ややこしい竹島問題にはあまり触れたくないのですが…

  韓国との間で領有権問題でもつれている竹島(韓国名・独島)が再び騒がしくなりました。

なぜ、今この時期になって、再燃したのかと思ったら、今年は約10年に一度の中学校の学習指導要領の改定の年だからなんですね。今回初めて、先生のアンチョコ本、いやいや学習指導要領解説書に「竹島は日本固有の領土」と間接的に明記されることになり、韓国では逸早く、恐らく普通の日本人以上に速くこのニュースをキャッチして、抗議運動や駐日韓国大使の召還などに踏み切りました。

間接的明記というのも変な日本語ですが、それは同島を実効支配している韓国に配慮したためなのだそうです。今回初めてということは、日本人はこれまで、教科書で「竹島は日本の固有領土」ということを習ってこなかった、と認めたことになります。

同解説書には「北方領土は我が国固有の領土」と明記してから「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」と、恐る恐る書いています。「先生方の皆さん、教科書会社の皆さん、あとは任せたからよろしく」と読めないことはありません。

現在、竹島を取り上げている日本の教科書は、地理が6冊中1冊。公民が8冊中3冊。この解説書のおかげで、早くも来年度のすべての教科書に竹島のことを取り上げられるという報道もありました。韓国の教科書には既に何十年も昔から「独島は韓国の固有の領土」と明記されているので、韓国国民は、自明の理としています。

竹島は日比谷公園とほぼ同じ広さ(0・21平方キロメートル)の岩だらけの小さな島で、とても人間が住めないのですが、近辺には魚など天然資源が豊富で、面子とナショナリズムの問題もあり、まず、両国の間だけでの問題解決は不可能でしょうね。日本は国際司法裁判所(ICJ)に提訴に同意するよう韓国に求めても、拒否しているので、このまま睨み合いが続くことでしょう。そもそも、ICJに提訴しても、その判事の構成員によっては判決は怪しいものになります。

韓国国内では、日本の国旗を焼いたり、日本大使館に卵を投げつけたりして抗議運動は尋常ではありませんが、米国産牛肉輸入問題などで、支持率が大幅に低迷している李明博大統領による、国内の不満をそらすためのスケープゴートだという見方をする識者もいます。

私自身の意見は、日本人ですから、その立場で、「竹島は日本固有の領土」を教科書に盛り込むことは賛成です。

しかし、福田首相の「お互いの立場はある。しかし、立場は乗り越えて、理解も深めていくということは必要ではないか」いう発言は、日本語としてよく分かりませんね。政治的回避でしょうが。

14日に、丸谷才一氏が「本居宣長より偉い最高の日本語学者」と評価する大野晋氏が亡くなりました。大野氏だったら、どういう風に日本語で表現するか聞きたかったですね。

太宰治没後60年

私は、基本的に花なら何でも好きです。

 

春は菜の花や桜やチューリップ、夏は向日葵、秋は秋桜、冬は寒椿…ありふれていても、季節を感じ、生きていてよかったと思います。花は人を裏切りませんからね。

花というといつも思い出す逸話があります。

中原中也が、酔って、太宰治にからみます。

「おめえは、いってい、何の花が好きなんだよぉ?」

中也と太宰は、昭和初期、同人誌「青い花」の同人でしたから、その会合か飲み会の席だったのでしょう。

太宰は多少、どもりながら答えます。

「も、も、も、桃の花…」

顔を真っ赤にして俯いています。

「なあにぃー!?桃の花だとー!?」 中也はからみます。

「だから、おめえは、軟弱だって言われるんだよ!」

この最後の「軟弱」が、「女々しい」だったかもしれませんが、とにかく、罵倒された太宰は何も答えられなかったようです。

私は、その場に同席したわけではないのに、まるで一緒にいたかのような錯覚に襲われることがあります。

花を見るといつもこの逸話を思い出して、一人でニヤニヤしてしまいます。

普通、一番好きな花に「桃の花」を挙げる人はいません。太宰の天才的触感を感じてしまいます。

今年は太宰没後60年、来年は生誕百年。久しぶりに読み返しています。

あと、30分遅かったら…

 

 

 

 

 

今日は、短い雑報を…

●もう7年以上も会っていませんが、私の女性友達(あ、もう知人かもしれません)が、あの秋葉原の殺傷事件のあった現場を歩いていたというのです。ご自分の会員向けのブログに書いていました。「あと、30分遅かったら、私も事故に巻き込まれていたでしょう」と、大袈裟に書いていましたが、私には、大袈裟には思えませんでした。

大変不謹慎な書き方になって、多分、多くの誤解を招くかもしれませんが、人によって、運なり、不運なりを引き寄せてしまうタイプの人が、世の中にはいるものなのです。

彼女は、あの1995年の神戸大震災を経験しているのです。九死に一生を得て、本当に、危機一髪で、死から逃れました。

ですから「私も事故に巻き込まれたかもしれません」と彼女が書いたとき、とても、絵空事には私も思えなかったのです。

●このほど、リクルートが創刊した団塊世代向けの雑誌「コレカラ」。創刊号だけ、申し込めば、無料で見本誌として送ってくれるというので、申し込んだら、先日届きました。

正直言わせてもらえば、全編、宣伝ですねえ。まさに、リクルート商法。内容は、旅の話、グルメの話。別荘、不動産の話。お金の運用の話…。功なり名を遂げて、ある程度の余裕財産を持った人間にとっては大変魅力的な企画です。お話のすべて、金額まで明記されていますから、まさに「宣伝」そのものです。

私も余裕があれば、ひとつ、話に乗ったことでしょう。

こんな風に皮肉に書くということは、持たざるものの僻みということなのかもしれませんけどね。

●日曜日に大好きな神保町に行った帰り、どっか、一杯でもひっかけようかと思ってウロウロしたのですが、結局、お茶の水駅にまで行ってしまい、「おきなわ軒」という沖縄料理店に入ってしまいました。ビールと焼酎一杯ずつと、焼きソバで、2400円という値段。後から考えたら、学生街にしては随分高い店でした。

でも、宮古島の焼酎「菊之露」は絶品でした。 何しろ、モンド・セレクションで金賞を獲得したという代物ですから。5年寝かせた古酒で、アルコール度は何と40度。コクとまろみと甘みがあって、至福の味でした。一杯650円。奨められるまま、ロックで飲みましたが、「え?これが焼酎なの?」という感じでした。

これはお奨めです。

神保町では、必要に迫られて、昭和16年の古地図を買ったのですが、驚いたことに、銀座7丁目のリクルート本社ビルがあった所に何があったと思います?

何と、何と、徳富蘇峰が創刊した国民新聞社があったのです!

これには驚きましたね。http://blog.goo.ne.jp/keiryusai/e/f24da3a997dd1c793dc1b7b4fdf6006b

我輩の辞書…

 

 

 

ナポレオンの言葉に、「 我輩の辞書に不可能という文字はない」という名文句があります。どなたでもご存知でしょう。

 

でも、英語で何と言うかご存知ですか?

 

The word  “impossible” was not in Napoleon’s (                    ).

 

といいます。さて、括弧の中に何が入るでしょうか。

辞書だから、dictionary ? ・・・実は、私もそう思いました。

 

でも、答えは、 vocabulary  なんですね。

 

「歴史的事実」なので、was より is の方が良さそうだと私自身思ったのですが、とにかく、

The word  “impossible” was not in Napoleon’s vocabulary.

というそうです。

でも、ナポレオンはフランス人。原文のフランス語では何というのですかね?

調べたら

 

Impossible n’est pas francais.

 

と言いました。直訳すると、

 

不可能はフランス的はない。

 

たったそれだけでした。随分、簡単なんですね。

 

ナポレオンが部下を叱咤激励した際、「フランス人ならできないことはない」という意味で使ったそうです。

 

フランスの諺に

Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.

というものがあります。

明晰ではないものは、フランス語ではない。

という意味です。

 

英語は、発音にしても意味解釈にしても結構、曖昧なところがあります。が、フランス語は文法が少し厄介ですが、確かに明晰で、曖昧なところが少ない。「L」と「R 」の発音も全く違うので簡単に区別できます。

 

日本人にとって、英語よりフランス語の方が学習しやすく、身に着きやすいと私は思っています。

川島昭隠の「書」

公開日時: 2008年5月21日 @ 10:14

調布先生が年甲斐もなく(笑)子供のようにはしゃいでいます。

何やら、最近、オークションにはまって、「激戦」の末、川島昭隠老師の「書」を競り落としたというのです。

http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n65427048

川島老師は、岐阜県生まれの禅僧で、妙心寺派管長などを務め、大正13年(1924)に60歳で入寂されたそうですが、正直、私はよく知りませんでした。

この「書」には、正眼寺住職を務めた谷耕月老師の箱書が付き、調布先生によると、その価値を飛躍的に高めているということです。

またまた、谷老師についても私はよく知らなかったのですが、谷老師には、二階俊博や田中六助といった政界の大物が師事したという話です。戦国時代の安国寺恵瓊http://blog.goo.ne.jp/keiryusai/e/52483bbd78e7a1c4ba49017bd6ec97d3をはじめ、政治家と老師とはいつの時代でも密接な関係があるものなんですね。

つまり、いつの時代でも、老師は、精神的なメンターから政治的仲介交渉人の役割を果たしてきたという意味です。欧米やイスラム世界でも同じでしょうね。

さて、川島老師の「書」の話です。調布先生は「やっぱり、すごい。本物の迫力は違う。いつか見に来てくださいね」とウキウキされております。

世の中、「四川大地震」や「米大統領候補選挙」など色々とあるのに、私も、どうやら「半径500メートル以内」の狭い世界で生きているようです。

でも、いつか、この「書」の写真をアップできたらいいなあ、と思っています。

歴史的事件は半径500メートル以内で起きる!


 


 東京の話で恐縮です。今、有楽町マリオンがある所は、以前、日劇と朝日新聞社があったことを知っている人は、まだかなり多いと思います。マリオンの竣工は1981年。27年前のことだからです。


 


 


 しかし、このマリオンからJR線を挟んだ向こう側、今、有楽町電気ビルがある所に毎日新聞http://www.mainichi.co.jp/annuncio/enkaku.html東京本社ビルがあったことを知る人は今ではそう多くはないと思います。毎日がこの有楽町を離れて、竹橋の「パレスサイドビル」に移転したのは1966年のことだからです。私も子供の頃に、有楽町の駅のプラットフォームから見える古ぼけたビルに「毎日新聞社」の看板がみえたことだけは覚えています。電気ビルには今でも「外国人特派員協会」がありますね。恐らく既得権なのでしょうね。


 


 


 それでは、読売新聞http://info.yomiuri.co.jp/company/history/はどこにあったのでしょうか?今、大手町にある東京本社は1971年に完成しています。それまで、今「銀座プランタン」がある所にあったのです。プランタンの隣りに昨年秋に「マロニエゲート」ができましたが、よく見ると、このビルの上階の外壁に読売新聞のロゴがあります。この辺り一帯が読売新聞社の土地であることが分かります。


 


 驚いたことに、有楽町駅前にある「ビックカメラ」は、その前は、「有楽町そごうデパート」でした。(そう言えば、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は、1957年、このそごうデパートの宣伝歌として作られたと聞いたことがあります)。そこに今でも「読売ホール」があります。


 


 


 何で、読売新聞と関係があるのかなあ、と思ったら、そこに報知新聞社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E7%9F%A5%E6%96%B0%E8%81%9Eの社屋があったからなのです。報知新聞は、戦前は東京五大新聞の一つでしたが、経営難から戦時中に読売に買収されます。明治時代は、早稲田大学を創った大隈重信と密接な関係があった新聞です。


 


 早稲田と言えば、慶応で、慶大を創った福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1は、銀座6丁目の交詢社ビルにありました。時事新報は、今の日経新聞より格が上の一流の経済・産業新聞でした。関東大震災や帝人事件などがあり、部数が低迷します。


 


 


 


 この近くの銀座並木通りは、明治から大正にかけて、かつてのロンドンのフリート街のように新聞社通りでした。滝山町には今「asahiビル」がありますが、ここがかつての朝日新聞社だったんですね。このビルにはプロ野球のセ・リーグとパ・リーグの事務局があり、私は、以前、もう20年以上昔に、何も知らずに出入りしていたのですが、そこが朝日新聞社のかつての東京本社ビルだったとは全く知りませんでした!


 


 今では、このビルの前に朝日社員だった石川啄木の碑が立っており、かつて新聞社があったことが記されています。先日、調布先生に連れて行かれて、大変驚きました。このasahiビルの真向かいに「岩月ビル」がありましたが、これは、明治から大正にかけて、朝日新聞の販売を一手に引き受けた岩月宗一郎と関係があったのですね。今でも、ここに全国新聞販売連合の事務局がありました。新聞販売の総本山みたいなところです。


 


 並木通りには河北新報など地方有力紙の東京支社が今でもあります。(北海道新聞東京支社は虎ノ門に移転)


 


 キリがないのでこの辺でやめておきますが、これらの話の大部分は、最近ご縁があって昵懇にして頂いているメディア研究家の今西光男さんに直接ご教授頂いたものです。


 


 今西さんの教養と学識の深さと人脈の広さには眩暈がするほど圧倒されてしまい、自分の浅学無智には恥じ入るばかりなのですが、先日、面白いことを教わりました。今西さんの話は、ほとんどオフレコの書けない話が多いのですが、これは大丈夫だと思います。


 


 それは「歴史的事件は半径五百メートルの範囲で起きる」というものです。今でも、日本の物事は、霞ヶ関と永田町という本当に狭い空間で全ての事柄が決定されております。半径五百メートルというのは比喩的な意味ですが、案外狭い所で人が行き来しているということなのです。


 


 


 面白かったのは、虎ノ門の霞ヶ関ビル辺りに霞山会http://www.kazankai.org/info/dobun.htmlがありますが、ここに、戦前、近衛邸があったというのです。この近衛邸の向かい、今「商船三井ビル」がある所は、満鉄、つまり満洲鉄道の東京本社があったというのです。ここに、ゾルゲ事件で連座した尾崎秀樹が満鉄調査部の嘱託として勤務していました。尾崎は、朝日新聞社上海特派員の頃にゾルゲと知り合いますが、朝日退社後、近衛文麿内閣のブレーンとして、嘱託になります。霞山会の前身は「東亜同文会」という中国問題研究会で尾崎も頻繁に出入りしていました。彼は、こんな狭い所でウロウロしていたんだ!と本当に驚きでした。


 


 私はたまたまこの近くに職場があった関係で地理感覚があるので、尚更です。


 


 


 唐突ですが、幕末の1860年、万延元年に起きた桜田門外の変http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu04.htm。井伊直弼大老が水戸浪士に暗殺される事件なのですが、井伊大老が暗殺された桜田門は、井伊家の上屋敷の目と鼻の先。まさにまさしく「歴史的事件は半径五百メートル以内」で起きています!

ついに「靖国」を観てきました!

ついに、話題の映画「靖国」を東京・渋谷で見てきました。先日、弁護士会の試写会は落選して、「もう観られないのか」と諦めかけていたのですが、やっと、市井の民にも公開してくれました。場所は渋谷のシネ・アミューズ。まずは、予想されていた様々な妨害にも屈せず、公開にこぎつけた全国の映画館に感謝の意を表明したいと思います。ご覧のように、映画館の外では、二人の巡査クラスの警察官が、万が一に備えて待機し、館内では、二人の私服が、最前列に陣取り、一人の民間警備員がスクリーンの右横に上映中もずっと座っている、という物々しい警備態勢でした。観客は平日の午前だったので、「前期高齢者」が多く見受けられました。

 

私はこれでも、長い間、随分沢山の映画を観てきましたが、これほど厳しい警備の中で映画を見たのは初めてでした。

で、肝腎の映画はどうだったのかー。

あえて、賛否両論の大論争になることを覚悟して、私の正直な感想を書いてみたいと思います。

この映画を見た右翼の人で、「思ったほど反日映画じゃなかった」と言った人があるという記事を読んだことがありますが、「そうかなあ」と私は思ってしまいました。「反日」とは決め付けられないかもしれませんが、決して「好日」的に描かれていない。やはり、中国人の李纓監督の目から見た靖国神社(映画の原タイトル)であり、「嫌日」映画と言ってもいいと思います。日本に対して決して愛情を持って描いていない。それが私の率直な感想でした。

確かに、ナレーションはなく、「両者」の言い分を取り上げて、「中立的」には描いてはおりました。しかし、それでも監督の立ち位置は隠し切れません。無口で、職人気質の愚直な刀匠が主人公になっていますが、軍刀が日本のミリタリズムのシンボルになっており、時々、サブリミナル効果のように差し挟まれる軍刀による処刑シーンの写真は、否が応でもそれが凶器としての役割を担っていることを観た者に印象付けます。

それにしても、靖国神社という場は不思議な空間です。私も何回か行ったことはありますが、普段の何ともない日だったので、人も少なく割合と静かでした。

しかし、8月15日となると、全く違う空間としてエネルギーを発散するんですね。映画はこの8月15日を中心に撮られています。普段は冷静な市井の民が、自分と思想信条を違える人間を見た途端に豹変して、罵詈雑言を浴びせたり、平気で暴力を振るったりするのです。映画ではこのあたりを執拗に追っています。

私は、最初に嫌日映画と書きました。ということは、一人の納税者として、「この映画に助成金を出さなくてもよかったのではないか、もっと他の日本人の作った映画に助成するべきだったのではないか」という感想がよぎりましたが、こういう嫌日映画でも助成する日本の国家の懐の広さを感じ、あっぱれだと思ったので、反対はしません。

この映画が、これほど大騒ぎになったのは、昨年12月に週刊新潮が「反日映画」と書き、稲田朋美代議士が助成金を問題視して、「事前検閲」したことがきっかけでした。この映画で、議員になる前の弁護士の稲田女史が映っているという記事を読んだことがありましたが、集会で演説していた女性のことでしょうか?

彼女のプロフィールをネットで見てみると、自由主義史観研究会会員で、「伝統と創造の会」の会員のようです。そして、尊敬する人物として西郷隆盛を挙げておられました。

靖国神社は、官軍の戦死者の鎮魂のために建てられた東京招魂社が始まりですから、西郷さんはいくら明治の元勲とはいえ、最期は西南の役を起こして、明治政府に刃を向けた反逆者なので、靖国神社には祭られていません。況や、薩長土肥の革命政権に反発した会津藩の人々や新撰組の人たちも、祭られていません。もちろん、徳川政権の人々も。

そういう神社が国家神道のシンボルになったのは、列強欧米による植民地化を阻止するために富国強兵策を国是とした明治維新政府の意向があります。

我々日本人が靖国問題から逃れられないのは、組織に組み込まれたメカニズムのような、ボルトかナットの役目を一人一人が担っているからだと思います。我々は、先の大戦の加害者であり、被害者でもあるので、どちらの言い分が正しくて、どちらの言い分が間違っているという問題でもないのです。

ですから、私はこの映画に出てくる右翼の人たちの意見に共感したり、同時に反発したりしました。靖国に合祀されている元軍人の遺族の中で、合祀を取り下げるように神社に押しかける住職や台湾の人たちが出てきましたが、彼らに同情すると同時に、どこか、共感できない自分を発見したりします。

それじゃあ、お前はどっちなんだ。靖国参拝は賛成か反対か?白黒はっきりさせろ!と言われれば、私は喜んで「どちらでもない」と答えるのです。賛成者に対しては「戦争被害者の身になって考えたことがありますか」と言い、反対者には「国家(というより明治政府を作った薩長土肥による革命藩閥政権)のために身を捧げた英霊を尊崇する心を妨げることはできないのはないですか」と反駁します。

「ずるい、一番始末に終えない」と言われれば、それまでですが。

バーソロミュー・ディアスが見つかった?


 今年はブラジル移民100周年だそうですね。百年前の日本は、日露戦争(1904-05年)後の長引く不況で失業者が街に溢れ、その一方で、ブラジルでは奴隷解放などで一気に市場が開かれ、労働力が不足したという背景があるようです。(石川達三は、ブラジルでの農場体験を小説にした「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞しています。)


 


 ブラジルがポルトガルの植民地になったのは1500年4月のことです。ペドロ・アルバレス・カブラル(1460?-1526年)がリスボンからの航海成功によって成し遂げられました。


 


 


 面白い記事が載っていました。アフリカ南部のナミビア沖で、金貨数千枚や象牙50本以上、それに銅製の大砲6門などを積んだ沈没船が見つかったのですが、それは、バーソロミュー・ディアスの船の可能性が高いという記事です。


 


 バーソロミュー・ディアス(1450?-1500年)なんて、世界史を勉強した人にとっては懐かしい名前ですね。インド航海路を発見したバスコ・ダ・ガマ(1469?-1524年)の先輩格に当たるポルトガル人の探険家で、アフリカ南端の喜望峰を「発見」した人として歴史に名を残していますが、どうやら、このディアスは1500年、カブラルと一緒にブラジルを目指して航海に出たのですが、途中、この喜望峰あたりで遭難したというのです。


 


 ブラジルがポルトガル領になる8年前が、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した年なので、時は大航海時代。日本は室町時代で、明とチマチマと朝貢貿易をしていた頃です。1500年は特筆すべき歴史的事件はありませんが、1497年に蓮如が石山本願寺を創建し、その2年後に亡くなっています。


 


 


 ポルトガル人は「南蛮人」として、1543年に日本にもやってきて種子島に鉄砲を伝えたりしますから、世界中でブイブイ言わせていた時期です。アメリカさんはまだ、生まれたばかりの赤ん坊どころか、まだ、影も形もない頃です。


 


 16世紀末にはオランダやイギリスなどの信教国が台頭しますから、ポルトガルの天下は、百年そこそこでした。ブラジルに移民した貧乏国日本も百年経って、逆転して、世界第二位の経済大国となり、今ではブラジル人が日本に出稼ぎに来る時代になりました。我々は、いつの時代でも、世界史の流れの中に生きていることを実感します。

中国が毒入りギョーザ事件を謝罪しない理由

公開日時: 2008年4月9日 @ 12:09

中国ウオッチャーから実に興味深い面白い話を聞きました。

最近の中国は、毒入りギョーザを輸出しても謝らないし、チベットを弾圧しているし、コンピューターで不正アクセスして日本の個人情報を盗み出すし、本当に碌な国ではない、と日本人の多くは思っていることでしょう。極悪非道そのものです。

すると、中国ウオッチャーの彼はこう言うのです。

それは、ぬるま湯に漬かった日本人の感覚で、ひどい国だと思っているかもしれないが、中国ではそういうことをしないと生きていけないのです。生存競争に勝ち抜いていけないのです。確かに中国は近代化されたとはいえ、実質は、まだ群雄割拠の戦国時代、つまり三国志のような時代が続いているのです。

だから、自己保存のために、平気で嘘をつくし、裏切りもするし、密告もする。相手に弱みを決して見せられない。対日強硬発言も、日本に対してどうのこうのと思っているわけではない。むしろ、日本人などどうでもいいと思っている。むしろ、国内向けのメッセージであり、政治的プロパガンダでもあるのです。そうしないと、後ろからバッサリと切られる怖れがあるからです。いつ寝首をかかれるか分からないのです。

だから、良い悪いの話でもなく、正しい、間違っているというという話でもない。今の日本人など想像が全くつかない競争にさらされ、トップにいる人間でもいつ足を引っ張られるか分からない。チベットの独立を認めれば、あちこちで独立運動が起き、中華人民共和国が崩壊する。中国はソ連の崩壊を深く研究し、轍を踏まないようにしているのです。

そうなのです。私のように平気で嘘をつかれて、裏切られてワーワー騒いでいるようなヤワでは生きていけないのですね。日本人に生まれて本当によかったです。

「薬師寺展」に行きました

調布先生から「これから『薬師寺展』http://yakushiji2008.jp/index.htmlを見に行きましょう」と、昼間に突然電話がありました。世の堅気の人たちは額に汗して一生懸命に働いているというのに、よっぽど暇人にみられているんですね。

しかし、私はその通りの暇人でしたから、上野の国立博物館までノコノコ足を運びました。いやあ、平日の昼間だというのに、すごい混雑でした。ちょうど花見のシーズンでもあるので、皆さん仕事を休んできたのでしょうか。

調布先生に誘われなかったら、行くつもりはなかったのですが、最近、心がささくれ立っていたものですから、「心を洗いたいなあ」と思っていたので、丁度いい機会でした。有り難かったです。

目玉の国宝「日光菩薩」「月光菩薩」立像を見るのが眼目でした。高さ3メートルくらいでしょうか。あんなに間近に見ることができて、感動しました。お陰様で心が洗われました。普段は奈良の薬師寺の金堂に鎮座されいますから、遠くからしか拝観できません。今回は、本当に触れるくらい間近で拝むことができるのです。

しかし、一家言の持ち主の調布先生は「やっぱり、奈良で見なくてはいけませんね。魂を抜いて持ってきたので、見世物になってしまっています」とおっしゃるのです。

私は凡人ですから、それでも有り難かったですね。奈良にまで行かなくても、菩薩さまが向こうからやって来て下さったのですから。

その足で、有楽町の国際フォーラムに行きました。「アートフェア東京」http://www.artfairtokyo.com/を見るためです。関係者だけの前日公開だったのですが、ここもすごい混雑でした。山口晃さんの取材でお世話になったミズマ・アートギャラリーの長田さんにお会いしてご挨拶するのが目的でしたので、ミズマのブースに行ったのですが、ここもまたものすごい人だかりで、オーナーの三潴さんが中国系のテレビ局にインタビューされたりしていました。

アートフェア東京は、画廊による即売会みたいなものです。数千円から数千万円の作品が古美術から現代アートまで展示されていますから、ご興味のある方は覗いてみてください。川端康成や吉田松陰らの「書」も150万円から300万円くらいの価格で展示されておりました。もちろん、私はとても買えませんでしたが。

この後、調布先生と軽く飲みました。その時「あなたの日記は、個人的なことを書きすぎますね」と注意されてしまいました。私は「いやあ、実は永井荷風の『断腸亭日乗』を目指しているんですよ。個人のささやかな体験も五十年後百年後の人が読んだら、面白いんじゃないかと思いまして」と申し上げたところ、「そんなに残るんですかねえ」と苦笑いしておられました。

そのうち、調布先生は「仲田さんをお呼びしましょう」と言って、急に本当にいきなり電話をしてしまうのです。調布先生は迷ったり、悩んだりしません。思い立ったらすぐに行動に移してしまいます。そこが私のような凡人とは違うところです。

会社の先輩である仲田さんとは新橋の駅前にある居酒屋「くまもと」で合流しました。そこで調布先生とは別れたのですが、そこから、仲田さんと二人で北海道料理の「炉ばた」(落語をやる日があります)とスナック「手羅須」(東京新聞の小石さんのお店)とはしごしてしまい、終電を逃してしまいました。

そこで何を話したのか…書けませんね。調布先生は「日記には個人的な本当のことは書けないもんですよ。だから、福田首相のこととか、もっと大きな天下国家のことを書きなさい」とおしゃっていましたが、悔しいけど、その通り、個人的な本当のことは書けませんね。荷風の日記でも、公開するのが目的だったので、本当のことが書いてません。私も、別に隠しているわけではないのですが、人生は生きるのに辛すぎる。