T君のこと

今回の旅行の最大の目的は、T君との旧交を温めることでした。

T君は、昨春、大病を患って、生死の境を彷徨いました。一命を取り留めたものの、以前とは少し、不可逆級数的に運動能力が下降してしまいました。

行政用語で言うと、継続的に日常、社会生活で相当な制限を受ける状態になってしまったのです。

T君は、このブログを読んでいますが、「好きに書けばいいじゃないか」と言ってくれたので、彼のことを抜きにしてこの旅行が語れないので、書いています。

正直に書くと、日暮里駅のスカイライナーで待ち合わせた時、あまりにもの変わりように驚いてしまいました。

体重が43キロだということですから、以前よりも20キロも痩せていたわけです。あまり食事をせず、3日間断食したことがある、というのです。頭もまるめ、まるで修行僧のようでした。

普通の人の歩く速さの3分の1ぐらいなので、団体には遅れ気味で、ついていけません。

私は、少し後悔してしまいました。

最終日の10月8日、ローマで自由時間があり、彼と二人で行動しましたが、何と、混雑にまぎれて、はぐれてしまったのです。あの時は本当に焦りました。

 

 

 

イタリア人は意外と質素

ミラノ

ラテン系のイタリア人は仕事より遊び好きで、フェラーリに乗り、グッチ、プラダ、アルマーニと世界に誇る自国のブランドを身に付けて人生を謳歌している印象が強かったのですが、実際、行ってみると、彼らの生活事態は意外に質素だということが分かりました。(ホームステイしたわけではありませんが)

最近、イタリアで「1000ユーロ世代」という本がベストセラーになったらしく、この本は、30代の平均月収が1000ユーロといったことが書かれているらしいのです。1ユーロは目下、150円なので、月収15万円ということになります。これは、日本人の平均月収の半分以下なのです。それなのに、ガソリンが1リットル1ユーロ数十セント、約180円もします。イタリアは日本のように鉄道や地下鉄が発達しているわけではないので、車は必需品です。日本では、だいたい1リットル140円くらいですから、かなり生活も厳しさを伴うわけです。

そういえば、今回の旅行では、やたらとデモとストが多かったのですが、労働者の権利として、イタリア国内では毎月のように行われているそうです。デモやストをやってガス抜きしなければ、やってられない、ということでしょうか。

要するに、グッチだのフェラガモだのトラサルディーなど、高級ブランド品を買えるのは、米国や日本などの金持ちということになのです。

サンタマリア・デレ・グラッツェ教会

それにしても、日本人はイタリア好きです。全国各都市と姉妹都市を締結しています。

ミラノ

首都ローマは東京と、ファッションの街ミラノは大阪と、ナポリは鹿児島市と締結しています。

ミラノでは、青と赤のレジメンタルのネクタイを買いました。18ユーロ(2700円)でした。安物です。

ウインドーショッピングしたところ、イタリアでもアルマーニのネクタイは74ユーロ(1万1100円)もしてましたから。

 

 

 

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」

10月2日にパリ経由で最初の滞在先ミラノに入りました。イタリアは指折り数えると、三度目なのですが、実に20数年ぶりです。全体を通して、観光客の多さには本当に驚きました。20数年前は、美術館にしろ、教会にしろ、並んだ記憶がほとんどないのですが、今では、並ぶどころか、予約を取らなければ入場できないということですから本当に驚きです。

しかも、予約を取っても、必ず入れるとも限りません。イタリア名物のストライキがあるからです。とにかく、観光地はどこに行っても人、人、人で、さながら、ラッシュアワーの新宿駅か、日曜日の原宿竹下通りといった感じでした。大袈裟ではなくて、どこに行っても観光地は芋を洗うような群集でした。観光客は白人か、日本人が一番多かったです。

昔はこれほどまでに、人は押し寄せませんでした。20数年前はまだまだ、海外旅行は高嶺の花で、日本人でも行かれる人も数が限られたせいかもしれません。今は猫も杓子も、時間さえあれば行けますからね。それに、日本から欧州まで、昔は北廻りでも20時間くらいかかったと思いますが、今では11時間か12時間で行けてしまうのです。これでは、増えるはずです。本当に足の踏み場もないくらい、何処も彼処も観光地は人、人、人で混んでいました。10月の平日だというのにです。

ミラノの最大の目的は、サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」でした。当日(10月3日)は、運悪く国立博物館の職員のストで、当初、見ることができないと言われたのですが、裏口から、そっと入って、5分間だけ、見させてもらいました。

昔と違って、写真撮影は厳禁です。昔は、欧州のヨーロッパの美術館は、どこに行っても簡単に作品を写真撮影できたのですが、そんな鷹揚な美術館はほとんどなくなってしまいました。

ということで、今回は、室内の美術作品はほとんどありません。

その代わり、ご覧のような美しい女性をアップすることができました。

すごい美人さんですよね。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の前にいた女性です。望遠で撮っています。載せたら怒られちゃうかなあ?

肝心の「最後の晩餐」にはやはり感動しました。22年ぶりの再会でした。今回は、あのダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで、映画を見た後だったので、さすがに感慨深いものがありましたね。

この教会の近くに、旅行代理店と契約している土産物店がありました。そこのおっさんが、変な日本語で盛んに売り込みをしていました。

ココダァケ、ヤスーイー、シンジラレナァイ、テヅクリ、ワタシ、ツクッタ

ワタシ、ニホンゴ、ベンキョーシテマァス、キョーカショ、ワタシ、ノッタ、

エハガキ、イチマイ、20セント、シンジラレナアーイ

こんな調子でした。

話は前後しますが、今回のイタリア旅行はH社の団体ツアーにもぐりこみました。15組30人のツアーです。このうち、4組が新婚カップル、6組が定年退職前後の熟年夫婦、残りの5組が素敵なおばちゃまか、私たちのような訳の分からない怪しげな野郎2人組。

それにしても添乗員の村山奈保さんが、とても優秀で素晴らしかった。イタリア語(スペイン語も)が堪能で、とても気配りのできる人で、彼女のおかげで、大変困難な旅行もスムーズに運ぶができました。後から説明しますが、苦難を乗り越えられたのも彼女のおかげといっても過言ではなかったです。

(つづく)

 

 

ナポリを見たら死ぬな

一週間ばかし、イタリア旅行に出かけて、日本を留守にしていました。

当然、ブログは更新できませんでした。序でながら、新聞もテレビもほとんど目にしていなかったので、浦島太郎状態です。世の中の動きを知らずに済むなんて、こんなことは本当に久しぶりです。すごい快感です。

大変なことがあったらしいですけどね…。

私のブログの熱心な読者から「どうなってしまったのですか?」というメールを戴きました。ご心配をお掛けし大変失礼申し上げました。

一週間とはいえ、昨年、ブログを始めて、こんなに長い間隔で更新しなかったのは初めてです。実は、皆さんに何も言わなかったのは、突然、更新を止めたら、どれくらい読者のアクセスが減るかなあ、と確かめたかった面もあります。(実はあまり変化ありませんでした。おかしいですね)

イタリアに行ったのは、職場でも家庭でも人生に行き詰っていたからです。でも、帰国して色んな経験をして、結局、そういう風に自分が勝手に決め付けていたということが分かりました。

「ナポリを見て死ね」という格言を信じて、イタリアを選んだのでした。死ぬ前に一度じっくり見てみようと…。

でも、行ってみて確信をもって言えます。「ナポリを見たら死ぬな!」

この一週間、只管、建物と人間だけを撮り続けてきました。見たい人はご覧ください。

それでは、今晩は帰国早々疲れたので寝ます。

中札内マッシャー物語

いつかこのブログでもご紹介した熱田千華子さんの遺作の書評が、24日の北海道新聞に載りました。

http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/

この記事を書いてくれたのは、北海道新聞記者の石橋崇さんです。毎年、5万点も6万点も新刊書が出る中、私が無理にお願いして頼んだら、快く引き受けてくれたのです。

彼は、今も道新の帯広支社で勤務しています。メールのやり取りをしているうちに、彼が今年の3月から4月にかけて連載した企画記事「中札内マッシャー物語」http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/kikaku/inuni_miserarete_nakasatsunai/index.html

のことを知らせてもらいました。

今は、ネットで簡単に読めるので、便利な時代になりましたね。

読んでみると、なかなか面白かったです。思わず、感動で涙が出てしまったほどです。

犬ぞりレースの話ですが、国内では、競技人口がわずか200人ほどしかいません。

この物語の主人公、北嶋和美さん(北海道・中札内村教育委員会職員)は、国内でも珍しいトップクラスの女性マッシャー(乗り手)なのですが、周囲からのやっかみや嫉妬などのプレッシャーにめげずに、果敢にも国際的にもレベルが最も高い米国アラスカ州フェアバンクスの「リミテッド・ノースアメリカン・チャンピオンシップ」に挑戦するという話です。

皆さんも是非読んでください。

 

あこがれの神楽坂

東京に戻って、もう随分前から行きたかった神楽坂に行ってきました。もう三十年も昔ですが、フランス語の勉強のために通った思い出の街です。

お付き合い戴いたのは作家の山崎朋子さんです。

「先生のような偉い方にご一緒して戴いて、大変光栄です」と言ったら、山崎さんは「私は『先生』と言われるのは嫌いだし、『光栄』と言われるのも大嫌いなんですね。意地悪ね」と真顔で言われてしまいました。

本当は、山崎さんにはたくさんの人に会ってもらいたかったので、「私の友人に声をかけてもいいですか?」と許可を取ったところ、

「わたし、あまり、大袈裟なことが嫌いなんです。それに、大勢の前でお話するということになれば、責任感を感じてしまうので、どうか、堪忍してください」と言われてしまい。二人だけで再会することにしたのです。

実は、山崎さんから仕立て用のバーバリーのワイシャツをプレゼントされたのです。私が帯広に住んでいた頃、手紙で「(帯広は)お菓子がおいしいところですよね」とあったので、六花亭や柳月のお菓子を送ったことがあります。ワイシャツはその御礼だったようです。が、目の玉が飛び出るほど高価なシャツでした。

そこで、山崎さんに御礼がしたく、場所は以前から行きたかった神楽坂にしたわけです。もちろん、バーバリーのシャツを着ていきました。

「SHUN」という店に行きました。神楽坂には「本家」と「分家」と「旬」の3店舗もあるのに、電話したら、すべて予約で満員で席がない、と断られてしまいました。

焦りましたね。大先生に恥をかかせてはいけません。電話では埒があかないので、駄目でもともとと思い、開店前の店のドアをたたき、ようやく、カウンターの2席を確保することができました。

前触れが長すぎましたが、山崎さんとは色んな話をしました。山崎さんは「サンダカン八番娼館」で大宅賞を取ったノンフィクション作家ですが、女性史研究家としてスタートしました。もう40年前です。その頃、まだ、平塚雷鳥さんや、神近市子さんや、山川菊枝さんらいわゆる歴史的な女性運動家が存命中で、山崎さんは彼女たちに直接お会いして、いろんな話を伺っているのです。

来月号の月刊誌「世界」(岩波書店)でそういった人たちの評伝を連載するそうです。2年くらい長期にわたるそうです。皆さんも是非注目してください。

待ち合わせの「上島珈琲店」では、ジャズがかかっていました。「SHUN本家」にもジャズがかかっていました。

山崎さんが「日本で一番、ジャズの音がいい店を知っていますか」と聞かれるので、私は「六本木?あ、新宿?ピットインですか」などと答えましたが、「いえいえ違います」となかなか答えを教えてくれません。やっと、

「岩手県の一関にある『ベイシー』という店です。そこのマスター菅原正二さんが、早稲田のジャズ研か何かのご出身で、カウント・ベイシーとお友達で、ベイシー本人も来たことがあるのですよ。私は、写真家の秋山庄太郎さんに連れて行ってもらいましたが、そこで紹介されたのが、タモリさんだったですよ」といったエピソードを披露してくれました。

神楽坂にして本当によかったです。

ルピナス、ルピナス、ルルル

ルピナス

目下、毎日新聞で連載されている社会面の大型企画「ふるさと探し」は、つい食い入るように読んでいます。

北海道が舞台だからです。定年を迎える団塊の世代の「その後」が、テーマの柱のようで、記者の早坂さんが沖縄にしようか、北海道にしようか散々悩んだ末、北海道にしたそうです。

第一回は、北海道の上士幌町。つい3月まで住んでいた帯広とは目と鼻の先で、町長の竹中貢さんは、私を友人のようにもてなしてくれました。今でも葉書くらいやりとりしてます。連載が始まったので、早速、電話すると、明るい声で「偶然、取材に来てくれたんですよ」と明かしてくれました。私は「上士幌町が全国的に注目されてよかったですね」と激励しておきました。

第一回は、名古屋市に住む団塊の世代の夫婦が、定年を繰り上げて上士幌に定住するという話です。奥さんが30年間、花粉症に悩まされ、町が一昨年に募集した「スギ花粉リトリート(疎開)ツアー」に参加したところ、すっかり気に入って、永住を決意するという話です。この企画は、私が帯広にいた2年前に記事にしていたので、なじみのある話でしたので懐かしくなりました。

第二回は、東京に住む福島さんという会社経営者が、上士幌の中心街から車で1時間かかる故郷の「三股」に戻り、子供の頃を回想する話です。当時は木材切り出しの中継基地として、鉄道(士幌線十勝三股駅)が通るほどにぎわいを見せていた三股も「過疎化」の波をもろにかぶり、鉄道も廃線となり、今ではほとんど人も住んでいない曠野の化している。そこには、ルピナスが咲いていた…といった感傷的な話です。

え?ルピナス!

そう聞いただけで、私は大粒の涙を流してしまいました。

帯広に住んでいた時に、十勝の周辺で、色んなところでみかけた野草です。

Hさんが「ルピナス、ルピナス、ルルル…」と歌っていたことが昨日のように思い出します。

今日は珍しく、写真と一致した文章です。この青い実をつけたような花がルピナスです。

ルピナス、ルピナス、ルルル…

ああ、また泣けてきました。

 

弘前の桜

今はゴールデンウイークの真っ最中。皆様、如何おすごしですか?

The Timesに面白い記事が載っていました。弘前の桜は、ゴールデンウイークの名物として有名ですが、丁度、この時期に花が咲いてもらわないと困るので、弘前市は、弘前大学と共同でプロジェクトを組み、ゴールデンウィークの前に花が咲かないように、樹木にスプレーをかけたり、ホルモン注射をしたりして、はたまた、幹の回りに雪を盛って、開花時期を遅らせたりしたそうなのです。

なぜ、そこまでするのかー。それは、観光客が街の景気を作用するためです。例年は200万人の観光客が桜を観に全国から押し寄せますが、昨年は、桜の開花が早く、ゴールデンウィークの時期にはあらかた散ってしまったので、わずか、60万人の観光客しか訪れなかったからです。まさに、市にとっては「死活問題」だったのです。

この記事は英国の新聞に載りました。日本の新聞から転電したのかどうかわかりませんが、たかが桜とはいえ、英国人の関心を呼ぶほど、世界的な話題になってしまうのですね。

紅葉がいっぱい

昨日は、辺見庸講演に行く前に銀座で、ノンフィクション作家の山崎朋子さんとお茶しました。

私が指定したのは「樹の花」という喫茶店です。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが行った店ということが雑誌に載っていたので、是非行ってみたかったのです。店内には彼らが座ったという証拠のサインが飾ってあります。

場所は?-コメントしてくださった方にお答えしましょう。

約束時間の10分前に着いたのに、山崎さんは、先に来ていました。

実に、11年ぶりの再会だったのです。それなのに「あら、そうだったかしら」と山崎さんは全く意に介した様子はありません。「私の名前は朋子だから、一回お友達になったら、相手が離れない限り、ずっと友達なんです」なんて、嬉しいことを言ってくださいました。

まるで、10代の少女のような感じでしたが、山崎さんは、もう「大家」といっていいくらいのご年齢なのに少しも偉ぶったところがありません。

一昨年、私が帯広で独り暮らしをしている時、山崎さんは、自身の著作「朝陽門外の虹」(岩波書店)をわざわざ贈ってくださったのです。桜美林大学を創設した清水安三の生涯を辿った伝記ですが、これが寝食を忘れるほど面白い。本当に心の糧になったものです。その他、手紙で随分励まされました。

この「朝陽門外の虹」が、今度、桜美林大学の卒業生に毎年、記念品として贈られることになったので、毎年、三千部売れることになった話や、中国で早速、この本の中国語訳が出版されることになり、上海のブックフェアに招聘される話などを聞きました。中国には反日デモで破壊活動をするような若者がいる一方、インテリ階級はとてつもなくレベルが高い、というのが彼女の印象でした。

山崎さんには、もうひとつ、女性史研究家の顔があり、それはそれは、本当にいい仕事をしています。聞くところによりますと、来月から月刊誌「世界」で、その女性史の連載が始まるそうです。楽しみです。

「私は後世に残る仕事をしていますから」と言われると、こちらも襟を正したくなりました。

山崎さんは「港の人の里舘さんによろしく」と言ってました。意外なところで接点があるのですね、里舘さん。「彼は本当に地道ないい仕事をしてます」と言ってましたよ。

今日、四月二十八日は、母親の79歳の誕生日でした。昨年、夫(つまり私の父)を亡くして、すっかり元気をなくして、「もう何もいらない」と気力もなくしてしまっているので、近くの平林寺(埼玉県新座市)まで行ってきました。

平林寺といっても、知らない人も多いかもしれませんが、私にとっては、本当に小さい頃からなじみのある寺です。約六百年前に、大田備中守春桂薀澤大居士によって創建された歴史のある臨済宗の禅寺です。小学生の頃、「歩行会」というものが毎年あり、学校から平林寺まで10?近く、約3時間かけて歩いたものです。

ここには、豊臣秀吉の五大老の一人である増田長盛や1637~8年の島原の乱を平定した幕府方の総大将を務めた松平伊豆守信綱・川越藩主の墓もあります。是非一度行ってみてください。散策するだけで1時間はかかる広大な敷地です。もちろん禅寺ですから、修行している人も沢山います。夜10時就寝で、朝は3時起床と書いてありましたから、私にはとてもできないなあ、と尻込みしてしまいました。

今日の収穫は平林寺ではありません。この寺の向かいに「睡足の森」が無料で公開されていたことです。知りませんでした。平成14年5月29日に新座市に無償貸与されたらしいので、公開されて、まだ4年も経っていないので知らないはずです。

ここは、全国に電力会社を興して「電力王」と呼ばれた「耳庵」こと松永安左エ門の屋敷跡で、茶室「睡足軒」もあります。耳庵は、原三渓、益田鈍翁と並ぶ近代三茶人として知られ、この草庵は、昭和13年に原三渓の計らいで飛騨高山付近の茅葺家を移築したものです。

ここの紅葉がまたまた豪快で綺麗でした。どこを見渡しても紅葉ばかり。携帯で撮った写真なのであまりよく映っていませんが、本当に紅葉がいっぱいで、感動したものです。

普段、パソコンばかり見つめているので、いい目の保養ができました。瞳が喜んでいる感じでした。秋の紅葉もさぞかし綺麗でしょうね。また楽しみが一つ増えました。

ハナミズキ

散歩していると、あちらこちらに白と薄紅色の樹木が目につきます。
ハナミズキです。
何の特色があるわけでもありません。でも妙に気になる花です。

半年間も雪と氷で閉ざされる北海道では、春の訪れの有り難さは、何よりも変えがたいものがありました。本当に路傍に咲く見たことも聞いた事もないような雑草でも思わず飛びついて頬をすり寄せてみたくなるほど感動したものです。

ハナミズキといえば、10年前に日比谷公園で見たそれを思い出しました。

どうという特別な思い出があるというわけではありません。

まさに、中原中也が「ボーヨー、ボーヨー(茫洋、茫洋)」と溜息をついたように、私も真似をしてこの花を見ながら「ボーヨー、ボーヨー」と独りごちた記憶が残っています

中原中也30歳、アルチュール・ランボー37歳。

青春時代に熱中した詩人たちより一回り以上長生きした今、生き恥を晒している自分自身を自嘲的に眺めています。