攘夷と開国の成れの果て

 時は幕末。

 血気にはやる若者たちは、尊王攘夷思想を信奉して、幕府打倒に立ち上がりました。

 病気がちの将軍に代わって、忖度主義で権力を独占したのが老中の阿倍正弘でした。敵対する井伊直助を排除して、ついに開国に踏み切ります。

 不平等条約を結んだのは、ハンザ同盟から離脱したエゲレスと、奴隷解放令を成立させて異国に奴隷を探し求めていたメリケン。そして、インドシナを植民地にして勢いに乗るオフランス。こうして、開国によって、高給を求めて大勢の異人が大和に押し寄せて来ました。

 しかし、異人さんは、大和の実態を知りません。分別のある大人が、電車の遮断機の横棒をノコギリで切断したり、新幹線を止めて線路に飛び降りたり、泰国まで出稼ぎして振り込め詐欺を働くような野蛮な人間がいることさえ知らないのです。異人さんたちは、お金を稼ぐのが目的ですから、「万葉集」どころか、大和言葉に興味ありません。大和学校に登録するだけで、学校に通わず、仕事優先。茶屋四郎次郎が経営する江戸福祉学問所は、これがビジネスチャンスと便乗し、幕府から助成金をふんだんにせしめています。異人が行方不明になろうと知ったことはありません。登録料さえもらえば、後は野となれ、山となれです。

 一方、異人さんの不満解消・吸収策のため、老中の阿倍正弘は、御用瓦版を使って、「人手不足の解消」だの「大和人との同等賃金を」だの「かわいそうな異人たち」だのと、盛んに洗脳記事を書かせます。

 しかし、老中の阿倍自身が、この開国によって、将来の大和がどんな「国のかたち」になるのか、全く想像も思い描くこともできませんでした。

 大津安二郎監督が「大学は出たけれど」を撮った安政の大獄恐慌の頃と同じように、老中阿倍政権の初期に、就職超氷河期が押し寄せました。そのため、40歳になってもいまだにアルバイトか、パートか、契約、派遣に甘んじている大和人が、職安通りに溢れています。それなのに、阿倍政権は、異国人優先の開国に踏み切りました。

 さて、幕府打倒に踏み切った非正規雇用の若者たちの運動は、どうなったのか?

 それが、ぽしゃっちゃったのです。阿倍老中政権の巧みな「働き方改革」で残業がなくなり、享保の改革、寛政の改革、天保の改革に並ぶ金字塔を打ちたてたのです。御用瓦版を使って、民百姓を洗脳し、若者だけでなく、異人さんたちも懐柔し、羊の群れのように唯々諾々とお上に従う民を道徳教育で作り上げることにも成功したのです。

 若者たちは、GHQの目論見通り、国営放送を通じて、芸能人のスキャンダルとスポーツ観戦にひたすら熱中し、銀座の歩行者天国で、ええじゃないか踊りに没頭し、物見遊山の超富裕異人さんたちは、群れをなして日本橋の高級商店に押し寄せて爆買し、格安航空で来た異人集団は道端に食べ残しを捨てまくり、疲れては地べたに座り込み、飽きては大声で叫び、穏やかな大和人の通行を妨害し、開国の自由を謳歌しているのでした。

 嗚呼、まんず、めでたし、めでたし。

建築ジャーナリスト淵上正幸氏の世界

 昨日4月14日(日)は、東京・大手町のサンケイプラザで開催された仏友会総会に参加してきました。仏友会とは、東京外国語大学でフランス語を専攻した人たちの同窓会で、大正時代からある伝統的な親睦会です。一時、というか、長らく「休眠」していたのですが、25年ほど前から田島宏先生の呼び掛けで復活したそうです。

 私自身は、何も知らずに15年ぐらい前から参加していたので、同窓会というのは普通のものかと思っていたら、同じ大学でも英米語を専攻して卒業した人から、「同窓会がないので参加したことがない」という話を聞いたので、驚いてしまいました。と、同時に仏友会を復活させて頂いた諸先輩方の努力と苦労には頭が下がる思いでした。

建築ジャーナリスト淵上正幸氏

 14日は、昭和31年卒のOB(ということは84歳ぐらい) から現役3年生(ということは20歳ぐらい)まで61人も参加しました。毎回、斯界で活躍する先輩卒業生による講演会が開催されますが、今回は建築ジャーナリストの淵上正幸氏。ちょうど50年前の昭和44年卒業ということですから、とっくに古希は過ぎておられますが、非常に若々しく50代にしかみえません。

 しかも、抜群の記憶力の持ち主で、世界各国の著名な建築家の「作品」をスライドで説明しますが、全く、メモも見ず、作品の規模から価格、歴史的背景、建築家の略歴まですべて細かい数字も頭の中に入っていて説明されていたので、恐れ入ってしまいました。こんな頭の良い人は、世の中にそういません。

 大学の卒業生の中には、本当に色んな方がいらっしゃいますが、「建築ジャーナリスト」なるものは初めて聞きました。そしたら、淵上氏は「建築ジャーナリストというのは、私がつくった肩書で、初めてでしょう」と仰るので、ずっこけてしまいました。大学卒業後、紆余曲折があって、結局「新建築社」という出版社に転職し、これまで、全く、建築に興味がなかったのに、会社の書庫で、世界中の多くの「建築写真集」を見ているうちに、異様に面白くなり、世界中の建築を見て回る仕事に没頭したといいます。この新建築社という会社、私は全く知りませんでしたが、大正14年創業の老舗でした。

 それにしても、建築士でも設計士でもない方が専門家にインタビューしたり、同等に渡り合ったりして、どんなことをするんだろうか、と思っていたら、淵上氏の話を聞いて、大枠が分かりました。ここでは詳しく書けませんが、かなり凄いこともやっておられました(笑)。

 とにかく、淵上氏は、今の日本の建築ジャーナリズムの世界ではナンバーワンの方で、「ヨーロッパ建築案内1~3」「アメリカ建築案内1~2」などの著書多数あり、昨年は、日本建築学会文化賞まで受賞されてます。当然ながら、現代建築界の「世界の巨匠」と呼ばれる方とも昵懇で、建築家と施行主、自治体、もしくは大富豪との間を取り持つコーディネーターの仕事もされております。吉祥寺のハーモニカ横丁をシマにして、お酒と女性をこよなく愛す大変ユーモアに溢れた方で、世界各地の著名建築を見る旅を主宰されたり、ノミニケーションで、世界の巨匠の一人から、御自宅の門をタダで設計してもらった特権まで披露されておりましたが、これは内緒の話でした(笑)。

 個人的ながら、私も建築は好きなので、バウハウスのグロピウスやル・コルビュジエらの作品など知っているつもりでしたが、彼らのような1900年から1967年ぐらいまで活躍した人たちの作品を「近代建築」と呼び、それ以降を「現代建築」と呼ぶということでした。この現代建築家として、世界的に有名な丹下健三をはじめ、磯崎新、安藤忠雄、隈研吾といった日本人は知っていましたが、世界の巨匠となると、ほとんど知らず、淵上氏のスライド紹介で初めてその輪郭が分かりました。


オーレ・シェーレン設計のシンガポールの「インターレイス集合住宅」

 約2時間の講演会の世界各地の建築紹介の中で、一番印象に残ったのは、ドイツのオーレ・シェーレン(1971~)設計のシンガポールにある「インターレイス集合住宅」でした。傍から見ると、不安定な積み木を組み立てたような変な集合住宅で、淵上氏も「酔っ払って帰ったら、自分の部屋が分からなくなる」と冗談を飛ばしておりました。でも実体は、六角形を基準になかなか精緻で緻密な計算で作られた設計で、中庭を配したり、プールをつくったり、風通しや日射を良くするために、一部の建物を割愛したり、「あっと驚く」工夫設計でした。

 2020年東京五輪の新国立競技場会場設計をコンペで獲得しながら、後で政府により白紙撤回されたイラク出身のザハ・ハディッド(1950~2006)も淵上氏とは昵懇の仲だったようで、少し長く紹介の時間を割いていました。

 建築費の高騰を理由に撤回され、猛烈な抗議の中で、ハディッド氏は、65歳で心労も原因で急死してしまいますが、彼女の作品が紹介されたスライドを見て、本当に類稀な才能で、惜しい人を亡くしたと思いました。新国立競技場問題の最中は、政府による巧みな世論操作で、日本人は、ハディッド氏がまるで我利我利亡者のような印象を植え付けられましたが、そんなんじゃなかったんですね。何か背後に「鶴の一声」があったのかどうかも真相は不明です。

 東京・汐留の電通本社ビルを設計したのがフランスのジャン・ヌーヴェル(1945~)で、淵上氏の親友でした。酔いに任せて彼の自宅の門を設計する約束をさせたのが、この人でした(笑)。この人を調べてみたら、私自身が昨年、スペイン・マドリードでピカソの「ゲルニカ」を見たあのソフィア王妃芸術センター新館を設計した建築家がこのジャン・ヌーヴェルだったんですね。驚きでした。

 有楽町の東京国際フォーラム(1996年)を手掛けたのがウルグアイ出身のラファエル・ヴィニオリ(1944~)で、これで一躍有名になり、世界各国で引く手数多だそうです。

 このほか、世界の巨匠として、104歳で亡くなったブラジルの天才建築家オスカー・ニーマイヤー(1907~2012)やメキシコの巨匠ルイス・バラガン(1902~88)、カナダ出身のフランク・ゲーリー(1929~)らも紹介してくれましたが、実際に現地に行って、実物を見たくなってしまいましたね。

東京駅 辰野金吾

 絵画や彫刻とは違って、建築物(美術館、大学、病院、駅舎、集合住宅、オフィス、モール街など)は持ち運べず、そこに行かなければ見られません。淵上氏は、建築見学ツアーも主宰されており、「現地にタダで行って、帰れば、講演会と執筆・出版もできます。一石二鳥どころか、一石三鳥です」と最後までユーモア溢れる講演会でした。

 それにしても、建築設計の世界は素人には全く分からない世界です。世界中のコンペ情報はどうやって入手するのか?どのように審査されるのか? 設計費やマージンやコーディネート代はいくらが相場なのか?-気になることばかりでしたが、知っても、茲では書けないでしょうね(笑)。同じジャーナリストなら、人間の業(ごう)や暗闇や負の側面ばかり見せつけられて、ひねくれてしまうジャーナリストより、世界中を飛び回れる建築ジャーナリストになればよかったかなあ。。。(一部敬称略)

WTOが、韓国による福島産水産物の禁輸を容認

世界貿易機関(WTO)は4月11日に、韓国による日本産水産物の全面禁輸を容認したため、日本国内では大騒ぎになっています。

弥次郎兵衛 日本政府の全面敗訴だなあ。まさに驚天動地。まさか、あのWTOが、日本の主張を却下するとは思わなかったよ。韓国は、最近、何でもいちゃもんばかり付けているから、このままじゃ、増長するよ。

喜多八  いやいや、これは韓国だけの問題じゃないんだよ。福島原発事故を理由に日本産食品の輸入を禁止しているのは世界23カ国・地域に及ぶんだよ。韓国なんてマーケットが小さい、小さい。遥かに大きい中国や米国、EUだって、いまだに、日本産品の輸入をストップしているんだよ。

弥次 えっ?何だって?それ、本当か?

喜多 ああ、例えば、中国なんか、東北、関東など10都県の全食品と飼料の輸入を今でも停止しているんだよ。福島原発事故が理由なのに、福島県産以外に埼玉県、東京都、長野県産まで停止命令が出ているだから、よく分からない。

弥次 それだけ、いまだに放射能の影響があると思ってるんじゃない?俺なんか、毎日、東北産や関東産の魚や野菜を食っているけどなあ。

喜多 ま、お互い。それはいずれ、「結果」が分かるんじゃないの。それより、安倍首相は、福島第一原発の汚染水は「アンダーコントロール」と見えを切って、東京五輪・パラリンピックの招致を獲得したんだよ。でも、いまだに汚染水は駄々洩れだから、大ウソをついたことになる。こっちの方が問題じゃないの?

弥次 それは、東京五輪の後援・スポンサーになっているマスコミは、グルだから、一切、絶対、批判しないし、報道すらしないよ。何しろ、福島原発は、メルトダウンしていたのに、最初は全く報道されなかったんだよ。汚染水は、自然に漏れているだけじゃなくて、処置に困っている放射性トリチウムを含む100万トンの汚染水を、これから薄めて海に流すらしいから、魚は本当に大丈夫なの?てな感じだよ。

喜多 だから、俺は、魚は山陰産しか食べないもんね。

弥次 おっ! ずるいなあ。

喜多 もちろん、段ボール入りの中国産冷凍餃子も食べないし、ポストハーベストの農薬漬けの野菜や遺伝子組み換え食品も食べない。今の政財官界の大物たちだって、福島産の農水産物を食べないと思うよ。

弥次 そんな推測でモノをしゃべっていいのかい?

喜多 もちろん、間違っていたら訂正するよ。憶測に過ぎないからね。積極的に食べているかもしれないし。それより、沖縄県の玉城知事が、米軍が駐留する欧州の英、ドイツ、イタリア、ベルギー4カ国の地位協定を調べたら、4カ国とも国内法が適用されていたことが分かったじゃないか。例えば、同じ第2次世界大戦の敗戦国のドイツでさえ、国内法が適用され、米軍基地への立ち入り権が明記され、米軍による訓練も独政府の承認が必要とされ、航空機事故が起きた場合、ドイツも調査に関与できることになっている。それなのに、日本だけは、国内法の適用がなく、国内なのに、基地に入れないどころか、事故が起きても捜査などできないことになっているんだ。まるで、植民地だね。治外法権もいいところだ。

弥次 えーー、そうなの。何で急に、そんな話になったの?

喜多 新聞のWTOの記事の隣に書いてあったからさ(笑)。沖縄県の調査について、河野太郎外相は「様々な国内法を含めた一つの体系なので、何かを取り出して比較することに全く意味がない」と批判したらしい。「全く意味がない」ということは、日本は植民地に甘んじますと宣言しているようなもの。河野外相もやはり、福島産の農水産物は食べていないね。

弥次 だから、そんなこと言って大丈夫なの?

旧大阪毎日新聞京都支局、現「同時代ギャラリー」で加藤力之輔さんの個展

加藤力之輔画伯 Copyright par Kyoraque-sensei

 京洛先生です。しばしば、「渓流斎ブログ」にお邪魔して恐縮です(笑)。 

 先日、東京・銀座で2週間にわたり個展をされた加藤力之輔さんが、4月9日(火)から14日(日)まで、京都でも個展を開かれているので、会場の「同時代ギャラリー」(中京区三条寺町西入る1928ビル)を覗いてきました。


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 同時代ギャラリーは、展示スペースが広いので、加藤さんの得意の大きな絵をゆったり並べられるので、加藤さんも満足げでした。

  東京では、木炭で描がかれた大きな裸体のデッサンが画廊の床まで垂れ下がっていたそうですが、京都では、炭の単色の大作ではなく、色彩を巧みに使い分け、明るい基調の大きな作品が並べられ、作家の自信が溢れ、見ごたえ、迫力のある個展です。


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 加藤さんは「東京では、どうしても会場に限界があり、小品しか展示できなかったのですが、この『現代ギャラリー』さんでは、そういうことを考えなくても好いので、助かりますね。展示空間に窮屈さがあると、見に来てくださった方も、おおらかに見てもらえませんから」と仰っていました。 


重厚な旧大毎京都支局ビル Copyright par Kyoraque-sensei

 「同時代ギャラリー」の入っているビルは、毎日新聞社(当時「大阪毎日新聞社=大毎」)が戦前の1928年(昭和3年)に京都支局として建てたもので、京都市の登録有形文化財に指定されています。


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 当時、大毎の本山彦一社長が、関西の”建築家の大御所”武田五一氏(京都帝大教授)に建築、設計を全面的に委嘱、完成させ、京都支局として使われてきました。


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 しかし、ビルの老朽化もあり、1998年、毎日新聞京都支局は、別の場所にビルを建て、移転。一時は「保存は無理か!」といわれましたが、建築家の若林広幸氏が「歴史あるビルを壊すのは惜しい」と自ら買い取り、今は保存しながら、画廊などに活用しています。


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 アールヌーボー風の建物で、若林氏がオーナーになってから同ビルの内部を補強、修復していますが、外壁は昔の儘で、今でも「大毎」の記章が壁に埋め込まれています。

以上 ご報告まで。

【補遺】「人間には3種類しかいない」「長谷川家住宅」「使うな、危険!」、そして渋沢栄一

 ■映画「バイス」を観て、後から思ったのですが、主人公のチェイニー米副大統領には、彼を支えてくれる家族が頻繁に登場しますが、本当に心を割って話せるような親友がいない感じでした。

 そこで思い出したのが、かつて外務大臣を務めた田中真紀子さんが言った言葉です。

 「人間には3種類しかいない。家族か、敵か、使用人だ」

 いやあ、これは名言ですね。勿論、皮肉ですが。

 使用人というのは、普通の人は決して使う言葉ではありませんが、恐らく彼女は父親角栄さんの会社経営を一部引き継いだことがあり、それで、会社法の役員ではない社員を指す「使用人」という言葉がすぐ出てきたのではないか、と同情してしまいました。

 映画を観終わって、チェイニーさんも、彼の頭の中には「家族」と「敵」と「使用人」しか存在しないのではないかと思ったわけです。

Copyright par Kyoraque-sensei

 ■渓流斎ブログ2019年4月7日付「 京都『長谷川家住宅』で松岡氏の『在満少国民望郷紀行』スライドショーが開催 」で触れた「長谷川家住宅」ですが、講演を終えて、京都から東京の自宅に帰宅した松岡將氏から、メールで詳しい情報を寄せて下さいました。

 まず、この長谷川家住宅は、有形文化財に登録されていますが、幕末は、何と、あの「蛤御門の変」の際に会津藩士の宿舎だったというのです。現在の当主の中川氏は、松岡氏の農林水産省時代の後輩に当たる人で、開催に当たって全面的に支援してくださったようです。

 開催案内のパンフレットも添付して送って頂きましたが、何と、後援として、農林水産省近畿農政局、京都府、 朝日新聞京都総局、京都新聞、古材文化の会と、錚々たる名前が連ねておりましたから、かなりの規模だったことが分かります。

 参加者の中には、「近畿満鉄会」の会員で、歌手の加藤登紀子さん(満洲・哈爾濱生まれ)の御令兄(元大手金属会社副社長で現在、ロシア料理店社長)や東京帝大の「新人会の研究」などの著作がある日本の近現代史専門のヘンリー・スミス・コロンビア大学名誉教授らも臨席されたそうです。

関宿城

■4月8日付では「関宿城址を巡る旅」を書きましたが、遠足だというのに、手を拭くウエットティッシュを持って行くのを忘れてしまい、難儀してしまいました。

 そしたら、昨日読んだ小岩順一著「使うな、危険!」(講談社)を読んでいたら、コンビニやドラッグストアなどで売っているウェットティッシュには、人体に影響を与える塩化ベンザルコニウムやパラベン、グルコン酸クロルヘキシジンなどが含まれているというのです。

 ウエットティッシュで拭いた手で握った寿司を口にしようものなら、食中毒になりかねないといった警告も書かれていました。

 あらまーー。それなら、ウエットティッシュを使わずにそのまま、おにぎりを食べたことは、よかったということになりますね。衛生的にどうかと思いましたが、免疫力がついたかもしれません(笑)何せ、現代人は「無菌」だの「無臭」だのと、やたらとうるさすぎます。ウエットティッシュで殺菌されたと勘違いして、もし食中毒になったりしたら、本末転倒です。これは、笑えませんよ。

 この本では、ウエットティッシュの代わりとして、20度の焼酎甲類ミニボトルを買い、ティッシュペーパーに濡らして使えばいい、と書かれていました。手の消毒になりそうですね。次回はその手を使ってみましょう。

 この本には、他にも色々書かれていますが、ご興味のある方は、古い本ですから、図書館でも借りてみてください。

Copyright 財務省のHPから引用

■昨日は新紙幣のデザインが正式発表されました。1万円が渋沢栄一、5000円が津田梅子、1000円が北里柴三郎になることは、皆さん、御案内の通り。

 でも、新紙幣の発行は5年後の2024年。5年も前に発表しますかねえ?何でこの時期? 何か政治的臭いを感じますねえ。。。

 さて、この中で一番の注目は、1万円の渋沢栄一でしょう。私も東京都北区王子の飛鳥山公園内にある記念館を訪れたことがありますが、この人、怪物みたいな偉人ですね。「日本の資本主義の父」で、500近い企業を創業したというのですからね。

 出身は、現在の埼玉県深谷市。映画「翔んで埼玉」が話題になっている今、埼玉県人は大いに喜んでいることでしょう。何しろ、映画では「埼玉県人はそこら辺の草でも喰っていろ!」と虐待された県民ですからね(笑)。

 昨晩、天下のNHKラヂオを聴いていたら、女性アナが大興奮していて、「私は埼玉県出身なんですが、小さい頃、郷土の歴史で、渋沢栄一が如何に偉い人なのか習いました。そんな郷土の英雄が選ばれるなんて感無量です」と、ずっと喋り続けていたら、隣の男性アナが「渋沢栄一は、埼玉県の英雄というより、日本の英雄ですよ」と、たしなめていたので可笑しかったですねえ。

 渋沢栄一が関係した会社として、王子製紙、みずほ銀行、キリンビール、三井物産、日本経済新聞など今でも大活躍している企業が名を連ねています。

 王子の渋沢栄一記念館に行った後、あまりにも色んな所に渋沢栄一の名前が出てきたので、その後、しばらくの間、どこに行っても渋沢栄一の名前が頭の中に出てきて、夢にまで出てきたので少し困りました。

 ここまで、彼の偉業ばかり書きましたが、ひねくれた見方も書き添えておきます。渋沢栄一は、2回結婚してますが、他にお妾さんが数多いらっしゃって、子どもが20人ぐらいいたそうです。

 当時は、普通のことだったかもしれませんが、20人とは凄い。「英雄色を好む」と言いますか、それでも、よほどの資産がないと沢山の子どもたちを養育できないでしょうから、偉人だったことは確かです。

 渋沢栄一の最初の結婚は、従妹の尾高千代でしたから、現在でも渋沢家と尾高家とは濃厚な縁戚関係になります。クラシック音楽通なら誰でも知っている「尾高賞」の作曲家・指揮者の尾高尚忠、その長男の尾高惇忠(作曲家)、次男の尾高忠明(指揮者)らも渋沢一族だったんですね。

 最後に、天保年間生まれの渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農出身ですから、身分は農民です。それでも、幕末は「徳川慶喜に取り立てられて幕臣になった」と何処の本にも書かれていますが、どうやって幕臣になれたのか何処にも書いていません。恐らく、豪農でしたから、お金で、武士の株券でも買ったのではないでしょうか。それに、幕末は身分制度が曖昧になり出したと言います。最も武士らしいと言われた新撰組の近藤勇も土方歳三らも、元々は、日野村の農民でしたからね。

 

関宿城址を巡る旅=千葉県野田市

 4月7日(日)、「城好き愛好会」の皆さんと一緒に、満開の桜を背景に映える下総國の要塞「関宿(せきやど)城」を訪れました。

 場所は千葉県野田市ですが、集合場所は、埼玉県杉戸町の「東武動物公園駅」。ここからバスで30分ほどで城下町のバス停に到着しました。また、本丸公園から歩いて数分で千葉県と茨城県の県境です。地図をご覧になって頂ければ分かりますが、現在のこの辺りは、千葉県と埼玉県と茨城県が複雑に入り組んだ「戦国時代」みたいな場所でした(笑)。

 思わず、映画「翔んで埼玉」を思い出してしまいましたね。

 今回は、主要メンバーのお二人が参加できなくて、寂しい会となりましたが、桜の樹の下で、ゆったりと金粉の入った日本酒を飲みながら、花見見物もできました。

 この日にしたのは、ちょうど「関宿さくらまつり」が開催されたためでしたが、東京とは違って淋しいくらい人が少なく、混んでいなかったので、余裕を持って楽しめました。


関宿城とは何かー?

小生がクドクドと説明するより、千葉県野田市教育委員会が作成した上の写真の看板「関宿城の歴史」をお読みになって頂ければ、すぐ分かります。

 私もこの看板は2回読みました(笑)。とにかく、中世の15世紀(1457年)に古河公方の命令によって、梁田(やなだ)氏がこの地に城を築いたのが最初です。「水上交通の要衝」だったからです。このことは最後まで頭に入れておいてください。

 16世紀になって、小田原の後北条氏の支配下となり、1590年の「小田原征伐」以降は、徳川家康のものとなり、異父弟の松平康元が藩主に命じられます。

 その後、江戸時代は、板倉氏、牧野氏が藩主として移封されますが、幕末まで久世氏が藩主に収まります。この久世氏から4人もの老中を輩出し、幕府の主要ポストに就きますから、関宿藩(5万8000石)が、いかに幕府の要所だったことが分かります。(水上交通の要衝でしたね。また、関宿藩の江戸の下屋敷は、今の清澄庭園にあったようです)

 さて、「水上交通の要衝」ということは、川の水利で色んな物流ができるという利便性がありますが、台風などで洪水が襲うと度々、甚大な被害をもたらします。

関宿藩の城下町には自然の外堀として、利根川と江戸川が流れていますが、大きな水害でこの周辺の農民たちは大いに悩まされてきました。

 上の写真は、船橋随庵(1795~1872)という関宿藩士で、幕末から明治にかけての農政学者として、洪水対策のために彼がつくった用水路「随庵堀」の説明文です。

 随庵は、沼地干拓など大治水工事なども行った地元の英雄として知られています。

 「随庵堀」の看板の近くに昌福寺があります。真言宗豊山派の古刹です。天長5年(829年)に、梁田氏が治めていた水海(みずうみ)村(現在の茨城県古河市)で創建されたといいますから、相当古いですね。梁田氏が関宿城をつくるに当たって、一緒にこの地に移築したようです。

 たまたま、この寺で代々住職を務める下河辺氏の奥さんとバッタリお会いし、今の地にある前は、同じ関宿藩内の「江戸町」にあり、ここまで移築してきたということを教えてもらいました。

 昌福寺で有名なのが、上の写真のような不動堂の周囲を飾る木彫りです。

 不動堂は、文化15年(1818年)に建立され、木彫りの作者は、後藤安五郎常善。見応え十分で、お見事としか言いようがありません。

 不動堂は、誰でも入れる吹き曝しの戸外にあり、木彫りなんかも、手で触ればポキンと折れてしまうのに、当時のままあるということは、誰も、子どもでさえも悪戯しなかったということなのでしょう。200年間も無傷のままで生き残っているわけですから、日本人の誠実さには感服しました。

関宿藩が生んだ偉人の一人に、ポツダム宣言受諾した終戦最後の首相鈴木貫太郎(1867~1948)がおります。生まれは、関宿藩の飛び地だった和泉國(今の大阪府堺市)ですが、晩年はこの地で過ごしました。

 明治20年に海軍兵学校を卒業し、日清・日露戦争に従軍し、軍人としては海軍大将、そして軍令部長にまで上り詰めます。当時の海軍は旧薩摩藩が主力ポストを握っていましたから、関宿藩という徳川方の元官軍出身者が大将や軍令部長にまで出世するのは異例でした。本人に軍功があったり、シーメンス事件などで薩摩藩出身の幹部が淘汰されことも影響があったかもしれません。

 鈴木貫太郎は、侍従長だった昭和11年2月26日、青年将校らに襲撃され、数発の弾丸を直接打たれます。この時、妻のタカが「どうか留めはささないでください」と、襲撃隊の最高責任者の安藤輝三大尉に懇願したため、一命を取り留めることができた話は有名ですね。

 終戦時のポツダム宣言を受け入れた時の、大日本帝国最後の総理として鈴木貫太郎は歴史に名前を残しますが、首相在任期間は、昭和20年4月から8月までのわずか4カ月間弱だったんですね。

鈴木貫太郎記念館から歩いて10分ほどに「関宿関所跡」がありました。

 また、映画「翔んで埼玉」に出てきた「通行手形」を思い出してしまいました。

この辺りは、洪水など水害が多かったことを前述しましたが、上の写真のように、川の史跡として「棒出し」がありました。

 棒出しとは、人工的に川幅を狭めて川の水量を調節する石枠で、昭和2年ごろまで使われていたようです。

明治維新になると、徳川方の関宿藩は、肩身が狭くなり、藩士らは大変苦労したことでしょう。

そして、太平洋戦争に敗戦した日本は、戦後、食料危機に見舞われたため、東京にほど近いこの地に、牛乳生産など酪農を推進されます。この推進者が、例の元首相鈴木貫太郎だったと言われています。

 このように、牛さんをたくさん見かけました。顔がデカかった。

関宿城下町は、今では、全く面影もなーーんにもありませんでした。今は、牧場と田畑と菜の花畑が広がっていました。

ここが、かつては関宿城下町だったことが分かるのは、看板だけです。

この辺りに、関宿の藩校「教倫館」があったと説明されています。

「関宿城址」の碑ですが、実際にここに本丸があったわけではなく、本丸は、現在の江戸川の堤防の中にあったようでした。治水のため、区画整理されたためです。

でも立派な石碑です。

ついに、本丸が見えました。

とは言っても、もちろん、後から建てられた鉄筋コンクリート4階建てで、今は「関宿城博物館」として公開されています。

かつての関宿城を模した天守が再現されており、平成7年に開館。

お城近くの公園では、「関宿さくらまつり」が開催され、こうして、「いざ出陣」の儀式が行われました。

戦国武将スタイルで、なかなか様になっておりました。

小ぶりの城ですが、桜に映えてなかなかいい城です。

しっかり、観光資源になっています。


志村けんに似た白塗りの殿様かお公家さんのような恰好した人がおりまして、大いに、ひと際目立ちました。

 関宿は、「水上交通の要衝」と何度も書きましたが、この上の写真を見れば、その実態が分かることでしょう。

 特に近世の物流の基本は、陸路より水路だったことが分かります。例えば、江戸時代の北前船は、北海道の名産を運んできて銚子から利根川を下って、この関宿などを通って、江戸川で江戸にまで物資を運んでいたことでしょう。(銚子を通過して、九十九里を下向して、江戸湾に入るルートは取らなかったようです)

 何で、中山道沿いでも日光街道沿いでもない辺鄙な所にある関宿藩が栄えたかという疑問も、水運、海運のおかげだったことが分かります。街道で物資を運搬するより、川で物資を運んだ方が、より早く、量も多かったからなのでしょう。

 上の写真も見ると、関宿と同じように、当時は辺鄙に見える(失礼!)野田や流山や松戸などは江戸川沿いにあり、まさに、水運で栄えていたことが分かります!

いやあ、天候にも恵まれ、「関宿城址めぐり」は本当にいい旅でした。もちろん、勉強にもなりました。

次回も城跡巡りがあれば参加したいと思っております。陰日向で準備・下見して頂いた関係者の皆様には感謝と御礼を申し上げます。

 そして、参加者の女性陣からはたくさんのお菓子を戴き、遠足のような気分も味わえました。有難う御座いました。

京都「長谷川家住宅」で松岡氏の「在満少国民望郷紀行」スライドショーが開催

少しご無沙汰しておりますが、ご存知、京洛先生です。

桜花爛漫の時季になりましたが、昨日6日午後、貴人の畏敬する松岡將さんが京都にお見えになって、市内南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で、貴人が、渓流斎ブログで再三紹介している彼の自著の一つである写真集「在満少国民望郷紀行」(同時代社刊、本体価格3千円、B5変形上製246頁、カラー頁多数)のスライドショーが開かれました。

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会場の長谷川家住宅は、幕末の「鳥羽伏見の戦い」の舞台になった竹田街道のそばにあり、江戸時代は寛保2年(1742年)に建てられた農家住宅で、下の写真をご覧になればお分かりになる通り、大きな土間を使ってのスライドショーになりました。

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週末の土曜日でしたが、何と50~60人の方が見えて、松岡さんは、現在と昔の満洲の風景、建物の変貌ぶり、それに絡めて、自らの満洲での実体験談を4時間近く、休憩も取らず、喋られました。

とても、その語り口は、80歳半ばとは思えないほどエネルギッシュで、戦前の満洲や、日本軍についても言及、終戦から、命からがら大陸から引き揚げ、帰国するまでの経過、様子を話されました。年齢的に、戦前の在満体験者がドンドン少なくなっているだけに、在満者の“語り部“として、これからも大いに活躍してもらいたいものです。

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 「上映会」のあと、缶ビール、サンドイッチ、シャレたオードブルでの懇親会がありましたが、参加者の中からは「今の学校の授業の歴史は明治維新まで、その後の戦争や昭和や現代の歴史はほとんど触れません。今日は、満洲でどういうことがあったのか、よく分かりました」と松岡さんにお礼を言う人もいました。

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「平成」も残りわずか、来月5月からは「令和」です。昭和20年8月の終戦後に生まれた世代が大半になり、その戦後生まれが「日清、日露戦争」をはるか遠くに感じるように、今度は平成生まれが、満洲事変、太平洋戦争などを、それと同じくらい遠い昔の話になるのは確かです。

残念がら、「語り部」がいなくなると、同じ間違いをまた繰り返すわけで、「懲りない」とはそういうことです。

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悔しいですが、人間は学習など全くしていないし、しないのです。「学習は刹那」です。

以上、京洛先生でした。

映画「バイス」は★★★★

  ディック・チェイニー(1941~)第46代副大統領(78)の半生を描いた映画「バイス」(アダム・マッケイ監督作品)を観てきました。もうちょっと、コメディタッチで、皮肉的に描かれているかと思っていたら、意外にも正統派のドキュメンタリータッチで真面目に描いていました。ドキュメンタリータッチなら、マイケル・ムーア監督ならもっとスパイスを効かせたと思いますので、はっきり言って、その点だけは面白みに欠けていました。

 また、後半部分で、「心臓移植?」のオペシーンなど、日本人としては目を背けたくなる場面も多く出てきて、日本人の監督ならここまで描かないだろうなあ、と、いかにも米国らしい映画に思えました。

 この映画のコピーでは「まさかの実話!アメリカ史上最強で最凶の副大統領」となっていましたが、「最凶」ぶりはあまり感じませんでしたね。しっかり者の妻リンに尻を叩かれて、政界に進出し、権力の実態とその「蜜の味」を知っていくうちに自然に頂点を目指すようになる男の家族の物語に終始しておりました。次女が同性愛者ということで、選挙運動にネックになったりしますが、あくまでも家族として結束する姿が描かれ、これまた米国らしい、米国人が納得しそうなファミリー映画でした。



 この映画は、やはり、主役のチェイニー役を演じたクリスチャン・ベールがいなければできなかったことでしょうね。1963年のチェイニーの20代から60代後半まで演じていますが、体重を20キロも増量したらしく、特殊メイクも5時間ぐらい掛けたらしいので、本物そくりです。クリスチャン・ベールの姿は何処にもいません。(チェイニーが副大統領になった時、75歳ぐらいに見えましたが、まだ、60歳の若さだったので驚いてしまいました)

 そっくりと言えば、パウエル国務長官役の俳優も、ライス大統領補佐官役の俳優も、そして、ブッシュ大統領役の俳優もみんな名前は知りませんが(笑)、本当に「そっくりさん」でした。

 この映画は大いに期待していたので、事前に「予習」をしておいてよかったでした。もしかして、予習しておかないと時代背景は分かっても、裏に隠れた本質は分からないかもしれません。

 「大量破壊兵器」がないことを知りながら、イラク戦争を強行したチェイニー副大統領は、石油サービス会社ハリバートンの最高経営責任者(CEO)だったこともしっかり描かれていました。チェイニー氏はCEOを退任する際に、2600万ドルの退職金をもらい、「自分が想像していたより2倍も多かった」といった台詞が出てきます。

 2600万ドルは、当時でレート(1ドル=116円)で計算すると、30億円ぐらいですか。桁が違いますね。しかし、ハリバートンは、恐らくチェイニー副大統領のお陰で、米軍の食事から洗濯までのサービスを入札なしで獲得しており、イラク戦争後、株式が500%も値上がりしたので、十分に元手は取れたことでしょう。

 チェイニーの妻リンは、世界最大の軍需産業ロッキード社の取締役を務めていたことを予習していましたが、そのことは全く出てきませんでしたね。

 映画ですから、全てを描くことはできませんが、この映画を観ただけでは、何で、学生時代から飲んだくれで、飲酒運転で逮捕され、学業成績も悪く、スポーツ能力もない、平均以下の人物でイエール大学を中退した男が、石油大手のCEOになったり、「影の大統領」と呼ばれるほどホワイトハウスの頂点に上り詰めたりすることができたのか不思議でしたが、調べてみたら、イエール大学中退後は、ワイオミング大学で修士号まで取っており、やはり、後に、国防長官などを歴任するラムズフェルトらと知り合ったことが大きかったように思えました。

 それにしても、世界一の大国で権力を握ると、戦争遂行でも、企業との癒着でも、歴史を変えるほど莫大な力を行使できるんですね。この映画を観て、権力とか、パワーとか言われるものは何かといえば、はっきり言って、結局、「軍事力」だということが分かりました。

ゴーン容疑者は、ジャック・ウェルチGE元会長の真似をしたのだろうか?

 今朝のカルロス・ゴーン容疑者の4度目の再逮捕には驚きましたね。(朝毎読産は都内最終版で、再逮捕の可能性を報じてましたが)

 早朝5時50分、東京都渋谷区の自宅(と、日本の新聞は書かないのに、仏紙は書いちゃってました)に東京地検関係者がまさにゴーン容疑者の寝起きを襲った感じです。NHKのテレビカメラが入ってましたから、当局は事前にマスコミにリークしたのでしょうけど、それにしては、護送車を幕で隠したりして変な「捕り物」劇でした。

 4度目の逮捕容疑は、会社法違反(特別背任)でした。日産の子会社から中東オマーンの販売代理店の預金口座に振り込まれた資金の一部を、ゴーン容疑者が実質保有する会社の口座に送金する形で、2015年~18年、日産に計500万ドル(約5億6300万円) を損害を与えたというものでした。その一部は、家族が遊興する「社長号」と名付けられた豪華クルーザー(約16億円)や息子がCEOを務める米投資会社に流れたのではないかといわれてます。

 ま、私的流用ということですかね。私的流用なら、パリやレバノンなど世界各国の自宅や、ヴェルサイユ宮殿での再婚式などの費用を会社側に負担させていた、等々たくさんの疑惑もあります。

Espagne

 ゴーン容疑者は、どうやら、いまだに日本でも信奉者の多い米GE(ゼネラル・エレクトリック社 )の会長兼CEO(1981~2001)を務めたジャック・ウェルチ(1935~)の手口を学んだ節があります。

ネット情報のウィキペディアなどでは、ジャック・ウェルチについて、「伝説の経営者」とか、「1999年、『フォーチュン』誌で『20世紀最高の経営者』に選ばれ、最高時の年収は9400万ドルにも達した」なぞと英雄視し、ベタ褒めで終わってますが、昨日ご紹介した広瀬隆著「世界金融戦争」(NHK出版)の97ページにはこんなことが書かれています。

 「経営の良質さを誇ったGEにも、収益を水増しする会計操作のあったことが2002年半ばに判明したが、それほど大きな問題として取り上げられなかった。ところが、9月になってウェルチと離婚係争中の妻ジェーンがGE社内の秘密に属する報酬契約について裁判所に詳しい明細を提出したため、ウェルチの私生活が明るみに出た。

 何とマンション代から高級車、ワイン、食事代、旅費、コンピューター、オペラのチケット、ゴルフクラブ年会費、果ては家政婦、洗濯、新聞代まで1500万ドルも会社が生涯負担する契約などが表に出て、経済誌の表紙を飾ったヒーローが、いきなりタブロイト紙の離婚ゴシップ欄で叩かれるまで評判を落とした」

Granada, Espagne

 えーー!?何か既視感(デジャヴュ)を覚えましたが、逆でした。ウェルチGE元CEO の話は、今から20年も近い昔の話でした。ゴーン容疑者の容疑が事実なら、ウェルチ元CEOの顰に倣って同じようなことをしていたことになりますね。

 それとも、莫大な権力とカネを握った者は、誰でも同じようなこと(私的流用)をするということなのでしょうか。

 でも、ゴーン容疑者が莫大な権力とカネを握った背景には、リストラという名の首切りで、職を失った日産とその関連会社の元社員の犠牲があったことを忘れています。こうして、彼の容疑が次々と明るみに出たことは、首を切られた元社員の怨念が爆発したような感じがします。

チェイニー副大統領から、話はケネディ大統領、ドレクセル商会まで飛びました

 変貌自在の「カメレオン俳優」クリスチャン・ベールが 、20キロも増量して第46代副大統領ディック・チェイニーを演じる「バイス」(アダム・マッケイ監督)が今週末の4月5日に公開されるというので楽しみにしてます。

 その予習を兼ねて、広瀬隆著「世界金融戦争」(NHK出版、2002年11月30日初版)を読み返しております。

見沼遊歩道

 チェイニー副大統領といえば、「米史上最強で最凶の副大統領」(映画のコピー)との悪名高く、能力に秀でいないブッシュ(息子)大統領に「イラクは大量破壊兵器を隠し持っている」と嘘の報告書を信じ込ませて、米国をイラク戦争に導いたと言われてます。どれもこれも、自らCEOを務め、大量の株式を保有していた石油サービス会社ハリバートン(米テキサス州ヒューストン)のためだったといわれてます。ハリバートンは、石油や天然ガスなどの採掘から、米軍の食事や洗濯サービスに至るまで幅広く事業を展開し、子会社にこれまた政府や米軍などと密接な関係を持つテクノロジー企業KBR(ケロッグ・ブラウン・ルート)まであります。

 チェイニーの妻リン(エイミー・アダムズが演じる)は、この映画の公式ホームページでは「文学博士号を持つ著述家」で、酒癖の悪い夫の尻を叩いて政界に進出させたしっかり者のように書かれています。しかし、広瀬氏の「世界金融戦争」では、リン・アン・チェイニーは、普通の主婦ではなく、「世界最大の軍需産業ロッキード・マーティンの重役で、保守系シンクタンク、アメリカン・エンタープライズ研究所の幹部を務めていた」と暴露しております。映画ではそこまで描かれているのでしょうか?


見沼遊歩道

 さて、「世界金融戦争」にはあまりにも多くの欧米を中心にした世界の人名と企業が出てきますので、一回読んだだけではとても頭に入りきれません(苦笑)。ドストエフスキーの小説を読むより大変です。

 同書では、ロスチャイルド系のゴールドマン・サックスやメリルリンチ、リーマンなどウォール街のユダヤ資本と石油企業とホワイトハウスが三位一体で利権をたらい回ししている構造を明らかにしてます。

 この本は、2001年の「9・11事件」直後に書かれたので、米国とイスラム資本との対峙も描かれて、なかなか濃密な内容です。私は、学生時代は「イスラム教の預言者マホメット(ムハンマド)は、アラブの商人だった」といった程度しか勉強しませんでしたが、同書によると、ムハンマドを生んだハーシム家は、小規模ではなく、恐らく、日本の三井、三菱、住友、安田財閥を足して数百倍にもしたような超・大財閥だったようで、著者が作成した系図からは、その子孫としてサウジアラビアやイエメン、イラン、インドネシアなどイスラム圏の国王を生んでいたことが明かされています。実に驚きです。

 でも、私自身、頭が悪いせいか、もう既に、ここに描かれている「エンロン事件」も「ワールドコム倒産」などもすっかり忘れているんですからね。情けない。ま、20年前の話ですから、日本人の多くも忘れていることでしょうが…。


見沼遊歩道

 この本が書かれた2002年当時は、現在ほどネット情報が充実していなかったので、著者はよくぞここまで「手作業」で調べたと思います。例えば、「アメリカの政党や大統領で石油利権と無関係の政権は、1870年にロックフェラーがスタンダード石油を創業してから一度も出現していない」と自信たっぷりに書き、関係者の人間関係を明らかにします。

 その内容について、色々書きたいのですが、長くなるので今日は、ジョン・F・ケネディ大統領のことだけ書いておきます。その父、ジョゼフ・ケネディは1929年のニューヨーク株式大暴落の際、事前に持ち株を売り逃げて莫大な財産をつくり、その資金でルーズヴェルトを大統領に押し上げる最大な功労者だったと言われます。

 ルーズヴェルトは、その見返りにジョゼフをウォール街の番人とも言うべき米証券取引委員会(SEC)の初代委員長に任命します。ジョゼフは息子のジョン・フィッツジェラルド(JFK)の結婚相手にジョン・ブーヴィエの娘ジャックリーンを指名します。ブーヴィエの大伯父が、米国の産業界を支配するモルガン商会のパートナー、フランシス・ドレクセルだったからだと言われています。フランシスの弟のアンソニー・ドレクセルがジョン・ピアポント・モルガンとともに、ドレクセル・モルガン商会を設立し、のちにモルガン商会、J・P・モルガン・チェースに発展します。

 また、ドレクセル商会から生まれた投資銀行がドレクセル・バーナム・ランベールです。バーナムは、証券ブローカーを経営していたアイザック・バーナムのこと。そして、残りの共同創業者の一人、ランベールは、リュシー・ロスチャイルドと結婚したベルギーの男爵レオン・ランベールの孫だったと言われてます。

 同書では、このようなユダヤ系のウォール街の金融マフィアたちが、インサイダー取引や政界工作などで巨万の富を築く話が描かれ、さらに、後に逮捕されるアイヴァン・ボウスキーやマイケル・ミルケンといった超大物投機家も登場しますが、話が複雑になるのでこの辺でやめておきます。

また、次回ということで。