京都・東寺「後七日御修法」 Copyyright par Kyoraku-sennsei
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京都の京洛先生です。
最近の貴人のブログを読んでいると、読んでいた本が難しくて途中で投げ出したり、通訳士資格を取る為、挑戦したものの、何ら値打ちもなく、詐欺に遭ったも同然だったり、何とも無残な話が出てきますね。世間に対して「見る目」がないんでしょうね。それに、根気、集中力が減退してきているのじゃないですかねえ(笑)。
彼の有名な「ウマズイめんくい村通信」の加須主筆は、貴人よりもかなり高齢ながら、神田明神下で「甘酒」、神保町の「南海」ではカツカレー、京王線・明大前駅の相州屋で「カキフライ」と連日、食欲旺盛、精力的に飛び回っています。それに比べると、聊か寂しい限りです。これでは先が思いやられますよ。
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人間、チマチマしていると、老けるのも早く、あっという間に年を取り、姥捨て山、ナントかホームへ、一直線ですぞ!
ところで、貴人は、自分の誤操作、誤作動で、折角、丹念に書き溜めた貴重な《渓流斎日乗》が一瞬のうちに泡沫の様に消え去ったので、もう、お忘れになったと思いますが、その僅かな一端に「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」があったのを覚えていますかね?
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「東寺」(教王護国寺)で、毎年新年1月8日~14日まで7日間執り行われている弘法大師が開祖「真言宗」の最高の儀式ですよ。 平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が弘法大師、空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願する、途中で紆余曲折あっても、1000年以上も続いてきています。
この「御修法」が終わった後に頂く貴重な「お札」を求めて、全国各地の真言宗のお坊さんが並びます。その「後七日御修法」が、昨日14日(日)、無事、終わり、迂生もお札を頂きに東寺に出かけてきました。
「東寺」のホームページには、この儀式について詳細に告示したり、案内は書かれていませんよ。
この儀式が始まった8日、地元紙は、以下のように報道しております。
(引用)真言宗の最高儀式とされる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が8日、京都市南区の東寺(教王護国寺)で始まった。同宗各派の高僧が14日までの7日間、国家安泰や世界平和を祈る。
開祖・空海が835年に宮中の正月行事として始めた。明治維新後に一時途絶えたが、1883年に場所を東寺に移し再興された。
正午まえに宮内庁京都事務所(上京区)から天皇の御衣が届けられた後、大阿闍梨(だいあじゃり)を務める大覚寺(右京区)の黒沢全紹門跡ら15人の僧侶が本坊を出発した。
冷たい雨が降る中、朱傘を差し掛けられながら、境内を歩いて法要を営む灌頂院(かんじょういん)に入った。沿道では、厳かな雰囲気の中、参拝者が手を合わせたり、行列を写真に収めたりしていた。14日まで計21座の法要を営む。(引用終わり)
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東寺境内にある日頃、非公開の「灌頂院」(重文)も、この日だけは公開されております。そういう案内は出ていませんが、全国の真言宗各派の管長、高僧、お偉いさんや、檀信徒さんが、今日も朝から、寒い中、「灌頂院」の前に大勢並んでいました。
上記写真の通り、お坊さん達が、後七日の御修法が終わった天皇陛下の「御衣(ぎょい)」が入った菊の紋の唐櫃を見送るために手を合わせていました。
下記写真の通り、担いでいるお坊さんがマスクをしているのは、風邪予防の為ではありませんよ。「神聖な御衣に息をかけてはいけない」ということです。それに、いかにも高僧の雰囲気がにじむお坊さんの行列も凄いでしょう。
迂生の後ろで、この光景を見ていた、東京からわざわざ来たという、50歳前後の女性は「仏画を書いているのですが、去年も来ました。灌頂院の中で、御修法が終わった後の護摩壇や胎蔵界、金剛界の曼陀羅図や、貴重な仏具を見て感激しました。友達も誘ってきましたが、灌頂院の入れるのが、午後1時頃というだけで、はっきりしないので、2時間ほど、此処で待っているのですが・・・」と手持無沙汰なのか、迂生に話しかけてこられました。
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また、四国方面から来たお坊さんは、連れの檀信徒さんと「後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法の出仕して、しかも、選ばれないといけないので、簡単には導師になれません。しかも、灌頂院の堂内は寒いですから、昔、ここで亡くなった方も居られましたよ」と、うんちくを語っておられましたね。
迂生も、足元から冷えがきたので、帰宅後、ゆっくり風呂に入り、身体を温めましたが、御修法も終わって、愈々、平成30年が本格的に始まったと言えるでしょう。同時に、「平成」も段々、残り少なくなってきましたね。
以上、《渓流斎日乗》に一家言の持ち主の京洛先生でした(笑)。
2017年10月1日の関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関を拝読いたしました。
私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、21歳でハルビンで殉職したのだと思っています。(勲八等瑞宝章の叙勲となっていたので殉職と思いました。)
死亡年月日は、昭和19年9月20日、身分は陸軍軍属(雇員)です。
叔母の名前は、阿保 信子(あぼ のぶこ)で、私は甥の、三浦(旧姓 阿保) 宣秀(みうら たかよし)てす。父は満鉄に勤めていて、終戦で中国での強制労働後、復員してます。叔母は、私の父の影響で満洲にいき、ハルビン特務機関に採用されています。
ハルビンでの葬儀には、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、関東軍司令官、ハルビン特務機関長の立札があります。(当時の葬儀写真あります。)
推測では、教育総監の立札から、情報部教育隊(471部隊)に所属し、日ソ開戦にそなえての諜報活動、宣撫活動において、殉職したのではと思っています。 通知された、死亡状況は戦病死、死亡場所はハルビン第1陸軍病院と記載。)
当時の状況を詳しく知りたいと思って、あらゆる方面に問い合わせいたしましたが不明とのことでした。
なにかヒントになることは、ありませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。