大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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