世界三大料理に挑戦=トルコ料理もそうなんですか?

 やられたあーーー

 釈正道老師が、自ら「釈悪道」と名乗って、ケチを付けてきました。

  渓流斎ともあろうお人が、「遅かりし、蔵之助」とは! 「仮名手本忠臣蔵」では「遅かりし、(大星)由良助」です。蔵之助も大間違い。本物は大石「内蔵助」ですからねえ。他人のミスに気が付くのは超キモチイイー。          匿名マスク希望の釈悪道より。

 ググググ…、昨日書いた記事の間違いの御指摘ですが、まさに正論、合っていますからグーの音も出ません。恐らく、蛇のように執念深い釈正道老師は、この間の借りを返そうと、何か機会がないかと目を皿のようにして私のブログを毎日、細かく点検していたに違いありません。悔しいですが、私の負けです。やられたあーーー

 さ、気分を換えて、困った時の「銀座ランチ」です。

 その前に、「世界の三大料理」とは何か、釈正道老師は御存知でしょうかねえ?(笑)。フランス料理、中華料理はすぐ出てくるでしょうが、三番目はすぐには出て来ないはず。あれ?イタリア料理かなあ?ドイツ、イギリス、アメリカ料理は論外だし、まさか、和食かなあ…?

 ムフフフフ、残念、答えはトルコ料理でした。何でえ? はい、私も何でかなあ、と思います。一体誰がそう決めたんでしょうか? それすら分かりません。

 そもそも、三大料理と言ってもフランスに本格的料理を伝えたのは、1533年、仏王アンリ二世と結婚したイタリアのメディチ家のカトリーヌ の料理人と言われていますからね。となると、三大料理は、フランス料理ではなく、本家本元のイタリア料理のはずです。当時、ナイフとフォークもイタリアからフランスに持ち込まれたといいますから、何をか言わんやです。

 儘よ。本日はその世界三大料理の一つ、トルコ料理に挑戦してみました。

野菜スープ

 注文したのは、ミックスケバブ・ランチ 1100円です。

 最初に出てきたのが、野菜スープでした。初めて食したと思いますが、どうも、微妙な味でした。美味いのか、美味くないのかと言えば、滅法、美味いのです。トルコは地政学的にも、アジアとも、ヨーロッパとも言われていますが、その欧州とアジアの味が微妙にミックスされたような、何とも表現のしようがない味でした。クセになりそうでした。

 世界史に出てくるオスマントルコ帝国の最大勢力機の18世紀には、ハプスブルク帝国の首都ウイーンにまで迫まりました。モーツァルトの「トルコ行進曲」もその時に作曲されたと言われてます。が、これまた記憶で書いているので、またまた、釈悪道の野郎に間違いを指摘されそうです。くわばら、くわばら。

チキンとビーフのケバブ

 ケバブは、チキンとビーフがありましたが、両方味わいたかったので、ミックスにしました。んー、ごめんなさい。期待したほどじゃなかったかなあ。味付けもちょっと辛かった。

 むしろ、写真右のトルコ・パンが絶妙に美味かったでしたね。

トルコ・ティー

 東京都内では、12日(月)から新型コロナウイルスの緊急事態宣言に準じた措置が取れる「まん延防止等重点措置」が発令されたので、お客さんは疎らでした。

 そのせいなのか、注文していないのに、お店の人が「トルコ・ティー」をサービスしてくれました。メニューを見たら、250円もしました。うーむ、これも普通の紅茶と味は変わらず、トルコらしさは分かりませんでしたけど。

 勿論、会計の際、お店の人から「また次もお願いします」と、目を見つめながら念を押されてしまいました。

 嗚呼、また、行かないわけにはいかなくなってしまいましたねえ。

マスクが暴落=昨年の10分の1に

 またシャープさんから「マスク当選のお知らせ」がメールで届きました。これで何度目なのでしょうか? 余程、売れなくて余っているんでしょうか。

 マスクが品薄で、あれだけ欲しかった時に、シャープのマスク購入で応募したところ、残念ながら「落選」。すっかり諦めていたところ、厳選なる「再度の」抽選の結果、見事に当選したというのですが、「遅かりし、蔵之助」です。既に、通販で安いマスクを見つけて200枚ぐらい溜まっております。

 抽選倍率が100倍だった頃の昨年5月のシャープマスク50枚入りの価格は、送料込みで3938円でした。今でも3610円するようです。

 私が、マスク品薄のピークだった昨年5月にマッサージ店の店頭路上で買った時は、50枚入り3300円でした。

 その後、2000円、1000円と、どんどん価格が下がり、昨年末に通販で100枚入り900円(税、送料込み)を見つけた時は、思わず小躍りして買ったものでした。

 まさにシメシメでした。

 そしたら、がび〜んです。東京都内の某所で本日、マスク工業会認定マスクが7割引で売られていました。50枚入り800円が250円、900円が299円だというのです。

 それほど欲しくはなかったのですが、安さに負けて、またまた買ってしまいました。50枚入り299円のヤツにしましたが、表示価格は税抜だったので、結局329円でした。

 それでも、ちょうど一年ほど前は3300円でしたから、価格は10分の1です。こんなにも暴落するもんなんでしょうかねえ? 驚き以外何ものでもありません。

 驚きといえば、ついでながら、東海地方にお住まいの旧い友人T君が、心筋梗塞一歩手前の何とか狭心症で入院していたことが分かり、ビックリ。

 SNSに不可解な写真や抽象的な散文を投稿したりしていて、どうも斟酌や忖度がしにくかったのですが、彼には持病があったので、何やら定期検診でもしているのかなあ、と思ってました。

 でも、流石に病院食がアップされるようになって、あれっ?もしかして入院しているのではないかと思い、尋問したら、彼は救急車で搬送されたことをあっさり白状しました。

 今現在は、彼もやっと、どうやら安定したらしいので、私も少し安心しています。梨園の世界では、「五十、六十は鼻垂れ小僧」と言われるくらい、まだまだこれからの年頃なんですから、一刻も早く社会復帰してほしいと思っています。

「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。

見つかった! 海軍兵学校の跡が

銀座・イタリア料理店「La Grotta」

ここ最近、ブログのネタに困ると、すぐ「銀座ランチ」に飛びついてしまいます。

 手頃だということもありますが、これには深い訳があります(笑)。

 まず、職場が銀座なのですが、あと、どれくらい今の職場にいられるかどうか分かりません。あと3年ぐらいは働き続けたいのですが、早ければ今秋にもクビを切られてしまいます。

銀座・イタリア料理店「La Grotta」ランチ ロイヤル三元豚肩ロースのグリルステーキ200グラム フレンチフライ添え 1100円

 となると、そう易々と銀座を闊歩していられなくなります。ということは、銀座でランチもできなくなってしまうのです。ですから、これまで高額で、「敷居が高い」と敬遠していたお店でも、無理してでも行くことにしたのです。全部自腹です。取材費も落ちません。釈正道老師が誤解している青色申告の還付金もありませんよ。

 さてさて、私の職場は、かつては日比谷にありましたが、今は銀座にあります。職場が生活の中心になると、特にランチや夜呑みの店探しで職場近辺を探索します。おかげで、日比谷、新橋、虎ノ門、銀座、有楽町、築地、新富町、八丁堀、明石町辺りは、どんな狭い路地でも、外国人に通訳案内が出来るほど詳しくなりました(笑)。

 でも、おっとどっこいです。まだまだ知らない、行ったことがない路地も沢山ありました。

 今日は、気分を変えて、普段は散策しない路地に入ったら、上の写真の「石碑」を偶然、発見しました。

「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の石碑でした。

海軍兵学寮」とは、明治2年(1869年)に前身である海軍操練所が設立された翌年に「海軍兵学寮」と改称されたものです。明治9年に「海軍兵学校」となりますが、明治21年(1888年)に広島県の江田島に海軍大学校が設置されると、同時に海兵学校も移転します。

 海軍軍医学校の前身は、明治6年(1873年)に創設された海軍病院付属学舎です。一時廃止されましたが、日露戦争前に医療スタッフ増強のため、軍医学校が再度設置され、明治41年(1908年)に芝山からこの築地に移転されました。昭和20年11月の閉校まで続きます。

 場所は、築地川の畔で、采女橋の近くです。

 現在、築地川は埋め立てられて、眼下に高速道路が走っています。この石碑は、「新橋演舞場」の対岸といいますか、裏手にあるというべきか、それとも「国立がん研究センター」の裏手にあるというべきか、まあ、その辺りにひっそりと建っています。

 石碑は、あまり宣伝していないので(笑)、まず、知っている人は少ないと思います。

 以前も、このブログに書きましたが、銀座のみゆき通りとは、明治天皇が宮城(皇居のことですよ)から海軍兵学校へ視察行幸される際に通られる道として名付けられました。

 海軍将校養成のエリート学校である築地の海軍兵学校はここにあったんですね!私は、てっきり、今の築地市場場外辺りにあったと思っていました。

愉しみながら米国史が学べる=松岡將著「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」

銀座スイス ランチセット1760円

  まさに有言実行の人です。昨年末か、今年に入ってからか、かの満洲研究家の松岡將氏から「今、また本を執筆中です。内容は秘密です」との連絡が入りました。秘密とは…、何か隠したいことでも、御執筆遊ばされているのかと思いつつ、忘れかけていた数日前に、出版社から私の陋屋に「著者謹呈」で本が送られてきました。

 それがこの本「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」(同時代社、2021年3月26日初版)です。

 「いやあ、凄いなあ」というのが第一感想です。何しろ、本の略歴に書かれていますが、著者の松岡氏は1935年2月7日生まれ。御年86歳ではありませんか!恐ろしいほどの体力、知力です。瀬戸内寂聴さんも吃驚です。

 読み始めてみると、これがめっちゃ面白い。楽しみながら、アメリカの歴史(特に独立戦争と南北戦争)を学ぶことができ、著者ファミリー(御令室、御子息、御令嬢の一家4人)と一緒に米国の名所旧跡を回ることができるからです。

 途中で、「あれ? この話、どっかで読んだことがあったような…?」と思っていましたら、著者が30年ほど前に出版された「ドライビング・アメリカ」(ジェトロ出版部、1992年)から部分的に借用していることが分かりました。私も昨年10月3日付の渓流斎ブログで、「南北戦争と和製英語の話=松岡將著『ドライビング・アメリカ』から」のタイトルで取り上げております。

 「借用」と大袈裟に書きましたが(笑)、本人が書いたものを「引用」しているわけですから、何の問題もなし。この本では、先行の本とは違って、グーグルマップや名所旧跡を訪れた際のプライベートな家族のカラー写真がふんだんに掲載されているので、類書ながら格段の違いです。

 それにしても、86歳の著者の記憶力には驚愕します。

◇スーパー爺ちゃん

 本の巻末やネットの著者略歴に書いてあるので、書いてしまいますが、著者の松岡氏は農水省のエリート官僚で、1972年から76年まで4年間、外務省に出向し、米国の在ワシントン日本国大使館に勤務した人でした。満洲関連本以外に昨年、現地での副産物として、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」と「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」を立て続けに上梓し、そのスーパー爺ちゃんぶりを発揮しました。

 私が大先生に対して、「スーパー爺ちゃん」などと気安く書けるのは(怒り心頭でしょうが)、御本人とは面識があり、御自宅にも何度もお邪魔したことがあるからです。ほとんどの読者にとって、本の著者とは面識を持つ機会に恵まれることは少ないのですが、(作家が故人なら尚更!)、幸運にも私はかつて、文芸記者という仕事の関係で多くの著者本人とお会いすることができました。そうなると、本を読むとその著者の声や言い回し、時によっては笑い声や怒りの声まで活字を通して聞こえてくるのです。この本を読んでいても、松岡氏の微苦笑が何度も目に浮かび、聞こえてきました(笑)。

 「記憶力抜群」というのは、例えば、在米4年間に乗ったフルサイズ車は、GM、フォードの2台で走った総距離は6万マイル(10万キロ)とか、その間使ったガソリンが6000ガロン(2万3000リットル)とか、サンクスギビングデーで食したディナーが、スッタフドローストターキーとクランベリーソース、それにスイートポテトとパンプキンパイ…等々、もう半世紀近い出来事なのに、よく覚えていらっしゃること! …んーむ、そんなことないですね。恐らく、細かいメモや毎日、日記を付けていて、それを参照されたことでしょう。

 とにかく、逸話が満載です。

銀座スイス ランチセット 元祖カツカレーとしゅうまいも 1760円

 例えば、米大陸最初の英国人による植民は、メイフラワー号ではなく、それに先立つ13年前の1607年、スーザンコンスタント号、ゴッドスピード号、ディスカバリー号の3艘で、場所はヴァージニア州のジェームズタウンだったこと、南北戦争で南軍の総司令官になったロバート・E・リー将軍の夫人アーリントンは、初代大統領ワシントンの夫人マーサの連れ子パーク・カスティス(後にジョージ・ワシントンの養子)の娘だったことから、南部軍総司令官になるまでリー将軍は、カーティス・リー・マンションに住んでいたこと、ヴァージニア州とウエスト・ヴァージニア州の違い…等々、あまり書くとこの本を読む楽しみが減ってしまうのでやめておきます。

◇超大金持ちのR氏とは何者か?

 とは言いながら、どうしても書きたかったことは、松岡氏と大富豪R氏との交歓です。たまたま、世界一周旅行をしていた米国人のR氏夫妻と東京で知り合った二十代後半の松岡氏は、彼が大富豪だとは少しも知らずに、自分の自宅に招いたりして交際し、その後もクリスマスカードをやり取りする仲を続けていました。そして、ワシントンに赴任している際に、ニューヨークに住むR氏の自宅を訪れると吃驚。マンハッタン島の中心地に聳える1棟5階建てのマンションが、彼の自宅。あのジョン・レノンでさえ、ダコタハウスの何階かのフロアーを所有していただけですから、1棟丸ごと所有するR氏は、超大金持ちです。

 それに加えてロングアイランド島東端イーストハンプトンにある別荘が凄い。松岡氏ファミリーはこの別荘に招待され、車で駆け付けますが、ワシントンから飛ばして6~7時間かかる距離。R氏が住むニューヨークからイーストハンプトンまで2時間半。別荘の間取りの広さや絵画や彫刻が飾られた美術館のような部屋は当然のことながら、キャッチボールどころか軟式野球ができそうな広い芝生の庭。そして、何よりも、R氏一家(とそのゲスト)しか入れないプライベートビーチまで付いているのです。

 プラチナ価格のニューヨーク・フィルの年間席を持ち、冬はフロリダを越えてバハマやバミューダにまで足を伸ばし、何年かに1回は世界旅行をする超富裕層であるこのR氏の職業は何で、どんな人物なのか、最後まで書かれていませんでしたが、あのロックフェラーさんなのかなあ、と思ったりしました(笑)。多分違うと思いますが、この本のエピソードの中で、在米日本大使館勤務の松岡氏の御令室が、当時の副大統領だったロックフェラー氏とあるパーティーで出会った時、向こうから「私はバイス・プレジデントです」と名乗るので、御令室はどこかの中小企業の副社長のおっさんか何かと勘違いしたかどうか分かりませんが、「どちらのバイス・プレジデントですか?」と尋ねたそうな。そしたら、本物の副大統領だと分かって後で冷や汗をかいた、といったことも披露されてます。

 まあ、私から言うのも変ですが、面白い本なので、お読み頂ければ幸いです。

 ちなみに、プライバシーになりますが、写真と文章に頻繁に登場する松岡氏の御子息は今では有名なスーパーコンピューターの世界的権威、御令嬢は、大手国際企業の重役さんです。この本を読むと、子どもの時から好奇心旺盛のようでしたから、大物になるはずです。

通訳団体、退会するしかないか?

 最近、プライベートで色々あったりして、テレビを見るどころか、落ち着いて本も読めません。机の上に「積ん読」状態です。死んだら持っていけないので、なるべく「モノ」は買わないようにしているんですが、どうも本や雑誌は買ってしまいます。

 もう一つ、落ち着かなかったのは、以前にもこのブログで書きましたが、私も会員になっている通訳団体内のいざこざです。(2021年3月1日「通訳団体で内紛勃発=世間は関心なく週刊誌ネタにもならず」)今の執行部が今月下旬に、問題のある3人の理事を解任する議案を中心にした臨時総会を開催するというので、私は、スターリンの粛清の臭いを感じ、「総会開催反対」の趣旨で、会員向け一斉同報メールに初めて投稿したのです。

 この会員向けメールには、ここ数カ月、執行部派と反執行部派との間で、暴言や口汚い罵り合いめいた紙爆弾が飛び交い、かなり閉口しました。最後は執行部が反対派のメールを遮断して終わりましたが、この点に関しては、私は言論封殺の何ものでもないと確信し、憲法が保障する言論の自由の侵害だと思ったので、執行部に対しては不信感を抱きました。

 それでいて、執行部派は「会長様が、無料で釈明会見を開いてくださり、大変大変お忙しい中、誠に誠に有難う御座いました。」と歯の浮くような賞賛、礼賛の言辞を並べ立てて、どこか独裁政権の報道か、朝鮮放送を聴いているようで、違和感といいいますか、はっきり言って、会員であることの居心地の悪さを感じました。

 イザコザの遠因は「パイの奪い合い」です。コロナ禍で通訳の仕事がなくなったことも要因です。執行部は、観光庁から依頼された講師派遣などの仕事を会員に通知せず、仲間うちだけで相談して決めてしまったとか、要するに経済戦争がバックグラウンドにあったわけです。

 私自身は、13年在籍するこの通訳団体から仕事を斡旋してもらったり、講師を頼まれたりしたことは一度もないし、期待もしていないので、中立的立場を取ることができますが、内部事情を知っている人にとっては、「現執行部は7年超も長期独裁政権が続き、執行部とその息のかかったものだけがいい思いをしてズルい」と考えるわけです。こちらの方が真っ当ではないでしょうか。

 今回、会員向けメールに自分の考えと不快感を表明したのですっきりしました。が、これで、ブラックリストに載ったも同然なので、私のメールアドレスも遮断されたり、冷や飯を食わされたりすることでしょう。退会するしかないのかもしれません。

早生まれか、遅生まれか、それが問題だ

Copyright par Keiryusai

 懲りないですねえ(笑)。皆さまお馴染みの釈正道老師から、またまた暗号が送られて来ました。

 懐具合は大丈夫?煉瓦亭に資生堂パーラー? 銀座の高級レストランばかり。青色申告で、経費で落とすのがマル分かりですね。(以下略)

 本当は(以下略)の所にいっぱい暗号が織り込まれていて理解不能の部分が多いのですが、理解できる前半部分については、何としてでも、反論を申し述べておきたいと存じます。

 まず、何と言っても、釈正道老師は、長年、超一流企業にお勤められて任期も全うされた方だと漏れ聞いております。ということは、生涯で一度も確定申告はやったことがないと思われます。つまり、帳簿の勘定科目だとか、あれだけ、面倒で、緊張を強いられ、複雑煩雑な確定申告とはどういうものか御存知ないと思われます。

 もし、一度でも青色の確定申告をやったことがある人なら、普段の食事代は、経費として落ちないことぐらい分かりきっているはずです。勘定科目として、個人事業の円滑な業務遂行のための「接待交際費」なら、税務署さんも渋々認めてくれるでしょうけど、個人の外食代は無理ですよ。

 釈正道老師は、残念ながら、まだまだ修行が足りませんねえ(笑)。

Copyright par Keiryusai

 ところで、全くプライベートな話ながら、このほど、私にとっては3人目の孫(娘)が生まれました。母子ともに健康で、神様、仏様、ご先祖様に感謝したいです。ブログなんかに書くような話ではないとは思いましたが、この孫娘に関して、ちょっと哲学的考察を強いられたので、そのことを記そうかと思っています。

◇to be or not to be

 孫娘が生まれたのは、4月2日午前7時37分でした。この日付が大変重要な分岐点になってしまったのです。

 日本では毎年4月から新学期が始まります。となると、3月生まれまでが、前年度で4月生まれから新年度だと思いきや、4月1日生まれまでが、早生まれとなり前年度、4月2日生まれ以降からが遅生まれで、新年度になるというのです。

 となると、私の孫娘は、4月2日生まれですから、新年度のトップバッターとなるわけです。でも、朝の7時37分生まれですから、もし、その7時間38分前に生まれていたら、4月1日午後11時59分生まれとなり、早生まれの前年度生になっていたわけです。

 極端に言えば、4月2日の深夜零時に生まれたら、遅生まれとなり、あと1分1秒でも早く生まれていたら、前年度生まれになるわけです。逆に、4月1日深夜11時59分に生まれたら、あと1分で遅生まれになることができたのです。

◇コロナで出産助成金も

 こういう微妙なケースの場合、困るのは両親です。早生まれにすれば、同学年と1年間近くも大差があり、体力的、知力的にかなり遅れが出てしまう。遅生まれだと、新学期になるとすぐに誕生日が来てしまい、入学式や新学期の前に年を取ってしまい、可哀そうだ…等々。

 しかも、今年度の場合は、コロナ禍で、ある都道府県では、4月1日生まれまでは、コロナ見舞い名目で10万円の「出産助成金」まで出るということで、微妙どころではない違いがありました。

 そしたら、情報に詳しい会社の人がいまして、出産届は2週間以内に役所に提出すればよく、その際、親の意向で、実際生まれた日とは違って、早生まれか遅生まれに変更する人もいるというのです。そう言えば、明治や大正の昔は、結構いい加減で、名前が間違って登録されたり、父親が酔っ払って、よく覚えていなくて適当な日にちを申請したりした話を聞いたことがあります。

 現在は厳格になって、産婦人科医の証明書がないと役所は受け付けてくれないのかもしれませんが…。

Copyright par Keiryusai

 そんな話を孫の母親である娘にしたら、「この子はきっと自分が生まれる日を自分で選んで生まれてきたに違いないと思う。学年のことは気にしてたけど、給付金の話はあってもなくても、生まれた日は正確に届けた方がいいと思う」と言うではありませんか。

 親の都合で、早生まれにしたり、遅生まれにしたりするケースがある話をしましたが、娘は親の都合ではなく、子どもの都合を優先にしたい、というわけですから、我が娘ながらアッパレと感じた次第です。

 またまた、実に個人的な話でしたので、この記事はあまり多くの人には読んでもらいたくないなあ、と正直思いました。どうか広めないでくださいね。

 

「会津のいとしき日々 」をYouTubeで発信

 私の友人のお嬢さんが「ユーチューバー」になりました。「AnnAIZUm」というハンドルネームで、「会津のいとしき日々 」というタイトルで、意欲的に発信していくようです。

 一本は、「磐越西線 郡山から猪苗代まで」というタイトルで、郡山駅発会津若松駅行下り電車の車窓から撮影したものです。

 約50分間、特に物語があるわけではなく、「鉄ちゃん」「鉄子」向きの電車の窓から見える景色と駅の映像ですが、しっかり字幕(しかも振り仮名付き!)が付いて、BGMなど効果音まで入れています。

凄い! 何処でこんな技を磨いたんでしょうか?

 時に、スマホの影が映るので、スマホで撮影したようですが、編集はセミプロ並みです。

 もう一本は、「めごいこらに会える、会津若松駅」。こちらは2分ぐらいです。

 会津名産、牛の赤べこさんもいますね。「赤べこ音頭」まであるとは。。。

 会津生まれのお嬢さんは、長年関東で暮らしてきましたが、最近になって会津で職を得て、「故郷」に錦を飾ることになったのです。

 ということで、これから会津の魅力をどんどん発信していくようです。ご興味のある方は応援してください。

 蒲生氏郷も喜ぶことでしょう。

厚労省官僚が深夜宴会した銀座の居酒屋=監視社会の賜物か?

 銀座6丁目

 最近、ブログを書くネタがなくて困っています。以前ですと、西国方面から阿弥陀如来さまのような方が写真と一緒に玉稿まで送ってくださり、年中行事の風物詩の記事を添えることができたのですが、昨年6月からそれもプッツリ切れてしまいました。

 その代わりに帝都の高級住宅街にお住まいの釈正道老師が「暗号」を送ってくださるようになりました。「放送なら基準?違反かな」という見出しでいきなり次の文章が追い込みで始まります

タップリのCM量で、本文の写真か糊口のタネか分からないというあくどい商法かな。銀座周辺の昼メシ情報で活路を見出したかな、と安心していたら、元の木阿弥で、独り善がりの映画、書籍などのウンチクブログに戻ったのは、悲しい限りです。非行少年が、真の道を歩めないのと同様です。悟りの道を求める釈正道が、改心のお手伝いをしましょう。

 これを「暗号」と呼ばずに何と呼ぶことができるのでしょうか? 諜報機関の方々には、是非、この暗号を解読してもらいたいものです。

 まあ、あっしは非行少年みたいなもんなんでしょう。それなら、釈正道老師のお導きで是非とも改心しなければいけませんね。

 さて、厚生労働省老健局の職員23人が過日、東京・銀座の居酒屋で深夜まで送別会を開催したことで、主催した老健局の課長が更迭を含めた懲戒処分、田村厚労相まで閣僚給与2カ月分を自主返納する事態にまで発展しました。

 正直、ここまで厳しい「判定」が下されるとは思いませんでしたが、他にニュースがないので、マッチポンプのテレビがこの話題で大騒ぎしてましたし、引っ込みがつかなくなったということなんでしょう。ただ、コロナ禍で夜の宴会は私自身も自粛していますし、率先垂範して国民に綱紀粛正を求める側のお役人さんが、深夜まで浮かれて騒いでいては、示しがつかないことは確かです。

 実は、個人的には、厚労省の処分よりも、「東京・銀座の居酒屋」が何処なのか気になってしょうがありませんでした。知らなければ、銀座を縄張りにしている渓流斎としては、「銀座博士」の称号を返納しなければなりませんからね(笑)。

 そしたら、意外にも簡単に見つかりました。恐ろしい世の中になったものです。偶然なのか、張り込みなのか、東洋経済の記者が「3月25日0時近くにようやく居酒屋を出て帰路に向かう厚労省官僚たち」の証拠写真まで撮っているではあーりませんか!

 こわ~。ジョージ・オーウェル「1984」の世界です。

 現場は、会社から歩いてすぐの所ですから、すぐ分かりました。

 ちなみに、ビルの名前であるLa Paix(ラペ)とは、フランス語で、「平和」という意味です。渓流斎の野郎にまで写真を撮られて、このビルは平和を乱され、いい迷惑だったかもしれません。

 でも、23人の団体客を受け入れて深夜までやっている薩摩料理の店ということですから、美味しそうですし、楽しめそうです。いつか機会があれば、御一緒しませんか?(笑)。

 

江藤淳を再評価したい=「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」を読んで

 山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が書かれた「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書)の中で、江藤淳著「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年8月15日初版)がよく出てきて、自分自身は未読だったため、今さらながらでしたが探し求めて、やっと読了しました。なかなかの労作でした。この一冊を以って江藤淳(1932~99年)の代表作とする識者はいないのですが、私は代表作にしてもいいと思いました。

 何と言っても、今ではかなりGHQによる検閲の研究は進んでおりますが、江藤淳がこの本を上梓するまで、秘密のヴェールに包まれ、占領軍による検閲の実態を知る人はほとんどいなかったからです。著者もあとがきでこう記しています。

 敢えて言えばこの本は、この世の中に類書というものの存在しない本である。日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を、一次史料によって跡付けようと試みた研究は、知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていないからである。

 本書は、著者が1979年から80年にかけて9カ月間、米ワシントンの国立公文書館などに籠って、米占領軍が日本占領中に行った新聞、雑誌等の検閲の実態を調査し、雑誌「諸君!」に断続的に発表したものをまとめたもので、米国における検閲の歴史から、日本で実行した検閲の事案まで事細かく、微に入り細に入り詳述されています。

 全てを網羅することは出来ないので、私が不勉強で知らなかったことを少しだけ特筆したいと思います。

 ・ルーズベルト大統領から直接、検閲局長官に任命され、日本の検閲のプランを作って実行し、その総責任者だったバイロン・プライスは、AP通信専務取締役・編集局長だったこと。(肩書こそ立派ですが、「新聞記者あがり」が検閲のトップだったという事実は、同じように取材と原稿執筆を経験した同業記者として、苦々しい思いを感じました。)

 ・昭和16年12月19日に成立した日本の言論出版集会結社等臨時取締法は、戦後GHQ指令によって廃止を命じられたため、自由を抑圧した悪法の世評が定着しているが、罰則は最高刑懲役1年に過ぎない。これに対して、米国の第一次戦時大権法第303項が規定している検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金1万ドルまたは禁錮10年、あるいはその双方である。江藤淳も「罰則を比較するなら、米国は日本よりはるかに峻厳な戦時立法を行っていたと言わなければならない」と怒りを込めて(?)記述しています。

 こういった自国の検閲の歴史を持つ米国が、占領国の検閲をするわけですから、苛烈を極めたと言っても過言ではありません。

 ◇「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の断行

 それだけではなく、占領軍は、日本の軍部が如何に国民をだまして、戦争を遂行して犠牲を強いてきたかということを強調するために、「ウォー・ギルト(戦犯)・インフォメーション・プログラム」を断行します。その最たるものが、GHQのCI&E(民間情報教育局)がつくった「太平洋戦争史」と題する連載企画で、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載させます。その一環として、GHQは、1945年12月15日付の「指令」で、「大東亜戦争」という呼称を禁止し、公文書では「太平洋戦争」の名称を使用するように命じます。このほか、「八紘一宇」など国家神道、軍国主義、過激な国家主義を連想させる用語の使用まで禁止します。

 よく知られているように、占領軍に歯向かう思想に通じるような「仇討ち」はもってのほかで、「忠臣蔵」などの上演、上映が禁じられました。

 このような検閲は、敗戦国だから甘んじて受け入れなければならなかったかもしれませんが、同じ敗戦国であるドイツはここまで酷くなかったことを著者は実証しています。

 実際の検閲例や組織など詳しいことを知りたい人は是非、本書を手に取ってください。

 ところで、私の世代は、このような米占領軍であるGHQが指導したプログラムの影響を色濃く反映された「戦後民主主義教育」を受けてきました。そのせいなのか、保守派論客だった江藤淳は、戦後民主主義に反動する右翼の巨魁という怖いイメージが少なからずあったことは否めません。

 しかし、私自身は、もう30年も昔に、彼が日本文藝家協会の会長を務めていた頃、2年近く、何人かの文藝記者と一緒に毎月のように懇談して、江藤淳の人間的側面に触れた経験があります。一言でいえば、真摯で誠実な人柄で、年少だろうが、人の話をよく聞いてくれる方でした。私は初めてお会いした時は拍子抜けしたことを覚えています。

 これはその後の話ですが、江藤淳(本名江頭敦夫)は、私が卒業した東京の海城学園の創設者である古賀喜三郎(海軍少佐)の曾孫に当たる人で、文藝家協会会長の後は、同学園の理事も務めました。事前に知っていたら、その話もできたのになあと残念に思いました。

 人間を右翼とか左翼とかイデオロギーで判断してはいけませんね。国際的な文学賞を受賞しながら、文化勲章を辞退した著名作家は「反日左翼」とか言われたりします。それは的外れの言い過ぎだと思いますが、もう30年も昔、この大作家とは何度も取材でお世話になったことがありました。ただ、自分の家族の売り出しには積極的なものの、短い随筆にせよ、作品発表に関してはメディアを選別したりするので、色んな意味でがっかりしたことを覚えています。勿論、作家としては当然の権利なのですが、偉大な思想家のイメージが崩れ、違和感を覚えました。

 今から振り返ると、江藤淳は生前、あれだけ孤軍奮闘したというのに、最晩年に不幸に見舞われ、気の毒な最期を遂げてしまいました。今年で没後22年にもなりますか…。若い人はもう知らないかもしれません。30年前に毎月のようにお会いした時は、70代の老人に見えましたが、実際は50代後半で、亡くなった時も66歳と、随分若かったことに今さらながら驚かされます。(早熟の秀才でした)

 私は、アメリカ仕込みの戦後民主主義教育を受けてきたせいで、正直に言えば、かつては少なからぬ反対意見を抱いていましたが、江藤淳を改めて再評価して、彼の著作を読んでいきたいと思っています。

【後記】

 「『新聞記者あがり』バイロン・プライスが検閲のトップだったという事実は、苦々しい思いを感じました」と書きましたが、再考すると、「新聞記者あがり」が、検閲担当に一番相応しいと思い直しました。前言を撤回するようで節操がないですが、メディアは、放送禁止用語や差別用語に敏感です。読者から訴えられないように言葉遣いに細心の注意を払って自主規制し、校正には念には念を入れます。この「自主規制」と「校正」を「検閲」に置き換えれば、そっくりそのまま通用するわけです。