本土決戦は弥生時代の戦だったのでは?=「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」

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 昨日は、道端で怪しげなマスクを3300円(50枚入り)で買ったことを書きました(しかも2箱。1箱は村民4号にあげました)が、ネットではどれくらいで売っているのか今朝、調べたら、何と、「大幅値下げ」と称して1339円(51枚入り)で売っていたのです。つい、先日までネットでは4000円とか5000円とかしたのに、ナンタルチーヤです。良心的な中国政府の「マスク外交」が功を奏したのでしょうか、なんて喜んでいる場合じゃありませんよね。商売は、需要と供給の世界ですから、生産ラインが復活した中国製品のマスクが余剰になれば、当然、価格は暴落していくことでしょう。もう、道端で3300円で買う馬鹿いませんよ。あ、ワイのことやないけ!

 さて、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第3巻「特攻と玉砕」をやっと読了しました。単行本化は2005年12月、文庫本化は2013年1月ですが、初出の雑誌連載は、2002年10月号から2004年3月号となってます。ですから、18年近くも昔に発表された作品を何で今さら取り上げるのか、と糾弾されそうですが、読んでなかったから仕方ありません。その理由については、この本を最初に取り上げた時に書きましたので、茲では繰り返しません。それでも、今読んでも古びていないし、未来永劫、この本だけは読み継がれていってほしいと思っています。必読書です。

 第3巻の前半の主役は狂信的な国粋主義者の蓑田胸喜でしたが、後半は、「皇国史観」を広め、特攻と玉砕を煽動した東京帝大国史科教授の平泉澄(きよし)でした。この方は、正直言ってよく知らなかったのですが、とてつもない人でした。教科書に特筆大書して、生徒に教えなきゃ駄目ですよ。平泉教授は、帝国陸海軍の幹部将校らにも絶大なる影響を与えた学者で、2・26事件などのクーデタに関与せずとも決行する理論的支柱となり(平泉は、昭和天皇の弟君である秩父宮の御進講係を務めて親しかったため、事件の黒幕と目されていた)、また、楠木正成や吉田松蔭に代表される忠君愛国の精神主義を戦場の兵士たちに感化した人(元寇を持ち出すくらいのアナクロニズム!)で、さらには近衛文麿首相らの演説原稿を書いた人でもありました。著者の立花氏は「何よりも私が不思議に思うのは、平泉があれほど特攻と玉砕を煽りに煽って、多くの若者を死に追いやったというのに、本人はそのことに何の責任も感じていなかったらしいことである」とまで書いています。

 終戦直後の昭和20年8月17日の教授会で、平泉は辞表を提出して東大を去り、福井県の実家に引き籠ります。この態度に潔さやあっぱれさを感じる人もいましたが、実は、その福井の実家とは、一般には平泉寺(神仏習合のため)と呼ばれている白山神社(伊弉冉尊を祀り、本地が十一面観音)で、これはかつては「大社」と呼ばれていたほど格式が高く、歴史と由緒がある桁違いに壮大な神社で、平泉家は代々そこの神職を務めていたのです。

 開社は、養老元年(717年)といいますから奈良時代。中世期、朝倉氏から寺領9万石を拝領され、境内には48社、36堂があり、僧兵だけでも7000人も抱えていたといいます。明治維新以降は廃仏毀釈で寺領は没収されたりしましたが、それでも、終戦後の農地改革等でさらなる没収を経ても4万5000坪もの広大な敷地があるといいます。平泉澄はそこの神主ですから、生活は裕福であり、なおも執筆活動を続け、最後まで思想信条と言動は変わらず、昭和59年に89歳の生涯を終えました。つい最近の現代人だったんですよ。

 他にまだまだ書きたいことが沢山あるのですが、あと一つだけ書きます。太平洋戦争末期の昭和20年6月10日、義勇兵役法案が貴衆両院で通過し、日本国民全員(男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで)が義勇兵役に服して、本土決戦の際には武器を取ることになりました。法案を通過させたときの内閣の首相は鈴木貫太郎、書記官長(今の官房長官)は迫水久常でした。この迫水が戦後に書いた「機関銃下の首相官邸」(恒文社)の中で、国民義勇兵隊の問題を話し合った閣議の後、陸軍の係官から、「国民義勇兵が使用する兵器を別室で展示しているからみてほしい」ということで、鈴木首相を先頭に閣僚が見に行ったことを明かしています。

 そしたら、そこに並べてあったのは、手榴弾はよしとして、銃は単発で、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込んで、その上に弾丸を押し込んで射撃するものだったといいます。正規の軍隊の兵士でさえ、「三八式歩兵銃」といって、明治38年の日露戦争で使われた銃を第2次世界大戦で使っていた話を聞いたことがありますが、それ以上の驚きです。私なんか、思わず「火縄銃か!」と突っ込みたくなりました。種子島に伝来した火縄銃とほとんど変わらない武器で、明治の三八式より遥かに古い「室町時代か!」とまた突っ込みたくなりました。ここまでは、大笑いでしたが、迫水ら閣僚が見たこのほかの義勇兵の兵器として、弓矢があったといいます。相手の米兵は装甲車や戦車に乗って、マシンガンやら火焔銃やらバズーカ砲やらでやって来るんですよ。それを弓矢で立ち向かうとは、これでは弥生時代じゃありませんか!大笑いして突っ込もうとしたら、逆に涙が出てきて、泣き笑いになりました。

 軍部は、「平泉史観」の影響で、「1億総玉砕」を真剣に考えていたことでしょう(あわよくば自分たちだけは生き残って)。近代戦なのに、国民全員を強制的に徴兵して、弓矢で戦えとは、あまりにも不条理で、時代錯誤が甚だしく、無計画で、無責任過ぎます。国民に死ねと言っているようなものです。そもそも、陸士、海兵のエリートと政権中枢の特権階級らは、米国との国力の莫大な違いを知っていたわけですから、最初から負け戦になることは分かっていたはず。それなのに、何万人の兵士を犠牲にしておきながら、少しも反省することなく、責任を部下に押し付けて、戦後ものうのうと生き残り、天寿を全うした将軍もいました。

 泣き笑いから、今度は怒りに変わってきました。

狂信的な極右国粋主義者の信条と心情はその時代の空気を吸わないと分からない気がしました=立花隆著「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」から

※アブチロン(「草花図鑑」に載っていなかったので、このブログで公開質問させて頂いたら、御親切な読者の方から御教授頂きました。有難う御座いました)

 さて、いまだに、我が家には「アベノマスク」も「10万円給付」も届いていません。マスクは、既に、御宅に届いていらっしゃる方もいて、SNSにその写真をアップしている方もかなりおられました。でも、最初に配っているのは、東京の世田谷区とか港区とか、高級住宅街にお住まいの皆様方だったんですね。私の住む所は、全国でもベスト5に入るぐらい感染者が多い地域なんですけど…。仕方がないので、道端で売っていた怪しげな中国製のマスクを買ってしまいましたよ。50枚入り3300円。昨年は、60枚入りで500円ぐらいで売っていましたからえらい違いです。都心に出勤するので、仕方ないかあ、てな感じです。

 ところで、いまだに、立花隆著「天皇と東大」を読んでいます。第3巻の「特攻と玉砕」に入り3日目ですが、まだ半分近く残っています。533ページの本ですが、昔なら2~3日あれば軽く読めたのですが、さすがに衰えました。読む速度が遅くなったのは、昭和初期の話になり、関連本が自宅書斎に結構あるので、引っ張り出して参照しながら読んでいるせいかもしません。

 この本(全4巻)は、このブログに以前も書きましたが、国際金融ジャーナリストの矢元君から借りて読んでいます。「えっ? 君は蓑田胸喜も知らないのか?」という私の諫言にいきり立った彼が、ネットで定価の2倍ぐらいのお金を奮発して買った古本で、それを私に貸してくれたのです。(この本は今では手に入りにくくなっていることは以前書いた通り。文春社長、増刷してくれたら定価で買いますよ!)

 矢元君は、経済関係にはやたらと詳しいのですが、近現代史関係の知識には疎かったのです。昭和史関連の書籍を少しでも齧った人間なら、蓑田胸喜を知らない人はあり得ないのですが、彼は知らなかったのです。

 この第3巻の「特攻と玉砕」の前半は、ほとんどこの蓑田胸喜(1894~1946)を軸として当時の世相と社会事件が描かれています。「みのだ・むねき」と読みますが、文字って、「蓑田狂気」と呼ばれたほど、狂信的な右翼の思想家でした。東京帝大時代から上杉慎吉に私淑して上杉のつくった「木曜会」「興国同志会」「七生会」に全て参加し、卒業後は雑誌「原理日本」を発行し、慶應義塾予科の教授も務めながら、国粋主義を信奉し、国体に反するあらゆる学者らを糾弾する煽動活動を行った人でした。何しろ、民本主義の吉野作造攻撃から、京大の滝川事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、津田左右吉事件、大内兵衛、有沢広巳らの人民戦線事件、河合栄治郎事件など昭和思想史上全ての思想事件の黒幕になった人でした。(実際、内務省に働きかけて、アカ学者の著書を発禁処分にするよう圧力をかけました)

 蓑田は戦後まもなく郷里熊本で自死します。主宰した「原理日本」の大袈裟な強調点の多い活字組や、目の敵にする無政府共産主義者に対しては「不徹底無原理無信念無気力思想」などいう魔術師的造語でレッテルを貼ったりするのを見ると、かなり常軌を逸した人のように見えます。著者の立花氏はそのことをもっとストレートに書いたため、雑誌に連載時に蓑田胸喜の遺族から抗議を受けます。文庫に所収された文章でも「この人は〇〇〇〇〇なのではあるまいか」とし、なぜ、伏字のままにしているのか、266ページの「一部訂正と釈明」で説明しています。

 確かに、立花氏は、当時の時代の空気を吸っていない後世の安全地帯にいる人間が、高見から蓑田胸喜らをコテンパンにやっつけ過ぎている嫌いもありますが、戦後民主主義を受けた者の大半はその痛快さに拍手喝采することでしょう。(ただし、立花氏は、89ページで、「電通社(立花注・日本電報通信社。後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社)」とだけ書いてますが、明らかに間違い。「後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社、時事通信社、電通」が正しいのです。光永星郎や長谷川才次らが怒りますよ。これで、初めて立花氏の限界を感じ、彼が書いた全てを盲目的に信じるのではなく、もっと冷静に客観的に読まなければいけないことを悟りました)

 難癖つけましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、日本人の必読書で、私自身が生涯に読んだベスト10に入ると確信しています。

 明治以来の日本の右翼の潮流として、玄洋社を率いた頭山満や黒龍会の内田良平らの九州閥の流れと、上杉慎吉と蓑田胸喜の東京帝大の流れがあり、これだけ知っていたら十分かと思っていましたら、この本ではまだまだ沢山、重要人物が登場します。その代表が「神(かん)ながらの道」を唱えた東京帝大行政法の筧(かけい)克彦と、東大帝大国史科の平泉澄(きよし)の両教授です。

 「神ながらの道」は何なのか、具体的には説明できないといいます。何故なら、「神ながら」の対極にある概念が「言あげ」で、本質的に言語による説明を拒むからだといいます。これは、あまりにも日本語的で、英語や仏語、独語などではあり得ないことですね。だからこそ、神ながらの道は、あまりにも日本的な実践学で、天皇を現人神とした神格化の権威付けと先導する役目を果たしました。


もう一人の平泉澄は、いわゆる「皇国史観」をつくり、広めた人でした。「大日本は神国なり」と書き出す北畠親房の「神皇正統記」を日本最高の史書と崇め、全国に忠君・楠木正成の像を造らしめた国史学者でした。彼に一番心酔したのが、陸軍士官学校の幹事だった東条英機少将で、「平泉史観」は軍部に熱狂的に受け入れられて浸透し、ついには現人神である天皇陛下のためには自己犠牲を厭わない人間魚雷などの特攻の精神的裏付けや理論付けとしてもてはやされるのです。(多くの若者たちが特攻で亡くなった戦後も、平泉は生き抜き、何と昭和48年になっても、またしても少しも懲りることもなく、「楠公 その忠烈と余香」を出版します。外交官から経済企画庁長官などを歴任した平泉の三男渉=わたる=が鹿島守之助の三女を妻とした人だったため、鹿島出版社から刊行されました) 

この本の前半で、多く記述されている「天皇機関説事件」とは、右翼が主張する「絶対君主制」(天皇親政)を採るか、美濃部達吉、そして明治憲法をつくった伊藤博文らが主張する「立憲君主制」を採るか、の違いでした。天皇親政となると、軍隊の統帥権から外国との条約締結、財政政策に至るまで、すべて天皇の思うがままにできますが、その代わり、全ての責任を持つことになります。一方の立憲君主制となると、重臣たちが輔弼し、天皇が裁可する形になるので、天皇の思い通りにならないことが多くありますが、責任は、重臣たちに及ぶことになります。昭和天皇はその立憲君主制である「天皇機関説で良い」と認めていました。そして、何と、スパイのゾルゲまでが、その情報を、当時の人はほとんど誰も知らなかったのに、政権中枢にいた西園寺公一や犬養健らの情報を尾崎秀実を通して入手し、見事な分析記事「日本の軍部」(1935年「地政学雑誌」8号)の中で書いているのです。一部の重臣しか知らない超機密情報を入手したゾルゲ博士の手腕には驚くほかありませんが、それなのに、2・26事件を起こした陸軍の青年将校らは、天皇の真意を全く知らず、そして理論的支柱の北一輝までもが「天皇機関説」支持者だったことも理解せず、天皇親政のクーデタを起こして重臣を殺戮し、昭和天皇の怒りを買い、「逆賊」として処刑されます。この辺りの複雑な構造を、かなり詳しく、そして易しくかみ砕いて描いてくれるので、感謝したいほど分かりやすかったです。

 ということで、今日はこの辺で。

 実は、あまりブログを書くのも考えものだな、と最近思うようになりました。正直、「露悪趣味」に思えてきたからです。この辺りの心境の変化はそのうち、おいおい書いていきます(笑)。

「政府は財閥の出張所たる商事会社」とは血盟団事件の池袋被告もよく言ったものでした=立花隆著「天皇と東大」

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 相変わらず、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第2巻「激突する右翼と左翼」を読んでいます。

 後半の大部分は、血盟団事件に記述が割かれています。私自身は、これまで昭和史に関する書籍だけは読み込んできたので、特に驚くような、自分自身が知らなかった新事実はなかったのですが、色々な繋がりが分かり、点と点がつながって線になった感じです。

 例えば、戦前に「右翼」と呼ばれた国家主義者たちは、玄洋社の頭山満と東京帝大教授の上杉慎吉を軸につながりがあった、つまり、面識があったり、話し合う機会があったり、結社をつくったりしていたということです。当たり前と言えば、当たり前の話なのですが。

 血盟団事件の首魁井上日召は、前橋中学時代に、あの高畠素之と同級生だったことから、中学時代(とは言っても旧制中学ですよ)にマルクスやエンゲルを読んでいたといいます。高畠素之は、前回も書きましたが、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳した人で、後に「右翼」の国家社会主義者に転向して上杉慎吉と経綸学盟を結成しています。

 井上日召自身も大正15年に、上杉慎吉、赤尾敏、頭山満らがつくった国家主義団体「建国会」(建国祭を提唱し、共産党撲滅、天皇政治の確立を叫ぶ)に参加しています。この運動には、井上は、建国祭のお祭り騒ぎに嫌気がさして、ほどなくして離れ、仏道の修行を深めるために沼津の松陰寺に入り、禅宗の高僧山本玄峰に師事したというのです。これはすっかり忘れていたことで、聊か興味深かったです。

  山本玄峰といえば、東大新人会から日本共産党再建書記長になった田中清玄(1906〜93年)を、逮捕されて11年間の入獄後に「保証人」のように引き受けた臨済宗の怪僧です。大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」によると、山本玄峰は、共産主義から天皇主義に転向して下獄した田中清玄をつかって、昭和天皇と極秘に面会させたり、鈴木貫太郎首相に無条件降伏を進言させたりしたといいます。

 昭和初期には、浜口雄幸首相狙撃事件、三月事件、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、二.二六事件など右翼や軍部によるテロやクーデタ未遂事件が相次ぎます。その社会的背景には、ロシア革命に影響を受けた左翼による政府転覆の恐れ、それに反発する「国体護持」が大命題の右翼の台頭がありますが、金融恐慌による不景気や東北冷害などによる娘の身売り、そして何よりも地主や資本家ら特権階級による搾取に対する反感反発がありました。右翼も左翼も、華族や高級軍人や財閥や政党政治を批判していました。(立花氏は「当時の極右と極左は、天皇をかつぐかどうかの一点を除くと、心情的にはかなり近いところにいたのである」(416ページ)と断言しています)

 私は不勉強ですから、地主や資本家批判なら分かりますが、つい数年前まで、何で昭和初期の右翼も左翼もこぞって政党政治を糾弾するのかよく分かっていませんでした。でも、当時のインテリにとっては、全く自明の理だったんですね。

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 血盟団事件の学生リーダー池袋正釟郎(東京帝大文学部東洋史科)は公判で次のようなことを供述しています。

 厳密に言へば、(元老の)西園寺公望が首相を任命するに非ず、実は政党の消長の鍵を握る三井三菱の財閥が任命するやうなものであります。されば現代の政治家は三井三菱の番頭であり、政府は財閥の出張所たる商事会社であり、国策は商策であり、政治は商売であります、…西園寺はじめ、牧野(伸顕)や鈴木(貫太郎)侍従長の元老重臣は財閥政党に結託して一身の利害のみを顧慮して、右の措置を敢えて取らず、常に腐敗堕落したる政党政治家のみを推薦して、上聖明を覆い奉り、下人民を失望せしめて居るのであります、ここに於いて此れ等元老重臣を除き、君側を清める必要があります。

 このように、当時のインテリ学生にとっては、憲政会が三菱と政友会が三井と結託していることは公然の秘密ではなく、自明の理だったんですね。それにしても、「政府は商事会社」とはうまいこと言ったものです。

 そして、明治時代から、政界での汚職や疑獄事件は絶えることなく、血盟団は、昭和初期に起きたさまざまな疑獄事件を糾弾しています。室伏哲郎著「実録 日本汚職史」(ちくま文庫)にもあまり出てこなかったので、ここに再録しますが、小川平吉・前鉄道相による五私鉄疑獄、小橋一太・文部相による越後鉄道疑獄、山梨半造・朝鮮総督による朝鮮総督府疑獄、天岡直嘉・前賞勲局総裁による売勲疑獄。そして何よりも、池袋らが糾弾したのは、田中義一・陸軍大将(後の首相)が政界進出する当たり、神戸の億万長者・乾(いぬい)新兵衛から300万円の政治資金を受けた疑獄事件です。田中は、自分が政権を握ったら乾を男爵にするとともに、満洲に利権を与え、仲介者に300万円の1割を報酬として与える約束をします。ところが、田中は政権獲得後も仲介者に一銭も払わなかったので、怒った仲介者が訴訟を起こしたことからコトが明るみに出たといいます。漫才みたいな話ですが、当時はそれほど政界は腐敗していたのですね。

 とはいえ、現代日本人の中で、政党政治を批判する人は皆無でしょう。誰一人、自民党と大財閥との結託を糾弾する人はおりません。その代わり、血気盛んな青年将校も、テロに走る若者もいなくなりましたが…。何と言っても、海の向こうの大国では、「政府が商事会社」どころか、不動産王を大統領に選出するぐらいですからね。昭和初期の事件に関与した人たちが今の社会を見たら驚いて腰を抜かすことでしょう。

【追記】

・昭和7年(1932年)2月〜3月に起きた血盟団事件とそれに続く5月の五・一五事件で、日本の政党内閣の時代は終わり、これ以後、軍人内閣ないし軍部と妥協した内閣が続く。

・五・一五事件で無期懲役の判決を受けた農本主義者の橘孝三郎・愛郷塾塾長は、立花隆氏(本名橘隆志)の父の従兄に当たり、立花氏が子どもの頃会ったことがあるが、本に埋もれるようにして生活していた白髪の老人という記憶しかないという。

・血盟団グループと五・一五事件の海軍青年将校らに最も影響を与えた精神的支柱ともいうべき理論家は権藤成卿だった。権藤は、日本ファシズムの急進的指導者というより、農本主義の反国家・反資本主義、反都会中心主義、郷土主義者だった。黒竜会にも参加し、日本の政財官界だけでなく、中国革命の孫文ら中国人や朝鮮独立運動家らとも親しく幅広い人脈もあった。主著「自治民範」「南淵書」。

権藤家は、代々久留米藩の藩医を務めた家系。権藤成卿の実弟震二は、東京日日新聞、二六新報記者を務め、日本電報通信社を設立した。

以上 第2巻を読了。

日本の右翼思想は左翼的ではないか?=立花隆著「天皇と東大」第2巻「激突する右翼と左翼」

長い連休の自宅自粛の中、相変わらず立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)を読んでいます。著者が「文庫版のためのはしがき」にも書いていますが、著者が考える昭和初期の最大の問題点として、どのようにして右翼超国家主義者たちが、日本全体を乗っ取ってしまようようなところまで一挙に行けたか、ということでした。それなのに、これまで日本の多くの左翼歴史家たちは、右翼をただの悪者として描き、その心情まで描かなかったので、あの時代になぜあそこまで天皇中心主義に支配されることになったかよく分からなかったといいます。

 それなら、ということで、著者が7年間かけて調べ上げて書いたのがこの本で、確かに、歴史に埋もれていた右翼の系譜が事細かく描かれ、私も初めて知ることが多かったです。

 私が今読んでいるのは、第2巻の「激突する右翼と左翼」ですが、語弊を怖れず簡単な図式にすれば、「左翼」大正デモクラシーの旗手、吉野作造教授(東大新人会)対「右翼」天皇中心の国家主義者上杉慎吉教授(東大・興国同志会)との激突です。

 吉野作造の有名な民本主義は、天皇制に手を付けず、できる限り議会中心の政治制度に近づけていこうというもので、憲政護憲運動や普選獲得運動に結び付きます。吉野の指導の下で生まれた東京帝大の「新人会」は、過激な社会主義や武闘派田中清玄のような暴力的な共産主義のイメージが強かったのですが、実は、設立当初は、何ら激烈ではない穏健な運動だったことがこの本で知りました。

 新人会が生まれた社会的背景には、労働争議や小作争議が激化し、クロポトキン(無政府共産主義)を紹介した森戸事件があり、米騒動があり、その全国規模の騒動に関連して寺内内閣の責任を追及した関西記者大会での朝日新聞による「白虹事件」があり、それに怒った右翼団体浪人会による村山龍平・朝日新聞社長への暴行襲撃事件があり、そして、この襲撃した浪人会と吉野作造との公開対決討論会があり…と全部つながっていたことには驚かされました。民本主義も米騒動も白虹事件も個別にはそれぞれ熟知しているつもりでしたが、こんな繋がりがあったことまでは知りませんでしたね。

 一方の興国同志会(1919年)は、この新人会に対抗する形で、危機意識を持った国家主義者上杉慎吉によって結成されたものでした。(その前に「木曜会」=1916年があり、同志会解体分裂後は、七生会などに発展)。この上杉慎吉は伝説的な大秀才で、福井県生まれで、金沢の四高を経て、東京帝大法科大学では成績抜群で首席特待生。明治36年に卒業するとすぐ助教授任命という前代未聞の大抜擢で、独ハイデルベルク大学に3年間留学帰国後は、憲法講座の担当教授を昭和4年に52歳で死去するまで20年間務めた人でした。(上杉教授は、象牙の塔にとじ込まらない「行動する学者」で、明治天皇崩御後、日本最大の天下無敵の最高権力者となった山縣有朋に接近し、森戸事件の処分を進言した可能性が高いことが、「原敬日記」などを通して明らかになります)

 上杉博士の指導を受けた興国同志会の主要メンバーには、後に神兵隊事件(昭和8年のクーデタ未遂事件)の総帥・天野辰夫や滝川事件や天皇機関説問題の火付け役の急先鋒となった蓑田胸喜がいたことは有名ですが、私も知りませんでしたが、安倍首相の祖父に当たる岸信介元首相(学生時代は成績優秀で、後の民法学者我妻栄といつもトップを争い、上杉教授から後継者として大学に残るよう言われたが、政官界に出るつもりだったので断った。岸は上杉を離れて北一輝に接近)もメンバーだったことがあり、陽明学者で年号「平成」の名付け親として知られる安岡正篤も上杉の教え子だったといいます。

緊急事態宣言下の有楽町駅近

 私は、左翼とか右翼とかいう、フランス革命後の議会で占めた席に過ぎないイデオロギー区別は適切ではない、と常々思っていたのですが、この本を読むとその思いを強くしました。

 例えば、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳(1924年)した高畠素之は、もともと堺利彦の売文社によっていた「左翼」の社会主義者でしたが、堺と袂を分かち、「右翼」の上杉慎吉と手を組み、国家社会主義の指導者になるのです。

 立花氏はこう書きます。

 天皇中心の国粋的国家主義者である上杉慎吉と高畠素之が組んだことによって、日本の国家社会主義は天皇中心主義になり、日本の国家主義は社会主義の色彩を帯びたものが主流になっていくのである。…北一輝の「日本改造法案大綱」も、改造内容は独特の社会主義なのである。つまり、日本の国家革新運動は「二つの源流」ともども天皇中心主義で、しかも同時に社会主義的内容を持っているという世界でも独特な右翼思想だったのである。それは、当時の国民的欲求不満の対象であった特権階級的権力者全体(元老、顕官、政党政治家、財閥、華族)を打倒して、万民平等の公平公正な社会を実現したいという革命思想だった。天皇中心主義者のいう「一視同仁」とは、天皇の目からすれば全ての国民(華族も軍人も含めて)がひとしなみに見えるということで、究極の平等思想(天皇以外は全て平等。天皇は神だから別格)なのである。(120ページ)

 これでは、フランス人から見れば、日本の右翼は、左翼思想になってしまいますね。

 「右翼」の興国同志会の分裂後の流れに「国本社」があります。これは、森戸事件で森戸を激しく非難した弁護士の竹内賀久治(後に法政大学学長)と興国同志会の太田耕造(後に弁護士、平沼内閣書記官長などを歴任し、戦後は亜細亜大学初代学長)が1921年1月に発行した機関誌「国本」が発展し、1924年に平沼騏一郎(検事総長、司法大臣などを歴任。その後首相も)を会長として設立した財団法人です。最盛期は全国に数十カ所の支部と11万人の会員を擁し、「日本のファッショの総本山」とも言われました。

 国本社の副会長は、日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎と元東京帝大総長の山川健次郎、理事には、宇垣一成、荒木貞夫、小磯国昭といった軍人から、「思想検察のドン」として恐れられた塩野季彦や当時の日本の検察界を代表する小原直(後に内務相や法相など歴任)、三井の「総帥」で、後に日銀総裁、大蔵相なども歴任した池田成彬まで名前を連ねていたということですから、政財官界から支持され、かなりの影響力を持っていたことが分かります。

 まだ、書きたいことがあるのですが、今日は茲まで。

 ただ、一つ、我ながら「嫌な性格」ですが、133ページで間違いを発見してしまいました。上の写真の左下の和服の男性が「上杉慎吉」となっていますが、明らかに、血盟団事件を起こした東京帝大生だった「四元義隆」です。この本は、2012年12月10日の初版ですから、その後の増刷で、恐らく、差し替え訂正されていることでしょうが、あの偉大な立花隆先生でもこんな間違いをされるとは驚きです。この本は、鋳造に失敗した貨幣や印刷ミスした紙幣のように高価で売買されるかもしれません。(四元義隆氏は戦後、中曽根首相、細川首相らのブレーンとなり、政界のフィクサーとしても知られます)

 いや、自分のブログの古い記事のミスを指摘されれば、色をなすというのに、この違いは何なんでしょうかねえ。我ながら…。

新型コロナの真相が分からないのに煽動している人たち

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新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言は、1カ月ほど延長されるようです。仕方ないですね。経済活動より人の命の方が大切ですから。

 でも、「コロナ以前」と「コロナ以後」では、世界は激変することでしょうね。一番激変するのは雇用形態です。大手企業の大半は、自宅待機でテレワークなんぞをやってますが、出社する人間は、コロナ以前と比べ、半分以下でも済んでしまったことが分かってしまったのです。余剰人員であることがバレてしまったんですね。

 旅行は、所詮、メーテルリンクの「青い鳥」探しですが、国内の鄙びた温泉に行こうが、海外の秘境に行こうが、「ここでない何処か」も「どこでもない此処」も何処に行っても同じで変わらないことがバレてしまったのです。

 世界中の人間が、グローバリズムという世界経済システムに組み込まれていて、都市封鎖をして経済活動を止めたら、どうなってしまうのかバレてしまったのです。そして、その阿漕な搾取構造もバレてしまったのです。

 飲んで浮かれて騒がなくても、生き延びることができることがバレてしまったのです。

健康重視のためフィンランドのスポーツシューズ「カルフ」買っちゃいました(笑)

 全ての話題とニュースが「コロナ漬け」になり、それが3カ月以上も続くと、さすがに、人々の苛立ちが募るようです。中には「武漢ウイルスは人工的につくられた」とか、「ワクチンの独占販売権を握った製薬会社の陰謀だ」とか、「陰謀論」が噴出し出しました。でも、私自身は、正直、あまり与したくありませんね。恐らく、真相は10年後か、20年後か、かなり年月が経たないと分からないと思っているからです。

 今、「日本人の必読書」として立花隆著「天皇と東大」第1巻(文春文庫)を私が一生懸命に読んでいることは、世間の皆様にバレていることでしょうが、この中で、「戸水寛人教授の『日露戦争継続論』」という章があります。戸水教授というのは、東京帝国大学法科大学教授のことで、当時の日本の知性を代表する頭脳明晰な人物と言えます。そんな人が、取り付かれたように狂信的な超国家主義者となり、戦争前は、盛んに「ロシアと戦争すべきだ」と新聞や雑誌に投稿し、帝大の七博士と連名で、元老の山縣有朋らに建白書を送り付け、戦争になれば、満洲はおろか、バイカル湖まで占領しろ、と煽り、戦争が終結し、講和条約締結(ポーツマス)の際には、「もっと戦争を継続しろ。何で勝ったのに賠償金が取れないんだ。樺太の半分なんてとんでもない。戦病死した10万人に何と言えばいいのか」と煽動し、何も知らない一般市民を日比谷焼き討ち事件を起こすように煽動し尽くした人でした。

 後世の人間から見たら、日本最高の知性が、何とも誇大妄想是に極まり、ピエロのような間抜け(失礼!)に思えますが、実は、当時は、日露戦争の実態を軍事機密として政府が公表しなかったので、日本はほとんど兵力も武器弾薬も尽き、負け戦寸前で、続行すれば、ナポレオンのモスクワ攻防の二の舞になるところだったことを臣民(東京帝大の教授陣も含めて)は誰も知らなかったのが真相だったのです。(このことは、講和条約を仲介した米国のセオドア・ルーズベルト大統領は情報機関を通じて、先に熟知していました!)

 そして、さらに驚くべきことに、この真相が初めて日本国民に明らかにされたのが、「機密日露戦史」(原書房)の形で公刊された戦後の1966年以降だったというのです。日露戦争は、1904(明治37)年から翌年にかけてのことですから、何と、60年以上も経って初めて真相が明るみに出たということになります。

 ということは、現在、テレビやメディアで、侃侃諤諤と医療専門家もコメンテーターと称する人間も、あることないことしゃべったりしていますが、これまた失礼ですが、真相が分からないのに主張している可能性があります。もしかして、60年も経てば、今回の新型コロナウイルスは、大手製薬会社の陰謀だったという証拠が出てくるかもしれませんが、少なくとも、渦中の今は、真相も分からない人間が、推測で物を言ったり、書いたりしているのではないのでしょうか。

◇偽情報には振り回されないこと

 100年前のスペイン風邪流行時とは違い、現在は、情報量は膨大です。しかし、その情報も玉石混交で、フェイクニュースがかなり混じっています。今の段階は、冷静になって、あまり情報に振り回されることなく、歴史的教訓にも学ぶべきではないでしょうか。

 少なくとも、私自身はそう確信しています。

「老活の愉しみ」で健康寿命を伸ばしましょう

  読んでいた本(「天皇と東大」)を後回しにして、帚木蓬生著「老活の愉しみ」(朝日新書)を一気に読んでしまいました。奥付の初版発行日が、2020年4月30日です。今日は、母親の誕生日でもある4月28日なので、書店に並んでいたものを素早く見つけて「事前に」に読んでしまったわけです(笑)。

 何で、そんなに急いでいたのかは理由があります。このブログにも書いてしまいましたが、忘れもしません。今月7日に、「ギッキリ脚」をやってしまい、歩行困難になってしまったからです。3週間経った今は、何とか歩けますが、「走るのが怖い」状態です。

 もう一つ。この渓流斎ブログは、「ほぼ毎日」書くことを勝手に自己に課していますが、体調不調のため、そうは言ってられなくなったからです。特に酷いのは眼精疲労で、目も開けていられないぐらいです。原因はスマホとパソコンのやり過ぎなのでしょうが、普通の人より、若い時から「液晶画面」は苦手で、すぐ眼痛が起きやすい体質でした。この眼痛が首痛に来て、それが腕が上がらないほどの肩凝りとなって、頭痛も激しくなり、ブログを書く気が起きなくなります。(そのお蔭で、筆が滑って、大切な友人をなくしてしまう機会も減って助かってますが=苦笑)

 そういう状況ですから、新聞広告でこの本を見つけて、幸いなことに、緊急事態宣言下でも会社の近くの築地の書店が開いていたので、買い求めることができたわけです。

 いやあ、素晴らしい本でした。著者の帚木氏は、御存知のように、東大文学部と九州大学医学部を卒業された方で、作家と医者(精神科医)の二足の草鞋を履いて、貫いている方です。しかも、両方とも超一流で、山本周五郎賞など文学賞の受賞は数多。私も30年ぐらい昔、出版社の記念パーティーでお会いして、名刺交換した程度ですが、「凄い人だなあ」と陰ながら尊敬していた人でした。

 ですから、「精神的不調は身を忙しくして治す」「脳が鍛えないと退化する」「食が全ての土台」「酒は百薬の長にあらず」といったこの本に書かれていることは、ほとんど納得しました。自分はかろうじて、まだ、政府国家が主張する高齢者ではありませんが、老人予備軍として実践していこうと思いました。

 例えば、「靴は健康の必需品」という章の中で、帚木氏は「靴こそは毎日世話になる必需品で、健康が大いに左右されます」として、「スポーツシューズは、何と言ってもフィンランドのカルフが気に入っています。軽くて、どれだけ長く歩いても疲れません。旅行のときはこのカルフに限ります」とまで書いていました。私も一瞬、資本主義の原理で、宣伝臭ささを感じましたが、著者を信頼しているので、早速、ネットで、このカルフとかいうスポーツシューズを注文してしまいました(笑)。足腰が弱ってきましたし、これからも趣味の「お城歩き」を続けたいですからね。

 このほか、人間、年を取ると誰でもサルコペニアと呼ばれる筋肉量が減少する傾向となりますが、同書では、これを予防するための運動(スクワットや下肢挙上運動など)も伝授してくれるので大変参考になります。

 精神科医としての帚木氏は、「森田療法」の権威で、その関連書籍も出版されていますが、森田療法では「症状は人に言わない。見せない。悟られない」というのが鉄則なんだそうです。というのに、渓流斎ブロブの主宰者は、浅はかにも、「あっちが痛い」「こっちが痛い」なぞと散々書きまくっていますね。

 駄目じゃん!

「天皇と東大」第1巻「大日本帝国の誕生」で近代国家の成立と仕組みを知る

  立花隆著「天皇と東大」1~4巻(文春文庫、2012年初版)は、日本人の必読書ではないかという思いで、今頃になって、第1巻「大日本帝国の誕生」を読んでいます。この20年間近く、近現代史関係の書籍を中心に読み込んできましたが、本書で初めて得る知識が多くあり、本当に勉強になります。

 立花氏といえば、若い頃は、「田中角栄研究」「日本共産党の研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」等々、ほとんど彼の著作を読破し、「雲の上の存在」のジャーナリストとして影響を受けて来ました。しかし、どうも「臨死体験」辺りから、「んっ?」と自分の興味範囲からズレている感じがし、しかも、「知の巨人」とか「大天才」とか称賛の声ばかり聞かれ、本人も恥じることなく、そのようなタイトルの本を出すようになると、私もひねくれ者ですから、(彼の天才を否定しませんが)しばらく彼の著作から離れておりました。ですから、まず2005年に単行本として発行された同書は未読でした。もちろん、1998年から2005年にかけて月刊文芸春秋に連載された記事も未読でした。

 文庫版が出て8年経ちましたが、恐らく絶版とみられ、ネット通販でもこの本は手に入らなくなりました。中には、古本でも定価の3倍から5倍も付けて販売しているサイトもあり、馬鹿らしくて買う気がしなかったのですが、例によって会社の同僚の矢元君が「こんな面白い本はないぞなもし」と貸してくれました。図書館が閉鎖されている中、もう、自宅に本を飾ったり、収集癖がなくなったので有難いことです。(立花氏は、本は買うべきもので、図書館などで借りるのはけしからん、と主張していて、私もその影響で必ず買っていましたが、彼の魔術がとけ、可処分所得が激減してからは、本はどんどん図書館で借りるようになりました=笑)

 いつもながら前書きが長い!(笑)

 久しぶりに立花氏のの著作を読んでみると、「クセが強い!」と初めて感じました。若い頃は気が付かなかったのですが、ちょっと上から目線が鼻につくようになりました。

 例えば、「今の若い人は、例外なしに『国体』のことは国民体育大会のことだと思っている。国体にそれ以外の意味があるとは夢にも思っていないのである」…といった書き方。私はもう若くはありませんが、国体を知っている若い人は「ムっ」とくることでしょう。というか、近現代史関係の本を少しでも齧った人なら、国体とは自明の理であるはずです。

 それが、冗談でも誇張でもなかったんですね。立花氏にはこの本の関連本として「東大生はバカになったか」があるように、今の東大生でさえ、ほとんどの学生が国体とは何たるかを知らないようです。ジョン・レノンと同じ1940年生まれで戦後民主主義教育を受けた立花氏も、30歳半ば過ぎまで正確な意味は知らなかったと告白しています。

 あ、また、話が飛んだようです(笑)。

 とにかく、この本は、日本人とは何か、明治維新を起こして、「文明開化」「富国強兵」をスローガンに近代国家を建設した元勲らとその官僚が、どのような思想信条を持って実践したのか、事細かく描かれ、「なるほど、そういうことだったのか」と何度も膝を打ちたくなります。

 彼らが、古代律令制を復古するような天皇中心の「大日本帝国」を建設するに当たり、最初に、そして最も力を注いだのが「教育」でした。帝国大学(東京帝国大学と、頭に東京さえ付かない唯一無二の大学)を頂点にして、全国津々浦々、隅々まで小中高等学校を張り巡らし、国家の有能な人材を養成していくのです(帝大法学部は、一時期、無試験で官吏になれる官僚養成機関になっていました)。同書では、帝大(東京大学)ができるまで、江戸時代の寺子屋や昌平黌や天文方や蘭学塾などの歴史まで遡り、欧米列強に追い付くために、最初は、江戸の種痘所の流れを汲む医学部とエンジニア養成の工学部に注力した話など逸話がいっぱいです。何よりも、東大を創ったのは、あの勝海舟だったというのは意外でした。勝海舟は、ペリー来航の混乱の中、幕府に対して、西洋風に兵制を改革して、天文学から地理学、物理学等を教える学校を江戸近郊に作るよう意見書を提出し、それが川路聖謨(としあきら)や岩瀬忠震(ただなり)ら幕閣に採用され、洋学所改め蕃書調書の設立の大役に任命されたのでした。

 まだ、第1巻の前半しか読んでいませんが、明治10年に東京大学(まだ帝国大学になる前)の初代総長を務め、福沢諭吉と並ぶ明治の代表的な啓蒙思想家である加藤弘之が、最初は、立憲君主制を標榜する「国体新論」などを発表しながら、明治14年になって、絶版を宣言する新聞広告を出します。しかも、その後は、この立憲君主制や天賦人権説まで自ら否定してしまい、学者としての生命は終わってしまいます。その代わり、政府に阿ったお蔭で、勲二等や宮中顧問官など多くの栄誉を国家から授与され、胸には勲章だらけの姿で生涯を終えます。

 なぜ、加藤弘之が急に変節したかについては、元老院(明治8年から国会が開設される明治23年まで過渡的に設けられた立法機関)議官の海江田信義によって、「刺殺しかねまじき勢いで談判」されたからだといいます。この人物は、元薩摩藩士で幕末の生麦事件の際に英国人商人を一刀両断で斬殺した人で、海江田の実弟は桜田門外の変に薩摩藩から加わり、井伊直弼大老の首級をあげたといいます。立花氏は「加藤ならずとも、ビビっても不思議ではない」と半ば同情的に書いています。

緊急事態宣言下の東京・有楽町の金曜日の夜

 まだまだ書きたいのですが、今日はもう一つだけ。

 私は皆さんご案内の通り、城好きで、昨年4月に、千葉県野田市にある関宿城を訪れたことをこのブログにも書きました。その際、関宿藩が生んだ偉人で、終戦最後の首相を務めた鈴木貫太郎の記念館にも立ち寄ったことを書きました。でも、2・26事件で、侍従長だった鈴木貫太郎がなぜ襲撃されたのか知りませんでした。それは、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約を締結する問題で、帷幄上奏よって、条約反対を訴えようとした加藤寛治軍令部長に対して、日程の都合で鈴木侍従長が翌日に回したおかげで、浜口雄幸首相による条約調印を可とすることが裁可され、鈴木侍従長による統帥権干犯問題に発展したからでした。2・26事件はその6年後の昭和11年ですから、軍部の間では、鈴木侍従長は「国賊」としてずっとブラックリストに載っていたのでしょう。この本では、明治の近代国家がどうして昭和になってこんなファナティックな軍部独裁国家になってしまったのか、分析してくれるようです。

 東大に行った人も、東大に行けなかった人も、色んな意味で日本の近代国家の成り立ちや仕組みがこの本でよく分かります。この本を読んだか読んでいないかで、世の中を見る視点や考え方が激変すると思います。これから4巻まで、本当に読むのが楽しみです。

「ハルビン学院の人びと 百年目の回顧」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

通勤のバス・電車は結構空いてますが、少しでも咳をしようものなら、周囲から刺すような白い目で睨まれます。

 もちろん、マスクをしています。マスクをしないと非国民扱いです。そのうち、マスクをしない輩を見つけると棍棒で殴りつける「自警団」が跋扈することでしょう。

さて、飯島一孝著「ハルビン学院の人びと 百年目の回顧」(ユーラシア文庫)を読了しました。4月13日に初版が出たばかりの本です。

 例によって、宮さんがわざわざ自宅にまで送ってくださいました。緊急事態宣言とやらで、本屋さんまで自粛閉店してしまいました。都心の大型店舗は休業ですし、私の住む田舎の書店のほとんどは潰れてしまいました。昨日は、NHKラジオの語学テキストを買いに都心の書店に行ったら、「当面休業」の張り紙。多分、緊急事態宣言が発令されている5月6日までは閉店されることでしょう。5月号のテキストですから、間に合いませんね。どうせよ、っちゅうねん?

 「ハルビン学院」の本の著者飯島氏は、東京外国大学ロシア語科を卒業後、毎日新聞社の記者となり、モスクワ特派員を6年間も務めた人ですから、文章が読みやすい。早い人なら2時間ぐらいで読破できます。

 ハルビン学院は1920年、ロシア語とソ連事情に精通した人材を育てる目的で日露協会により中国東北地方の哈爾濱市に日露協会学校として設立されました。ということは、今年でちょうど開校100周年です。もっとも、1945年の敗戦とともに、廃校になったため、わずか25年間の存在でした。全寮制で授業料免除ということで全国の俊才が選ばれた超エリート校で学年で60~100人程度でしたから、卒業生全体で1514人です。閉校になって今年で75年になりますから、同窓会の生存会員はわずか64人で、著者の飯島氏も、執筆前は「十分な取材ができるか不安だった」とあとがきで打ち明けています。

 同書では、満鉄初代総裁や東京市長などを歴任した後藤新平が中心になって政財官界の協力で設立された日露協会のこと、1932年の満洲国建国後に日露協会学校から哈爾濱学院に改称され、関東軍の主導下になったこと、1940年には満洲国立大学に格上げされ、中国人やモンゴル人らの入学も増えたことなどハルビン学院の沿革が詳細に記述されています。

 また、卒業生にも直接インタビューして生の声を拾っています。この中で、25期の神代喜雄さんという方が登場します。奉天(現瀋陽)で育ち、ハルビン学院で学んだので、中国語とロシア語の二か国語ができたそうです。終戦後、ソ連軍の捕虜となり、2年間収容所に抑留されて帰国。共同通信(88ページに同盟通信〈現共同通信〉と書いてますが、神代氏が入社した戦後は、同盟通信は消滅しているので、明らかに間違いですね。共同通信だけでいいです)の記者を8年勤めた後、日ソ東欧貿易会に入り、日ソ経済の橋渡し役を務めた人です。

ハルビン学院 copyright par 恵雅堂出版

 個人的ながら、私の小中学校の同級生に神代京子さんという人がいますが、もしかしたら、この神代氏は、神代京子さんの父親かもしれません。7、8年前に会った時に御尊父はハルビン学院出身だと聞いたことがあるからです。その後、彼女とは急に音信不通になってしまい、確かめることができないのがとても残念です。確か、同じ小中学校の同級生に原一郎君がいましたが、彼の御尊父もハルビン学院出身だということを彼女から聞きました。

 このように、ハルビン学院出身の同窓生は異様に絆が深く、毎年4月に東京・高尾霊園での記念碑祭を行うなど結束が固いことでも有名です(今年は残念ながら中止)。卒業生にはロシア文学者の工藤精一郎や内村剛介(本名・内藤操)ら著名人がおりますが、私自身がハルビン学院と何らかの関わりを持つことになったのは、陶山幾朗編「内村剛介ロングインタビュー」(恵雅堂出版、2008年5月)を読み、このブログに掲載したことがきっかけでした。これが御縁で、編集者の宮さんと知り合い、色んな資料を提供していただき、恵雅堂出版が私の卒業した中学校の卒業アルバムの編集出版社だったことが分かり、写真は私が勤めていたマスコミの写真を使用していたことも分かり、妙な御縁を感じてしまったわけです。(このほか、恵雅堂出版の創業者の故・麻田平蔵氏らが始めたロシア料理店「チャイカ」にも何度もお邪魔しました)

現在のハルビン学院 Copyright par Duc de Matsuoqua

 実際、私も2014年に満洲旅行を決行し、哈爾濱にも行き、ハルビン学院の跡も見てきました。エリート大学が幼稚園になってしまっていました。上の写真の通り「藍天幼稚園」とありましたが、2015年頃に火災のため移転し、現在、中国空軍の管理下になっているそうです。

 このことについては、2017年10月2日に「哈爾濱学院 余話」のタイトルで書いております。藍天幼稚園は、単なるそんじょそこらの幼稚園ではなく、空軍将校の子弟が通うエリート幼稚園だったようです。

 飯島氏の本では、そこまで触れていないので、おっせかいにも付け加えさせて頂きました。また、増刷されるとき、巻末に簡単な年譜を付ければ、読者としても有難いと思いました。

「倭の五王」は確定できず=1600年経っても全く変わらない東アジア情勢

 このブログで4月14日(火)に書いた「1970年の『レット・イット・ビー』から半世紀も経つとは…」では、全く個人的な音楽遍歴を遠慮しながら書いたのに、コメントとメールで意外にも多くの皆様から反響を頂きましたので、吃驚です。

 音楽の話はいいですね。またマニアックな話を書きたいと思っていますが、今日は一つだけ追加しておきます。10代の頃から洋楽ばかり聴いてきた、と書きましたが、邦楽も、レコードは買いませんでしたが、結構聴きました。私が中高生の頃は、フォークソングが大ブームだったからです。吉田拓郎や井上陽水といったメジャーだけでなく、深夜放送などで、頭脳警察やNSPなど聴いている変わり者でした。当時、大人気で「フォーク界の貴公子」と呼ばれたケメこと佐藤公彦さん(1952~2017)は今どうしているのか調べたら、65歳で亡くなっていたんですね。もう若い人は誰も知らないでしょうが…。

 ニューミュージックにしろJ-POPSにしろ邦楽が厄介なのは、死んでもいいくらいという熱烈なファンがいることです。いつぞや、何かの拍子に、会社の先輩に「僕は、ユーミンとか中島みゆきとか、あまり好きじゃないんですよね」と言った途端、彼は烈火の如く怒りだし、「ファンに失礼じゃないか!」と常軌を逸した怒り方で、私も殺されるかと思いましたよ。

 前置きが長くなりましたが、今日は、昨日読破した河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公新書、2018年1月25日)を取り上げます。古代史に興味を持っていることを知った会社の同僚の矢元君が貸してくれたのでした。2年前の本ですが、凄い本でした。小林秀雄の真似をすれば「頭をガツーンと殴られたような衝撃」でした。古代史は不明なことが多く、最後は推測するしかないので、この本もミステリー小説のように、「この先どうなるのだろう」とハラハラ、ドキドキしながら読めました。

 ただ、読後感がすっきりしないのは、結局、真相がまだ分からないせいかもしれません。倭の五王とは誰のことか、決定付けられないのです。しかし、逆にそれが古代史の醍醐味なのかもしれません。

 「倭の五王」とは、西暦421年から478年にかけて、中国南朝の「宋」に使者を派遣した讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の大和朝廷の大王のことです。当時はいまだに「天皇」の称号は使われていませんでしたが、讃は、第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代履中天皇、珍は、第18代反正天皇、済は、第19代允恭天皇、興は第20代安康天皇、武は第21代雄略天皇という説が有力です。5世紀の「宋書」夷蛮伝倭国条(そうじょ いばんでんわこくじょう)に書かれ、本書では頻繁に引用されます。

 「説が有力」と書いたのは、日本の唯一の原資料である「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)と照合すると、当該天皇と在位年代が合わず、矛盾を生じるからです。しかし、倭の五王から約300年後に書かれた記紀に登場する天皇についても、実在が不確かな天皇(欠史八代など)がいたり、「万世一系」となっていながらも、疑問の余地があると主張する学説(崇神天皇と応神天皇と継体天皇の三王朝交代説)もあり、話が一筋縄ではいかないのです。

 倭の五王が使者を送ったのは、宋から爵位を得るためでした。雄略天皇と見られる五王最後の武は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられますが、その代わりに宋の皇帝に朝貢して冊封を受けるという形です。つまりは、宋の臣下になり、支配下に入ることで、宋皇帝の威信によってお墨付きを得ることです。(武=雄略天皇=ワカタケルとなると、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣にワカタケルと刻まれていることから、雄略天皇のことを記述しているとされていましたが、著者は、武とワカタケルを同一人とするのは慎重に考えるべきだと主張してます)

 倭の五王は中国の臣下だったということで、天皇神聖絶対主義の国家主義体制を敷いていた戦前では、タブーであり、倭の五王研究は戦後になって本格化するのです。(中国の史料を使って日本で最初に研究したのは室町時代の禅僧・瑞渓周鳳=ずいけい・しゅうほう=1391~1473年で、その後、江戸時代の松下見林、新井白石、本居宣長らに引き継がれます)

 3世紀の邪馬台国から150年もの長い間、中国との交信が途絶えていたのに、5世紀になって急に倭の五王が中国に使者を送ることになったのは、当時の東アジアの国際情勢が背景にあります。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権を争いが日本にも波及していたからです。大和朝廷は、朝鮮半島南部に鉄資源を確保するため任那や伽耶などを支配下に置き、百済と濃厚に結びつき、高句麗の南下攻撃で、百済の王子は日本に亡命したりしていました。中国南朝の宋は、北朝の北魏(鮮卑族)などと一触即発で対峙しており、朝鮮半島を味方につける戦略があったのでした。

 結局、宋は、高句麗を開府儀同三司(府を開く際にその儀を宰相の地位と同じくする)という最高の待遇を任じます。一方の倭は、この開府儀同三司に任じられることなく格下に甘んじることになりますが、479年の宋滅亡後は、倭は遣使を送らなくなります。

 ところで、倭の五王の名前は、何で一文字なのか気になっていたのですが、同書によると、百済の影響のようです。高句麗の長寿王は、宋に対して、高璉と名乗りましたが、姓の「高」は高句麗から取ったといわれます。百済の腆支王は餘映で、姓の「餘」は「扶余(餘)族」を標榜したことからと言われます。名の「映」は中国側の腆の書き誤りとも言われています。本当は、扶餘族は高句麗の出自で、百済とは関係ないとも言われていますが、対抗措置としてそう標榜したと言われています。

 これにより、日本の5世紀の五王の姓は「倭」ですが、名前を讃・珍・済・興・武と一文字に名乗ったわけです。本書で初めて知りました。しかも、いずれも「好字」と呼ばれる良い意味を持つ漢字を使ってます。3世紀の「邪馬台国」とか「卑弥呼」の「邪」と「卑」は、好字ではなかったことと比べると違いが分かる、という著者の指摘には目を見開かされました。

 本書では、もっともっと複雑なことが書かれています。ここまで分かりやすく書くのに大変苦労しました、と書き添えておきます(笑)。本の帯には「1600年前の『日本』の国家とは」と書かれています。宋は今の中華人民共和国、高句麗は今の北朝鮮、百済、新羅は今の韓国ですから、東アジアの国際情勢は、1600年経っても全く変わらないことが、これでよく分かるのです。

 

朝日新聞の暴露本?創業家の村山美知子三代目社主が可哀そうに思えます

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 「貴方のことですから涎を垂らしながら読む本がありますよ」と、大阪にお住まいの難波先生のお薦めで、樋田毅著「最後の社主 朝日新聞が秘封した『御影の令嬢』へのレクイエム」(講談社)を読了しました。2020年3月26日初版ですから、出たばかりの本です。

 最後の社主とは、日本を代表する天下の朝日新聞社の創業者村山龍平翁の孫として生まれた三代目の社主村山美知子氏(1920~2020)のことで、今年3月3日に99歳で亡くなられたばかり。あまりにものタイミングの良さが逆に不可解に思われますが、それは、美知子氏本人らの承諾の下で、事前に大枠が執筆されていたからでした。著者の樋田氏は、元々、朝日新聞の事件記者で、会社側から村山家の内情を探るように送り込まれた「秘書役」を都合7年間務めた人でした。会社と創業家である社主との間では、長い間、経営権や株式所有権など「資本(株主)」と「経営」の問題で緊張関係が続いていました。

 いわば「密偵」として送り込まれた樋田氏が、次第に社主の美知子さんの人間的素晴らしさに魅了され、逆に理不尽な経営陣の「オレオレ詐欺」のような阿漕なやり方に憤りを感じていきます。この本は、それら内部事情を実名を挙げて暴露した告発本として読めなくもありません。

 結局、美知子社主の所有していた朝日新聞の11.02%の株式は、創業者の龍平翁が心血注いで収集した香雪美術館に遺贈する形で、経営陣は資本から切り離すことに成功します。既に、美知子氏の実妹である富美子さんが所有していた3.57%の株式と富美子さんの子息で美知子社主の甥にあたる村山恭平氏が所有していた5%の株式は、凸版印刷と従業員持ち株会へ譲渡されていて、これで、創業一族である村山家と朝日新聞との資本関係を断ち切ることに経営陣は成功するのです。どうやったのかー、については本書に事細かく書かれています。天下の朝日(の経営陣)がこんな酷いことをしていたのか、と多くの人は失望することでしょうが、いわば内部の人間が書いたことなので真実なのでしょう。何しろ、著者は当初、美知子社主の遺産を相続する養子探しを村山家の家系図(親族には三井宗家、三菱岩崎家、信州の小坂財閥、皇族の常陸宮妃華子さままでおられた!)まで作成しながら奔走しますが、最後は経営陣によって、良いところまでいった養子縁組をつぶされたりします。

 とはいえ、私自身は、これら「村山騒動」に関してはそれほど興味ありません。それより、ここ描かれた村山美知子さんという大新聞創業者の孫として生まれた「深窓の令嬢」の暮らしぶりには、度肝を抜かされるほど圧倒されました。

 日教組やリベラリストが大好きな朝日新聞ですが、世間で思われているほど反体制的でもないし、赤貧洗うが如しの労働者のためにキャンペーンを張るような庶民の味方の新聞でもなく、これを読むと、新聞経営で大成功を収めた大富豪の手慰みの新聞にさえ思えてきます。右翼だ、左翼だ。反中だ、反韓だ、などとイデオロギー一辺倒で騒ぐ貧乏臭いメディアとは一線を画しています(笑)。村山美知子社主の育ちぶりを読むと、世の中には、右翼も左翼もいない。人間には、特権上流階級とそれ以外しかいない、ということが如実に分かりますよ。

 何しろ、創業者の村山龍平翁が建てた神戸市御影の自宅の敷地は約1万坪で、1908年(明治41年)ごろに3階建ての洋館が建設され、藪内流茶道家元の茶室「燕庵(えんなん)」を模した「玄庵」などが設けられ、その後、敷地内には龍平翁が収集した美術品を集めた香雪美術館も1973年に開設されます。

 香雪美術館は、重要文化財19点、重要美術品23点を含む約2000点が収蔵されています。私も一度、難波先生のお導きでこの御影の美術館を訪れたことがあります。そして、当然のことながら、村山家の豪邸の敷地を拝見することになりましたが、歩いても、歩いても、敷地を囲む高塀がどこまで行っても尽きることなく続いていたことをよく覚えています。阪急電鉄創業者の小林一三は、同電鉄神戸線を敷設する際、村山邸の敷地を買収できず、線路が迂回してしまったことを悔やんだといいます。御影は超高級住宅街として知られ、周辺には住友銀行初代頭取の田辺貞吉邸、武田薬品の武田長兵衛邸、大林組社長の大林義雄邸、野村財閥創業者の野村徳七邸、伊藤忠の創業者伊藤忠兵衛邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、岩井商店(後の日商岩井~双日)の岩井勝次郎邸、東京海上専務で美知子社主も通った甲南学園の創立者でもある平生釟三郎邸などの大邸宅が建てられました。

 村山家は、広大な本邸のほかに、有馬温泉や六甲山や伊豆などに別荘を持ち、東京の滞在先として今はホテルオークラの別館になっている麻布市兵衛町の約3000坪の別邸があったといいます。特権上流階級のスケールが違いますね。想像できますか?

 美知子さんの父親で二代目社主の長挙氏は、旧岸和田藩主の岡部長職(ながもと)の三男だったことはよく知られています。創業者龍平の方は、紀州藩の支藩だった田丸藩(三重県玉城町)の元藩士だったことから、玉城町の中心部にある約10万平方メートルの広さの城山を国から約3万円(今の価値で数億円)で買い取り、町に寄付したといいます。城山の山頂にはあの北畠親房が創建した田丸城の城址があるという逸話も書かれ、私なんかは城好きですから、「村山騒動」の話よりこちらの方が惹かれました。

 美知子さんは「三代目社主」として小さい頃から「帝王学」のようなものまで学び、日本舞踊や茶道、それに戦前は富裕層しかできなかったスキーやフィギュアスケートなども活発に励行しますが、何と言っても、後年、大阪フェスティバルホールを創設して専務理事になるほどですから、作曲家呉泰次郎の音楽塾で作曲法などを学びクラッシック音楽の素養を身に着けます。この審美眼が、若手アーティストの発掘にもつながり、カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾ら最高の音楽家らと華麗なる人脈もできます。「村山騒動」よりも、美知子さんが最も輝いていた時だったので、この辺りの描写は読んでいて気持ちが良いです。

 それにしても、朝日新聞経営陣による創業家一族に対する扱い方は酷いものですね。人間とはそういうものかもしれませんが、読んでいて気分が悪くなりました。