人間の困ったことで、人の悪口を言うのは大好きなのに、人の悪口を人から聞くのは、どうも嫌なものです。
先日の辺見庸氏の講演会でも、彼は「私は『闘病記』や『人生訓』の類は読まない。だから、自分は、読まないことは書かないから、闘病記は書かない。人生訓も嫌いで、特に相田みつをは大嫌いだ。何が『間違ってもいいじゃないか。人間だもの』だ。本当に大笑いしてしまう。何しろ『日めくり』になるような人生訓は大嫌いだ」と公言していました。
それを聞いて、私はいやあな感じがしました。彼に対して怒っているわけではありません。相田みつをに関しては、いつぞや、日々の生活で塞いでいたときに、彼の『人間だもの』を目にして救われた思いがあったからです。
相田みつをを否定されると、まるで自分が否定されているような、少なくとも、感動した自分が否定されたようないやあな気分に陥ってしまうのです。(確かに、相田みつをなら何でもいいから、本でもコーヒーカップでも複製の掛け軸でもいいからを売ろうとする商業主義には腹が立ちますが、それを利用して食おうとしている人間がいるだけで、みつを本人は、自分の作品がマグカップになるなど、そこまで考えていたのか疑問です。)
辺見氏の講演会には沢山、辺見教の信者が押しかけていたので、彼が、相田みつを、と言っただけで会場は大笑いになりました。辺見教の信者にとって、相田みつをは、軽蔑の対象しかないのです。
もちろん、私自身、辺見教の信者ではないので、場違いの所に来てしまったと思ったのですが、人の悪口を言う時は、気をつけた方がいいと自戒したものです。
人を否定することは簡単です。
しかし、少なくとも、相田みつを知って自殺を思いとどまった人は何万人もいるのです。
人の悪口は、確かに、埒外の人間同士にとっては「笑い」の対象になります。しかし、その逆の「埒内」の人間にとっては、怒りの対象でしかありません。
そういえば、帯広のHさんは、人の悪口はほとんど言いませんでした。私が人の悪口を言うと、「そんなことを言うと、(その悪口が)自分に返ってきますよ」と戒めてくれました。
今その言葉が身に染みます。