中学校の同期会 Third Edition

 機関車いろいろ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨晩は、東京・西新宿の「珍味館」で、中学校を卒業して以来初めて同期会に参加してきました。実に44年ぶりという長い歳月ですから、皆さん、街ですれ違っても全く分からないくらい容貌と体型が変化していました(笑)。

44年ぶりの再会ですから、お互いに、ほとんど、若き青春時代も悩める中年時代も知りません。人生の黄昏といいますか、夕焼け小焼けで、人生の酸いも甘いも知り尽くしてしまった初老での再会は、何か複雑なものでした。

まあ、個人的な話ながら、これも「社会の縮図」だと思って、この先も読んでみてくださいな。

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今回、同期会ができたのは、幹事を引き受けてくれた黒田さんや吉野さんや宮崎君や中山君らのお蔭でした。私も感謝したいと思います。

我々の中学校は公立で、東京都心から少し外れた緑の多い武蔵野台地にあり、同期の親は、公務員やサラリーマンの団地に住む「転勤族」が多かったので、その後の消息を調査するのが、個人情報保護法にも阻まれて(?)大変だったようです。

我々の同期は5クラス(正確には6クラス)ありまして、1クラス男女各21人か22人で、全体で216人。そのうち連絡先が判明したのはわずか68人でした。その中で、同期会に参加したのは男子14人、女子14人の28人でした。調査の結果、早くも8人の同級生(男子ばかり)が亡くなっていたことが、この会に参加して初めて知りました。

私の1年生の時の担任だった数学の上沼先生も参加して下さり、まだ75歳で、水泳や山歩きなどをして身体を鍛えているようでしたので、とても、元気でした。先生は、我が母校に教員として務めたのはわずか6年間だけだったということも初めて知りました。

そして、テニス部の顧問で熱血先生でした。道理で、参加した人の多くがテニス部出身で、今でも愛好会に参加したりして楽しんでいるということを話していたので、「ああ、この会はテニス部つながりだったのか」と納得しました。

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私の場合は、色々と引っ越しをしたので、「行方不明」でしたが、中学時代の友人で今でも唯一付き合っている石田君から連絡があったので、参加できたのですが、石田君の場合は、中学卒業以来、引っ越しせずに自宅にいたので、連絡が取れたのです。どうやら、幹事さんたちが、卒業名簿で、全員に電話をかけたようです。本当にご苦労様でした。

今では、ネットが発達しているので、若い人は簡単にSNSか何かで連絡がすぐつくでしょうが、我々旧世代は、ネットを見てアクセスしてきたのは、たった一人だったそうですよ(笑)。

さて、私は今、お酒が呑めないので、早めに帰宅させてもらいました。すると、京洛先生からたまたたま電話があり、先ほどまで参加していた同期会の話をしたところ、「あたしも、還暦の年に中学の同窓会に参加したことがありますよ。でも、違和感を覚えませんでしたか?南北に分断された朝鮮で、板門店辺りで、ガラス越しに親子親戚が何十年かぶりに再会するようなものですよ(笑)。朝鮮民族の人たちは、『アボジ、オモニ、ヨボセヨ~』と大声で涙を流しながら、ガラスをバンバン叩いたりして感激するでしょうけど、日本人の場合は案外冷静で、しらっとしていたんじゃないですか?」と、鋭いことをおっしゃるのです。

そう言えば、こちらがはっきり覚えているのに、向こうは「どちらさまでしたっけ?そんなことありましたか?」なんて、しゃあしゃあ言う人がいる一方で、私の方がすっかり忘れているのに、向こうが覚えている場合もありました(笑)。

公立学校でしたので、職業もさまざまで、最高学府を出て都心の有名な弁護士事務所で働いている優等生もいれば、国立大学の准教授になっている人や地方の銀行員になっている人もいましたし、何と、機動隊員になったガタイの大きい怖そうな公安の人もいました。(その人は中学時代は、クラスも違って一言も口をきいたことはありませんでしたけど)

中には、余命を宣告された病気を押して参加したりした人もいました。「残りの人生は自分の好きなことだけやる」と宣言して、楽しみに同期会に参加したそうです。

普段とは違って、私の名前を気安く、呼び捨てされたりすると、何か、中学時代に一瞬戻ったような気になりました。まあ、私は、悪ガキでしたので、中学時代には全くいい思い出はありませんでしたが、袖触れ合うも他生の縁です。また、同期会があれば、何度でも参加したいと思っています。