友が皆 我より偉く見ゆる日よ

墨俣一夜城

最近、年のせいか、かつての知人、友人が知らないうちに、ど偉く(ドエリャーと読みます)なっていて驚くことがあります。

私の場合、高校の同級生の木本君が、天下の高島屋百貨店の社長さんになっていたと聞いたときは、腰を抜かしました。

そんな時、

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

という歌が、教養があるもんですから(笑)、つい、ふと、頭に浮かんできました。

石川啄木(1886~1912)のあまりにも有名な短歌です。

色んな解釈があるようですが、啄木さんは空想ではなく、実際にあった、感じたことを描いたことでしょう。となると、この「友」とは一体誰なのか、昔、気になって調べたことがありました。

その一人が及川古志郎(1883~1958)でした。

銀座「わのわ」 しょうが焼き定食850円

当時は、近現代史や昭和史をそれほど勉強していなかったので、あまりピンと来なかったのですが、海軍大将、海軍大臣にまで上り詰めた軍人です。

啄木の旧制盛岡中学時代の3年先輩に当たります。戦史に欠かせない大変な人です。(啄木は1886年2月の早生まれで、盛岡中には1898年入学、及川は1883年2月の早生まれ)

及川は軍人ですが、もともと文学少年で、多くの短歌や長詩を文芸誌に投稿し、同期の金田一京助(1882~1971)や野村長一(1882~1963)らと文学サロンめいたことをやっていて、啄木も参加していたようです。

金田一京助は、有名なアイヌ語研究などで知られる言語学者で、啄木はかなり迷惑をかけていたようです。京助の子息で同じく言語学者の金田一春彦は、思い出エッセイの中で、「啄木はよく借金を踏み倒すので、父は啄木のことを『石川五右衛門の子孫じゃないかな』と冗談で言っていた」といったようなことを書いてましたね。

野村長一は、「銭形平次」で知られる作家野村胡堂のことです。盛岡中から第一高等学校~東京帝大を卒業し、報知新聞の政治記者になりました。

彼ら以外に啄木の同期に満州事変を起こした板垣征四郎(1885~1948)がおります。啄木は明治45年に26歳の若さで病死してますから、同級生だったなんて想像もつきませんでしたね。陸軍大将に登りつめた板垣征四郎は戦後、A級戦犯として逮捕され、東京裁判により処刑されてます。享年63。

また、4年先輩には、海軍大将で首相まで務めた米内光政(1880~1948)がおりました。米内は盛岡南部藩士の子息です。

南部藩は、戊辰戦争の「負け組」で、明治革命政権の下では冷や飯を食わされた側でしたが、中にはこうして実力と能力と努力で登りつめた人がいたわけです。

とはいえ、盛岡中(現盛岡第一高校)卒業生の中で、最も知られている有名な人物は詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)かもしれませんね。

賢治は、啄木の11年後輩に当たります。久しぶりに彼の作品を読みたくなりました。