仏教思想と古代史と現代人=2019年の個人的回顧

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今日は大晦日。午前中は、狭い陋屋を一人前に大掃除して、窓も綺麗に拭いて、良い新年を迎えられそうです。

 皆様にはこの一年、御愛読賜り、誠に感謝申し上げます。中には「つまらない」だの、「読む価値なし」だのと仰る方もおりましたが、それは、読んでいる証拠でもあり、叱咤激励のお言葉と勝手に受け取って、来年も続けて参りたい所存で御座います。

 このブログは、気の進まないまま、フェイスブックとツイッターに同期しておりますが、フェイスブックでは毎回アップする度に、まだお会いもしたことがない西日本にお住まいのYさんがお忙しい中、無理を押して「いいね!」ボタンを押してくださるので、励みになっております。イニシャルだけでお名前は書けませんが、御礼申し上げます。

 さて、この後に書くことは、本当にどうでも良い個人的な話です。一年を振り返って、個人的に一応区切りを付けたいだけですので、もうお読み続けることはありませんよ(笑)。

高野山 壇上伽藍

 我が人生、いつの間にか、老境の域に達してしまい、個人的な趣味が、全国の寺社仏閣とお城巡りになりましたが、昨年は、その長年の念願を実現することができました。7月に和歌山県の高野山、12月には出雲大社と、日本を代表する国宝姫路城に行くことができたのです。その内容については、既に事細かく書きましたので、このブログ内で検索して頂ければ出てきます(笑)。

 高野山から帰った後、真言宗について勉強を始めました。アカデミックではなく、職業柄、残念ながらジャーナリスティックな面での勉強、というか情報収集です。具体的には、真言宗内の宗派の力関係とか、全国に展開される真言宗寺院の展開、そして宗祖空海の人となりについてです。これも、ブログにかなり詳しく書きましたので、また、検索でもしてご参照ください(笑)。

 その後、ひょんなことで、このブログを通して、作家村上春樹氏の従兄弟に当たる西山浄土宗安養寺の村上純一住職と知り合い、8月の最も暑い盛りに京都・安養寺を訪れて村上御住職と面談しました。その際、また、色んなお話を聴くことができ、また、何度かメールをやり取りするうちに、法然上人や浄土宗にも興味を持つようになりました。

 またまた、ジャーナリスティックなアプローチで、浄土宗の宗派や全国の寺院について勉強していたら、たまたま、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)と出合い、日本の浄土教思想に目覚めてしまいました。この後、読んだ沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫)により、仏教とカースト制度に影響を受けた差別問題が日本の歴史の底流に流れていることを初めて知り、実に、実に衝撃的でした。

出雲大社

 出雲大社に行ったのは、古代史に大変興味があったためで、実際に参拝し、その規模と大きさを知ることができたのが収穫でした。やはり、大和朝廷との関係が気になるところで、大陸や半島との交流で一足先に文明が進んでいた出雲が、最終的には大和に「国譲り」したことになるのでしょうが、何とも言えない、霊的な「気」も感じることができました。

  既にこのブログで登場させて頂いた武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書) によると、 これまで「大王」と呼ばれた王族の長を初めて「天皇」と名乗ったのは壬申の乱を経て統一した天武天皇(631?~686年)でした。「古事記」「日本書紀」に則った紀元2680年にならんとする皇室からみると、「天皇」の名称が登場したのは1300年ほど前ということになるので、意外と最近だったことが分かります。

 また、古代の朝廷は、十数人からなる公卿と呼ばれる太政官(左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)による合議制で政策が決まり、天皇はそれを追認する形だったという史実を知り、「いかにも日本的だなあ」と改めて思いました。中国やドイツでは考えられないことです。

 先の大戦で、戦艦「大和」が米軍の爆撃によって沈没したことは、まるで古代から続いてきた大和朝廷が滅ぼされたような象徴的な意味合いがあり、それに代わる(米国直輸入の)「戦後民主主義」と呼ばれる時代も、70年も過ぎれば綻びが目立つようになり、ついには、公文書を改竄したり、破棄したり、処分したりしても平気な政権が長期にわたるというのに、その弊害さえ、その政治システムにより除去できない日本の現代人は、歴史的に見ても、古代の朝廷を批判できないんじゃないかと思っています。

 このブログも、どういうわけか、最近、驚くほどアクセスが増えてきており、感謝申し上げる次第で御座います。取材費も原稿料も出ないのですが(笑)、色んな世界(精神世界も含む)を駆け巡って、これからも頑張って執筆していこうかなと存じます。

 来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 令和元年12月31日

 渓流斎 敬白

🎬「男はつらいよ お帰り寅さん」は★★★★★

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喜劇だと思ったら、悲劇でした。見事やられてしまいました。途中から泣き笑いで、いい歳をして、感情を抑えることができませんでした。

 22年ぶりの新作シリーズ第50作目「男はつらいよ お帰り寅さん」は、製作費と同じくらい宣伝費をかけているようにみえるので、新聞でもテレビでも週刊誌でも、ラジオでも、どこでもこの映画のことで話題持ち切り。

 今では簡単に予告編も見られ、あらすじまで分かってしまいますから、知った気になって、観た気になってしまいますが、それでは、勿体ない。劇場に足を運んで大きなスクリーンで御覧になることをお薦めします。

 私のような1969年の第1作から1997年の第49作まで、大体見ているロートル世代でしたら、涙なしには見られません。(もしかして、初めて見る若い世代でも楽しめるかも)

 若い頃は、寅さんシリーズは当たり前のように上映され、いつもお決まりのパターンのマンネリズムだと思ってましたが、それが見事浄化して、様式美に昇格していたことが、今になって分かりました。

 寅さんこと渥美清(1928~96)さんも本当に亡くなり、(68歳の若さだったは!当時は、彼の訃報原稿を書いたりして大忙しだったので、そこまで若かったことは実感できませんでした)この映画でも、既に寅さんは亡くなって、甥っ子の満男(吉岡秀隆)が小説家になり、偶然初恋のイズミちゃん(後藤久美子)と再会する話で、喜劇ではなく、次回もまた続くような気の持たせ方で映画が終わります。

 まあ、そこがいい所です。

 寅さんは、回想シーンでしか登場しませんが、4Kか何か知りませんが、デジタル処理した昔の映像が、今の映画と同期して、違和感がないのが、この映画の凄いところです。

 この映画は、満男役の吉岡秀隆(49)主演作ですが、彼は、「三丁目の夕日」などで、売れない作家役をやっているので、今回の小説家役も適役でした。また、ゴクミと言っても、30年前の美少女ブームの頃の後藤久美子(45)のことを知らない人も多いでしょうが、私生活では、フランス人F1レーサーと結婚して、スイスなどに住み、半ば引退した格好でしたが、山田洋次監督から手紙による熱烈な説得により、イズミ役として復帰したことが、週刊誌に書かれていました。

 イズミは、ゴクミの私生活通り、英語とフランス語が堪能で国連難民高等弁務官事務所の職員になって世界中を飛び回っている役でしたから、本人と重なってしまいました。流石に英語もフランス語も発音が良かった。山田監督の「アテ書き」ですね。

 映画の舞台も、葛飾区柴又のほか、銀座と神保町と八重洲ブックセンターで、個人的に、私が最も縁と馴染みの深い東京だったので、それだけで胸が熱くなってしまいました。

 この映画で、寅さんが関わったマドンナが、最後の回想シーンで、ほぼ勢ぞろいしました。最初に私は「寅さんのシリーズをほとんど観ている」と豪語しましたが、「あれ?彼女誰だっけ?」という女優さんが2人ぐらいいました。後で調べたら思い出しましたが、女優さんに失礼に当たるので、その人の名前を書いた公文書は、現政権のように、シュレッダーにかけて、隠蔽しておきます(笑)。

 でも、22年ぶりに「男をつらいよ」を観ると、すっかり忘れていた意外な女優さんまでもが、マドンナ役で出ていたことが確認できました。サクラ役の倍賞千恵子さんは、若い頃は本当に正統派の美人だったことも、改めてこの歳になって気が付きました。そして、ヒトは残酷にも年を取り、タコ社長もおいちゃん役の俳優さんも既に亡くなって、この世にいないのにスクリーンで復活していました。これもまた、ロートル世代にとっては感慨深いものでした。

 恐るべき映画でした。

スマホに支配される前に自分自身を知れ!=ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」

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 ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社 ) を読了しました。どちらかと言えば、歴史書ではなく、哲学書でした。深い歴史の知識に支えられた歴史哲学書でした。深く考えさせられました。

 色んな書評が出ているでしょうが、どれも、象を撫でて、犬だ、猫だと言っているような類で、どれも的確でない気がします。一言でまとめること自体、複雑な示唆に富む論考が数多含まれているからです。強いて言えば、「訳者あとがき」が最も著者の意図を端的に代弁しているかもしれません。(例えば、著者のハラリ氏は、謙虚さを重視し、一神教よりも多神教に優しい目を向ける、とか、著者は人類の将来に非現実的な期待を抱いていないが、絶望もしていない、などといった部分)

 前著を読んでいない私が意外だったことは、ハラリ氏はイスラエル出身の人ですから、ユダヤ教やシオニズムなどに対して絶対的な信仰と信頼を置いているかと思っていたら、言ってよければ、冷ややかに批判的に見ていることでした。それどころか、人類の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史から見れば、宗教も思想も人間の生きる価値までもが取るに足りない、大したことはないと明示しているのです。科学者らの見解を引用して、そもそも2億年後には哺乳類は絶滅する、とまで書いていますから、王の墳墓も歴史的建造物も何もかも無意味に思えてきます。

 ハラリ氏はこんなことを書いています。

 「自己嫌悪に陥ったユダヤ人」あるいは「反ユダヤ主義者」だ思われたくないので強調しておきたいのだが、私はユダヤ教が特別邪悪な宗教だとか、暗愚な宗教だとか言っているわけではない。ただ、ユダヤ教は人類史にとって、特別重要ではなかったと言っているだけだ。ユダヤ教は何世紀にわたって、…書物を読んでじっくり考えることを好む、迫害された少数派の質素な宗教だった。(255ページ)

 シオニズムは、地表のおよそ0.005%の土地を占める、人類のおよそ0.2%の人々(ユダヤ人のこと)がほんのわずかな時間に行った冒険を神聖なものとしている。シオニズムの物語は、…モーセやアブラハムが生きた時代や類人猿の進化の前に超過した果てしない歳月にも、何一つ意味を与えていない。(354ページ)

 エルサレムは「ユダヤ民族の永遠の都」であり、永遠のものに関しては絶対に妥協できないと、彼らは主張する。…現在の宇宙の年齢は138億年。地球はおよそ45憶年前に形作られ、人類は少なくとも200万年存在してきた。それに対して、エルサレムはわずか5000年前に創設され、ユダヤ民族は長くても3000年の歴史しか持たない。これでは永遠という資格はとうていない。(同ページ)

 ユダヤ教超正統派の男性の約半分が一生働かない。彼らは聖典を読み、宗教的儀式を執り行うことに人生を捧げる。彼らと家族が飢えずに済むのは、一つには妻たちが働いているからで、一つには(イスラエル)政府がかなりの補助金や無料のサービスを提供し、基本的な生活必需品に困らないようにするからだ。(67ページ)

 このほか、現代人に対して、こんな風に批判しています。

 テクノロジー自体は悪いものではない。…だが、人生で何をしたいのか分かっていなければ、代わりにテクノロジーがいとも簡単にあなたの目的を決め、あなたの人生を支配するだろう。…スマートフォンに目が釘付けになったまま通りを歩き回るゾンビたちを見たことがあるだろう。あなたは彼らがテクノロジーを支配していると思うだろうか?それとも、テクノロジーが彼らを支配しているのか?(345ページ)

コカ・コーラをたくさん飲んでも若返られないし、健康になれないし、運動が得意にもなれない。むしろ、肥満と糖尿病になる危険が高まる。それにも関わらず、コカ・コーラは長年、膨大な資金を投じて、自らの若さや健康やスポーツと結びつけてきた。(309ページ)コカ・コーラや アマゾン、百度、政府がみな我先にあなたをハッキングしようとしている。あなたのスマホやパソコンや銀行口座ではなく、あなたとあなたの有機的なオペレーションシステム(OS)をハッキングしようと競っている。私たちはコンピューターがハッキングされる時代に生きていると言われるが、…、実は私たち人間がハッキングされる時代に生きているのだ。(一部換骨奪胎)(346ページ)

 やはり、訳者もあとがきで、引用しているように、この本で著者が最も言いたかったことは、次の部分かもしれません。

 もちろん、あなたは、権限を全てアルゴリズム(AIによる問題解決の方法や手順)に譲り、アルゴリズムを信頼して自分のこともそれ以外の世の中のことも全て決めてもらって、満足そのものかもしれない。それならば、くつろいで、そういう暮らしを楽しめばよい。…だが、自分という個人の存在や生命の将来に関して、多少の支配権を維持したければ、アルゴリズムより先回りし、アマゾンや政府より先回りし、彼らより前に自分自身のことを知っておかなければならない。

 著者のハラリは、その自分自身を知る一つの方法として最後にヴィパッサナー(物事をありのままに鑑札する、という意味)瞑想を挙げていました。確かに、タイトル通り、21世紀に生きる人類のための指南書でした。

【追記】

 ●法然は「選択本願念仏集」の中で、念仏(仏を念ずる)の手段として、凡夫では到底できない瞑想よりも、易行である称名を選択するべきだ、という革命的理論を展開していました。

 ●著者のハラリ氏が本書で言いたかったことは、既に古代ギリシャの賢人が述べています。

 人生の究極的な価値とは、ただ単に生き長らえるということではなく、むしろ、気づきと深い思考を巡らすことに掛かっている。(アリストレス)

京都・北野天満宮「終い天神」で猿まわし

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おはようございます。京洛先生です。

クリスマスも終わり、「もういくつ寝ると♪お正月♪♪」ですね。帝都での忘年会は大盛会で何よりでした(笑)。

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洛中では、12月25日(水)は、北野天満宮の今年最後の「天神市」でした。毎月、菅原道真の命日の25日に開かれている「天神市」ですが、一年の最後なので「終(しまい)天神」と呼ばれています。

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以前、渓流斎さんも、大枚をはたいて、中古の「英国製高級ジャケット」を買い求められましたが、「終い天神」は、年の瀬ということもあり、正月の飾りつけ、料理の材料用品などが売られていて、季節感を味わえますね。

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朝から晴天に恵まれ、10万人を超える参拝客や買い物客で、北野天満宮周辺は終日、大にぎわいでした。

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境内周辺には約1000軒の露店が並びましたが、本殿近くでは、「猿まわし」も来ていて、昔の風情も残っています。好いですね。

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お猿の飛んだり、跳ねたりの熱演後、見てのお代の「ザル」が回されましたが、気風の好い人も多く、ザルの中には、小銭だけでなく、お札もかなり投げ込まれていて、お猿さんも満足したと思いますよ(笑)。

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神社の境内と、見世物、興行は一体ですが、貴人も、お正月は近所の氏神様だけでなく、初詣で賑わう都心の大きな神社に出向いて、こうした「猿まわし」などのパフォーマンスが今も続けられているかどうか、実地検証されては如何でしょうか。

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部屋に閉じこもって、本ばかり読んでいる場合じゃないですよ(笑)

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以上

「昼の憩い」京都農林水産通信員、いや、京都ふるさと通信員の京洛先生でした。

人口減で年金が出ない?

 今年2019年に国内で誕生した日本人の子どもの数は、1899年の統計開始以来初めて90万人を割り込むそうですね。厚生労働省の推計では86万4000人だとか。アジャパーです(死語)。

  とにかく、かなりの人口減で、厚労省の国立社会保障・人口問題研究所の試算では、2019年の1億2615万人が2050年には1億人を切り、2100年には今の半分以下の5000万人を割り込むと予想しています。

 日本の財界を牽引するメディアである日本経済新聞は「少子化は社会保障の支え手の減少に直結するほか、潜在成長率の低迷を招く恐れがある。人口減が予想より早く進む事態への備えが求められる」などと書いておりますが、何処か他人事のように聞こえます。

  ソ連崩壊を予言した歴史人口学者のエマニュエル・トッド博士に、これからの日本はどうなってしまうのか、聞いてみたいものです。 でも、明るい未来像を描いていないでしょうね。そもそも、少子化の要因の一つが、規制改革とやらで団塊ジュニア世代を中心に非正規雇用者を大量に生み、結婚したくても、できない若者が増えたことにあります。政治権力者による政策の失敗という人災みたいなところがありますから。

 出生率の低下は日本だけではなく、お隣の韓国でも深刻です。2018年の日本の出生率は1.42でしたが、韓国では1を切って0.98だったといいます。人口減に苦しむ極東の先進国は、開発途上国からの移民を受け入れざるを得なくなり、国家や国の在り方が激変するかもしれません。そうでなくても、日本は学校や職場でも陰湿ないじめや村八分が多いですから、異国人とはマナーや宗教や文化などの相違で摩擦と軋轢が生まれることでしょう。

◇日本人は本を読まなくなった

 さて、国立青少年教育振興機構がこのほど、全国の20~60歳代の男女5000人を対象に、読書習慣に関して調査した結果、1カ月に本を全く読まないと答えた人は、全世代で49・8%に上ったといいます。2013年の調査では28・1%でしたから、大幅に増えたことになります。特に20歳代に絞ると52・3%ですから、この世代の半分以上は本を読んでいないことになります。

 確かに電車内で本を読んでいる人は、年配者しかおらず、若い人のほとんど全てがスマホと格闘しています。ニュースやSNSをやっている人もいますが、まあ、大体、文字通り、スマホ・ゲームで格闘していますね。

 外国から来る人たちは、生活と生命が掛かっていますから、一部ですが、電車内でも一生懸命に勉強しています。

鳥取砂丘

◇Tomorrow never knows

  今、ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社 )を読んでいますが、「雇用」「宗教」「移民」「戦争」「神」など21の項目を哲学的に論考しています。「人工知能(AI)の発達のおかげで、無用者階級が生まれるだろう」などと予測していますが、「未来のことは、どうなるのか誰にも分からない」と正直に語っています。そこがこの本の良いところです。

 あと80年もすれば、日本の人口が半分になってしまうなんて、想像もつきませんが、悲観的、絶望的にならざるを得ないなあ、と思いつつ、途中で筆を置いて(正確にはパソコンを切って)、ランチに行きました。そしたら、某レストランで40歳代後半と思しき男性サラリーマン4人が、何と、人口減の話題で盛り上がっていました。そのうちの一人が「人口は51万人ぐらい自然減となり、鳥取県と同じ人口が消えたんだって。でも、鳥取は県だけど、八王子市と同じくらいの人口だけどな」と、さも自分が調べたかのように、新聞で読んだことを話してました。

 そしたら、もう一人が「俺たちの年金、どうなっちまうのかなあ。支えてくれる世代がいなくなれば、出なくなっちまうんじゃないか」と反応し、その一言で、一座はシーンとなってしまいました。

年に一度の忘年会=新橋が再開発ラッシュ

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 昨晩は、年に一度の忘年会でした。場所は、東京・内幸町の居酒屋「はらぺこ」で、本当に久しぶりでした。3年ぶりぐらいなのに、女将さんが小生のことを覚えていて、「あらまあ、本当に久しぶり。でも全然変わりませんね」とお世辞を言ってくれました。

 店の辺りが工事中で、昔はよく行っていたのに、ちょっと迷ってしまいました。女将さんに取材した者によると、新橋の田村町は目下、再開発中で、JRAの馬券売り場などがあった所には巨大なビルが2021年にオープンするそうです。はらぺこビルにも再開発の声がかかったそうですが、途中で立ち消えになったようです。また、来年の東京五輪後にはNTTビル、帝国ホテル、東京電力、みずほ銀行の広大な土地が三井不動産によって再開発され、新橋駅前のニュー新橋ビルも建て替えられるといいます。 新橋も大きく変わっていくんですね。

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  今、ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社)を読んでいますが、その中で、「人間は社会的な動物であり、そのため、人間の幸福は他者との関係に大きく依存している」と書かれていました。一人で本ばかり読んでいないで、たまには友人たちとの懇親も大切ですね。

 でも、そのはずだったのが、顔を合わせると、貶し言葉ばかり飛んできます。忘年会に参加したのは、審美眼に厳しいマスコミ業界の方々ばかりでしたが、密かにこのブログを盗み見している人もおり、やれ、「長過ぎる」だの、やれ、「つまらない。読むに値しない」だのと非難轟々です。それでいて、「ブログのうるさい広告で1000円儲かったらしいじゃないですか。ここの飲み代を全部払ってくださいよ」と恐喝する人までおりました。なあんだ、ちゃんと読んでいるじゃないか!

 話題は、最新のメディア業界の話でしたが、「ブログに書いたら、いてこましたるでえ」と恫喝する者もおり、茲では書けません。残念でしたが、大した話は全くありませんでした(笑)。

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「一笑一若 一怒一老」=笑う門には福来る

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週末に何気なくテレビを見ていたら、声優の羽佐間道夫さんという人が登場し、随分含蓄のあるタメになる人生訓のような話をされていたので、つい見入ってしまいました。

 大変失礼ながら、よく存じ上げなかったのですが、この方は、テレビ草創期から洋画の吹込みなどで活躍してきた大御所というか、重鎮でした。 羽佐間という名字はどこかで聞いたことがあると思ったら、実兄は元NHKアナウンサーの羽佐間正雄氏で、従兄はフジサンケイグループ代表などを歴任した羽佐間重彰氏だったんですね。「赤穂浪士の間光興の直系子孫で、オペラ歌手の三浦環の親戚」という情報もありました。

 それはともかく、声優としては、「ロッキー」のシルベスター・スタローンを始め、ポール・ニューマン、ハリソン・フォードらの吹き替えなど数多ありました。意識していませんでしたが、結構耳に入っていたわけです。

 今はアニメブームとやらで、声優になりたい若い志願者がたくさんいるようで、羽佐間氏も後進の指導に怠りありません。オーディションのような風景も写っていました。確かに若い女性の「演技」はテクニックがあり、上手いといえば上手い。しかし、どこか、コンピュータのような金属的な音の感じがします。その場で、羽佐間氏が比喩的に批判した言葉が妙に的を射ていました。「君はネズミの役はできるかもしれないけど、それじゃあ、ゾウの役はできないね」

 うまいことを言うなあと思いました。羽佐間氏によると、今の若い人たちは、上手だけど、みんな、御姫様か王子様の役ぐらいしかできないといいます。つまり、幅がないというか、かつての声優はもっと役域が広く、魅力的だったと言いたかったようです。その理由として、現在は、情報は目(視覚)から入ることがほとんどで、若い人はあまりラジオも聴かない。そうなると、声だけを聴いて想像する力が衰え、聴衆者のレベル(聴力)も下がる。同様に製作スタッフの聴力も下がるので、声優の力も衰えるというのです。

 これは名言ですね。動物はもともと、姿は見えなくとも、音によって遠くから忍び寄ってくる危険を察知していたものです。また、あらゆる芸術作品にはやはり、審美眼がしっかりした批評家や大衆がいなければ、作品そのものの質は向上しないわけです。これは何も芸術作品に限った話ではなく、政治の世界も同じでしょう。今の体たらくな政治家を選んでいるのは有権者なのですから、有権者のレベルが政治家に反映しているわけです。

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 羽佐間氏のそのバイタリティ溢れる話しぶりと容貌から、70歳ぐらいかなと思ったら、昭和8年生まれの86歳だと聞いて吃驚してしまいました。インタビューワーが、若さの秘訣を尋ねると、 東京ミッドタウン日比谷の「ザ・スター・ギャラリー」にある俳優の宝田明さんのプレートの話をしてくれました。そこには、スターの手形とサインと一緒に 一言添え書きがしてあるらしいのですが、宝田さんは「一笑一若 一怒一老」と書いているそうです。つまり、一つ笑えば若返り、一つ怒れば、年を取るといった意味でしょう。宝田さんは昭和9年生まれの85歳。旧満洲で、侵攻したソ連兵に撃たれ、一命を取りとめて苦労した宝田さんだけに、この言葉に込める意味の重さを感じました。

 羽佐間さんは若い頃、舞台俳優を目指していましたが、とても食っていけずに声優に転向したという後悔が今でも残っているようでした。当初は、声優は、俳優のように顔を出さず、セリフを暗記しなくても済むので、ギャラは俳優の7掛け(7割)と決められていたのですが、ストライキを起こして、声優も俳優並みのレベルに引き上げた苦労話もしていました。

 私は最近、街中や電車内などでも一人で怒ってばかりいたので、これでは老けますなあ(苦笑)。やはり、「笑う門には福来る」ですね。

知能と意識は全くの別物=ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」を読みながら

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 12月某日、木曜日。日本を代表する週刊誌「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日。朝の通勤電車内。7人掛けの椅子に座っている7人のうち5人、その前に立っている9人全員がスマホの画面とにらめっこしていました。週刊誌を読んでいる人、ゼロ、新聞を読んでいる人、ゼロ。本を読んでいる人、1人。それは私でした。

「サピエンス全史」が世界的なベストセラーとなり、現在、世界的に最も著名になった歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社、2019年11月30日初版発行)を今、読んでいます。

 まだ、半分しか読んでいませんが、私的には、ブログを書くことが「主」で、本を読むことは「従」なので、まだ途中なのにこの本のことを語ろうとしています(笑)。実は、私はハラリ氏の前作「サピエンス全史」も「ホモ・デウス」も読んでいません。が、梗概だけは何となく知っています。そして、ハラリ氏がインタビューされている番組をテレビで見たことがあり、大変頭脳明晰ながら、かなり、かなりの饒舌家で、しゃべる速度と内容が思考の回転について行っていない様子で、ところどころで矛盾するように思われる箇所もあり、「内容明晰・意味不明」に陥っている感じでした。

 この本を読んでも同じ印象を受けました。論理展開が早すぎるのです。現代の話かと思ったら、1714年のバルセロナの大虐殺が出てきたりします。本人は納得していても、読者はついていけない面がありました。それでも、不思議にも4分の1ほど読み進めていくと、彼の策略に嵌ったかのように、分かってきます。なぜなら、環境問題にせよ、雇用問題にせよ、第1次資料は、市販かネット上から拝借された新聞や雑誌の記事や、テレビからの情報が多いからです。毎日、新聞を読んでいる人なら、そして世界史の知識があれば、目新しい話はなく、ついていけないことはありません。

 それよりも、ハラリ氏を有名にした言説の一つは、前作「ホモ・デウス」で明らかにした「人工知能(AI)とバイオテクノロジーの力でごく一握りのエリート層が、大半の人類を『ユースレスクラス(無用者階級)』として支配するかもしれない 」といった推測でしょう。彼は歴史学者であり、未来の予言者ではないので、必ずしも将来、彼の推測した通りにはならない、とひねくれ者の私なんか思っているのですが、耳を傾ける価値はあると確信しています。(私なんか、若いハラリ氏の容貌と体形がどうも未来の人類か宇宙人に見えてきます)

本書ではこんなことを書いています。

 吉報が一つある。今後少なくとも数十年間は、人工知能(AI)が意識を獲得して人類を奴隷にしたり、一掃したりすることを決めるというSFのような本格的な悪夢に対処しなくて済みそうだ。私たちは次第にAIに頼り、自分のために決定を下してもらうようになるだろうが、アルゴリズムが意識的に私たちを操作し始めることはありそうにない。アルゴリズムが意識を持つことはない。

 …現実に、AIが意識を獲得すると考える理由はない。なぜなら、知能と意識は全く別物だからだ。…(ただし、)AIが独自の感情を発達させるのが絶対に不可能ではないことは言うまでもない。不可能だと言い切るほど、私たちは、意識についてよく分かっていない。(99~100ページ、一部漢字改めなど)

 これは非常に分かりやすい論法であり、大いに納得します。

 人類のほんの数%の人間だけが、富と権力を独占し、残りの多くの人間がAIによって仕事を奪われて、不要階級に没落するというおっとろしい御託宣よりも…。(つづく)

「江戸・東京の被差別部落の歴史」を読んで

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沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」のことを会社の同僚の川本君に話したら、彼は浦本誉至史著「江戸・東京の被差別部落の歴史」(明石書店・2003年11月10日初版)を貸してくれました。彼がこのような問題に興味があったとは知りませんでした。

 著者の浦本氏は、「連続大量差別はがき事件―被害者としての誇りをかけた闘い―」 ( 解放出版社 、2011年3月10日初版)という本も上梓された方で、謂れもない差別に苦しんだ人でもありました。この事件とは、2003年5月から1年半にわたって、東京を中心に全国の被差別部落出身者や団体に差別文言をつらねた匿名のはがきや手紙や、注文してもいない高額商品が代引きで大量に送りつけられたりしたもので、逮捕された犯人は都内に住む34歳の青年でした。浦本氏個人に対する恨みではなく、「就職難のストレスから、部落差別の意図を持って一連の犯行を行った」と自供したといいます 。 これに対して、浦本氏は「無知が差別を生む」と、講演で全国を駆け巡っているといいます。

 世の中には実にさまざまな考えを持っている人がおり、彼らの個人的信条については尊重しなければなりませんが、中には根も葉もないデマを信じて被害者妄想に駆られて、法を犯す行為を厭わない悪質な人間もおります。刃(やいば)は弱者に対して向けられます。このような不特定少数向けのブログに対してでさえも、誤解や誤読や思い込みで、犯罪行為に走るような人間が世の中に少なからずいるので、困ったものです。

 その上で強調したいのは、この本は名著だと思います。著者は、内藤清成「天正日記」や「弾左衛門由緒書」「武江年表」など当時の文献を渉猟し、アカデミズムの学者以上によく調べ、よく研究し、私もこの本で沢山のことを教えてもらいました。

 差別問題は、古代からありましたが、制度として固められたのは近世に入った徳川幕府からでしょう。特定の職業(死んだ牛馬の処理、革製品の製造、街の警護や刑場の管理、祭礼の清め役など)を押し付け、 統治しやすいように特定の場所に住まわせ、リーダーを認めてトップダウン方式で支配してきました。幕府が穢多と呼称し、自分たちは「長吏」と自称した頭は、代々弾左衛門の名前を襲名してきました。この中で、四代目弾左衛門集久(ちかひさ、在籍1669~1709年)は歌舞伎の市川團十郎家の十八番「助六」の敵役の髭の意休(意久)のモデルだったという説があります。「助六」は、歌舞伎の興行権を巡る訴訟争い(勝扇子事件)から着想を得て、全く新しくつくられた世話物(作者不詳)で、正徳3年(1713年)、江戸木挽町(今の東銀座)の山村座で二世團十郎によって初演されました。 山村座は、翌年の正徳4年(1714)に江島生島事件で廃絶されていますから、歌舞伎通にとっては感慨深い逸話です。

 家康が関東江戸に入府した天正18年(1590年)、弾左衛門とその配下は、それまで居住していた日本橋尼店(あまだな、現室町、日本銀行がある所)から上野の鳥越に移住させられます。これは、日本橋にあった刑場が鳥越などに移転したことと関係があると思われます。同様に、正保2(1645 )年 には、鳥越から、浅草新町に再び、移住させられますが、これも、刑場が鳥越から品川の鈴ヶ森と北浅草の小塚原に移転したことも関係しているのでしょう。 蝋燭や行灯の芯である「灯心」の独占製造販売権も持った弾左衛門の浅草新町の屋敷(役所も兼ねていた)の敷地は740坪もあり、旗本か、小さな大名クラスの規模だったようです。

 長吏頭・弾左衛門の下に4人の非人頭がいたとも書かれています(93~94ページ)。浅草の車善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の九兵衛です(こちらも代々襲名)。浅草と品川には「溜」と呼ばれる囚人の看護や身寄りのない病人や少年の世話をする施設があり、それを管理していたのが、それぞれ車善七と松右衛門でした。非人たちは、町や堀川などの清掃、刑場での労役などのほか、鑑札を発行してもらって、「物貰い」をすることも生業だったといいます。物貰いは、他の町人らには許されていませんでした。

 また、非人頭は、乞胸(ごうむね)や願人(がんにん)(下層僧侶)と呼ばれる大道芸人を支配していたといいます。史料によると、乞胸の稼業は、綾取( 竹に綱をつけ、まりなどを投げ上げては受け止める曲芸 )、猿若(顔を染めて芝居をする芸)、江戸万歳、辻放下(つじほうか=手玉芸)、操(あやつり)、浄瑠璃、説教、物真似、仕方能、物読、講釈、辻勧進(芸のない者や女や子どもたちが往来に出て銭を乞う)などでした。願人の代表芸は、「住吉踊り」でした。

 乞胸は、被差別民ながら、平民だったといわれ、町人が、無宿となって非人になったりする場合も多く、明確な規定などもなかったようです。要するに、支配者階級が、都合の良いように利用し、決めつけた制度に過ぎず、驚くことに、弾左衛門と配下らは、関ヶ原の戦いや、幕末の長州征伐にまで参戦させられた史料までもが残っていました。

「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」で巡る日本のお寺

 この本は本当にためになりました。これまで、自分が如何に無手勝流に、気儘に、散漫に仏像を鑑賞していたかよく分かりました。

 まず、仏像には「尊格」というものがあって、 「如来」「菩薩」「明王」「天部」「その他」があります。

如来」=釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など

菩薩」=観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など

明王」=不動明王、軍荼利明王、愛染明王など

天部」=四天王(広目天など)、梵天、毘沙門天、弁財天、鬼子母神、二十八部衆(迦楼羅王など)、十王(閻魔王など)

「その他」=十大弟子(舎利弗など)、役小角など

如来とは、菩薩が六波羅蜜の修行と艱難辛苦の末に、悟りを開いた最高の格でしたね。阿弥陀如来は、法蔵菩薩が正覚(しょうがく)したお姿でした。

この本の「如来」の中に、弥勒如来があったので、弥勒菩薩の間違いではないかと思いました。私は、個人的ながら、京都・広隆寺の弥勒菩薩像が大のお気に入りで、苦しい時に、よく写真を見て心を落ち着かせていたことがありました。奈良・中宮寺の弥勒菩薩像もよくお参りしました。

 そしたら、弥勒如来とは、釈迦が入定されて56億7000万年後に、弥勒菩薩が如来になることが約束された救済主のことだったんですね。その間に、一切衆生を救済するのが地蔵菩薩でした。あたしなんか、お地蔵さんなんて、道端によくある道祖神かと思っていましたら、地獄に堕ちた者どもさえも極楽浄土に導いてくださる偉い偉い菩薩さまだったのです。

 種類が多いのは、衆生が「観音様」と気軽に読んでいる観音菩薩です。聖観音菩薩(地獄)、千手観音菩薩(餓鬼)、 馬頭観音菩薩(畜生)、十一面観音菩薩(修羅)、不空羂索観音菩薩准胝観音菩薩(人間)、如意輪観音菩薩(天)と六道に沿って救済してくれます。このうち、如意輪観音菩薩の如意とは、「如意宝珠」のことで、苦しみを取り除く働きをし、輪は、「法輪」のことで煩悩を打ち砕く働きを持ちます。仏様の持ち物に注目すると、これまた興味深いです。

 脇侍(わきじ、または、きょうじ)とは如来の右左に侍る菩薩のことで、三尊像としてパターンが決まってます。釈迦如来なら普賢・文殊菩薩、阿弥陀如来なら聖観音・勢至菩薩、薬師如来なら日光・月光菩薩といった具合です。

 そういえば、京都・泉涌寺即成院では、毎年10月第3日曜日に「二十五菩薩お練り供養」がありましたね。文字通り、25もの菩薩様が壇上でお練りします。 仏像に関する知識があれば、より有難みが分かります。

 明王とは、五大明王(不動明王=中央、降三世明王=東、大威徳明王=西、軍荼利明=南、金剛夜叉明=北)がその代表で、仏様の教えに目覚めない衆生に対して、怒りの炎を光背にして、憤怒の表情で諫めるお姿になってます。

 天部は、この本では「ガードマン」と分かりやすく書かれていました。その代表的は四天王は、持国天(東)、広目天(西)、 増長天(南) 、多聞天(北)です。この本は大変素晴らしいのですが、80ページで、増長天を西、広目天を南と誤記されていました。間違って覚えてしまうところでした。たまたま、京都・東寺で買った伽藍の写真を照合したら間違いを発見しました。良い本なので、速やかに訂正してほしいものです。

 北を護衛する多聞天は、単独ですと、毘沙門天となります。梵天は、バラモン教の最高神ブラフマンのことですが、インドでは仏教が衰退して密教化した中で、インドの古代の神々を取り入れていったことが分かります。

 沖浦和光説によると、仏教を開いた釈迦は、その人の生まれや種姓とは関係なく、誰でも真理に目覚めれば覚者(ブッダ)になれると、「四姓平等」「万人成仏」の道を明らかにし、カースト制差別の永遠性と合理性を根拠づけようとするバラモン教に対して根底的に批判したと言われます。

 それが、釈迦入滅後、500年も1000年も経つと、翳りが出て、平等主義を唱える釈迦の教えとは似ても似つかない色々なインドの神々を取り入れて延命策を図ったのではないか、釈迦如来より上位に置く大日如来もバラモン教の影響ではないか、というのが沖浦説でした。

 お釈迦様自身も偶然崇拝には反対だったとも言われ、そう言われてしまうと、仏像好きの私としては立つ瀬がなくなってしまいます。

 それでも、この本の本文や巻末には、全国の寺院や博物館が収蔵する重要文化財や国宝の仏像リストが掲載されているので、極楽浄土に行く前に、一度は巡ってみたいと思っています。