「父親たちの星条旗」

クリント・イーストウッド監督の話題の映画「父親たちの星条旗」を丸の内ピカデリーで見てきました。

新聞も雑誌も大きく取り上げ、辛口の映画評論家も満点に近い評価を与えていたので、大いに期待して見に行ったのですが、正直、無名の俳優を採用したせいか、登場人物と名前がほとんど一致しなくて、困ってしまいました。そういうことに触れた評論家は一人もおらず、「彼らはやはりタダで見て勝手なことを言ってるんだなあ」と再認識しました。

もちろん、この映画に取り組んだクリント・イーストウッドの勇気と業績はいささかも揺るぎのないものであることは変わりはありません。

これまでの戦争映画といえば、「正義の味方」アメリカが、悪い奴ら(日本やドイツ)を懲らしめて、苦しみながらも勝利を収めるといった「予定調和」的な作品が多かったので、観客(もちろん連合国側の)は安心して見ていられたのです。しかし、この映画に登場する戦士たちは、何と弱弱しく、あまりにも人間的に描かれていることか。兵士たちも当時20歳前後の若者たちが多かったせいか、登場する兵士たちも皆、少年のようにあどけなく、戦場では恐怖におびえて、子供のように泣き叫んでいる。硫黄島で米軍は、約6800人が戦死し、約2万1800人が負傷したということですから、実態に近い描き方だったと思います。

主人公のブラッドリーが凱旋演説で「本当のヒーローは(硫黄島の擂鉢山に星条旗を揚げた)我々ではなく、戦場で死んでいった戦士たちです」といみじくも発言した通り、ヒーローに祭り上げられて生き残ったインディアン系のアイラは、死んだ戦友たちに対する申し訳ないという悔悟の念で、アル中が遠因で不慮の死を遂げたりしてしまうのです。

この映画では、星条旗を揚げたヒーローたちが、戦時国債を売るための「人寄せパンダ」に利用され、最後はボロ衣のように捨てられてしまう有様を冷徹に描いています。そこでは、登場人物に対する感情移入ができなければ、カタルシスもありません。かつてのハリウッド映画が避けてきたような題材です。それを態々、映画化したクリント・イーストウッドの勇気には感服しました。

12月には日本側から硫黄島の戦いを描いた「硫黄島からの手紙」が公開されます。予告で見ましたが、こちらの方が面白そうです。もちろん、見に行きます。

 

ゲストハウスとレストボックス

ミラノにて

T君が、イタリア旅行から帰って来て、郷里に帰らずに、そのまま東京に居着いた場所が、ゲストハウスと呼ばれる所でした。私は、それまで、このゲストハウスについては全く知らなかったのですが、もともと、外国人旅行者が長期滞在するために利用していたものが、ビジネスとして発展したらしいのです。都内だけでなく、全国かしこにあるようです。

2段ベッドがざっと10架か20架くらい並んでいて、共用スペースにシャワーがあったり、食事用の簡単なテーブルや電子レンジがあったりします。1泊1200円とか2000円くらいで、月額3万6千円から、個室用の9万円とかあったりします。インターネットで検索するとたくさん出てきます。

T君が居着いたゲストハウスにはフランス人のパリジェンヌ(変な言い方ですね)が居て、半年近く、日本に滞在していて、ここを拠点に日本全国を旅歩いていたそうです。そういえば、私も昔、ヨーロッパを旅行した時、こういう感じの宿に泊まったことがありました。アムステルダムの「YMCA」です。そこは、男子専用でしたが、少し、男色趣味のある黒光りしたアンちゃんがジロジロ物色していたので、気持ち悪かった思い出があります。

ゲストハウスは、男女兼用で、かのパリジェンヌもタオル一枚を体に巻いて、平気でシャワールームから出てきたりしたそうです。

ミラノ

そして、ゲストハウスに似た宿として、今「レストボックス」というのが注目されています。ここも、一泊1200円とか2000円とかの低料金、長期滞在型で、若者のフリーターがよく利用するそうです。もともと、建築会社の請負会社が始めたそうなので、「建築現場」などの仕事も斡旋してくれる所があります。ここで、半年ぐらい仕事をしながら生活していて、「お金をためて、将来、お店を出したい」という青年が、テレビの取材に答えていました。この青年は親との折り合いが悪く、22歳にもなったので、親と同居するのもいかがなものか、と家を出たらしいのですが、ちゃんと、そんな親にも仕送りしている、というのですから、本当に感心してしまいました。

ゲストハウスにしろ、レストボックスにしろ、若者や外国人だけでなく、最近、サラリーマンや、わけありの中高年の人も利用する人が増えてきたそうです。あるゲストハウスのオーナーが「外国旅行から帰ってきて、そのままボストンバッグ一つで来られる方もいます」と話していたのを聞いて、「なんだ、T君のことじゃないか」と噴出してしまいました。

 

欧州旅行1979

パリ

本棚を整理していたら、27年前に欧州旅行した際の旅行記が出てきました。最初は、時間や金銭出納帳程度のメモでしたが、次第に、感想めいた話を書いてました。1979年7月17日から8月18日まで33日間にわたる私にとっては一大旅行でした。いわゆるバックパックで、その日その日、足の向くまま、気の向くままでその行方知らず。貧乏旅行で、宿泊代を浮かすために3日連続夜行列車に乗ったりして、すっかり体調を崩したりしています。

面白かったので、ここに少しずつ再録してみたいと思います。え?読みたくない?-そういう方は閉じてもらっても結構ですよ。恐らく、飽きなければ、30回ぐらい続くことでしょう。

【1979年7月17日(火) 晴れ 宿泊:機内】

夜6時半、成田空港、4階北ウイング集合。21時30分、Boarding   22時10分、離陸。

6時間でアンカレッジに到着、TRANSIT  ロンドンまであと8時間。

ロンドン到着、現地時刻 18日午前6時20分

三人娘の横山朝子さん、若松よしこさん、和田かよこさん

関くん、今村くん、久保くん(モロッコ)

【補遺】

三人娘のことは今でも覚えています。若松さんは、その後、T銀行の渋谷支店に勤め、一度、今村君と会いに行ったことがあります。今村くんは、今でも連絡を取り合って、このブログにも登場する有名人。関くん、久保くんはもう全く覚えていません。

【7月18日(水) 曇 宿泊都市:ロンドン】

ホテルの同室は中川くん

Picadily Circus ,  Trafalger,  West Minster(Bridge) へ行く

地下鉄 Edware Road~ Charing Cross まで35ペンス。

昼 マグドナルド チーズバーガー 62ペンス  コーヒー 30+5ペンス

バス Picadily Circus  ~ Abbey Road   22ペンス

ポストカード 5ペンス  切手 11ペンス

夜 Fish and chips  とTomato soupe で1ポンド27ペンス

英国人の質素さ!

ハンバーガーではなくて、ハンボーガーと発音していた。

バッキンガム宮殿前の観光客の群れ!

【補遺】

1ポンドは当時、456円くらい。100ペンスが1ポンド。

同室の中川くんは全く覚えていない。でも、3,4人と連れ立って、地下鉄やバスを使って、ロンドンを隈なく歩いたのでしょう。何しろ初めての海外なので、非常に興奮したことを覚えています。この日は誕生日で、ホテルの一室で皆がワインでお祝いしてくれたはずだったのに、その記述なし。

夜は、英国名物の「フィッシュ&チップス」を注文して食べたけど、非常にまずかった。こんなまずいのに、隣のテーブルに家族連れがいて、月に一回程度の外食を楽しみにしている小学生くらいの子供が非常に感激して、はしゃいでいたので、なんか哀れみの涙が出てきたことを覚えています。

現実問題

公開日時: 2006年10月28日 @ 10:47

作家や評論家や学者が言っていることは、まやかしばかりだね。

自分のことを棚にあげているんだよ。

例えば、人間なんて堕ちると早いものだよ。こうして職も家庭もすべて失ってみて初めて分かったことは、職を探そうとすると、まず自宅の住所がなければならない。しかし、どこか、落ち着き先を決めようとしたら、定職を持っていなければ見つからないし、誰も貸してくれようとしない。すごい悪循環なんだよ。要するに、一回ドロップアウトすると、社会から爪弾きされる。簡単にホームレスになれるんだよ。

でも、僕は這い上がってみせるけどね。

作家や評論家や学者やマスコミが言っていることは、まやかしが多いことは確かだよ。すべてとは言わないけど…。

(X氏語録)

「大人のための東京散歩案内」

ローマ

たまたま書店で見かけた「大人のための東京散歩案内」(洋泉社新書)が面白くて、一気に読んでしまいました。

著者は「下流社会」がベストセラーになって話題になった三浦展さん。この人、どこかの大学の先生かと思っていたら、情報誌の編集長や総研の主任研究員を務めていた人だったのですね。いわゆるリサーチャーです。

ですから、かなりの「調べ魔」らしく、私も知らなかったことが列記されて参考になりました。東京散歩でも、普通の人が取り上げるような銀座や六本木や青山などは出てきません。本郷、小石川、本所、深川、高円寺、それに赤羽など渋い所ばかりです。

東京は、江戸からの歴史から見て、明治維新、関東大震災、そして太平洋戦争と3度の大変革期を経て、今に至っているわけですが、想像力を逞しくすれば、そこはかとなく過去の遺影が残っているものです。江戸の古地図と見比べてみても、道路が江戸時代とほとんど変わっていなかったりするんですね。

今は陸地でも、昔は海や川や湿地帯(かなり多かったようです)を埋め立てた土地が多く、辛うじて名前が残っていたりします。知らなかったのですが、小石川もやはり川の名前です。「椎名町から流れてくる谷端川の下流の名称で、大塚駅の南東の三業地を通り、小石川植物園を抜けて東京ドームのあたりまで流れ、最後は神田川に合流する」

この三業地ですが、意味が分かりますか?私はすぐに答えられませんでした。調べてみると、「料亭」「芸者の置屋」「待合」の三種の業を指します。現在、東京では花柳界がほぼ絶滅してしまったので、私自身は体験できなかったのですが、東京の至る所にあったようです。東京を歩いていて、「何でこんな所に、たくさん料理屋が並んでいるんだろう」と感じたら、まず三業地でしょう。この間、行った北品川の「金時」もそんな雰囲気でした。よく分かりませんが、三業地は、吉原や向島、四谷、池袋、尾久(阿部定事件の舞台)、千住、渋谷などの「赤線地帯」とは違うと思います。この本には、大塚三業地のほか、白山三業地、神楽坂の牛込三業地などが出てきます。どなたか詳しい方教えてください。

同書には、関東大震災の被災者のために建設された同潤会アパートや、目白、阿佐ヶ谷などの文化住宅などが登場します。老朽化しているので早晩取り壊されてしまうのでしょうが、これらの古い建築物を見るだけでも散歩が楽しくなります。

貧乏な画家や詩人たちが集まった「池袋モンパルナス」は知っていましたが、上野は国立の芸術大学があることから「モンマルトル」といっていたそうですね。御茶ノ水は「カルチェ・ラタン」。昔の人はパリへのあこがれが強かったのでしょう。

赤羽団地の広大な敷地は、陸軍の被服本廠(軍服製造工場)の跡地だったことを本書を読んで初めて知りました。高円寺は古着店の街、西荻窪はアンティークの街で文化人(日本一の編集者の藤原書店http://www.fujiwara-shoten.co.jp/index_2.htmlの藤原良雄も在住、と三浦さんは書いてます。今年、ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクの作品「わたしの名は紅」の翻訳を、どこの出版社も引き受けなかったのに、先見の明を持った藤原書店だけが引き受けた、ということが話題になりましたね)が多く住む街だそうです。

「純喫茶」というのは、女給を置く「新興喫茶店」(今では死語ですなあ)と区別して名称されたことなど、色々と勉強になりました。

早速、この本を片手に散歩に出かけます。どうせ、暇ですから。

 

T君のこと、その後…

ミラノ

一緒にイタリア旅行をしたT君は、帰国後、三重県の自宅に戻らずに、そのまま東京のゲストハウスに居ついてしまいました。

いわゆる住所不定無職です。前科一犯こそつきませんが、毎日、何をしているのやら、職探しをしているのかと思っておりましたが、そうでもないようで、相変わらず、トイレの中で中国語の発音練習をしたり(怖い!)、イタリア語で曲を作ったりしていたようです。

堪りかねた私は昨晩、彼に事情聴取をしました。場所は、銀座の「はち巻き岡田」という居酒屋です。吉田健一が贔屓にした店で、久保田万太郎、川口松太郎、山口瞳や花柳章太郎、伊志井寛らも通い詰めたお店です。

店に入ると、T君は「昔、入ろうとして、断られた店だね」と言いました。すごい記憶力です。もう4半世紀以上昔の話です。まあ、20代で、こんな店に入ろうとしたなんて、生意気でしたね。お品書きには、値段が明示されていませんでしたが、名物の「粟麩田楽」は本当に美味しかったですね。菊正宗の樽酒を5,6本空けてしまいました。

私は、早速、T君にローマでの行方不明事件を問い糺しました。「雲隠れしただろう?」

すると、どうやら、彼は雲隠れしたわけではなく、本当に、行き違いになって、はぐれてしまったということが分かりました。T君、疑ってすまなかった。

場所を変えて「ルパン」に行きました。ここでもハイボールを5,6杯空けてしまいました。店の奥には太宰治や坂口安吾、織田作之助の写真が飾られ、私も、もう30年近く通い詰めているのに、客の顔と名前を覚えようとしないで放っておいてくれる店です。

そして朗報です。まさしく福音です。

彼に職が見つかったのです。しかも、住む家も。

私の高校時代からの古い古い旧友からの紹介です。「友達の友達は皆友達だ」の世界です。彼らこそが、一緒に人生を歩んでいく、同じ世界の人間です。

ということで、昨日は色々ありました。

お父さんの古い時計

ラオコーン

イタリア旅行に行く前に、腕時計が止まってしまいました。いつものことながら電池切れだと思い、三越デパートの6階にある時計売り場に行って、電池を交換していもらいました。

1500円でした。

その時、売り場の人が「大分、リューズにゴミが溜まっているかもしれません。今度、止まったら、一度分解して掃除したりして調べた方がいいかもしれませんね」と言うのです。そして「1万5000円くらいかかります」と付け加えました。

ちょっと、待ってください。その時計は、確か、1万円だったのです。大阪に住んでいた1989年頃に、量販店の「ジャパン」という、社長か誰かの太ったおっさんをアップにした顔が看板になっているお店で買ったのです。

「1万円の時計を1万5千円で修理するわけにはいかないなあ」と考える暇もなく、翌日、見事に、その時計はまた止まっていました。電池を換えても止まるということは、17年も使ったので、もう寿命なのかもしれません。

でも、翌日にはイタリアに出発しなければなりません。そんな時、偶然、昨年亡くなった父親の形見の腕時計があったのです。高価ではない、というより、はっきり言って安価なものですが、私にとっては思い入れのある時計です。

この時計をはめて、イタリア旅行を敢行したのです。

ところで、物欲のなくなったT君は、外国に行くというのに、時計さえしてこなかったのです。既に質に入れたのか、最初から持っていなかったのか、聞きそびれました。

そういえば、彼は用もないのに、「今、何時ですか」とイタリア語で声をかけて、イタリア人と会話の練習をしていました。

「物なんて、何もなければ、それで何とかやっていけるものだよ」という自分の言葉を実行しているようでした。

 

ローマで見たもの

フォロロマーノ ローマ帝国の議事堂や元老院などがあった

シャッターを押したら苦笑いしていたお嬢さん

街角に立つ銅像に扮した人

中学生かなあ?変な外国人が後ろから撮りました

トレヴィの泉のおじさん 頑張っています

親子かなあ?何か映画の一シーンみたい

最新ファッションに身を包んで

バッグが様になっています

本場のカンツォーネを聴きました

カフェ「グレコ」で 何処の国の観光客も同じです

ローマの地下鉄 スリが多いと聞いて緊張しました

永遠の都市ローマで迷子になる

コロッセオ

先週も、ローマ地下鉄で列車衝突事故があったり、トルコでバス事故があって、日本人観光客に死傷者が出たりしました。ローマでは、まさしくその地下鉄に乗って来ましたし、旅行もほとんど大渋滞の中のバスだったので、自分もよく無事に帰ってこれたものだと、思っています。

フォロロマーノ

旅行中に何もなかったかといえば、そうでもなく、最大の「事件」は、迷子事件でした。

現地最終日の8日(日)、午前中、4時間ほどの自由時間をもらえました。オプションツアー(6500円)もあったのですが、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会にあるカラヴァッジョの「聖マタイの殉教」をどうしても見たかったので、「自由」を選んだのでした。

コインを投げるスペースもなかったトレヴィの泉

フランチェージ教会を出た後、近くのパンテオンやサンタ・マリア・ソプラノ教会に行き、まだまだ時間があるので、ナヴォナ広場の方に足を伸ばそうと、T君と二人でとぼとぼと石畳を歩いていました。

ティトゥス帝の凱旋門

いつのまにか、狭い路地に入っており、ここがどこか分からず、私は手持ちの地図を一生懸命に眺めていました。

運動速度が極端に反比例しているT君ですから、私より、彼は後方200メートルくらいを歩いていました。

3分ほど、地図を見つめていたと思います。すると、T君の姿がまるっきり見えなくなってしまったのです。

焦りましたね。

スペイン広場は人だかり

私は元来た道を戻り、戸口で大道芸人のような化粧をして現代舞踊のようなものをしていた若い奇妙な女性がいたので「日本人は見なかったか」と聞いてみました。

彼女の答えは「あっちへ行け」でした。

物乞いの話を熱心に聞くT君

焦ってしまいました。

狭い同じ路地を何往復したか覚えていません。

そのうち、私自身も疲れ、トイレに行きたくなってしまいました。

テーブルクロスに「鮮」とか「美」とか、意味を度外視して単なるアートデザインにしているバル(Bar=日本の喫茶店とフランスのカフェとイギリスのパプを合わせたような店)があったので、そこに入ることにしました。

パンテオンの前にいたローマ兵

昨日は、スペイン広場の近くで、「グッチ」やら「プラダ」やらの高級ブランド店通りにある「グレコ」というカフェに入りました。

1760年創業とかで、カサノヴァや詩人のキーツやシェリーが通った店としても知られています。

(そういえば、ローマの「三越」は1630年創業とプレートが掲げられていました。江戸時代の「越後屋呉服店」の創業でしょうが、数千年の歴史のあるローマでは新しく感じました)

そこのカプチーノが7ユーロ(1050円)、エスプレッソが6ユーロ(900円)でした。私はエスプレッソを頼んだのですが、量がほんの数滴で、一息で飲んでしまいました。

カラヴァッジョ「聖マタイの殉教」

ですから、ここのバルの珈琲も、5ユーロ(750円)くらいするかなあ、と思ったところ、店の若いお嬢さんは「ナインティ」というではありませんか。一瞬、90ユーロ(13、500円)では高すぎるので、19ユーロ(2850円)かなあ、と思いました。

それでも高い。聞き返すと、彼女は「90」と言った後「セント」と続けたのです。

 

アンティコ・カフェ・グレコ

わずか90セント、135円だったのです!

要するに赤坂プリンスホテルと、「プロント」「ヴェローチェ」の違いです。

地元のローマっ子は、こういうバルに行くのでしょうね。

何かが起きたわけではなく、単なる観光客の群集

そういえば、いわゆる観光スポットを避けて、裏道に行けば、人通りもそれほど多くはなく、手ごろな店に出会うことができることがわかりました。ツアーで連れて行かれたショップで、チーズやパスタを買ってしまったのですが、ローマの庶民が買うスーパーでは、我々が買った値段の十分の一くらいで売っていました。

それを最終日になって知ったのが本当に悔しいです。

あと1ヶ月、いや、少なくとも一週間はローマに滞在したかったです。

トレヴィの泉

それで、T君はどうなったのか、という話です。

普通の人なら、別に放っておいても構いません。イタリアでは、人が横断歩道を歩いていても速度を緩めずに車に突っ込んでこられる経験を私は何度もしました。T君は、まさか、交通事故に遭うのではないか、と心配でしょうがなくなりました。

しかし、午後1時のテルミナ駅での集合時間が刻々と近づいてきました。

イタリアでは、タクシーは日本のように道路を流していないので、簡単につかまりません。どこか観光スポットに行かなければなりません。

そのうち、自分自身が迷子になっているのに気がつきました。

二重に焦ってしまいました。

パンテオン

他の団体客に迷惑をかけるわけには行きません。緊急時ために添乗員の村山さんが、携帯の電話番号を皆に配っていたので、彼も持っているはずです。大の大人ですから、どうにかなるでしょう。

それより、自分が迷子になってしまい、大丈夫だろうか?

結果を申しますと、私は、スペイン広場から地下鉄に乗って、テルミナ駅まで、集合時間通りに何とか着くことができました。

T君は何と、バスに乗って帰ってきたのです。彼はヨーロッパは初めてです。1ヶ月前にイタリア語を勉強し始めて、何とか簡単な言葉を話せるようになりましたが、相手から返ってくる言葉を完璧に理解するまでに至っていませんでした。

よく、バスに乗って帰って来れたなあ。

不思議に思いましたが、素直に安堵しました。

でも、これには後日談があるのです。我々が帰国した後です。

彼は「不法滞在でもいいから、どこかに行きたかった」と告白したのです。

なあんだ。あれほど探したのに、どうしても見つけることができなかった。

ということは、彼の方から雲隠れしていたのです。

ついにローマに潜入 

ヴァチカン博物館

10月6日(金)の夜にローマに入りました。シェラトンホテルで、一泊4万5千円とか(290ユーロ)。たぶん現地在留の日本人ガイドさんが大袈裟に言っていると思われます。でも、イタリア旅行で一番いいホテルでした。ローマは二度目で、それほど期待していなかったのですが、やはり、ローマはどの地方都市と比べても最高でした。質量とも。残念ながら、フィレンツェもヴェネツィアもナポリもローマ皇帝の首都にはかないませんでした。

ラファエロ「アテネの学堂」

二度目と言っても、実に27年ぶりですから、随分印象も変わりました。

何と言っても人の多さには驚きました。以前は博物館に並んで入った記憶がありません。どこも予約なしてすんなり入れたような気がします。(ねえ、今村くん?)

すごい群集

翌日7日に、ヴァチカン博物館に行きましたが、早朝並んでいる時に急に具合が悪くなってしまいました。暴飲暴食と旅の疲れが出たのかもしれません。午前8時半開館で、8時過ぎからゾロゾロと並び始め、入場できたのは9時半過ぎでしたから、1時間半並びました。途中で、眩暈や吐き気がして、具合が悪くて「帰ろうか」と思ったくらいでした。入場してトイレに行ったら、何とか体調を取り戻すことができましたが。

ミケランジェロ「ピエタ」(サン・ピエトロ大聖堂)

システィーナ礼拝堂は「撮影厳禁」でした。礼拝堂は、まるで体育館みたいな感じで、足の踏み場もないほど人でごった返していました。でも、ミケランジェロの「最後の審判」は圧巻でした。飽きるほど見つめました。

博物館を出てから、すぐ隣のサン・ピエトロ大聖堂に入りました。ここでも人でいっぱい。迷子になりそうでした。ここは撮影OKでしたから、ミケランジェロの有名な「ピエタ」を撮ることができました。

サン・ピエトロ大聖堂

サンピエトロ広場