金持ちは逃げるは恥だが役に立つ、では駄目でしょう

 新年2020年はどんな年になるかと思ったら、米軍が1月3日に、バグダッド国際空港近くでドローンを使ってイラン革命防衛隊クドゥス(アラビア語でエルサレム) 部隊のカセム・ソレイマニ司令官らを殺害するというとんでもないニュースが飛び込んできたことは、ご案内の通りです。

 どんな大義名分があるか知りませんが、断じて戴けない行為です。トランプ大統領は、保安官気取りなのでしょうか。いや、失礼、気取りではなく、世界最高権力者そのものである米国の大統領でした。日本の政府は一言も非難しませんが、日本への影響は計り知れず。

 これで、中東は一触即発の気が漲り、報復を誓うイランは、イラクやシリアにいるイスラム教シーア派 、それにレバノンのヒズボラ、イエメンのフーシー派などと連携を深め、米国との間で全面戦争が始まるのではないかという緊張に包まれています。原油先物価格も急上昇しています。早速、株式市場が反応して、3日(金)のダウ平均は一時350ドル超も暴落したというのに、6日(月)は小幅反発して68ドル高でした。日本も日経平均は、6日(月)に一時500円超も下落したというのに、7日(火)は反発して370.86円高です。

 あれっ? ですよ。

 識者によると、軍事力では圧倒的に劣るイランが、全面戦争に踏み込みたくても、実際無理なので、報復といっても小競り合い程度に長期にわたって続く可能性が高い、といった分析が、株高につながったものとみられます。

 もう一つ、防衛産業大手のロッキード・マーチン社の株が過去最高値を更新したそうじゃありませんか。そうだったのか!何か読めた気がしますね。(とはいえ、8日になってイランによる米軍駐留基地攻撃が開始されると、日経平均は、またまた370円以上値を下げました)

 暗殺されたソレイマニ司令官(62)は、日本でいえば、山本五十六大将に匹敵するぐらいの英雄でしょう。ペルシャ帝国の流れを汲み、1979年の革命で国王を追放してイスラム統治国家になったイランは、殉教者は最高の地位になるといわれ、ソレイマニ氏は、まさに軍神として祭り上げられることでしょう。軍需産業に唆され、再選しか頭にないトランプさんは、権力の魔力に取りつかれたとしか言いようがありません。

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ゴーン被告の場合

 今回のイラン司令官殺害事件のニュース関連で、久しぶりにレバノンの国際テロ組織ヒズボラの名前を聞きましたが、国外逃亡したカルロス・ゴーン被告(65)は、レバノンで悠々自適な生活を送れるのでしょうか?やはり、難しいでしょうね。日本脱出するのに22億円もかかったという週刊新潮の報道もありましたが、レバノン入りの際、手ぶらで入国できるわけがなく、政府高官に多額の資金が贈与したのではないかと言われています。賢いゴーン被告のことですから、ヒズボラのハッサン・ナスララ書記長にも手を回したかもしれません。

 レバノンという国は、シリアを委任統治していたフランスが1920年代にキリスト教徒が多かった地域を独立させたのが始まりです。かつて、首都ベイルートは「中東のパリ」なんて呼ばれていましたが、1975年から宗教上の理由から内戦が始まり、90年に停戦になったとはいえ、今でも政情は不安定です。35歳以下の失業率が37%とも言われています。現在、国会ではイスラム教徒とキリスト教徒が50%ずつ議席を持つことが決まっており、ゴーン被告も信者であるキリスト教マロン派から大統領が、イスラム教スンニー派から首相が、イスラム教シーア派から国会議長が選出されているそうです。だから、ゴーン被告は、同じキリスト教マロン派のミシェル・アウン大統領を頼ったわけですね。同大統領は関与を全面的に否定しても、現政権がゴーン被告を日本に強制送還しないことから何らかの取引があったのではないかと忖度されます。

 日本人社員の首を散々切って合理化した功績で、私腹を肥やしたゴーン被告の総資産は200億円ともはるかそれ以上とも言われていますから、日本政府が没収した保釈金15億円なんて、庶民換算すれば、本人にとって15万円程度なんでしょう。でも、その15億円は何に使うんでしょうか?偽証の疑いで国際手配されたゴーン被告の妻キャロル容疑者も含めて、2人を捕縛して日本に送還した人への報奨金とすれば、元グリーンベレーの連中とか、次々と手を挙げてくるんじゃないでしょうか。皮肉ですけどね。

 8日の午後10時(日本時間)に、本人は記者会見するそうですが、自己弁護と自己保身と自己正当化に終始することでしょう。宣撫活動として利用したいがために会見をすることは目に見えています。金持ちは「逃げれば恥だが役に立つ」という先例をつくっては駄目でしょう。

 それにしても、ブログとはいえ、現在進行形の事件を書くことは疲れます。この先、どうなるのか予想もつきませんからね。でも、ゴーン被告逃亡の遠因をつくったのは、富裕層専門の弁護士弘中惇一郎氏にもあるという記事に接し、思わず相槌を打ちました。

大正期に東京主要5大紙の首位だった報知新聞=「近代日本のメディア議員」

佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」(創元社)を読了しました。ちょっと無味乾燥な部分もあり、「大学紀要」を読んでいる感じでしたが(失礼!)、大変よく調べ上げられており、メディアに 興味がない人でも、面白く読めるかもしれません。データ資料がしっかりしているので、恐らく、今後出版されるメディア関係の書籍も、この本から引用されていくことでしょう。

 例によって、自分が興味を持った箇所を、逸早く引用させて戴くことにしましょう。

・関東大震災が起こる前の1923年5月の東京主要5大紙の発行部数は、「報知新聞」が36万部でトップ。続いて「東京日日新聞」が30.5万部、「東京朝日新聞」が29万部、「国民新聞」が23万部、「時事新報」が20万部だった。新聞社の企業化の先頭を走った大阪系の朝日新聞・毎日新聞と比べれば、報知新聞はなおも「政治の論理」にとらわれた町田忠治社長(1919年、憲政会総務から社長に就任)派が影響力を保持していた。(35ページなどを改編)※ しかし、震災後、商業化路線の朝日、毎日によって部数は逆転することになります。 当時、いまだ健在だった黒岩涙香の「萬朝報」や「二六新報」などの部数は如何ほどだったんでしょうか?

早稲田大学出身者は1912年の第11回総選挙で、8人から16人へと議席を倍増させ、さらに政友会、憲政会、革新倶楽部の3党が護憲三派を形成した1924年の第15回総選挙で30人を超え、1942年、戦前最後の第21回総選挙まで30人以上維持し続けている。…このように、議会開設当初、メディア関連議員には早稲田出身者が多く、彼らが改進党系に連なったのというのは早稲田の政治的立場を考えれば当然かもしれない。明治14年の政変で政府から追放された大隈重信が改進党を創立し、郵便報知新聞を買収して実質的な社主になったことが理由の一端に挙げられる。(94~95ページを改編)

・駄馬裕司「大新聞社 その人脈・金脈の研究」によると、朝日新聞社が三井財閥と近しい関係にあり、毎日新聞社長の本山彦一は三菱財閥や改進党に関与していた。その結果、「朝日の方が権力中枢に食い込む上で有利だったに違いない」というのは、明治14年の政変で、改進党の大隈重信が失脚し、三井財閥に関連の深い伊藤博文井上馨が、権力の中枢に残ったからである。(99ページを改編)

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・1855年生まれの田口卯吉は、1879年に経済雑誌社を創業し、日本初の本格的な経済雑誌と言われる「東京経済雑誌」を創刊した。…田口はジャーナリストというよりも経済学者であることが分かる。1872年に大蔵省の上等生徒となり、経済学の研究を進め、そこで、お抱え外国人のシャンドと出会い、英「エコノミスト」誌を範とする経済誌を日本でも発行したいという願いが、東京経済雑誌創刊の動機の一つとなった。(181ページ改編)

・同じ1855年生まれの犬養毅は、郵便報知新聞記者を経て、1880年に豊川良平と「東海経済新報」を創刊した。田口卯吉の「東京経済雑誌」が自由貿易を主張していたのに対し、犬養の「東海経済新報」は保護貿易を主張した。

・前述した1919年に報知新聞の社長になった町田忠治は、「朝野新聞」「郵便報知新聞」記者を経て、外遊後の1895年に東洋経済新報社を創立し「東洋経済新報」(現「週刊東洋経済」)を創刊した。同社出身の議員に、天野為之石橋湛山苅田アサノがいる。同誌は創刊以来、会社経営などの私経済よりも、経済界の大勢あるいは国家財政など公経済を得意としてきた。同誌の主張は、日露戦争まで経済的自由主義の域にとどまっていたが、大正期以降、帝国主義の放棄や民本主義などを主張し、石橋湛山編集長の頃は、「小日本主義」を唱えて日本の帝国主義的侵略を批判するなど政治的な言論活動を展開した。(183ページ改編)

・1897年に創刊された「実業之日本」(1964年から「実業の日本」、2002年休刊)は、1900年から、読売新聞経済部主任記者だった増田義一に、東京専門学校の同窓生の光岡威一郎が健康悪化により、「発行編輯に関する一切」を譲渡された。

野依秀市の「実業之世界」で編集を行っていた石山賢吉は1911年、実業之世界社を退社し、1913年にダイヤモンド社を設立し、「ダイヤモンド」誌(1968年から「週刊ダイヤモンド」)を創刊した。同誌には、財界の概況や時報が掲載され、会社の経営分析を連載し、併せて経済統計や調査資料が示されたが、政論は含まれていなかった。(187ページを改編)

・翼賛選挙を象徴するメディア議員である三木武吉(香川出身、早稲田法卒)は、1928年の京成電車疑獄事件で失脚し、34年に実刑が確定。36年の第19回総選挙に立候補できなかった。「浪人生活」を送っていた1939年5月に「報知新聞」社長に就任した。しかし、1941年7月、三木は報知新聞の株式を読売新聞の正力松太郎に譲渡してしまう。これについて、報知新聞で主筆を務めた武藤貞一は、「武藤貞一評論集 戦後篇」(動向社、1962年)の中で、三木は、翼賛選挙の政治資金を獲得するために、報知新聞を手離した、と厳しく批判した。(313~315ページ改編)

 キリがないのでこの辺でやめておきます。

古着は着てても心は錦=非正規労働者と年金生活者のための強い味方

どうも人混みが嫌いなもんで、正月休みは、初詣も買い物もほとんど近場で済ましてしまいました。

 たった1日だけ行った都心は、日暮里でした。なあんだ、そんな所か、と仰らず、まあ、先を聞いてくださいな。

 日暮里駅前に建つ太田道灌像

 日暮里に行ったのも訳がありました。

 冬の寒い日用に、新しいセーターを買おうか、と思ったわけです。ちょっと気になったのが、英国製のフィッシャーマンズセーター。チャンネル・ジャンパー社のオルダニーセーターが2万0350円でした。また、英国王室御用達で、あのスティーブ・ジョブズも愛着したというジョン・スメドレー。そのケーブル編みセーターが4万5980円もしました。うーん、ちょっと高いなあ…と二の足を踏んでいたところ、思わぬ噂が耳に飛び込んできました。

 「日暮里に行けば、2~3万円のセーターでも、4~5千円で買えますよ。ただし、古着ですけど」

 古着?いいじゃないですか。自慢じゃないですが、私は、京都・北野天満宮の「終い天神」の市場で、高級英国製ジャケットの古着を格別の安さで購入したことがあるのです。

黒岩一郎商店

 で、紹介されたのは、日暮里中央通りの布専門店街の北の端にある「黒岩一郎商店」でした。JR山手線・京浜東北線の日暮里駅か鶯谷駅、または常磐線の三河島駅が一番近いようです。

 古着専門店ですが、商店の看板もなく、店構えも一見、大正か昭和時代のレトロです。畳10畳あるかないか、といった程度の敷地でした。上の写真のように、ガラスが割れても修理する余裕がないようです。でも、お宝がザックザックでした。店内全てを見なかったのですが、紳士専門店でした。

 70歳代後半と思われる店主に、「セーターありますか?」と尋ねたところ、店先に無造作にセーターが山積みになっていました。25着ぐらいあったでしょうか。直ぐ、良さそうなものが見つかりました。5000円以内ならすぐ買おうと思って、店主に値段を聞いたところ、「みんな600円ですよ」と言うではありませんか。一桁、間違っているかと思いました。

 ということで、適当に見繕って、自分が着ることができる大きさと柄だけをみて、3着も買ってしまいました。

 これで、合計、たったの1800円。

 えっ!?ですよ。まさに、クリーニング代で3着も買えてしまったのです。これなら、非正規労働者でも、2000万円の貯金がない年金生活者でも、凍死することなく冬を越せそうです。

 セーターを買うために、この店に寄ったのですが、ほかに、ダウンジャケット風のジャンパーなどがあり、これらはどれも1200円で販売されていました。原価はどう見ても1万円、いや2〜3万円しそうな代物でした。

 好きな彼氏のためのプレゼントでもいいじゃありませんか。まさか、本命の彼氏も破格の値段に気が付くわけありませんよ(笑)。私もまた、いつか日を改めて、ダウンジャケットでも買いに行こうかと思っています。

 人聞きの悪い言い方ですが、この店は、あまり儲かっていそうに見えなかったので、宣伝も込めてこの店を紹介することにしました。御主人にお金を払う際に、「採算取れているんですか?」と念を押したら、御本人は苦笑いしてましたけどね。

 

孤独は伝染する負の連鎖

今朝の朝日新聞日曜版別刷りの「グローブ」で「これから百年の『孤独』」を特集していました。

 この中の記事で、孤独感というものは「友人の友人の友人」まで伝染する、という故ジョン・カシオッポ・シカゴ大教授の説には本当に納得、実感してしまいました。同氏によると、元々孤独感を抱いている人ほど、人間に対する不信感が強くて、数少ない友人との関係も断ち切ってしまうといいます。その断ち切られた友人も孤独感に苛まられてしまい、同じようなことを真似てしまい、このようにして、負の連鎖が続くという説です。

 確かに確かに、私自身にも身に覚えがあります。大して友人が多くいそうに思えない友人が最近、メールを出しても返事がなく、疎遠になってしまい、「何かあったのかな?」と自責の念に駆られておりましたが、どうやら、ちょっとした行き違いか、私自身には身に覚えがありませんが、不信感が原因だったのかもしれません。

 それならそれで、しつこく付き纏うことなく、本人の方針に委ねるしかありませんが、先程の「グローブ」紙の別の記事で、昆虫のアリでさえ、孤立すると、死期が早まるという結果を導き出した科学者の実験も紹介していました。

 産業技術総合研究所の古藤主任研究員の実験で、オオアリの働きアリを(1)1匹だけの「孤立アリ」(2)幼虫と一緒の「同居アリ」(3)10匹の「グループアリ」-の3パターンに分けて飼育したところ、生存日数の中央値のトップが(3)のグループアリで66日、次が(2)の同居アリで22日、(3)の孤立アリはわずか6.5日しか生きられなかった結果が出たというのです。

 へー、と思ってしまいました。

 人間も社会的な動物ですから、虚勢を張るのはやめ、何と言っても、人間不信ばかりに陥ることなく、ほどほどのところで妥協すれば、短命に終わらずに済むかもしれません。

 私が、今年頂いた年賀状の中で、「今年限りで、年賀状を取りやめにすることに致しました」と書かれた方が、3人もおりました。私自身も、先方から返事が来なければ、黙って翌年は出さないというデクレッシェンド方式を始めておりますが、どうも、すっぱりと断ち切ることは躊躇っておりました。先方も何かと色んな事情があるのでしょうが、受け取った方は、たとえ1年に1度の御挨拶に過ぎないとはいえ、絶交されたようで、ドキッとしますよね。日本人はどうも「こちらに落ち度があったのか」と考えてしまいます。

 でも、こういうネガティブ思考は考えものです。負の連鎖は自分の所で止めて、自然体でいくのが賢明でしょう。ということで、このブログの愛読者の皆様方に対しては、こちらから断ち切ったりしませんから(笑)、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

戦争の抑止力にならなかった新聞社出身の国会議員=佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」

 大阪にお住まいの滝本先生のお薦めで、佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」(創元社、2018年11月10日初版、4950円)を読んでいます。1960年から86年にかけて生まれた「比較的」若い中堅の学者10人が共著でまとめた学術研究書です。かつてはかなり多くのマスコミ出身の国会議員や首相にまで上り詰めた人がいたことが分かります。

 滝本先生が何故、この本を薦めてくださったかというと、先日、大阪市内で、この本の編著者である佐藤卓己・京大教授の講演会を聴いたからでした。会場には、現役時代にブイブイ言わせていた朝日新聞や毎日新聞など大手新聞社のOBの方々も見えていたそうです。

 新聞メディアの歴史を大雑把に、やや乱暴に要約しますと、明治の勃興期は、薩長を中心にした藩閥政府に対する批判と独自の政論を展開する大新聞が主流でした。柳河春三の「中外新聞」、福地源一郎の「江湖新聞」、栗本鋤雲の「郵便報知新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などです。彼らは全員、幕臣でした。その後、政府による新聞紙条例や讒謗律などで反政府系の大新聞は廃刊に追い込まれ、代わって台頭したのが、大阪朝日新聞や、大阪毎日新聞、読売新聞などの小新聞と呼ばれる大衆紙でした。政論主流が薄れたとはいえ、新聞社出身の国会議員を多く輩出します。まるで新聞記者が国会議員の登竜門の様相ですが、政治家志望の政治記者が多かったという証左にもなります。

でも、「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社したジャーナリストの長谷川如是閑は「大正八年版新聞総覧」で、以下のような面白いことを書いています。

 …新聞記者は、主観的生活に於いては、同時に政治家であり、思索家であり、改革家であり、学者であり、文士であり得るが、客観的生活に於いては、ただのプロレタリアに毛が生えたものであり得るのみである。…

 大手新聞出身のOBの皆さんは、新聞社出身の議員の活躍を聴きたいがために、佐藤卓己教授の講演会に参加したようでしたが、見事に裏切られることになります。

佐藤教授によると、満洲事変から2・26事件などを経て、日本が軍国主義化していく昭和12年(1937年)、マスコミ出身の国会議員が占める割合は、実に34%の高率だったそうですが、その直後に支那事変(日中戦争)が起こり、皮肉にも、マスコミ出身議員は、何ら戦争の抑止にもならなかった、というのです。


 この本の巻末には、「メディア関連議員一覧」が資料として掲載されているので、これだけ読んでも、興味がそそられます。

 例えば、現首相の父君に当たる安倍晋太郎は、毎日新聞政治部記者だったことはよく知られていますが、二番目に登録されています。全部で984人も掲載されているので、キリがないので、首相まで経験した有名人を取り上げると、まずは5.15事件で暗殺された犬養毅が挙げられます。岡山出身の犬養は、慶應義塾の学生の時、郵便報知新聞の主筆藤田茂吉の食客となり、明治10年の西南戦争の際には、「戦地探偵人」となり、「戦地直報」を報知新聞に連載するなどして記者生活をスタートしています。

 平民宰相として有名な盛岡藩出身の原敬は明治12年、フランス語翻訳係として栗本鋤雲の推薦で郵便報知新聞社に入社しています。「憲政の神様」尾崎行雄も、慶應義塾で学び、新潟新聞や郵便報知新聞などで記者としての経歴があります。

 明治14年の政変で大隈重信とともに下野して、立憲改進党を結成した矢野文雄は、郵便報知新聞の社長や大阪毎日新聞の副社長などを務めています。この本では、佐藤教授は、矢野文雄としか書いていませんでしたが、政治小説「経国美談」の作者矢野龍渓(雅号)のことでした。日清戦争の前後に、清国特命全権公使を務めています。

 佐藤教授は、このほかメディア関連の首相として、郵便報知新聞を買収して実質上の社主だった大隈重信、東洋自由新聞の社主だった西園寺公望、東京日日新聞で外国新聞を翻訳して収入を得ていた高橋是清、東京日日新聞の第4代社長を務めた加藤高明、戦後では、産経新聞記者だった森喜朗や朝日新聞記者を務めた細川護熙らを挙げていました。

 また、最近のメディア関連の国会議員の中の自民党系として、大島理森(毎日新聞広告局)、額賀福志郎(産経記者)、松島みどり(朝日記者)、茂木敏充(読売政治部)、竹下亘(NHK記者)、鈴木貴子(NHK)、小渕優子(TBS)らを挙げていて、私も知らなかったことも多々あり、これまた興味深かったでした。

 この本は、まだ読み始めたばかりなので、また取り上げるかもしれません。

(同書に合わせて敬称を略しました)

藤堂高虎はとてつもない築城名人

国宝姫路城

昨晩、お城関係の本を読んでいたら、三重県の津城は、正式には安濃津城ということを初めて知り、自分の不勉強を恥じるとともに、本当に驚いてしまいました。

 以前、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」を読んでいたら、中世になって差別をされた人々が浄土宗系の仏教に縋り、多くの寺院が建てられるようになったという話が出てきました。その中で、三重県の津市のことも出てきたので、たまたま、津市出身で、浄土系の名門中学校を出ている学生時代の友人がいるので、メールで聞いてみたところ、「私が育った安濃津(あのつ)あたりは、差別された人たちが多く住んでいて、私が通った小学校は、全国でも同和教育のモデル校として表彰されたこともあります。中学は浄土真宗の学校でした」といった答えが返ってきました。

 いきなり、初めて聞く「安濃津」という地名が出てきましたが、特に調べることはなく、津市の郊外にある地名なのかなあ、と思っていたら、どうやら、津城が安濃津城(津市丸之内)と呼ばれるぐらいですから、津市の中央部もかつては安濃津と呼ばれていたのかもしれません。

 となると、古代に征服されて、差別された人たちは、中世になって浄土系の宗教に救いを求めるようになり、その領地には寺院が建てられ、戦国時代になって、城郭が建てられたという仮説が成り立つのではないかと思ったわけです。よく知られている史実として、蓮如の建てた石山本願寺の跡地に大坂城がつくられ、このほか、 加賀前田藩の金沢城は、それ以前は、加賀一向一揆の拠点だった浄土真宗の尾山御坊という寺院だったといいます。

  私の晩年の趣味は、どういうわけか、いつの間にか、お城と寺社仏閣巡りになりましたが、城郭と寺社とは、水と油(戦闘と慰霊)で全く関係がないと考えていたら、意外にも密接な関係があったのですね。本当に驚きました。

 日本の歴史や文学、美術を知るには、仏教思想が欠かせませんが、当然ながら、寺社仏閣や城巡りの際にも、仏教思想はこうして役に立つわけです。

唐沢山城(伝藤原秀郷の築城、日本の100名城)

 先程の安濃津城は、浅はかにも、藤堂高虎の築城かと思っていたら、永禄年間(1558~70年)に、伊勢の有力国人・長野一族の細野藤光が築城したものでした。しかし、織田信長が伊勢を征服し、その弟の信包が城主となります。関ケ原の戦いの後になって、藤堂高虎が入城し、全面改修し、城下町も整え、明治維新まで藤堂家が続きます。

 藤堂高虎は、築城の名人と言われ、調べば調べるほど、とてつもない偉人だったことが分かります。伊勢の人ではなく、もともと、近江の甲良荘(滋賀県犬上郡)出身で、甲良大工という築城集団がいたようです。藤堂高虎もその影響で、伊予の今治城(海城)と宇和島城(重要文化財)、それに伊勢の安濃津城と伊賀上野城などを作り、江戸城、大坂城、二条城、丹波亀山城などを改修、篠山城、名古屋城などの縄張りを任されています。徳川家康も一目置いて、江戸の屋敷は、寛永寺そばの上野の領地を与えます。上野は、勿論、伊賀上野から取って付けられた地名です。

 明智光秀もいいですが、藤堂高虎も大河ドラマの主人公にしてほしいものです。

人間嫌いで友達もいないのに人間に興味がある=樹木希林著「一切なりゆき」

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 2020年、令和2年、新年明けましておめでとう御座います。

 えっ!? お正月だというのに、ブログなんかをチェックしているんですか?まあまあ、お正月ぐらいゆっくり休んで、気楽にお過ごしくださいな。

 私も皆さまと同じように、年末年始はゆっくり過ごさせて頂きました。大晦日は、何年振りかに「紅白」を30分ぐらいチラッとみて、除夜の鐘も聞かずに寝てしまいました。(最近流行の音楽は、もう、とても付いていけなかったのですが、乃木坂とか日向坂とか、欅坂とか、やけに坂が付いたアイドル名が多いんですね。あと、46とか48ってどういう意味何でしょうか?)

 正月は実家に行って、お節料理と、ノーベル賞授賞式後の晩餐会で出されたという灘の生一本「福寿」を堪能しました。

 そんな年末年始の日本人の油断と隙をついて、あのカルロス・ゴーン被告が、まさかの国外逃亡するとは!今年も波乱の幕開けとなりました。

 個人的ながら、私自身の運勢は「ディケイド decade」と呼ばれる「人生で10年に1度、変革が起きる」という運命に左右されており、今年がその年に当たります。社会人になって、1980年、1990年、2000年、2010年と、過酷な運命に晒されて来たわけです。

 ま、これ以上、悲惨な人生になることはないので、2020年は、良い意味での変革が起きると思っております。

 さて、年末年始は、軽い、といったら失礼ですが、お酒に酔っても頭に入るような本を読んでいました。昨年2019年に最も売れた大ベストセラーでもある樹木希林著「一切なりゆき」(文春新書)です。著書というより、そしてエッセイというより、本人が、色んな雑誌などのメディアの取材で応えたことをまとめた「安易」な作りで、「現代日本人のベストセラー」の読者と編集者のレベルが如実に反映されていました。

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 樹木希林さんは、かなり自然に振る舞うように見せかけた演技でしたが、日本の芸能史には欠かせない、比類のない個性派女優でした。ロックンローラー内田裕也氏との40年以上にわたる「別居結婚」や、映画やテレビやCMに至るまで幅広く活躍し、2018年9月に行年75歳で逝去されたことはほとんどの日本人なら御存知のことでしょう。この本で面白かった箇所を引用しますとー。

・モノを持たない、買わないという生活は、いいですよ。私の下着は、友達の亡くなった旦那さんのお古で、みんな前が開いているの。

・年を取るって好きなの。若くなりたいなんて思わない。

・私は人のこと嫌いなんです、煩わしいから。だから友達もいない。…だけど裏腹に、人間そのものにはすごく興味があるんです。

・失敗することも沢山あるけど、歳のせいかすぐ忘れちゃう。特に嫌なことは(笑)。だから、「あの時、こうしておけばよかった」と後悔することは一切ありません。いつまでも後ろを振り返るより、前に向かって歩いた方がいいんじゃないですか。

・どうやったら他人の価値観に振り回されないか?「自立すること」じゃないでしょうか。自分はどうしたいか、何をするべきか、とにかく自分の頭で考えて自分で動く。時に人に頼るのもいいかもしれないけど、誰にも助けを求められないときにどうするかくらいは考えておかないと。

 女優樹木希林は、やはり、普通の知識人以上に物事をよく考え、見極める人だったんですね。

・性格の良い男はいると思うんですけど、性格の良い女はいないですね。年齢に関係なく、女の持っているものの中でまず裏側の怖さの方が先に分かっちゃう。女の持っている「たち」というのは、凄まじいものだなと思います。

…嗚呼、もっと若い時に、知っていたならば…