日本はなぜ戦争に負けたのか?

 月刊「文芸春秋」11月号が、「日本敗れたり あの戦争になぜ負けたのか」を特集しています。半藤一利(作家)、保阪正康(ノンフィクション作家)、中西輝政(京大教授)、福田和也(文芸評論家・慶大教授)、加藤陽子(東大助教授)、戸高一成(大和ミュージアム館長)の6氏が徹底的に討論して、総括しています。

 印象に残った箇所を換骨奪胎で引用します。

●太平洋戦争に関する限り、侵略戦争ではなく、「自存自衛」のための防衛戦争だった。

●海軍はミッドウェーをはじめ、損害戦果については、一緒に戦っていた陸軍にさえ、本当のことを教えていなかった。お人好しのところがある陸軍はそのまま信じて作戦を何度か変更した。この行為は国賊ものだ。

●陸軍参謀本部は、物量作戦を重視していたにも関わらず、実際の戦争では補給を無視した。特に太平洋の島々では補給が途絶えれば、部隊の大半は病死か餓死してしまう。実際、昭和19年以降、二百万近くの兵隊が命を落とした。餓死は、全戦死者の70%を占めた。

●軍令部総長の永野修身と山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦前から一度もとっくり話をしたことがない。日本海軍の戦略・戦術の総本山の責任者と、それを実行する連合艦隊の司令長官とが何の打ち合わせもしない理由は何か。「お互いに嫌いだから」。感情論だけだった。

●周囲の反対を押し切ってインパール作戦を敢行した牟田口廉也・中将は、前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で、ひたすら「前進あるのみ」と命令を出していた。しかも、作戦の失敗を部下の師団長らに押し付け、自分は責任を問われぬまま生き延びた。

●軍部の上層部は戦闘の図面を引いて指示を出しているだけで、直接殺傷の体験はないから、本当の戦争を知らなかった。

 あれから60年。果たして日本人のエートス(心因性)は変わったのでしょうか?何万人もの部下を見殺しにして、自分だけは責任は取らず、ぬくぬくと生き延びた人間が如何に多かったことか。将軍といわれた人たちの集団が、信じられないような俗人的な価値基準で行動していたのか、後世の人間は忘れてはならないと思いました。