神道を読み直す

Nouchavilla

突然ながら、「旧約聖書」を読破した日本人は、そう多くはいないと思います。日本のキリスト教徒は全人口の2割ほどと言われていますが、クリスチャンの人でさえ、完読した人は少ないのではないでしょうか。

私は、クリスチャンではありませんが、「新約聖書」は、何とか苦闘できましたが、旧約は無理でした。その理由の一つが、名前が身に染みてこなくて、訳が分からなくなってしまうからです。例えば、「ノアの子孫」にこんな記述が出てきます。「ヤフェトの子孫はゴメル、メディア、ヤワン、トバル、メシュク、ティラスであった。ゴメルの子孫は、アシュケナズ、リファト、トガルマであった。ヤワンの子孫は、…」

ワー、勘弁してくれえい。と頭をかきむしりたくなります。(もちろん、別にキリスト教に悪意を持っているわけではありません。他意はありません。ゆめゆめ、誤解なさらぬように…)

同じように言えるのが、「神道」です。もちろん、神道には教典、経典めいたものはありません。(「神道」は中国の「易経」から取られた言葉で、政治的色彩が強く、外国向けの対外的な言葉だったそうです。国内では「古道」という言葉で広まったそうで、江戸時代は、儒教や仏典を除いた純粋な「神道」の研究を、本居宣長や平田篤胤らは「国学」と呼びました)

神道には教典がありませんが、「古事記」と「日本書紀」などに出てくる神話を抜きにしては、その思想は語れません。しかし、正直に告白すると、「旧約聖書」と同じように(一緒にすると叱られるかもしれませんが)、この年になって、私は「記紀」は一度も読破したことがないのです。

その理由は、全く同じように、「記紀」に出てくる神の名前がなかなか、覚えられないからです。天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カムムスビノカミ)、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)、天之常立神(アメノトコタチノカミ)…これら五柱(いつはしら)の神々は「別天津神(コトアマツノカミ)」と呼ばれますが、私はもうこの辺りで限界です(苦笑)。

そこで、いきなり、「古事記」「日本書紀」に挑戦することは諦めて、今、本屋さんで見つけた三橋健著「イチから知りたい!神道の本」(西東社)を読みながら、「専門用語」(?)と格闘しています。これは、カラー版で、図解が多くて、分かりやすい。私のような初心者向けです。今年は神社には、厄払いに行ったり、初詣に行きながら、「作法」を知らずに恥ずかしい思いをしましたので、この本は役立ちそうです。

神使(しし)には、京都・北野天満宮の「牛」や、伏見稲荷大社の「狐」、さいたま市浦和の調神社の「うさぎ」など色々あることも分かります。

神道は、戦前戦中は「国家神道」が軍部と結びついて、悲惨な戦争と損害をもたらしたため、戦後民主主義下、日本の伝統に疎いマッカーサーの鶴の一声(国家神道廃止令)で、悪者扱いされてしまいました。

しかし、もうそろそろ、日本人の原点なる思想として、学んだり、お参りに行ったりしてもいいのではないか、と思っています。

ただ、もともと「神道」という言葉自体が政治的色彩を持つという矛盾があるため、純粋なアカデミックなアプローチは難しいかもしれませんが、まあ、肩の力を抜いて、気張らず、拘らず、ユルキャラで行けばいいんじゃないんでしょうか。(カックン)