とりとめのない感想

洞爺湖

安倍晋三「論功型仲良し」内閣がスタートしましたね。

本来のマスコミの役割は、権力が腐敗しないように絶えず監視の目を光らせるべきなのに、特に、週刊誌ジャーナリズム、特に、安倍新総裁から直々に「手記」を寄せてもらった「週刊新潮」や、新書で「美しい国へ」を発売して売れ行きを気にしている文藝春秋は、どこか腰がひけていると感じるのは私だけではないのではないでしょうか。

新聞の投書で、茨城県に住む77歳の男性が「政治感応度」なる新語を提唱していました。本来は、経済用語で「価格感応度」という言葉があり、この言葉を政治の世界に応用したというのです。

価格感応度というのは、どのように使われるかというと、例えば、新聞に折り込まれているチラシを見比べて、どこが安い店か探す消費者を価格感応度が高い消費者だというそうです。低いのはその逆で行き当たりバッタリで店に入って、高価格のものをつかまされる消費者です。

この用語を政治の世界に応用すると、常に新聞や雑誌やラジオやテレビなどから情報を収集して政策を判断する人が、政治感応度が高い人。低い人とは、テレビだけからそのイメージだけで反応してしまう人たちということになります。小泉「ワンフレーズ」「キャッチフレーズ」前首相は、確かにテレビを意識したパフォーマンス政治家であったことは確かで、彼は多くの一般大衆の支持を獲得しました。

でも、恐らく殆どの人は複数の新聞や雑誌を読み比べたりしないでしょうね。他に楽しみたいことが一杯ありますし、人間ですから雑事に追われます。まあ、はっきり言って、物心付いた時から全く思考停止状態で楽な気持ちで、受身でテレビに接している日本人の方が多いということです。

最近、詩人の荒川洋治さんが「文学は実学である」と盛んに訴えています。

バブル経済華やかりし頃の日本で、大学の文学部の志願者が大幅に減りました。文学など、毒にも薬にもならず、もっとはっきり言えば、お金にならなかったからです。少しは聡い若者は官僚になるための法学部か経営者を目指して経済学部、商学部を狙いました。

「最近の若い人は本を読まなくなった」と嘆く声は昔からよく聞かれますが、荒川さんは、最近それが特にひどいというのです。宮崎勤事件から宅間事件に至るまで昨今の、信じられないような凶悪な犯罪は、被害者の痛みに対する想像力の欠如にある、と荒川さんは睨んでいます。想像力を育むには、文学に接して養うしかない。よって、文学は結局、実学であるーといったような趣旨の発言をしているのです。

ある意味で、政治も文学です。我々有権者は、政治家の政策なり、ビジョンなりを「言葉」を通して信じるしかないからです。その政治家が言っている事が正しいかどうか、判断するのも、「政治感応度」であることは改めて言うまでもありません。

今日はちょっと硬かったかな?