厚労省官僚が深夜宴会した銀座の居酒屋=監視社会の賜物か?

 銀座6丁目

 最近、ブログを書くネタがなくて困っています。以前ですと、西国方面から阿弥陀如来さまのような方が写真と一緒に玉稿まで送ってくださり、年中行事の風物詩の記事を添えることができたのですが、昨年6月からそれもプッツリ切れてしまいました。

 その代わりに帝都の高級住宅街にお住まいの釈正道老師が「暗号」を送ってくださるようになりました。「放送なら基準?違反かな」という見出しでいきなり次の文章が追い込みで始まります

タップリのCM量で、本文の写真か糊口のタネか分からないというあくどい商法かな。銀座周辺の昼メシ情報で活路を見出したかな、と安心していたら、元の木阿弥で、独り善がりの映画、書籍などのウンチクブログに戻ったのは、悲しい限りです。非行少年が、真の道を歩めないのと同様です。悟りの道を求める釈正道が、改心のお手伝いをしましょう。

 これを「暗号」と呼ばずに何と呼ぶことができるのでしょうか? 諜報機関の方々には、是非、この暗号を解読してもらいたいものです。

 まあ、あっしは非行少年みたいなもんなんでしょう。それなら、釈正道老師のお導きで是非とも改心しなければいけませんね。

 さて、厚生労働省老健局の職員23人が過日、東京・銀座の居酒屋で深夜まで送別会を開催したことで、主催した老健局の課長が更迭を含めた懲戒処分、田村厚労相まで閣僚給与2カ月分を自主返納する事態にまで発展しました。

 正直、ここまで厳しい「判定」が下されるとは思いませんでしたが、他にニュースがないので、マッチポンプのテレビがこの話題で大騒ぎしてましたし、引っ込みがつかなくなったということなんでしょう。ただ、コロナ禍で夜の宴会は私自身も自粛していますし、率先垂範して国民に綱紀粛正を求める側のお役人さんが、深夜まで浮かれて騒いでいては、示しがつかないことは確かです。

 実は、個人的には、厚労省の処分よりも、「東京・銀座の居酒屋」が何処なのか気になってしょうがありませんでした。知らなければ、銀座を縄張りにしている渓流斎としては、「銀座博士」の称号を返納しなければなりませんからね(笑)。

 そしたら、意外にも簡単に見つかりました。恐ろしい世の中になったものです。偶然なのか、張り込みなのか、東洋経済の記者が「3月25日0時近くにようやく居酒屋を出て帰路に向かう厚労省官僚たち」の証拠写真まで撮っているではあーりませんか!

 こわ~。ジョージ・オーウェル「1984」の世界です。

 現場は、会社から歩いてすぐの所ですから、すぐ分かりました。

 ちなみに、ビルの名前であるLa Paix(ラペ)とは、フランス語で、「平和」という意味です。渓流斎の野郎にまで写真を撮られて、このビルは平和を乱され、いい迷惑だったかもしれません。

 でも、23人の団体客を受け入れて深夜までやっている薩摩料理の店ということですから、美味しそうですし、楽しめそうです。いつか機会があれば、御一緒しませんか?(笑)。

 

江藤淳を再評価したい=「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」を読んで

 山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が書かれた「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書)の中で、江藤淳著「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年8月15日初版)がよく出てきて、自分自身は未読だったため、今さらながらでしたが探し求めて、やっと読了しました。なかなかの労作でした。この一冊を以って江藤淳(1932~99年)の代表作とする識者はいないのですが、私は代表作にしてもいいと思いました。

 何と言っても、今ではかなりGHQによる検閲の研究は進んでおりますが、江藤淳がこの本を上梓するまで、秘密のヴェールに包まれ、占領軍による検閲の実態を知る人はほとんどいなかったからです。著者もあとがきでこう記しています。

 敢えて言えばこの本は、この世の中に類書というものの存在しない本である。日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を、一次史料によって跡付けようと試みた研究は、知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていないからである。

 本書は、著者が1979年から80年にかけて9カ月間、米ワシントンの国立公文書館などに籠って、米占領軍が日本占領中に行った新聞、雑誌等の検閲の実態を調査し、雑誌「諸君!」に断続的に発表したものをまとめたもので、米国における検閲の歴史から、日本で実行した検閲の事案まで事細かく、微に入り細に入り詳述されています。

 全てを網羅することは出来ないので、私が不勉強で知らなかったことを少しだけ特筆したいと思います。

 ・ルーズベルト大統領から直接、検閲局長官に任命され、日本の検閲のプランを作って実行し、その総責任者だったバイロン・プライスは、AP通信専務取締役・編集局長だったこと。(肩書こそ立派ですが、「新聞記者あがり」が検閲のトップだったという事実は、同じように取材と原稿執筆を経験した同業記者として、苦々しい思いを感じました。)

 ・昭和16年12月19日に成立した日本の言論出版集会結社等臨時取締法は、戦後GHQ指令によって廃止を命じられたため、自由を抑圧した悪法の世評が定着しているが、罰則は最高刑懲役1年に過ぎない。これに対して、米国の第一次戦時大権法第303項が規定している検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金1万ドルまたは禁錮10年、あるいはその双方である。江藤淳も「罰則を比較するなら、米国は日本よりはるかに峻厳な戦時立法を行っていたと言わなければならない」と怒りを込めて(?)記述しています。

 こういった自国の検閲の歴史を持つ米国が、占領国の検閲をするわけですから、苛烈を極めたと言っても過言ではありません。

 ◇「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の断行

 それだけではなく、占領軍は、日本の軍部が如何に国民をだまして、戦争を遂行して犠牲を強いてきたかということを強調するために、「ウォー・ギルト(戦犯)・インフォメーション・プログラム」を断行します。その最たるものが、GHQのCI&E(民間情報教育局)がつくった「太平洋戦争史」と題する連載企画で、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載させます。その一環として、GHQは、1945年12月15日付の「指令」で、「大東亜戦争」という呼称を禁止し、公文書では「太平洋戦争」の名称を使用するように命じます。このほか、「八紘一宇」など国家神道、軍国主義、過激な国家主義を連想させる用語の使用まで禁止します。

 よく知られているように、占領軍に歯向かう思想に通じるような「仇討ち」はもってのほかで、「忠臣蔵」などの上演、上映が禁じられました。

 このような検閲は、敗戦国だから甘んじて受け入れなければならなかったかもしれませんが、同じ敗戦国であるドイツはここまで酷くなかったことを著者は実証しています。

 実際の検閲例や組織など詳しいことを知りたい人は是非、本書を手に取ってください。

 ところで、私の世代は、このような米占領軍であるGHQが指導したプログラムの影響を色濃く反映された「戦後民主主義教育」を受けてきました。そのせいなのか、保守派論客だった江藤淳は、戦後民主主義に反動する右翼の巨魁という怖いイメージが少なからずあったことは否めません。

 しかし、私自身は、もう30年も昔に、彼が日本文藝家協会の会長を務めていた頃、2年近く、何人かの文藝記者と一緒に毎月のように懇談して、江藤淳の人間的側面に触れた経験があります。一言でいえば、真摯で誠実な人柄で、年少だろうが、人の話をよく聞いてくれる方でした。私は初めてお会いした時は拍子抜けしたことを覚えています。

 これはその後の話ですが、江藤淳(本名江頭敦夫)は、私が卒業した東京の海城学園の創設者である古賀喜三郎(海軍少佐)の曾孫に当たる人で、文藝家協会会長の後は、同学園の理事も務めました。事前に知っていたら、その話もできたのになあと残念に思いました。

 人間を右翼とか左翼とかイデオロギーで判断してはいけませんね。国際的な文学賞を受賞しながら、文化勲章を辞退した著名作家は「反日左翼」とか言われたりします。それは的外れの言い過ぎだと思いますが、もう30年も昔、この大作家とは何度も取材でお世話になったことがありました。ただ、自分の家族の売り出しには積極的なものの、短い随筆にせよ、作品発表に関してはメディアを選別したりするので、色んな意味でがっかりしたことを覚えています。勿論、作家としては当然の権利なのですが、偉大な思想家のイメージが崩れ、違和感を覚えました。

 今から振り返ると、江藤淳は生前、あれだけ孤軍奮闘したというのに、最晩年に不幸に見舞われ、気の毒な最期を遂げてしまいました。今年で没後22年にもなりますか…。若い人はもう知らないかもしれません。30年前に毎月のようにお会いした時は、70代の老人に見えましたが、実際は50代後半で、亡くなった時も66歳と、随分若かったことに今さらながら驚かされます。(早熟の秀才でした)

 私は、アメリカ仕込みの戦後民主主義教育を受けてきたせいで、正直に言えば、かつては少なからぬ反対意見を抱いていましたが、江藤淳を改めて再評価して、彼の著作を読んでいきたいと思っています。

【後記】

 「『新聞記者あがり』バイロン・プライスが検閲のトップだったという事実は、苦々しい思いを感じました」と書きましたが、再考すると、「新聞記者あがり」が、検閲担当に一番相応しいと思い直しました。前言を撤回するようで節操がないですが、メディアは、放送禁止用語や差別用語に敏感です。読者から訴えられないように言葉遣いに細心の注意を払って自主規制し、校正には念には念を入れます。この「自主規制」と「校正」を「検閲」に置き換えれば、そっくりそのまま通用するわけです。

🎬「ノマドランド」は★★★★

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 久し振りに映画を観に行って来ました。今年のアカデミー賞(作品賞)受賞の有力候補に挙がっている「ノマドランド」(クロエ・ジャオ監督)です。コロナ禍の影響で、私が映画館に足を運んだのは、2020年10月17日に観た「スパイの妻」以来、実に5カ月ぶりです。

 映画を観るのは「習慣」みたいなものだということが分かりました。以前は月に2~3回は行っていたのですが、半年も映画館に行かないと「観ない習慣」が出来てしまいました。不思議なものです。

【注意】以下、映画の内容に触れますので、これから御覧になられる方はお控えになった方が良いかもしれません。

 でも、この作品は、どうしても観て観たかったのです。勿論、2020年のベネチア国際映画祭金獅子賞などを受賞し、アカデミー賞主要6部門にノミネートされているからですが、それだけではありません。予告編を観て、どうもハリウッド映画らしからぬ匂いに惹かれたからでした。

 何と言っても、絶対に死なない無敵のスーパーヒーローが登場するわけではないし、シンデレラのようなあり得ない歯の浮くような恋愛物語でもないし、ハリウッドにいつもありがちなハッピーエンド物語でもない。結末が、よく言えば余韻を持った、悪く言えば、よく分からない(笑)、ヨーロッパ映画みたいでしたが、やはり、アメリカの果てしない広大な大地と大自然が舞台になった実にアメリカ映画らしい映画でした。

 登場する人物は、ほとんど高齢の白人ばかりで、一人でキャンピングカーみたいな車でノマド(放浪)生活を送っているわけですから、いずれもワケありです。大変失礼ながら、映画の常識になっている美男美女はあまり登場しません。どこか、現代米国の負の側面があぶり出されている感じでした。

 読んでいませんが、原作になったジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド:漂流する高齢労働者たち」(春秋社)が素晴らしいのかもしれません。実際にノマド生活をしている人が、「俳優」となって本人として登場するので、誰もが演技していないドキュメンタリーのようにさえ見えます。

 主人公のファーンというおばさん(失礼!)、何処かで見たことある女優さんだなあ、と思ったら、「スリー・ビルボード」(2017年)でアカデミー賞主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンドだったんですね。憂いを秘めた瞳に、散切り頭で、化粧もせず、皺や体力の衰えも全く隠さない体当たりの演技でした。ファーンは60代初めという設定で、夫を亡くし、しかも夫が長く働いた会社もリーマン・ショックによる不況の影響で倒産し、夫婦が長く生活していた企業城下町もなくなってしまいます。それがきっかけで、一人で古いヴァンで各地を移動しながら、国立公園の掃除やレストランなど色んな所で働いて日々の生活費を稼ぐ毎日が始まります。現代らしく、アマゾンの配送工場で働いたりする辺りは、原作を忠実に再現しているのかもしれません。

Karatsu Copyright par Y Tamano

 ファーンが出会うノマドの人々は、全員、どこかしら、問題や悲しみや喪失感を抱いた高齢者ばかりなので、はっきり言って、希望もないような暗い映画です(苦笑)。日々、パンクやエンジン故障といったトラブルはありますが、特に大事故や大事件が起きるわけではありません。

 ハリウッドらしいCGを使った目を見張る場面や大音響の効果音もなく、地味と言えば地味な映画ですが、逆に言えば、深くて重い感動に浸らせてくれます。コロナ禍の危険を冒して、映画館に足を運んで良かったと思いました。

「源平藤橘」以外にも伝統ある名前が=名字の歴史

 「歴史人」(ABCアーク)2月号の特集「名字と家紋の真実」は大変読み応えがあり、端から端までゆっくり読んでいたら1カ月以上も掛かってしまいました。

ある程度は知っているつもりでしたが、まさに知らなかったことばかりでした。名前に歴史あり、です。

 この本ではあまりにも多くことが書かれているので、大雑把なことしかこのブログでは書けないことを御勘弁ください。

 まず、古代には氏姓制度があり、地位身分を表す「姓」(かばね=真人、朝臣など)、血筋を表す「氏」(うじ=阿倍、紀、橘、源などの「皇別」と、藤原、大伴、弓削などの「神別」、渡来人の子孫である秦、丹波、武生、高麗などの「諸蕃」)と、職業などで所属する「部」(べ=服部<機織り>、久米<軍事的役割>、犬養<番犬で守衛>)などがありました。

松浦佐用姫 Copyright par Y Tamano

 平安時代になると摂関政治の藤原氏が絶大なる権力を握り、京都の中央政府(という言い方はありませんけど)では有り余ってしまい、地方の国司とか後の守護とかになって荘園領主となり、名前を変えます。

 加藤=加賀の藤原

 伊藤=伊勢の藤原

 後藤=備後、もしくは肥後の藤原

 近藤=近江の藤原

 遠藤=遠江の藤原

まあ、この辺は初級です。日本で一番多い「佐藤」は左衛門尉(左衛門府の判官で検非違使を兼ねたりした)の藤原です。意外と難しい。

  私が知らなかったのは、尾藤と工藤と武藤でした。

 尾藤は尾張の藤原。 なあんだ、でした。

 工藤は、宮殿の造営に関わる「木工助(もくのすけ)」の藤原。現代は、青森県に多い名前です。

 武藤は、武者所の藤原、もしくは武蔵国の藤原でした。

 あ、もう一つ、斎藤は、斎宮(伊勢神宮に奉仕した斎王の御所)の藤原でした。こちらは中級ですね。

 「藤」が入らない藤原氏の末裔には、皆川(下野国皆川荘の藤原)、薬師寺(下野河内郡薬師寺の藤原)、宇佐美(伊豆の荘園で栄えた工藤氏の末裔)、狩野(遠藤氏から分かれた) などがあります。これは全く知らなかった!

 奈良平安から栄えた、もしくは生き残った貴族に藤原氏の他に、「源平藤橘」といって、武士化した源氏と平氏、橘氏があります。このほか、天神様こと菅原道真の子孫には、菅原以外では、今の首相の菅(すが)や元首相の菅(かん)や唐橋、高辻などがあります。

Turtle Copyright par Y Tamano

 戦国時代ともなると、武将たちは大抵、武家の棟梁である源氏か平氏の子孫を名乗ります。例えば、織田信長は、平清盛の末裔と言われ、徳川家康は、清和源氏の新田氏の末裔で、三河に定着した親氏(ちかうじ)から松平姓を名乗り、その九代目の家康が徳川に改めたといいます。

 意外と知られていないのは、毛利(元就)氏です。鎌倉時代の幕府政所初代別当だった大江広元の子孫と言われています。

 長州藩毛利氏が出たので、薩摩藩島津氏の話も付け加えなければいけませんね。一説には、初代島津忠久は、鎌倉幕府の御家人で、源頼朝から薩摩の地頭に任じられたことで島津姓を称したいいます。彼は、渡来人の秦氏の流れを汲む子孫貴族・惟宗広言(これむね の ひろこと)と言われる一方、源頼朝の落胤とする説もあるようです。

 この他、著名武将である伊達(政宗)氏、斎藤(道三)氏、蒲生(氏郷)氏はそれぞれ藤原氏、楠木(正成)氏は橘氏、武田(信玄)氏は常陸那賀郡の武田郡から甲斐に移った甲斐源氏の末裔といわれております。

 あと、名字とは全く関係ないのですが、織田・徳川連合軍が鉄砲部隊を使って武田勝頼の騎馬隊を撃破した「長篠の戦い」は有名ですが、この合戦で、武田の家臣で真田幸村(信繁)の伯父に当たる真田家の嫡男の信綱と次男の昌輝が戦死していたんですね。そのため、幸村の父である三男の昌幸が真田家の当主になったわけです。嫡男信綱が長篠の戦いで討ち死にしないで生き延びていれば、真田幸村がこれほど歴史上有名になっていなかったかもしれません。

 他にも色んなことが書かれていますが、ここでは書き切れないので、ご興味のある方はこの本をご参照ください。

銀座みゆき通りに関する考察=灘の清酒からスティーブ・ジョブズまで

Sakura in Karatsu Copyright par Y Tamano

 東京・銀座のみゆき通り。この通りは、江戸時代、築地周辺に屋敷を構えていた諸大名が、江戸城登城の際に利用したといいます。 明治になると、明治天皇が築地にあった海軍兵学校や海軍大学校などを御視察される際、行幸路とされたため、「みゆき(御幸)通り」と呼ばれるようになったと言われております。

 私はいつも出勤の行き帰りに、よくこのみゆき通りを通るのですが、築地から日比谷方面に向かって昭和通りを渡る横断歩道の辺りで、いつも上記写真の屋上広告が目に飛び込んできます。

 「SINCE 1743」ー。何の変哲もないお酒の看板広告なのですが、これを見る度に、日本人として誇らしくなってしまいます。普段は「自由平等主義者」を自称しておきながら、この時ばかりは極右の国家主義者になってしまいます(笑)。

 「なあんだ。日本も捨てたもんじゃないなあ」

 灘の清酒「白鶴」は、「寛保3年(1743年)、材木屋治兵衛が酒造業開始」と同社の沿革に書かれています。創業1743年ということは、あの世界史のエポックメイキングとなった1789年のフランス革命より46年も前ではありませんか。八代将軍徳川吉宗の時代です。

 逆に言うと、仏革命なんて、随分最近の身近な出来事のようにさえ感じるのです。1743年となると、1776年のアメリカ独立宣言より古いんですからね。どーだ!です。

 灘の清酒といえば、東大進学率で全国的に名高い昭和3年に開校した灘学園の創設者であることは良く知られています。「菊正宗」の嘉納治郎右衛門、「白鶴」の嘉納治兵衛、宮内庁御用達「桜正宗」の山邑太左衛門によって設立されたということですが、顧問になったのが柔道の講道館の創始者で、東京高等師範学校校長、国際オリンピック委員会(IOC)委員などを歴任した嘉納治五郎です。名前から分かるように、彼は、白鶴嘉納家の縁戚だったのです。

 ま、白鶴の看板を見上げて、いつもこんな歴史的、哲学的考察をしながら歩いています。

◇「みゆき族」と加賀まりこ

 みゆき通りは、1960年代はファッション文化の発信地で、VANやJUNなどのアイビールックに身を包んだ「みゆき族」が闊歩していました。女優の加賀まりこさんなんかはその代表的アイコンだったことを覚えています。

 そのみゆき通りに店舗を構えている数多のファッションブランドの中で、ひと際目立つのが、この「ジョン・スメドレー」です。店舗の2階上辺りに同社の鷲か鷹のようなアイコンと小さく「1784」の文字が読み取れます。同社の沿革によると、1784年、ジョン・スメドレーと彼の共同経営者であるピーター・ナイチンゲールによって、イングランドのダービーシャー州マットロックのリーミルズに設立されたということです。 「世界最古の製造工場」とも書かれています。

 おお!こちらも1789年のフランス革命より古い!1743年創業の白鶴には負けますけどね(笑)。

 「ジョン・スメドレー」といえば、やはり、アップル共同創業者のスティーブ・ジョブズを思い出します。iPhoneの新製品発表会の際に、いつも黒っぽいタートルネックの薄いセーターを着て登場していましたが、あれが「ジョン・スメドレー」の「レノルド」と呼ばれるモデルです。1着3万1000円ぐらいするそうですよ。そんなに高いものだったとは!

 いつも同じような格好に見えますが、彼は同じ黒のレノルドを何枚も何十枚も持っていたといわれます。ちなみに、履いているジーズンはリーバイス501、スニーカーは、ニューバランスのM991。彼は禅に興味がある(曹洞宗の僧侶、乙川弘文=故人=を「生涯の師」としして仰いだ)など日本びいきで、たびたびお忍びで京都を訪れていました。

 これも、以前このブログに書いたのですがスティーブ・ジョブズが贔屓にした京都の寿司屋は下京区の「すし岩」、蕎麦は中京区の「河道屋」…まあ、いまだに熱狂的な彼のファンがいて、色んなサイトがありますから、ご興味のある方はそちらをご参照ください。

スペイン料理で歴史と民族を考察=残虐なスペイン人のイメージは植え付けられたものか?

銀座 スペイン・バル「Virgo」

 たまにですが、家人から買い物を頼まれます。それが、イタリアの名門Venchiヴェンキ(銀座4丁目)の高級チョコレートだったり、銀座ウエスト(7丁目)のモンブランやチーズケーキだったりしますが、大抵は、築地で鰹節を買って来い、とか、お茶を買って来いとか命じられます。

 本日はお茶でした。築地や銀座などに店舗を構えている「うおがし銘茶」の「魚がし煎茶」(250グラム、1620円)というお茶です。もともと、最初は25年ほど前に調布先生から頂いて、初めてこのお茶のことを知ったのですが、家人もすっかり気に入ってしまい、専らこのお茶を飲むようになったのです。そして、なくなりかけると、家人は

 「そろそろ切れるわよ」とギロっと睨んでお終い。後は分かるだろう?といった具合で、口をつぐむのです。

 ヤクザの親分が「面白くねえなあ」と上を見上げた時、子分たちはそれは何を意味するのか瞬時に判断しなければなりません。〇✕組の親分をイテコマスのか、△〇組にチャカを持ってカチコミをかけるのかー。子分になったような気分ですよ(笑)。

「Virgo」ランチ 前菜

 私がよく行くのは、調布先生から教えてもらった銀座5丁目にある店舗です。この店の近くでは、ちょくちょく「竹の庵」という和食店でランチを取るのですが、本日はスペイン料理の「Virgo」という地下の店にしました。ここのランチは税込1000円ですから、釈正道老師にはお薦めですね(笑)。銀座には「エスペロ」という有名なスペイン料理店がありますが、こちらの方は価格がちょっと高めで、ちょっと行き違いがあったりしたもんですからもう行かないつもりです。

 「Virgo」は、確か、2度目ぐらいの訪店でしたが、味は「エスペロ」と比べても遜色ありません。何と言っても、ドリンクバーがあって、ジュースもウーロン茶もコーヒー等も飲み放題。まさにエコノミーです。

 いつの間にか、渓流斎ブログは、世界各国の料理を食べて、国際問題と歴史を哲学するブログになってしまいましたから、本日は少しだけスペインのお話。この話は、このブログで既に書いたことなんですが、私はかつて、スペインがあまり好きではありませんでした。何と言っても、フランシスコ・ピサロ、エルナン・コルテスといった軍人・征服者が、中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼして植民地化したからです。何という冷酷で残虐。血も涙もない、ならず者のスペイン人です。

「Virgo」ランチ 主菜はホウレンソウと鮭のグラタン

 と、ずっと思っていたら、4年程前にスペイン旅行したら、少し考え方が変わりました。ピサロ、コルテスの出身地であるエストレマドゥーラ地方をバスで通った時、その光景を見て唖然としたのです。赤茶けたごつごつとした丘と谷の大地で、とても作物なんか取れそうもありません。1960年~70年代にジュリアーノ・ジェンマらが主演したマカロニ・ウエスタンが世界的にも大ヒットしましたが、これらの映画が撮影されたのはこのエストレマドゥーラ地方だったとガイドさんから聞きました。まさに、西部劇の荒野です。

 だから、彼らは地元では食えないので、海外に逃避行するしかなかった、ということが少し分かりました。

 何と言っても、「スペイン人=悪者」説は、かつてスペインの敵だった大英帝国のアングロサクソン人によるネガティブキャンペーンの影響が強いことも分かりました。英国人は、北米大陸でインディアン=ネイティブアメリカンを惨殺したというのに、スペイン人の方が残酷だというイメージを世界中に吹き込みました。何でも「勝てば官軍」なのかもしれません。英国は1588年、アルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を破ってからは、世界の海の覇権を巡って、今度はオランダと争います。結局、1674年の第3次英蘭戦争で勝利を収めた英国が世界の覇者となりますが、英国のオランダ嫌いは言葉として残っています。例えば、Let’s go Dutch,「オランダ方式で行こう」というのは「割り勘にしよう」という意味で、オランダ人が如何にケチだというニュアンスを含めたと言われてます。もう一つ、有名なDutch何とかという言葉がありますが、よゐこの皆さんのために省略しておきます(笑)。

◇スペイン風邪は、本当はアメリカ風邪

 ちょうど100年前に、世界で5000万人の生命を奪って人類を恐怖に陥れた「スペイン風邪」は、本来は、第一次世界大戦に参戦した米国の兵士がヨーロッパに持ち込んで、感染が拡大したものだと言われています。当時、中立国だったスペインが正直にインフルエンザ感染の蔓延を報告したため、「スペイン風邪」と呼ばれてしまったというのです。

 もしかしたら、スペイン人はアングロサクソンと比べて、それほど小賢しくも計算高くもない、のんびりしたおっさんタイプなのかもしれません。スペイン人と結婚している京都の加藤力之輔画伯の御子息で、自身もマドリードを拠点に画家として活躍している加藤大輔氏が言ったことが忘れません。「スペイン人って結構おおらかなんですよ。英国人やフランス人は植民地にした現地人とは決して混血しませんが、スペイン人は現地に溶け込むんですよ」。確かにスペインが植民地にした南米ではペルーにしろ、アルゼンチンにしろ、混血が多いですね。なるほどです。

 何と言っても、私自身、スペイン料理といえば、パエリアぐらいしか知らなかったのですが、スペイン旅行をして、肉料理だけでなく魚介や海鮮料理も豊富で、日本人の口に合うことを知り、すっかりファンになってしまいました。ピンチョスと呼ばれる小さく切ったパンの上に魚介やハムや野菜などを載せて食べるおつまみのような前菜食は、種類が豊富で、色んな種類のものをどんどん食べたくなってしまいます。

あ、話が長くなるのでこの辺で(笑)。

銀座で出会った有名人=梶原一騎さんと乙武洋匡さんは強烈な印象でした

Jardin de Karatsu Copyright par Y Tamano

「私の銀座物語」…なんて書いても、誰も興味も関心もないことでしょうから、別に読んで頂かなくて結構で御座いますが、ブログ主宰者の特権でこのまま勝手ながら続けさせて頂きます(笑)。

 最も古い記憶は子供の頃に連れて行ってもらった時に見た森永製菓の地球儀ネオン(銀座5丁目不二越ビル、1953~83年)か、不二家のネオンか…、それとも単にテレビか映画で見ただけか、その辺は曖昧です(笑)。銀座通りはまだ都電が走っていたことを覚えていますが、1967年12月に廃止されてしまったということですから、私は当時小学生だったので記憶に間違いない。多分、不二家でアイスクリームかケーキを食べさせてもらったと思います。

銀座で最も好きなお店の一つ、文房具の「伊東屋」さん ここでお買い物

 親から銀座に連れて行ってもらったのは、地下鉄ではなく国鉄だったということを覚えているのは、当時有楽町駅のホームから毎日新聞社が見えたからです。窓の奥で働いている人さえ見えました。毎日新聞本社は1966年に有楽町から今の一ツ橋のパレスサイドビルに移転したということですから、これも間違いない。ということは、森永や不二家のネオンの思い出は、東京五輪が開催された1964年とか翌65年頃の話だったかもしれません。

 一人で行くようになったのは高校生ぐらいからで、当然、まだお酒は飲んではいけませんから、行くとしたら、本屋さんでした。晴海通りの5丁目、今、高級ブランド「ボッテガ・ヴェネタ」がある辺りに「近藤書店」という本屋さんがあり、その3階に「イエナ書店」という洋書専門店がありました。あまり、買えませんでしたが、当時の海外の最先端の文化情報を吸収しているつもりでした。今は銀座も本屋さんはほとんど消滅してしまったので本当に残念です。もう取返しがつかないでしょう。

 そう、今やなくなってしまったお店は本屋さんだけではありません。20代~40代の頃によく通った銀座6丁目の交詢社ビルに「ピルゼン」(1951~2001年)というビアホールがありました。ビルの建て替えを機に閉店してしまったと聞きます。ピルゼンは、チェコのビールだと聞いたことがありましたが、そもそも現在、世界で飲まれているビールの80%を占め、ビールの代名詞とも言えるピルスナービールは、ドイツではなく、このチェコのピルゼン(プルゼニ)という街で誕生したというのです。ここで、おつまみとして食べたニシンの酢漬けが懐かしい。もう1軒、この旧交詢社ビルには「サン・スーシー」(1929~2001年頃)というバーがありました。文豪谷崎潤一郎が名付け親と言われ、フランス語のsans souciは、「憂いがない」「心配ない」といった意味です。

 大抵、酔っぱらって行ったので、場所を覚えていなくて調べ直したら、どうやら「ピルゼン」と同じ旧交詢社ビルだったことが分かり、吃驚。案外狭い範囲で飲んでいたことになります。もう誰と一緒に行ったのかあまり覚えておらず、当然、何を熱く語っていたかも覚えていません。ビールの泡と一緒に消えました。嗚呼。これも残念。

「伊東屋」の近くでランチ店を探していたら、結局「煉瓦亭」になってしまいました。7年ぶりでした。

 なくなった話ばかりではつまらないので、話題を変えますと、銀座ですから、歩いていると色んな有名人に出くわします。何と言っても、一番の強烈な印象を放っていたのが、「巨人の星」や「あしたのジョー」などで知られる漫画原作者の梶原一騎(1936~87年)さんでした(歴史上の人物とはいえ、とても呼び捨てできません!)。確か、1985年春頃、狭いみゆき通りの歩道ですれ違いそうになったのですが、梶原一騎さんは、実弟で空手家の真樹日佐夫(1940~2012年)さんをボディガードのように引き連れて、二人とも上下純白の高級スーツに黒っぽいネクタイなしのシャツを着こんで、肩を切って歩いてこっちに向かって来ました。梶原さんは薄いサングラスをかけ、その筋の人ではないかと思われるような威圧感。私? 曲がりたくもないのに、直前の並木通りを右折して逃げましたよ(笑)。

 他に、今はどうされているのか、3年ほど前に沢尻エリカさんと出くわしたことがありますが、大人の対応で、何も知らない、何も見ないふりを致しました。彼女はどこか危なげな症状に見えたのはこちらの錯覚だったと思いますが、数人の取り巻きさんに囲まれていました。落語家の三遊亭好楽さんは、両手に花(女性です)を抱えて、横断歩道を歩いてました。随分背が小さい人だなあという印象でした。また、名前が出てきませんが(笑)、ちょんまげを結った国会議員がいたじゃありませんか。彼もホステスさんに拉致されるように高級クラブに消えていったことを覚えています。

元祖ポークカツ(2000円)とライス(300円)煉瓦亭は明治28(1895)年創業。三代目が7年前に引退して、今の御主人は四代目。昔は1500円ぐらいだったと思うんだけどなあ。この値段ですから、釈正道老師にもお薦めです

 最後に一人挙げるとしたら乙武洋匡さんでしょうかね。今年1月某日の夕方でしたが、あの特殊な自動運転車いすに乗られて、アシスタントらしき妙齢の女性と談笑しながら「歩いて」おられました。乙武さんは2016年3月、不倫騒動とかを週刊新潮で報じられ、あれから相当苦労されたようでした。まさか銀座で本物と出会うとは本当に吃驚してしまいました。餓鬼ではないので、追いかけたりしませんでしたが、思わず振り返ってしまいました。何か宝くじに当たったような気分でした(笑)。

 まあ、実につまらない「私の銀座物語」を最後までお付き合い下さり、誠に有難う御座いました。本当は、ジャーナリストとして有名人さんとは多くお会いしてきましたが、銀座はプライベートで、仕事以外でお見かけしたという話でした。失礼をば仕りました。

毛沢東の負の側面を知らない?=「青山シャンウェイ銀座店」で孤独のグルメ

「青山シャンウェイ銀座店」メニュー

 さて、そろそろランチにでも行こうかと思ったところ、皆さま御存知の釈正道老師からメールが来ました。

 写真を送ります。昨日の春の嵐で散った遅咲きの山茶花です。ところで、最近の渓流斎ブログは、ようやく読者の期待に応えて、グルメブログに特化したと思ったら、昼飯にしては随分と高額ですねえ。金を拾ったか、闇営業か? そして何よりも、また悪い病気が出て、ゾルゲの蘊蓄まで開示するとは! 一読者として、これからは、城址探訪の短いエッセイと(長いのは駄目ですよ)、知る人ぞ知る銀座の千円ランチ情報を待っております。

Sazanka Copyright par Syakuseido

 山茶花の写真をどーせーーちゅうねん?

それに何ですか!?「金を拾ったか、闇営業か?」とは!!!

 失礼な。ちゃんと自腹で払っておりまする。

 昔の偉い人も言ってますでしょ? 「子孫に美田を残さず」と。生きているうちに、自分で稼いだ財産は使い果たすべし。変に残すと相続争いの元だと。

 あれ? これは誤用で、本来は、西郷隆盛が言ったとされる「児孫のために美田を買わず」が正式な言い伝え。その意味するところは、「子孫に財産を残そうと私利私欲に走るようでは志を果たすことはできない。志を遂げるためには全てを犠牲にする覚悟を持て、という自分自身への戒め」だというんですね。

 ま、い、か。

 とにかく、死んでしまったらあの世に持っていけないんですから、生きているうちに、本懐を遂げさせてくださいな、釈正道老師。

「青山シャンウェイ銀座店」」

 さて、「渓流斎ブログは、グルメブログに特化したわけでは決してありません」と、断っておきますが、釈正道老師から「知る人ぞ知る銀座の千円ランチ情報を待っています」と命令されるもんですから、本日は、仕方なく、一読者さまのご要望にお応えして、行って参りましたよ。

 「青山シャンウェイ銀座店」という一風変わった中華料理店です。何しろ、店内に上記写真のように、毛沢東の集団絵画があったり、メニューの中には「毛沢東ポークのパイコー麺」なるものもあります。この店にとって、毛沢東はヒーローなのかもしれませんが、毛沢東と言えば、大躍進政策と文化大革命で数千万人の犠牲者を出した世界史上最大の虐殺者と主張する学者もいますから、ヒーローなどと、そんな牧歌的な甘い雰囲気に浸ってられません。

 もしかしたら、お店の人は、大躍進も文化大革命も知らず、毛沢東にそんな負の側面があることなど全く知らないのかもしれませんが…。

「柔らか蒸し鶏の葱油醤油まぜそば」 900円

 いずれにせよ、何でこの店にしたかといいますと、あの「孤独のグルメ」で取り上げられたという「柔らか蒸し鶏の葱油醤油まぜそば」を食べてみたかったからです。900円ですから、釈正道老師にも御満足いただけることでしょう。

 蒸し鶏がそのまま骨付きで入っていて、麺もモッチリした歯ごたえでした。個人的には、タレがちょっと辛かったかなあ、という感想ですが、好きな人が多くいるかもしれません。お店は結構満員でした。

 あれっ? やっぱし、グルメブログになってしまいましたか? いえいえ、「世界の食を通して、歴史と国際問題について考察するブログ」ということにしてください。

 

 

商業発展に注力した戦国武将・蒲生氏郷=近江商人や伊勢商人までも

Jardin de Karatsu Copyright par Y Tamano

 戦国時代の大名蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~95年)は、その知名度といい、人気度といい、残念ながらトップ10には入らない知る人ぞ知る武将なのですが、これがとんでもなく凄い戦国武将だったことを最近知りました。

 渋沢栄一が「日本近代資本主義の父」なら、蒲生氏郷は「日本の商業の父」と言えるかもしれません。

 私は会津贔屓ですから、蒲生氏郷といえば、織田信長、豊臣秀吉に仕え、会津若松城(福島県)を築城したキリシタン大名だという認識が大きかったのですが、もともとは、近江蒲生郡(滋賀県)の日野城主だったんですね。

 近江日野といえば、近江日野商人の所縁の地として有名です。

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 滋賀県日野町のHPによると、「近江商人」の中でも日野地方出身の商人は特に「日野商人」と呼ばれ、日野で造られた漢方医薬や上方の産物を天秤棒一本で地方へ行商して財をなしたといいます。他の近江商人と比べ出店数においては群を抜き、この形態は今の総合商社の始まりだとも言われています。近江商人の心得である「三方よし」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」)は有名ですね。

 近江商人の流れを汲むと言われる現代の企業に、武田薬品工業や東レや伊藤忠商事、双日、西武グループ、高島屋などがあることは皆様ご案内の通りです。蒲生氏郷が移封された後、近江日野は衰退してしまい、新しく日野商人が独自で切り開いたという説もありますが、蒲生氏郷が近江日野に商業の種を蒔いたことは間違いないことでしょう。

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 信長の死後、羽柴秀吉の家臣となった蒲生氏郷は、小牧・長久手の戦いや九州征伐などで戦功をたて、天正16年(1588年)に伊勢・松ヶ島12万石に移封され松坂城を築城します。松ヶ島の「松」と秀吉の大坂の「坂」から字を取って「松坂」(後に松阪)と命名したのは蒲生氏郷です。この時、城下町に移住してきたのが、蒲生氏郷の地元の日野商人で、これが名高い「松阪商人」になったというのです。半ば強制的に移住させられた商人もいましたが、大半は、商業の発展に力を注いだ武将の蒲生氏郷を慕って移住してきたと言われています。

 松阪商人で最も有名な人物は三井グループの祖である三井高利です。高利の祖父である三井高安は、もともと近江の守護大名六角氏に仕える武士でしたが、織田信長との戦いに敗れて伊勢の地に逃れてきたといいます。蒲生氏郷が松阪に移封される20年も前のことですが、三井高安は越後守を名乗っていたため、「三井越後屋」(今の三越)の屋号が生まれたと言います。

 松坂城主蒲生氏郷は、楽市楽座を進め、街道を整備して商業発展に力を入れたといいます。伊勢商人の流れを汲む現代の企業には、イオンや伊藤ハムや岡三証券などがあります。

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 蒲生氏郷は、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、陸奥会津42万石(後の検地加増で91万石)に移封されます。黒川城(城主伊達政宗は、小田原遅参などを理由に会津を没収され、米沢72万石に減封)を蒲生家の舞鶴の家紋ににちなんで「鶴ヶ城」と改名し、黒川の地名も出身地の近江日野の「若松の森」から会津「若松」と変更します。

 勿論、城下町には日野商人や松坂商人も移住させて商業発展に力を入れますが、どういうわけか、あまり「会津商人」は全国的に有名ではありませんね? でも、近江日野の漆器を、「会津塗」として名産にしたのが蒲生氏郷だと言われています。

 蒲生氏郷は1592年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線部隊が集結した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にまで参陣しますが、ここで病を得たのが遠因で、この3年後に伏見で39歳の若さで亡くなります。

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 蒲生氏郷が会津に移封されたのは、表向きは伊達政宗ら東北の有力大名を抑えるためという理由ですが、秀吉が氏郷の武勇と領地経営の才覚を恐れたためだとも言われ、毒殺されたのではないかという噂さえあります(病死説が有力)。

 現代の最優良企業である伊藤忠や武田薬品や三井財閥やイオンなどの祖が、蒲生氏郷が種を蒔いて発展させた近江商人や伊勢商人だったと思うと、改めて蒲生氏郷の偉大さを感じませんか?

スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店「ケテル」と「ローマイヤ」

 東京・銀座の電通ビル(1933年、横河工務所=三越本店、旧帝国劇場なども=設計、大林組の施工で建てられた電通本社二代目)

 《渓流斎日乗》TMは、ほとんど誰にも知られていないのですが、「世界最小の双方向性メディア」と銘打って、ほぼ毎日更新しております。

 でも、たまに、大変奇特な方がいらっしゃいまして、コメントを寄せてくださいます。洵に有難いことです。昨晩も小澤譲二さんという方から嬉しいコメントを頂きました。まだ面識はありませんが、かなり熱心にお読み頂いていらっしゃるようで、私の心の支えになってくださっております。

 「コメント欄」を御覧になる方はあまりいらっしゃらないと思いますので、重複になりますが、本日は、小澤氏のコメントを引用させて頂くことから始めます。一部省略致しますが、小澤氏は昨晩、こうコメントして頂きました。(一部、捕捉し、誤字等改めています)

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もうかれこれ20年も前ですが、私の友人ヘルムートが80年近く祖父の時代から続くドイツレストラン「ケテル」を銀座で経営していましたが、家賃高騰とイタリア飯ブームに押されて、やむなく店を閉めました。私の叔母や母も戦前、Mobo、Mogaの時代の頃に勤めていた朝日新聞社から近かったのでよくこの店に通っていた、と聞いています。

 えーーー!ですよ。

 私もこのコメントに返信したのですが、この「ケテル」は戦前、「ラインゴールド」という名前のドイツレストラン兼酒場で、ここでホステスとして働いていた石井花子(1911~2000年)が、客として通ったスパイ・ゾルゲ(1895~1944年)と知り合った所だと聞いたことがあったからです。石井花子は、ゾルゲの「日本人妻」とも言われ、「人間ゾルゲ」の著作もあり、私も読んだことがあります。(彼女には文才があり、とても面白かった。)ちなみに、「ケテル」は、閉店する前の1980年代~90年代に私は何度かランチしたことがあります。

 石井花子は戦後、処刑されたゾルゲの遺体を探し当てて(雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬されていた)、改めて多磨霊園に葬って非常に立派なお墓を建てました。2000年に彼女が亡くなった後、彼女の縁者がこの墓を管理していましたが、今年1月になって、墓所の使用権を在日ロシア大使館が譲り受けることになり、久しぶりにニュースになったことは皆さまご案内の通りです。ゾルゲは、ソ連の「大祖国戦争」を勝ち抜くことができた、今ではロシアの英雄ですからね。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 その石井花子をネットで検索してみたら、そこには「1941年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店『ローマイヤ』で会食したのが最後の面会だった(ゾルゲ逮捕はその2週間後の10月18日!)」と書かれていたので、これまた吃驚。ローマイヤは、何も知らずに今年1月に初めて行った店じゃありませんか。

ということで、本日は再度、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」に足を運びました。

 銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 全く知らなかったのですが、そもそも、この店は、第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、その後、祖国では食肉加工の仕事をしていた縁で帝国ホテルでの職を得てロースハムなどを生み出したアウグスト・ローマイヤ(1892~1962年)が1925年に銀座並木通りの対鶴ビルに開いたドイツ・レストランで、谷崎潤一郎の「細雪」などにも登場。ゾルゲやドイツ大使館員らが足繁く通った店でした。1991年、ビルの改装に伴い日本橋にビアレストランとして移転していましたが、2006年に別の経営者によって銀座8丁目に店舗が復活したというのです。(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページによると、現在の銀座あづま通りにある店舗は、2019年3月22日に新装開店したようです)

「ローマイヤ」は1921年に東京・大崎にハム・ソーセージ工場を建設し、製造開始したことから今年で創業100周年。

 ソ連赤軍(現ロシア軍参謀本部情報総局=GRU)のスパイだったドイツ人リヒャルト・ゾルゲがフランクフルト・ツアイトウング紙の特派員などとして勤務していた銀座電通ビルから「ラインゴールド」も「ローマイヤ」も歩いてほんの数分です。今も昔も、世界的な名声から(笑)、ドイツレストランはそう多くありませんから、恐らく、ゾルゲは週に何度もこれらの店に通ったことでしょう。

銀座「ローマイヤ」ランチ「豚ばら肉のロースト~中華風BBQソース~」コーヒー付で1100円

 あれから80年以上経って、ゾルゲも歩いたであろう同じ銀座の歩道を歩いたり、同じように食べたであろうドイツ料理を食したりすると、大変感慨深いものがあります。

 私はいつも歴史を身近に感じ、普通の人には見えない、現実には消え去ってしまったモノを想像することが好きなのです。