戦略爆撃

 勝毎花火


 


 真夏。今日は広島原爆記念日です。


 終戦記念日も近いということで、恒例の戦争ものの企画がマスメディアで取り上げられています。いいことでだと思います。


新聞の記事などによると、「戦略爆撃」と称して無辜の市民まで無差別に大量殺戮をした嚆矢が、ピカソの絵で有名になったゲルニカだったそうです。


1937年  スペイン・ゲルニカ   犠牲者 約2000人


1938年  中国・重慶              約2万人


1945年  ドイツ・ドレスデン         3万人~15万人


……


日本への大規模な空襲として、以下の記録がありました。


<o:p>1945年3月10日 東京    死者 約8万8,000人</o:p>


<o:p>1945年3月13日 大阪    死者  3,987人</o:p>


<o:p>1945年3月19日 名古屋   死者   826人</o:p>


<o:p>1945年5月29日 横浜    死者  3,789人</o:p>


<o:p>1945年6月 5日 神戸    死者   3,184人</o:p>


<o:p>1945年8月 6日 広島原爆 死者  約14万人 </o:p>


<o:p>1945年8月 9日 長崎原爆 死者約 7万3,884人</o:p>


<o:p></o:p> 


<o:p> 1937年の南京大虐殺が取り上げられていませんね。私は、否定説には与しませんが、その犠牲者の数については、いまだによく分かりません。ネット上では、かなり詳しく論争が展開されていますので、そちらをご参照ください。</o:p>


<o:p> 犠牲になった方々のためにも、先の大戦は何だったのかという論争が必要だと思います。まだまだ語り尽くされていません。</o:p>


 

魚住昭著「官僚とジャーナリズム」

 勝毎花火

公開日時: 2007年8月5日

魚住昭氏の「官僚とメディア」(角川書店)には、色々と、マスコミ界の裏というか恥部が白日の下に晒されています。特に、魚住氏の出身である共同通信社のスキャンダルが暴かれています。とても面白い素晴らしい本なのですが、最初に悪口を書いてしまうと、共同通信という「日本最大のマスコミ」(地方新聞の部数を総計すると2000万部を超えるので、世界一なのかもしれません。あ、人民日報とかありましたね。)は、本当にいい会社なんですね。(皮肉をこめて言っているのですが…。)東京の社会部だけで、100人も人材を擁し、半年ぐらい何も原稿を書かずに、映画を見たり、パチンコをしたりしてサボタージュしてもビクともしない。

 

敏腕スクープ記者の魚住氏が共同を辞めることができたのも、奥方様が同じ共同の記者で、将来やお金のことで全く心配がなかったからできたのではないでしょうか。また、共同のような大きな会社では、加盟紙から、何か(例えばオリンピックとか)があれば「分担金」と称して、お金を徴収すればいいので、金銭的に全く苦労は知りません。(部数減に悩む地方紙の営業の人がどんなに苦労して広告を集めているのかも知る由もありません)だから、共同の人は、支局長になっても、営業することがないので、いつまでも「ジャーナリズム」とかいう青臭い書生論議が未来永劫できるのです。そりゃあ、「ジャーナリズム」を標榜して会社を辞める人は誰でも格好いいですよね。

 

ちょっと皮肉を書いてしまいましたが、そのことで、この本の評価を貶めることは全くありません。本心から言って、これは本当に素晴らしい本です。2006年1月に、安倍晋三首相の地元下関でのスキャンダル記事をボツにしたのは、当時「平壌支局開設」問題を抱えていた共同通信首脳が、政府の横槍を防ぐために、もみ消したということは、よくぞ、ここまで書いてくれた、と思いました。

 

リクルート事件当時、共同通信加盟の東京タイムズの徳間康快社長が、リクルートコスモス株を譲渡されていたことが分かり、魚住氏が記事にしようとしたら、上層部からストップをかけられます。「本人のコメントを取るまで配信できない」というのが幹部の説明でした。徳間社長は雲隠れします。その後、ほとぼりが醒めた頃、徳間社長は、社会部ではなく、文化部記者の懇談会の席上「実は、共同通信の幹部から『取材さえ受けなければ記事は出ないから逃げておけ』と言われた」と告白した、というのです。魚住氏は、そこまで書いています。

 

電通のことも書いています。東京・東新橋に「全国地方新聞社連合」なるものを作って、広告と記事を一体化して、「広告」と明記しない「偽装記事」を製作するのがこの組織の主目的だと書いています。一番いい例が、裁判員制度のキャンペーンです。06年1月に、タウンミーティングのサクラ事件が発覚しましたが、この事件の背後には、最高裁と電通と共同通信と全国地方紙が「四位一体」で密かに進めていた大規模な世論誘導プロジェクトがあったことを暴いています。裁判員制度導入のために、総額27億円(05年度と06年度総計、つまり国民の税金です)もの広報予算が不透明な経過で支出されていたことも明らかにしています。

 

調布先生がこんなことを言っていました。「ジャーナリズムには、黒も白もない。皆、ブラックなんだよ。ジャーナリズムなんて、暴力装置みたいなもんなんだから。要するに宣撫活動なんだよ。宣撫。分かる?所詮、ジャーナリズムなんて宣撫活動なんだよ」

実に名言だと思います!

そうです。この本で一番面白かったのは、以下の話です。

魚住氏が陸軍の作戦課の元参謀たちに「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」と聞きまわったら、ある元参謀がこう答えたというのです。

「あなた方は我々の戦争責任を言うけど、新聞の責任はどうなんだ。あのとき、新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかった。我々だって新聞にたたかれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」

「反転」を書いた元検事、弁護士の田中森一氏も、自分が扱った事件が翌日の新聞の一面を飾ると「今、日本の国家を動かしているのは、この俺なんだと錯覚していた」というようなことを書いていました。

しかし、書いている記者たちはそこまでの意識はないか、少ないでしょうね。一番、無責任なのは、そういう無自覚なマスコミの人間なのかもしれません。

「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」

 軽井沢


 


 文藝春秋8月号で「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」を特集しています。6月号の「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」に次ぐ第2弾です。座談会の形で、出席者は、半藤一利(作家)、秦郁彦(日大講師)、戸高一成(海軍史研究家)、福田和也(慶大教授)、平間洋一(元海将補)の5氏です。実によく微に入り細に入り調べつくしたものだと感心してしまいました。


 


 前回の陸軍に比べて、登場人物が少ないのですが、それもそのはず、太平洋戦争終結時の数字を試算すると、残存兵力と死没者を合わせて、陸軍は680万人、海軍は290万人だったそうです。陸軍と海軍では、2倍以上の開きがあったのです。


 


 日本の陸軍の原点は、高杉晋作の奇兵隊で、その後、山縣有朋、児玉源太郎、桂太郎、田中義一と長州閥がリードし、海軍は西郷従道で、以下、山本権兵衛、東郷平八郎と薩摩閥が続く…。成る程なあ、と思いました。一読して、人間、過去の栄光や成功からは教訓を学ぶことはできないと再認識しました。


 


 「成功体験の驕りと呪縛」がズルズルと、身内から錆びが生じて、愚かな負け戦と分かっていながら、国民を戦争に引き込んでいったのです。


 


 海軍は、大正十年(1921年)の軍縮問題で、軍縮の「条約派」(加藤友三郎海軍大臣)と軍備拡大・対米強硬論の「艦隊派」(加藤寛治中将)に分裂して、激しい内部抗争が生じます。結局、艦隊派の背後に、日露戦争のヒーローだった「軍神」東郷平八郎と、伏見宮博恭(ひろやす)王(連合艦隊「三笠」の分隊長)らがいたため、艦隊派の勝利で、太平洋戦争に突き進みます。


 


 特に、伏見宮は、陸軍の参謀総長に当たる軍令部総長に就任し、人事面などで都合の良い人間のみを抜擢します。昭和8年(1933年)から9年にかけて、大角岑生(おおすみ・みねお)海相の時に、加藤友三郎(7期)の薫陶を受けた「条約派」だった山梨勝之進(25期)と軍務局長の堀悌吉(32期)らが追放されます。堀は、山本五十六と海軍兵学校の同期で、海軍始まって以来の英才と謳われたといいます。結局、この人事が決定的になります。


 


 伏見宮は、昭和十六年四月まで軍令部のトップに君臨しますが、あと1年総長の座にとどまっていたら、開戦の責任を問われて戦犯になっていたはず。そうなると、皇室の責任と天皇制の存続の是非にも波及したかもしれない、と秦氏は言います。


 


 


 昭和十四年に日独伊三国同盟締結に反対した米内光正海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長を「良識派三羽ガラス」と言われています。しかし、福田氏は「海軍善玉論でよく語られているように、『米内は常に非戦論だった』『海軍は常に平和的解決を望んだ』というわけではない」と断言しています。昭和十四年二月、「海の満洲事変」と呼ばれる海南島の占領を、海相だった米内はかなり強引に推し進めた(平間氏)そうです。


 


 


 結局、海軍のエリートと言っても、官僚なのです。東京の安全地帯で作戦会議を開いて、指図していたに過ぎません。死ぬのはいつも庶民の兵隊さんです。だから、敵の暗号解読で、搭乗した飛行機が撃墜されて戦死した山本五十六がヒーローになるのかもしれません。

阿久悠さん、世襲、印税…

 軽井沢

公開日時: 2007年8月3日

ある民放の調査によると、安倍総理の支持率が22%になったようですね。支持率は30%を下回ると「危険水域」と言われているので、もう瀕死状態なのかもしれません。

 

所詮、政治も人気商売の側面があります。その点、芸能界と極めて近いのです。世襲制という点でも、似ていますね。養子縁組などで血のつながりは、あれなんですが、市川団十郎は12代目、尾上菊五郎は7代目、松本幸四郎は9代目を名乗っています。安倍晋三さんも小泉純一郎さんも3代目、小沢一郎さんは2代目。あの絆創膏大臣の赤城さんも3代目。奇しくも彼のお爺さんが安倍総理の祖父の岸内閣の農水大臣だったというのですから、ポッと出は皆無なのです。支持者やファンが先代の面影を追うからなのでしょうかね。この「人気」というわけの分からない運勢の綾みたいなものに左右されて、生きていくってことは本当に大変なことなのでしょう。

 

ところで、1日に作詞家の阿久悠さんが亡くなりましたね。享年70歳。何しろ、5000曲以上も作詞したということですから、まさしく超人です。1967年「朝まで待てない」(ザ・モップス)、69年「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ブー)、70年「笑って許して」(和田アキ子)、71年「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、72年「どうにもとまらない」(山本リンダ)、73年「ジョニーへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)、76年「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、77年「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「UFO」(ピンク・レディー)、81年「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行)、85年「熱き心に」(小林旭)…いやあ、もう書くのが嫌になった。というより、私がよく聞いていたのは、この辺りまでの曲で、それにしても、「えー、これも、そうだったの?」と驚いてしまう曲ばかりでした。一流歌手で、阿久悠さんにお世話にならなかった人は一人もいないのではないでしょうか?

 

作詞家は、残念ながら世襲ができないので一代限りです。そういう意味で彼は、本当に不世出の作詞家でしたね。ヒット曲を飛ばすと、カラオケの印税も馬鹿にできません。中には1曲、印税だけで年間で2000万円という話も聞いたことがあります。阿久さんの場合、ヒット曲は数百曲あるので、その遺産は莫大です。私はとても計算できません。

人情紙風船 

 軽井沢

 

今回の参院選について、まだまだ感慨深いものがあります。何しろ、オセロゲームのように、バタバタと地方の自民党閥が倒れてしまったのですから。四国は全滅です。九州も辛うじて、薩摩と中津藩が残りましたが、信じられないことに自民党王国の肥前と肥後が民主党に席を譲ってしまったのです。総裁を輩出している長州は死守しましたが、土佐は脱落しました。

 

自民党の肩を持つわけではありませんが、「人情紙風船」という言葉が浮かんできます。この言葉は、調布先生の口癖で、私自身、この言葉の意味はよく分かっていませんでした。そこで、調べてみると、どうやら、昭和12年(1937年)に公開された映画(山中貞雄監督)のようです。河原崎長十郎、中村翫右衛門主演の前進座の作品でした。もちろん、見ていませんが、「人情なんて、紙風船みたいなもの」と示唆しているのでしょう。民意なんてものも同じようなものです。「民意紙風船」です。

 

調布先生は、インターネットに関しては、ひどく懐疑的です。「路上の立ち小○」「○所の落書き以下」と痛烈に批判されています。ですから、私のブログなぞ読まないでしょうし、私がこんなことを書くとは思いも寄らないでしょうが、こっそりと、陰で読んでいらっしゃるという噂も聞きます。

「君ねえ、人情紙風船だよ」

「こだわっちゃいけないよ。人間、色々とこだわるから、何でもややこしくなるんだよ」

「人なんて、そんなもんなんだよ。あっちと言えばあっち、こっちと言えばこっちって、節操がないんだよ」

「だから、人が去っていったとか、そんなこと考えちゃ駄目なんだよ。去る者は追わず、来る者は拒まずの精神でやっていかなきゃ」

実際のところ、洞察力に研ぎ澄まされた調布先生のこれらの言葉にどんなに救われたか分かりませんが…。

 

いつか、調布先生の語録をまとめてみると、面白いかもしれません。何しろ、取り留めのないことを、唐突に叫んだりするのです。

「平手造酒は男でござる。君、そんなことも知らないのか?」

「何ですか?」

「天保水滸伝だよ」

こういった調子です。何しろ調布先生の教養の深さにはついていけません。浪曲から清元まで、実によく知っています。こういう戦前派の教養人は調布先生が最後ではないでしょうか。

絆創膏大臣

 京都・建仁寺

赤城農林水産大臣が、ついに、とうとう、やっと辞任しましたね。辞任というより、新聞各紙は「更迭」とはっきりとクビであったことを明記していました。

 

赤城氏の在位は2ヶ月。彼本人は、WTOの農業交渉で全精力を傾けたと言いたいでしょうが、恐らく、事務所諸経費をごまかした「絆創膏大臣」として歴史に名前を刻むでしょうね。

 

ここ数日の一連の選挙報道で一番印象に残ったのは、7月31日付東京新聞朝刊のマッド・アマノ氏の「パロディー寄席 嘲笑点」でした。参院選で歴史的惨敗を喫した顔中絆創膏だらけの安倍首相(合成写真)が俯き加減で「大したことではありません」「ご心配には及びません」「何でもありません」と語っているのです。

 

その下には、「(原爆投下は)しょうがない」発言のキューマ前防衛相とばんそうこうのアカギ農相は民主党から送り込まれた刺客だった…。オザワ代表は笑いが止まらない奇病にとりつかれ緊急入院した…などと書かれていました。キツーイ。もっと詳しく読みたい人は、アマノ氏のHPを覗いてみたらいかがでしょうか?

 

なお、小澤民主党代表は、選挙で大勝した当日に「過労」を理由に雲隠れしましたが、自宅に戻らず、報道関係者にも静養先を秘匿したので、変な噂が飛んだそうです。

 

こんなことをしていては、小澤さんという人は、単なる「壊し屋」と見られても仕方ありません。過労なら過労で正々堂々と自宅なり、病院なり、公人なのですから、居場所を明らかにして静養すべきではなかったのではないでしょうか?