蘇我氏が分かれば古代史が分かり、古代史が分かれば日本の歴史が分かる

Copyright par Matsouoqua Sausaie

先日、倉本一宏著「蘇我氏」(中公新書)を読了しましたが、1週間近く経つのに、まだ、あの感銘が消えていません。「そっかあ」「そういうことだったのかあ」と納得することばかりでした。

この感銘もいずれ忘れてしまうので、書き留めておかなければなりません。前回書いた記事に【追記】として掲載しようかと思いましたが、稿を改めることにしたわけです。

倉本氏は、「おわりに」に梗概をうまくまとめておられました。それなどを参考に私の感想も含めて列記致したく存じます。

・「乙巳の変」は(1)舒明天皇と皇極天皇との間の皇子、中大兄王子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と、舒明天皇と蘇我馬子の女(むすめ)法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子(ふるひとのおおえのみこ)との大王位継承争い(2)中臣鎌足と蘇我入鹿との間の国際政策構想(唐からの圧力にどう対処するかの外交問題)の争い(3)蘇我氏内部における本宗家争い(4)大夫(まえつきみ)氏族層内部における蘇我氏族と非蘇我氏族との争い―など複雑な要素がからんだクーデターだった。

・その際、中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場(幕末史でいうところの賊軍)に描かれたのが蘇我蝦夷・入鹿親子だが、究極的には、「日本書紀」の編者である持統天皇と藤原不比等の主張に基づくものだったと考えられる。

・中臣鎌足の子息藤原不比等は、嫡妻(ちゃくさい)として、蘇我馬子の孫で、蝦夷の甥に当たる連子(むらじこ)の女である娼子(しょうし、媼子=おんし)を迎えたのは、蘇我氏という尊貴性を自己の中に取り入れて、正統性を主張する魂胆が背景にあった。

・同時に、藤原氏の不比等は、蘇我氏が6世紀から行ってきた天皇家との姻戚関係の構築による身内氏族化という政略も同時に踏襲した。(藤原氏による天皇家との外戚関係構築は、蘇我氏の真似をしただけだったとは!)

・乙巳の変で、蘇我氏本宗家は滅亡したが、本宗家の弟、甥筋などに当たる田中氏、久米氏、小治田氏、桜井氏などは奈良時代辺りまで、石川氏や宗岳(そが)氏などとして、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜いた。

・最近の歴史教科書は、昔と大違い。聖徳太子の名前も消えるという噂もありましたが、今は厩戸王子(うまやとのみこ=聖徳太子)と記述されているようです。何故なら、聖徳太子は、厩戸王子の死後の諡(おくりな)で、生前に一度も、聖徳太子と名乗っていなかったからだそうです。

・この聖徳太子は、父用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の女堅塩媛=きたしひめ=との間の皇子)と母穴穂部間人王女(欽明天皇と蘇我稲目の女小姉君との間の皇女)との間に生まれた皇子で、つまり、蘇我氏の血が半分流れていたわけです。

・蘇我馬子の孫連子(むらじこ)の子孫が石川氏を名乗るも、元慶元年(877年)に、宗岳(そが)と改姓。これが後世には「むねおか」と読むようになり、宗岡、宗丘などの字も当てられた。埼玉県志木市の宗岡も関係あるのではないかという説も。

・参議(正四位以上)。平安時代になると、蘇我氏末裔は三位以上の官人はいなくなり、多くは五位で終わってしまう。(六位以下の官人の叙位記事は原則として「六国史」には掲載されない)

・平安時代の摂関期になると、国家による正史が編纂されなくなり、その代わりに古記録と呼ばれる男性貴族や皇族による日記が現れるようになる。倉本氏は、かつて、摂関期は古代氏族としての蘇我氏は完全に終焉したと考えていたが、それが誤りだったと気づきます。古記録には、蘇我氏末裔は、六位下の下級官人として古記録に登場していた!(同様に古代の名族である安倍氏、阿部氏、紀氏、石上氏、物部氏、平群氏、巨勢氏、大伴氏、伴氏、佐伯氏、春日氏、大神氏、橘氏なども健在だったと言われてます)