海城高校の同窓会を決行しました

浜松城

昨晩は、少年識別所時代の同窓会を、当時の担任看守長も交えて、江戸時代に仇討ちがあった高田馬場の居酒屋の二階を借り切って行いました。

都立や国立附属高に落ちて性格が捻くれた者や飲酒や喫煙が見つかって補導された悪童ら、当時同じクラスの少年収容者は50人ぐらいおりましたが、出席したのは15人。行方不明者は15人、住所だけが分かっていて、葉書で連絡しても返事がない不届者が15人といった感じです。

当時の目良看守長は、我々と13歳しか違わなくて、まだ帝大大学院を出て数年しか経っていない31歳だったとか。あれから40年以上も経つのにまだ若々しく、若い奥さんをもらったとかいう専らのフェイクニュースの噂で、すっかり逆転して、事情を知らない人からすれば、我々の方が年寄りに見えてしまいました。

昨年も同じような同窓会をやってるので、そんなに久し振りでもない輩が多かったのですが、土屋君と岸君と加藤名人は出所以来半世紀近い年月ぶりの再会でした。

加藤名人は、将棋が強くて、当時から老成していたので、そう呼ばれてました。

皆んな老境に入り、自分の病気や親御さんの介護など大変な思いをしている人もおりましたが、すっかり少年院時代に帰って、名前呼び捨ては当然のことながら、今にも枕投げでもしそうな勢いでした。

当時の渾名がタコだった小島君は、急に、何の脈絡もなく「大隈重信って知ってるか?」と真顔で皆んなに質問を投げ掛けてくるので、気が触れたのではないかと一堂心配しました。タコは弘前からの参加です。

大隈重信と聞いた学識者の目良先生が我々の出た海城高校との関係を淀みなく説明して下さいました。

海城は、明治24年に海軍予備校という名前で、海軍兵学校の受験校みたいな形で古賀喜三郎が創立しました。

古賀は大隈と同じ肥前佐賀出身。古賀が何故、海軍予備校を創立したかというと、「明治14年の政変」で大隈ら肥前や土佐の連中が政界から失脚し、当初の「薩長土肥」から土肥が脱落して、薩長二強の独占になったからでした。

これをきっかけに、海軍少佐だった肥前の古賀は、人材育成のため教育界に残りの半生を捧げる決心をしたわけです。

知らなかったですね。凄い話でした。

医療機関を経営し、高級外車を3台保有する林君は北海道の旭川からベントレーに乗って駆けつけました。あ、そういう噂だけでした。

老境とはいえ、まだ独身者が何人かおり、これから青春を楽しみたいという輩もおりました。

幹事長役の惣田君からは「おめえの挨拶は長いんだよ。誰も聞いてねえんだから早く終われ」と、叩かれだけでなく、「来年、お前が幹事長やれ」と指名されてしまいました。

何はともあれ、利害関係もなく、少年時代に2年間同じクラスだったというだけで、これだけ楽しめるのは、奇跡に近いという思いで、すっかりボトルを空けて、翌日は酷い二日酔いでした。