土人発言と「空気を読んではいけない」

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  10月18日に、沖縄県の米軍北部訓練場のヘリパッド建設反対運動をしていた市民らに対して、大阪府警の29歳の機動隊員(巡査部長)が「どこつかんどんじゃ、ボケ! 土人が!」などと発言して物議を醸しています。他に26歳の男性巡査も「シナ人」などと発言していたそうです。

 私もこの「土人発言」の様子を、投稿されたユーチューブで見てみました。この映像の撮影者、イコール侮蔑された当人が芥川賞作家の目取真俊さん(56)ということでも少し驚きました。

 目取真さんは「最初は『老人』と言われたと思い、自分はそんな年寄りでもないのにと思っていた。それが『土人』だったと後から知り、怒りより呆れてしまった」などと沖縄タイムス紙のインタビューに応えていました。
 
 ここまで物的証拠を撮られてしまっては、「言った」「言わない」の話ではなく、若い機動隊員が、確実に沖縄県民を上から目線で侮蔑的な差別発言をしていたことは隠せませんね。

 差別発言をした機動隊員は大阪府警なので、松井大阪府知事が「ご苦労様でした」などと援護射撃し、物議を醸した後の20日にも、「発言を撤回しない」と開き直ったようです。

 松井知事は大阪府民が選挙で選んだ公職者ですが、思考の根底に沖縄の人に対する差別観があるのかもしれません。本人に確かめたわけではないので、分かりませんが。

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 こういうことを書いても、若い一部の人や剛腕作家が、「機動隊より、反対派の連中の方がもっと酷い発言をしている。報道しないメディアが悪い」とネットに投稿しております。

 体制(エスタブリッシュメント)護持派は、問題をすり替えています。

 差別される側でないから、他人事のように野次馬根性で言葉遊びをしているに過ぎないのでしょう。

 若いうちはいいでしょうが、年を取れば、そのうち、自分たちの大好きだった体制が、実は、その実態が、人権を無視して、年金まで搾取して、都合の良いようにあしらう羞恥心もない迫害者だったということが分かることでしょう。

 その時は手遅れですが。

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 「若い人」などと一括りにして、批判してみましたが、世の中には色んな人がいるので、そんな抽象的な言葉ばかり使うのも良くないかもしれません。

 最近、「空気を読んではいけない」(幻冬舎)を出版した青木真也さんという格闘技家は、33歳ながら、なかなか達観した骨のある発言をしております。

 早稲田大学を卒業して、静岡県警に入りながら2カ月で退職して格闘家になったという異色の経歴の持ち主です。子供のときから、人とは違ったことばかりやって、学校の先生からは何度も呼び出され、友達からは仲間外れにされて育ってきた、という体験を同書の中で明かしています。同時に、先生から呼び出された父親が、面談から帰って、息子に対して、「もう先生の言うことは聞かないでいい。自分の信じたことをやれ」とお墨付きをもらうぐらいですから、まるで。「カエルの子はカエル」です(笑)。

 この本は5章に分かれています。つまみ食いしますと…。

 ◆第1章 「人間関係を始末する」
 ●幸せな人生を生きるために友達はいらない
 ●凡人は群れてはいけない
 ●自分の考え方が汚されるから、人と食事に行かない

 ◆第2章 「欲望を整理する」
 ●足るを知る
 ●欲望が散らかっている人間は、永遠に何も手にすることができない

 ◆第3章 「怒り、妬み、苦しみ、恐れ。負の感情をコントロールする」
 ●結果さえ出せば、他人はいつでも手のひらを返す
 ●「殺される」恐怖との向き合い方

 ◆第4章 「一人で生きていくためのサバイバル能力の養い方」
 ●不安定に飛び込む
 ●自分に値札をつける
 ●負けを転がす

 ◆第5章 「他人の『幸せ』に乗らない」
 ●皆にとって価値のあるものが自分にとっても価値があるとは限らない
 ●一度しかない人生で、世間的な「幸せ」に惑わされている時間はない

 どうですか。かなりの変人ですね?(笑)。

 この方は、格闘家ですから、色んなパトロンが寄ってきますが、絶対に一緒に食事に行ったりしないそうです。何しろ、人から奢られると、その人に借りをつくることになるからだそうです。

 格闘家として「死ぬか、生きるか」のギリギリの所で毎日を送っている人なので、孤独も孤立もなんのその。「友達はいらない」という発言には心底、感服しましたね。

 人間の悩みの99%は、人間関係なのですから。
 

「めし」「浪華悲歌」「ボクシングと大東亜」

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いつもながら、どなた様か分かりませんが、コメント有難う御座いました。

昨日は、すっかり調子に乗って、ネットにはなかった成瀬巳喜男監督作品「めし」をDVDで観てしまいました。昭和26年度公開。まだ、米軍による占領時代(昭和20年8月15日~昭和27年4月28日)だったんですね。林芙美子の未完の遺作の映画化で、今後「晩菊」(昭和29年)、「浮雲」(昭和30年)、「放浪記」(昭和37年)など成瀬の代表作となる「林ー成瀬」コンビの第1弾です。

結婚5年目で子供がなく倦怠期を迎えた夫婦を上原謙と原節子が好演しています。終戦直後の大阪が舞台ですが、二人とも東京出身で大阪に転勤してきたという設定です。上原扮する主人公は真面目な北浜の証券マンです。(上原謙は、森雅之ばりに知性派俳優ぶりを全面的に押し出しております)そこへ彼の姪っ子が東京から家出して来て、一騒動になるという話でした。

昭和26年というまだ物資がない時代に、さすがに女優陣は当時最先端のファッションで身を包んでいるので映画だなあ、と思いました。やはり、言葉遣いが丁寧なので、観ていて感服します。成瀬は、台詞に関しては、削りに削っていたそうですから、無駄がありません。

夜は、またネットで、溝口健二監督作品「浪華悲歌」を観てしまいました。昭和11年公開ですから、何と「2・26事件」が起きた年ではないですか!

山田五十鈴主演です。さすが、画面は劣化してぼんやりしている場面がありますが、アップになるととても80年も昔の映画とは思えないぐらい鮮明に映っていました。

山田五十鈴が「不良少女」アヤ子役というのですから、時代を感じさせます。30歳ぐらいに見えましたが、当時、実年齢18歳か19歳の本当に少女だったんですね。

主人公アヤ子の父である準造(竹川誠一)は、事業に失敗して酒浸りになっていた溝口の父善太郎がモデル とされているそうです。映画の中では、アヤ子は父親の300円の借金を返済しようと、男を手玉に取る「不良少女」になり、最後は家族にも見離されて、大阪の街を一人彷徨う寂しい場面で終わります。

俳優さんの顔と名前が一致しないのが残念です。社長さん役の人は、婿養子で奥さんに頭が上がらないという設定ながら、アヤ子と愛人契約したりしますが、なかなか味がありました。また、医者役をやっていた俳優さんの名前も分かりませんが、随分太っていて、昭和11年という時代にああいう体格の人もいたのかという驚きです。

評論家の山本夏彦は「戦前は決して暗い時代ではなかった」と著書の中で繰り替えし書いていましたが、既に、デパートがあって、地下鉄があって、キャバレーもあって、株取引もあって、歓楽街で楽しむ大衆も描かれていたので、少し分かったような気がしました。

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博多の曇卓先生のお勧めで、乗松優著「ボクシングと大東亜」(忘羊社)を読んでいます。

内容と目の付け所が大変いいのですが、大学の紀要を読まされている感じで少し読みにくく、市販書としてなら、残念だなあ、という感想です。

最初に「凡例」を書いて、「読み方の手引き」でも書いておけば、いいのですが、読みずらかったと言わざるを得ません。

例えば、98ページにはこう書かれています。

「…初期のテレビ放送は成功しただだろうか。
佐野[二〇〇〇a]は、日本初の民放テレビ放送の幕開けを、警察官僚から不屈の転身を遂げた正力の事業欲や権勢欲と重ね合わせながら描きだしている。…」

という具合ですが、何ですか?この急に現れる「佐野[二〇〇〇a]」は!!!?

私のような近現代史関係を中心に乱読している者なら、少し考えて、「もしかして、佐野眞一氏の『巨怪伝』を引用しているのかもしれない」と、ピンときます。しかし、「巨怪伝」は1994年に初版が発行されたので、この2000とは何か?

そして、後ろの「参考文献」欄を見ると、2000年に発行された同書の文庫版からの引用だということを著者は、言いたかったようです。

私は博士論文を書いたことはありませんが、引用文献として、時代を経て文庫版になった年号を書くものですかね?いずれにせよ、「凡例」がないので、実に不親切です。

それとも、著者はまだ若いので、読者がそこまで要求するのは酷なのでしょうか?

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最初に「目の付け所と内容はいい」と激賞したので、少し引用します。

・かつてボクシング界には、嘉納健治(神戸富永組)をはじめ、阿部重作(住吉一家)、山口登(山口組)、藤田卯一郎(関根組)などの大親分が関わっていた。中でも、日本ボクシング創世記から興行の世界に足を踏み入れていた嘉納健治は「菊正宗」で知られる造り酒屋の生まれであった。一族の中には近代柔道の祖、嘉納治五郎がおり、嘉納家は神戸でも名門中の名門の家柄で知られる。(83ページ)

【追記】ひょっえーです。菊正宗は、渓流斎の愛飲の酒ですが、嘉納治五郎と関係があったとは不覚にも知りませんでした。渓流斎の呑む菊正宗は、日比谷「帝国ホテル」か、麻布「野田岩」か、銀座「酒の穴」に限ります。せんべろ居酒屋で出される「菊正宗」は似て非なるモノと心得よ。

・後楽園スタヂアムを取り仕切り、日本ボクシング・コミッションの初代コミッショナーに就任したのが田辺宗英。彼は戦前、玄洋社の頭山満を敬慕し、孫文を援助した黒龍会の内田良平や大陸浪人として知られる宮崎滔天らと知り合い、勤皇報国の思想を強めた。1931年(昭和6年)、銀座尾張町の四つ角に「キリン・ビヤホール」を開店。1933年(昭和8年)には西銀座に高級喫茶「銀座茶屋」を、1935年(昭和10年)には5階建ての食堂娯楽デパート「京王パラダイス」などを開き、実業家としての成功を収めていた。(p107~110)

【追記】銀座尾張町というのは、今の銀座四丁目交差点辺りです。最近、日産ショールームがあったビルが「銀座プレイス」として新装オープンしましたが、地下に銀座ライオン(つまりサッポロビール)のビアホールができました(まだ、行ってません)。田辺宗英の「キリン・ビアホール」と関係があるのかどうか?(確か、サッポロは三井系、キリンは三菱系、アサヒは住友系だったと思います)
また、この本では、あの牧久さんの書いた「許斐氏利」伝を引用して、銀座の東京温泉は、成瀬巳喜男監督作品「銀座化粧」(1951年)のロケで利用された、と書かれてあったので、早速この映画もネットで観てみようかと思ってます。

「同時通訳はやめられない」

ミラノ・ドゥオモ

またまたコメント有難う御座います。

倉内様とはお名前だけからは、面識がないと思われますが、小生が痛飲したことがある友人のご友人ということで、何かの御縁でせう。これからも宜しくお願い申し上げます。

こうして、昔の、そして昔からの愛読者の皆さんが戻って来られるとは嬉しい限りです。渓流斎は、完全復活とまではいかなくても、ヨロヨロと社会復帰できました(笑)。

さて、倉内さんのコメントにも出てきました袖川裕美著「同時通訳はやめられない」を昨晩読了しました。新書ですから、一気に読めば2~3時間で読めてしまいますが、じっくり味わって読みました。

何度も書きましたが、著者の袖川さんとは渓流斎の大学時代の同級生で、昨年か、一昨年かに久し振りに同窓会で再会しました。通訳・翻訳家になったとは聞きましたが、同時通訳者として戦場のような職場でこれほど奮闘していたとは知りませんでした。

これでも、私も通訳の端っこの端っこの端くれですが(笑)、逐次通訳と同時通訳とは、月とスッポン、天と地というぐらい違います。

まず、帰国子女ほどのネイティヴなリスニングを瞬時にこなし、外国語以上に日本語力が必要とされる超難関の瞬間芸です。

まさに神業と言ってもいいでしょう。

しかし、袖川さんは、神業でも何でもなく、只管、事前準備と勉強に次ぐ勉強で、その修行僧のような特訓に終わりはなく、何十年のベテランだろうが、初心者だろうが変わらない。毎日冷や汗もので、自信を失ったり、取り戻したりの繰り返しです。なぞと告白しているのです。

読了して、同時通訳の仕事はジャーナリストと全く同じだなあと思いました。記者ではないので、書きませんが、言葉を発声するだけで、仕事の内容は変わらないわけです。

この本の中にも出てきましたが、テレビ局の同時通訳の下準備のため、彼女が寸暇を惜しんでエレベーターの中でも新聞を読んでいたところ、有名なテレビキャスターとエレベーター内で一緒になり、その人から「大変なんですね」と声を掛けられる場面かあります。

そうです。同時通訳は専門家でもないのに、専門家同士のやり取りを介在しなければならないので、政治でも経済でも美術でもスポーツでも芸能でも何でもやらなけれはなりません。(同じように、ジャーナリストも専門家ではなく、素人です)。英語の単語は分かっていても、置き換える日本語が分からなければ、通訳にならないわけです。

つまり、多くの人が誤解してますが、語学力とは、母国語力なのです。今では小学生から英語が必修になったらしいですが、国語=日本語ができなければ英語もできるわけがないのです。

だから、むしろ、小学生から「枕草紙」や「徒然草」を教えた方がいいのです。欧米人の中には、英語、独語、仏語、伊語、西語と数カ国語話せる人がいますが、同じ26文字のアルファベットを使うからできるのです。

日本語の場合、漢字、平仮名、カタカナ、ローマ字と覚えることが沢山あります。だから学習時間が必要なのです。漢字なんか、百歳になっても覚えられないでしょう(笑)。

「同時通訳はやめられない」では、著者の失敗談も出てきますが、先の太平洋戦争で、戦後、多くの台湾人らの通訳が戦犯として処刑されたことにも触れていました。

ただ、上官の命令で、通訳しただけなのに、です。しかし、捕虜になった連合国軍の兵士としては、顔が見える通訳から酷い目に遭ったと思い込んでしまうのですね。

通訳も命懸けの仕事だった時代があったわけです。

すっきり分かる日本の国のはじまりと成り立ち

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 栗林提督お勧めの長浜浩明著「国民のための日本建国史」(アイバス出版)を読んでいますが、まあ、何と言いましょうか、著者は東工大の修士号を修めた一級建築士ながら、アングルのバイオリンのように独学で考古学を何十年も研究され続けてきたらしく、その知識と教養は生半可でなく、これまで、考古学の権威と言われた大学者の説をバッサバッサと切りまくり、その壮観な景色の見晴らしは、どこまでも続くよといった勢いです。

 初版は2015年7月6日。出版されて1年以上経ち、これだけ、年代を「炭素14年代」で「実証的」に測定するなどして、既成学説を否定されておられるというのに、アカデミーの世界から何ら反証も議論もなく、全く黙殺されているように感じられます。何か、不思議ですね。

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 ただ、著者は、最初の方で、「司馬史観」を批判されておりましたが、司馬遼太郎は小説家=フィクション=虚構であって、彼の小説などを真面目に史実として扱うこと自体はおかしいんじゃないかなあ、と思ってしまいましたし、彼の「民族=言語」説というのも少しおかしい気がしました。

 まだ、全てを読んでいないので分かりませんが、後半では、私が生まれて初めて考古学に興味を持つきっかけをつくってくれた考古学者の上田正昭氏や佐原真氏、森浩一氏らに疑念を呈しておられたりするばかりでなく、渡部昇一氏についても「記紀を読んでおられないのではないか」と、右左関係なく(笑)、かなり手厳しいのです。

 そして、あの泣く子も黙る天下の共同通信社に対してまで、「科学に弱い要注意な通信社」(41ページ)と見下して、敵にまわしておられます。

 いやあ、勇気ある自信に満ち溢れた凄い方です。
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 著者の長浜氏の説、研究成果の骨子はー。

 ・ヒトのY染色体を調べると、日本人と韓国人、北方シナ人(北京)、モンゴル人とはパターンが全く異なる。よって、司馬遼太郎の言う「韓国が日本人の祖先の国」は間違い。彼らは日本人とは別人種、別民族。P30

 ・紀元前1万年から前5000年までの5000年間、朝鮮半島からの遺跡がなく、つまり、人の気配が消えた、人々が絶滅していた。P44

 ・沖縄人の御先祖様は、九州からやってきた。P45
 
 ・紀元前5000年の縄文時代、人々は日本から無主の韓半島へ家族で移住し、海峡を挟んで祖国日本との間を往来していた。P47

 ・韓国・朝鮮人の祖先は紀元前2000年頃に、(日本の)縄文人が暮らしていた地(韓半島)にやって来たに過ぎない。ということは、それまで、3000年以上にわたり、半島の主人公のルーツは日本人だった。P48、P50

 ・倭人は、春の耕作と秋の収穫をもって年紀としていたため、1年を2年と数えていた。これによって、(記紀に書かれた)天皇の長寿の謎が解ける。皇紀もまた実年に換算すると、神武天皇は、(皇紀660年=)紀元前70年(中国は前漢の時代、ローマでは剣奴スパルタクスが反乱を起こして磔にされた翌年)1月1日に、27歳で初代天皇として即位し、前33年に64歳で崩御。二代綏靖天皇は、前15年に42歳で、三代安寧天皇は、前1年に28歳で、四代懿徳天皇は、17年に38歳で、五代考昭天皇は、59年に56歳で崩御…となる。P110~129

 ・魏志倭人伝などを素直に解釈すると、邪馬台国は「九州」であり、福岡県山門郡高瀬町と推定している。P156

 ・神武天皇の東征とは、日向からやって来た神武天皇一行が、大和の豪族を急襲して惨殺したのではなく、苦戦を強いられながらも内通者を得て切り崩し、ヤマトの南部にやっと拠点を築くことができた、ということ。その後、婚姻関係を通じて勢力を拡大していった。P170~182

・「後漢書倭伝」「魏志倭人伝」に、倭人が、シナに生口を献上する記述があるが、五世紀初め、大和朝廷が女王国を併呑して後、「宋書」には、様々な爵位を要求しても、生口を献上送ったという記録はない。「隋書」にも生口の記載はない。P184

・神武天皇以来、天孫族は邪馬台国が日本人の男女を生口としてシナに献上することが許せなかった。これが決定的な違いとなって女王国と大和朝廷は和解できなかった。このような国は滅ぼすしかない、そう決意したのではないか。 P185

・1978年、埼玉古墳群・稲荷山古墳から出土した赤錆びた鉄剣に「意冨比◆土偏に危(おおひこ)」の銘が刻まれていたことが分かった。この鉄剣は、ワカタケル大王(第21代雄略天皇=457~480年)の時代のもので、銘の大彦命は、第九代開化天皇の兄と考えられる。P284

・記紀否定は、GHQによる「日本教育政策に対する管理政策」(1945年10月22日)などによるもの。 P271

以上 興味深い説でした。著者の全ての説に賛同できませんが、真実は一つでしょうから、専門家同士で激論を交わしてはっきりとさせてもらいたいものです。

10月4日読了。

成島柳北、永井荷風、谷崎潤一郎のこと

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆さんは、わざわざ、この渓流斎ブログの過去の記事を振り返られることはないと、中国的核心的利益として、確信しておりますが、結構、過去記事は訂正、修正、割愛、改訂されております。

 結論が全く逆になっていることもありますので、腰を抜かされることでしょう(笑)。

 かつて、「メディアを売る男」が、ブログは、タスマニアかマダガスカルのサーバーに永久保存されて消えることはない、と豪語しておりましたが、歴史的事実として、小生の過去のブログは抹消されて、永久になくなったことがあります。

 「メディアを売る男」が如何にいい加減かということです。

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、今、太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷の明治」(中日新聞社)を少しずつ読んでいるところです。

 実に面白いです。

 太田治子さんは、ご説明するまでもなく、作家太宰治の遺児で、母親は名作「斜陽」のモデルにもなった太田静子さんで、正式な夫婦ではなかったので、かなり苦労して育ったようです。というのは、わざわざ書くまでもなく、ご存知のことと思われます。

 彼女は、太宰の文才の血を引いておられるようで、明治の伝記ものが得意ですね。

 いつぞや、「夢さめみれば…洋画家浅井忠と明治」を走り読みしたことがあるのですが、浅井忠の漢籍の先生だった成島柳北のことに触れた文章が今でも思い出深いです。

 ロシアではなく中国です  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 成島柳北は、ご案内の通り、明治のジャーナリストで、今の東京・銀座4丁目の四つ角の「和光」にあった「朝野新聞社」の社長兼編集局長を務めたことがあります。成島家は代々幕臣で、将軍侍講という要職にありました。外国奉行なども務めましたが、明治維新になって、新政府のすべての役職を断って、家督を養子に譲って向島に隠居します。

 ここが、誰にでもできない凄いことです。函館の五稜郭に籠もって最後まで新政府に抵抗して戦いながら、あっさり降伏して新政府の要職を歴任した榎本武揚とは全く違うところです。この最期の函館戦争では、新撰組副長土方歳三が戦死しました。

 私は、どうもひねくれ者で、どんな弁解があろうが、榎本武揚のように体制に阿って出世する人間は大嫌いです。

 批評の神様にまで崇め奉られた小林秀雄も、以前書いた通り(2016年7月19日「戦争について」)、戦中は戦意高揚の宣撫活動を得意として多くの読者を獲得し、戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直って、さらに多くの読者を獲得したことについて、若い頃は喝采していましたが、今は何てゲスい人だったんだろうと思うようになりました。

 それより、戦中、軍部当局によって出版停止を命じられて、細々と食いつないで名作「細雪」を書き続けた谷崎潤一郎の方が遥かに、はるかに偉い。尊敬に値すると思います。

 もう一人、戦時中、同級生だった人物が威張り散らす姿を見て、最後まで当局に抵抗し続けた永井荷風散人も、心の底から尊敬しています。

 戦後は、それでも二人とも、芸術家として最大の栄誉である文化勲章を受章しているんですからね。授与した日本の国家も凄いもんです。

 永井荷風も愛読した成島柳北は、自著「墨上隠士伝」でこう書きます。

 「われ歴世鴻恩(こうおん)をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地閒無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」

 太田治子さんは「『天地間無用の人』 すさまじい言葉だと思う。他人に言われたら激怒するのが当然である。しかし自分からそう言ってしまったとしたら、何と気が楽になることか」と書いています。

 私は、この文章を読んで、成島柳北に大変好感を持ちました。

 あれ、前置きが長すぎて、太田さんの「二葉亭四迷」のことを書く紙数が尽きてしまいました(苦笑)。

 次回また。

ウッドストックでは行われなかった!

Tokyoit

今、電車の中で、スマホで、うろ覚えで書いてますので、多くの記憶違いがあるかもしれませんが、その場合、後からドシドシ訂正、修正、改訂して直していくつもりです(笑)。

私の人生で最も輝かしい黄金時代の年を一つだけ挙げろ、と言われれば。そんなこと、後にも先にも誰にも聞かれませんが、私は躊躇なく、1969年を挙げます。

今、年表がないので詳しくは分かりませんが、この年は、東大安田講堂事件の年であり、米アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した年でもあります。(そんなことなかった、と為五郎さんは主張してましたが…)

また、私のフリークであるビートルズが最期のレコーディング・アルバム「アビイ・ロード」を発表した年です。(LPは擦切れるほど聴きました)

そして、何と言っても音楽史上に残るウッドストック・フェスティバルが開催された年でもあるからです。

このフェスティバルは映画化されて、私もその後、テレビか弐番館か、何処で見たか忘れましたが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらの動く姿を初めて見て感動したものです。

ということで、最近、このウッドストックの「ディレクターズ・カット 25周年エディッション」の4枚組のDVDを、とうとうネット通販で買ってしまい、毎日少しずつ見ているのです。

25周年エディッションというと、1994年で今から22年も昔になります。当時、この4枚組DVDは、1万5000円ぐらいしましたが、今ネット通販では、その4分の1以下で買えましたので、知らぬ間に欲望がクリックしていたのです。おかげで、ネット通販の「ダイヤモンド会員」になりましたよ(笑)。

さて、このウッドストック・フェスティバルですが、私は知っているつもりでしたが、このDVDを見て、何も知らなかったことが分かりました。最初の2枚は、ワーナーが製作公開した映画をDVD化したものです。私がテレビか弐番館で見たやつです。当時としては破格の4時間ぐらいの映画でした。ザ・フーの「サマータイム・ブルース」なんか、この映画に触発されて、シングル盤(400円)を買ったと思います。

3枚目は、映画で公開できなかったグループの演奏などが収録されていました。当時、私の大好きだったクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)がしっかり出演して「ボーン・オン・ザ・バイヨー」なんかやっていたんですね。映画ではカットされていて、出演していたこと自体知りませんでした。(このほか、ブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&T=なども出演したらしいですか、このDVDにさえ収録されていませんでした)

そして、最後の4枚目が「メイキング」映像で、スタッフや出演者の証言集です。これが見ものでした。

◇ウッドストックの名前が欲しかった?

まず最初に、明確にしなければならないことは、歴史的事実として、約40万人もの大観衆を集めたといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、ニューヨーク市郊外のウッドストックで行われていなかったということです。(二転三転して、最後は49歳の酪農家マックス・ヤスガーのベッセルにある牧場で開催されます。ヤスガーは、周囲の反対を押し切って主催者に土地を貸したため、フェスティバル後は、村八分に遭い、やむを得ずその土地を売却し、その僅か4年後の53歳でフロリダ州で急死します)

私には、ニューヨーカーどころか米国人の友達がいないので分かりませんが、ウッドストックといえば、ニューヨーカーにとっては特別な響を持つようです。お金持ちの別荘がある避暑地であり、各国から画家や詩人らが集まる芸術村として。

日本で言えば、軽井沢か、清里(GHQのポール・ラッシュが開発)か、那須辺りだと言えば分かりやすいかもしれません。

しかも、ウッドストックは、池袋モンパルナスのような芸術村です。ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスらの別荘があり、画家の国吉康雄らも住んでいたとか。

さらに言えば、ウッドストックは、既に19世紀から開発されていた由緒ある避暑地で、ニューヨーカーなら誰でも知っているのでしょう。だから、主催者は会場がベッセルに変更されても、最後までウッドストックの知名度にこだわったのです。

「無言館」の館長でもある窪島誠一郎さんの最新著作にも、このウッドストック芸術村が出てきます。戦前に活躍した日系二世の画家の話で、彼は、米国共産党に入党し、諜報活動もしたと言われます。

彼の経歴は、まるで米国共産党から日本に派遣されゾルゲ諜報団で活動した沖縄出身の日系人宮城与徳と同じではないですか!

このウッドストック芸術村には、1929年の恐慌によって、街中に失業者が溢れる不景気の30年代、平等社会を目指すと言われた理想的なユートピアの共産主義思想にかぶれた芸術家もたむろしていたわけです。(実際は、粛清の嵐だったのですが)

◇伝説になったウッドストック

そもそも、主催者代表で総合プロモーターのマイケル・ラングは当時25歳の青年で、フェスティバルの収益でウッドストックにレコーディング・スタジオをつくるつもりで、はじめたらしいのです。

1969年当時、第二次大戦直後のベビーブーマーが20歳前後の青春真っ盛りで、ベトナム反戦運動やヒッピー文化やフラワームーブメントが頂点に達していました。

結局、世の中は変わることはありませんでしたが、「ラブ&ピース」を主張する若者たちの異様な熱気が伝説として残り、その後の社会や文化に影響を与え続けました。まさに、60年代の総決算に相応しい年でした。

「崩壊 朝日新聞」

駅前客待軽便乗合 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 昨日は、この渓流斎ブログを書いて、校閲して、編集して、出版じゃなかった、オンラインベースに載せるのに3時間も4時間もかかってしまい、我ながら、アニヤッテンノカと思ってしまいました。

 10月から手取り時給わずか◯00円、しかもボーナスなしという日本国家の最低賃金を下回る信じられない仕事になりますから、時間は大切にしなければなりませんね。

 あちらこちらロシア風 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 長谷川熙著「崩壊 朝日新聞」を読了しました。

 著者は、朝日新聞社に1961年に入社し、2014年の週刊誌「アエラ」記者を最後に、この本を書くために退社した人です。53年間、朝日新聞に関わって、禄を食んでこられながら、どうしてこういう批判本を出版したのか、「あとがき」を読んでほしい、と「まえがき」に書いてあったので、「あとがき」を読んでみましたが、それでもあんまり要領を得ませんでした。

 読者としては、少しはぐらかされたような感じでしたが、「なあんだ。極上の愛社精神からこの本を書いたのか」と最後まで読んで、やっと、見破ることができました。

 あちらこちらロシア風 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 私は、昭和史のゾルゲ事件にほんの少し関心がありますので、この本の第2部第2章「尾崎秀実の支那撃滅論の目的」を楽しみにして読みました。風間道太郎の「尾崎秀実伝」を引用して、「尾崎は、アグネス・スメドレーと半ば同棲していた」と断定的に書かれていたので、それはどうかな、と疑問視する点もありましたが、概ね著者の言いたいことは分かりました。。

尾崎は、「中央公論」昭和13年6月号に「長期戦下の諸問題」というタイトルで、前年に勃発した支那事変(日中戦争)について、「今後日本の進むべき道は結局勝つために、まっしぐらに進む以外はないであろう」と主張したことから、著者は、尾崎は和平への打開策を建言するのではなく、中華民国の国民党政府を徹底撃滅するまで戦争を続けよと猛烈な檄を飛ばしている、と結論づけます。

つまり、尾崎秀実は、あくまでも、ソ連を守って強大化し、中華民国の共産党勢力を増大させ、ついでに日本も世界共産主義革命に巻き込もうとしたのではないか、というのです。

そして、最後の第3部「方向感覚喪失の百年」の中の、特に第1章「歴史を読み誤り続けて」は、朝日の報道の歴史を振り返って、ソ連スターリンに阿る報道や、中国共産党に阿って文革を礼賛し、林彪事件をまともに取り上げなかった報道姿勢に対する熾烈な批判を展開されていましたが、それは見事に的を射ており素晴らしかったと思います。

ステファヌ・クルトワら著「共産主義黒書」を引用して、毛沢東率いる中国共産党政権は人民6500万人を虐殺した、と書いておりました。

えっ?6500万人ですか?何かの間違いではないでしょうか?外国との戦争ではなく、国内政権樹立のためだけに、これだけの人民を殺戮するとは…

あちこちにロシア風  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 ◇浅田次郎「天切り松 闇がたり」

 浅田次郎「天切り松 闇がたり」の中で、明治の元勲で帝国陸軍軍閥の祖のような山縣有朋元帥は、悪代官か悪の大権現の代名詞のような存在として描かれておりました。(最後は、振り袖のおこんを逃してやりますが)

このように、山懸有朋は、後世の作家らには大変評判が悪く、「多くの妾を囲っていた」だの「全国に別荘を建てまくった(東京・椿山荘、京都・無鄰菴など)」などと、あくなき権力を私腹を肥やすことしか目がなかった最悪の男として描かれることが多いようです。

 それが、この長谷川熙「崩壊 朝日新聞」によりますと、この元老山縣有朋は、1915年(大正4年)に大隈重信首相、加藤高明外相が中心になって、歴史的にも有名な「対華21カ条の要求」を中華民国の袁世凱政権につきつけたことに対して、敢然と反対したというのです。

 これについて、1915年5月6日付の東京朝日新聞は社説で、「孰れにしても元老会議は全然無用なり」などと、元老山縣を無視して、対支那侵略戦争を支持、もしくは助長したというのです。

 山縣有朋はあまりにも毀誉褒貶が多い人物なので、知りませんでしたね。あの山懸だけが、歴史的にも悪名高い「対華21カ条」を先見の明で反対していたとは!これは私も不明を恥じます。

忘れた頃にやってくる

横浜・ニュースパーク

業界の為五郎さんが大喜びする話ですが、またまた図書館に予約していた本が3冊も、一時に、ドサッときてしまいました。

最近予約したものもあれば、もう半年以上前に予約してすっかり忘れたものもあります。

為五郎さんの笑い顔が頭に浮かびます。

この3冊の前に借りていた、日本ではマルクス主義研究の最大の名著と言われる宇野弘蔵編「資本論研究」(筑摩書房)は、結局諦めました。挫折です。10ページほど読みましたが、ついていけませんでした(苦笑)。字面ばかり追っているだけでした。日本語だから読めますが、臓腑にポトリと落ちてきませんでした。

そもそも、途中から共産主義思想、マルクス主義思想に懐疑的になりました。マルクス自身は、純粋に経済を理論的に研究分析したのですが、それが、暴力革命のイデオロギーに引用され、権力を握った者たちによって都合の良いように拡大解釈されたからです。歴史が証明しています。

マルクス自身は悪くないのですが、理論武装の武器として使う人間がおり、ということは、マルクス思想自体が、独裁者らに利用されやすい側面を持っているのではないかと懐疑的になったわけです。

「何を今さら、子ども地味た戯言を言ってるのだ!」という話になるでしょうが、あの難解さには、インテリ好みの作為と装置があることを私は見抜きました。

「君たちはまだ理解できていない。ステージに達していない」と、恥知らずなオウムの連中がよく口癖のように言っていた手口を思い出しました。

私は、インテリではないので、「資本論」はドイツ語で読むことにしますか(爆笑)。

ところで、渓流斎ブログは、何度も書き直したり、書き足したりしてます。最初と比べて結論が正反対になることがあるので、あとで古い記事を読み直しますと吃驚しますよ(笑)。

節操がありませんねえ。

「闇の男」

日本一の時事新報

◇コメント深謝

どなた様か、サッパリ存じ上げませんが、長いコメント有り難う御座いました。

バッサリと世相を斬られるところから、嘸かし、慧眼の持ち主と拝察申し上げます。

◇「闇の男 野坂参三の百年」

先日、伊藤淳著「父・伊藤律 ある家族の『戦後』」を読了してから、気になった本があり、ずっと喉奥に引っかかっておりました。

小林峻一・加藤昭共著「闇の男 野坂参三の百年」(文藝春秋)という本です。以前から「読みたい」「読まなければ話にならない」と痛感してはいたのですが、何しろ初版が1993年ですから、絶版になっていて、なかなか手に入らない。

今回はどうしても手に入れたいと熱望し、あるルートを通じて読破することができました。

もう、20年以上も昔の話ですから、「何を今さら」といった話ばかりです。当時は、週刊誌に連載され、世間にメガトン級の大反響を呼び、日本共産党の名誉議長だった野坂参三の解任と、ついには除籍という最も重い処分が下されました。当時の野坂は、100歳という超高齢もあり、本当に世間をあっと言わせた大事件でした。

とはいえ、当時の私は、それ程興味もなく、薄っぺらい事実関係を淡々と追って、底知れぬ恐ろしさを他人事のように感じていただけでした。

それが、今回、伊藤淳氏の「父・伊藤律」を読み、恐らく、伊藤律を北京に売って27年間もの長い間、幽閉させた張本人が野坂参三だったらしいことが書かれていたことから、必要に迫られて「闇の男」を読んだわけです。何しろ、「死人に口なし」のはずだったのに、「伊藤律生存」を知って腰を抜かすほど驚いた野坂が、慌てふためいて伊藤淳氏のアパートに黒塗りの車で駆けつけたぐらいでしたからね。

この本を読んで非常に納得しました。

1991年にソ連邦が崩壊し、極秘文書が一時的に公開された隙を掴んで、ジャーナリストの加藤昭氏らがスッパ抜いた歴史的大作業と言っても大袈裟ではないでしょう。

何しろ、歴史を塗り替えてしまったのですから。私は、日本共産党の大幹部で、モスクワ在住プロフィンテルン日本代表の山本懸蔵が何故、野坂の密告で粛清処刑されたのか、分からなかったのですが、この本を読んで初めて分かりました。今さらながら、人間的なあまりにも人間的な話だったんですね。

山本懸蔵が野坂の妻竜(りょう)と関係を持ったことから、コキュ野坂は、個人的怨恨から山本のスパイ容疑をでっち上げて、コミンテルン執行委員会のディミトロフ書記長に密告の書簡を送っていたのです。情報公開によって隠せぬ証拠が見つかり、野坂の除名に繋がるわけですが、自分だけ常に陽の当たる所を歩き続け、100歳の長寿を全うしたのですから、殺された多くの同志たちは怨み骨髄で、あの世から告発したに違いありません。

同書の解説によると、野坂は、ソ連のNKVD(のちのKGB)と日本の官憲と米国の情報機関(のちのCIA)と中国共産党等の五重スパイだったのではないか、という説がありこれも納得しました。
何故なら、殆どの日共幹部が密告によって逮捕か処刑されているのに、偶然にも岡野進(野坂の変名)ただ一人だけが無傷で助かっていたという事実があるからです。

それにしても、一説では、スターリンは何と3000万人もの人間を大粛清したと言われます。

3000万人ですよ!

ナチス・ヒトラーの暴虐については、繰り返し繰り返し弾劾されることは当然ですが、何で、日本の学校では、この独裁者スターリンの常軌を逸した暴虐については歴史として教えないのでしょうか?

ソ連は戦勝国だから?北方四島返還に差し障りがあるから?

この本を読んで、無実なのに碌な裁判にも掛けられず、強制的な自白のみで銃殺された多くの魂の叫び声が聞こえてきそうでした。処刑されなくても、山本懸蔵の妻関マツのように、「日本に帰りたい、帰りたい」と切望したのにも関わらず、最後は一人寂しくモスクワの精神病院で亡くなる悲劇は、涙なしには読めませんでした。

もっとも、加藤哲郎一橋大学名誉教授によりますと、山本懸蔵も、国崎定洞(元帝大医学部助教授、ドイツ共産党員)ら何人ものモスクワ在住の日本人を密告し、粛清処刑に追い込んでいたことが、その後判明します。

野坂も逆に山本から密告される寸前だったといわれます。誰も信用できない、殺るか殺られるかの密告社会だったということになります。

※加藤哲郎氏のサイトは、
http://members.jcom.home.ne.jp/tekato/Moscow.html

伊藤淳著「父・伊藤律 ある家族の『戦後』」

繁華街に人また人 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 何か、パソコンで苦戦しまして、2時間以上も時間を無駄にしてしまいました。せっかく、歌舞伎座にでも行こうかと思いましたが、時間がなくなりました。ったく。

 私自身、そうパソコン技術に詳しくないのが難点です。マウスの調子が悪くて、ポインターが少しも動きません。電池を入れ替えたりして、いろいろやっても動かなく、しばらく、ほおっておいたら直りました。どうなっているのやら?

 あと、昔、登録していた外資系航空会社からのメールがうるさいので、登録抹消しようかと思いましたら、PIN番号とやらを最初から設定し直さなくてはならず、その後も「登録情報」を変更するとなると、「ワンタイムパスワード」の入力が必要とかで、その有効期限がありまして、やっと向こうから送られてきた「ワンタイムパスワード」が使える時間が、あと10秒しかない!というこの客を大馬鹿にしたような離れ業を強いられたのです。

 普通はできるわけありませんが、3回目でやっと登録完了しました。これで、客を馬鹿にするうるさいメールはもう来ないでしょう。

 機械が相手なので、誰にも文句言えません。何が人工知能だ!?これから、ますます酷い世の中になっていくのではないでしょうか?

 食い物屋も沢山 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 7日16日に参加した出版シンポジウム(お茶の水・明治大学)で購入した伊藤淳著「父・伊藤律 ある家族の『戦後』」(講談社)をやっと読了しました。

 著者の伊藤淳氏には何度かお会いしたといいますか、お目にかかったことはありますが、とても口数が少ない方で、何となく、人見知りをされているような感じで、恐らく、再び、小生がお声を掛けても「あんた誰?」と言われてしまうのが関の山なので、シンポではご挨拶しませんでした。
 が、この本を読んで、彼の長年の70年の半生で「伊藤律の息子」として経験した重みやら、つらさやら、違和感やら、うんざり感やら、誇りやら、運命やらを正直に過不足なく表現されていたので、彼がどんな思いをしてきたのか、初めて分かったような気がしました。

 果物やもあります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう既に歴史上の人物となった伊藤律について、知っているか、興味がある方は、もうかなり少数ではないかと思います。
 
 しかし、彼が亡くなる25年ぐらい前まではかなりの有名人でした。

 伊藤律とは何者か?

 最初は、著者が「はじめに」にも書いている通り、「ゾルゲと尾崎秀実らゾルゲ事件の関係者逮捕の端緒をつくった裏切者」(特高警察)、「生きているユダ」(尾崎秀樹)、「革命を売る男」(松本清張)、そして、「権力のスパイ」(日本共産党)というレッテルを貼られていました。

 それが、27年もの長い間、北京に幽閉され、文革時代は生命の危険にさらされた伊藤律が1981年に帰国すると、これらの偽りのレッテルが次々と剥がされて、彼の身の潔白は、徐々に証明されていきます。これは全て、公安当局や川合貞吉や、GHQや、そして何よりも、野坂参三らの陰謀と裏切りとその尻馬に乗った文豪松本清張や日本ペンクラブ会長まで務めた尾崎秀樹らの過誤だったことが明らかになっていきます。

 問題が複雑だったのは、伊藤淳氏とその母親で、伊藤律の妻だったキミ氏が党員だったせいかもしれません。本来の思想は、弱者に優しく、格差をなくし、皆で協力し合って平等な社会を築き上げていくということだったはずなのに、組織となるとどうしても格差ができ、平等ではなくなるというのが宿命なのかもしれません。

 私がこの本を読んで、「ハイライト」だと思ったのは、「伊藤律、北京生存」のニュースが家族のもとに伝わり、彼の帰国について、伊藤律の妻キミが「どうしたものか」考えあぐねた末に、最初に中国大使館に行って、手続きを進めたことでした。これが、決定的に伊藤家のその後の運命を左右します。著者とその母親は、中国大使館を訪れた後に、東京・代々木の日本共産党本部に行きます。そこで、野坂参三議長(当時、以下略)との面会を望んだところ、「会議中」を理由に断られます。

 そこで、用件を伝えて帰宅すると、その夜に、何と、野坂議長本人と戎谷春松(えびすだに・はるまつ)副委員長と秘書が、黒塗りの高級車に乗って、伊藤淳氏のアパートにすっ飛んできて、伊藤律の妻キミに「キミ同志はなぜ律と離婚しなかったのか」「なぜ党に事前の相談もなく、中国大使館と連絡を取ったのか。これは党に対する裏切り行為であり許されない」と詰問するのです。

 これは、後に、実は、裏切者は、伊藤律ではなく、野坂参三本人だったことが歴史的に証明されているので、漫画のようなシニカルな笑いが漏れる場面です。
野坂は、北京に売ったはずの伊藤律が27年間も幽閉されて、まさか、生きているとは思わなかったので、慌てて、証拠の握り潰しを図ったというわけなのです。野坂の驚愕が目に浮かぶようです。「死人に口なし」というわけにはいかなかったのです。

 野坂は、ソ連にいた同志の山本懸蔵らも密告して、スターリンの大粛清の犠牲にするなど、野坂こそが仲間を売る裏切者だったという公文書が次々と発見され、100歳の時に共産党名誉議長を解任、党も除名されます。

 まあ、こういう話はあまり、聞いていて気分がいいものではありませんよね。こんなことがあるから、日本国民の信用もイデオロギーに対する信頼も消滅してしまうのです。

 いくら主義主張や思想信条が高邁でも、組織こそが階級を産み、同時に組織内の階級闘争を産むため、出世や権力保持のために、平気で仲間を裏切ったり、売ったりする権力志向の人間が必ず現れるという証明でしょう。右翼も左翼も関係ありません。政治の世界だけでなく、会社組織でも同じです。

別に綺麗事を並べているわけではありません。これは、人間の性(さが)であり、組織や集団というものが持つ根本的な体質で、未来永劫なくならないということです。

これは、自分の人生体験で得た信念です。

私も、食うために仕方なく団体や会社組織に所属しましたが、そりゃあ多くの人間のイ汚い面を見てきたものですよ。