お経を手元に、石仏散策を

 鈴木永城著「お経の意味がやさしくわかる本」(KAWADE夢新書)を読了しましたが、身近に置いて読み返したり、文字通り、読経したりするつもりです。

 お釈迦様は、煩悩業である三毒を避けることを説いています。三毒とは、貪瞋痴(とんじんち)のこと。つまり、「貪欲(どんよく)」「瞋恚(しんい)」「愚痴(ぐち)」のことです。これらが生きる上で苦しみの原因になっているといいます。

 貪欲は、執着する心。瞋恚とは、怒ること。愚痴は無明とも訳され、無知で真理に暗いことをいいます。いずれにせよ、人生で、何事も、捉われてはいけない、ということなのでしょう。

 この本の最後の方に出ていた「正信偈(しょうしんげ)」と「修証義(しゅしょうぎ)」は初めて知った「お経」なので敢て付記しておきます。

 「正信偈」とは、門徒の皆さんにとっては当たり前過ぎる話でしょうが、親鸞の「教行信証」の「行巻」の末尾に書かれた浄土真宗の要義大綱を七言60行120句を偈文にまとめたものです。ちょうど、私は現在、「教行信証」の現代語訳をウンウン唸りながら読み進めていたので、この「正信偈」だけでも、シカと脳髄に刻み込まなければいけない、と思いました。

 「修証義」は、明治半ばに日本曹洞宗の開祖道元禅師の「正法眼蔵」の中から、そのエッセンスとなる文言を抜き出して編集されたものです。「正法眼蔵」は、87巻にも及ぶ大著で、難解中の難解で、専門の僧侶でさえ全巻読破できた人は少ないと言われ、私も読んだことはありません。このエッセンスの「修証義」だけで勘弁してください、と言えば、怒られるか罰が当たることでしょうけど、入門編として、取り組みさせて戴きたいと存じまする。

 最近どうも仏教思想に洗脳されています(笑)。一番は、何と言っても「諸行無常」です。ギリシャ哲学のように「万物は流転する」でもいいのですが、時の移り変わりととともに、人の心も変わり、恋慕も友情も信頼も敬意もいつかは壊れるものだと実感しています。

 亡くなった父が口癖のように言っていた言葉は「形あるものは壊れる」でした。一国一城も買える曜変天目茶碗でも、落としたら壊れて使い物にならなくなります。仏教哲学で言えば、「形ないものでも壊れる」ということになるのかもしれません。

足利市 鑁阿寺(ばんなじ)本堂(国宝)

 「仏教思想に洗脳されている」と言えば、私の生きていく上での生活信条が「ご縁」なのです。この世に生まれてきたことも何かの不可思議な「縁」でしょうし、誰かに出会って影響を受けるのも「ご縁」です。万巻の書物の中で一冊の本に巡り合うことも「縁」だと思っています。縁が切れたり、なくなったりすれば、どれだけ仲が良かった友人知人でも離れ離れになることでしょう。それも「縁」の一つだと諦念するしかありません。しかし、「縁」だけは大事にして、これからも生きていきたいのです。

 ご縁と言えば、昨年このブログを通してお近づきになった京都方面の著名な御住職と、有難いことにメールで交友させて頂いております。私が、仏教思想の神髄というより、主に宗派の違いや醜聞などの愚問を大僧正にぶつけておりますが、それでも真面目に返答が返って来ますので心苦しい限りです。私信なので公開できないのが残念ですが、たまたまやり取りしたメールの中で、御住職から「私家版 さいたまの石仏」というブログのサイトをご紹介いただきました。

 このサイトの主宰者はどういう方なのか全く分かりませんが、埼玉県南部と東京の北区、練馬区、目黒区辺りの寺院や路傍を隈なく歩いて、そこに安置されている石仏の写真と像に刻印された由来や施主、設立日などを掲載されております。半端じゃない徹底した調査ぶりです。(勝手にリンクを貼らさせて頂きました)

 有名な寺院の石仏だけでなく、村の有力者による庚申塔や路傍のお地蔵様のほか、恐らく当時の庶民が頼母子講でなけなしのお金を集めて建立したらしい不動明王や阿弥陀如来や地蔵菩薩なども取り上げているのです。

 私の住む自宅近所の庚申塔も取り上げていましたが、ボーと生きている私なんかほとんど気が付きませんでした。設立日が、享保4(1719)年や延享3(1746)年だったりして、200年も300年も大昔に、同じ土地に住んでいたことが分かり、庚申塔は、当時の人たちの生きた証のようにも見えます。サイトでは、主宰者が足を棒にして苔むした石仏を探し当て、その文字も見えなくて読めなくなった碑文までも現代に蘇らせています。

 いかにも当時の無名の庶民の信仰の深さが伺えます。こうして蘇ったのも、あれもこれも、このサイトの主宰者の功績です。世の中にはこういう立派な方もいらっしゃるものだと感心致しました。

 

タコスが駄目ならポルトガル

 今週になって少しは和らぎましたが、猛暑が続き、銀座を歩くと鉄板の上で焼かれているようで、焼き鳥になってしまいそうでした。

 そんな時、食べたくなるのが、メキシコ料理のタコスです。暑さで食欲が落ちても、スパイスが効いて何個でも食べられそう。ということで、東京・銀座は、パリやニューヨークに劣らぬ世界のグルメ街ですから、本場タコスが食べられる店を探してみました。ありました、ありました。泰明小学校近くにありました。まあ、会社からも歩いて行ける距離なので早速、昼時に行ってみました。

 そしたら、ガーン、8月23日で閉店していたのです。な、な、何で?聞いてないよ。テレビでは、としまえんの閉園のニュースばかりやってましたが、ネットにも閉店のお知らせがありませんでした。

 仕方がないので、この近くにあったポルトガル料理店「V」に躊躇なく入りました。その時、ポルトガルのことで頭がいっぱいだったからです。

 何でポルトガルだったかと言いますと、三島由紀夫の実弟である平岡千之(1930~96)のことを考えていたからです。彼は外交官で駐ポルトガル大使などを歴任し、引退後、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの作品を翻訳したいという思いを持ったまま、まだ65歳で病死した人でした。

 そして、何で三島由紀夫の実弟平岡千之氏のことを考えていたかといいますと、昨日このブログで旧友の御尊父の御逝去のことに触れ、御尊父は、三島由紀夫と同い年なので大蔵省の同期入省ではないか、と書いたところ、早速、旧友から連絡があり、「父から三島由紀夫の話はあまりなかったけど、三島の弟で外交官だった平岡千之さんとは面識があった。市ヶ谷での事件(三島事件)があったとき、しょんぼりしていたと聞いてます」といった応えがあったからでした。

 三島由紀夫こと平岡公威は、華麗なる一族で、父平岡梓は一高~東京帝大から農商務省の官僚になった人(一高時代から岸信介らと同級生)。祖父の平岡定太郎は、帝国大学法科大学を出て内務省官僚となり、福島県知事、樺太庁長官を歴任した人で、私も名前は存じ上げておりました。でも、三島の実弟が外交官だったことまで知らず、不明を恥じていたわけです。

 で、タコスの店が閉店したことは至極残念、とうろたえていたところ、目の前にポルトガル料理店の看板が目に入り、ポルトガル大使だった三島の実弟平岡千之氏のことを思い出し、その地下の店にすぐ入店したわけです。何か、彼に導かれたような感じがしたからです。

 これも御縁ですね。

 注文した日替わりランチ(豚バラ肉のビール煮)が1000円(税込)というリーズナブルな価格。お味も合格点だったので、また来て、別のメニューに挑戦してみようかなあ、と思っています。

 今日はグルメの巨魁ブログ「ウマズイめんくい村通信」の二番煎じ(出来損ない)みたいで、失礼致しました。