ヨガ教室初体験記

今日は生まれて初めてヨガ教室に行ってみました。

30畳ぐらいの部屋に25人くらいの人が参加したので、隣の人と肩がぶつかるくらいでした。

先生は、35歳くらいの目鼻立ちが整った小柄な女性でした。色白でしたが、顔の作りはインド人でした。長年、インドで修行したからそうなったのかもしれません。

以前、ベルギーに旅行した時に、ブリュッセルに住んで20年くらいの日本人女性と会ったことがありますが、その女性も日本人顔ではありませんでした。英国人の音楽評論家のピーター・バラカンさんも、長年日本に住んでいるせいか、もうイギリス人というより日本人顔です。人間って環境の動物なんですね。

あ、ヨガとは全然違う話になってしまいました。

最初は、オウムの人がいるんじゃないかと、緊張してたのですが、結局、もう私は骨も体も硬くなってしまったので、全くついていけずに、周囲の笑いものになっていただけでした。入門コースだというのに、難易度が高いポーズだったのです。

それでも、ストレッチングをしたような気分で、肩こりが取れたような感じになりました。来週、もう一回だけ、ヨガ教室に行ってみます。

クールベ展 

今日は、帯広美術館に「クールベ展」を見に行きました。

そう、印象派の先駆者、美術史でいえば「写実派」のギュスターヴ・クールベです。

オルナンのクールベの生家を改造した「クールベ美術館」所蔵作品が中心で、代表作の「オルナンの埋葬」や「まどろみ」「こんにちは、クールベさん」などはなかったのですが、いくつか発見がありました。

クールベは、1819年にスイス国境に近いフランス東部の小村オルナンの地主の家に生まれ、父親の法曹界に進んで活躍してほしいという願いに反発してパリに出て、独学で絵画を習得します。

彼の業績の特筆すべきことは、これまで、絵画といえば、歴史や神話や聖書に題材をとり、室内のアトリエに閉じこもって描くものだった芸術を、一般庶民を写実的に描き、キャンバスと絵の具を背中にしょって、戸外に写生に出かけていったという今からみれば当たり前のことを彼が始めたということです。

印象派の先駆者というのも、若き無名のモネを経済的に援助しただけではなく、その画風も、芸術家としての心構えも、まさしく印象派につながっていったのです。

今回の展覧会で初めて知ったのは、まだ、この時代でも、レンブラントやルーベンスのような「工房」があったということです。「巨匠」となったクールベを慕って、全国からクールベに弟子入りする画家が増え、クールベ自身は、最後の「点睛」を描いてサインを書くぐらいで、晩年は仕事を弟子たちに任せていたのです。

ケルビノ・パタ、フランソワ・ルイ=フランセ、アレクサンドル・ラパンらの弟子たちは、今ではすっかり忘れ去られてしまいましたが、今回、彼らの作品も目にすることが出来ました。

クールベは1877年に58歳で亡くなっていますが、スイスで亡命生活を送っていた時でした。1871年のあのパリ・コミューンにクールベも参加して、6ヶ月間も牢獄に入っていたのですね。芸術活動をしながらの政治運動は当時としてはかなりの勇気が必要としたことでしょう。

今回、1874年作の「シヨン城」がとっても気に入りました。
後で分かったのですが、この絵はクールベ展のパンフレットの表紙を飾っていました。要するに「目玉」だったのです。自分の鑑識眼に自信を持ってしまいました。

カミーユ・クロデール

彫刻家ロダンの弟子、カミーユ・クロデールについて、最近、興味を持っています。

映画「カミーユ」に、私の大好きなイザベル・アジャーニが主演しているので、早速、蔦屋でビデオを借りてきて見てみました。

恐らく、美術史をひっくり返すほどの発見かもしれませんが、ロダンより、カミーユの方が才能があったかもしれません。

私自身、30年以上昔に、フランス文学をかじったことがあり、ポール・クロデールについては、戦前日本のフランス大使として、6代目菊五郎や15代目市村羽佐衛門にも会って、日本の伝統芸術に関して理解と認識を持っている詩人だと、理解していましたが、彼がそのカミーユの実弟だということをすっかり忘れていました。

しかも、私の卒論のテーマに登場する作曲家ドビュッシーまで、映画に出てくるので、これはさすがに、「作り物」というわざとらしさを感じて白けてしまいましたが、20世紀初頭のパリの風俗が如実に再現されていて、また、パリに行きたいと思ってしまいました。

もしかしたら、私は、パリジャンの生まれ変わりじゃないか錯覚してしまった次第です。

佐山君への手紙

私の友人、佐山康彦君(仮名)は営業マンです。
仕事では、得意先から解約の通知が毎日のように押し寄せ、家庭でも妻と娘からすっかり見放され、家庭内別居状態です。
何もかも、すべてうまくいかず、人生のどん底の悲哀に浸りきっている時、彼はHさんから手紙をもらいました。

先日、私もそのHさんの手紙を、彼からちょっとみせてもらいました。

そこにはこう書かれていました。

「今日という日、一日を生き切ればいいのです。
結果は追わなくていいのです。
自分自身を認めてあげればいいのです。
周りを価値観の基準にするから悩むのです。
もう、社会だの、先生だの、親だのと、誰かのせいにできないでしょう?

会社があなたに何をしてくれましたか?
仕事は自分自身が納得するまでやりきればいいのです。

要するに、自分自身を幸せにするしかないのです。

せっかく生まれてきたのですから、人生を楽しむべきなのです。

佐山さんは、健康に恵まれ、大病して後遺症を抱えているわけではないでしょう?
矢沢永吉さんのように莫大な借金を抱えたわけでもないでしょう?

ないものねだりなのです。

自分自身にあるものを見つめてください。

佐山さんには才能があるのです。

それを信じて生きてください。

もし、佐山さんの悩みが今の「仕事」と「家庭」なら、その二つともなくなったら、悩みは解決しますか?

それをもう一度考えてください。

その二つともなくなっても、つまり、今の仕事と家庭を変えたとしても、また同じことの繰り返しでしょう。

要するに、人間は自分自身を幸せにする以外に責任を持たなくていいのです。

以上、多少、生意気なことを書いてしまいました。

この手紙を何回か、繰り返し読んでくだされば、少しはわたしの言いたいことを理解してくれるのではないでしょうか。

寒い季節がやってきました。お体を大切にしてください。」

アッシジの聖フランシスコの祈りから

神よ わたしを あなたの平和のために用いてください

憎しみのあるところに 愛を
争いのあるところに  和解を
分裂のあるところに  一致を
疑いのあるところに  真実を
絶望のあるところに  希望を
悲しみのあるところに 喜びを
暗闇のあるところに  光を

もたらすことができますように
助け導いてください

松井守男画伯

最近、気になっている画家がいます。
日本人でありながら、フランスに定住し、ついにレジョンヌ・ド・ヌール勲章までも受章した松井守男画伯です。

たまたま、テレビで彼の活躍を知りました。(今年5月に放送されたNHK教育「課外授業 ようこそ先輩」と11月に放送されたNTV系「金のA様×銀のB様」)

現在、フランスのコルシカ島に住み、最も有名な日本人らしいのです。アラブの大富豪がわざわざ自家用のジェット旅客機で、彼の絵を買いにコルシカ島までやってくるというから只者ではありません。

レジョンヌ・ド・ヌール章とはナポレオン・ボナパルトによって1802年に創設されたもので、軍人や文化・科学・産業・商業・クリエーション等の分野における民間人の「卓越した功績」を表彰する事を目的とした勲章です。

日本人画家では、1932年の鹿子木孟郎、1956年の荻須高徳、1957年の藤田嗣治、1996年の平山郁夫に続き、松井守男画伯(2003年)は5人目です。

それほどすごい画家なのに、今年5月まで、全く知りませんでした。

松井画伯は、類稀な才能ゆえに、周囲の妬み、反感をかって、12年間も引き篭もって、新境地を開いた経験があります。

彼の作品を見たい人は、検索エンジンで彼のホームページを探してください。
非常に立派なHPがあります。
あまり立派すぎて、何も付け足すことはありません。
ちょっと白けちゃいますが…。

女児遺棄事件

公開日時: 2005年11月28日 @ 19:45

22日に広島市で起きた女児殺人遺棄事件。一週間近く経つというのに、まだ何一つ解決の糸口が見つかっていません。本当に残念です。

北海道から遠く離れた広島の事件でしたが、地元紙が、亡くなった木下あいりちゃん(7歳)が、昨年3月まで、帯広市に住んでいたと報じていたので、この事件が急に身近に感じてしまいました。

あいりちゃんのお父さんの健一氏(38)が、陸上自衛隊員で、当時、帯広市の第5師団(現在、旅団)に勤務していたのです。もしかしたら、スーパーかどこかで、あいりちゃん一家とすれ違ったことがあったのかもしれません。

あいりちゃんは、当時、帯広市内の幼稚園の年少と年中組に通っていたそうです。写真で見る限り、とてもかわいく愛らしい。広島に住んで1年半ですから、犯人は、誘拐目的ではなく、まさしく、通りすがりの、いきずりの、犯行ということになります。

もう少し帯広に住んでいれば、あんな事件に巻き込まれずにすんだかもしれないと考えると、本当に、哀れでかわいそうです。早く犯人が捕まってほしい、と当たり前のことしか思い浮かんできません。

フォーカシング

臨床心理学の用語の一つに「フォーカシング」なるものがあることを初めて知りました。

北海道新聞の編集委員が、フォーカシングの創始者ユージン・ジェンドリンさん(78)にインタビューしている記事を読みました。(27日朝刊)

その記事によると、フォーカシングとは、自分の体の喉からお腹にかけての中心部分に注意を集中して「今、気になっていることは何か」を自分自身に問いかけることから始まります。例えば、仕事や恋愛や夫婦関係や病気や子供の問題などが浮かぶとします。

その中で、何が一番強く感じるのか、を問い直し、それにぴたりと合う言葉やイメージを思い浮かべます。すると、一番重い問題は「仕事」で、「失敗するのが怖い」と出たとします。再度、自問自答して、過去の失敗例を思い出し、「そうか、そういうことを繰り返すのが怖いのか…」などと納得します。すると、自然と体が楽になって、具体的にどう対処していったらいいのか、自ずから分かってくる…。

こういった調子で、フォーカシングは、問題解決や意思決定、様々な創造性、心理療法など個人的成長に広く役立つというのです。

心理学者でカウンセラーでもある創始者のジェンドリンさんは、インタビューに対して「話を聞いてくれる人がいることが大切です。相手は耳を傾け、よくわからないことを聞き返してくれるだけでいい。それによって、あなたは、何もひっかかることなく、押し付けられずに、人と相互作用できます」と応えています。

フォーカシングをもっと知りたい人は、以下のホームページを参照してください。

「フォーカシング研究所」 http://www.focusing.org
「日本フォーカシング協会」 http://www.ne.jp/asahi/focusing/jfa/j-focusing

鶴の恩返し

Mさんから葉書が来ました。

「我々『有遊会』には著作権はありません。どこにでもお使いください」

そうです。Mさんから聞いた小話を、「私のブログに引用してもいいですか?」と許可の葉書を出していたのです。

そこで一つだけ、引用させて戴きます。

有名な「鶴の恩返し」の別バージョンです。

昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。

おじいさんとおばあさんが、そろそろ今晩は寝ることにしようか、と戸締りを確かめに玄関に行くと「どうか、一晩だけ泊めてください」とか細い声で、若い娘が訪ねてきました。
「ははあ、さては、この間の鶴さんの親戚かな」とおじいさんは、知らないふりをして「さ、どうぞ、どうぞ」と、その娘を一番良い部屋に通すことにしました。

しかし、夜中になると、どうもおかしい。ガラガラ、ドンドンと大きな音が鳴り止みませんでした。

「随分派手に織物を織っているなあ」と、おじいさんとおばあさんは顔を見合わせました。

そのうち、娘の部屋はシーンと静まり返り、物音一つしなくなりました。

「さすがに疲れて寝いいったのだろう」と、おじいさんとおばあさんは、そのまま寝込んでしまいました。

翌朝。娘の部屋を覗くと、もぬけの殻です。それどころか、箪笥から書棚まで家財道具が一切消えて無くなっていました。

そうです。娘は鶴かと思ったら、鷺だったのです。

放火容疑のNHK記者 

放火容疑で逮捕されたNHK大津放送局の24歳の記者は、容疑事実を認めた上で、その理由については、

「仕事や私生活の悩みのために、気を紛らわすためにやった」
と供述したそうです。

報道によれば、件の記者は、取材方法や原稿の書き方などで、先輩記者やデスクから、記者クラブなど、人前で罵倒されたことがあるようです。最近、彼女と別れたという噂もありました。

「貧乏自慢」するわけではありませんが、今の私は、彼の何百倍、いや何百万倍の仕事や私生活での悩みを抱えていますが、気を紛らわすために、放火という大罪を犯すつもりは全くありません。

要するに、彼が犯した罪に関する供述は、全く理由にならない、と言いたいのです。どの時代に、彼のような日本人がいたのでしょうか。

彼はマスコミ記者ということで、恐らく世間で注文されたのですが、職業は関係ありません。

広島での女児殺害、死体遺棄事件。一級建築士による設計構造計算書の偽造事件など、最近、またまた事件に事欠きません。

ストレス発散のために、大罪を犯しても平気な人間が増えたことに唖然としてしまいます。