予定調和 

 公開日時: 2007年9月24日 @ 11:10

第22代自民党総裁に副田さんが阿相さんを破って当選しましたね。「予定調和」でした。25日に史上初の親子二代の総理大臣(第91代)が誕生します。これも予定調和です。

予定調和といえば、大相撲秋場所で、一人横綱の白鵬が優勝しました。これも実力かもしれませんが、どこか「演出」の臭いも感じます。こういうことを書くと、必ずクレームがつくのですが、14日目に新大関・琴光喜が千代大海をはたきこみで破ったのは、この日、皇太子ご一家が、観戦されていて、特に、愛子さまが、琴光喜の大ファンだったことから、何らかの配慮があったのではないかと愚察します。あんな元気よかった千代大海が、手加減しているようにみえました。

全く、根拠も証拠もない単なる感想なのですが、今、読んでいる宮崎学著「近代ヤクザ肯定論」(筑摩書房)には、暴力団がいかに、相撲やプロレスや芸能などの興行、巡業公演に食い込んでいて、「公然の秘密」として、「演出」が行われていたことをあからさまに叙述しております。

そのせいで、こんな感想を持ったのでしょう。反論・賛同いずれも申し受け致します。

永井隆著「一身上の都合」

 公開日時: 2007年8月24日

「一身上の都合」という本を出した作家の永井隆さんが、NHKのラジオに出演していました。この本は、「一身上の都合」で会社を辞めたサラリーマン・ウーマン8人にインタビューしたものです。「人生の岐路」に立たされた時、人間はどういう行動を取るかー。窮極の選択をした彼らの人生を同情と賛同の目で見つめたものです。

永井さんは、15年前に休刊した「東京タイムズ」の記者でした。急に、職を失った永井さんは、結局、フリーのライターの道を選びますが、「一身上の都合」もそんな「一時は路頭をさ迷った」自分自身の体験とだぶらせているようです。

彼は言います。
「人生に勝ち、負けはない」

そして、「たとえ、負けたとしても、それで終わりではない」

この言葉に私は随分、勇気づけられました。

ところが、永井さんをよく知る調布先生は「彼はなかなか、したたかですよ」とおっしゃるではありませんか。

私の嫌いな「したたか」がまた出てきました。

私は「うーん」と、腕を抱えて考えてしまいました。

「ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く」

 知床

公開日時: 2007年8月22日 

今読んでいる「ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く」(光文社)は本当に苦労しています。ちょっと、読みさした隙に、名前と地名の区別さえつかず、わけが分からなくてしまうのです(笑)。コルジャコフ、ドゥーダエフ、ステパーシン、イングーシ、グローズヌイ、ゴシュホヴォ…これらの固有名詞を見て、すぐ分かる人はなかなかのロシア通です。

 

この本の共著者は、あのロンドンで亡命中に毒殺された元ロシア諜報員のリトビネンコ氏です。「この本を書いたために、リトビネンコは毒殺された!」と帯に刺激的な惹句があるくらいです。

 

私は、学生時代にドストエフスキーの小説と格闘して、読了した時の感動と感激と達成感は何物にも変えがたいものがありましたが、この本を読破すれば、あの懐かしい感動が蘇ってくることでしょう。

 

しかし、これは単なる小説やお話ではなくて、プーチン政権の闇の部分ともいうべき大変大変恐ろしい実態が暴かれており、本当に人の生命が関わっているのです。(ドストエフスキー自身も生命の危機に晒されましたが)

よく、ここまで調べ上げて書いたものだと感心します。

 

折りしも、昨日から毎日新聞で、「プーチンのロシア」の連載が始まっています。自分の出身であるKGBや故郷のサンクトペテルブルクの人脈を政権中枢や政府系企業に送り込んで、恐怖政治で独裁体制を樹立している様が描かれています。セチン大統領府副長官は46歳、ポスト・プーチンと言われるメドベージェフ第一副首相が41歳、イワノフ第一副首相が54歳…。それにしても、みんな何とも若い!何しろ、プーチンでさえ、54歳の若さですからね。

 

しかし、それもそのはずです。ロシア人の現在の平均寿命が男性で58・6歳だったのです!(女性は73歳)1990年では、男性は63・4歳だったというのですから、異様な数字です。現代ロシアはどうしてしまったのでしょうか?

ストレスによる酒や煙草、麻薬の過度の摂取による、ガンや心筋梗塞、脳卒中、結核などが死因の上位を占めているということです。

国家からだけではなく、絶えず、周囲に監視される「秘密警察国家」は、庶民にとって、住みやすいわけがありません。

 

今の日本はまだましです。いや、今の日本はこうして物が言えるのですから、本当に素晴らしい国です。

加藤廣著「明智佐馬助の恋」

 勝毎花火

公開日時: 2007年8月9日

加藤廣著「明智佐馬助の恋」を読了し、これで、やっと加藤氏の「信長の棺」「秀吉の枷」上下と合わせて「本能寺三部作」を読み終えることができました。

 

最初に織田信長がきて、続いて豊臣秀吉、それなら3部作の最後は徳川家康かな、と思ったら、最後は、明智光秀の娘婿が主人公だったです。おめでたい私は、何故明智なのか、最初分からなかったのですが、著者の加藤氏は「明智左馬助の恋」の後書きで、種明かしをしています。

 

同じ主題(ここでは「本能寺の変」)を3つの角度から複合的に捉えて、その立体像を明らかにして歴史的真相に迫る。これは、黒沢明監督の映画「羅生門」(原作は芥川龍之介「藪の中」)と井上靖の「猟銃」から手法を学んだということを書いています。東京空襲を経験した著者は、3点からサーチライトを照らして敵機を捕らえて撃墜していたことを見た経験を語っています。著者曰く「三次元自動焦点」方式です。

 

本能寺の変という歴史的ミステリーは、信長の遺体が忽然と消え、遥か彼方の中国地方で毛利軍と対峙していたはずの秀吉が、他の武将よりも逸早く情報をキャッチして、「中国大返し」と呼ばれるアクロバチックな帰還で、光秀を山崎の合戦で打ち破って、天下を取ってしまうのです。それはどうしてなのか、なぜそんなことができたのか、というものでした。

この3部作を読んでいない人は、この先、読むとつまらなくなるのでやめておいた方がいいと思いますが、加藤さんは、信長暗殺を、秀吉「主犯」、光秀「未遂犯」説を採っています。

いやあ、面白かったですよ。著者の執筆の基本姿勢は「勝者に悲哀を、敗者に美学を」ということですから、今、逆境にいる人が読んだら、随分、救われると思います。

特に、私がこの中で一番面白かったのは、「秀吉の枷」の上巻ですね。秀吉の諜報活動が事細かく分析されていますが、まさに情報は力なり、情報収集能力の差で天下を取った証左をまざまざと見せ付けてくれます。

昨日の答え

1、ハンブルパイ

2、ブラックサバス

3、マウンテン

4、アニマルズ

5、新聞広告

魚住昭著「官僚とジャーナリズム」

 勝毎花火

公開日時: 2007年8月5日

魚住昭氏の「官僚とメディア」(角川書店)には、色々と、マスコミ界の裏というか恥部が白日の下に晒されています。特に、魚住氏の出身である共同通信社のスキャンダルが暴かれています。とても面白い素晴らしい本なのですが、最初に悪口を書いてしまうと、共同通信という「日本最大のマスコミ」(地方新聞の部数を総計すると2000万部を超えるので、世界一なのかもしれません。あ、人民日報とかありましたね。)は、本当にいい会社なんですね。(皮肉をこめて言っているのですが…。)東京の社会部だけで、100人も人材を擁し、半年ぐらい何も原稿を書かずに、映画を見たり、パチンコをしたりしてサボタージュしてもビクともしない。

 

敏腕スクープ記者の魚住氏が共同を辞めることができたのも、奥方様が同じ共同の記者で、将来やお金のことで全く心配がなかったからできたのではないでしょうか。また、共同のような大きな会社では、加盟紙から、何か(例えばオリンピックとか)があれば「分担金」と称して、お金を徴収すればいいので、金銭的に全く苦労は知りません。(部数減に悩む地方紙の営業の人がどんなに苦労して広告を集めているのかも知る由もありません)だから、共同の人は、支局長になっても、営業することがないので、いつまでも「ジャーナリズム」とかいう青臭い書生論議が未来永劫できるのです。そりゃあ、「ジャーナリズム」を標榜して会社を辞める人は誰でも格好いいですよね。

 

ちょっと皮肉を書いてしまいましたが、そのことで、この本の評価を貶めることは全くありません。本心から言って、これは本当に素晴らしい本です。2006年1月に、安倍晋三首相の地元下関でのスキャンダル記事をボツにしたのは、当時「平壌支局開設」問題を抱えていた共同通信首脳が、政府の横槍を防ぐために、もみ消したということは、よくぞ、ここまで書いてくれた、と思いました。

 

リクルート事件当時、共同通信加盟の東京タイムズの徳間康快社長が、リクルートコスモス株を譲渡されていたことが分かり、魚住氏が記事にしようとしたら、上層部からストップをかけられます。「本人のコメントを取るまで配信できない」というのが幹部の説明でした。徳間社長は雲隠れします。その後、ほとぼりが醒めた頃、徳間社長は、社会部ではなく、文化部記者の懇談会の席上「実は、共同通信の幹部から『取材さえ受けなければ記事は出ないから逃げておけ』と言われた」と告白した、というのです。魚住氏は、そこまで書いています。

 

電通のことも書いています。東京・東新橋に「全国地方新聞社連合」なるものを作って、広告と記事を一体化して、「広告」と明記しない「偽装記事」を製作するのがこの組織の主目的だと書いています。一番いい例が、裁判員制度のキャンペーンです。06年1月に、タウンミーティングのサクラ事件が発覚しましたが、この事件の背後には、最高裁と電通と共同通信と全国地方紙が「四位一体」で密かに進めていた大規模な世論誘導プロジェクトがあったことを暴いています。裁判員制度導入のために、総額27億円(05年度と06年度総計、つまり国民の税金です)もの広報予算が不透明な経過で支出されていたことも明らかにしています。

 

調布先生がこんなことを言っていました。「ジャーナリズムには、黒も白もない。皆、ブラックなんだよ。ジャーナリズムなんて、暴力装置みたいなもんなんだから。要するに宣撫活動なんだよ。宣撫。分かる?所詮、ジャーナリズムなんて宣撫活動なんだよ」

実に名言だと思います!

そうです。この本で一番面白かったのは、以下の話です。

魚住氏が陸軍の作戦課の元参謀たちに「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」と聞きまわったら、ある元参謀がこう答えたというのです。

「あなた方は我々の戦争責任を言うけど、新聞の責任はどうなんだ。あのとき、新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかった。我々だって新聞にたたかれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」

「反転」を書いた元検事、弁護士の田中森一氏も、自分が扱った事件が翌日の新聞の一面を飾ると「今、日本の国家を動かしているのは、この俺なんだと錯覚していた」というようなことを書いていました。

しかし、書いている記者たちはそこまでの意識はないか、少ないでしょうね。一番、無責任なのは、そういう無自覚なマスコミの人間なのかもしれません。

田中森一著「反転」のつづき

(つづき)

公開日時: 2007年7月24日 

 それにしても、宅見若頭にしろ、許永中氏にしろ、世間ではヤクザと呼ばれる人たちが、田中氏にかかると、こうも義理人情に堅く、人間的魅力に溢れてしまうとは驚きでした。

 「バブル紳士」と呼ばれた人たちも本当に個性的でした。悪徳地上げ屋として悪名を轟かせた不動産業「末野興産」社長の末野謙一氏は、小学校もろくに出ていなくて、ダンプカーの運転手から成り上がったと書かれています。異様な吝嗇で、バブル崩壊の時に貯金が2000億円もあったといいます。彼が派手にお金を使ったのは、ピンキーこと今陽子に約7000万円のマンションをプレゼントしたぐらいだと、田中氏は書いています。

 田中氏が一番印象に残ったバブル紳士は、前述した5えんやグループの中岡信栄社長で、人に金をあげるのが趣味みたいな人間だったようです。新聞記者には20万円、田中氏のような弁護士には100万円も会うごとに渡していたといいます。田中氏は、一日に三回ぐらい会うので、一日300万円くらいもらっていたようです。竹下氏や安倍氏のような大物政治家には桁外れのお金だったといいます。

 

 こういう噂を聞きつけて、芸能人ら有名人も群れをなして「たかり」に来たそうで、京唄子や横山ノックが、一度に300万円から500万円、多いときには1千万円もらっていたと明記されています。ホテルのボーイも一回5万円ももらえるので、用もないのに、何度も部屋に来たそうです。

 

「5えんや」というのは中岡社長が裸一貫から、1本5円の焼き鳥屋から始めて、バブル期にはホテルや、ゴルフ場、ノンバンク経営まで手を広げて一代で巨万の富を築いたといわれます。しかし、その元をたどれば、北海道拓殖銀行系のノンバンクからの借り入れでした。結局、グループはバブル崩壊後の1993年に倒産し、3000億円が焦げ付き、これが拓銀の破綻につながるわけです。

 

 他人に対して数百億円もの大金を気前良く配った中岡氏は、結局「拓銀をつぶした男」として歴史に名前を残すのです。

田中森一著「反転」

  奈良にて

公開日時: 2007年7月24日

 元敏腕検事で、弁護士に転じてからは闇社会の人間に通じて悪名を轟かせた田中森一氏の書いた「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」(幻冬舎)には、圧倒されました。幻冬舎らしく、新聞で恥ずかしくなるくらい派手な広告を打っていたので、ちょっと、引いてしまったのですが、読んでよかったです。

 その内容は、あまりにも凄まじくて、脳天にハンマーを降ろされたような衝撃を受けました。これから、裁判員制度が始まることですし、国民の一人として、この本を読むことには意義があると思います。

 私は、この本を読んだ後の感想は、鉱脈を探り当てたような感じでした。「やったあー」という感じです。

第一、「ここまで書いても大丈夫なのだろうか」と、心配になりました。 もっとも、田中氏自身は、石橋産業事件をめぐる詐欺容疑で東京地検に逮捕、起訴されて、現在最高裁に上告中の身なのです。つまり、被告人なわけです。この本では、自分の無実と潔白を主張する弁明が盛り込まれていますので、全面的に信用できないかもしれません。しかし、ここまで裏も表も洗いざらい、自分の非も含めて、白日の下にさらした自叙伝というのはこれまでなかったのではないでしょうか。

 彼に貼られたレッテルは「ヤメ検の悪徳弁護士」でした。何しろ、彼が関わった「黒い人脈」も、暴力団山口組5代目組長の渡辺芳則氏、同若頭の宅見勝氏をはじめ、イトマン事件で主役を張った伊藤寿永光、許永中の両氏、仕手筋「コスモポリタン」総帥の池田保次氏…といった裏社会の大物ばかりなのです。また、彼は自民党清和会(現町村派)の顧問弁護士も務め、現総理の父親である安倍晋太郎氏や竹下登氏ら政界の重鎮と深いつながりを持ったのです。安倍氏は、いろんな所から接待を受けたり、「五えんやグループ」の総帥、中岡信栄氏が定宿にしていた東京のホテル・オークラのスイートルームで、牛乳風呂に入ることが大好きだったことなども暴露されています。

 田中氏は戦時中に、長崎県平戸の貧しい漁村の長男として生まれました。8人きょうだいの4番目です。上の三人は姉で、最初の男の子ということで、父親は漁業の跡継ぎとして大いに期待します。もちろん、「猟師に学問なんかいらない」という考えの持ち主です。一度、田中氏は中学生の時に、出版社をだまくらかして参考書を手に入れます。お金が全くない極貧の家庭に育ったので、「平戸の中学教師ですが、参考のために一冊見本を送ってください」と東京の出版社に手紙を書いて、うまく手に入れたのです。しかし、その参考書も父親に見つかって、便所に捨てられてしまうのです。

 それでも、母親の後押しもあり、苦学して定時制高校から岡山大学に進学し、在学中に司法試験に一発で合格します。見事、検事となり、撚糸工連事件や平和相互銀行事件、三菱重工CB事件などを手掛けて、敏腕検事の名をほしいままにした後、弁護士に転進します。時はあたかもバブル全盛の時代に入り、1カ月に1千万円以上の顧問料を得て、7億円でヘリコプターまで購入し、「空飛ぶ弁護士」と、やっかみ半分で渾名されます。怪しげなバブル紳士と付き合い、個人的な株取引で40億円もの巨万の富を手にし、東京の銀座や大阪キタの新地などで桁違いの豪遊をする一方、バブル崩壊でほぼ同額の財産を無くしてしまうのです。

 その間、暴力団関係者の弁護で名をあげて評判を呼び、挙句の果ては、古巣の検察からにらまれ、田中氏からみれば、根も葉もない詐欺の容疑をでっち上げられて、逮捕されてしまうのです

 自分の潔白を信じていた田中氏は、かつて被疑者から恐れられていた鬼検事の面影はどこにもなく、子供のように泣きじゃくり、中村天風の自己啓発の著書に、まるで神や仏にすがるようにのめりこんでいったことを、赤裸々に告白しているのです。思わず同情してしまいました。

 しかし、この本のハイライトは、何と言っても彼自身が検事として、また弁護士として、実際にかかわった事件の経緯と背景が実名入りで詳述されていることでしょう。イトマン事件、光進事件、リクルート事件など戦後の重大経済事件の裏事情まで踏み込んで暴かれています。当人しか知らないことなので当たり前かもしれませんが、読んでいて、私は何度も何度も唖然としましたね。「こんなこと書いてしまって、大丈夫なんだろうか?」

(つづく)

「林住期」

 幕別町

 

五木寛之著「林住期」(幻冬舎)を読了。2時間くらいで読めてしまいます。繰り返しが多く、同じことが書いてあったりするので、「随分、粗雑に作っているなあ」と思ったら、書き下ろしの単行本ではなく、新聞、週刊誌に書かれたものを寄せ集めしたようでした。五木氏は、昨年1年間で11冊も本を出したとおっしゃっていたので、あの年(現在74歳)で、すごいパワーだなあ、と思ったのですが、対談集や、こうした連載をまとめたものもありますし、やはり、それ相応だったということで安心しました。

 

ちょっと、最初からケチを付けてしまいましたが、五木氏が、現在、最も影響力の持つ作家の一人であることは間違いないでしょう。

 

この「林住期」も大いに納得してしまいました。古代インドで、人生を「学生(がくしょう)期」「家住(かじゅう)期」「林住(りんじゅう)期」「遊行(ゆぎょう)期」の4つの時期に区切って考える哲学が生まれたといいます。簡単に現在の「人生百年」をもとにして、言いますと、

「学生期」(0歳から25歳の青年)は、いわゆる青少年時代で、心身を鍛え、学習、体験を積む。

「家住期」(25歳から50歳の壮年)は、就職し、結婚し、家庭を作り、子供を育てる。

そして、50歳から始まる「林住期」(75歳までの初老)に人生の黄金時代と考え、自分の本来やりたいことを成し遂げる。

「遊行期」は、75歳から100歳の老年期。

というわけです。

 

ここでは、今まで、あまり省みられなかった「林住期」にスポットを当て、この時期にこそ、人生で最大のピークに持っていこうという発想なのです。もちろん、長年の使用で体にガタがくる時期ではありますが、開き直って「オマケの人生」であると認識せよ、と五木氏は言うのです。

 

「会社や組織に属している人間は、50歳で定年退職するのが理想だと思う。60歳では遅いのだ。人体の各部が50年をめどに作られているのなら、その辺で働くのはやめにしたい。あとは好きで仕事をするか、自由に生きる。働きたい人は働く。しかし、それは暮らしのためではない。生きる楽しみとして働くのだ。楽しみとは趣味であり、道楽である」

 

うーん、ここまで言われたら、私も早速、仕事をやめて、家出をして、放浪でもしますか。中年の皆さんには、随分、心励まされます。しかし、この本も大ベストセラーですから、一番得したのは五木氏と単行本化を熱心に奨めた幻冬舎の見城徹氏かもしれませんが…。あ、また、斜に構えてしまいました。

遠藤幸子著「語源で楽しむ英単語」

 十勝岳(かもしれない)

 公開日時: 2007年6月30日

はっきり言って、英語は国際語として、誰でも学びやすい言語だとは思っていません。たまたま、大英帝国とアメリカ合衆国が国際政治紛争で覇権を握ったために、世界中に浸透したに過ぎない、と書けば、大いなるクレームがつくでしょうが、そう思っていることを隠し立てできません。

 

ところで、何で、英語がこんなに難しいのかー?やっと、分かった結論の1つが、英語のスペリングが、言文一致体ではないということにあると思います。何で、why と書いて、「ホワイ」と発音するのか、何で、Wednesday は「ウエドンズデイ」と発音しないのか?中学生の頃の疑問をそのまま放置していましたが、この度、読んだ遠藤幸子さんの書いた「語源で楽しむ英単語」は大いに勉強になりました。まさしく、目からウロコが落ちる感じです。

 

例えば、上の疑問。何で、why と書いて、「ホワイ」と発音するのか。もともと、 why は、古英語では、hwi とwとhを逆に書いていたのです。この法則は、whereも whatも whoも whichも一緒。  whale(鯨) もwheel(車輪)も wheat(小麦)も昔は、wとhが逆に書いていたのです。

なあんだ、そうか!って感じです。

Wednesdayは、 「Woden の日」という意味です。Wodenというのは、アングロ・サクソン神話に出てくる最高神で、北欧神話の Odin(オーディン) に当たります。Odin は、「万物の父」「戦いの父」「荒々しき猟師」などと呼ばれています。Odin は、人間の世界で戦いがあると、すぐに部下の「戦いの乙女」ワルキューレを送って戦死者を運んで来させます。

ところで、ラテン語では、水曜日は、dies Mercurii 。すなわち Mercury(マーキュリー) 、ローマ神話の「商業の神」の日です。ローマ神話の最高神ジュピターの子供です。一方、ギリシャ神話では、最高神ゼウスの子供は Hermes(ヘルメス) です。お互いに最高神の子供同士ということで、マーキュリーとヘルメスは同一視されてきました。

ヘルメスは、商売の神でありながら、また、盗賊の神とも言われます。ヘルメスは「魂を導くもの」として、死者を冥界に送ります。このように、 このようにギリシャ神話のヘルメスt と北欧神話のオーディンは、どちらも死者を移動させるという働きのおかげで、同一視されるようになったというのです。

つまり、ヘルメス=マーキュリー=オーディン というわけです。

ということで、水曜日は、Woden の日となり、 Wednesday となるのですが、d 音は15世紀頃までは発音されていたようですが、n 音に吸収されて、発音されなくなったということです。

「商業の神」ヘルメス、マーキュリーに関しては、ガルーダ研究家の山本さんが大変詳しかったことを思い出しました。

山本信太郎著「東京アンダーナイト」

 小樽

東京・赤坂の一等地にあった高級クラブ「ニューラテンクォーター」(1959-1989年)の社長だった山本信太郎さんの書いた「東京アンダーナイト」(廣済堂出版)は、昭和史を語る上で超一級の資料になること間違いなしです。登場する人物がこれまた桁違い。超大物芸能人、広域暴力団の組長、マフィア、政治家、財界人、右翼の立役者、スポーツ選手…。山本元社長の交際の無限の広大さを物語っています。

第一章で、いきなり、1963年12月8日(日)に起きた「力道山刺殺事件」の真相を暴露しています。事件は、まさしくこのクラブで起き、山本さんの目の前で起きたのですが、緘口令が引かれ、44年間、真相は藪の中でしたが、山本さんは、この本で初めて、真相を明らかにしたのです。この本の発売された今年二月、週刊誌でも取り上げられたので、大きな話題になりましたが、実際読んでみて、本当に詳しく分かりました。以下、備忘録としてメモ書きします。(敬称略)

 

●力道山(1924-63年)、本名金信洛(キムシンラク)、戸籍名百田光浩(ももだ・みつひろ)は、ニューラテンクォーター内のトイレ付近のホールで、住吉連合(現住吉会)小林会の組員、村田勝志(1939-)=現在、住吉会副会長補佐、住吉一家小林組特別相談役=とすれ違いざまに口論となり、刺された。当時、赤坂の縄張り争いから、力道山のバックにいた東声会(町井久之=本名鄭建永チョンゴンヨン=会長)と住吉連合との抗争で、東声会の最高顧問だった力道山が計画的に暗殺された、という報道がされたが、真相は、酒に酔った力道山が、村田が足を踏んだ、と言いがかりをつけて、突き飛ばした。殺されると思った村田が持っていたナイフで無我夢中で力道山を刺したという全く偶然の出来事だったという。確かにニューラテンクォーターでは、住吉連合小林会の小林楠扶会長(日本最大の右翼団体、日本青年社会長)が顧問を務めていたが、村田は殺意を否定。力道山は事件から1週間後の12月15日に、穿孔性化膿性腹膜炎で死亡した。享年39歳。

 

(補記)この力道山刺殺事件を同時代の事件として知っている人は、もう50歳を過ぎているでしょう。力道山はニューラテンクォーターに入店する前に大相撲協会の幹部と「ハワイ・ロス巡業」の相談を受け、自宅でウイスキーを飲み、その後、赤坂の料亭「千代新」でかなり飲んだという。午後9時近く、朝丘雪路のTBSラジオ番組にゲスト出演したが、泥酔状態で、録音は放送されなかった。その足で、「コパカバーナ」に行く予定を急遽変更してニューラテンクォーターに行った。このクラブに同席した人たちの中の一人にスポニチ記者の寺田さんがいた。もう27年前に私が寺田記者から直接聞いた話だと、刺された力道山は、お腹を押さえながら自分の席に戻ってきて、ステージに上がり「この店は殺し屋を雇っています」とマイクで発言したと言っていたが、本書でもその話が出てくる。寺田さんは、「力道山はちゃんと医師の言うことを聞いて安静にしていれば、命は助かったと思うが、力道山は、先生の言うことは聞かずに病院でも暴れまわっていた」と話していました。

 

●赤坂にニューラテンクォーターを開店できたのは、吉田彦太郎(別名裕彦、1913-71年)の力が大きい。山本信太郎の父平八郎(1906-90年、福岡のキャバレー王)の従兄に当たり、明大在学中に大日本学生前衛連盟を結成し、右翼活動を開始し、1936年の「2・26事件」による北一輝銃殺に反対して、投獄。41年に「児玉機関」副機関長に就任して、児玉誉士夫(1911-84年)の右腕として活躍した人物。公安・警察関係や政府筋に顔が利いた。この児玉機関の東京責任者が岡村吾一(1908-2000年)。児玉の懐刀として活躍し、戦後は東宝映画顧問として芸能界にも睨みをきかせ、任侠の世界では北星会会長として関東会結成に尽力した。

 

●ニューラテンクォーターの前に同じ敷地(2・26事件の反乱軍将校が立てこもった「幸楽」という料亭があったが、空襲で焼けた)に初代の「ラテンクォーター」(1953-56年)が存在していた。東京に駐留する米軍兵の慰安を目的とした社交場が名目だが、実質は賭博場と同じだった。この店のオープンに児玉誉士夫が「児玉機関」の部長だった岩宮尊を社長として送り込み、東声会を用心棒に派遣した。いまだ日本は、米軍の「占領下」にあったので、共同経営者はアルフォンゾ・シャタックとテッド・ルーイン。シャタックは、ジャック・キャノン少佐をリーダーとする「Z機関」(通称キャノン機関)の元諜報部員。ルーインは、アル・カポネとも親交があったといわれる元マフィアでマニラなどで手広くカジノを経営し、戦時中に児玉機関とつながりがあったという人物。

 

●シャタックは、「帝国ホテル・ダイヤモンド盗難事件」の主犯ジョン・マックファーランド(「ゴージャス・マック」のリング名でプロレスラーという触れ込みで来日したが、経歴は全くの偽りで、海兵隊を除隊したただの不良外人だった)から借金の形として、ダイヤモンドをマニラで売り渡した罪で、指名手配され、300万円の「政治献金」で保釈された。

 

●キャノン機関は、1951年に起こした「鹿地亘(かじ・わたる)事件」で、その存在が明らかになり、スパイにあるまじきドジを踏んだキャノンは日本から姿をくらまし、朝鮮戦争後の対北朝鮮諜報活動に従事したという。1981年にテキサスの自宅で自殺。鹿地亘事件とは、キャノン機関がプロレタリア作家の鹿地(本名瀬口貢)を藤沢市鵠沼の自宅付近から拉致監禁し、二重スパイになるように拷問に近い訊問をしたという事件。鹿地の世話をしていた日本人青年の密告で事件が公にされて、鹿地は解放された。この事件は松本清張の「日本の黒い霧」でも取り上げられ「鹿地事件ぐらい未だに真相の分からない事件はない」と書かれている。鹿地は、かつて中国共産党の情報をアメリカのOSS(戦略情報局)に流していたが、その後、ソ連側に寝返ったため、キャノン機関の怒りを買ったのではないかという噂も流れた。