまい、その「継ぎはぎ」の粗が目立ってしょうがなくなってしまいました。
同時に、「ああこの俳優は演技している」という観念に支配されて、すっかり映画の世界に入っていくことができなくなってしまったのです。それは、ロバート・レッドフォードとバーバラ・ストライザンド主演の「追憶」という映画でした。

さすがに、この頃はそういった「観念」に捉われないようにしています。そうしないと、映画を楽しむことができないからです。

唐突ですが、何でこんなことを書いたのかといいますと、私は逆にこの「観念」を日常生活に応用しようと考えているからです。今、たまたま、不遇で、昨日書いたような「人生相談」の項目に苛まれているような人は、自分自身は俳優だと思ったらいいと思います。そういう役を演じているのだ、と考えればいいと思います。すると、客観的になり、一瞬だけでも、その苦悩から離脱することができます。営業不振に悩む部長さんは、植木等になって「無責任男」を演じてみればいいのです。不甲斐ない夫と姑の葛藤に悩む奥さんは、黒木瞳のようなカリスマ主婦になった自分の姿を思い描けばいいのです。