ホテル経営の話 

 

 

 

昨日は、王子に住む友人の神林君の家に遊びに行きました。昼間からビールやワインを飲んだり、テレビで大リーグのレッドソックスーインディアンズ戦を見たり、ギターを弾いたりして遊んでいました。

松坂大輔という投手はすごい強運の持ち主ですね。レッドソックスが1勝3敗から奇跡の大逆転。その最後の第7戦に先発が回ってくるなんて、どんな敏腕の監督やプロデューサーがいても簡単に演出できるものではありません。私は、つい、運命なるものを考えてしまいます。

世の中には二種類の人間しかいない。-それは、運がある奴とない奴だ。

てな具合です。

 

長居していたら、神林君の親御さんが帰ってきました。幅広くビジネスをバリバリにやっている方です。

「朋之介さん、どうですが、下町に6億円でホテルが売り出されているのですが、買いませんか」といきなりおっしゃるのです。

調布先生言うところの、いわゆる博労の気質のある人です。

私は思わず「えっ?」と度肝を抜かれました。

「年収1400万円くらいになりますよ。フロントのところは今は何もないので、コンビニでも作れば、もっと収益が上がると思います。そのホテルは、安いので、外人観光客が口コミでやってくるので、客足は減らないと思います」

「でも、6億円ともなると…」

「大丈夫。もう少し安く叩いてあげるから…」

というところで話が終わっています。実に雄大な話でした。

別に今の仕事にしがみつくつもりがないもので、しばし、自分の運命について考えてしまいました。

ワニブックス、池辺三山、有馬記念とは

我ながら、こう飽きもせず、毎日書き続けるものだと思います。今日の新聞広告で、佐野眞一著「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)のコピーで「大正期、激動の宮中におそるべき”記録魔”がいた」とあります。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富勇三郎の日記らしいのですが、「超一級史料」ということで、読んでみたくなりました。

最近読んだ本や雑誌の中で意外だったことを備忘録としてメモ書きします。

●ワニブックス

青春出版社の岩瀬順三氏が、光文社の神吉晴夫氏が生み出して大成功したカッパブックスに対抗して創刊した。その理由が「河童を餌にするのはワニだから」

●池辺三山の朝日退社

陸羯南が創刊した「日本」(正岡子規も記者だった)の記者だった池辺三山は、東京朝日新聞社に入社し、主筆として活躍。東京帝大講師だった夏目漱石を1907年4月、朝日新聞に招聘。その三山は、漱石の弟子森田草平が平塚雷鳥との愛人関係を赤裸々に描いた「煤煙」を紙上に掲載するかどうかを巡って、その背徳性を批判する大阪通信部長の弓削田精一(秋江)と衝突し、1911年11月に退社。

●世が世なら

1954年に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義(ありま・よりちか)は、旧久留米藩主、伯爵有馬頼寧(ありま・よりやす)の三男。頼寧は、1930年に未遂に終わった「桜会」が起こそうとした軍事クーデター「三月事件」の黒幕というか主犯格だった。このクーデターは、参謀本部の橋本欣五郎中佐ら将校100人以上が、国家改造と満蒙問題解決のために密かに結成した「桜会」が、時の浜口雄幸内閣を打倒し、現職の陸軍大臣宇垣一成を首班とする軍部独裁政権を樹立しようとするクーデター計画。頼寧が、大日本正義団総裁の酒井栄蔵を唆して軍部を動かした。

頼寧は、近衛文麿首相のブレーンの「昭和研究会」のメンバーで、農林大臣などを歴任し、日本中央競馬会理事長時代に競馬の「有馬記念」を創設。

作家の有馬頼義は、西荻窪駅から数分のプール付きの豪華な邸によく若い作家を集めて「石の会」を主宰していた。1972年5月、川端康成がガス自殺したことに衝撃を受けて、自分も追うようにガス自殺を図ったが、一命を取り留める。自殺未遂の後、広大な邸宅に住むことなく、自宅近くの狭いアパートで、精神病院入院中に知り合った若い女性と同棲した。

食品の安心・安全

300年以上の伝統を誇る伊勢の老舗菓子「赤福」で、賞味期限の製品を冷凍し、再び、原材料として使用していたことが明るみにでました。

 

今年は苫小牧の「ミートホープ」、札幌の「白い恋人」…とやけに食品の安心・安全を脅かす偽装事件が多いですね。

 

何も、今年が多いのではなく、いずれの事件も何年にも渡って偽装されてきたわけですから、多くは、既に、我々消費者のお口の中に入ってしまっているわけです。

 

私の知っている人に、冷凍保管会社に勤務する人がいます。漏れ伝わってきたところによると、賞味期限切れ(と思われる)食品を冷凍保存している会社は、赤福だけではないようですね。

 

この事実が白日の下に晒されると、日本国中は一大パニックになることでしょう。

 

自社製品の食べ物や飲み物は決して飲んだり食べたりしない食品関連企業の幹部もいるという話も噂で聞いたことがあります。

 

今こそ、政府、企業、学界、メディア、消費者が一丸となって、食品の安心・安全問題に取り組むべきではないでしょうか?

テロ対策特措法について感じたこと 

 トムラウシ

 

 

 

海上自衛隊によるインド洋での給油活動を日本政府がどうしても継続したいがために、テロ対策特措法に代わって「補給支援特措法案」を閣議決定しました。

 

賛成派は、「アフガニスタンでのテロ活動と戦うための国際貢献である」と主張し、反対派は、「給油した艦船がアフガニスタンだけでなく、イラクでも活動している疑惑があり、単なる対米支援に過ぎない」と主張します。

 

面と向かって、「おまえはどう思うか」と聞かれれば、理路整然と説明する能力に欠けているのですが、(何しろOEF=不朽の自由作戦も、ISAF=国際治安支援部隊もMIO=海上阻止活動もよく分かっていないのです)「アメリカさんの戦争に協力するのは真っ平御免です」というのが私の正直な感想です。

 

アメリカという国は、単なる国内の職業野球の優勝チームを決める試合を「ワールド(世界)シリーズ」と言ったり、単なる自国の経済的覇権を世界に広げることを「グローバリズム(地球主義)」と言ったりする、自分が世界の中心でなければならないと考える自己中心的なお国柄ですからね。

 

「石油が欲しいんだったら、日本さんも協力しなさいよ。給油活動しなければ、もうあげないよ」と言う密約めいた声が聞こえそうです。

日本が「国際貢献」を始めたのは1992年の国連平和維持活動(PKO)からだそうです。そのきっかけが、前年91年の湾岸戦争で、日本政府が130億ドルもの経済支援をしながら、当事国のクウェートから感謝されなかったから、という歴史的事実が頻繁に引用されますが、なぜ、国際世論はクウェートを非難しなかったのでしょうか?私にはさっぱり分かりません。クウェートはイラクによる被害者だったから?石油王国クウェートにとって、130億ドルなんて、はした金だったから?

130億ドルは、日本人の庶民の血税ですよ!クウェートは「有難う」の一言も言わなかったのでしょうか?それを政治屋さんに好き勝手に使われた挙句、非難され、それに加えて、PKOやOEFやサマワに駆り出されるようでは、たまったものではありません。

アメリカはどうしても、お金だけ支払って高みの見物を決め込む日本を、戦場に引き込みたくて、「Show the flag (旗を見せろ)」だの「 Boots on the ground(軍靴音を地上に響かせよ)」などと亀田一家のような挑発的な言葉を並べて、日本の政権担当者を屈服させてきました。

アメリカは「目に見える形で国際貢献しろ」と迫りますが、その一方で、給油艦船のその後の活動状況についての情報公開は渋り、曖昧としています。

日本は給油活動以外で、「国際貢献」できると思います。

東京外国大学の伊勢崎賢治教授が、文民の力だけで武装解除を取り組む治安分野改革(SSR)を提唱していました(18日付朝日新聞)が、私も同教授の意見に賛成です。何しろ、つい最近まで、アフガニスタン政府やアフガニスタンの人たちは日本の給油活動を知らなかったというのですから…。

本当ですかね?

見た目年齢

笑ってしまうでしょう?
また、個人的な話です。

今晩は、夜の9時過ぎ、普段と比べて割と遅く夕食を摂りました。東京・阿佐ヶ谷駅近くの、とある洋食屋さんです。怒られてしまうのを覚悟で書いてしまうと、その店は、しょぼくれた小さな、何処にでもありそうな街の古い狭い洋食屋さんです。

中に入って吃驚しました。かなり高齢のマスターがたった一人で切り盛りしていたのです。腰が曲がり、歩く足取りも心許ない。白いコックの帽子の下に見え隠れている髪の毛にはかなりの粉雪が降り注いでいました。

私以外にお客さんは3人いました。私一人だけだったら、話しかけていたでしょうが、遠慮してテレビのサッカーの日本代表対エジプト戦を見ている振りをしました。

私は、ビールとA定食を注文しました。それでも、その老人のマスターが気になってしょうがありませんでした。整った目鼻立ち。若い頃は、おそらく多くの女の子を泣かせたであろう歌舞伎役者のようなハンサムな顔立ちでした。目元に少年時代の面影さえありました。しかし、かなり、皺が寄り、老いの深さを刻んでいました。

どこか、一昨年に亡くなった私の父親に似ているところがありました。流し場で私に背を向けて洗物をする彼の後姿を見て、堪えきれず涙が出てきてしまいました。

「恐らく、彼は80歳は過ぎているだろう」と思いました。若くても70歳代の後半はいっていると確信しました。

食事が終わって、思い切って、お金を払いながら彼に尋ねました。

「大変失礼な質問ですが、おいくつでしょうか?」

本当に失礼ですよね。急にこんなことを聞かれたら、誰でも腹を立てますよね?しかし、マスターは、恥ずかしそうに俯いたまま答えてくれました。

「もう72歳ですよ」

私は、驚いてしまいました。70代前半の人は何人か知っていますが、彼と比べるとみんな若く見えます。ここに、名前を書きたいのですが、遠慮して書きませんが、彼と比べると、10歳は若く見えます。

「見た目年齢」がどうしてこうも違うのでしょうか?このブログに何回か登場されている方は、本当に若く見えます。世間一般の人と比べると、皆、10歳か15歳くらい若く見えます。

この違いはどこからくるのでしょうか?「頭を使っているから?」「気が若いから?」「健康に気をつけているから?」「毎日、適度な運動をしているから?」ーまさに、アンチエイジングの世界です。

これだ!というものがある方は、是非、コメントしてください。

私は見習います。

はみ出し者の人生

個人的な話題が続きます。

今日は、敬愛する先輩のN氏と久しぶりにお会いして、昼食を供にしました。(二人とも注文したら、偶然にも「石焼ビビンバ」でした)

N氏は、政財官界に幅広い人脈を持ち、その情報収集力には瞠目すべきものがあり、私も、何度か極秘情報を色々と教えていただきました。

N氏とは、2ヶ月半ぶりぐらいでした。その間、N氏は、イスタンブールをはじめトルコ一周の旅をし、色んなお土産話も聞かせてもらいましたが、どうも、以前のN氏とはちょっと違うことに気づいたのです。

例えば、こちらが、今、話題沸騰のボクシングの亀田一家のことを持ち出しても、「ふーん。僕はあまり興味ないなあ。それって、何か、得ることあるの?何か、学ぶことでもあるのかなあ?」とおっしゃるではありませんか。

私は「外野で野次馬的に見ているに過ぎませんけどね」と苦笑するしかありませんでした。

かつてのN氏は、ニュースに関しては、まるで「トップ屋」のようで、研ぎ澄まされたような鋭敏な感覚の持ち主でした。社内外の人事情報などについては、逸早く入手して、こっそりと、教えてくださっていたのに、今回の社内の不祥事については、詳細を知らず、あえて、知ろうともせず、有体にいえば、個別のことにはもう興味がないという感じだったのです。

「うーん。僕は、日本人全体の幸せは願うけど、今はもう個人的なことにまでは、立ち入らないという感じですかね」

そうー、すっかり超越してしまった感じなのです。何が、N氏をそうさせたのか?

「僕はずっと、仕事一筋だったでしょう?だから、文化や芸術や歴史方面ですっかり知識が不足していたことに気づいたのです。今、そっちの方面で、取り返したいと思っているんですよ。ゆっくりと本を読んだり、音楽を聴いたり、歌舞伎を見たり、映画を見たり、旅行に行って、遺跡を見て歩いたり…。要するに、今までの人生とは全く違うところに方向転換している最中なんですよ。今、そうしないと、寿命がつきてしまいますからね」

何だ、そういうことだったのか。N氏が少し変わったなあ、と思ったのもあながち間違いではなかったのです。(話言葉は多少、脚色しています)

今、同じ職場には、フランス帰りの船橋君がいます。彼と暇な折、色々と話をしていたら、セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンの話になり、急に、ゲンスブールが聴きたくなり、帰りに山野楽器で、彼のCDを買ってきました。

日本では、ゲンスブールは、不当に過小評価されていますよね。だから、今度、ゲンスブールのことについて書こうかなと思っています。

N氏と違って、私は最初からジレッタントできてしまいました。未だに世の中のことはよく分かっておらず、何処に行っても、はみ出し者なのですが、今更、生き方を変えるつもりはありません。それでも、不思議なことに、はみ出し者である自分に十分幸せを感じているのです。

如是我聞

またまた個人的な話です。

最近、私の勤める会社で不祥事が続いています。新聞等でも報道されました。

一応、社会的な自覚をしなければならない会社で、社会的責任も重い会社なのですが、末期症状なのか、将来性がないと悲観しているせいなのか、こうも、不祥事が続くと、気が重くなります。

職場で気が重く、家庭で気が重く、遊びのはずの飲み屋でも気が重く、どうもこの世に逃げ場がなく、梅田望夫さんがご指摘された如く、サイバーの世界で、自分の分身と会うしかないような気になってきました。

それではいけないのですが…。

先日、ラジオを聴いていたら、今はときめくイーウーマン代表の佐々木かおりさんと、ワタミ・グループ総帥の渡辺美樹さんが出てきて、「自分力」を高めるための自己改革講座めいた対談をやっていたのです。

佐々木さんは「最近、私のお気に入りの言葉に『主役力』という造語があります。この世に生まれてきて、人生の主役は私です。誰も他人が自分を幸せにしてくれたりしません。だから、自分で自分の幸せをつくり、自分で主役になって幸せにならなければならないのです」と熱く語るのです。

渡辺さんは渡辺さんで「他人が何と言おうと、自分が正しいと思う価値観を作ること。あくまでも、それは、自分を主軸に考えること。他人に影響されることなく、自分で考えること。決して、マイナス思考をしてはいけない。いつも、前向きにプラス思考でなければならない。もし、ネガティブな感情が押し寄せてきたら、否定するか、消し去ることです。考えないのです。常に頭の中にはプラスの思考でいっぱいにしなければならないのです」と強調するのです。

さらに、佐々木さんは「人生に失敗はない、と思っています。失敗は次の成功のためのステップで、学びの1つです。私たちを気づかせてくれるのですから、これほど有難いことはありません」とも言うのです。

ラジオで一度聞いただけで、メモもとらなかったので、正確にその言葉を再現したわけではありませんが、如是我聞。

もちろん、これらの言葉に私は大いに元気づけられました。

内藤選手を応援します

WBCフライ級タイトルマッチで反則行為を働いた亀田大毅選手の処分が明日、日本ボクシングコミッション(JBC)から発表されるようなので、注目したいと思います。

 

亀田は、サミングといって、クリンチした瞬間にグローブを内藤選手の目の中に入れようとしたり、太股を狙ったり、態と頭突きで、チャンピオンの右まぶたを切ったり、全く悪役レスラー並の暴行を働いていました。

私は、JBCのファイティング原田会長が現役だった頃からボクシングは見ていますが、こんなヒールは見たことがありません。

一方のチャンピオンの内藤大助選手は清々しいスポーツマンで、大変な苦労人で、大変な努力家であったんですね。

子供の頃、「いじめられっ子」で、両親の離婚で極貧の生活を強いられ、あだ名が貧乏を逆にした「ボンビー」だったこと。ボクシングは20歳から始め、世界には3度目の挑戦で、30歳過ぎになってやっと王座の手をつかんだこと。チャンピオンになるまでは、生活ができず、アルバイトで食いつないだこと等を今回、初めて知りました。

ボクシングは昔から「ハングリースポーツ」と言われてきましたが、平成の時代に、まだ、こういう選手が残っていたのか、と感激しました。言葉遣いも穏やかで、亀田の挑発に乗ることがありましたが、最後に「国民の皆様の期待に応えることができました」と発言してくれたので、スカッとしました。

それにしても、TBSの実況は、「独占商品」である亀田に一方的に加担してひどいものでしたが、私は断然、内藤選手を応援します。

人との出会いと別れ

 

 

 

昨日あったとりとめもない事を書きます。全く個人的体験なので、恐らく、あまり面白くないと思います。日記のつもりで書くのですから…。

 

午前中は、テレワーク。その仕事でお世話になっている大野さんが、今月いっぱいで辞めるという話を聞いて、本当に残念に思いました。彼女からは、メッセンジャーを使った「チャット」なるものを教えて戴き、同時進行で、仕事での不明な点を問い合わせると、返事が数秒で返ってくるのです。こちらが、次の質問をエッチラホッチラ書いている途中で、もう向こうから返事が返ってくるのです。大変優秀な方です。次はどんな仕事に移られるのか知りませんが、次の職場でもかなり活躍されると思います。私としては、残念ですが。

 

午後は、市ヶ谷の法政大学に出掛け、K教授から、約1時間半、文壇の最新事情についてお話を伺う。教授の研究室はタワー校舎の20階にあり、興味深い話をたくさん聞くことができました。前日の夜は、ノーベル文学賞の発表があり、村上春樹氏が受賞した場合に備え、某マスコミから夜の8時まで「居残り」を命じられたそうでした。

 

夕方、「鍵屋」で知り合った野村さんと虎ノ門の居酒屋「鈴傳」で飲む。野村さんは、このブログを読んでくださっている方の一人で、どうやら、私が毎日、お酒を飲み歩いていると誤解されているようでした。野村さんには、私のある仕事でお骨を折っていただいたので、感謝の気持ちを述べたかったのです。大変、気さくで饒舌な方で、私と会った時は「何か初対面のような気がしなかった」とおっしゃるのです。何か不思議な人です。生保関係のお仕事をされているせいか、「渓流さん、人生で何が一番大切なのか分かりますか」などと、急にシビアな質問をしてくるのです。

私は、返答に困っていると、「それは家族なんですよ。愛なんですよ」とおっしゃるのです。うーん、一瞬、変な宗教家かなあと思いましたが、純粋に書生ぽい質問と回答をしてきたのです。私なんかは、多感な時期に太宰治を愛読し、「家族は諸悪の根源」だの「子供より親が大事と思いたい」などという全く無頼なフレーズが頭にインプットされ、そのおかげで、今の有様があるのではないかと思ってしまいました。

野村さんは、さらに「渓流さん、あなたは人生で何をしたいのですか」と質問されるのです。酔っていなければ、とても恥ずかしくて答えられないのですが「私は自称ジレッタントですから、若い頃は、アンドレ・ブルトンのシュールレアリスムのように何か芸術運動を起こしたかったですね」と答えて煙に巻くのが精一杯でしたが…。

 

また、野村さんは前夜のプロボクシングの亀田大毅については、相当、腹が立っている様子でした。「亀田は18歳でしょう?33歳のチャンピオン内藤に対して『おまえ』呼ばわりですからね。私は大阪出身ですが、亀田3兄弟は大阪の恥ですよ。『いじめれっ子』とか『ゴキブリ』などと暴言を吐き、長幼の序がなっとらんですよ。あんな風に甘やかせて育てた父親の史郎トレーナーが悪いし、ああいうものを持て囃す公共の電波のTBSも悪い」というのです。このWBCフライ級タイトルマッチで、プロレスまがいのタックルなどをして反則行為をした亀田選手の処分について、目下、日本ボクシングコミッションが検討しているそうですから、この話題はまだまだ続きそうです。

野村さんは、二次会があったので、早々に別れ、私は一人で自宅近くのパブに入りましたが、ここで、ひと悶着がありました。何度か行ったことがある店です。最初、戸口の隙間から見て、かなり混雑していたので、引き返そうとしたところ、店の人が急に出てきて「カウンターなら一つ空いていますから、どうですか」と言うのです。そこまで、奨めてくれるのなら、ということで入ることにしたのです。これが大失敗でした。

 

隣りは、女性が一人で飲んでいました。袖を触れ合うのも他生の縁ですから、とりとめのない話をするようになりました。どうやら、彼女は英語が得意で、よく外国に行き、オーストラリアでは、ウエイトレスのアルバイトをしましたが、アイリッシュ系の英語はさっぱり聞き取ることができなかったという話や、カンボジアで仕事を見つけ、来週、プノンペンに向けて出発するなどという話をしてくれるのです。1時間くらい話していたのではないでしょうか。

彼女が、トイレで席をはずすと、店のマスターが近づいてきて「あちらの女性とはもう話をしないでください。ここはそういう店ではありません。ご迷惑ですから」と言うではありませんか。私は、一瞬、自分が何か悪いことをしているのではないかと錯覚しましたが、非常に腹が立ってきました。彼女が席に戻ってきたので、私は「あなたとしゃべってはいけないと、ここのマスターが言うので帰りますよ」と告げて退席しました。レジでお金を払ってから、相当頭にきていたので「随分、ひどいことを言うじゃないか。もうこんな店には二度と来ないからな」と捨て台詞を言って帰ろうとしました。客を何だと思っているんだ、という感覚です。長く生きてきましたが、こんな侮辱を店の人間から言われるのは生まれて初めてでした。

マスターは、血相をかえて、階下まで追いかけてきました(店は二階にあります)。そして「もう来てくれなくて結構です。女性のお客さんが一人で来て、楽しんでいるのに失礼でしょう?」と言うではありませんか!若かったら、こんな失礼な奴は殴っていたでしょう。「僕が彼女に迷惑をかけたとでも言うのかい?それなら、彼女に聞いてみようじゃないか、証人として」。もう行きがかり上、引き返せなくなりました。

彼女は来てくれました。その時、初めて彼女の名前がエリさんだということが分かりました。店長は丘という名前でした。私は「あなたに話しかけてご迷惑でしたか」とエリさんに聞きました。するとエリさんは「そんなことはありません。そんなことはありません。以前、この店で、私が一人で飲んでいたら絡まれたことがあったので、今回も丘さんが気をきかしてそういう態度を取ったのだと思います…丘さんは、本当に本当にいい人なのです」

「じゃあ、僕が、あなたに迷惑をかけたわけではありませんよね?このマスターは、僕がまるで、あなたをかどわかそうとしたみたいな扱いをするんですよ」

「全然迷惑じゃありません。楽しかったですよ」

「じゃあ、このマスターに証明してくださいよ。僕はひどく傷つきましたし、あなたに迷惑をかけていないことを証明してくれれば、それでいいですから」

というようなことがありました。最後まで、マスターから謝罪の言葉がなかったので、不愉快でしょうがなかったです。でも、わざわざ、この店の名前を出すつもりはありません。つぶれてほしいとも願いません。もう二度と行かないし、どうでもいいのです。ただ、最近、いや、この1年、ひどく人との「別れ」が多すぎるなあと実感するばかりです。私の周りからどんどん人が去っていくのです。何十年も付き合った友人もいれば、仕事でお世話になった大野さんや、エリさんのように行きずりの人も含めて、今年になって、出会うとすぐ別れがあるのです。

何とも不思議な年です。

国立国会図書館

ある調べものがしたくて、国立国会図書館に行ってきました。

それは、もう半世紀以上昔に出版された月刊誌です。予め、電話で確かめたら「ある」というので、出かけて行ったのです。

皆さん、国会図書館に行ったことがありますか?まだなら、是非行くべきです。入るときに、名前や住所等を登録するなど、ちょっと、面倒臭いのですが、スタッフも沢山いて、分からないことがあれば、色々と教えてくれます。大変便利です。

館内のパソコンで、史料請求の申し込みをして、カウンターの前で待ちます。15分くらいで、申し込みの本が出てきますが、用意ができたときに、画面に入館した際の登録した番号が表示されます。まるで、病院の待合室みたいです。

私が請求した本は、半世紀以上昔の本だったので、マイクロフィッシュと呼ばれる「マイクロフィルム」になっていました。それらを読み取る設備もちゃんと整っていました。

これらは皆、タダでした。

大宅壮一文庫にでも行こうかと思いましたが、ここは、入館料だけで500円です。

国会図書館でも入館料500円取るようになったら、どうなるんでしょうかね?「民間にできることは、民間に!」と叫ぶ政治家がいて、実現しちゃうのですから、図書館民営化法案なんか作って通してしまうんじゃないでしょうか。恐ろしい話ですが。