越中富山の…

皇居

昨日は、銀行不信家さま、コメント有難うございました。

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これでも、私は、仕事と旅行で、北は利尻島、北海道から南は沖縄まで日本全国47都道府県に足を踏み入れたことがあります。これは、私の唯一の自慢です(笑)。

それでも、日帰りが殆どですから、滞在したことがある都道府県となりますと、もっと少なくなります。滞在したことがない県の中に富山県があります。普段あまり接点がないので、思いも寄りませんでしたが、この県はなかなか話題が豊富であることが、最近の渓流斎日乗の独自極秘調査で明らかになりました(大袈裟な!)。

この県は、古代中世から越中と呼ばれていましたね。隣県の新潟は越後、福井は越前ですから、この越とは何処を起点として指すのでしょうか?

ベトナムは、越南と言われ、漢字でもそう書かれますが、これは、中国から見た国境の南という意味です。ベトナムは、千年間も中国の植民地でしたからね。

それで、越中の越がどこから見て越なのか、気になってしまったわけです。

それはさておき、富山県の県庁所在地がある富山市は、富山平野で米作にも適していますが、その平野のほぼ真ん中に呉羽(くれは)丘陵があります。

呉羽は地名ですが、クレラップなどで知られる生活用品、化学製品会社クレハは、以前は呉羽化学工業という社名で、この地名が原点になりました。今はない富山県の呉羽紡績の流れを汲むということです。

この呉羽地方は、古代は呉服部(くれはとりべ)と言われ、中国の呉からの渡来人が多く住み着き、機織の技術などを伝えたと言われます。

呉服の語源ですね。

さて、富山県では、この呉羽丘陵を挟んで、東を呉東(ごとう)、西を呉西(ごせい)と言い、実は歴史的にも文化的にも違います。

呉東は、新潟、長野県に接し、立山連峰が連なり、黒部市や魚津市などか中心です。

黒部市出身の偉人に、世界的なファスナー企業YKK(旧・吉田工業株式会社)を創業した吉田忠雄がおります。

吉田さんはもともと、魚津の人でしたが、不条理な理由で黒部に移住し、東京に出てきて一旗揚げたと言われております。(昭和9年に日本橋にYKKの前身のサンエス商会設立)

呉西は、石川県に接し、中心都市は高岡です。

勿論、高岡市と富山市は仲が悪い、と言ってはいけませんね(笑)。お互いライバルとして競い合っています。

面白いことに、富山県の県紙と言われる有力紙は、北日本新聞なのですが、高岡市だけは歯が立ちません。警察官僚から読売新聞の社主になった正力松太郎がこの街の出身で、全国紙では唯一と言っていいくらい高岡市には読売の購読者が多くおり、隣りの石川県の県紙北國新聞の傀儡と言われている富山新聞と覇を競っているからです。

これで、高岡市は富山文化圏ではなく、石川県=加賀前田文化圏だというわけです。つまり、戦国時代か江戸時代の飛び地と、そう時代は変わっていないということが分かります。

富山県が産んだ最大の偉人は、安田財閥を独力でつくった安田善次郎だということは、大方の富山県人の見立てです。

帝国陸軍参謀でシベリア抑留を体験し、戦後、伊藤忠商事の重役になり、フィクサーとして恐れられた瀬島龍三は砺波出身ですが、県民の評判は意外にも芳しくないようです。

安田善次郎は、確かに偉人で、莫大な財産を匿名で寄付するなど「陰徳」を積んだ人でした。しかし、この陰徳が最期に仇となります。

大正年間に、右翼の狂信者によって暗殺されてしまうのです。その理由が、人民の困窮を省みず、一人だけ奢侈を貪っているというのですから、何とも的外れです。

安田善次郎は、東京帝国大学の講堂(安田の死後、安田講堂と命名)や日比谷公会堂などの建設に当たり、名前を伏せて多額の寄付をしていたのです。

まさに、陰徳です。

歌舞伎役者の間では「五十、六十は鼻垂れ小僧。八十、九十になってやっと一人前」という言葉が言われてますが、もともとは、この安田善次郎の言った言葉らしいですね。

そうそう、故ジョン・レノンの妻小野洋子さんも安田善次郎の外戚です。華麗なる一族であることは、よく知られています。

※電車の中でスマホで記憶で書いたので、間違いは後で訂正します。