高野山の修旅=如是我聞(中)ー「奥之院」には戦国武将がずらり

高野山のシンボル、壇上伽藍の根本大塔

 昨日書いたブログ「高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済基盤」は、資料整理や何十枚も撮った写真の選別、執筆、校正等で8時間以上も掛かってしまいました。

 まさに、「一日仕事」でした(苦笑)。運良く今日は「海の日」の祝日なので、残りは、部屋に籠って仕上げてしまいましょう。

 ツアーに一人で参加した男女5人は、宿坊「天徳院」で、朝晩、同じ部屋で一緒に食事をすることになり、知らぬ同士がお皿叩いて、色んな話に花が咲きました。

 ツアーは決して安価ではなかったので、皆さん裕福な上流階級風で、国内も海外もかなり旅行されている感じでした。やはり、寺社仏閣に興味がある方が多く、中には「御朱印帳」を持って集めらている方もおられました。

 私はコレクションの趣味もないし、御朱印にも関心がないのですが、寺社仏閣どこでも一件に付き300円だそうです。しかし、浄土真宗系の寺院は、御朱印はないそうです。さすがに書かれる字は達筆な方が多いのですが、奈良の東大寺はあまりにも人が多いので、高校生のアルバイトでも使っているらしく、下手な字で、「俺にも書けそうな字でしたよ」と、参加者のお一人が言うので、私も思わず笑ってしまいました。

2日目の7月12日(金)、最初に訪れたのが北室院(きたむろいん)でした。

 ここは伊達政宗の菩提寺で、御位牌がありました。宿坊にもなっています。

 続いて訪れたのが、蓮華定院(れんげじょういん)。信州真田家の菩提寺です。

 3年前の2016年に放送された大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方は覚えていらっしゃると思いますが、関ケ原の戦いで西軍について敗れた真田昌幸、幸村親子が高野山蟄居を命じられ、滞在した寺です。東軍についた幸村の兄信之の助命願いが通ったからでした。

高野山は寒いの蓮の花は育たないので、一度、麓で育ててから運んで来るそうです=蓮華定院

 案内をしてくれたのは、剃髪していない若い現代風の尼僧さんで、ドラマ「真田丸」が放送される半年ほど前に、主役の堺雅人と夫人の菅野美穂がお忍びでこの寺を訪れたことを話してくれました。

 当時、寺社仏閣に油をかける事件が多発してから、この寺も一般の入場者を禁止することにしたそうです。そんな折、マスクをしてサングラスをかけた怪しげなカップルが是非拝観したいと訪れます。尼僧は「これは危ない」と思い、後ろから監視するためについていき、薄暗い本堂に入って、二人がサングラスとマスクを外した時、初めて有名俳優だと分かったというのです。

 蓮華定院の住職は、当時、真言宗の宗務総長を務め、高野山のナンバーツーの地位にあり、大変忙しい人でしたが、たまたま、院内にいらしたのでお声掛けしたところ、3人で2時間近くも歓談したそうです。

 それから半年後、「真田丸」の配役が発表され、主役の真田幸村役に堺雅人がなることを初めて知り、尼僧さんは「あの時、住職に引き合わせて良かった」と安堵したそうです。

 我々にも、「特別に」ということで、阿弥陀如来が安置されている例の薄暗い本堂まで案内してくれました。

 蓮華定院の裏にある真田家の墓地です。御覧の通り、鳥居があります。前回も書きましたが、当時は、神社と寺院が融合した「神仏習合」が普通だったのです。

 実は、真田昌幸、幸村は、高野山蟄居14年間中、蓮華定院に滞在したのはわずか1年ほどで、ほとんど麓の九度山で家族、家臣と一緒に暮らしたそうです。

 それでも蓮華定院内には至るところに、真田家の紋章である「六文銭」と「雁金」がありました。

続いて訪れたのが、金剛峯寺です。前夜に続いて二度目ですが、中の本堂にまで入るのは初めてです。

 この日は、高野山の重要な行事である「内談義」が行われ、偉い方も登壇されました。

 上の写真は、最高位の管長さんで414世だとか。ガイドさんの説明では、成就院の住職だということですが、聞き間違えかもしれません(苦笑)

 上の写真が、高野山のナンバーツーに当たる法印さんで、弘法大師さまの名代として年に1回務めるそうです。

 取材が甘いので(笑)、お名前は割愛させて頂きます。

 前回書きましたように、金剛峯寺は、高野山の総本山ではありますが、寺務所であり、真言宗の宗務所を兼ねているわけです。

 金剛峯寺(僧侶の間では、「こんごうぶじ」ではなく「こんごうぶうじ」と発音するそうです)は、元々、青巌寺(せいがんじ)と称し、豊臣秀吉が文禄2年(1593年)に母堂の菩提寺として応其(おうご)上人に命じて建立したものでした。

 あの関白豊臣秀次が高野山に追放されて、秀吉の命によって自害したのが、この青巌寺の「柳の間」でした。

 明治2年(1869年)、隣接する興山寺と合併して、寺号を金剛峯寺と改めたわけです。

 中庭の「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」は、国内最大の石庭だとか。

 本堂の広間では、このように僧侶による有難い講話を聞かせて頂きました。お茶と茶菓子付きです(笑)。

 真言密教の教義である「即身成仏」とは、生きているままで、仏になることですが、これは、優しい慈悲の心である仏性(ぶっしょう)に気づいて、それを大きくすることだと説かれていました。

 そして、僧侶は「毎日、感謝の気持ちを持ちましょう。日記の最後に感謝できることを付け加えるとお金が溜まります」と意外にも俗っぽいことまで話してました。

 とはいえ、毎日感謝の気持ちを忘れないと、我欲が減り、自制心が抑えられ、無駄遣いが減り、日常生活の中での文句も減る。一つ良いことを考えると世界全体が良くなる。因果応報です、などと力説されておられました。

 昼食休憩の後、いよいよ「奥之院」に向かいました。

 その前に、現地女性ガイドさんも結構ミーハーで(失礼!)、先日亡くなったジャニー喜多川さんの戒名の写真までスマホに収めていて、ジャニーさんの御尊父が修行していた寺は、普賢院であることまで教えてくれました。

 付け加えるまでもなく、ジャニーさんの御尊父が、米ロサンゼルスにある真言宗別院の住職を務めた関係で、ジャニーさんはロサンゼルス生まれだったのでした。

 華やかな芸能界で大成功したとはいえ、ジャニーさんは偉ぶることなく裏方に徹したのは、真言宗の影響があったのかもしれません。

武田信玄・勝頼墓所

奥之院は、入り口の「一の橋」から、弘法大師入定の地である「御廟(ごびょう)」まで約2キロ。皇族から諸大名、宗教家、文人に至るまで、墓、供養塔、慰霊碑など20万基を超えると言われています。

 ガイドさんの説明では50万基でした。

 樹齢何百年の杉などの樹木に囲まれ、とても静謐な雰囲気で、歩いているだけで霊感を感じるほど気持ちが洗われます。

上杉謙信廟

 私自身は、テレビの「ブラタモリ」を見て、初めて、戦国武将らの墓や供養塔があることを知り、是非とも訪れたかったのでした。

石田三成墓所

 私は個人的に、城好きですから、ほとんどの戦国大名が、高野山に墓所や供養塔があることに驚かされました。

明智光秀墓所

 本能寺の変を起こした明智光秀の墓所まであります。「主君を裏切った者」として、墓所設置には反対する方もいて、紆余曲折があったことを漏れ聞きました。

筑後久留米有馬家墓所

 我が高田家の御先祖さまが仕えた久留米藩の当主有馬家の墓所までありました。

法然上人墓所

浄土宗の開祖源空法然上人(円光大師)の墓所まであるとはこれまた吃驚です。

織田信長墓所

何と織田信長の墓所までありました。比叡山延暦寺を焼き打ちした信長は、高野山も焼き打ちする計画でしたが、本能寺の変で命を落とし、実現できませんでした。

 高野山にとっては、信長は「敵」に当たるので、どうして、ここに墓所があるのか謎なんだそうです。

 お隣にあるのが筒井順慶の墓ですが、何故隣にあるのか謂れは不明のようです。

護摩堂

 前回、高野山には注連縄が少ないと書きましたが、その理由は、高野山は高地のため稲が育たないからです。稲がないと、注連縄の原料である藁がないということです。

 そこで、注連縄の代わりに上の写真にある白い紙が三枚、高野山のどこの寺院でもぶら下がっています。これらの切り紙は「宝来」と呼ばれ、「宝殊」「寿」「干支」の三種類があるといいます。

御廟橋(ごびょうばし)

御廟橋から先は撮影禁止です。

この一番奥に「弘法大師御廟」があります。宝亀5年(774年)6月15日、讃岐(現香川県善通寺市)生まれの空海(幼名は佐伯真魚=さえき・まお)は、承和2年(835年)3月21日、満60歳で地下3メートルの深さにある岩屋の室に籠って、入定(にゅうじょう)されます。その86年後の延喜21年(921年)、醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。

 入定というのは、衆生の苦難救済のために修行を重ね続けるということなので、真言宗の信徒にとっては、まだ大師さまはご健在ということです。ですから、毎日、朝の6時と10時半の2回、お食事(「生身供(しょうじんぐ)」)をお持ちするというのです。1200年近く続いているのでしょう。

 私たちも地下3メートルの室にまで行ってお参りしてきましたが、自然と涙が溢れ出てきました。弘法大師の偉大さを肌身で感じることができました。

豊臣秀吉供養塔(手前ではなく奥)

御廟をお参りする直前に、織田信長の墓所を訪れたので、ガイドさんに「秀吉や家康の墓所はないのですか」と質問したところ、「家康は神さまになったので日光で祀られてますからここにはありません」という答えでした。

 それなら豊臣秀吉の墓所に案内してくれるのかと思ったら、違う道を迂回して、遠目でしか見えない所にしか連れて行ってくれませんでした。

 それには理由があって、迂回路に売店があって、そこだけしか売っていない弘法大師像のお守り(3000円)を売りたいがためでした。マージンを貰っているからでしょう。

 別にマージンを貰っていようが構いません。ビジネスですから大いに結構。でも、もし、ちゃんと豊臣秀吉の供養塔まで案内してくれていたら、私も気分良く大師さまのお守りを買ったことでしょう。

奥之院の後、親王院まで連れて行ってくれました。バスなので移動が楽です(笑)。

 親王院は、空海の弟子真如(高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家)が創建した寺で、高野山の中でも最も古い寺の一つだそうです。

 真如親王は、前回、壇上伽藍の「御影堂(みえどう)」を書いた時に出てきました。御影堂には、真如の筆と伝えられる空海の御影が奉納されていましたよね。

伊藤若冲=びっくりしてピンボケ

 親王院は、宝物の宝庫で、かの伊藤若冲の絵画が無造作に置かれていたりするのです。案内してくれた尼僧の住職さんは冗談好きで、後継ぎの息子さんが、護摩焚きなどの仕事熱心なのはいいが、いまだ独身。「はよ、お嫁さんもらってもらわんとかなわんわ」と、心配しておりました。

 高野山の中で最も古い建造物とあって、本堂はいまだに電気が通っておらず、真っ暗で、ろうそくの火だけが頼りでした。

 国宝級の不動明王など数々ありましたが、届け出て、国宝などに指定されたりすると、温度湿度管理やらが厳しく、挙句の果ては、博物館に持って行かれてしまうからに、と尼僧さんはボヤいておりました。

霊宝館

 ツアーは午後3時半で解散となり、時間が余ったので、一人で、宿坊「天徳院」から歩いて7,8分のところにある「高野山霊宝館」(600円)に行って来ました。大正10年(1921年)に出来た日本最古の木造博物館だということです。

「両界曼荼羅」の大きさには圧倒されました。このほか「大日如来坐像」「弘法大師坐像」など国宝、重文級のものが多く展示され、一見の価値がありました。

高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済的基盤

一生に一度は、死ぬ前に必ず訪れてみたい地が高野山でした。空海(774~835年)が弘仁8年(817年)に開いた総本山です。(その前年の816年に嵯峨天皇より高野の地を賜った)

 今回は偏見を持ちたくなかったので、なるべく予備知識を得ないで、白紙の状態で行ってみることにしました。高野山は秘境なので、個人で行くには手間と時間が掛かってしまうので、某旅行会社のパックツアーに単独で潜り込むことにしました。(個人ではなかなか行けない所に特別に?連れて行ってもらったので、これは正解でした)

 事前に勉強しなかったとはいえ、俗世間に染まってウン十年、俗説やら伝説やらフェイクニュースなどが頭に詰まってますから、なかなか素直になれません(苦笑)。それに、私自身は、初詣に行って、クリスマス・ケーキを食べ、葬式は仏式という典型的な現代日本人で、真言宗の信徒ではありません。真言宗は、密教(秘密仏教)ですから、他宗派の人間からは伺い知れないことばかりで、どうも、護摩焚きにしろ、空海上人が手に持つ三鈷杵など武器のように見えて、どんな用途があるのか知らず、何か恐ろしそうです。

 特に、真言宗でよく使われる梵字が「よく読めない!!」(笑)

丹生都比売神社

でも、今回は目から鱗が出る話ばかり見聞することができました。

 意外にも、真言宗は、どんな宗派に対しても寛大で、例えば、戦国武将らの墓や供養塔がずらりと並んでいる「奥の院」は、信徒でなくて、他宗派でも、そしてキリスト教徒でも敷地を買うことができるのだそうです。(座布団大の大きさで70万円、最低その4倍の面積が販売可能だとか)

 また、「南無大師遍照金剛(なむだいし へんじょう こんごう)」と唱えるだけで、他宗派の人間でも、空海弘法大師さまのご慈悲に縋りつくことができ、苦難から救いの道に導いてくれるというのです。

 有難い話です。

 ということで、今まで書いてきたことも、これから書くことも、参加したツアーの添乗員さんやガイドさんや講話などをしてくださった高野山の僧侶らから聞いた話をまとめたものです。まさしく如是我聞です。

 聞いただけの話ですから、漢字が分からなかったり、年代があやふやだったり、矛盾したりして、また色々調べ直したりしなければなりませんでしたから、相当時間も掛かりました。(例えば、年齢も満年齢にしたりしました。)用語統一のために、文献は主に、お寺のパンフと現地で買った「高野山ガイドブック」(ウイング出版部、540円)を参考にしました。

 このブログの中で、固有名詞や数字の明らかな間違い等がありましたら、ご遠慮なく、コメントして頂ければ幸甚です。すぐ訂正します(笑)。ただし、聞いた話も諸説ある中の一説かもしれませんし、私が聞き間違ったか、史実として正しくない話かもしれないこともお断りしておきます。いや、そんな大した話は書けませんけどね(笑)。

丹生都比売神社

 ツアーは7月11日(木)から13日(土)までの2泊3日でした。お蔭様で、3日間で高野山を満喫することができました。ギリギリ、オフシーズンだったせいか、人も閑散としていて、さすがに聖地ですから、斎戒沐浴と森林浴で心が洗われました。本当に、娑婆世界の周囲の白眼視を乗り越え、振り切って、思い切って行ってよかったでした。

 高野山は、平成16年(2004年)、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。また、平成27年(2015年)には高野山開創1200年を迎えました。(本来なら開創1200年は、2017年だと思いますが)

 初日の11日(木)、最初に訪れたのが、その世界文化遺産にも登録されている高野山の麓にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)でした。正直、事前勉強をしていなかったので、この神社のことは知りませんでした。ですから、何で、この神社を最初に参拝するのか意味が分かりませんでした。

 しかし、それは、とんでもない浅はかで、高野山、そして空海にとって、なくてはならないとても重要な神社だったのでした。

 その理由は、勿体ぶってますが、最後に書きます(笑)。丹生都比売のことは覚えておいてください。

大門

 高野山は標高約900メートル。ですから、下界よりも気温が2~3度低い感じでした。夏でも涼しい。冬は雪も降り、猛烈に寒いらしいですね。

 高野山は東西6キロ、南北3キロの広さに現在117の寺がある寺町です。このうち、52寺が宿坊といって民宿のような宿泊所になっています。

 江戸時代は、1000以上の寺があったそうです。寺の庇護者は各藩の大名です。明治になって、大名が没落し、廃仏毀釈などもあり、寺は10分の1ぐらいに減少したのでしょう。そして、庇護者がいなくなった後は、寺は宿坊として「経営」を支えざるを得なくなったと思われます。

 大門は、高野山の西の入り口で、昔は「女人禁制」でしたから、この門から先は女性は入れなかったわけです。

 大門の左右に設置されている金剛力士像は、奈良の東大寺に次ぎ、日本では2番目の大きさだそうです。

 驚くことに、この大門は、日本古来の建築方式で、礎石の上に柱が乗っているだけだとか。湿気を防ぐためらしいです。乗っているだけなので、強風が吹くと数ミリ程度、動くそうです。

 大門を背にして麓を眺めると、運良く、遠くに淡路島が見えました。

 高野山は和歌山県ですが、淡路島が見えるとは本当に驚きです。

 二晩お世話になった宿坊「天徳院」の隣は、高野山大学でした。真言宗の僧侶になるには、この大学が最高峰ということになるのでしょう。

天徳院

 宿坊「天徳院」の入り口の門です。立派です。注連縄がありますよね。これは、実はとても珍しいことなのです。寺院なのに、神社みたいな注連縄はおかしい、という意味ではありません。

 高野山が創建された弘仁8年(817年)の頃は、仏教が伝来(538年)して300年近く経過し、寺院と神社との融合、つまり「神仏習合」は当たり前だったのです。寺院に注連縄があることは珍しくありません。これは、明治の廃仏毀釈まで続きました。

 それでも、高野山は、ある事情で注連縄が珍しく、それに代わるものが考案されたということです。その具体的なお話は後の回に致します。

天徳院 庭園

 天徳院は、元和8年(1622年)に加賀前田藩三代目当主利常の夫人天徳院の菩提のために創建されました。

 天徳院は、二代将軍徳川秀忠の次女で、外様大名だった前田家が、徳川家との縁戚を結ぶために、3歳で嫁として迎えましたが、わずか24年で生涯を閉じました。天徳とは、「徳川を天として崇める」という意味が込められている、と若い当代住職が教えてくれました。

 庭園は、かの有名な小堀遠州の作庭だということで、立派なものでした。天徳院は、最大110人が宿泊できる広大な宿坊ですが、我々が泊まった時は、ツアーに一人で参加した昔若かった男女5人(他のツアー複数参加者25人の宿坊は「福智院」)と、どこかの夫婦(1泊)だけでしてから、それはそれは広々としてました。

 こんな素敵な庭が目の前で眺められて、「VIP待遇」と喜んでいたところ、この庭の池に主のように何百年も棲みつく、石川五右衛門も吃驚するような大きな蝦蟇が、一晩中、「ゲー、ゲー、ゲー、ゲー」と、どでかい声で鳴き通すので、夜はあまり眠れませんでした。

初日から、高野山のどこかの寺院の住職さん、稲葉さんと仰ってましたが、彼の案内による「壇上伽藍ナイトツアー」が催されました。夜7時前出発でしたが、御覧の通り、まだ明るいのです。

 高野山の総本山金剛峯寺の通路には、桶が並んでいますが、翌日行われる「内談義」に備えているそうでした。昔は、この桶は、馬用の盥だったようです。あと、高野山は、何度も何度も、火災(落雷によるものと、蝋燭の不始末など)に遭ったため、防火水槽ようとしても使われたようです。

 金剛峯寺については、二日目に再度取り上げます。

 いよいよ、伽藍に到着です。空海が「曼陀羅」を具象的に配置したと言われ、高野山の修行道場の中心地です。えっ?金剛峯寺が総本山の中心じゃなかった?はい、金剛峯寺は、高野山全体の寺院の総合寺務所であり、真言宗の宗務所でもあるのです。詳細は、2日目の話に書きます。

 上の写真の手前が東塔、遠くに見える朱色の塔が、今や高野山のシンボルになっている根本大塔(こんぽんだいとう)です。

 根本大塔については、三日目のお話の時に、また書きますが、内部は金剛界曼荼羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手を輪のようにする胎蔵界大日如来です。

 上の写真の右が朱色の根本大塔、左が「金堂(こんどう)」です。空海が伽藍の造営に当たり、最初に建立したもので、当初は「講堂」と呼ばれていました。

 しばしば火災に遭い、現在の建物は、昭和7年(1932年)の再建。

金堂の近くにあるのが、御影堂(みえどう)です。空海の弟子真如親王 (高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家) の筆と言われる「大師御影」が奉安されていることから、最も重要なお堂で、高野山の寺院の住職による輪番で、ここでは1年365日欠かさず、お経が挙げられています。

 隣の金堂が火災に遭った際、火の粉が飛んで延焼を防ぐために、当時は柱などに味噌を塗ったそうです。

現在は、周囲に水を張り巡らせ、周囲の地中に消火ホースまで用意されています。それだけ重要だということです。

西塔

 上の「西塔」は、「根本大塔」と対をなすものです。根本大塔の内部が、金剛界曼荼羅を表すなら、この西塔の内部は、胎蔵曼陀羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手は印を結んだ金剛界大日如来です。

 不思議です。案内役の稲葉さんは、「逆ですね」と仰ってましたが、その理由は明確ではないのか、説明されませんでした。

御社(山王院本殿)

 「御社」と書いて「みやしろ」と読みます。

 ここで、初日にしていきなりハイライトというか、大団円というべきか、私が日頃から疑問に思っていたことを解決してくれるお話を、案内役の稲葉僧侶が教授してくれました。

 それは経済的基盤です。空海は大学を中退して厳しい修行を経て、20歳で出家します。その後、延暦23年(804年)、唐の国に私費留学します。この時、同時に国費留学したのが、後に天台宗を伝える最澄でした。

 当時30歳だった空海はまだ無名の若者でしたが、唐の都長安では、密教の権威だった恵果和尚(けいか・かしょう)に師事し、1000人に及ぶ弟子の中で空海の成績は首席という稀にみる天賦の才能を認められて、20年の留学期間をわずか2年で終えて帰国します。帰りには、写経した膨大な量の経典や、数珠や三鈷杵など多量の仏具などを日本に持って帰ります。

 でも、単なる私費留学生だった無名の若者に、そんな経典や仏具を買う財力があったのでしょうか? 

その答えを解明してくれるのは、この御社(みやしろ)です。空海が伽藍開創に当たり、最初に鎮守神社として建立したものです。

 ここには、丹生都比売(にうつひめ)と高野明神が祀られています。丹生都比売は、このブログの前半に出てきた丹生都比売神社の祭神でした。一説には天照大御神の妹といわれています。

 問題は、高野明神です。案内役の稲葉僧侶によると、最近の研究成果によると、この高野明神のことが分かり、本名が丹生(にう)という金属精製技術を持った中国からの渡来人だったというのです。

 そして、どうやら、今ある丹生都比売神社辺りで金が採掘できたらしく、丹生氏は、空海のパトロンになって、空海が唐に私費留学する際に、そこで採れた金塊を与えたのではないか、というのです。

 これで、空海の経済的基盤が分かりました。以前、寺社仏閣研究家の松長氏から、高野山にしろ、身延山にしろ、宗教家が、人里離れた山奥に総本山を建立するのは、そこは金山だったり、銀山だったり、何らかの鉱物資源があることを霊力で見抜いていたからではないか、という説を唱えていましたが、見事、合致したわけです。

 伝説では、空海が高野山を発見したのは、白と黒の二匹の紀州犬に導かれて到達したとか、長安から投げた三鈷杵が、高野山の伽藍の松(後に「三鈷の松」と呼ばれ現存)に引っ掛かったから、といったものがありますが、実際は、全国を渡り歩いているうちに有力なパトロンである丹生氏に会うことができたから、というのが、史実として有力だと思われます。

ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

WTナショナルギャラリー Copyright par Duc de Matsuoqua

インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

稲川会石井会長の素顔

 裏情報に精通した名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「渓流斎さんに相応しい本がありましたよ。いつも、かたーい本ばかり読んでおられるようですから、たまには息抜きして、気分を変えてみたらどうですか」と仰るのです。

 「何の本ですか?」と尋ねると、石井悠子さんが書いた「巨影」(サイゾー)という本でお父さんの思い出を書いた本だというのです。「ただし…」と篠田先生は一呼吸置いた後、「この手の本は、図書館に置いていないですよ。ご自分で買うしかありませんよ」とまで仰るではありませんか。そして、こちらの質問を遮るようにして、「著者の悠子さんのお父さんというのは、広域暴力団稲川会の二代目石井隆匡会長ですからね。今、吉本興業のお笑い芸人が闇営業したとか騒いでますが、そんな芸能人と暴力団との関係は昔からあったこと。大物政治家と石井会長との関係とか、この本を読めば出てきますよ」

 そこまで言われてしまえば、買うしかありません。ということで、昨晩から少しずつ読み始めました。

 娘から見た父親像ですから、拍子抜けするほど、何処にでもいそうな子煩悩で、娘思いの優しい優しい家庭人なのです。しかも奥さんには全く頭が上がらない恐妻家ときてますから、ずっこけてしまいます。

 勿論、娘は、父親の外での血と血で争う抗争や、激烈なしのぎの世界を直接見ていたわけではないので、石井会長のほんの一部分しか描かれていないことになりますし、娘から見た単なる「贔屓目」かもしれません。讃美してはいけないし、血なまぐさい話も出てこないので、勘違いしてしまいますが、少なくとも世間知の低い人には、この本を読めば「世の中はこのようにして出来ているのか」と分かります。

 特筆すべきは、竹下登首相と金丸信副首相が実名で登場することです。当時の石井会長は「裏総理」と呼ばれ、赤坂の東急ホテルのラウンジで会って、2人に助言し、采配を振るっていたことが書かれていました。2人の付き添いに小沢一郎氏もいたことが間接的に書かれています。間接的というのは伝聞ということで、証言したのは当時、石井家と懇意にしていた女子高生だったYさん。彼女は、霊感が強く、未来を言い当てることが得意だっため、山梨から上京して、ホテルで同席して見聞したことが描かれています。

 一国の政策を決めるのに最高権力者の宰相が、女子高生の話も参考にしていたとは驚きでした。

 また、石井会長の横須賀の自宅に、会長のいない隙に昼間から入り浸って、高級酒を呑んで引き上げていく怪しいおじさんが、何と、県警のマル暴担当の刑事さん。著者の悠子さんは、車でスピード違反を犯した時に、この刑事さんからもみ消してもらったことをあっけらかんと書いてました。警察と暴力団との関係が分かります。

 組織関係ですから、結束のために、納会やら新年会やら誕生会やらの宴席が欠かせません。そこに招待されるのが、芸能人です。著者の悠子さんは、あまりテレビを見なかったので、芸能人をあまり知らなかったのですが、ある大物フォークシンガーM・Cから「悠子は俺のこと知らないのか」と呼び捨てされたことを暴いていました。

 実名の芸能人も出てきます。石井会長はマヒナスターズがお気に入りだったようです。ほかに、おネエ言葉を話す歌手のM・Kとその物真似をするK。女性物真似のS・Mは、本物を目の前にして緊張して笑いが取れず、拍手もないまま、青ざめた顔で舞台から下がったことも書かれています。

 裏事情に詳しい篠田先生に、このイニシャルの芸能人は誰なのか聞いてみたら、スラスラと答えてくれました。そして、「今はユーチューブで検索すれば、何でも出てきますよ」と仰るので、見てみたら、昔の超人気アイドルや、お笑いの人、国際的な映画俳優まで組織の宴会に招待されて祝辞を述べていました。

 私も30年ほど前に芸能記者をしていたので、そういう話は聞いていましたが、ネット時代になり、「証拠映像」を見ると、さすがにショックでしたね。あの人も、えっ?あの人もかあ・・・という感じです。

 ちなみに、「経済ヤクザ」と言われた石井会長は、海軍兵学校を出たインテリで、堅気の人に対しては物腰が柔らかく、声を荒げることなく紳士的だったらしいです。私も昔行ったことがある銀座ナインの地下の「麦とろ飯」屋さん(今はない)が石井会長のお気に入りで、よく顔を出していましたが、会社の重役か大学教授にしか見えず、店主は何年も経ってから初めて、石井会長だったことを知ったといいます。これも篠田先生から聞いた話です。

 マフィアとの交流の話も面白かったですが、長くなるのでこの辺で(笑)。

百花繚乱の参院選

 よどみに 浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 

 ということで、今日は7月21日投開票の参院選についてー。

 参院選が終われば、どうってことないお話で、読み返されることはなく、久しくとどまることがないお話です。

 参院選立候補者の顔ぶれを見たところ、色んな方がいらっしゃいます。医者、弁護士、公認会計士、前地方知事、前地方議会議員、大学教授、デザイナー…ま、いいでしょう。

 元ホステス? どんな方でしょう?この方、結構有名な方で、銀座8丁目の高級クラブ「J」のナンバーワンだったとか。「筆談ホステス」という御著書も出版され、区議会の議員もやっていた人でした。

銀座5丁目

 私の職場から歩いて行ける高級クラブ「J」は、明朗会計で、セット料金お一人様3万5000円。サントリー山崎のボトル4万円。「料理」として大々的に公式HPに掲載されているのが、あたりめ4000円、チョコレート盛り4000円など。ホステス様とは、その前に系列店で食事しなければならないので、一晩で37万円ぐらい掛かるようです。安い!今度行ってみますか。(と書いておきます。)

 元国民的アイドルグループのメンバーだった方も立憲民主党から立候補していますね。4人のお子さまを持つお母さんの目線で立候補したそうですが、 彼女にどんな政治理念と政治哲学があるのか興味があります。 元アイドルを押す立憲民主党も有権者に対して何を考えているのか興味あります。

 立憲民主党からは、「恋のから騒ぎ」出身の元グラビアアイドルで、都議会議員の時代に名を馳せた方も立候補されています。また筑波大学付属駒場高~東大法学部~朝日新聞政治部記者の経歴を全面的に押し出している方も立候補してますね。

 東京ではあの野末陳平さんが無所属から立候補していたことには驚きました。御年87歳。歳月日々に疎し。若い人は知らないでしょうね。

 政府自民党は、森永製菓と講談社「ViVi」が全面的に圧倒的な支援をしているので、詳細は略します。

 立候補者が公示された新聞を見たとき、「N国党」とか「安死」とか見慣れない諸派政党がありました。これで、政治に関心ないことがバレてしまいましたね(苦笑)。

 「安死」とは、「安楽死制度を考える会」のこと。北海道から福岡まで全国で10人が立候補しているようです。

 「N国党」とは、「NHKから国民を守る党」のことで、NHKの受信料制度を改廃することを公約に掲げています。今回37人も立候補することから、天下のNHKも、この党について真面目に放送しなければならず、アナウンサーが真面目に党名を言うたびに失笑したくなります。確かに、最近のNHKは、吉本系のお笑いタレントやジャニーズ系のイケメンを番組に多く登場させて、民放と変わらなくなりましたから、受信料に見合う存在意義はないでしょう。

 ネット社会となり、「N国党」を検索すると、早くも離党や除名の話題が囁かれています。

 かつて、政党広報は、厳しくメディアで規制されていましたが、ネット社会になると、規制しようもなく、それに乗じて、自民党も-活字媒体の雑誌にも進出するようになったのかしら?まあ、識者によると、党幹部が期待するほど宣伝効果は薄いらしく、何と言っても、投票率そのものが低いわけですから、どれほどの影響力を持つのか不可知です

 あの人工知能(AI)専門家の新井紀子氏がテレビ番組で「若い人たちの読解力の低下は目に余るほどで、そんな人たちが、選挙公報を読み説く力があるのでしょうか」と心配してましたが、見ていた私は「そこからですか?」と思わず突っ込みたくなりました。

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。

アンダークラスが国を滅ぼす?

 世間の皆様は、職場や喫茶店や居酒屋などでどんなお話をされているのか、見当もつきませんが、私の周囲は、私に似て(笑)真面目な人が多いせいなのか、政治や経済、社会問題についてばかり話題にします。例えばー。

 「参院選の焦点は、憲法改正ではなく、非正規雇用や年金問題でしょう」

 「今注目されているMMT(現代貨幣理論)は、昭和の高橋是清財政と共通点があるのではないか?」

 「毎日、日替わりメニューのように、高齢ドライバーによる死亡事故と幼児虐待のニュースが続いているなあ」

 といった感じです。馬鹿馬鹿しい、浮いた話はありません(笑)。

 A型日本人のインテリの典型なのか、非情にペシミスティック(悲観的)で、聞いている私も暗い気持ちになってしまいます。

 例えば、今、「アンダークラス」という階層が、社会問題になっていて、将来も経済財政問題に発展するだろうという悲観的予測です。

 アンダークラスというのは、現在30代後半から40代にかけての団塊ジュニアと呼ばれる世代に多く、彼らは「超就職氷河期」でなかなか正社員になれなかった世代です。いわゆる非正規雇用ですから、年金積み立てを払うのも苦しい。つまり、年金を支える世代なのに、納められないとなると、年金制度そのものが破綻する恐れがあるというのです。しかも、非正規雇用者が高齢になると、収入がなくなり、年金も貰えないので生活保護の対象となり、国家財政の負担も莫大になるというのです。

 今は、大企業が、非正規雇用者を安い賃金で使って、内部留保を溜め込んでも、将来は社会全体が機能しなくなるという悲観的予想です。

 彼は、社会全体の問題なら、政治問題にしなければならず、例えば、非正規雇用者が余裕を持って年金積み立てが支払えるように正社員にするべきではないかというのです。

 もう一人は、災害問題です。今はまだ動けるのでいいが、これから30年以内に関東大震災クラスの大地震が必ずやってくる。そんな時、80代を過ぎていて、身体が動けなかったりしたらどうしたらいいものか、東京から引っ越すべきか、心配で夜も眠れないというのです。

 いやあ、確かにその通りですが、それを聞いて私なんか「杞憂」という言葉が浮かんできました。メディアでは「人生100年時代」と、何とかの一つ覚えのように囃し立てておりますが、誰もが80代まで長生きできるとは限りませんからね。

 その方は、最近、人口知能(AI)にも凝っていて、将来、AIによって、今の50%仕事が25年以内になくなるという予想を信じ込んでおり、仕事を追われて、職業がない、社会に役立たない連中は「不要階級」と呼ばれるんだよ、と目をキラキラさせて開陳するのです。

 ハラリの「ホモ・デウス」からの引用らしいですが、人間を役立たずの不要階級に分類するなんて、あんまりですよね?

 インテリさんと話をしていても気分が暗くなってしまうし、面白くないなあ(苦笑)。

 だから、賢い世間の皆様は、政治や社会に関心がなく、参院選にも行かず、行っても、「他の党より良さそうだから」という気分で選んだり、芸能人のスキャンダルに喜んだり、電車の中でスマホゲームに熱中したり、原宿の人気店のタピオカを並んで買ったりしているんですね。

 そりゃあ、暗い気持ちになれるはずがない。。。

 

童話「オズの魔法使い」は経済書だった?

 最近、いろんな本を読んでいると、これまで長く生きていながら、知らなかったことばかり見つけます。

 例えば、万有引力の発見で知られる英国のアイザック・ニュートン。彼は、科学者だとばかり思っていたら、実は経済とも関係があり、英国造幣局の長官を務め、1717年に金と銀の価値比率 を1:15.21とする「ニュートン比価」を定めた人だったんですね。(ただし、ニュートンは市場の銀の金に対する相対価値を見誤ったようで、その後、英国を金本位制に移行する要因にもなったとも言われています)

 もう一つは、世界中の子どもたちが一度は読んだことがある童話「オズの魔法使い」です。1939年に、ジュディー・ガーランド主演で映画化され、知らない人がいないほどの作品です。

 それが、実は、子ども向けの童話ではなく、様々なことが隠喩、暗喩された経済書として読めるというお話なのです。何しろ、オズOZとは、金の重量の単位オンスと同じですからね。知らなかった人はビックリ。御存知の方にとっては「何で今さら?」というお話です。

  著者は、米国人児童文学作家ライマン・フランク・ボーム(1856~1919年、享年62)。この本は、1900年秋の大統領選挙前の5月に出版されました。大統領選は、共和党マッキンレーと民主党ブライアンとの闘いで、1896年に次ぎ、二度目です。 ボームが支持していたブライアンは、金銀複本位制の復活を主張しますが、またも敗れて、マッキンレーが再選します。

 この大統領選挙戦の最中に執筆された「オズの魔法使い」は、19世紀の米国経済が如実に反映されているというのです。

  経済史家らによると、カンザス州の自宅が竜巻でオズの王国に吹き飛ばれた主人公の少女ドロシーは、米国の伝統的価値観を代表し、子犬のトトは、米国禁酒党(Teetotalers)を象徴しているといいます。

 旅の途中でドロシーが出会ったカカシは、黄色のレンガの道で何度も転ぶことから、カカシは、金本位制(黄色のレンガ道)によってデフレに苦しんだ農民の象徴。ハートがないブリキの木こりは、工業労働者を意味し、臆病なライオンは、民主党大統領候補のブライアンのことだといいます。

 このほか、東の悪い魔女は、農民を圧迫するウォール街の金融や工業界を象徴し、第25、27代クリーブランド大統領を示唆し、 西の悪い魔女は、西部の鉄道王、石油王を象徴し、第28、29代マッキンリー大統領を示唆しているそうです。

 さらに、オズ王国には東西南北の4カ国があり、米国に類似しているといいます。それぞれ色によって分類され、東部は工業地帯のブルーカラーから青、南部は赤土から赤、西部はカリフォルニア州で金鉱が発見されたことから黄色。エメラルドの都となる北部ワシントンD.C.はドル紙幣の色から緑で表現されるといいます。

 最後に、ドロシーは、銀の靴の魔力でカンザスへ帰ることができますが、途中で靴をなくして「二度と見つからなかった」。これは、ボームが支持していた金銀複本位制が次第に衰えていく様子を暗示したといいます。

 誠にうまくできた話ですが、児童文学研究者のほとんどは、「ボーム自身はそこまで言っていたわけではない」と否定的な意見も多いようです。

 1973年に大ヒットしたエルトン・ジョンの「 グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード」は、「オズの魔法使い」に出てくるあの「黄色のレンガ道」から採られたといわれてます。…もう一度、聴いてみますか。

ショパンの何という曲だったか・・・?

 6月29日付のこのブログで、ポーランド映画「Cold War あの歌、2つの心」の感想文を書きました。

 実は、その中で、映画中に引用されていた、恐らくショパンだと思われるピアノ曲の題名がどうしても思い出すことができず、ブログでは「ショパンの作品」と誤魔化していたのでした。(後で、直しておきましたが=笑)

 私の趣味といえば、音楽ぐらいでして、お小遣いも本かCDばかり買っていた時期がありました。音楽のジャンルは、ロックからポップス、クラシック、ジャズ、ボサノヴァと洋楽中心でしたが、幅広く聴いて、レコードも集めていました。だから、映画に使われるクラシックやポップスなら何の曲か、大抵分かります、と書いておきます。(ついでに、「Cold War」のエンディング曲で使われたのは、グレン・グールド演奏のバッハの「ゴルドベルク変奏曲」に間違いないと思います)

 勿論、ショパンも何枚か持っています。映画を観た後、家に帰って、ショパンのピアノ曲ならタイトルぐらい簡単に分かると高を括くりながら、確認のために、自分の持っているCDをかけまくりました。当初その曲は、エチュードの「革命」か、ポロネーズの「軍隊」かと思い込んでいたのですが、どうやら違うようでした。

 そこで、ポリーニ演奏の「ポロネーズ」「エチュード」「マズルカ」、ポゴレリッチ演奏の「前奏曲」「ノクターン」、そして、ホロヴィッツ演奏の「ショパン・ピアノ曲集(ワルツ、スケルツォ、バラード、即興曲)」を何時間かかけて聴きまくりましたが、どうしても見つかりません。ブログはこうして苦労して書いているのです(笑)。

Copyright par Kyoraque-sensei

 最後の手段として、音楽大学を出て、ピアノ教師をやっていたGさんです。彼女に「この曲、タイトルは何?」と聞くことです。ものの数秒で答えが返ってくると思ったのでした。でも、どう伝えるか?

 頭の中で浮かんでいる例の曲を口ずさんでみましたが、我ながら音痴で、音程が取れず駄目でした。仕方がないので、ラルゴかレントのサビの部分だけ、ギターで弾いてみて、それを録音添付してメールで送ってみました。

 で、結局、私の伝え方が悪かったのか、答えは「よく分からない。お役に立てず、ごめんなさい」でした。実は、私が送ったメールは彼女に届いたのですが、彼女からの返信はどういうわけか私には届かず、再度、電話で確かめてみたのでした。

 電話で、いろいろやり取りして、下手に口ずさんでいくうちに、彼女は「それなら『幻想即興曲』かもしれない…」と言うのです。

 その曲が入ったCDは、家になかったので、ユーチューブで確認しました。…なあんだ、その通り。ごめいさん、「幻想即興曲」でした。ショパンは39歳の若さで亡くなりますが、この曲は死後、出版された遺作でした。プロでも難曲と言われる弾くのにとても難儀する曲でした。でも、大変な名曲です。 タイトルを思い出す間、この曲は、ずっと私の頭の中を回っていました。なかなか思い出せないので、歯がゆくてしょうがありませんでした。

 Gさんから、最近、小生の書くブログは難しくて、ついていけない、なんて言われちゃったもんで、今日はこんな脱線した話で誤魔化しました(笑)。

【後記】

自宅にアルトゥール・ルビシュタイン演奏の「ショパン全集」(RCA Victor)があり、当然ながら「幻想即興曲」はディスク10に収録されておりました。原題は、Impromptus No.4 Op66 in C-sharp mionor “Fantasie Impromptu”

何度聴いてもいいですね。

タモリに学ぶ人生の過ごし方

 人間の悩みの90%は、人間関係だと言われています。親と子、先生と生徒、上司と部下、男女のもつれ、夫婦関係、友人関係、親戚関係、嫁姑…、昨今、通り魔事件も多いですから赤の他人との関係も悩みの種ですね。

 私も人間ですから、嫌になる日が多々あります。思うに、毎日、政治や経済や社会など人間の問題のことばかりについて考えているからなのでしょう。他人は、正義心と自己主張の固まりですから梃子でも動きません。どうにもならないことで悩んでいるわけです。

 そんな時は、宇宙のことを考えます。今から、138億年前に突然「ビッグバン」が起きて、何もなかった所に、急に時間と空間と重力とエネルギーが生まれて宇宙が出現した、なぞという話を聞かされても、俄かに信じがたいのですが、眩暈で気絶したくなるほどです。

 地球が誕生したのは46億年前で、宇宙の歴史を1年のカレンダーにすると、8月30日に当たるそうです。(ビッグバンを1月1日とする)

生命(タンパク質や核酸の生成)の誕生が40億年前(9月15日)。

 少し飛ばして、恐竜の誕生が3億年前(12月23日)

 その恐竜の絶滅が6500万年前。(12月29日)

 やっと、我々の御先祖さまとつながる新人類ホモ・サピエンスが誕生するのが20万年前。(12月31日午後11時37分)

 農耕牧畜の始まりが1万年前(12月31日午後11時58分)

 となると、宇宙から見れば、人間の歴史などたかだか一瞬に過ぎないんですね。それに比べて恐竜さんは、実際、地球上で2億年近くも繁栄していたのですから、大したものです。

 「誰それがどうした」「誰それがあれした」などと、人間に拘っているから、毎日、鬱屈してしまうんですね。

築地「C」 おまかせ丼 1000円

 私はあまりテレビは見ませんが、NHKの「ブラタモリ」はよく見ます。この番組では、その土地の地殻変動や噴火した溶岩や堆積岩など地学、地質学の話がよく出てきます。それが10万年前の話だったり、100万年前の話だったりすることはザラで、中には人類が誕生するはるか大昔の何億年も前の話だったりするのです。

 人間が出て来ず、主人公でもなかったりするのです。番組進行のタモリさんは、学者並みに、異様に地質や地学に詳しいのですが、珍しい岩石に出合ったりすると、人に会った以上に感動したり興奮したりするのです。

 御本人に会ったことがないので断定できませんが、この方は、どうも人間関係はサバサバしていて、恐らく人間関係で悩んだことがない性格に見受けられます。まず、深い意味で、人類自体に興味を持っていない。結晶片岩や蛇紋岩の方がはるかに興味があると思われます。

 となると、人類の歴史の1万年のスパンというより、何千万年、何億年のスパンで物事を洞察しているんじゃないのかと思ったわけです。

 勿論、タモリさんにも悩み事はあるでしょうが、あまり人間だけに捉われていない。彼の目先に拘らない、長い年月のスパンでの物の見方も、見習いたいものだと思いました。